見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2019年1-2月@東京近郊展覧会拾遺

2019-02-27 22:22:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立西洋美術館 『ルーベンス展-バロックの誕生』(2018年10月16日~2019年1月20日)

 今年の年末年始は、上野にムンクもフェルメールも来ていたが、結局ルーベンスしか行かなかった。私はルーベンスと聞くと、肉づき豊かな女性の裸体像を思い出すが、今回は男性の裸体像が多かった。神話・伝説を主題とした作品の中に『ローマの慈愛』と題し、若い娘が獄中の年老いた父親に自分の母乳を飲ませる場面を描いたものがあって、SNSなどで物議を醸していた。まあ確かに現代の感覚ではヘンな絵が多かったが、それもまたよし。

■東京国立博物館 特集展示『博物館に初もうで2019 イノシシ 勢いのある年に』(2019年1月2日~1月27日)

 展示品は、古代中国の灰陶豚や玉豚、望月玉泉筆『萩野猪図屏風』など、 だいたい予想どおり作品で、あまり驚きがなかった。本館1階では「高精細複製品によるあたらしい屏風体験」と題して『松林図屏風』の高精細複製品と映像のインスタレーションを展示していた。2017年の「びょうぶとあそぶ」に比べるとこじんまりしたインスタレーションだったが楽しめた。東洋館の『王羲之書法の残影-唐時代への道程-』(2019年1月2日~3月3日)も充実。

鎌倉国宝館 源実朝没後800年、鎌倉市制施行80周年記念特別展『源実朝とその時代』(2019年1月4日~2月3日)

 最近、坂井孝一『承久の乱』でかなり詳しく実朝のことを読んだので、期待して行ったら、ハズレだった。「実朝ゆかり」の展示品は「頼朝ゆかり」に置き換えてもあまり問題ないものばかり。ただ甲斐善光寺の源実朝坐像を見ることができたのはよかった。神護寺の頼朝像と顔のかたちが似ていなくもない。『公家列影図』に描かれている実朝像とも似ていると解説パネルに書いてあったので、ネットで画像を探して納得した。ラグビーボールみたいな瓜実顔で目が小さい。

戸栗美術館 『初期伊万里-大陸への憧憬-展』(2019年1月8日~3月24日)

 戸栗美術館は久しぶりに訪ねた。日本初の国産磁器「伊万里焼」の1610年代から1630年代頃までの作品を「初期伊万里」と呼ぶ。伊万里焼は、朝鮮出兵の際に日本に連行された朝鮮人陶工に始まるが、中国風の画題が好まれた。という説明だが、本家には似ても似つかない、おおらかさ・ゆるさが魅力。特に山水楼閣図は、どこでもないユートピアの趣きがあり、空想と郷愁を誘う。動物もかわいい。

太田記念美術館 企画展『かわいい浮世絵 おかしな浮世絵』(2019年1月5日~1月27日)

 気楽な気持ちで楽しめる「かわいい」「おかしな」浮世絵の特集。その企画意図は当たっていて、若いお客さんたちが、わいわい楽しみながら見ていた。私はヘンな生き物が登場する作品が好き。歌川芳員『東海道五十三次内 大磯 をだハらへ四リ』に登場する虎子石にも久しぶりに対面。

21_21 DESIGN SIGHT 企画展『民藝 MINGEI - Another Kind of Art展』(2018年11月2日~2019年2月24日)

 六本木ミッドタウンの庭園にあるデザイン専門施設で展示もおこなっている。今回、初めて訪ねた。日本民藝館の館長である深澤直人がディレクターをつとめた。あとで開催概要を読んだら「同館の所蔵品から146点の新旧さまざまな民藝を選んで展示」とある。実は、日本民藝館の温もりある展示室と、21_21の無機質な展示会場では、展示品の印象がずいぶん違って見えた。なんだか初めて見る感じの作品がたくさんあって、全て日本民藝館の所蔵品ではないのかしら。深澤直人氏個人のコレクションも混じっているのかしら、と首をひねった。こういう場所で展覧会をすることで、駒場の日本民藝館に新しいお客さんが足を運んでくれたら嬉しい。
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明治の狩野派、大正の大和絵/日本画の歴史. 近代篇(草薙奈津子)

2019-02-25 22:14:16 | 読んだもの(書籍)
〇草薙奈津子『日本画の歴史. 近代篇:狩野派の崩壊から院展・官展の隆盛まで』(中公新書) 中央公論新社 2018.11

 巻末附録の年譜は万延元年(1860)の横浜絵流行に始まり、昭和20年(1945)の終戦(日本、無条件降伏)までをカバーしているが、主題は幕末維新から大正期まで。昭和戦前期は、大正期の余光に少し触れているが、詳しくは姉妹編の「現代編」に譲っている。考えてみると、西洋の美術史や音楽史は「世界史」の一部として、ある程度、学習したことがある。小林秀雄の『近代絵画』は国語の教科書にも載っていた。それに比べると日本の絵画史は、浮世絵の北斎、広重が知られているくらいで、近代の日本画なんて、ほとんど日本人の教養の範疇にないと思う。残念なことに。

 私は、もともと日本美術も西洋美術も好きだったが、年齢が上がるにつれて関心の中心が日本美術に移り、特に近世から近代の日本画を好んで見るようになった。本書に登場する画家や作品は、だいたい知っていたが、画家どうしの影響関係とか、それぞれの活躍年代が全く頭に入っておらず、混沌としていた知識が、本書のおかげでスッキリ片付いた。

 本書は、一般市民を対象に平塚市美術館で行った館長講座に加筆したものだという。冒頭の3章「明治・大正の南画」「幕末・明治の浮世絵」「忘れられた明治の日本画家たち」は加筆部分にあたるが、この部分にこそ本書の妙味が表れている。特に南画と浮世絵は、近代日本画史から省く場合が多いのだが、著者は敢えて取り上げている。南画の章に登場するのは、女流画家の奥原晴湖と野口小蘋(二人とも、かつて山種美術館で作品を見た)、それに富岡鉄斎など。浮世絵の章には、小林清親、月岡芳年が登場する。

 「忘れられた明治の日本画家たち」には河鍋暁齋、渡辺省亭。いや忘れられてないだろ?と思ったが、著者は「近年(略)再び脚光を浴びるようになってきた」と書いており、少なくとも一時期、今のように注目を集める存在でなかったことに気づかされる。他には、松本楓湖、小堀鞆音、梶田半古、荒木寛畝、幸野楳嶺、久保田米僊。彼らは、自身の画業もそうだが「近代を担う第二世代の画家たち」今村紫紅、速水御舟、安田靫彦、小林古径、前田青邨などを育てたという点で忘れてはならないという。この世代間のつながり、初めて理解した。

 第4章からの大筋は、これまで聞きかじった美術史のとおり。若き秀才フェノロサが著書『美術真説』において、洋画に対する日本画の優位を説く。フェノロサの知遇を得たのが狩野芳崖と橋本雅邦。対照的な性格の二人が盟友だったというエピソードはドラマのようで好き。フェノロサらとともに日本美術学校の開設にかかわったのが岡倉天心。西洋画科増設をめぐる天心と黒田清輝の対立。怪文書事件。五浦への都落ちと日本美術院の創設。熱しやすく冷めやすい天心に翻弄されながら、独自の世界を極めていく日本美術院の画家たち、横山大観、下村観山、菱田春草ら。

 この日本美術院第一世代は、設立当初の東京美術学校で狩野派を中心に学んだが、次世代の画家たちは市中の画塾で学び、伝統的な大和絵に新しい西洋画の技法を取り入れ、時には浮世絵の影響も受けていた。「狩野派の武張った感じではなく、色彩豊かな、そして軽やかな描線で、明るくのびのびした作品」を描いたというのはすごくよく分かる。紫紅いいよねえ。天心に「故人では誰を学びたいですか」と聞かれ、紫紅が即座に「宗達」と答えた話が嬉しかった。「当時、宗達の名はまだよく知られていませんでした」という解説に驚く。さらに、大正初期には院展系の誰もが紫紅的な作品を描いたというのにも驚いた。そんなに影響力のある画家だったのか。

 1907(明治40)年に始まった文部省美術展覧会(文展)には、東京画壇、京都画壇、松岡映丘の新興大和絵運動、上村松園などの美人画家等、多様な傾向を持つ作家たちが集まった。また京都の竹内栖鳳門下の、新しい日本画に意欲を燃やす若手画家たちは文展を離れ、国画創作協会を設立した。ああ、去年、和歌山県立近代美術館で見た展覧会『国画創作協会の全貌展』が記憶に新しい。「自由を謳歌し、ロマン主義を標榜し、人間性に深く関心を示した大正という時代性」と大いにかかわっているというのは、とてもうなずける。偉大な明治というけれど、私たちがもっと学ばなければいけないのは、大正の時代精神ではないのかしら。
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奇想の核心を考える/雑誌・芸術新潮「奇想の日本美術史」

2019-02-23 20:29:24 | 読んだもの(書籍)
〇雑誌『芸術新潮』2019年2月号「特集・正統なんてぶっ飛ばせ!/奇想の日本美術史」 新潮社 2019.2

 江戸絵画のイメージを変えたロングセラー・辻惟雄氏の『奇想の系譜』(1970年刊)から半世紀。同書の内容をそのまま展示に移した『奇想の系譜展:江戸絵画ミラクルワールド』(東京都美術館)も開催中。表紙は同展で2/19から公開される、岩佐又兵衛の新出作品『妖怪退治屏風』。うう、いいなあ。早くホンモノが見たい。

 ただし、本誌のターゲットは江戸絵画に留まらない。ページをめくると、縄文土器や密教仏画や甲斐庄楠音のデロリ系の舞妓、ゆるい系の『かるかや』『つきしま(築島物語絵巻)』なども登場する。山下裕二先生監修の下、江戸絵画以外にも視野を広げた「縄文から現代まで奇想天外ニッポン美術史」の特集なのだ。

 とはいえ、やはり中心は江戸絵画で、岩佐又兵衛、狩野山雪、白隠慧鶴、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、鈴木其一、歌川国芳は、項目立てしてページを割いている。各人のキャッチコピーを『奇想の系譜展』と比べてみるのも一興。山雪の「逸脱する文化エリート」とか鈴木其一の「盛り過ぎ琳派」とか、本誌のほうが少し意地が悪いが、にやりとする面白さがある。芦雪の「あっぱれ芸人魂」と国芳の「男前グラフィック」も好き。

 辻惟雄先生が、奇想の画家たちとの出会い・かかわりを語ったエッセイも面白かった。「若い研究者は問題意識をもって、自分がおもしろいと思う研究対象を選んでほしいですね。自分の言葉で、工夫して一生懸命に伝えていけば、人の見方も次第に変わり、忘れられかけていた作品が蘇ることがあるんです」というのは、胸に響く言葉。監修の山下先生は「『奇想の系譜』は、以後の研究者に決定的な影響を与えた」と書いていらっしゃるが、影響を受けたのは研究者に留まらない。フツーの日本人、フツーの美術ファンの日本美術の見方を大きく変えた半世紀ではないかと思う。

 しかし、山下先生がどのくらい関わっているのか分からないが、本誌「奇想の美術史年譜」(P24)には不満を述べたい。この年譜には「奇想出現度」が折れ線グラフで表されている。縄文時代は中程度に高く、弥生・古墳・飛鳥・奈良時代と順調に下落し、平安・鎌倉・室町前期は最低水準。室町後期からぐんぐん上昇し、江戸時代の初めに最高水準に達すると幕末まで安定。近代は20世紀以降、急激に下落するが、戦後は盛り返して現在は縄文時代並み。え~これは解せない。江戸時代に奇想出現度が爆上がりするのは、単に美術が大量生産の時代に入り、(時代が近いから)大量に残っているだけではないのか。それと、まさに『奇想の系譜』の影響で、我々が江戸美術に奇想を見出す訓練をされてしまったためだと思う。弥生時代に「農耕生活が始まったことで計画性、他者との調和をとろうとする意識が高まり、奇想度が下がる」というのも、ただの俗論に聞こえる。

 そもそも何が奇想かの定義は難しい。本誌は「異様、奇天烈、意味不明」「やりすぎ、凝り過ぎ」「かわいい」「怖い、気持ち悪い」「アニミズム的」「キッチュ」「イノセント」「役に立たない、負け組」という「奇想8ヵ条」を掲げている。「奇想」が帯びる特性として、この8要素を挙げることに異論はないが、この幾つかを満たす作品が必ず「奇想」に該当するかといえば違う気がする。本誌では、神護寺の薬師如来立像や式部輝忠の『四季山水図屏風』など、え?と首をかしげたくなる作品も「奇想」の例にされているが、ちょっと幅を広げすぎではないか…。

 その一方、よくぞ取り上げてくれた!と感謝したくなったものも多数ある。美術作品だけでなく、三朝の投入堂や会津のさざえ堂が取り上げられていて嬉しい。幕末絵師の葛飾応為や狩野一信と並んで安田雷州が、それも代表作の『赤穂義士報讐図』が載っているのもたいへん嬉しい。原田直次郎、山本芳翠、牧島如鳩は、やっぱり外せないよね~。鏑木清方の『妖魚』も。このへんは私の考える「奇想」の核心とピタリ合う。あと、大好きな佐藤玄々の『天女像』を1ページ写真で大々的に取り上げてくれただけでなく、3/6~3/12に日本橋三越本店で同作品を囲む佐藤玄々展が開催されるという重要な情報を得ることができた。奇想の核心とは何か。たぶん人によって感じ方は違うと思う。いろいろ考えながら楽しめる特集である。
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百物館へようこそ/木下直之全集(ギャラリーエークワッド)

2019-02-20 23:26:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇ギャラリーエークワッド 『木下直之全集-近くても遠い場所へ-』(2018年12月7日~2019年2月28日)

 「木下直之(を)全(ぶ)集(める)」と題し、2000年に東京大学大学院に設立された文化資源学研究室に招かれ、20年近くにわたり研究を率いてきた木下直之(1954-)の研究の軌跡をたどる展覧会、とホームページの趣旨にある。

 ちなみに私が著作を通じて木下直之先生のお名前を知ったのは『美術という見世物』(平凡社、1993)が最初で、単行本は全て読んできている。ホンモノの先生には、1999年の「ニュースの誕生」展を少し裏方でお手伝いしたときにお会いし、その後も講演会などで、何度かお話を聞く機会があった。最近、大学の教員といえば、IFの高い雑誌に英語論文を書くことが評価の全て、みたいな状況になっている中で、こういう役に立つのか立たないのかサッパリ分からない研究三昧で暮らしている教授がいるというのは素晴らしいことだと思う。皮肉でなくて。

 会場に鎮座する「つくりもん」の麦殿大明神。金沢文庫の駅前の金物屋で道具一式を揃えてきたそうだ。



 展示パネルには青いマジックで「加筆」がされている。木下先生の自筆だ。これは『わたしの城下町』関連のお城の写真コーナー。こういうのはいいなあ。ほかの展覧会でも、期間中に学芸員さんが、どんどん加筆したら楽しいのに。



 木下先生の歴代のフィールドノート。表紙は息子さんの絵。いまどきの大学教員は、論文を投稿したら、その根拠データは大学に預けて10年保存しなければならないはずだが、これらもそれに当たるのだろうか。



 そして天井まである書棚にぎっしり並んだ資料ファイル。そうそう、この安くて軽いフラットファイルが資料の分類や持ち運びに便利で使いやすいんだよねえ。私も仕事場で愛用している。



 一部のファイルは手に触れることもできて、懐かしい「ニュースの誕生」展の講演資料を見つけたときは嬉しくなった。しかし明らかに個人情報のコピーも綴じてあって、ちょっと慌てた。



 『股間若衆』や最新刊『動物園巡礼』関連の写真も多数あり。本の中で見覚えのある写真が、カラーで展示されているのも楽しい。高校生のときの油絵作品や、ある女子学生が還暦記念に描いてくれた木下先生の肖像画もある。どうぞ全て失くさずに保存してください。10年後、20年後の『木下直之全集』続編のために。
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万全のセレクション/奇想の系譜展(東京都美術館)

2019-02-19 22:45:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京都美術館『奇想の系譜展:江戸絵画ミラクルワールド』(2019年2月9日~4月7日)

 美術史家・辻惟雄氏(1932-)の『奇想の系譜』(1970年刊)に基づく「奇想の絵画」展の決定版。同書で紹介された、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳に、白隠慧鶴、鈴木其一を加えた8人の作品を厳選したラインナップで紹介する。私が同書を読んだのは1980年代後半だと思うが(杉並区の中央図書館で借りた)、知っていたのは国芳と若冲くらいだったと思う。「異端」「マイナー」の別名だった「奇想の系譜」で、ついにこんな大々的な展覧会が実現してしまったと思うと、しみじみ感慨を禁じ得ない。

 前後期で大きな展示替えがあるので、2回行くのは当然と考えていた。お目当てのひとつ、新出の伝・岩佐又兵衛筆『妖怪退治図屏風』が2/19から展示なので、前期もこれ以降にしようと考えていたのだが、待ちきれなくて、先週末、1回目の鑑賞に行った。若冲展並みの混雑を覚悟していたのだが、それほどではなかった。やっぱり「奇想」と聞いてテンションが上がるのは、一部の美術ファンに限られるのかな。

 巡路に従って、絵師とその「タイトル」を記しておくと、「幻想の博物誌」若冲→「醒めたグロテスク」蕭白(以上地階)→「京(みやこ)のエンターテイナー」芦雪→「執念のドラマ」又兵衛→「狩野派きっての知性派」山雪(以上1階)→「奇想の起爆剤」白隠→「江戸琳派の鬼才」其一→「幕末浮世絵七変化」国芳(以上3階)。

 若冲は、入るとすぐMIHOミュージアムの『象と鯨図屏風』。辻惟雄先生へのリスペクトとして最適な作品だと思う。あと三の丸尚蔵館の『旭日鳳凰図』とかプライスコレクションの『紫陽花双鶏図』とか泉屋博古館の『海棠目白図』とか、ああ、はいはいこれね、と嬉しくなる作品が並ぶ。鮮烈な彩色画だけでなく、つかみどころのない脱力系の墨画『雨中の竹図』などもあってよい。新出の『鶏図押絵貼屏風』6曲1双は、まだニワトリの姿が抽象化し切れていなくて、羽根色の描き分け(墨画だけど)に写実味を残す。ニワトリの正面顔を描くのが気に入っているみたい。画巻『乗興舟』のケースの前は人が溜まっていたのでパス。

 蕭白はグロテスク系だけでなくて、近江神宮所蔵の『楼閣山水図屏風』を選んでくれたことに大感謝(前期のみ)。ほぼモノトーンの中に鮮やかな色彩がわずかに使われていて、不思議な作品である。三重・継松寺の『雪山童子図』は何度見てもいいねえ。童子の赤い裙と青鬼の色の対比が印象的だが、童子が枝にかけた衣(?)のオレンジ色(柿色)の温かみと上品さ、この色味は残念ながら図録では出ていない。このグロテスクな青鬼が帝釈天の化身であることは、解説を読んで初めて認識した。

 芦雪は島根・西光寺の『龍図襖』もよかったが、兵庫・大乗寺の『群猿図襖』に驚く。東日本初公開だそうだ。私は大乗寺(応挙寺)の2階に上げてもらって、この襖のはまった座敷を見たことがある。なつかしい。プライスコレクションの『白象黒牛図屏風』などを見ながら、いやー芦雪を語るなら、あの作品がないと~と思っていたら、私の一押し『方広寺大仏殿炎上図』がちゃんと出ていて、心の中でバンザイを叫んだ。

 又兵衛は『山中常盤物語』巻5(女性2人を惨殺)と『堀江物語』(悪人を唐竹割り)の血なまぐさい絵巻を人の頭越しに眺める。けっこう子供連れのお客さんもいたけど、大丈夫なのだろうか。『豊国祭礼図屏風』は、やっぱり左右まとめて見られると、対比が楽しめてよい。

 山雪は、見たいと願っていた大徳寺・天球院の『梅花遊禽図襖』のほんものを見ることができた。しかし、実は先月『京の冬の旅』特別公開で天球院の座敷で見せてもらった高精細複製品のほうが感銘深かった。やっぱり障壁画は、建築空間の中に置いてこそ生きるような気がする。『龍虎図屏風』は前足を行儀よく揃えた虎がかわいい。『武家相撲絵巻』(相撲博物館所蔵)は異色の作品で面白かった。一部分しか開いていなかったのが残念。

 白隠はいつもどおり。其一は温雅な花鳥画も多いが、ここはあえて「奇想の系譜」的な作品を集めてきた感じ。『百鳥百獣図』は細かいので、会場ではあまり感じなかったが、図録で部分拡大図を見るとかなり奇想に溢れている。国芳は浅草寺の絵馬『一ツ家』が見られて嬉しかった。あと『源頼朝卿富士牧狩之図』は知らなかった。いのしし、デカすぎだろう。

 後期は、又兵衛のブロックに直行するかな。でも蕭白のブロックで足が止まりそう、などと図録を見ながら計画を立てている。図録の作品解説の執筆者がむちゃくちゃ豪華。これから、ゆっくり読むのが楽しみである。
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王権の守護者として/源頼朝(元木泰雄)

2019-02-18 23:36:56 | 読んだもの(書籍)
〇元木泰雄『源頼朝:武家政治の創始者』(中公新書) 中央公論新社 2019.1

 私は長年の平家びいきで、源氏にはあまり興味がない。だが、最近、坂井孝一氏の『承久の乱』を読んで、鎌倉幕府の歴史に興味を感じたことと、著者の『河内源氏』(中公新書、2011)がとても面白かった記憶があるので、本書を読み始めた。

 冒頭の「はじめに」は、建久元年(1190)11月7日、千騎の随兵を率いた頼朝が、30年ぶりに京に凱旋した場面から始まる。後白河院も牛車の中から密かにこの行列を見物していたという。わあ、なんだか大河ドラマの始まりみたいだ。しかし本書は堅実な歴史書で、小説ではないので、頼朝がどんな感慨を抱いていたかというような文学的想像を逞しくはしない。基本的に史料に従って、分かることだけを叙述するオーソドックスなスタイルで、古い人間には読みやすかった。

 本文は時代をさかのぼって河内源氏の盛衰を短く語り、父・義朝の登場、保元の乱、ついで平治の乱で頼朝が伊豆へ配流になる顛末を述べる。治承4年の挙兵。このへんまでは、平家好きの私にはなじみ深い物語。その後の、反転攻勢をかける平氏、後白河を筆頭とする京の貴族たち、源氏内部の骨肉の争い(頼朝、義仲、義経)、奥州藤原氏の無視できない存在感、という複雑に入り組んだ覇権争いは、あらためて面白かった。

 通俗的な見方の修正を迫られた点はいろいろあった。ひとつは頼朝と義経の対立の発端は、元暦元年、義経が後白河院より左衛門少尉に任ぜられ、検非違使を宣下され、辞退しなかったことにあるという説。実際には、その後も義経は頼朝と後白河との取次ぎ等、重要な役割を果たしている。「腰越状」も偽作の可能性が高いという。問題は、平家滅亡以後の文治元年、義経が伊予守に補任されたときに起きた。受領は遥任が一般的なので、義経は鎌倉へ帰らなければならない。ところが、義経を京にとどめておきたい後白河が前例をやぶって検非違使に留任させた。

 九条兼実はこれを「未曽有」と驚いている。本書は、著者が歴史上の人物の心境を憶測で語ることはしないが、その分を補って、一喜一憂の人間的な彩りを添えているのが兼実の『玉葉』からの引用である。このひとは、歴史の記録者としての面しか知らなかったけれど、乱世をしぶとく生き延びて権勢の座に君臨するが、晩年は失脚して寂しく没する。頼朝とは盟友関係にあったというが、どちらも食えないところがあって、あまり情の通った関係には見えない。

 頼朝が義経追討を決意すると、京へ派遣されたのは北条時政である。義経は畿内周辺で寺社の保護を受けて潜伏していたが、鎌倉方は延暦寺や興福寺へも追手を差し向ける。最終的に、朝廷の意志に背いても奥州へ義経討伐軍を向けるに当たって、大庭景能に「兵法」(武士の規範)を尋ね、軍中では将軍の命令を聞き、天下の詔を聞かないものだという回答を得て、出発を決意する。これは何気にすごい規範意識ではないか。日本が天皇統治の国だったなどという戯言を吹っ飛ばすような。この大庭景能が、義朝のもとで保元の乱に参戦した老武者であるというのも感慨深い。

 しかし頼朝の望みが、後白河の王権を支える/庇護する唯一の官軍「朝(ちょう)の大将軍」だったことも見逃せない。そのために頼朝は平氏、義仲、義経というライバルを次々に屠ってきたのである。なお、頼朝は「征夷大将軍」任官を望んでいたが、後白河没後までその官職を得ることができなかったという俗説がある。本書によれば、頼朝は特に「征夷大将軍」を指定して望んではおらず、天皇大権の委譲をもくろんだという見方は全く当たらないという。

 また征夷大将軍就任をもって鎌倉幕府の成立と評価することもできないと言われているが、このあと政所下文(まんどころくだしぶみ)の発給が本格的に始まり、頼朝は鎌倉殿を王権権威(官位)で荘厳し、将軍と御家人の主従関係は戦時から平時に移行した。ここまでで本書は9割(9割5分?)以上の頁数が尽きる。

 最終章に突如放り込まれる「曽我事件」。私は『曽我物語』を読んでいないので不案内なのだが、「諸説錯綜してその真相に迫ることは難しい」事件であるらしい。また範頼の失脚と何らかの関係があるという説もあるそうだ。続いて、落馬による頼朝死去があっけなく語られ、わずか数頁の「むすび」で頼朝死後の幕府について慌ただしく本書は終わる。次は、ここから始まる北条氏の物語を読みたい。
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早崎稉吉の自筆稿とともに/石からうまれた仏たち(永青文庫)

2019-02-17 23:46:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 早春展『石からうまれた仏たち-永青文庫の東洋彫刻コレクション-』(2019年1月12日~4月10日)

 永青文庫には、いつも展示室の一角(以前は3階、現在は4階)に置かれている大きな中国の石仏があることは記憶に残っていたが、テーマ展示ができるほど、多数の石仏コレクションがあるという認識はなかった。今回、同文庫が所蔵する東洋彫刻コレクションを一挙展示と聞いて見に行った。

  4階の大展示室には15点ほど。大多数がインドの石彫で、ポスト・グプタ時代(7~8世紀)とパーラ時代(パーラ朝、8世紀後半~12世紀後半)に属する、ヒンドゥー教の神像と仏教の尊像。豊かな乳房のふくらみを持つ肉感的な女尊像もあるが、全体に情感が抑えめで、東アジアの仏像の雰囲気に似ているものが多いように感じた。時代性なのか、細川護立の好みなのかはよく分からない。シルクハットのような縦長の宝冠を戴く宝冠如来は、パーラ朝に特徴的だというが、日本の仏像でもよく見るもの。パーラ朝の片足踏み下げ式の弥勒菩薩坐像は面長の顔立ちも東アジアふうだった。

 ターラー菩薩(多羅菩薩)はチベット密教で信仰される女性の菩薩。胸も豊かだが腹まわりにも肉がついていて、ひねった脇腹にしわが刻まれているのがリアルで面白かった。インドの仏像って、たるんだ肉の表現はしないものだと思っていたのに。文殊菩薩坐像は獅子の背中に腰を下ろしており(蓮華座なし)、組んだ足の膝を頭の上に載せられて迷惑そうな獅子の表情が可愛かった。

 中国・唐時代の石仏が4点。うち3点は展示ケースに入っており、1点はいつもこの展示室の隅に常駐している大型の如来像である。ケース外の1点を含む2点は「玉仏」という呼ばれ方をしている。白大理石を玉と呼んだという説明に納得する。咸亨3年銘の阿弥陀如来坐像は、台座の軸のような円柱?角柱?の四面に丸い人面が刻まれている興味深いもの。あまり洗練されていなくて土着的な造形。まあ塑像に比べれば、石仏ってそういうものかもしれない。

 今回展示の中国の石仏は全て、細川護立が早崎稉吉(1874-1956)から購入したものだという。早崎稉吉の名前は、これまでも何度か聞いたことがあるが、今回、本展を連動した『永青文庫』105号の記事を読んで、初めて人となりを知り、面白い人だなあと思った。けっこう長命だったようで、晩年をどう生きられたかが気になる。

 3階は引き続き、中国の石仏・石彫。北魏・西魏・北周・隋など北朝の小さな四面像や三尊像は、小さなお顔に素朴な微笑みを浮かべていて実に愛らしい。先日、書道博物館で見た南朝と北朝の字姿の対比なども思い出しながら鑑賞した。本展のポスターや『永青文庫』105号の表紙になっている菩薩半跏思惟像は北魏時代の白大理石像。伏し目がちに微笑む少女のようで、左右に装飾の広がる宝冠と豊かなプリーツスカートの間に薄い肉体がうずもれている。

 北魏の道教三尊像はどこかで見たことがあるように思った。拱手して座る中尊。光背の左右に小さな脇侍と宙を舞う天女が描かれる。中尊の左右に手足のない龍のような虎のような変な動物が顔を出している。粘土板に引っ掻いたような曖昧な造形。唐(8世紀前半)の菩薩坐像はかなりしっかりした造形。しかし荘厳の一部として造られたせいか、美化・理想化が徹底していないところが親しみやすくて好き。

 感慨深かったのは早崎稉吉の自筆稿『造像所穫記』で、展示では「宝慶寺造像所穫記」と題した箇所が開けてあった。四百字詰め原稿用紙を二つ折りに綴じてあり、ペン(おそらく)の筆勢は流れるように早い。解説には、昭和3年頃、石仏を売却するための資料として作成したのだろうという。驚くべきは、2018年に永青文庫で発見されたものであること。調べれば、まだこういう重要資料が出てくるものなのだなあ。

 2階は中国・チベットの金銅仏等で、個人蔵のコレクションが特別出品されていた。鍍金のはっきりした如来坐像(十六国時代)とか、1つの台座に並ぶ双観音菩薩立像(北斉)とか面白かった。火焔光背が華やかな如来坐像(永青文庫蔵)は「宋時代」とあって、え?と思ったら南朝の宋(劉宋)のことだった。紛らわしい。
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安念寺の「いも観音」に会いに/びわ湖長浜KANNON HOUSE

2019-02-14 21:54:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
びわ湖長浜KANNON HOUSE 『安念寺 天部形立像・如来形立像(いも観音)』(2019年1月22日~)

 上野・不忍池の東畔にある「びわ湖長浜KANNON HOUSE」は2016年3月にオープンした施設。観音の里として名高い長浜市(湖北一帯を含む)の仏様に、2か月に1体(1種類)ずつお越しいただく施設である。入場無料で、展示と出開帳の中間のような感じ。

 開館したばかりの頃に一度だけ寄ったことがあるのだが(スタンプラリーのカードはまだ持っている)、それ以来、なかなか足が向かなかった。2017年の正妙寺の千手千足観音立像とか、2018年の横山神社の馬頭観音立像とか、ああ、いらっしゃっているなあと思いながら見逃してしまった。惜しいことをした。今回は、安念寺(長浜市木之本町黒田)の「いも観音」さまがおいでになったと聞いて会いに行った。





 私は、2016年に東京芸術大学大学美術館の『観音の里の祈りとくらし展II』でお会いしている。その前に2012年の長浜城歴史博物館『湖北の観音-信仰文化の底流をさぐる-』でもお会いしたのではないかと思う。戦国の兵火から逃れるため、村人らにより土中に埋められ、その後、余呉川で洗い清められて安置されたという。もはや当初の像名が分からない状態で、安念寺には10体ほど伝わる。昭和のはじめまで、子どもたちは仏像を川に浮かべて遊んでいたという話を初めて聞いたときは衝撃だった。でも、不思議と嫌な気持ちにはならない。仏像の幸せなあり方のような気がする。

 KANNON HOUSEでは、かなり近づいて、木肌の朽ち具合をじっくり眺めることができる。撮影も自由。上野は定期的に行くので、ここへももう少し頻繁に通おう。
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南と北の個性と融合/王羲之書法の残影(書道博物館)

2019-02-13 23:44:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
台東区立書道博物館 企画展『王羲之書法の残影-唐時代への道程(みちのり)』(2019年1月4日~3月3日)

 東京国立博物館の『顔真卿』展がよかったので、久しぶりに書道博物館に行ってみた。自分のブログで調べると2012年秋に訪ねたのが最後で、6年ぶりらしい。そうかー札幌で暮らしたり、つくばで暮らしたり、東京を離れている間、訪ねる機会がなかったのだ。

 本展は16回目となる東博と書道博物館の連携企画展。中国の書の歴史において、王羲之が活躍した東晋時代(317-420)と、虞世南・欧陽詢・褚遂良・顔真卿らが活躍した唐時代(618-907)は、書が最も高い水準に到達したと考えられている。2つの時代を結ぶ懸け橋となるのが、南北朝時代(439-589)。今回は東晋時代から唐時代までの書の道のりを拓本や肉筆資料で紹介する。

 ひとことで言うなら、洗練された南朝の書と、逞しさを感じさせる北朝の書。この構図は、2010年の書道博物館の企画展『墓誌銘にみる楷書の美』で教えてもらって、以後、中国の古い書を見るときに思い出している。本展では展示品に「北朝」「南朝」の区別が表示されていて分かりやすかった。とりあえず一番大きなケースに展示された巨大な拓本2点に近づく。左は北魏(北朝)の鄭道昭による『鄭羲上碑』。規則正しい正方形の構えで線質は重厚である、というが、文字のひとつひとつはあまりよく見えなかった。右は梁(南朝)の陶弘景による『瘞鶴銘』。ああ~鎮江の焦山に行ったけど、瘞鶴銘の石碑は見られなかったなあと懐かしく思い出す。大きな文字が、ふわふわと勝手気ままに踊っているようで、のびのびして華やか。なお、魏の太祖・曹操(155-220)が豪華な石碑の建立を禁じた影響で(200年くらい経っているけど?)この時代は大きな石碑が珍しいのだそうだ。

 北朝は、文化的に南朝の後塵を拝していた。北魏の寇謙之の功績を刻んだ『中岳嵩高霊廟碑』は隷書と楷書が混在しているのが面白い。でも武骨だけど堂々として好きな字姿。これも登封の中岳廟でたぶん見ているはずだ。南朝ではやがて大きな石碑が復活するが、北朝では石碑に代わって、小型の墓誌銘が発達する。そして、北魏・孝文帝の漢化政策によって、北朝の書は6世紀に入ると急速に発達し、北朝の力強さに南朝の洗練というか品格が加わる。この時期の墓誌銘、すごくよい。一方、洛陽の龍門石窟に残る北魏の造像記は、同時代なのに墓誌銘とはずいぶん字姿が違う。どれも北朝本来の力強さと鋭さが際立っていて個性的。これはこれで、とても好き。龍門は石仏ばかり気にしていたが、石碑も楽しめるなあ。

 そして隋から唐へ。隋代には、さまざまな書風が混在しているが、次第に南北融合の書風が初唐の公式書体へと発展していく。これを日本は受容したのだな。唐の四大家の書風も分かりやすく解説されていた。顔真卿は44歳の『千福寺多宝塔碑』と、72歳の『顔氏家廟碑』が出ていた。年齢を重ねたほうが、自由度と迫力を増していてすごい。

 それから、二王(王羲之・王献之)の書法を受け継ぐという唐・玄宗の代表的な作例として『鶺鴒頌』(拓本)が出ていて、あっと驚いた。年末に台湾故宮博物館の『国宝再現』展で本物を見てきたものではないか! そんなに感心せずに見てしまって、申し訳なかったかもしれない。

 企画展のあと、本当に久しぶりに本館の常設展示も見てきた。南北朝時代の代表的な墓誌『司馬昇墓誌』は「四司馬墓誌」の1つだという。また「楷書」という名称が普及したのは宋以降で、それ以前だと、どう見ても楷書なのに「隷書」と書かれている例があった。漢代の副葬品で陶器の瓶に故人の氏名や墓を造った日を記したものがいくつもあった。文字は赤漆(たまに黒漆)で書かれている。あまり他所で見たことのないもので珍しかった。

 書道博物館は、撮影禁止などの館内掲示がものすごく達筆で、しかもユーモアありということで、最近SNSで話題になっている。確かに肩の力が抜けて、楽しかった。どなたが書いていらっしゃるのだろう。あとマンガみたいな中村不折のマークもよい。次回は、あまり間を空けずに再訪したい。
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いつも恋は思案の外/文楽・桂川連理柵、大経師昔暦

2019-02-11 21:32:55 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 人形浄瑠璃文楽 平成31年2月公演(2月2日)

・第1部『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)・石部宿屋の段/六角堂の段/帯屋の段/道行朧の桂川』(11:00~)

 文楽2月公演の初日に行った。第3部の『壇浦兜軍記』に人気が集まっているが、あえて外して第1部と第2部を見てきた。『桂川連理柵』は菅専助作。桂川の川岸で38歳の男性と14歳の女性の遺体が発見された事件をもとにしている。プログラムの解説を読んだら、江戸時代の内から、実は殺人事件だったという説もあるそうだが、年の離れた男女の心中物として親しまれてきた人気曲である。

 信濃屋の一人娘・お半は、伊勢参りの帰り、石部宿(滋賀県湖南市)の宿屋で、隣家の帯屋長右衛門と同宿する。その晩、丁稚の長吉に言い寄られて怯えるお半を、長右衛門は「子供のことだから」と思って一つ布団に入れてやったのが過ちの始まり。もともと、お半は「隣りのおじさん」長右衛門を憎からず思っていたのだが、長右衛門には全くそんな気がなかったのに、ひょんなことから男女の関係になってしまう。むかしは分からなかったが、このへんの人情の機微が、何ともリアル。二人の関係を知った長吉は、腹いせに長右衛門の預かり物の脇差を盗み出す。

 お半は身重になり、長右衛門との仲が人々の噂にのぼるようになる。長右衛門の妻・お絹に横恋慕する儀兵衛は、この醜聞をネタにお絹に言うことを聞かせようとするが、機転を利かせて長右衛門の窮地を救う。報われないけど、カッコいい女性だ。単なる貞女ではなく、内心の葛藤を包み隠したような御高祖頭巾姿が印象的。

 やがて帯屋にお半が忍んで来る。転寝する長右衛門にお半が「長右衛門様、おじさん」と、か細い声で呼びかけるのは原作のセリフの一部改変だそうだ。「おじさん」の危険な色っぽさ(近代的な感性かな?)。長右衛門は早く帰るように促すが、お半が落としていったのは死を決意した書き置き。長右衛門は後を追う。「道行朧の桂川」の幕が上がると、桂川を背景に、お半をおんぶした長右衛門。「白玉か何ぞと人の咎めなば露と答えて消えなまし、物を思ひの恋衣、それは昔の芥川、これは桂の川水に、浮き名を流すうたかたの、泡と消えゆく」というこの歌詞。ああ、これは江戸の伊勢物語(芥川)なのだ、と痺れる。追手の気配を感じ、心中を決意したところで幕。

 クライマックスの帯屋の切は、咲太夫と燕三。今回は下手の端の席だったが、咲太夫さんの語りはよく聴こえて、物語に入り込めた。人形が、前半は出遣いでなく頭巾・黒衣で遣っていたのは、近頃めずらしいような気がした。

・第2部『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)・大経師内の段/岡崎村梅龍内の段/奥丹波隠れ家の段』(14:30~)

 近松門左衛門作。京都烏丸通り四条下ルの大経師(暦の頒布を許された特権的な商家)の妻おさんが、手代茂兵衛と関係し、処刑された事件に基づくもの。冒頭に「すでに貞享元年甲子の十一月朔日」という詞章があって、あ、新しい暦の頒布でてんやわんやしているというのは貞享暦か!と気づく。

 大経師以春の妻・おさんは、実家の父親のため金策の必要に迫られており、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は引き受けて店の金を用立てしようとするが、手代の助右衛門が見つけて騒ぎ立てる。すると下女の玉が、自分が頼んだことだと罪をかぶって事をおさめる。玉は以前より茂兵衛に思いを寄せていたが、茂兵衛はつれなくあしらっていた。一方、大経師以春は、たびたび玉の寝所に忍び込むなど、無理に言い寄っていた。いや、江戸時代の生活、怖いわ。雇い主から奉公人へのセクハラなんて普通だったんだろうな。第1部の『桂川連理柵』は、奉公人が主人の娘に暴行を働こうとした話だし…。

 玉の話を聞いたおさんは、身代わりに玉の寝所で休むことにする。夫の以春が忍んできたら懲らしめるつもり。一方、茂兵衛は、自分を助けてくれた玉の思いに応えようと、その寝所へ忍び込む。そして二人は暗闇の中、人違いから過ちを犯してしまう。以春が帰宅し、差し入れられた行灯の光で真実を知り、茫然とする二人。この「大経師内の段」は舞台の使い方にも変化があって面白い。

 次の「岡崎村梅龍内の段」は、玉の伯父・赤松梅龍やおさんの両親が登場し、口では厳しく責めながら、生きのびてほしいと願う人情が聞かせどころ。現代人にはちょっと冗長の感もあり。「奥丹波隠れ家の段」は、茂兵衛の故郷の奥丹波に隠れ住む二人のところに正月の門付け万歳がまわってくる。おさんを見て、大経師の奥さんだと言い出す万歳。それやこれや、ついに役人たちがやって来て、二人を捕えて引き立てていく。しかし、おさん茂兵衛は奥丹波でひと月くらいは過ごせたのだろうか。犯した罪に怯えながらも水入らずの生活は楽しかったか、いろいろなことを考えてしまう。

 『桂川連理柵』は伊勢物語だったが、これは冒頭に自由気ままに走りまわる猫(三毛)が登場し、「それは昔の女三の宮、これはおさんの当世女」という詞章がある。こちらは源氏物語。文学の伝統って面白いなあ。

 東京公演のプログラムは、児玉竜一先生の「上演作品への招待」が面白いのだが、「鑑賞ガイド」のページもあり、1つの作品の解説が2箇所に分かれてしまっているのはなんとかならないものか。
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