〇満薗勇『消費者と日本経済の歴史:高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8
本書は戦後日本の社会と経済の変化を消費者の姿から読み解いていく。「消費者」という言葉が学問の議論を超えて使われ始めるのは1920年代、さらに一般化するのは1960年代以降だという。
1946年に創立された経済同友会は少壮の進歩的な経済人から成る団体で(占領政策で大企業経営者が追放された影響)、修正資本主義の構想を持ち、消費者に強い関心を寄せた。大塚萬丈は「そもそも社会構成員は一人残らず消費者である。従って社会における最も普遍的・包括的の利益は消費者の利益である」と述べ、資本家中心の資本主義と労働者中心の社会主義の双方を批判し、消費者の利益を実現する主体=専門経営者の正統性を主張した。この発想は生産向上運動における消費者主権への着眼につながっていく。
生産性向上運動は、労働者から見れば、労働強化や配置転換、賃金抑制を強いられる側面があるが、「究極において雇用を増大する」とうたわれ、官民の協力が求められた。同時にその成果は消費者・労働者・経営者が等しく享受するもので、経営者は、株主に奉仕するだけでなく、株主・消費者・従業員の「三点の頂点に立つ」自覚が必要とされた。古い考え方だろうけれど、私はこうした経営思想を好ましく思う。
生産性向上運動が重視した「消費者の利益の追求」は「消費者は王様である」という言葉を生み、消費者団体である日本消費者協会が生まれた。しかし日本の消費者運動はアマチュアの女性たちによるボランタリーな活動が主流で、アメリカのようにプロフェッショナルな消費者団体は育たず、個人の生活自衛をベースにした「かしこい消費者」モデルには「消費者の権利」という発想が希薄だった。この「権利なき主体化」に、商品テストで有名な花森安治が批判的な視線を向けているのが興味深い。
次に企業の側から、ダイエー・中内功の「バリュー主義」(商品のバリューは消費者の二ーズで決まる)と松下幸之助の「水道哲学」(水道水は生産量が豊富なのでタダ同然=大量生産すれば低価格が可能になり貧困をなくせる)を紹介する。現在の地点から見ると、どちらも危うさしか感じない。松下は「適正利潤の確保」を重視して消費者主権を閑却した結果、公取委の勧告を受け批判を浴びたし、中内による消費者利益の追求は労働者の利益を掘り崩してしまうという指摘に同意する。
1970年代半ば、消費水準の向上と中流意識の定着に加え、食品公害など、科学技術文明がもたらす根源的な不安を背景に「消費者」から「生活者」への転換が起こる。ただし、この言葉には、消費行動に伴う社会的責任を厳しく問う「生活者」と、画一的な消費を否定し生活様式の個性化に向かう「生活者」という2つの立場があった。これを洗練・先鋭化していくのが、80年代の堤清二である。画一的な大量消費は、環境問題に対する消費者の加害責任の観点からも、個性化に向かう人間的な欲求という消費者の利益の観点からも否定された。
平成バブルの崩壊を経て、1980年代半ばから日本経済は長期停滞の時代を迎える。産業構造が変わり、サービス経済の比重が高まった結果、持続的な経済成長が困難になった。グローバルな低賃金競争の圧力もあり、雇用の不安定化が進み、格差社会の生きづらさが広がった。景気回復のために必要とされた政策が一連の規制緩和である。政府の諮問委員会の報告書には、規制緩和は消費者の利益になるのに、消費者が不安を理由に自己責任を回避するから規制緩和が進まない、という論調が見られる。消費者団体は、価格の引き下げだけが消費者の利益ではないと反論しているが、実際、万人が納得する「消費者の利益」を定義するのは難しいと思う。
企業では、1980年代末から「顧客満足の追求」という課題に関心が集まった。ここで紹介されるのは、イトーヨーカドー創業者の伊藤雅俊、セブンイレブンの鈴木敏文など。しかしこの「お客様」志向というのものが、私はあまり好きではない。個人的には、売り手と買い手の間に、もう少し溝というか距離があるほうが、かえって居心地がいい気がする。また、顧客満足の追求は、必ずしも企業成長に結びつくものではなく、徐々に個別企業の持続的成長を難しくしていく、という指摘も覚えておきたい。
終章には、いま流行りの「推し活」・応援消費がはらむ危険も論じられている。応援消費は、消費論というより、贈与論(互酬性が成立しないと片方のプレッシャーになり、危うい)の文脈で考える必要があるという指摘にも考えさせられた。