見もの・読みもの日記

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進歩を疑う/おじさんはなぜ時代小説が好きか(関川夏央)

2006-06-18 19:13:36 | 読んだもの(書籍)
○関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(ことばのために) 岩波書店 2006.2

 山本周五郎、吉川英治、司馬遼太郎、藤沢周平、山田風太郎、長谷川伸、村上元三など、時代小説の代表的な作家と作品を取り上げて論じたもの。

 最も典型的な「時代小説」は、文化文政~天保年間に舞台を設定する。この時代こそ現代日本人のセンスのふるさとであるからだ。「時代小説」とは、過去に舞台を借りた現代小説である。現代人だって、義理と人情に縛られて生きている。忍ぶ恋や恩返しの美しさを知っている。しかし、現代文学(純文学)は「人間は不純である」とか「不純であって何が悪い」という現実認識の上に成り立っているので、ピュアな心情を真正面から扱うと、恥ずかしくて読めなくなってしまう。それゆえ、作者は過去に舞台を借りるのである。

 これは、現代文学(純文学)の大きな弱点をついた指摘ではないかと思った。もっとも、最近の純愛ブームや韓流ブームを見ていると、「ピュアな気持ちを、そのまま表に出すのは恥ずかしい」という近代人の自己規制は、かなりゆるんで来た感じがする。そこまで思い切れないおじさんたちは、「時代小説」という舞台を借りて初めて、リアリティをもったピュアな物語に慰藉を感じることができる。だから、時代小説の盛行と社会的ストレスの増加には相関関係があるという。これも面白い指摘だと思う

 著者は、多くの時代小説の「祖」に、森鴎外の歴史小説を置く。鴎外の歴史小説、特に史伝小説は、同時代には全く不人気だった。なぜなら、大正年間の時代精神は「進歩」と「社会改造」だったからである。それは、自分の都合のいいように過去を解釈し、それを他者に押し付けようとするセンスである。鴎外の歴史小説は、文学の主流としての純文学ではなく、大衆小説、時代小説の中に受け継がれた。その読者たちは、レトロやアナクロニズムで時代小説を愛したのではなく、「進歩」や「改造」を疑う気持ち、言い換えれば、過去から未来への連続性を信じる気持ちを、どこかに持っていたのだろう。

 ここまでは、非常に納得しながら読んだ。しかし、日本のような高民度の先進国で、時代小説が愛されてきたのは驚くべきことだ、という指摘は、どうなのだろう。著者は、日本はアジアの中でも特殊なのだ、という趣旨のことを何度か述べている。だけど、韓国や中国・台湾の、文芸事情はよく知らないが、最近の映画やTVドラマを見ている限りでは、日本人の時代小説好きと、十分共通する面があるのではないかしら。

 補足になるが、著者は、時代小説家たちの業績を多面的にすくい上げている。吉田満に『戦艦大和ノ最期』を書くように促したのが吉川英治であったこと、股旅物で人気を博した長谷川伸は、後年、『日本捕虜志』を自費出版し、電車で会った折口信夫(初対面だった)によく書いてくれたと感謝された話なども、興味深い。
コメント (1)
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