○木下直之『銅像時代:もうひとつの日本彫刻史』 岩波書店 2014.3
いつも新鮮な視点で美術(とのその周辺)の歴史を掘り起こしてくれる木下先生の最新の論考。「あとがき」で振り返っていらっしゃるように、著者の「銅像行脚は、今から十五年前に東京大学総合博物館で『博士の肖像-人はなぜ肖像を求めるのか』という展覧会を企画した時に始まった」というのだから、長年のテーマである(教授たちの銅像や肖像画をシラミ潰しに探して歩き、医学部の教授に「そこで何をしているんだ」と怒鳴られたという回想がおかしいw)。
本書は、2005~2009年の間に、著者が書籍や雑誌に発表した原稿をまとめたもの。大幅に加筆されているとはいえ、全体構想のもとに執筆されたものではないので、1つの章を読み終えて次の章に進むとき、ちょっと流れの悪さを感じる。特に「屋根の上のつくりもの」と「さすらう金鯱」は、銅像の話ではないので、本書に収めることにやや無理を感じた。正統な「日本彫刻史」から外れた「つくりもの」という点では、大きく括れるけど…。
金鯱に関しては、明治政府が「古器旧物保存」の31種類のカテゴリーのどこにも居場所がない、というのが興味深かった。実際には、文部省博覧会やウィーン万国博覧会に引っ張り出されて人気を獲得するのだが、万国博覧会の出品カテゴリーは「巨大物品」だったというのが笑える。まあ展示する側にとっては、普通の展示ケースには入らないことが分かって、実務的かもしれない。
それから、社寺の「什物」「什宝」の意味について、「社寺の道具であるがゆえに、それは私有財産ではない。社寺の神官や僧侶のものでもなければ氏子や檀家のものでもなく、それゆえに、勝手な処分が許されず、結果として廃棄や散逸や売買から守られてきた」というのが感銘深かったので書き抜いておく。「什物とは、当代ばかりでなく、後世のひとびとの共有物でもあると暗黙のうちに了解されていたのである」とともに。
本題の銅像については、台座や記念碑(もしくは紀念標)も併せて考察の対象とされている。前近代の神像や仏像、武家や富裕商人の肖像(多くは木像)、さらに活人形との対比も試みられている。木像は室内に保管されるものだから、その管理・祭祀を行う「家」が必要になる。一方、銅像は、公園など、公衆の目に触れるところに設置すれば、それで顕彰の目的は達せられるから安上がり、という趣旨の建白が明治政府に対し行われていて、なるほどと思ってしまった。
しかし、公共の場であればこそ、何でも設置が認められるものではない。「逆賊」西郷隆盛の銅像は、当初、陸軍大将の軍服姿の騎馬像が構想されたが、結局「兎狩りに出かける姿(私服)」となった。旧彦根藩士らは、井伊直弼の銅像の建立を、上野公園、芝公園、靖国神社、日比谷公園等に願い出るが受け入れられず、結局、横浜の「私有地」に建立し、銅像を地所とともに横浜に寄贈し、現在の掃部山公園となった。執念だなあ。
横浜に「清正公(せいしょうこう)ストリート」という通りがあることは初めて知った。清正公信仰って、ほかの戦国武将に対する尊崇とか敬慕とは、ちょっと質が違うようだ。商業の発達・流通経済の進展にともなって伝播したというのは、中国の武人・関羽の財神化に似ている感じがする。横浜の清正公堂、および本牧臨海公園の八聖殿、訪ねてみたい。
そして、銅像は意外と「動き回る」物件である。一例は、昭和5年(1930)、永田町の国会議事堂表門付近に建設された山形有朋の騎馬像。作者は、のちに平和祈念像を制作する北村西望であるが、戦後、軍人の肖像は嫌われ、転々としたあげく、1992年に故郷の萩市中央公園に移築された。広大な更地を背景に、妙に背筋のまっすぐな、姿勢のよい馬上の老人の姿が印象的である。ふと、山形有朋の銅像が再び東京に召喚されることなんてないよね、と思うが、未来は分からない。
いつも新鮮な視点で美術(とのその周辺)の歴史を掘り起こしてくれる木下先生の最新の論考。「あとがき」で振り返っていらっしゃるように、著者の「銅像行脚は、今から十五年前に東京大学総合博物館で『博士の肖像-人はなぜ肖像を求めるのか』という展覧会を企画した時に始まった」というのだから、長年のテーマである(教授たちの銅像や肖像画をシラミ潰しに探して歩き、医学部の教授に「そこで何をしているんだ」と怒鳴られたという回想がおかしいw)。
本書は、2005~2009年の間に、著者が書籍や雑誌に発表した原稿をまとめたもの。大幅に加筆されているとはいえ、全体構想のもとに執筆されたものではないので、1つの章を読み終えて次の章に進むとき、ちょっと流れの悪さを感じる。特に「屋根の上のつくりもの」と「さすらう金鯱」は、銅像の話ではないので、本書に収めることにやや無理を感じた。正統な「日本彫刻史」から外れた「つくりもの」という点では、大きく括れるけど…。
金鯱に関しては、明治政府が「古器旧物保存」の31種類のカテゴリーのどこにも居場所がない、というのが興味深かった。実際には、文部省博覧会やウィーン万国博覧会に引っ張り出されて人気を獲得するのだが、万国博覧会の出品カテゴリーは「巨大物品」だったというのが笑える。まあ展示する側にとっては、普通の展示ケースには入らないことが分かって、実務的かもしれない。
それから、社寺の「什物」「什宝」の意味について、「社寺の道具であるがゆえに、それは私有財産ではない。社寺の神官や僧侶のものでもなければ氏子や檀家のものでもなく、それゆえに、勝手な処分が許されず、結果として廃棄や散逸や売買から守られてきた」というのが感銘深かったので書き抜いておく。「什物とは、当代ばかりでなく、後世のひとびとの共有物でもあると暗黙のうちに了解されていたのである」とともに。
本題の銅像については、台座や記念碑(もしくは紀念標)も併せて考察の対象とされている。前近代の神像や仏像、武家や富裕商人の肖像(多くは木像)、さらに活人形との対比も試みられている。木像は室内に保管されるものだから、その管理・祭祀を行う「家」が必要になる。一方、銅像は、公園など、公衆の目に触れるところに設置すれば、それで顕彰の目的は達せられるから安上がり、という趣旨の建白が明治政府に対し行われていて、なるほどと思ってしまった。
しかし、公共の場であればこそ、何でも設置が認められるものではない。「逆賊」西郷隆盛の銅像は、当初、陸軍大将の軍服姿の騎馬像が構想されたが、結局「兎狩りに出かける姿(私服)」となった。旧彦根藩士らは、井伊直弼の銅像の建立を、上野公園、芝公園、靖国神社、日比谷公園等に願い出るが受け入れられず、結局、横浜の「私有地」に建立し、銅像を地所とともに横浜に寄贈し、現在の掃部山公園となった。執念だなあ。
横浜に「清正公(せいしょうこう)ストリート」という通りがあることは初めて知った。清正公信仰って、ほかの戦国武将に対する尊崇とか敬慕とは、ちょっと質が違うようだ。商業の発達・流通経済の進展にともなって伝播したというのは、中国の武人・関羽の財神化に似ている感じがする。横浜の清正公堂、および本牧臨海公園の八聖殿、訪ねてみたい。
そして、銅像は意外と「動き回る」物件である。一例は、昭和5年(1930)、永田町の国会議事堂表門付近に建設された山形有朋の騎馬像。作者は、のちに平和祈念像を制作する北村西望であるが、戦後、軍人の肖像は嫌われ、転々としたあげく、1992年に故郷の萩市中央公園に移築された。広大な更地を背景に、妙に背筋のまっすぐな、姿勢のよい馬上の老人の姿が印象的である。ふと、山形有朋の銅像が再び東京に召喚されることなんてないよね、と思うが、未来は分からない。