見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

代々木上原で休日ディナー

2015-05-30 01:14:02 | 日常生活
先日、本州に戻ってきて初めて、友人と代々木上原でディナー。
お店は、大根にこだわった創作居酒屋「きんはる」。



焼きふろふき大根が想像以上に美味しかったので、記録に残しておく。
やっぱり都会は手の込んだ料理が食べられてうらやましい。

まあ北海道は素材が美味かったなー。
(食い意地で生きている)
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ユートピアの独裁者/下中彌三郎(中島岳志)

2015-05-29 21:44:36 | 読んだもの(書籍)
○中島岳志『下中彌三郎:アジア主義から世界連邦運動へ』 平凡社 2015.3

 少し前に読み終わった本なので、内容を思い出しながら書く。下中彌三郎(1878-1961)は平凡社の創業者。本書は「平凡社創業100周年記念出版」として企画されたものだ。しかし、一昨年、著者が同じく評伝を書いた岩波茂雄ほど、出版業との結びつきは強くないように思う。

 著者は、本書の冒頭に「下中彌三郎とは一体、何者なのか」という疑問を呈し、平凡社の創業者のほかに、自由教育で知られる池袋児童の村小学校の創始者、戦中・戦前のアジア主義者・超国家主義者、戦後の世界連邦運動の牽引者など、多様な側面を紹介している。私は、女性の啓発と地位向上に資したと言われる『婦女新聞』とのかかわりが興味深かった。ただし、下中は基本的に良妻賢母主義で、女性のための高等教育や政治参加には否定的だった。

 下中は、愛に満ちた家庭をつくって男性を癒し、純真な子供を産み育てることのできる女性を賛美したが、その活動領域を家庭に限定し、彼の規範を外れる女性には厳しく抑圧的に振舞った。私は女性の一人として、こういう偏見は不愉快で、余計なお世話だと思う。また下中は、大日本帝国をユートピアの実現に向けた希望と見ていた。ロシアと戦うのは道ならぬロシアの行いを正すため、韓国を併合するのは韓国の国民が幸福に暮らせるようにしてやるためだというが、やはり当該国の人々は決して同意しないだろう。善意に満ちた偏見は、単なる嫌悪や蔑視より一層タチが悪い。

 下中の生涯は、さまざまな思想や事業に飛びついては投げ出すことの繰り返しで、批判的に言えば、こらえ性がない。しかし、理想に向かって猪突猛進する姿は真実のもので、そこに嘘や計算は微塵もない。けれども、純粋かつ真剣で、行動力があるところが困りものなのだ。印象的なのは、「真の子ども」「真の人間」を構想する教育者は(ユートピアの)独裁者でありながら、そのことを全く意識していない、という柄谷行人の議論である。

 これは下中の問題である以上に、著者が「下中の危うさを乗り越えることは、私の思想課題に直結する」と述べているように、今日的な課題なのではないかと思う。今日の社会、とりわけネットの中にあふれる「善意」と理想主義、性急に正義を求めるヒロイックな行動。けれどもそれは、本当に社会の幸福を増大するのか。他者を抑圧する方向に働いていないか。下中の創業した出版社の名前が「平凡」であることには、逆説のような、皮肉のようなほろ苦さを感ずる。二葉亭四迷の小説なども思い出しながら。

 蛇足だが、「あとがき」に著者の勤務校である北海道大学附属図書館の助力に対する謝辞が記されているのは、ひそかに嬉しい。
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戦後日本の若かった頃/果てしなく美しい日本(D・キーン)

2015-05-26 21:14:29 | 読んだもの(書籍)
○ドナルド・キーン;足立康訳『果てしなく美しい日本』(講談社学術文庫) 2002.9

 キーンさんのまとまった著書を読むのは、不勉強なことに、初めてではないかと思う。本書は、1959年に刊行された『Living Japan (生きている日本)』の日本語訳(1973年刊行)で、あわせて1992年と1999年に行われた日本文化に関する二つの講演を収録している。主要部分は、著者が1953年(昭和28年)に京都大学大学院に留学し、約3年間を日本で過ごした経験をもとに執筆された。

 以上のような情報を本書序文から得たときは、そんな古い日本印象記に、今でも読む価値があるだろうか、と疑問を抱きかけた。しかし、古い観察に基づく本だからこそ面白い点がいくつもある。1959年といえば、私が生まれるほんの少し前なのだが、それに続く10年が、大きく日本の風景を変えてしまったことを感じた。

 その頃、著者が国際会議で会った日本の経済学者たちは、日本が戦前の生活水準を回復することは決してないと考えていたという。一方、外国の代表たちは、日本人生来の器用さを利用して、釣りの疑似餌(ルアー)のような細密な品物を作ってはどうかと助言したが、自動車や電子機器の生産を勧めた者は一人もいなかった。まるで笑い話だ。また、当時は女性の着物姿がふつうだったとか、サラリーマンは夏の間上衣やネクタイをしなかったとか(夏でもネクタイが必須になったのは、オフィスに冷房が入るようになってから)、生活に密着した細やかな観察がとても面白い。

 本書には、伝統的な文化や生活様式と、眼前の「生きている日本」が矛盾なく同居している。実際の日本、とりわけ京都の風土がそうであるように。パチンコ機械の並ぶ村祭りから、伊勢の遷宮、祇園祭、鞍馬の火祭などの荘厳を語り、喫茶店やナイトクラブに続けて、格式に従った芸者遊びや舞妓の魅力を語る。万葉集、徒然草、芭蕉の俳句などの自在な引用が、文章に豊かな彩りを添えている。

 その一方、日本人の政治意識に対しては、かなり的確で、時には辛辣な批評も見られる。「非政治的」なスタンスをとりがちな、日本の文学者(文芸研究家)の著作にはあまりないことだ。たとえば、こんな箇所:「新しい日本は、民主主義と個人の自由とを万人の人権と見なす日本であるが、その完全な実現までには、まだ遠い道程を行かねばならない」「日本の伝統的社会の維持に役立つ知識だけを西洋から学び取ろうという考えが単なる夢想でしかあり得ないことはもはや証明ずみだが、今の日本の若者たちが待ち望んでいる社会がほんとうに実現するまで、日本がいっそう不快で苦しい多くの変化を経るであろうことは間違いない」。キーンさんがこの言葉を発してから、まもなく60年。日本社会が「民主主義と個人の自由」を獲得するための困難は、まだ続いていると思わなければならないのかな。

 「民主主義が日本人の間にどれだけ深く根を下ろしているか、万一みずからの政府を選ぶ特権が奪われる危険にさらされたとき、彼らが立って闘うかどうか、断言することは難しい」という記述もある。92歳になられたキーンさんは、かつてご自身が呈されたこの疑問を覚えておられるだろうか。今の日本の政治状況と日本社会の反応を、どんな思いで眺めていらっしゃるのだろうか。
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ローカルの論理と中央権力/海の武士団(黒嶋敏)

2015-05-24 13:00:03 | 読んだもの(書籍)
○黒嶋敏『海の武士団:水軍と海賊のあいだ』(講談社選書メチエ) 講談社 2013.9

 水軍とか海賊と呼ばれる人々に対しては、むかしから高い関心を持っている。正直言って、実態はよく知らない。東アジアの海を舞台に活躍した「倭寇」については、最近(私の目に入る)書籍が多いが、日本の海域で暮らした人々について読むのは、本書が初めてではないかと思う。

 書名の「海の武士団」は、「中世の沿岸部に展開し、海を通る者たちから収益を上げていた集団」の意味で定着しつつある用語だが、本書は、多様な内実を抱える問題点を指摘し、本文では「海の勢力」という呼び方を採用している。

 まず描かれるのは鎌倉時代後期。日本の産品を積み込み、元との交易に向かって五島列島の港を出発した「唐船」が日島(ひのしま)という小島の沖合で難破し、立ち往生してしまう。すると島の住人たちが小舟で駆けつけ、多くの積み荷を持ち去ってしまった(鎌倉遺文)。呆気にとられる話だが、「寄船慣行」といって、漂着船の積み荷は「無主」のものと見なされ、その土地の人々が自由にすることができた。漂着どころか、海水で濡れた積み荷は漂着物と見なされて没収されたともいう(フロイス『日本史』など)。いや~中世って厳しい時代だな(嫌いじゃない)。わけのわからない「美しい日本」を標榜する人たちに、ぜひこの事実を学んでほしい。

 こうした難癖を避けるには、はじめから「津料(つりょう)」を収めて、寄港地での安全を確保する必要があった。また航海の途上では「上乗(うわのり)」が行われた。通過海域を支配するメンバーを買い上げて同乗させるシステムであるが、「過所旗」で代替させることもあった。図版の「過所旗」はどこかで実物を見た記憶があるが、こんなに切実なリスクが背景にあるとは思っていなかった。

 しかし通行者から金品を徴収するローカル勢力に対し、全国政権である鎌倉幕府は統制を強めていく。当初は撫民思想に基づき、過酷な「田舎の習」を否定し、合理的な「中央の法」による政治刷新を目指すが、結局、下向した地頭たちは「田舎の習」に一体化してしまう。なお、網野善彦氏が、南北朝の動乱において各地の海の勢力が後醍醐天皇を支持したことから、北条氏による海上交通の統制の厳しさを指摘しているというのは、とても興味深かった。歴史って、社会の全方位に目配りしないと気づかないことがたくさんある。

 室町幕府は、全国規模の内乱を終息させるため、守護に大きな権限を与えた。この政策によって、海の勢力は在地の守護のもとに編成され、事実上の被官に近い存在となる。やがて戦国時代を迎えると、戦国大名は領国の経済的安定を図るため、小規模な在地ローカルの論理を厳しく規制していく。これによって、海の勢力の活動は縮小を余儀なくされる。一方で、海上交通を担う新たな集団「廻船衆」が台頭してくる。彼らは大名と直接に結びつくこともあった。15世紀後半は、社会体制の変革期であるとともに流通網の変質期でもあり、十三湊、大野湊、草戸千軒などの海上交通の拠点が廃絶・縮小した時期であるという。私は、中世の海の勢力から近世の廻船衆が育ってきたように思っていたので、両者のギャップの存在を初めて意識した。

 最終的に豊臣秀吉の「海賊停止令」と関所の廃止政策によって、日本社会は静かな安定に向かう。そして、この時期、日本の沿岸部から姿を消した海の勢力の一部は、倭寇に便乗して大陸に渡り、または朱印船を経営する側となり、または東南アジアに向かったと見られている。

 日本中世史の基本をきちんと理解していない私には難しい面もあったが、意外な事象の連関性が示されていて面白かった。それから、たまたま本書を読み終わった直後に、村上水軍ゆかりの尾道、草戸千軒のあった福山、さらに京都を追放された足利義昭が政務を執った鞆の浦(鞆幕府→本書で初めて知った)などに寄る機会があり、本書の内容を楽しく反芻できた。
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新たな一歩/文楽・二代目吉田玉男襲名披露と一谷嫰軍記、他

2015-05-20 22:54:41 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立劇場 5月文楽公演(2015年5月15日、第1部 11:00~)

・五條橋(ごじょうばし)

 有名な弁慶と牛若丸(義経)の出会いを語る短い一段。景事のひとつかと思っていたら『鬼一方眼三略巻』の一部であると初めて知った。牛若丸の美々しい装束、とりわけ色取々の絵文様を散らした袴が、岩佐又兵衛の『浄瑠璃物語絵巻』を思い出させた。 
    
・新版歌祭文(しんばんうたざいもん)・野崎村の段

 奉公先の一人娘お染と深い仲になってしまった丁稚の久松、幼馴染みの久松を慕う田舎娘のお光の三角関係を描いた作品。焼きもちをストレートに表現するお光がかわいい。久松は今ならまだ中学生くらいだろうか。船に乗ったお染と母、駕籠で堤をゆく久松の道行(って言わないのかな)は、舞台の上も面白いんだけど、鶴澤寛治さんと寛太郎さんの三味線が華やかで、床ばっかり見ていた。
    
・二代目吉田玉男襲名披露口上

 幕が上がると、吉田玉女改め二代目吉田玉男さんを前列中央に、20人くらいが裃姿で着座していた。向かって左端の竹本千歳大夫が口上を切り出す。まず右側の嶋太夫さん、鶴澤寛治さんが挨拶。先代吉田玉男さんや、中学生で入門したばかりの頃の二代目玉男さんの思い出を語る。先代に「いつまで続くか…」と案じられていたとか。続いて左側の吉田和生さん、桐竹勘十郎さんが挨拶。三人とも同期なんだね。そして、本人はひとことも喋らず、中央で終始手をついて頭を下げていらした。背景の襖に大きく描かれていたのは玉男さんの家紋らしいが、菱形に宝珠という珍しい紋(いま探しているが名前が分からない)。

・一谷嫰軍記(いちのたにふたばぐんき)・熊谷桜の段/熊谷陣屋の段

 これ見たことあるはずなんだけどいつ頃かなあ。自分のブログを検索しても見つからなかった。物語は源平の争乱の最中、一谷合戦の後、源義経を大将とする熊谷直実の陣屋。直実の妻、相模が鎌倉から訪ねてくる。そこに平経盛の妻であり敦盛の母、藤の局が現れ、かつて宮中で朋輩だった女二人は再会を喜ぶ。戦場から戻った直実は、自分が敦盛を討ったと語り、大将義経による首実検に臨む。ところが首は、直実と相模の一人息子である小次郎のもの。義経は、直実の愛する桜にことよせて「一枝を切らば一指を斬るべし」との制札を立て、実は後白河院の落胤である敦盛(そうなのかw)を斬ると見せかけて、小次郎を斬るよう、直実に謎をかけたのであった。面白いなあ。主君のために我が子の命を差し出す「身代わり譚」は、だいたい陰惨なんだけど、この話は謎解きの爽快感がまさって、比較的カラッとした後味である。石屋の弥陀六は実は平宗清なんだな、そうかそうか(平頼盛の乳父)。

 直実を遣う二代目玉男さんにじっと注目するはずだったが、ストーリーの面白さに引き込まれて、それどころではなくなってしまった。プログラムの解説にいうとおり、本格推理小説のようなスリルがある。襖に映る若武者の影とか、幽霊が石塔を立てに来るなどの「小道具立て」も秀逸。しかも当時、敦盛の幽霊が立てたといういわれの石塔が現存していたというのも面白い。人形は、藤の局を桐竹勘十郎さん、相模を吉田和生さん。これから彼らが中心となって、新しい文楽の舞台を作っていくんだろうなあ。ますます目が離せない。

 今回の公演プログラム(冊子)は、二代目玉男さんのインタビューあり、初代玉男さんを偲ぶ記事(相変わらずかっこいい~)あり、東京公演としては珍しく力が入っていた。カラー写真も多数。山川静夫さんのエッセイも非常に読み応えがあった。初代も二代目も、近所の「オッチャン」に誘われて、文楽の世界に入ったという話。いまは、適性を見極めた合理的なキャリア選択が推奨されるけど、こういう不思議な「縁」に始まり「忍耐」が人を育てる話、何だかほっとする。

※おまけ:ロビーに飾られたお祝いの花。左端は北野武氏から。1つ置いて、白い胡蝶蘭は、岡田美術館館長の(というより元・千葉市美術館館長の)小林忠氏から。ほほう。


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2015春の展覧会拾遺(2):平成27年 新指定 国宝・重要文化財(東京国立博物館)ほか

2015-05-19 23:45:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 本館8室、11室 『平成27年 新指定 国宝・重要文化財』(2015年4月21日~5月10日)

 秋の正倉院展とゴールデンウイークの新指定国宝・重文を見ることは、もはや欠かせぬ年中行事となっている。昨年から(?)彫刻は本館11室の彫刻展示室に混じり、他は2階の8室に並ぶことになった。

 今回は古画が多めで、見覚えのある作品もたくさんあった。たとえば出光美術館の『日月四季花鳥図』(六曲一双屏風・室町時代)は、わりと最近、存在を意識したものだと思う。同じく出光の『江戸名所風俗図』(八曲一双屏風)は、若衆歌舞伎や湯女風呂など熱気にあふれた遊楽都市・江戸を緻密に描いて、何度見ても楽しいもの。サントリーの『酒伝童子(酒吞童子)絵巻』もあり、『病草紙』断簡の、文化庁保管1枚と九州国立博物館保管の3幅1枚がまとめて展示されていたのも嬉しかった。

 しかし何より驚いたのは、遠目にも目立つ大きさの、平安時代の貴人の肖像。これは京都国立博物館の平成知新館オープン記念展『京へのいざない』に出ていた『鳥羽天皇像』ではないか!とすぐに気づいた。あのとき、京博の展示リストには所蔵者が記載されていなくて、ネットで調べて「和歌山・満願寺に伝わるもの」という情報を得たが、今回の目録は根来寺の所蔵となっている。

 松岡美術館の墨画淡彩『竹林閑居図』(室町時代)は記憶にない作品で、清々しく美しかった。松岡美術館って、あまり水墨画のイメージがなかったなあ。今度チェックしてみよう。考古・歴史資料では、北海道の羅臼町が保管するオホーツク文化期の資料、海の文化史にかかわる『過所船旗』『能島村上家文書』が興味深かった。都城市島津邸(博物館)が保管する『朝鮮国書』は、日本に残る最古のものらしいが、つい「ホンモノ?」と疑ってしまう。彫刻(仏像)は東大寺のいわゆる「試みの大仏」が国宝指定に。はるばる東国にお越しいただき、感謝。

 平成館では特別展『鳥獣戯画-京都 高山寺の至宝-』(2015年4月28日~6月7日)が始まっていたが、会場に入っても『鳥獣戯画』に到達するまで、下手をすると2時間から3時間も待つらしいと聞いて、今回は見送ろうと思っている。もちろん原本を見ることに意義はあるけどさあ…。本館・特別1室では『鳥獣戯画と高山寺の近代-明治時代の宝物調査と文化財の記録-』(2015年4月28日~6月7日)という特集陳列が行われている。明治時代に山崎董詮が模写した『鳥獣戯画』甲巻が気前よく広げてある。線に勢いがあり、なかなか達者である。写真も撮り放題。

 混雑といえば、連休明けに根津美術館の尾形光琳300年忌記念特別展『燕子花と紅白梅 光琳デザインの秘密』(2015年4月18日~5月17日)を見てきた。根津美術館でチケットを買うのに並ぶ(5分くらい)って、どういうこと?と呆れてしまった。まあMOA美術館の『紅白梅図屏風』に加えて、相国寺の『蔦の細道図屏風』を見ることができ、五島美術館の『紅葉流水図団扇』をはじめ、複数の団扇図をまとめて見ることができるなど、確かにお得感のある展覧会ではあったが。
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2015春の展覧会拾遺:歴博『大ニセモノ博覧会』、弥生美術館『橘小夢』など

2015-05-14 22:25:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立歴史民俗博物館『大ニセモノ博覧会-贋造と模倣の文化史-』(2015年3月10日~5月6日)

 終わってしまった展覧会だが、これは面白かった。陶器、絵画、貨幣、化石、文書など、さまざまな「ニセモノ」に焦点をあてた展覧会。いちばん面白かったのは絵画のセクションで「伝・雪舟」「伝・池大雅」「伝・酒井抱一」等々の作品に対し、「どう見てもニセモノ」「よく似せているが、やっぱり違う」「これは意外と本物?」などの解説がついている。たまに「本物」判定が混じっているところが可笑しい。鑑定した研究者の似顔絵つきで、悩んだり驚いたり断定したりしている表情が楽しかった。私が参観したときは、ギャラリートークが始まっていたので、途中から混じって「本物とここが違う」等の解説を興味深く聞いた。あとで気づいたら、その先生が似顔絵そっくりの鑑定者本人だった。

 久しぶりに常設(総合展示)エリアもひとまわりしてみた。あれ?変わったなあと思ったのは第4展示室「民俗」。「現代社会における民俗」を考える展示が充実した。デパートのおせち料理のサンプルが華やかに並んでいたり、美容への関心や、いまの子供の学習机とキャラクターグッズのあふれる日用品など。河童など妖怪や怪談について展示していたのもこの展示室だったと思うのだけど、ホームページの紹介が追いついてないみたい。

江戸東京博物館 徳川家康没後400年記念特別展『大関ヶ原展』(2015年3月28日~5月17日)

 まさかと思うくらい混んでいた。やっぱり戦国時代好きは多いんだなあ。展示品としては全くつまらない文書であっても、武将の名前が紐づいていると、みんな熱心に覗き込んで、あれこれ話し合っていた。

弥生美術館『日本の妖美 橘小夢展』(2015年4月3日~6月28日)

 橘小夢(たちばなさゆめ、1892-1970)の作品をネットで見たとき、あ、知っている画家だと思って、展覧会を見に行った。でも自分のブログに検索をかけても出てこないので、思い違いだったかもしれない。どっちでもいい、作品展を見に行ってよかった。甘く妖しく、どこか悲しい官能美。あわせて竹久夢二や高畠華宵の作品も見てきた。高畠華宵って面白い人だな~と思って、参考文献を2冊も買ってしまった。波乱の生涯だが、ま、最後が幸せでよかった(Wiki参照)。

三井記念美術館 三井文庫開設50周年・三井記念美術館開館10周年 記念特別展『三井の文化と歴史(前期)茶の湯の名品』(2015年4月11日~5月6日)

 久しぶりに三井家の茶道具を楽しんできた。やっぱり長次郎作「銘:俊寛」、光悦作「銘:雨雲」、道入作「銘:鵺」など楽茶碗が私のお気に入り。升色紙、継色紙、寸松庵色紙、さらに高野切(1種)も見ることができて眼福。

泉屋博古館分館(東京)『小川千甕(おがわ せんよう)縦横無尽に生きる』(2015年3月7日~5月10日)

 画家・小川千甕(せんよう/ちかめ、1882-1971)の回顧展。京都に生まれ、仏画を学び、洋画を浅井忠に学び、渡仏してルノアールに会い、漫画(西洋風俗大津絵)を描き、南画に転じる。さまざまな作品が出ていたけれど、最終的に注文に応ずることをやめて、自分の楽しみのために描くようになったという晩年の作品がいちばん好きかな。
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狩野辻子(狩野元信邸址)を歩く

2015-05-14 21:03:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/6(水)狩野辻子(狩野元信邸址)→白峯神宮→京都市学校歴史博物館

 連休旅行の最後の日。前日、京博で買った『桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち』の図録をパラパラ眺めていたら、狩野元信-宗信-松栄-永徳と受け継がれた家屋敷が「狩野辻子(かののずし)」に存在したことが分かっているとあり、現在の写真が載っていた。調べたら「元誓願寺通小川東入ル」にあるらしい。急に行ってみようという気になる。地下鉄今出川駅を少し離れ、元誓願寺通を西へ歩いていくと、北側の路地(行き止まりか?)の入口に、写真で見たとおり「此附近 狩野元信邸址」の石柱が立っていた。朝早かったので、近隣のゴミ出しの目印になっていたのには苦笑したが、いちおう来た記念の1枚。



 なお、本阿弥光悦の屋敷跡である本阿弥辻子や、楽家の楽美術館もここから遠くない。少し西に歩くと、南側に「此附近 慶長天主堂跡」という石柱があった。桃山時代の町風景に思いを馳せて、わくわくする。



 最後に、下京区に移動して、京都市学校歴史博物館を初めて訪ねた。小学校の校舎をそのまま博物館にした施設。『日本画開拓の時代-明治を生きた京の画家-』(2015年4月25日~6月30日)という展示に興味があって見に行ったのだが、自立した町衆の歴史を背景に持つ京都の小学校の歴史がとても面白かった。京都の小学校は、染織物、陶芸などの伝統産業にかかわる家の子供たちが多かったことから、美術教育に力を入れた。そのため、卒業生の寄贈品など、多数の美術工芸品が小学校に伝わっているそうだ。
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京都国立博物館『桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち』など

2015-05-13 22:12:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/5(火)京都国立博物館→龍谷ミュージアム→京都文化博物館

京都国立博物館 特別展覧会『桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち』(2015年年4月7日~5月17日)

 公式サイトを開くと「2007年開催『狩野永徳』展より、待望の続編!」という謳い文句が画面に流れる。2013年の『狩野山楽・山雪』展は?と訊きたくなるが、措いておこう(山楽は本展にも登場する)。本展は、天正18年(1590)画壇の頂点にいた狩野永徳の急逝以後、狩野探幽が江戸絵画の扉を開くまでの「桃山後期」と呼ばれる時代の狩野派の動向に注目したもの。解説の山本英男氏は、寛永11年(1634)名古屋城の上洛殿に狩野探幽が描いた障壁画をもって「この時、確かに桃山という時代が終わったのである」と述べているから、だいたい40年間ほどの時代にフォーカスをあてた展覧会である。意外と短いが、密度は濃い。

 主な登場人物は、光信(1565-1608)、宗秀(1551-1601)、山楽(1559-1635)、孝信(1571-1618)、内膳(1570-1616)、長信(1577-1654)、甚之丞(1581-1626)、貞信(1597-1623)。はっきり言って区別のついていなかった絵師が多いが、ひとりずつまとまった数の作品を見ていくと、同じ狩野派でも、繊細、優美、豪快など、それぞれ個性を有していることがよく分かった。

 好きな作品は、まず宗秀『柳図屏風』(相国寺)。立ち枝のしなり方、葉っぱの靡き方が美しい。山楽『唐獅子図屏風』(本法寺)は、小顔すぎて変。マッチョな胸筋が強調されて、妙に人間くさい唐獅子である。光信『花鳥図屏風』は人工的な美しさ。ふと澁澤龍彦あたりが好みそうだと思った。

 風俗図は、美術作品であると同時に歴史資料として魅入られる。孝信『洛中洛外図屏風』(福岡市博物館)は市井の人々が大きく描かれていて面白い。放恣な享楽に流れる『北野社頭遊楽図屏風』も孝信筆。文化庁所蔵の『南蛮屏風』が見られたのは嬉しかった。紺碧の海に浮かぶ青い船、白い帆、画面の過半を占める金色の雲。色にも造形にも気持ちの良い緊張感がみなぎる。これ、『豊国祭礼図』の狩野内膳の作だったのか!

 続けて、平成知新館の常設展示(名品ギャラリー)を見に行く。中国絵画は『明清の山水画』。宋元絵画より親近感が湧く。近世絵画では、狩野永徳と長谷川等伯を見比べ。中世絵画には雪舟の『慧可断臂図』が出ていて、しばらく立ちつくした。この絵を見ると赤瀬川原平さんを思い出すのだ、私は。絵巻は霊験譚の特集。『泣不動縁起』は、祈祷する陰陽師と式神の場面が有名だが、全体のストーリーをはじめて知った。僧・証空の身代わりとなり、縄目を受けて地獄に連行される不動明王。泣かせる話じゃないか。

龍谷ミュージアム 春季特別展『聖護院門跡の名宝~修験道と華麗なる障壁画~』(2015年3月21日~5月10日)
京都文化博物館 増誉大僧正900年遠忌記念展『聖護院門跡の名宝-門跡と山伏の歴史-』(2015年3月21日~5月10日)

 龍谷ミュージアムの展示は、京都の聖護院だけでなく、全国各地の修験宗の寺院から、不動明王像や役行者・前鬼・後鬼像が多数集結。また近世・近代の障壁画も見ることができた。京都文化博物館の展示は、古文書類が面白かった。修験道には本山派(天台系。熊野三山を拠点とし、聖護院を本寺とする)と当山派(真言系。金峯山を拠点とし、醍醐寺三宝院を本寺とする)の二派があり、いろいろ確執や抗争があった歴史をはじめて知った。
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奈良博『平安古経』、奈良県美『奈良礼讃』、大和文華館『風俗画と物語絵』

2015-05-12 22:23:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
○5/3(日)万葉植物園→春日大社・国宝御本殿特別参拝→東大寺→(※ここから)奈良国立博物館→奈良県立美術館→大和文華館→大阪・天王寺泊

奈良国立博物館 特別展『まぼろしの久能寺経に出会う 平安古経展』(2015年4月7日~5月17日)

 日本には、天平・奈良あるいは隋唐の古写経も伝わっているが、あえて「平安古経」に的をしぼった展覧会。優しい文字、繊細な美意識。財と労力を傾けて、限りなく美しい経典を作り出す行為に込められた真摯な信仰に打たれる。見どころの『久能寺経』は、静岡県の久能寺(現在は鉄舟寺)に伝わった法華経の装飾経。鳥羽法皇や皇后の待賢門院(璋子)、女御(美福門院得子)、その側近等が結縁して作られたもの。26巻が現存する。本展には、鉄舟寺蔵2巻、五島美術館蔵2巻、東博蔵2巻、さらに名品として名高い「個人蔵」4巻が展示されている。ただし五島美術館蔵と個人蔵の巻は展示替えあり。「個人」って誰なのかなあ、業界に詳しい人たちは知ってるんだろうな…と、つい下世話なことが気になる。

 各巻の末尾には結縁者が後筆で書き入れられている。展示品ではないが、結縁者の一覧に信西入道(藤原通憲)の名があったことに興味を持ち、図録を買って、解説を読んだ。西行、俊成、白河院、崇徳院など、この時代のオールスターが入り乱れて登場する解説で、非常に面白かった。ひとつ書き留めておくと、久能寺経の結縁者には平実親の一族が多く(説明をはしょると)平実親の近縁には清盛の室となった徳子がいる。のちの平家納経は久能寺経の先例にならったものと見られている。あるいは清盛は知己の間柄であった西行から久能寺経の情報を得た可能性もある。以上、梶谷亮治氏の解説から。

 参考文献にあがっていたマイケル・ジャメンツ氏の「信西一門の真俗ネットワークと院政期絵画制作」という論文を読みたいと思い、駄目もとで検索してみたら、奈良国立博物館紀要「鹿園雑集」10号に発表されたもので、全文PDFファイルが公開されていた。うわーオープンアクセス万歳! 展示図録は図版もよい。ページをめくるたびに、ため息が出る美しさ。展示室で見た現物より見やすいものもある。

奈良県立美術館 特別展『奈良礼讃』(2015年4月11日~5月24日)

 天心、フェノロサによる奈良での文化財の再発見を起点に、狩野芳崖や横山大観らによる奈良の歴史や文化財に着想を得た日本画、彫刻、美術工芸品を集めた展覧会。日本画の名品をいろいろ見られて嬉しかったが、いちばん興味深かったのは、岡倉天心関連資料である。茨城大学から出陳されているものが多かった。実は、茨城県北茨城市にある天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)は、横山大観からの申し出によって茨城大学に寄贈され、茨城大学五浦美術文化研究所として管理されている。東京芸大は悔しいだろうなあ…。

大和文華館 特別企画展『風俗画と物語絵』(2015年4月3日~5月10日)

 久しぶりの大和文華館。桃山~江戸時代前期の風俗画が楽しかった。最も早い時期の『阿国歌舞伎草紙』(桃山時代)。ゆったりした時間の流れを感じる『輪舞図屏風』。あと、何と言っても空前絶後の『婦女遊楽図屏風(松浦屏風)』が素晴らしい。類似の作品を描く追随者が出なかったのは何故かなあ、と不思議に思う。
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