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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

権利と責任の主体/消費者と日本経済の歴史(満薗勇)

2025-03-26 22:28:59 | 読んだもの(書籍)

〇満薗勇『消費者と日本経済の歴史:高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8

 本書は戦後日本の社会と経済の変化を消費者の姿から読み解いていく。「消費者」という言葉が学問の議論を超えて使われ始めるのは1920年代、さらに一般化するのは1960年代以降だという。

 1946年に創立された経済同友会は少壮の進歩的な経済人から成る団体で(占領政策で大企業経営者が追放された影響)、修正資本主義の構想を持ち、消費者に強い関心を寄せた。大塚萬丈は「そもそも社会構成員は一人残らず消費者である。従って社会における最も普遍的・包括的の利益は消費者の利益である」と述べ、資本家中心の資本主義と労働者中心の社会主義の双方を批判し、消費者の利益を実現する主体=専門経営者の正統性を主張した。この発想は生産向上運動における消費者主権への着眼につながっていく。

 生産性向上運動は、労働者から見れば、労働強化や配置転換、賃金抑制を強いられる側面があるが、「究極において雇用を増大する」とうたわれ、官民の協力が求められた。同時にその成果は消費者・労働者・経営者が等しく享受するもので、経営者は、株主に奉仕するだけでなく、株主・消費者・従業員の「三点の頂点に立つ」自覚が必要とされた。古い考え方だろうけれど、私はこうした経営思想を好ましく思う。

 生産性向上運動が重視した「消費者の利益の追求」は「消費者は王様である」という言葉を生み、消費者団体である日本消費者協会が生まれた。しかし日本の消費者運動はアマチュアの女性たちによるボランタリーな活動が主流で、アメリカのようにプロフェッショナルな消費者団体は育たず、個人の生活自衛をベースにした「かしこい消費者」モデルには「消費者の権利」という発想が希薄だった。この「権利なき主体化」に、商品テストで有名な花森安治が批判的な視線を向けているのが興味深い。

 次に企業の側から、ダイエー・中内功の「バリュー主義」(商品のバリューは消費者の二ーズで決まる)と松下幸之助の「水道哲学」(水道水は生産量が豊富なのでタダ同然=大量生産すれば低価格が可能になり貧困をなくせる)を紹介する。現在の地点から見ると、どちらも危うさしか感じない。松下は「適正利潤の確保」を重視して消費者主権を閑却した結果、公取委の勧告を受け批判を浴びたし、中内による消費者利益の追求は労働者の利益を掘り崩してしまうという指摘に同意する。

 1970年代半ば、消費水準の向上と中流意識の定着に加え、食品公害など、科学技術文明がもたらす根源的な不安を背景に「消費者」から「生活者」への転換が起こる。ただし、この言葉には、消費行動に伴う社会的責任を厳しく問う「生活者」と、画一的な消費を否定し生活様式の個性化に向かう「生活者」という2つの立場があった。これを洗練・先鋭化していくのが、80年代の堤清二である。画一的な大量消費は、環境問題に対する消費者の加害責任の観点からも、個性化に向かう人間的な欲求という消費者の利益の観点からも否定された。

 平成バブルの崩壊を経て、1980年代半ばから日本経済は長期停滞の時代を迎える。産業構造が変わり、サービス経済の比重が高まった結果、持続的な経済成長が困難になった。グローバルな低賃金競争の圧力もあり、雇用の不安定化が進み、格差社会の生きづらさが広がった。景気回復のために必要とされた政策が一連の規制緩和である。政府の諮問委員会の報告書には、規制緩和は消費者の利益になるのに、消費者が不安を理由に自己責任を回避するから規制緩和が進まない、という論調が見られる。消費者団体は、価格の引き下げだけが消費者の利益ではないと反論しているが、実際、万人が納得する「消費者の利益」を定義するのは難しいと思う。

 企業では、1980年代末から「顧客満足の追求」という課題に関心が集まった。ここで紹介されるのは、イトーヨーカドー創業者の伊藤雅俊、セブンイレブンの鈴木敏文など。しかしこの「お客様」志向というのものが、私はあまり好きではない。個人的には、売り手と買い手の間に、もう少し溝というか距離があるほうが、かえって居心地がいい気がする。また、顧客満足の追求は、必ずしも企業成長に結びつくものではなく、徐々に個別企業の持続的成長を難しくしていく、という指摘も覚えておきたい。

 終章には、いま流行りの「推し活」・応援消費がはらむ危険も論じられている。応援消費は、消費論というより、贈与論(互酬性が成立しないと片方のプレッシャーになり、危うい)の文脈で考える必要があるという指摘にも考えさせられた。

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出会い、包み込まれるまで/アメリカ・イン・ジャパン(吉見俊哉)

2025-03-22 22:44:44 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン:ハーバード講義録』(岩波新書) 岩波書店 2025.1

 本書は、著者がハーバード大学の客員教授として2018年春学期に行った講義「日本の中のアメリカ」を活字化したものである。ちなみに2018年は最初のトランプ政権の2年目だった。全般的には、日本という小国が、海の向こうの大国に出会い、包み込まれてしまう歴史だが、そこに抗った人々の存在が印象的である。

 講義は、日本がアメリカに出会う「ぺリー来航」の前史から始まる。18世紀半ば、対仏戦争に勝利したアメリカでは「西漸運動」と呼ばれる西への不可逆的拡張が始まる。西谷修は「アメリカ」とは「ヨーロッパ国際秩序」の外部の「無主の地」にもたらされた、〈自由〉の制度空間の名前であると論じているという。そして大陸西岸に行き着いた西漸運動は、さらにその西へ、太平洋へと乗り出していく。

 第1講、ぺリーの遠征。ペリーの使命は、日本を開国させ、アメリカ西海岸を起点とする太平洋航路を開く道筋をつけることだった。ぺリーは、巨大な蒸気船など、進んだ文明を見せつける効果をよく理解しており、日本人は狙いどおりに反応した。ぺリーは遠征前に、可能な限り日本関連の情報を集めて交渉準備をしており、さらに二度の日本訪問を通じて、以下のように結論している。日本という国は「それぞれの組織が相互監視を徹底させて失敗を許さない仕組みを発達させており、内部からの変化はきわめて起こりにくい」。あまりにも的確で、21世紀の日本にも通じそうなので、唸ってしまった。

 第2講、捕鯨船と漂流者について。実はぺリーの遠征に先立って、アメリカの捕鯨産業は日本近海に達しており、日本の漁師たちと遭遇することもあった。土佐の漁師万次郎は漂流中をアメリカの捕鯨船に助けられ、公平で愛情深い船長に才覚を認められ、アメリカ市民としての教育を受ける。このジョン万次郎を論じた鶴見俊輔の著作も読みたい。のちに日本に帰国した万次郎は幕府の小笠原調査に参加するが、小笠原諸島が、船乗りをはじめとする移動民のコンタクトゾーン(無縁無主の地)だったという指摘も興味深い。

 第3講、宣教師と教育の近代。近代日本の私立大学や女子教育は、アメリカン・ボード(海外宣教組織)の影響を大きく受けている。「自国の文明が西洋文明を超えると信じていた中国や中東では、ボードの宣教は必ずしも成功しなかった」という著者の評価には苦笑してしまった。日本は外部の影響力に弱いんだよな。なかなか衝撃だったのは、未読の内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』が、アメリカの拝金主義や人種差別を告発し、真実の「アメリカ」がいかに非キリスト教的であるかを批判した書であるということ。初めて知った。

 第4講、モダンガール。有島武郎の『或る女』を取り上げる。主人公の葉子は、女というものが日本とは違って見られているらしいアメリカを目指して、客船で太平洋を渡るが、結局、上陸せずに帰国してしまう。彼女の不安定な自意識は「アメリカ」でも「日本」でもない海の上に漂い続けるのである。

 第5講、空爆。日米戦争において、アメリカは徹底的に日本を調査研究し、最も効果的な空爆を実行した。一方、日本は「アメリカとは何か」をまるで理解しないまま、無謀な戦争を仕掛けてしまった。この非対称性は、現代でも解消されていないように思う。

 第6講、マッカーサーと天皇。占領下の日本人がマッカーサーに熱烈なファンレターを送ったことはよく知られているが、「日本を米国の属国にして下され」「なるべくならば植民地にしてください」等の文面があったと聞くと苦々しい。日本人は、自分たちがこんなふうなので、かつて日本が占領した地域の住民は日本に感謝しているはずだと考えるのではないか。著者はこうした態度を「要するに権力ある者に一体化していこうとする願望」と要約する。マッカーサーは、最初から東洋人を「勝者にへつらい敗者をさげすむ」人種と見做していたというが、敗戦後の日本人はこの偏見を実証してしまったようで悔しい。

 第7講の原子力、第8講の米軍基地は、著者の他の著作でも詳述されているので省略。第9講は、アメリカの表象としての星条旗、自由の女神、ディズニーランド。自由の女神は、日本以外の国では「自由」「共和国」「独立」「革命」といった観念と結びついているが、日本では、アメリカ的な豊かさやギャンブルやセックスの自由奔放など、通俗的な欲望のキッチュとして受け入れられてきた。1960年代以前のアメリカは、大衆の欲望を投影する先だったが、70年代以降、「アメリカ」は日常的に消費可能な環境として日本人を包み込んでいく。その成功例が東京ディズニーランド。日本人の日常意識が、既に深く「アメリカ」に取り込まれているという指摘は、現下のトランプ政権を支持する日本人を見ても当たっていそうである。今こそ、内村鑑三に学ぶべきかもしれない。

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悪の帝国像を忘れて/帝国で読み解く近現代史(岡本隆司、君塚直隆)

2025-02-04 22:28:09 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司、君塚直隆『帝国で読み解く近現代史』(中公新書ラクレ) 中央公論新社 2014.12

 「帝国」をキーワードに近現代史(18世紀~現代)を捉え直してみようという対談。ヨーロッパ国際政治史の君塚先生も中国史の岡本先生も大好きなので、わくわくしながら読んだ。はじめに岡本先生が言う、『スター・ウォーズ』シリーズの最初に制作されたエピソード4に描かれた帝国は、まさに多くの人々が抱いている「帝国や皇帝は悪である」というイメージをトレースしたものであると。うん、分かりやすい。しかし「帝国=悪」というイメージは本当に正しいだろうか。スティーヴン・ハウは帝国を「広大で、複合的で、複数のエスニック集団、もしくは複数の民族を内包する政治単位(後略)」と定義しているが、帝国の歴史的な実態は多様で多義的であると両氏は考える。

 検討は18世紀の東アジアから始まる。中国(清朝)は、康煕、雍正、乾隆の盛世。当時のヨーロッパは貧しかった。もともと小麦の収穫倍率は米よりずっと低く、中世で1対2~3、18世紀でも1対4~6程度だった。米は奈良時代に1対20(1粒蒔けば20粒収穫できる)だったという。この研究、おもしろい。ヨーロッパは必然的に機械化を図らなければ豊かになれなかった。18世紀半ばに産業革命が起き、同時に科学・農業・金融などさまざまな「革命」が起きて、ヨーロッパは飛躍的な発展を遂げる。一方、清朝はウルトラ・チープ・ガバメントで、官と民が著しく乖離している上に、民もバラバラだったことが、発展の阻害要因となった、というのが岡本先生の見立てである。

 19世紀末、日清戦争が日本の勝利に終わると、列強による中国分割競争が本格化する。東アジアでは日本が急速に台頭し、日露戦争にも勝利を収める。しかし勢いに乗って進めた朝鮮の植民地化政策は「稚拙だったとしかいいようがありません」と両氏とも厳しい。中国では梁啓超が国民国家の概念を持ち込み、ようやく中国が本気で変化を志すようになる。しかしそれは途方もない困難を伴う事業だった。君塚先生の「中国は『複数の民族を内包している』という意味での帝国としてしか存在しえないといえるかもしれませんね」という言葉が味わい深い。

 第一次世界大戦から第二次世界大戦へ。君塚先生は日本の「ポイント・オブ・ノー・リターン」として、上海への攻撃(1937年)に始まる日中戦争を挙げる。満洲国の建国に留まっていれば、ソ連南下の防波堤として、イギリスも蒋介石も容認していたのではないか。日本の外交は、ある時点までは非常にクレバーだったが、戦勝国として世界の大国の仲間入りを果たしたあたりから、傲慢、怠慢になって、学ばなくなったという。歴史は繰り返していないか、不安を感じる指摘だった。

 第二次大戦終結後、表向きは世界から帝国が完全に消滅した。しかしアメリカとソ連をどう考えるか。特にアメリカは、自由と民主主義を信奉する国でありながら、その「自由と民主主義」という理想を世界に拡大するため、邪魔になる勢力を潰すことには全くためらいがない。岡本先生は、これは西部開拓時代の「マニフェスト・デスティニー」以来のアメリカのDNAのようなものかもしれないと述べている。昨今、この野蛮なDNAが悪い意味で頭をもたげているようで気になる。そして、やっぱり「ひとつの中国」を目指す中華人民共和国の試行錯誤も気になる。なぜあんなに「ひとつ」を強調するかというと、気を許せばすぐにバラバラになる集団だから、というのは、滑稽だけど分かる。皇帝を戴く帝国も、帝国主義も否定されて久しいが、「国民国家と帝国的なもののせめぎ合いは今も続いている」と君塚先生はいう。

 私は高校の世界史の教科書で、最終章近くに登場した「民族自決」「国民国家」というキーワードをまぶしく眺めた記憶がある。しかし、これが万能の価値観でないことは、悲しいけれど、よく分かってしまった。多様なエスニック集団や民族が平和に共存する方法を考える上で、近代以前の「帝国」にも虚心に学ぶべきものがあると思う。

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公設浴場の普及/風呂と愛国(川端美季)

2025-01-29 22:59:10 | 読んだもの(書籍)

〇川端美季『風呂と愛国:「清潔な国民」はいかに生まれたか』(NHK出版新書) NHK出版 2024.10

 「まえがき」に言う。現代に暮らす日本人の多くは、毎日風呂に入るのが当たり前だと思っている。しかしいつから私たちは毎日風呂に入るのが「当たり前」だと思うようになったのだろうか――。同じような問いかけは、何度かSNSで見たことがあって、昭和の生活を知る世代から、むかしは毎日は風呂に入らなかった、という体験報告が語られたりした。私は1960年代、東京生まれで、家に風呂はあったが、毎日は入らなかった気がする。いつの頃からか、我が家は毎日風呂を沸かすようになったが、必ず毎日入っていたのは、入浴好きの父親だけだったように思う。いまの私は、毎朝シャワーは浴びるが、めったに湯船には浸からないので、本書の「日本人」像から外れるなあ、と思いながら読んだ。

 はじめに前近代の日本の湯屋について紹介する。光明皇后の逸話に始まり、仏教寺院に湯屋や設けられた浴室の説明があるが、それとは別に、営利目的の恒常的な浴場は、遅くとも鎌倉時代には存在していたという。江戸時代初期には、蒸し風呂と湯に浸かる温浴が混合したものが現れた。そのひとつが「戸棚風呂」で、やがて「柘榴口」という様式が主流になった(挿絵つきで分かりやすい)。また「湯屋」と「風呂屋」は、湯に浸かるところか蒸気浴かという機能の違いとともに、「風呂屋」は性行為を目的とする店であったという説もある。

 明治期になると、男女混浴の禁止(江戸時代にも禁止令は出された)、「湯屋の二階」(男性客の社交場だった)の禁止などによって、湯屋は現代の公衆浴場に近づいていく。また西洋医学や衛生行政の立場から、身体に適した入浴方法が論じられるようになった。さらに明治30年代には「入浴好きな日本人」という言説が登場する。背景には、欧米の日本に対する偏見(黄禍論)があり、それに対抗するために「我が那には古来淋浴の美風がある」「欧米では上流階級も頻繁に入浴しない」ということが唱えられたのではないかという。おもしろいけど、対抗できるのがそこかと思うと物悲しい。なお、この時期は、日本の浴場の水質が汚いことが指摘され始めた時期でもある。

 大正期には、工業化によって東京や大阪の労働者人口が急増する中、欧米の公衆浴場運動を知った社会事業家たちが、下級労働者やその家族に入浴回数が非常に少ない者がいることを問題として取り上げ、生活保障としての浴場の設置が行政レベルで展開されていく。公設浴場は「労働者」や「貧民」の慰安と労働力回復のために必要な施設とされた。本書には、大阪について、「中流以下の市民」を対象にした市営住宅が造営されたこと、その市営住宅地域内に公設浴場が設けられたことが紹介されている。なんだか大正期のほうが、いまの地方自治体より、行政のなすべきことをよく分かっている気がする。そして、「入浴好きの日本人」の原点は、近世以前の湯屋の伝統などではなく、むしろ大正期の公衆浴場普及の成功にあるのではないかと思った。

 このほか、女性は家庭において入浴習慣を実践・継承する役割を期待されたこと、明治期の「国民道徳」の論者が、あたかも清潔な身体の重視と歩調を合わせるように、日本人の精神の「潔白」を重視したこと、さらに国定修身教科書では清潔・健康が「世のため国のため」の徳目となっていることを紹介する。ただし、この末尾の3章は、結論ありきの感があって、好みが分かれると思う。私は大正期の社会事業や細民救済施策の実態をもっと知りたくなった。ほかの本を探して読んでみよう。

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下り坂の先に/東京裏返し 都心・再開発編(吉見俊哉)

2025-01-26 23:05:38 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『東京裏返し 都心・再開発編』(集英社新書) 集英社 2024.12

 2020年刊行の『東京裏返し』では、都心北部を歩いて歴史の古層を探索し、「東京についてのあまりにも自明化されたリアリティ」を「裏返し」していく実践を示した著者が、本作では都心南部(南西部)をフィールドとする。もとは雑誌「すばる」2023年11月号~2024年5月号に掲載した内容に加筆修正したもので、集英社新書編集部の担当者、カメラマン、ライターと著者の四人で朝早くから歩き回った旨が「あとがき」に記されている。

 著者は街歩きの鉄則として「狭く、曲がった、下り坂」の愉しみを挙げる。上り坂は坂の頂上に意識が向かうが、下り坂では、細かい路地や長屋風の集落など、変化に富んだ風景に出会うことができる。こうした下り坂を探すのに重要なのが川筋だ。東京は、東に向かって張り出した武蔵野台地の東崖に形成された都市で、西から東に流れる大小の河川が、武蔵野台地を削って、台地と低地を繰り返す、複雑な地形を築いている。

 私は東京育ちだが、生まれが武蔵野台地の外側(東側)の下町低地だったので、東京の地形に対する感覚は鈍かった。かなり大人になって、中沢新一の『アースダイバー』(2005年)を読んだ頃から、ようやく東京都心の複雑な地形に気づいた。本書には、渋谷川、古川、目黒川、北沢川、烏丸川、三田用水、蟹川、鮫川など、川の名前が頻出する。しかし、いま私が住んでいる東京東部の河川の存在感に比べると、都心西部の川は、暗渠になったり断ち切られたり、現存していても、街づくりにその魅力を生かせていない場合が多いようだ。

 本書に紹介されたスポットで特に気になったところを挙げておく。渋谷川の章では、著者の現在の所属大学である國學院大のキャンパスに立ち寄り(ただし本務はたまプラーザキャンパスとのこと)、國學院大學博物館を「絶対にイチオシの施設」と紹介していて嬉しかった。しかしすぐ隣の渋谷氷川神社には行ったことがないので今度行ってみよう。三田用水の章では、荏原畠山美術館と、すぐそばの豪壮な白亜の邸宅の記述がある。「誰もがよく知るIT長者」の邸宅だそうで、私も年末に久しぶりに荏原畠山美術館を訪ねて、成金趣味まるだしの豪邸に呆れたばかりだったので、とても共感して読んだ。ちなみに白金の地名が、中世に「白金長者」と呼ばれる富裕な豪族の館があったから、というのは初めて知った。

 また白金台の常光寺は、長く福沢諭吉の墓があった寺で、今でも慶応義塾による「史蹟 福澤諭吉先生永眠の地」の記念碑があるが、1977年に福沢家の宗旨の問題で、麻布の善福寺に移転したのだそうだ。改葬の際、ミイラになった福沢の遺体が発見されたが、遺族の意向で荼毘に付されてしまったとのこと。『医者のみた福澤諭吉:先生、ミイラとなって昭和に出現』という中公新書があるようだが、今でも入手できるかな。

 著者が、ときどき都心北部と都心南部を対比させているのも面白かった。たとえば上野寛永寺と芝増上寺。両寺はどちらも明治維新後、新政府に抑圧され続けた。焦土となった寛永寺は、博物館や動物園など近代化のシンボル空間に変容させられたが、増上寺は本堂を教部省(宗教関係を所管する官庁)に献納させられ、仏教寺院であることを否定され、代わりに天照大神などを祀る神殿が置かれたという。とんでもないな、明治政府。なお、増上寺の将軍家霊廟は徳川家が所有することを許されたが、1945年3月10日と5月25日の空襲で焼失してしまう。さらに戦後、御霊屋部分の土地を購入した西武鉄道の堤康次郎は、徳川歴代将軍の墓を掘り起こしてまとめて一箇所に改装してしまった。なんだろうなあ、この酷い仕打ちの掛け合わせ。

 堤康次郎については、むかし猪瀬直樹の『ミカドの肖像』を興味深く読んだが、本書には石川達三の小説『傷だらけの山河』が紹介されている。そして本書は、堤康次郎的な開発主義は戦後復興期だけの問題ではなく、東京では今日も「街の殺戮」が繰り返されていることを告発している。

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憧れの拓本と中国絵画/唐ごのみ(三井記念美術館)

2025-01-05 18:49:29 | 読んだもの(書籍)

三井記念美術館 『唐(から)ごのみ:国宝雪松図と中国の書画』(2024年11月23日〜2025年1月19日)

 年末恒例の円山応挙筆『雪松図屏風』公開に加え、三井家歴代にわたり珍重された中国の書画および、それらに倣って日本で描かれた作品を紹介する。という展覧会の趣旨を、だいたい理解して行ったつもりだったが、冒頭が顔真卿筆『多宝塔碑』の拓本で、おお?となってしまった。そのあとも、王羲之や褚遂良の書跡の拓本が続く。新町三井家9代当主の三井高堅(みつい たかかた、1867-1945)は中国の古拓本のコレクターで、その収蔵品は、聴氷閣本(ていひょうかくぼん)と呼ばれて世界的に名高い。ネット情報によれば、戦前の旧三井文庫で保管したもののうち大半はカリフォルニア大学バークレー校図書館に「聴氷閣文庫」として収蔵されているが、1985年三井新町家で秘蔵してきた聴氷閣所蔵本の中核をなす碑帖が三井文庫に寄蔵され、1991年初公開されたそうだ(出典:20世紀日本人名事典)。

 面白かったのは、高堅の所蔵に帰する前の旧蔵者の情報がいろいろ添えられていたこと。蘭亭序マニアだった清・呉雲(1811-1883)旧蔵の『呉平斎本蘭亭序』(宋拓)や、石鼓文の大コレクターだった明・安国(1481-1534)の『石鼓本』(宋拓)など。やたら作品内に印を押すことで嫌われたという明・項元汴(1525-1590)旧蔵の蘭亭序(宋拓)は『高江村本』と呼ばれている。高江村は、清・高士奇(1645-1704)のことという。高士奇!すぐに中国ドラマ『天下長河』で陸思宇さんが演じていた高士奇の顔が浮かんだ。鋭い審美眼の持ち主だったという。

 唐代に王羲之の書跡から集字して建てた『興福寺断碑』(明代に出土)の拓本は、高堅の父である三井松坂家7代当主・三井高敏の旧蔵品だが、高敏は、1876年(明治9年丙子)の伊勢暴動(地租改正をめぐる暴動)でコレクションの大半を焼失しており、その後に収集したものには「丙子以後精力所聚」の印が押されている。コレクターの意地を感じさせる印で泣ける。

 続いて書画だが、伝・徽宗筆『麝香猫図』をはじめ、伝・呂紀筆とか伝・牧谿筆とか、伝承作品が多数。このへんはあまり堅いことを言わずに、中国文化への強い憧れを読み取っておくのがいいのだろう。雲州名物(松平不昧旧蔵)5件、柳営御物(徳川幕府旧蔵)2件の絵画も、戸惑いながら興味深く眺めた。雲州名物の梁楷筆『六祖破経図』は、なるほど中国絵画だと思うが、伝・銭選筆『白梅図』は、ちょっと琳派を思わせる雰囲気なんだけどなあ…。でも『蓮雀図』や『柘榴図』、柳営御物の『川苣図』(ラッキョウの束?)など、嫌いじゃない。江戸の人々が憧れた中国絵画は、全般的にかわいいと思う。

 本展の見どころである応挙の『雪松図屏風』は、毎年見ているうちに、だんだん好きになってきた。特に左隻の、こんもりした松葉の茂みに、丸々と雪が降り積もった様子が、豊年の予兆を感じさせてめでたい。新春にふさわしい作品だと思う。

 今回、展示の絵画には、鑑定や入手の経緯(購入値段など)を記した付属資料がたくさん出ていて面白かった。『北三井家蔵帳』は、同家所蔵の書画リストだが、『雪松図屏風』は載っていない。なぜなら屏風や襖は「絵画」ではなく「調度品」だったから、という解説には、納得しつつも考えさせられた。

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七人の大統領で知る/韓国現代史(木村幹)

2025-01-02 22:30:33 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『韓国現代史:大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書) 中央公論新社 2008.8

 戦後、日本の植民地支配からの解放と米国の占領を経て、1948年に大韓民国が建国される。以後、60年間(本書の刊行まで)の韓国現代史を、個性豊かな大統領たちの姿を通じて描く。はじめに終戦の8月15日をどう迎えたかを、金大中、金泳三、尹譜善、李承晩、朴正熙の5人について検証し、以後も「政治的な節目」ごとに、4~5人(大統領就任前だったり、引退後だったり)の動向について語っていく。このほか、70年代以降に登場する李明博、廬武鉉を加え、最終的には7人が本書に取り上げられている。

 李承晩(1875-1965)は名前しか知らなかったので、1948年の大統領就任時にすでに73歳だったことに単純に驚いた。朝鮮王朝時代に開化派のホープとして期待され、日本統治時代はアメリカに亡命、日本の敗戦後、米軍政府と各種政治勢力にかつがれて初代大統領に就任するが、1960年の四月革命により辞任、アメリカに亡命し、ハワイで客死する。尹潽善(1897-1990)は名前も知らなかったくらいだが、かなり後の時代まで政治家として活動している。

 朴正熙(1917-1979)の軍事クーデタによる政権掌握、そして維新クーデタ(上からのクーデタ)による維新体制の発動については、近年、書籍や映画でだいぶ理解が進んだところである。興味深かったのは、韓国経済の立て直しのため、朴正熙が日本との関係改善に積極的に取り組んだこと、それが国民(特に学生)や野党強硬派の強い反発を生んだことだ。日韓国交正常化に賛成した野党政治家の金大中が、揶揄を込めて「サクラ」と呼ばれたことも初めて知った。政権の末期、朴正熙は「追い詰められることにより、弾圧し、弾圧することにより、さらに追い詰められる」状態で、深い孤独の中にいたという。1974年の暗殺未遂事件では、銃弾を受けた妻が亡くなっている。暗殺直前の1979年10月に李明博が見たという朴正熙の姿は、老いた独裁者の孤独を穿っていて、小説の一場面のようだった。

 その後、本書は、崔圭夏、全斗煥、盧泰愚の3人は取り上げてない。これは、彼らが光州事件等の裁判を受けることになった関係上、資料的な制約が大きかったからと説明されている。そのため、次に登場するのは金泳三(1928-2015)と金大中(1924-2009)である。両者とも、長年にわたって権威主義政権の下で民主化運動を牽引してきたリーダーだが、大統領就任のいきさつを見ると、きれいごとだけでは済まない「政党政治」の怖さを実感した。

 以上で旧世代が退場し、廬武鉉(1946-2009)、李明博(1941-)は、新世代の大統領と言ってよい。しかし期待を背負って登場した廬武鉉政権は、すぐに国民の支持を失い、レイムダックに陥ってしまう。韓国が未だ貧しく、権威主義体制下にあった時代には、政治家は「改革案」を示し、実行することができた。しかし豊かで民主的な社会では、政治的指導者の権能は限られており、「既にあるこの社会」よりも優れた代案を示すことは難しい。にもかかわらず、「改革」と「経済成長」を続けることができると信じていた国民は、廬武鉉政権に失望したのだ、と本書は説く。そして「経済成長」への期待は李明博政権に受け継がれる。この「豊かで民主的な社会」における政治と政治家の役割という問題は、韓国という限定を超えて、さまざまな地域に適用できると思った。

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モンゴルの英雄物語/元朝秘史(白石典之)

2024-12-14 22:04:26 | 読んだもの(書籍)

〇白石典之『元朝秘史:チンギス・カンの一級資料』(中公新書) 中央公論新社 2024.5

 『元朝秘史』という書物の存在は知っていたが、具体的な内容は知らなかった。なので「はじめに」と序章の紹介を読みながら、へえ!へえ!と唸ってしまった。この書のおおまかな骨子ができたのは13世紀中頃の可能性が高く、『元朝秘史』は14世紀末の漢訳本に用いられた題名である。本文は漢字音写されたモンゴル語(万葉仮名を思わせる)で、傍らに漢訳が付いている(序章の冒頭に原文の掲示がある)。この「漢字音写モンゴル語」は、モンゴル語独特の発音を表現するため、様々な工夫をしており、言語学的にも興味深い。また、失われた『秘史』のモンゴル語原本が、ウイグル式モンゴル文字とパスパ文字のどちらで書かれていたかには議論があるという。

 『秘史』の冒頭は、ボルテ・チノ(蒼き狼)と妻のコアイ・マラル(白き牝鹿)というモンゴル部族の始祖伝説から始まる。始祖から十代ほどの子孫には特に事蹟が記されていない。日本の記紀神話でいう「欠史八代」みたいなものという解説に納得する。やがてイェスゲイとホエルンの間にテムジンが生まれる。青年時代に父を亡くしたテムジンは苦難を舐めるが、近隣の氏族や部族との戦いに勝利し、次第に頭角をあらわす。ついにモンゴル部族の統率者である「カン」位に推戴され、チンギス・カンの尊号を得る。さらに敵対部族を掃討し、モンゴル高原の統一を果たす。

 考古学的には、地域単位で異なっていた死者の埋葬方法が、13世紀初頭までに北頭位仰臥伸展葬に統一され、精神文化においても「新生モンゴル」のアイデンティティが形づくられた証左となっている。こういうの、とても面白い。チンギスは古参と新参を分け隔てることなく、功績に応じて報いた。一方で、輪番でチンギスの護衛に当たる輪番組(親衛隊)は特別に重視された。

 即位後のチンギスは金朝を攻め、金中都(北京)を阿鼻地獄に叩き込む(金中都包囲戦を生き抜き、チンギスのもとにやってきたのが遼の王族出身の耶律楚材)。また金への侵攻中に西夏にも兵を送った記述がある。さらにチンギスはホラズム・シャー国(カスピ海東岸、イスラム国家)に遠征する。金や西夏との戦いといえば、私は『射鵰英雄伝』を思い出すが、さらに西域になると、地名や国名の知識がなくて戸惑う。本書には『射鵰』でおなじみ、ジェベ(哲別)の名前が何度も出て来て嬉しかった。『秘史』には触れられていないが、ジェベはカスピ海北岸からアラル海方面を転戦し、帰途の途中で生涯を閉じたと伝わるそうだ。

 西域から戻ったチンギスは再び西夏を攻め、その滅亡を見届けて陣中で崩御する(落馬が原因→頼朝か!)。チンギスの埋葬の地がいまだに不明というのは、ロマンを感じさせていいなあ。チンギスの跡は三男オゴデイが継いだ。長男ジョチは、その出生前に母のボルテがメルキト族に連れ去られ、しばらく族人の妻とされていたことから、血統に疑いが持たれていた。むかし読んだ井上靖の『蒼き狼』は、この件で暗い印象が残っているが、本書が紹介する『秘史』の書きぶりだと、長男ジョチと次男チャガタイは、ずけずけと言い争い、最後は温和なオゴデイが跡継ぎを引き受けている。

 オゴデイは金国を滅ぼし、西方(東欧)に派遣した遠征軍も次々に勝利を収めた。内政では税制や駅伝制を整備し、帝国の基礎を固めた。オゴデイは過度な飲酒癖で健康を害して崩御したと言われているが『秘史』は彼の最期に触れずに終わっている。

 著者がどこかに書いていたとおり『秘史』は、いわゆる正史ではないので、伝奇的で叙事詩的である。主人公のチンギスは、欠点もあるが、一本筋の通った英雄として描かれる。チンギス・カンといえば、世界征服の野望に取りつかれた者のような見方がある。小説『射鵰英雄伝』もその一例だ。しかし著者はいう、彼は本当に世界を征服する野望を描いていたのか。そもそもモンゴル高原の統一さえ、彼の意図するところでなかったのではないか。チンギスが目指していたのは、モンゴル高原を、物資や人が集まるハブ(結節点)にすることではなかったか。これは、現代的な評価に過ぎる気もするけれど、内陸アジア史は、今とてもホットなので、チンギス・カンの史的評価も、少しずつ書き換えられていくのではないかと思う。

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苗字はなかった/女の氏名誕生(尾脇秀和)

2024-12-07 20:44:56 | 読んだもの(書籍)

〇尾脇秀和『女の氏名誕生:人名へのこだわりはいかにして生まれたか』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2024.9

 同じ著者の『氏名の誕生』がとても面白くて、知らなかったこと、あるいはぼんやり気になっていたことを気持ちよく理解できたので、姉妹編の本書も必ず読もうと思っていた。そして読んだらやっぱり面白かった。

 本書の分析の中心となるのは江戸時代の女性名だが、「女性名の変遷」を古代から外観した箇所もある(p154)。8世紀の戸籍に見える女性名は1~4音節に接尾語「売(め)」が付くのが標準形で、氏姓は父系血統を表示した。9世紀初頭、嵯峨天皇が内親王に与えた漢字1字+「子」という女性名(ただし臣籍降下させた娘は〇姫)が、9世紀中には定型化し、11世紀までに貴族女性名は何子一色になった。貴族女性は裳着(成人)や女官として出仕する際、位階を得る時に何子という名を設定したが、日常的には使用されなかったらしい。

 11世紀末から13世紀の庶民は、生まれ順+子(太子/おおいこ、姉子/あねのこ)や貴族女性の童名のような形(女・子・御前などが付く)が見られた。16世紀には平仮名2文字(つる、かめ、はつ)が多くなり、頭に「お」が付くものも増える。17世紀には接尾語「女」が廃れ、18世紀には女性名の符号は接頭語「お」が定型となる。

 というわけで冒頭に戻ると、著者は各地に残る宗門人別帳をひもとき、江戸時代後期の女性名は、二音節が標準的であり、日常の口語では「お」付きで使用されていたこと、「お」を接頭語と見るか名前の一部と見るかは意見が分かれること、などを解説する(歌舞伎や文楽になじんでいると、だいたい感覚的に首肯できる)。同時に、日本の女性名と一括りにすると、町や村ごとの文化や慣習が抜け落ちてしまうという指摘も、もっともだと思った。

 江戸時代、人は「家」に属し「村」に属して生きていた。社会の矢面に立つのは戸主だけだから、それ以外は、識字の必要を感じずに暮らしていた人々も数多く存在した。明治初年の調査によれば「自己ノ姓名ヲ自記シ得ルモノ」(自署率)は男女差が大きい(地域差も大きい)。江戸時代の識字率は非常に高かったという説もあるけど、まあ日本全体ではこんなものだろうなと思う。つまり多くの女性は、自分の名前を音声でしか認識していなかったということだ。

 また江戸時代の女性名は基本的に単独で用いられ、男性名のように苗字を冠することはなかった。これは非常に驚いたところ。夫婦別姓問題に関して「日本は伝統的に夫婦同姓」というのは明確な間違いだが「伝統的に夫婦別姓」というのも、この「姓」を苗字の意味で解すると、あやしいのである。宗門人別帳を見ると、男性戸主は苗字と名前で記載するが、女性は「妻」「母」「後家」(名前なし)だったり、男性家族は苗字(戸主の苗字の繰り返し)+名前で記すのに、女性家族は名前だけという例が見られる。

 「女性名に苗字は付けない」慣習は、明治初期の戸籍にも持ち込まれる。しかし政府も困惑を感じていたようで、明治6年、内務卿・伊藤博文が「一般婦女姓氏ヲ冒シ候儀ニ付伺」を提出した。「氏ヲ冒シ」とは、女性が他家(婚家)の姓を名乗っても問題ないか?という問いである。審議の結果、明治国家は「家」を社会の基礎単位とするのだから、妻は夫の身分に従い、夫の姓を名乗るべきという指令を出そうとしたが、これは廃案になってしまったというからびっくり。復古主義者が、古代の「姓氏」のありかたを苗字にあてはめて反対したのである。明治9年には「婦女、人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユベキ事」という指令が発せられる(!)が、現場の混乱は止まず、問題の決着は、近代日本の「家」制度を明文化した明治民法の制定(明治29年)を待たなければならなかった。私は、学校制度とか暦とか、明治初年の混乱の話を聞くのが大好きなのだが、女性名にもこんな忘れられた歴史があったとは知らなかった。

 その後の女性名については、戸籍名「何子」の流行、姓名判断の流行、名前への愛着、そして平成から令和の特徴である、読めない名前の増加などが語られる。本書としては脇道の話題になると思うが、江戸時代に遡る実印(女性も用いた)の歴史も興味深く、現代人がくずし字(筆写体)を忘れた結果、活字体だけを正しいと考える、倒錯的な字形への執着などの指摘にも、苦笑いしながら考えさせられた。

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昭和天皇の肉声/象徴天皇の実像(原武史)

2024-11-24 22:24:52 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『象徴天皇の実像:「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書) 岩波書店 2024.10

 『昭和天皇拝謁記』は、戦後、宮内府長官および宮内庁長官を務めた田島道治(1885-1968)の日記・書簡等の記録をまとめたもので、2021年から23年にかけて岩波書店から刊行された。この中には「まるでテープレコーダーに録音していたのではないかと思われるほど詳細に」田島と天皇のやりとりが記録されているという。貴人に仕える者としての、記録への執念というか責任感が生んだものかと思う。

 本書は、近代の天皇制について多くの論考のある著者が、この『拝謁記』から読み取った昭和天皇の人間像を「天皇観」「政治・軍事観」「戦前・戦中観」「国土観」「外国観」「人物観(皇太后節子、他の皇族や天皇、政治家・学者など)」「神道・宗教観」「空間認識」のテーマで分析したものである。

 正直なところ、そんなに意外な記述はなく、だいたい、こういう人なんだろうなと想像していたとおりの印象だった。昭和天皇は、日本国憲法の制定によって「象徴」となったが、その意味を突き詰めて考えた形跡はないという。政治・軍事中心であったものを今後は文化、学問芸術を中心にしようとか、過剰な警備を止めて国民に接近しようとは考えている。いやなことを進んでやり、道義上の模範となるよう修養を心がけているというのも嘘ではないだろう。しかし、やっぱり統治権の総覧者、大元帥としての意識が抜けていない。忠君愛国は悪くないとか、教育勅語はあったほうがよいという思考は、令和になっても残っているくらいだから、この人が内心でそう思っていたのは、まあしかたないだろう。

 民主主義に関しても、あまり賛意を表明していない。平和、民主、自由のような美名よりも、大事なのは「祖国防衛」である。民主主義は、戦争の時にすぐ動けないのが「弊の一つ」であると述べている。昭和天皇は再軍備論者でもあった。その背景には、共産主義への強い危機感・警戒感がある。共産主義は軍備の弱い日本に易々と侵入することができ、大学や会社などの組織の中にひたひたと勢力を広げていると考えていたようである。ロシア革命の例もあるので、君主(象徴だけど)の立場として共産主義を恐怖することは分かる。しかし再軍備が叶わないなら米軍に守ってもらわなければならいので、沖縄でも内灘(石川県)でも浅間山でも米軍に提供することにためらいがない発言をしているのは、ちょっと驚いた。

 皇太子の進学先をめぐっては、容共的な姿勢の南原繁総長を戴く東大は絶対に嫌だったようだ。皇太子は学習院大学に進学するが、天皇制に批判的な清水幾太郎を教授にしておく安倍能成学長に不満を漏らしている。このへんは天皇家の家庭内事情だから、何を言ってもいいと思うけれど。著者が、昭和天皇の共産党認識を、後期水戸学がキリスト教に対して抱いた危機感に通じると分析しているのは面白かった。

 また、朝鮮半島に対しては、戦後も露骨な蔑視を伴う発言を残している。しかしこれも当時の多数の日本人(知識人を含めて)の標準的な感覚だったとも言える。晩年の昭和天皇は全斗煥大統領と会うわけだが、もし反共主義について言葉を交わしていたら、十分意気投合できたのではないかと思う。

 天皇家の人々について。昭和天皇が皇太后節子を強く恐れていたことは、著者の『皇后考』にも書かれていたが、皇太后が亡くなった後、父・大正天皇と母・貞明皇太后の関係を語っている箇所は、宮内庁は外に出してもよかったのかしら。宮中では大正天皇の時代から一夫一婦制が確立されたことになっていたが、実態はそうではなかったという。その点では、一夫一婦制の実態を確立した(と思われる)昭和天皇はえらい。しかし宮中の儀礼(血の穢れを忌む)との関係で皇后の生理を完全に把握して話題にしていることに、著者は驚きと違和感を述べている。確かに夫婦としては非人間的なようだが、生物学者でもあるしね。

 皇太子明仁(東宮ちゃん)については、天皇となることを不安視する発言を繰り返していたが、天皇明仁が「象徴」の務めを熟考し、沖縄訪問、中国訪問など、先代の「負の遺産」の解消に努力されたことは周知のとおりである。それで、今上はどうなんだろう。年代的には一番近い今上の考えていることが、今ひとつ私には分からない。

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