見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

情けは望ましい社会の為/現代貧乏物語(橋本健二)

2016-11-30 19:54:43 | 読んだもの(書籍)
○橋本健二『現代貧乏物語』 弘文堂 2016.11

 冒頭の問題提起は強く共感できるものであった。2005年に「格差社会」が流行語になってから10年以上が過ぎ、貧困や格差に関する研究レベルは確実に上がり、研究の裾野も広がっている。しかし、研究が進んだだけでは現状を変える力にならない。研究が社会に影響力を持ち得るのは、第一に研究者が審議会に入るなどして政府や自治体の政策決定にコミットすること、第二に論文や学術書ではなく「一般向けの作品を通じて人々に訴え、その認識を変えること」によってだという。著者は、そのような優れた「作品」(専門の壁を越えて広く訴えるもの)の一例として、100年前の1916年に書かれた河上肇の『貧乏物語』をあげる。

 私は河上の名著を読んでいないので、著者の要約に従うと、上編は貧乏の定義を論じ、中編は貧乏の原因を論じ、下編では貧乏を根絶するための方策として、(1)富者が自ら奢侈贅沢を廃止すること、(2)貧富の格差を是正すること、(3)生産を私人の金もうけにまかせず、軍備や教育と同様に国家が担当することを提言したものだ。著者いわく、貧困を論じて、これほど長く読み継がれ、社会に影響を与えた「作品」はほかにない。草創期の中国共産党の指導者たちも河上の本を(中国語訳で)読んでおり、毛沢東が河上を高く評価していたことを、私は初めて知った。

 以下、著者は『貧乏物語』の構成に倣って、現代日本の貧困を論じていく。まず貧困と格差の現状について。河上は、肉体を保持することのできない「第一級の貧乏人」のほかに、収入がほぼ貧困線上であるため、職業生活や子育てに必要な出費をすることができない人々を「第二級の貧乏人」と定義する。これは現代の貧困概念に近い。現代の貧困研究では「標準的な生活様式」を維持することができない(それによって人間関係などが失われる)状態は相対的貧困であると考える。けれども、相対的貧困概念を認めようとしない人々は少なくない。

 貧困者と被保護層(≒生活保護受給者)の関係について。著者によれば、日本の生活保護の不正受給比率は驚くほど低く、金額も慎ましいものである。むしろ生活保護を受ける権利があるにもかかわらず、受けられていない人々を著者は問題視する。日本の生活保護の補足率は国際的に見ても異常に低い(補足率15.3%って…)。一例かもしれないが、妻の葬儀のためにとってある100万円の貯金があるために生活保護を受けられない男性の実話には、やり切れない憤りを感じた。

 では、貧困は社会にどのような影響をもたらすか。貧困率と平均寿命はかなりの程度まで対応するという。貧困と格差のどちらが大きく影響するかについては、さらに詳しい研究が紹介されている。他人より大幅に所得の低い人々は強い不満を持ちやすいので、たとえ豊かな社会でも経済格差が大きいと、公共心や連帯感が育ちにくく、犯罪が増え、精神的なストレスが高まり、平均寿命は下がるのだという。これを与太話と思って鼻で笑う人もいるんだろうな。

 これに比べると、貧困層の子どもは成績が低いことが多いという指摘は、体験的に納得しやすい。しかし、これを本人の損失とだけ考えてはいけない。いま、高校を中退した男性が、就職を断念し、生涯、生活保護を受ける場合と、直ちに生活保護費を支給し、2年程度の職業訓練を施すことによって、正社員の職を獲得し、税金と社会保険料を納め続ける場合を比較すれば、後者のほうが間違いなく社会の利益になるのである。経済格差が拡大し、貧困層が増大すると、内需が伸び悩み、経済成長が困難になる。近年の日本の経済停滞は「格差拡大不況」の性格が強いという指摘は、とても納得できるものだった。

 次に貧困と格差拡大の原因について。高齢化、グローバリゼーション、労働運動の衰退など複合的な要因があげられているが、1980年代に始まった格差拡大に最初は気づかず、その後は無視あるいは容認した政府の罪は大きいと著者は指摘する。この状況を克服するために、まず必要なのは「貧困はあってはならない」「格差の縮小が必要である」という合意をつくることだ。著者は、格差拡大を正当化する代表的な四つの理論、「機会の平等」論、「自己責任」論、「努力した人が報われる社会」論、「トリクルダウン」論をひとつずつ論駁し、具体的な施策として、(1)正規雇用と非正規雇用の均等待遇、(2)最低賃金の引き上げ、(3)労働時間短縮とワークシェアリングなどを提唱する。空理空論ではなく、たとえば給付型奨学金制度の導入のために、「国民の平均収入を相当程度上回る収入を得ている大卒者」および「大卒者を採用した企業」から大学教育税を徴収してはどうか、という提案がなされているのも面白い。ベーシック・インカムは、突飛な話と思われがちだが、生活保護、基礎年金、児童手当、膨大な数のケースワーカーの配置などを節約できるという説明を聞くと、真面目に検討してもいいのかもしれない、と思えてきた。

 最後に著者は、市場メカニズムを否定するのではなく、人々が市場メカニズムに翻弄されない仕組みをつくることの重要性をあらためて説く。期待されているのは新中間層であり、私もその一人であることはよく自覚しておく。そして、社会に向けて、こういう「作品」を書いてくれる研究者がもっと増え、もっと評価されますように。
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2016年11月@関西:高麗仏画(泉屋博古館)など

2016-11-28 23:25:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
東寺(教王護国寺) 2016年秋期特別公開・灌頂院(2016年10月28日~12月4日)

 週末、駆け足で見てきたもの。東寺は宝物館の『東寺の明王像』展が見たかったのだが、行ってみたら前日の金曜で会期が終わっていた。がーん。しかし、五重塔・小子房・灌頂院が特別公開されており、灌頂院には、あの夜叉神像一対がお出ましになっていると知って、拝観することにした。

 灌頂院に入るのは、2015年秋の『十二神将のすべて』以来。なるほど、ここは儀式のための道場で、ふだんは空っぽの建物なので、こういう出開帳に積極的に使っていくのは面白いかもしれない。目が慣れるまで人影も定かでない薄暗い空間、スポットライトに浮かび上がるのは、右に阿形(俗にいう雄夜叉、髪が逆立っているほう)、左に吽形(雌夜叉、巻き髪)の夜叉神像。十二神将展で使われていた八角形(?)の木桶のような展示台に乗っている。そして、まわりには可憐な盛り花が山のように飾られ、お花畑の中の夜叉神という、めまいのするような光景である。なんだこれは…(笑)。しかし、夜叉神の側面を見ることができたのは貴重な機会だった。

泉屋博古館 特別展『高麗仏画-香りたつ装飾美』(2016年11月3日~12月4日)

 高麗王朝後期(13-14世紀)に生み出された類いまれな仏教絵画「世にも美しきみほとけたち」を特集。確認されている現存作品は世界にわずか160点あまりだという。来春、東京の根津美術館に巡回する展覧会だが、東西で出品作品が異なると聞いて、見に行ってしまった。図録に掲載の出品目録は57件(絵画以外の参考作品も含む)である。あまり広くない展示室が、華麗な仏画で満たされていて、至福のひととき。高麗仏画って、実は日本国内にこんなにあるんだなあ、ということを初めて実感した。

 根津美術館の『地蔵菩薩像』(被帽地蔵菩薩)は、私が高麗仏画というジャンルを初めて意識した作品。なんと徳川美術館に同図があるのか。大徳寺の『水月観音像』は宝物曝涼のときにお会いしている。繊細優美な作品が目立つ中で、太い腕をにゅっと伸ばした『阿弥陀如来像』(団体所有とあり)は面白かった。鮮やかな色を長持ちさせる裏彩色の技法とか、さまざまな地域・時代の美意識を取り入れたふところの深さも興味深いと思った。

白鶴美術館 2016年秋季展『大唐王朝展』(2016年9月17日~12月11日)

 同館が所蔵する唐王朝の美術品を大公開。確かに『鍍金龍池鴛鴦双魚文銀洗』(フィンガーボール?)や『唐三彩鳳凰首瓶』『白銅海獣葡萄鏡』など、他所ではなかなか見られない優品が公開されている。ただ、個人的にいうと(美術館の所蔵品としては「しょぼい」と言いたくなるような)小さな鏡とか壺、杯、装飾品などがごちゃごちゃ並んでいるのが、かえって唐王朝を身近に感じられて面白かった。所蔵品の正確な由来はよく分かっていないようであった。

 いちばん気に入ったのは『白大理石台座』(北斉・武平元年/570)というもので、八角形の植木鉢のような形をしており、以前は上部に仏像がはめ込まれていたのではないかと考えられている。鉢(台座)の周囲には獅子や従者や獣面人身の神?などが座っている。その座り方がまたいろいろでかわいい。白い大理石に主に赤とわずかな黒で顔などを描いているのが飴細工みたいだった。

大阪市立美術館 開館80周年記念展・特別陳列『壺中之展(こちゅうのてん)-美術館的小宇宙』(2016年11月8日~12月4日)

 昭和11年(1936)5月1日の開館から80周年を記念し、約300件の館蔵・寄託作品を展示する。同館のコレクションの素晴らしさはよく知ってるが、バラエティに富んでいて、あらためて見ても飽きない。工芸品、中国の石仏、日本の仏像、中国絵画、桃山絵画、琳派、浮世絵など…。多くは関西に縁のある実業家のコレクションを譲り受けたもの。むかしの富豪は文化の保護者だった。ポスターになっている橋本関雪の『唐犬(からいぬ)』は同館の第1号収蔵品。「かたちをたのしむ 8(は)・0(まる)・壺(ツボ)」は、いろんなジャンルの作品を持っているからできる試みで面白かった。

国立民族学博物館(みんぱく) 特別展『見世物大博覧会』(2016年9月8日~11月29日)

 細工物・軽業・曲芸・動物見世物など、江戸から明治・大正・昭和を経て現代に至る多種多様な見世物の姿を紹介する。というと聞こえがいいが、かなりアブナイ世界に片足を突っ込んだ展覧会である。ポリティカル・コレクトネスに弱い私は、「シベリアから来た熊女」(うろ覚え)などと聞くと、大丈夫か?とドキドキしてしまう。しかし、その後ろめたさがあるからこそ、見世物は甘美なのである。

 でも先入観でものを見るのは危険で、「女相撲」なんて際物だと思っていたが、女力士たちの明るい表情の写真を見て、意外と健康的な娯楽だったのかもしれないと考え直した。日本各地の祭礼に取材した「軽業」の映像も面白かった。うまく継承していけるだろうか。あと、西洋のサーカスが入ってくる以前も、日本に「曲馬」ってあったのだな。時代劇では再現しにくいから、意識したことがなかった。
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大坂・真田丸跡を歩く

2016-11-27 22:12:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
週末、関西で見たい展覧会があって行ってきた。直前に運よく取れたホテルが鶴橋駅前で、地図を見たら、少し北に「真田山」という地名があり、真田丸跡に近いと分かったので歩いてきた。

高台の上の小さな三光神社には真田幸村の銅像が立つ。人が腰をかがめて覗いているのは、大坂城に通じる真田の抜け穴の跡と伝える。御朱印もいただいてきた。



北から南へゆるやかな坂(心眼寺坂)を上がる。左側(東)は寺町で、ぬっとそびえ立つ興徳寺の千手観音像が、巨大化した宇宙人みたいで不気味。その手前が、真田幸村(信繁)と大助を弔うために建立された真田山心眼寺。あらためてネットで調べたら「真田幸村」の御朱印をもらえるらしい。



右側(西)は大阪明星学園。今年2月に立派な「真田丸顕彰碑」が設置された。



大阪のこんな中心部に「真田」の地名が残っているなんて、今年になるまで知らなかった。大坂の陣の歴史って、いまでも身近なんだなー。

玉造を応援する情報サイト:三光神社でもらった玉造地図が散策の役に立った。
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忍性菩薩(金沢文庫)+鎌倉meets東大寺(鎌倉国宝館)

2016-11-24 23:33:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 生誕800年記念特別展『忍性菩薩-関東興律七五〇年-』(2016年10月28日~12月18日)

 来たる2017年、東国を中心に真言律宗を広め、各地の社寺の復興に携わった忍性(1217-1303)の生誕800年を迎えることを記念する特別展。この春、奈良博で開催された『忍性-救済に捧げた生涯-』展とは、重なる展示物もあるが、別の展覧会と考えてよいようである。あまり広くない展示室に、多数の仏像がひしめきあう状態で壮観だった。主役の忍性菩薩坐像は極楽寺から。本堂内に叡尊像とともに安置されているとのことだが記憶にない。一直線の眉骨、大きな鼻と口は、セサミストリートのキャラクターみたいに親しみやすい。

 釈迦立像と十大弟子像が二組。極楽寺の釈迦像はさわやかで若々しく、称名寺の釈迦像は頭部が大きく重厚である。十大弟子像はどちらも癖者ぞろい。善か悪かよく分からない面相も混じっている。絵画では極楽寺所蔵のシンプルで大きな墨画『釈迦如来像』(鎌倉時代)が印象に残った。あと、忍性が多田院別当だったことを初めて認識した。源氏ゆかりの多田神社(兵庫県)には行ったことがあるが、真言律宗の拠点だったとは思ってもみなかった。神社なのに。

鎌倉国宝館 特別展『鎌倉meets東大寺-武家の古都と南都をつなぐ悠久の絆-』(2016年10月22日~12月4日)

 治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちにより灰燼に帰した東大寺の復興を推進した大勧進・重源に対し、手厚い援助を行ったのが源頼朝。ということで、鎌倉と東大寺との密接な関係は、鎌倉時代初頭にさかのぼる。これには反論のしようがないが、先日、呉座勇一さんの『応仁の乱』を読んで、大和国では摂関家ゆかりの興福寺が圧倒的な支配権を持っていたことを知ったので、東大寺-鎌倉幕府というのは、その対抗軸を作るタッグだったのかな、と思ったりする。

 会場の冒頭で、東大寺の重源上人坐像が目に入り、お!と思ったが、これは模刻。源頼朝坐像も複製だった(図録には本物の写真が載っていて紛らわしい)。鶴岡八幡宮の古神宝に菩薩面や舞楽面があるのは知っていたが、頼朝が東大寺の落慶供養に参列した際に手向山八幡宮から贈られたものと聞くと、一層ありがたさが増す。しかし、東大寺再建に関する頼朝の書状(東大寺所蔵)は、解説によれば「後白河法皇の決定により朝廷が主導すべきこと」を繰り返し述べているらしく、あまり積極的な意欲が感じられない。実は政治的かけひきがあるのだろうか。

※(おまけ)鎌倉駅から八幡宮への途中に、鳩サブレ―の豊島屋の洋菓子舗「置石」がオープンしていた。鳩サブレ―の粉を混ぜたソフトクリームが美味。鎌倉散歩の楽しみになりそう。そして豊島屋のホームページで見つけた「鳩クッション」(完全注文生産)が可愛くて、欲しい。

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医学史と科学史と美術史/小田野直武と秋田蘭画(サントリー美術館)

2016-11-23 23:55:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』(2016年11月16日~2017年1月9日)

 噂を聞いて、ずいぶんチャレンジングな展覧会だなあと思った。こんなマイナーなテーマでお客が入るんだろうかと心配したが、立地がいいのか、そこそこ入っていた。江戸時代半ばの18世紀後半、「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風(おらんだふう)の絵画」ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれている作品群の特集である。中心的な描き手である小田野直武(1749-1780)のほか、秋田藩主の佐竹曙山(1748-1785)、角館城代の佐竹義躬(1749-1800)などの作品を紹介する。

 秋田蘭画は、ひとことでいえば、かなりヘンな絵である。日本と中国と西洋が融和し切れずに共存しており、その結果、どこでもない幻想の風景が現れている感じがする。小野田の『不忍池図』(秋田県立近代美術館)は、湖畔に置かれた紅白の牡丹の鉢(と草花の鉢)を大きく描き、遠景に湖上の弁天堂と向こう岸の森がぼんやり見えている。凍りついたように静謐で、あまり生命を感じないのだが、牡丹のつぼみに小さな蟻がいるなんて気づいたことがなかった。

 風景画に比べると、人物画はかなりエキセントリックだ(嫌いではない)。微妙にリアリズム描写の佐竹曙山『蝦蟇仙人図』、安っぽいポスターのような田代忠国『三聖人図』など。後期(12/14-)展示の作者不詳の『関羽像』は、むかし見たことがあり、こんな江戸絵画があるのかと忘れがたかったものだ。古い名作絵本の挿絵のようでもある。

 小野田の写生帖や青年期の習作も面白かった。佐竹曙山の写生帖には、円山応挙展で見たのと同じ品種と思われる、赤と緑のツートンカラーのインコが描かれていた。佐竹曙山とは「博物大名つながり」のある細川重賢の『毛介綺煥(もうかいきかん)』は、オオカミ、マンボウからワニの剥製(紅毛人持来とある)まで、多彩な博物スケッチを貼り付けたもの。永青文庫所蔵というが、見た記憶がない。

 初めて認識したのは、平賀源内が秋田に招かれた(銅山開発のため)ことが、秋田蘭画を生み出したと考えられていること。のちに江戸に出た小野田直武は、杉田玄白らの『解体新書』の扉絵と挿絵を描く。源内が玄白に直武を紹介したと言われているそうだ。そして、源内の知人には南蘋派の画家・宋紫石もいた。展覧会冒頭に、関連人物の住まいをマッピングした江戸地図があって、杉田玄白と宋紫石が、同じ「日本橋通南4丁目」に住んでいたというのには、ほんとに息が止まるほど驚いてしまった。医学史とか科学史とか美術史とかを別々に考えているようだと、江戸の文化人ネットワークの全体が見えてこないのだな、と思った。

 石川大浪・孟高『ファン・ロイエン筆花鳥図模写』(秋田県立近代美術館)も興味深い。徳川吉宗はオランダ商館に5点の油彩画を注文し、うち2点が本所の五百羅漢寺(明治時代に目黒に移転)に下賜された。これはその1点を模写したものだという。縦2メートルを超す大幅で、原画もそのくらい大きかったのだろう。大きな花瓶に多種多様な花がうずたかく盛られており、床には木の実と果物、派手な羽色の鳥がそれをついばみ、花の間から顔をのぞかせている。オランダの植物画といえば、なんとなく原画の趣きは想像できる。こんな西洋画の大作が江戸の町中にあったというのも知らなかった。
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画の中の小宇宙/円山応挙(根津美術館)

2016-11-22 03:18:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
○根津美術館 開館75周年特別展『円山応挙 「写生」を超えて』(2016年11月3日~12月18日)

 考えてみると、私の中で円山応挙(1733-1795)という画家のイメージもずいぶん変わった。むかしは、全く面白くない画家だと思っていた。京博の蕭白展の名コピー「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ!」みたいな感じである。それが、今ではむしろ「奇想派がなんぼのもんぢゃ!」と言いたい衝動に駆られる。

 本展の見どころは、同館所蔵の名品『藤花図屏風』に加えて、三井記念美術館の『雪松図屏風』が展示されること。しかし、出品目録を見ると、ほかは「個人蔵」がすごく多い。美術業界って不思議だなあと思う。入ってすぐ『雨中山水図屏風』ですでに魅了される。画面のほとんどは雲か霧にかすみ、端の方にわずかに見える渓流と樹木、舟を操る人の姿。図録を見たら『雪中山水図』(後期展示)と対になるもので、以前にも見たことがあるのを思い出した(奈良県立の『応挙と蘆雪』展)。私は応挙のひろびろした空間把握が好きで、山水画がすごく好きだ。淡彩の『三井春暁図』も美しかった。

 一方、花鳥画や人物画はいまいちで、『牡丹孔雀図』は、早い時期に応挙の名前と結びついた作品だが、好きになれなかった。しかし、ベルベットのような羽毛の光沢、無駄や迷いのないブルーの使い方は素晴らしいと思う。『雪中残柿猿図』のサルはかわいい。

 墨画の『雨竹風竹図屏風』(圓光寺所蔵)は、細い竹の濃淡で、竹林の深い奥行きを描き出す。墨色の薄い竹ほど奥にあるように見える。実際に描くときは、濃い竹から描いていくのだろうか? 『藤花図屏風』はむかしから大好きな作品なので、今回、図録の表紙にもなっていて嬉しい。青・白・紫など複雑に色を重ねた藤の花は、モネの睡蓮を思い出させる。黄金の池に浮かぶ睡蓮だ。そして極度に抽象化されて、ほとんどリボンにしか見えない藤の幹と枝。展示室の角を隔てて『雪松図屏風』。これも確固とした空間表現が評価される作品だが、ふと、先月、和歌山で見てきた『雪梅図』(草堂寺)を思い出す。

 再び小品が続く中では、静岡県立美術館の『木賊兎図』がかわいい。白ウサギ2匹と黒ウサギ(鼻先は白い)1匹が、木賊の陰に身を潜めている。絵本「しろいうさぎとくろいうさぎ」みたいだ。『老松鸚哥図』は、伝統的な老松の枝に、赤と緑のツートンカラー(頭は黒)のインコが止まっている。その唐突感に笑ってしまった。

 展示室2も応挙特集。数々の写生帖が展示されていた。株式会社千總(京友禅の会社)が所蔵する『写生図巻』には、白ウサギ、黒ウサギの図あり。ウサギの口元を丹念に写生している。東博の『写生図帖』にはニホンザルの図。何かの手本を写したのかと思ったが、「猿 三才」とあるから本物を写したのかな。全身像のほかに、サルのお尻を書き留めているのが応挙先生らしい。

 さらに展示室5では、相国寺の『七難七福図巻』全3巻を展示(※詳細は承天閣美術館で全場面を見たときの記録参照)。いずれも巻頭から途中までが開いている。「人災巻」は、強盗~心中した男女遺体の検証まで。まあそこを選ぶよな、と思ったが、後期(11/29~)から巻替えがあるというので、もっと血みどろな問題シーンも展示されるかもしれない。外国人客が多いけど大丈夫かな…と、余計な心配をしてしまっている。

 展示室6は、気の早いことに「茶人の正月」。 展示ケース内の床の間に因陀羅筆『布袋蔣摩訶問答図』が掛かっているのが珍しく、嬉しかった。
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慧可断臂図を見に/禅-心をかたちに-(東京国立博物館)

2016-11-20 23:11:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展覧会 臨済禅師1150年、白隠禅師250年遠諱記念『禅-心をかたちに-』(2016年10月18日~11月27日)

 春に京都国立博物館で見た展覧会の巡回展である。東京と京都ではかなり展示品が異なる(図録でいうと300余件中、約半数は東西1会場のみ)。しかし、さらに展示替えもあるので、東西1回ずつ行っただけは、残念ながら全部見たことにはならない。

 入口には白隠の彩色の『達磨像』(大分・万寿寺)。先日の山下裕二先生と山口晃画伯のトークイベントでも話題になっていたけど、下絵の線の無視のしかたが気持ちいい。特に頭頂部と鼻のあたり。そして、ふと自分の頭上を見上げると、アプローチを覆う天井板に「○△□」の穴が一列に並んでいて、向きを変えた照明がこの穴を通ると、床には横並びの「○△」と一歩下がった「□」の光が描かれる仕掛けになっているのだが、あまり気づいている人はいなかった。

 はじめのセクション「禅宗の成立」は祖師図など。達磨図多数。小さい目鼻がかわいらしくて、大阪のおばちゃんっぽい鹿苑寺の『達磨図』(彩色、鎌倉時代)と筋骨たくましく武術に長けていそうな静岡・成道寺の『芦葉達磨図』(墨画、鎌倉時代)が並んでいて面白かった。そして雪舟の『慧可断臂図』はいいなあ。最近、いつ見たっけ?と調べたら、2015年、2009年、2008年に見ていて、2008年に「初めて見たとき、キモチわるい絵だと思ったのがウソのようだ」と書いている。ほんとに不思議なことに繰り返し見るうちに、だんだんこの絵の魅力に取りつかれてしまった。師(と見込んだ人)を振り向かせるために自分の腕を切り落とすという主題も好きだし、技法とか構成の点でも、なんでそう描く?という謎がいっぱいあって好きだ。この展覧会は、特別に薄い展示ケースが使用されていて、いつもより作品に肉薄できて、とても嬉しかった。

 続く「臨済禅の導入と展開」は、臨済宗の本山14箇所+黄檗宗本山の計15のお寺(京博のレポート参照)の文化財が、創建順に紹介されていく。各寺院の簡単な説明パネルがあって、京博の会場より分かりやすかった。頂相(絵画・彫刻)がたくさんあった。なんとなく気に入ったのは中峰明本。「笹の葉書き」の文字も好きだが、福々しいお顔立ちもいい。宗峰妙超は解説に「鋭い眼差し」とあったけど、私には困り顔にしか見えない。東福寺所蔵の『円爾岩上像』は、スケッチふうの墨画の頂相で、野外でくつろぐポーズも珍しいもの。

 後半の始まりは「戦国武将と近世の高僧」で白隠、僊厓(仙厓)の作品がたくさん登場。近年発見されたという白隠の『慧可断臂図』(大分・見星寺)も確認。よく分からない絵であるが、下手な解釈をしようと思わないほうがいいのかもしれない。「禅の仏たち」では、神奈川・来迎寺の『跋陀婆羅尊者立像』(南北朝時代)が興味深かった。浴室の守り神で、袈裟をまとい、長い杖を両手で支えている。頭は垂髪のように見える。どこの来迎寺かと思ったら、鎌倉・西御門の来迎寺らしい。円覚寺の『達磨坐像』は、本当に達磨?といういうな若々しい表情。宝冠釈迦如来坐像をまつる仏殿の左斜め後方の祖師壇に安置されているというが、気づいたことがなかった。図録解説によれば、本展の事前調査で14世紀にさかのぼる古像と確認されたそうで、展覧会に出品されるのは、おそらく今回が初めてという。そんなこともあるのだな。また、鹿王院の『十大弟子立像』は京博でも見たが、ぐるり円形に並んでいて、一層かわいらしかった。特に振り返り方の色っぽい迦旃延尊者が気になる。

 最後は「禅文化の広がり」。大阪東洋陶磁美術館の『油滴天目』と相国寺の『玳玻天目』は、色合いもだが、きゅっと締まった形も美しい。この油滴天目は豊臣秀次所持なのか。織田有楽斎ゆかりの品も多くて、つい『真田丸』を思い出す。絵画は、大徳寺・高桐院の李唐筆『山水図』に再会。至近距離で見ると、小さく描かれた人物図(左・滝の図に2人、右・樹木の図に1人)にあらためて気づく。ほか等伯あり元信あり山楽あり。雪村の『瀟湘八景図帖』は3画面だけ見ることができた。藍色の繊細な淡彩が美しい。思ったより小品だった。
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色づく秋

2016-11-19 09:08:55 | なごみ写真帖
展覧会シーズン真っ盛りというのに、先週と先々週は1日ずつ出勤。
この週末は久しぶりに土日ともフリーなので、今から出かけるところ。今日は雨で残念。

(写真は先週、家の近所)


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中高年のひそかな愉しみ/パフェログ(越龍子)

2016-11-16 21:33:41 | 読んだもの(書籍)
○越龍子編集『パフェログ:目で味わう、舌で愛でる至福のパフェ・アーカイヴ』(ORANGE PAGE MOOK) オレンジページ 2016.9

 若いころは、特にパフェに関心はなく、むしろ安いアイスクリームを毎日食べるほうが嬉しかった。ところが中高年になったら、芸術品みたいに美しくて美味しいパフェが、たまにむしょうに食べたくなって、喫茶店を探し歩くことがある。チェーン店のカフェにもパフェに近いメニューはあるけど、なんとなく物足りない。パフェは、やっぱり時間をかけて手作りしてくれるところに味があるのだ。

 本書は(当たり前だが)全てカラー写真で、30軒余のお店のパフェを紹介。全国の、と言いたいが、よく見たら東京に限られているのは、ちょっと残念。「フルーツパーラーのパフェ」「喫茶店のパフェ」「洋菓子店のパフェ」「チェーン店のパフェ」にカテゴリー分けされている。いちばん写真映えがして美しいのは「フルーツパーラーのパフェ」だが、これは一生に数回、食べられたらいいかなあ。バッスルスタイルのドレスを着てみないかと迫られるようなもので、興味はあるが、ちょっと勇気が出ない。銀座千疋屋も渋谷西村フルーツパーラーもお高そうだし。なんとか射程内と思うのは、比較的おとなしい盛り付けのフルーツパーラーゴトー(浅草)くらいだ。

 私のパフェのイメージにいちばんフィットするのは「喫茶店のパフェ」である。バニラアイスクリームの黄味がかった白と、絞り出された生クリームの純白の対比が懐かしさをそそる。パーラーキムラヤ(新橋)のマロンパフェ、美味しそう。でも新橋って、サラリーマンの町なのに。アンヂェラス(浅草)のフルーツパフェ、イノダコーヒ(東京大丸支店)のチョコレートパフェも覚えておこう。マホガニーのテーブル、革張りのソファみたいなクラッシックな喫茶店で、こういうパフェを食べるのが大人の愉しみなのである。

 おまけで、プリンアラモードの紹介ページもあり。このお子様ランチにも通じる、おもちゃ箱的な小宇宙の華やかさは、大人には似合わないだろう。こちらは子供時代だけの特権的な楽しみだと思う。
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大和国から眺めた大乱/応仁の乱(呉座勇一)

2016-11-15 23:31:31 | 読んだもの(書籍)
○呉座勇一『応仁の乱:戦国時代を生んだ大乱』(中公新書) 中央公論新社 2016.10

 応仁の乱は、小学校の教科書にも載る「日本史上、最も有名な戦乱の一つ」でありながら、その実態はあまり知られていない。全くその通りで、私も細川勝元と山名宗全の名前が思い出せるかあやしいくらい。ええと、室町幕府の将軍家の跡継ぎ争いが絡んでいたよな、と思ったが、それが直接の原因とは言い難いらしい。とにかく長く続いた戦いで(約10年間)、その結果、京都の町が恐ろしく疲弊したことだけは、高橋昌明著『京都〈千年の都〉の歴史』で読んで、印象に残っている。

 著者は、応仁の乱(1467-1477)の始まりから終結までを論ずるにあたり、二人の興福寺僧の日記を参考とする。経覚(きょうがく、1395-1473)の『経覚私要鈔』と尋尊(じんそん、1430-1508)の『大乗院寺社雑事記』である。したがって、本書は15世紀前半の大和国から始まる。応仁の乱なのに?と驚いていたら、興福寺の大乗院衆徒と一乗院衆徒の対立に端を発し、大和永享の乱が起きる。一度は平和が戻ったかに見えたが、隣国河内の守護である畠山氏が家督争いから分裂すると、諸大名が合従連衡し、戦乱が広がっていく。文正2年(1467)正月、ついに京都で戦乱が勃発。

 なお、足利義政の弟・義視と実子・義尚(母は日野富子)の次期将軍をめぐる争いは、余談程度にしか触れられていない。義政は東軍の側にあって、和睦のための努力もしていたが、義視との関係が次第に悪化。伊勢にあった義視は、上洛して西軍の陣に入ってしまう。西軍は幕府を模した政治機構を整え、二人の将軍が併存する事態となってしまう。

 文明3年(1471)には赤痢・疱瘡が流行。旱魃と戦乱で食料も不足し、次第に厭戦気分が蔓延し、山名宗全が正常な精神状態でないという噂が流れる。結局、細川勝元、山名宗全の両大将が表舞台を退く(家督を譲る)ことによって、うやむやのうちに大乱は終結した。

 正直、始まりから終わりまで、何も感動するとことがない。カッコいいと思える登場人物もまあいない(河内の畠山義就はちょっといい)。これではドラマにもなりにくいだろうなあと思う。1994年の大河ドラマ『花の乱』は、ずっと歴代最低視聴率だっというエピソードに苦笑。やっぱり素人にとっては、一度でもドラマを見たり小説を読んだりすると、登場人物の輪郭がはっきりするのだが、細川勝元って(あるいは山名宗全って)どんなヤツ?というのが、なかなかイメージできなくて、苦労した。本書を読み終わっても、正直、まだ応仁の乱ってよく分かっていない。

 むしろ面白いのは、当時の生活や戦いの実態である。この時代、防御施設をつくる技術が発達して、材木を井桁に組んだ物見櫓「井楼(せいろう)」が作られるようになったとか、陣の周囲に堀を掘って要塞化した「御構(おんかまえ)」が出現したとか、具体的な戦場の風景が目に見えるようで面白い。鎌倉時代までの市街戦は一日か二日で終わったが、応仁の乱では、市街戦が事実上の攻城戦になり、長期化した。また、軽装で機動的な足軽が活躍したこと、補給路の争奪が勝敗を制したことなどを読むと、本格的な戦国時代の先駆けだなあという感じがする。

 また、大和国(奈良)は、衆徒・国民の小競り合いはあっても、応仁の乱で戦場になることはなかった。衆徒・国民は、興福寺の法会(&春日大社の祭礼)を無事に開催することを重視し、決して他国の軍勢を引き入れようとしなかったという。大和国における興福寺の存在って、事実上の守護大名と言っていいものだったのか…。あまり意識したことがなかった。

 そして、京都の公家たちが「疎開」してきて、大和でおこなった遊芸の数々、連歌や薪猿楽(薪能)の話も面白かった。風呂から出たあとにお茶や宴会を楽しむ「淋間茶湯」も寺院など行われていたという。なお、京都文化の地方普及を促したものとして、公家の地方下向だけでなく、乱以前から在京していた武士(守護や守護代)が乱を契機に国元に下った影響も大きい、と著者は述べている。

 次に興福寺に行ったときは、中世の風景を思い描いて歩いてこよう。調べたら、一乗院跡は奈良地方裁判所であり、経覚と尋尊が門主をつとめた大乗院は奈良ホテルの南側に庭園だけ残っているそうだ。
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