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見もの・読みもの日記

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『史記』と任侠的心性/古代中国の裏社会(柿沼陽平)

2025-08-16 15:24:26 | 読んだもの(書籍)

〇柿沼陽平『古代中国の裏社会:伝説の任侠と路地裏の物語』(平凡社新書) 平凡社 2025.3

 『史記』遊侠列伝にも取り上げられた大侠・郭解(前漢時代、紀元前170年頃~)の生涯をたどりながら、古代中国の裏社会を多面的に描き出す。著者は、前著『古代中国の24時間』では、古代中国の「ふつうの人々」が、どこに住み、何時に起き、何を食べていたかを、よくできた再現ドラマのように詳述してくれたが、今度は「裏社会の人々」である。「プロローグ」は例によって小説仕立て。闇夜の晩、ひそかに貧民街を訪ねた県令は、ある男に殺しを依頼し、男は迷いもなく引き受ける――。

 謎の男の正体は郭解。『史記』によれば、許負という女性の人相見の外孫だという。字は翁伯(おやじ、おやぶん)。若い頃から殺人・刃傷沙汰のほか、強盗、ニセガネづくり、墓泥棒にかかわり、敵や不快な相手は容赦しなかったが、時には仲間を救い、郭解のもとに逃げ込んできた人々を庇護し、「任侠」と呼ばれることを好んだ。彼のもとには多くの「少年」が集ったというが、中国古代の史書に見える「少年」は、おおむねチンピラの意味だという(へえ!李白の詩もそんなニュアンスなのかな?)。

 郭解が壮年を迎える頃、漢の帝室では武帝が即位する。武帝時代を彩る個性的なキャラクターのひとり、車騎将軍・衛青と郭解には「うっすら関係がある」と知って驚く。武帝は生前に陵墓(茂陵)の建設を始め、茂陵県に裕福な豪族らを強制的に移住させることにした。移住対象者に選ばれた郭解は、これを逃れるため、かねて懇意にしていた衛青に口添えを頼んだと考えられる。しかし武帝の気持ちは動かず、郭解は茂陵(陝西省興平県)へ旅立つ。

 司馬遷は、青年時代の一時期、父の司馬談とともに茂陵に住んだことがあり、ここで郭解と出会っていた可能性がある。ただし、司馬遷の生年推定には10年ほどの揺れがある上、郭解も本当に茂陵に移住したかは不確定(函谷関までは確実)だという。『史記』は「太史公曰く」として「私は郭解を見たことがある」と語り、平凡な外見と、天下に響きわたる名声とのギャップに驚き、郭解に称賛を送っている。実際に郭解に会った「太史公」は、父の司馬談の可能性もあるが、最終的にこの郭解評を書き入れたのは司馬遷である。

 郭解が茂陵へ移動中、故郷に残してきた兄の息子が県の役人を殺害する事件が起きた。被害者の一族(楊氏)は県の役所に直訴に赴いたが、何者かに斬り殺されてしまう。一連の事件は中央朝廷にも届き、武帝は郭解を首謀者とみなして捕縛を命じる。ここで新たな事件が起きる。朝廷から派遣された使者(おそらく郭解赦免のための)に随行していた儒者が、郭解の食客と口論になり、殺害されてしまう。郭解本人は全く与り知らない事件だったが、武帝側近の公孫弘は儒者の殺害を容認せず、武帝もこれに追随して、郭解を「大逆無道」の名目で死刑に処した。本書の著者が「武帝と公孫弘が郭解のもつ任侠的なつながりを恐れていた」と読み解いているのが興味深い。そして『史記』に記述された郭解評には、司馬遷の武帝に対する批判を汲み取ることもできる。

 「エピローグ」は著者による「任侠」論で、たいへん興味深く読んだ。まず『史記』が刺客列伝と遊侠列伝を区別しているという指摘は重要である。刺客には任侠的な者も含まれるが、任侠には暗殺や報仇に還元されない側面がある。増渕龍夫氏の説によれば、「侠」は「私剣武勇」「侵す者があれば、剣をもってこれに報ずる」「私交をむすんでは常に節操を立てる」を意味し、「任とは、そのような私交をむすぶに信なることであり、一旦交わりをむすべば、責任をもって他を引き受け、自己の利害生死を無視しても交友知人の急を救い、身をもって亡命罪人をかくまうことであった」という。著者はこれに加えて「諸々の任侠的行為には広く利他や友愛の精神がふくまれている」と述べ、これによって任侠と刺客を切り分けることができるという。中国ドラマ好きとしては、分かる分かる! この段を読みながら、私がずっと思い浮かべていたのは、2022年のドラマ『飛狐外伝』の苗大侠(苗人鳳)のセリフ「所守者道義、所行者忠義、所惜者名節」である。

 儒家と任侠は、本来、親和的な面もあるが、敵対的な面もある(既存の社会秩序の維持に対して)とか、困っている個人や社会のために立ち上がる任侠的心性は国籍を問わない(清末には、吉田松陰・大久保利通・西郷隆盛らが「任侠」の例とされた:梁啓超の発言らしい)という考察も、うなずけるところが多くて面白かった。

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日本支配への抵抗/琉球処分(塩出浩之)

2025-08-16 11:51:48 | 読んだもの(書籍)

〇塩出浩之『琉球処分:「沖縄問題」の原点』(中公新書) 中央公論新社 2025.6

 「琉球処分」とは、日中の両属国家だった琉球王国を日本が強制併合した過程をいう。これは本書のカバーの袖(折り返し)や帯に記載された説明であるが、著者は「まえがき」で、この簡潔な説明を導くまでの、いろいろな難しさを語って、本論に入っていく。

 はじめに前近代の琉球について。14世紀半ば、沖縄島には山北、中山、山南の3つの王権があり、それぞれが明に朝貢していた。1420年代に中山王が琉球を統一し、明は中山王権を琉球の統一王権として認めた。16世紀末に日本を統一した秀吉、次いで家康も島津氏を通じて琉球に服属を求め、1609年、島津氏は琉球に侵攻する。以後、琉球は、幕府・島津氏の支配を受けるようになるが、日本の一部になったわけではない。東アジアの伝統的な国際秩序において、主従関係は国交のよくあるかたちで、2つの国に服属することも不思議ではなかった。しかし19世紀に西洋から持ち込まれた「主権国家」(1つの政府が国境の内側で完全な主権を独占する)の思想は、この伝統と相容れなかった。

 19世紀に入ると、西洋諸国の使節が相次いで琉球に来航する。米国ペリー艦隊は日本との条約締結を目指していたが、日本との交渉がうまくいかない場合は、補給や避難のための寄港地として琉球を確保することも考えており、ペリーは琉球の主権が明確でないこともよく承知していた。そして、1854年3月の日米和親条約締結の後、同年7月に「琉米条約」が結ばれる。次いで1855年11月には琉仏条約、1859年7月には琉蘭条約が結ばれている。これは、西洋諸国が琉球を「日本とは別の国家」と考えていた傍証になるが、フランス、オランダ本国政府は、結局、琉球を主権国家と認めず、条約は批准されないままに終わった。

 1868年、明治新政府が成立すると、まず諸大名に「藩」が公認され、次いで版籍奉還が行われた。その直後、日清修好条約が締結されたが、両国は「両国に属したる邦土」を明確にしなかった。

 1872年、井上馨は琉球の日清両属を(天皇の)臣下の道に反する罪であると非難し、「内地一軌の制度」に改めるべきという意見書を提出する。以後、この線に沿って、琉球の「併合」が進められていく。現状の両属を維持を望む琉球王府は動揺し、さまざまな抵抗と嘆願を試みる。内務省出張所で開催された討論会では、清への朝貢は琉球にとっての「大義」であり、日本が国家間の対等な交際を条理とするのと異なり、琉球は「父子の道、君臣の義」を条理とするとする、と主張した。また、琉球は人種・言語・風俗などが日本に近いという日本政府の主張に対して、人種・風俗は日清のどちらに近いとも言えないと反論した。さらに清国の駐日公使・何如璋に密使を送ったり、西洋諸国の公使にも請願書を送るなどしたが、琉球王府の望む支援は得られなかった。こうした「琉球救国運動」は、日本政府に琉球併合を急がせる一因となったという。

 本格的な琉球併合計画に着手したのは大久保利通で、これを完成させたのは伊藤博文である(よくも悪くも、やっぱり君たちか、という感想)。また琉球に派遣されて直接指揮に当たり、琉球処分の具体的な構想を練ったのは内務官僚の松田道之だった。1879年、太政官は琉球に対する一連の通達を発する。これにより琉球(藩)が廃止され、沖縄県が設置された。抵抗する「土人」(琉球人)に対しては、警察や軍隊を用いた処分が認められた。旧琉球王府の人々の嘆願にもかかわらず、旧琉球国王・尚泰と世子の尚典は上京させられ、天皇に「東京への居住を命じ」られた。

 松田は、沖縄県庁への出仕を拒む士族たちに対して、それでは新県の職は「内地人」が独占し、「土人」は一人も職に就けず、「アメリカの土人や北海道のアイノ(アイヌ)」と同じになってしまう、と告諭しているという。併合された「土人(琉球人)」は「内地人」と別ものと見なす、植民地主義的な考えがにじみ出ていると言ってよいだろう。実際、1900年代になっても大和人と沖縄人には明確な上下関係があり、沖縄人は、差別を恐れて出自を隠そうとする場合があったことが、本書の終章にも語られている。

 今日的な視点で見れば、東アジアの諸国が次々に主権国家に変貌していく中で、琉球が日清両属のあり方を維持できたとはとても思えない。国土の範囲を明確に定め、強力な主権国家を確立すべく奮闘した明治政府の指導者たちの思いも分かる。また琉球の存続を望んだのは主に士族たちだが、最下層の農民たちにとって何が最善だったのかはよく分からない(単純に日本の支配下に入って幸せになったとは言えない)。過去の評価は難しいが、少なくとも、いまの沖縄の人々が、日本の一部であることを肯定する状況であってほしいと切に思っている。

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美術の近代を目指して/東京美術学校物語(新関公子)

2025-07-07 23:26:16 | 読んだもの(書籍)

〇新関公子『東京美術学校物語:国粋と国際のはざまに揺れて』(岩波新書) 岩波書店 2025.3

 東京美術学校(東京芸術大学の前身)は、1887(明治20)年10月に創立が決定し、明治22(1889)年2月に最初の学生を受け入れた。芸大では明治20年を起点に創立何周年を数えることが習慣になっているそうだ。

 私はもともと日本の近代化をめぐるゴタゴタ話が好きなのだが、本書「まえがき」で、著者が2002年から2008年まで芸大美術館教授として数々の展覧会に携わってきたこと、その際『東京大学百年史』のお世話になったこと、この書籍が、実際は吉田千鶴子という女性がほぼひとりで編集著述した労作であることなどを知って、冒頭からブーストがかかった状態で読み進んだ。

 1876(明治9)年、唐突に工部美術学校が設置される。工部卿の伊藤博文は主権国家らしい近代都市の景観創出のため、画工、彫工、建築装飾工などの職人養成を目指した。工部大学校に6人の女子学生がいたことは初めて知った。当時は欧化主義の全盛期だったが、すぐに国粋的風潮が台頭する。その先鋒となったのが、東大教師のフェノロサ、文部官僚の岡倉覚三(天心)、さらにフェノロサは自分の美術理論を実現する「手」として狩野芳崖を見出す。芳崖の『悲母観音』にフェノロサの哲学を読み解く説、加えて、芳崖が手本にしたと思われてきた、作者不詳の『魚籃観音』(フリーア美術館)も芳崖作ではないかという推定は、たいへん面白かった。

 欧化一辺倒の工部美術学校は1883(明治16)年に廃校となり、西洋画科のない国粋的美術学校・東京美術学校が開校する。背後で泣いたのは、高橋由一、原田直次郎、山本芳翠らの洋画家たち。芳翠はパリで黒田清輝を見出し、日本洋画の未来を託すことになる。

 東京美術学校の初期の卒業生には横山大観、下村観山、菱田春草らがいる。彼らの証言するフェノロサの教授法はなかなかユニークで、姿勢を正しくして(懸腕直筆)縦の線、横の線、斜めの線を何百本何千本も描かせたという。創造的思索と職人的な手の熟練はどちらも大切だと分かっていたようだ。しかし1893(明治26)年の米国シカゴ博への出品では、東京美術学校教授陣の作品は評価されず、高村光雲『老猿』と鈴木長吉『十二の鷹』が入賞し、岡倉の芸術観が古いことが明らかになってしまう。日本画も西洋画も究極の目標は西洋の評価を得ることなのだが、なかなかうまくいかない。

 世間の批判をかわし切れなくなった岡倉は、1896(明治29)年、西洋画科の発足に踏み切る。黒田校長の下で、人事をはじめ、八面六臂の活躍をしたのは黒田清輝。黒田には、1900年のパリ万博に出品した『智・感・情』という作品があるが、これは絵画に道徳的イデアを要求した岡倉の影響が色濃い。黒田は二度とこのような寓意画を描かなかったが、『智・感・情』を誰にも譲らず死ぬまで秘蔵していたのは、何らか特別な思いがあるようにも感じられる。岡倉の失脚(博物館・校長・万博評議員を辞任)は九鬼隆一の妻との不倫スキャンダルと結びつけられることが多いが、著者はむしろ、岡倉家の家事手伝いだった姪の貞に男子を生ませたことが原因ではないかという。貞は自殺未遂を経て、岡倉の弟子・早崎稉吉の妻になった。明治の男女関係はよく分からないなあ…。

 1901(明治34)年、岡倉の失脚と連袂辞職の余波、洋画科の人気と日本画科の低迷など、課題の多い東京美術学校に校長として着任したのは正木直彦。このひとの名前は、芸大美術館の『コレクションの誕生、成長、変容』展などで覚えた。次いで1932(昭和7)年、洋画家・和田英作校長が着任する。このとき、国粋主義者の横山大観は、大日本帝国の美術学校が洋画家を校長とすることに激しく憤り、異議を申し述べている。これだから大観は苦手なのだ。

 しかし大観、戦時下に「彩管報国」を唱え、波を描いてもお月様を描いても「国体の精華」だから「報国」になると主張した(情報局を誘導した)のは知恵者だったかもしれない。1944(昭和19)年には、なんと東京美術学校の教師陣総入替えを実行している。辞職を迫られた人々は「あまりのことに冗談と思ったのかもしれない」という記述に笑ってしまった。新人事の結果、小林古径、安田靫彦、梅原龍三郎、安井曾太郎らは着任しているのを見ると、さすがの目利きだと思う。戦後の芸大の体制は、大観が基礎をつくったとも言える。

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在地に生きた人々の記録/幕末社会(須田努)

2025-06-26 22:49:30 | 読んだもの(書籍)

〇須田努『幕末社会』(岩波新書) 岩波書店 2022.1

 幕末、すなわち西暦でいうと19世紀前半の日本社会について、まず前提となる江戸時代の社会枠組みを確認したのち、「天保期(1830-1844)」「弘化から安政期(1845-1860)」「万延から文久期(1860-1864)」「元治から慶応期(1864-1868)」の順に語っていく。このように時代を小さく刻んだ解説は珍しくて、ちょっと面白かった。

 江戸時代、治者となった武士は平和をつくり出し、百姓の生命と家の存続を保障する役割を担った(仁政)。また武士は武力を独占したが、これを行使するのではなく畏怖させることで民衆を支配した(武威)。この考え方は元禄期頃から浄瑠璃や歌舞伎を通じて民衆に共有され、社会の安定を生んでいたが、幕末には揺らぎ始める。

 享保期(18世紀前半)に新田開発が限界を迎えると、文政期(1818-1830)頃から百姓として生きることを嫌う風潮が広まり、若者が村を離脱し、博徒・無宿となることが増える。特に関東では幕藩領主の権威が相対化され、百姓一揆の流儀も変質・崩壊していく。甲州騒動とか、庄内藩の三方領知替え反対一揆とか、実力行使を伴う不穏な事件も起きる。

 弘化~安政期、欧米列強の接近に続いて、地震の多発、コレラの流行が社会を襲った。幕末を象徴する政治思想、国体・尊王攘夷は、そもそも水戸藩の会沢正志斎が唱えたもので、仁政・武威という政治理念が揺らぐ中で、それを乗り越えるものとして提示された。これを受け継ぎ、先鋭化・実践化したのが長州藩の吉田松陰。国体・尊王攘夷論は剣術ネットワークに乗って、徐々に拡散していく。ペリー来航を契機に、民衆は自分たちの暮らす「国」「日本」を意識し、時には政治的な発言をするようになった。地方の在地社会にも、幕藩領主の支配におとなしく従わず、強烈な自己主張をする百姓たち(三閉伊一揆)や、学問を身に付けて自立する女性(松岡小鶴=柳田国男の母親)が現れる。しかし彼らの影響力は、まだ限定的だった。

 万延~文久期に至ると、尊王攘夷運動は在地社会にも広がり全盛期を迎える。和宮降嫁、生麦事件、馬関戦争など、教科書でおなじみの事件と並んで、伊那谷の「勤王ばあさん」松尾多勢子、関東の真忠組、日野宿名主の佐藤彦五郎など、興味深い例が取り上げられている。在地社会の尊王攘夷運動は、倒幕を明確に目指していたわけでなく、それぞれの地域は抱える矛盾を解決するための方便であったともいえる、という解説は腑に落ちるところがあった。運動の担い手の多くは若者たちで、彼らはそこに自己の居場所(社会的承認の場)を見出していたという。いまの日本社会で、外国人ヘイトやカルト政治集団に若者が求めるものも同じなのではないか。

 元治~慶応期、社会は中立や曖昧さを許さない、勤王か佐幕かという分断(政治的二元論)の時代に突入していく。いやだな。そういう時代は、二度と来てほしくない。本書は、やはり関東・東北を中心に、在地社会に大きな影響を与えた騒動の顛末を紹介する。水戸藩の権力抗争が生んだ天狗党の乱に対して、冷静で批判的な目を向けていた在地社会の記録が残っているという。天狗党は信州・諏訪・越前を通過して、最後は加賀藩に投降する。幕府追討軍の責任者は田沼意尊(意次-意正-意留-意尊;田沼意次のひ孫)で、天狗党を鰊(にしん)蔵に監禁の上、353名を現地で処刑した。その鰊蔵が水戸烈士記念館として残されていることを初めて知った。行ってみたい。

 貿易と天候不順による物価高騰を背景に、北関東では世直し運動(打ちこわし)が頻発した。武州、上州、多摩地域、中山道周辺など。日本の民衆、この頃は生きるためにちゃんと蜂起していたんだな、と知る。上州では隠遁していた小栗忠順が武装集団に襲撃されている。小栗が多額の軍資金を隠し持っているという風聞があったらしい。最後は小栗の配下に撃退されてしまうのだが、これ、大河ドラマで描かれるだろうか。

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暴力と差別の由来/イスラエルについて知っておきたい30のこと(早尾貴紀)

2025-06-13 23:13:03 | 読んだもの(書籍)

〇早尾貴紀『イスラエルについて知っておきたい30のこと』 平凡社 2025.2

 パレスチナ・ガザ地区の状況は、断片的なニュースから推測しても本当に惨いらしい。しかし私はイスラエル・パレスチナ問題について、きちんと思考できるほどの知識がないので、一から勉強するつもりで読んでみた。本書は30の疑問と回答を通じて、十字軍とレコンキスタから今日に至るユダヤ人の歴史が分かるようになっている。

 十字軍は、イスラーム統治下のエルサレムを奪回するための運動だったが、ヨーロッパでは、イスラーム教徒だけでなくユダヤ教徒への攻撃・迫害も強まった。1492年、グラナダが陥落し、レコンキスタが完成する。直後にスペインでは、ユダヤ教徒にキリスト教への改宗を迫る追放令が出された。同年8月に出港したコロンブス船団の乗組員の大半は、改宗と追放を逃れようとしたユダヤ教徒だったという。知らなかった。

 改宗した元ユダヤ教徒は「血は変わらない」「本心ではない」と疑われ、苦難の道を歩んだ。19世紀、国民国家の思想が広まると、ユダヤ人種もユダヤ人の国家を持つべきだという主張が生まれる。これがシオニズムである。実はユダヤ人のシオニズム運動に先駆けて、福音派キリスト教徒による「キリスト教シオニズム」という思想があった。パレスチナをイギリスの保護領にしてユダヤ人を入植させ、西洋文明の防壁としようというもので、明確に植民地主義的な欲望と結びついていた。

 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、勝者のイギリスはパレスチナを委任統治領とし、ユダヤ人の入植を推進する。悪の帝国が滅びて、もっと悪い統治者がやってきたわけだ。ナチスの台頭によってユダヤ人の入植が急増し、アラブ人の抵抗が強まると、イギリスの委任統治は破綻する。第二次大戦後、ホロコーストを生き延びたユダヤ人難民を受け入れたくないヨーロッパ諸国は、パレスチナに彼らを受け入れることを「勧告」する。いや、どのツラ下げて、という感じ。1947年、国連でパレスチナ分割決議(56%の土地をユダヤ人国家、43%の土地をアラブ人国家)が採択されたが、分割案に不満のある双方によって戦闘が始まり、物量で優位に立つシオニスト軍は、アラブ人をガザ方面に追い込み、1948年5月、イスラエルの建国が宣言される。

 イスラエルは建国宣言で「ユダヤ人の国」を明確に宣言している。移民受け入れが認められているのはユダヤ人のみなのだ。しかし「ユダヤ人とは誰か」という定義は曖昧である。なんだか最近の日本人が曖昧な基準で「日本人を大事に」を言いたがる態度と似ている。

 実はイスラエル人口の20%程度は、イスラエル国籍の先住アラブ人だという。東欧や中国・アジアから流入した外国人労働者(永住権や市民権は与えられない)もいる。さらにガザ地区や西岸地区から出稼ぎにくる労働者もいる(いた)そうだ。つまり現実のイスラエル国家は、多民族化、多文化化が進行していたようで、そのへんが保守派の焦りになっているのかもしれない。

 パレスチナ/イスラエルの和平には「一国解決」と「二国解決」の二つの考え方がある。前者は、アラブ・パレスチナ人とイスラエル・ユダヤ人が平等な市民として一国家を形成するもの、後者は、それぞれが別国家として併存するものである。1993年の「オスロ合意」は後者の路線だが、パレスチナにとっては全く不平等で欺瞞的な和平案だった。しかし抵抗するパレスチナ人は「和平の敵」「テロリスト」と見做されるようになってしまう。

 2000年代、イスラエルは対話や交渉を捨てて「一方的政策」をとるようになる。パレスチナには交渉相手がいないというのが理由である。これは難しいな。パレスチナ人は「イスラエルの手先」となったPLOに失望していたが、彼らは欧米世界との交渉ルートは持っていたのかもしれない。現在、パレスチナで選挙に勝利したハマースをイスラエルは認めていない。

 2025年現在「ハマース掃討」の名のもとにイスラエルの蛮行が続いているが、イスラエル国内では「パレスチナ人は集団懲罰されるべき(殺してもいい)」という言説が肯定的に共有されているという。溜息が出るが、その根底には、劣った民族に自決権や市民権を与える必要はないというヨーロッパ中心主義がある。これは宗教対立ではなくて、植民地主義やオリエンタリズムという、近代の醜悪な置き土産なのだ。だから遠い異国に住む我々にも無関係ではない。解決は容易でないが、まずは本書に紹介されている、エドワード・サイード、ハミッド・ダバシ、ジュディス・バトラーなど、哲学者の言葉を注意深く聞こう。

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史書への向き合い方/二十四史(岡本隆司)

2025-05-26 23:36:39 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『二十四史:『史記』に始まる中国の正史』(中公新書) 中央公論新社 2025.4

 「二十四史」とは、中国の史書の系列(シリーズ)の総称である。おおむね歴代王朝を単位(ユニット)にして編纂を重ねた書物群で、合計24部が「正史」と見做されている。ということくらいは知っていたが、あらためて24部の書名の一覧表を見て、半分くらいは、へえ、こんな史書があったのか、と驚いてしまった。本書は、これら「正史」の成立を時代順に追いながら、中国における「史学」の起源と発展を考える。

 はじめに紀伝体を生み出した『史記』。列伝は司馬遷の独創であったけれど、主たる叙述の対象とした「春秋戦国」の時代は、生まれに依らず、一個人の才覚のみで功名を立てることができた時代だった。逆にいえば、個人の事蹟を書くことで社会のありようを書くことができた。特に注目すべきは貨殖列伝と游侠列伝。富豪も侠客も反儒教的な題材だが、民間の力量が積極的に評価されている。ああ、やっぱり『史記』は魅力的な書物だな~と胸が熱くなった。

 しかし司馬遷以後の標準的な知識人たちは、もっと単純明快な書物を求めたという。その結果、生まれたのが『漢書』だった。著者の班固は、本紀を現体制=漢王朝の歴代天子に純化し、列伝は個人の才力よりも、儒教の教義に照らした道徳的な毀誉褒貶を語ることが主になった。

 続く『三国志』は、当初、陳寿の私的な著述だったが、のちに西晋の公認となった。陳寿は蜀びいきといわれるが、「三国」分立を強調したのは、最終的に現王朝=西晋による統一を寿ぐ狙いがあったと著者は述べる。次いで登場する『後漢書』は列伝がユニークだというが詳細は略。ここまでを「前四史」という。

 南北朝・隋を経て、唐王朝が成立すると、唐太宗・李世民は、史書の編纂を命じる。ここから正史の編纂が「官修」「分纂」となる伝統が始まる。筆を執る史臣は政権イデオロギーを体した記事を残すための存在となった、という記述はわびしい。現王朝の正統性を示すため、隋を傾けた煬帝は暗君暴君に描かれた。

 宋代。旧来の門閥勢力は没落し、天子・皇帝は至尊の地位になった。たとえば近侍の史官が天子の言動を記録する「起居注」は、従来、原則として君主に忖度しなかったが、宋代になると「起居注」の記事をまとめて天子の一覧を経るのが慣例になったという。古い時代のほうが皇帝の力が強いように思っていたが、違うんだな。一方で宋代は文運さかんな時代だったので、すぐれた史書もつくられた。司馬光は「正史」のスタイルを踏襲しない編年体の史書『資治通鑑』を生み出す。さらに『通鑑』を効率的に読むために『通鑑紀事本末』とか『資治通鑑綱目』などが作られているのも、おもしろい。

 やがてモンゴル帝国が崛起し、契丹・金を滅ぼすと前代王朝の正史編纂に取り掛かるが、最終的に宋を加えて『遼史』『金史』『宋史』が完成するには80年以上を要した。これは「正統」問題で議論が紛糾したためとも言われるが、著者はこれに賛成しない。三史の出来栄えはあまり評価されないが、史料的な価値は無視できないという。

 次の明朝は成立早々、手回しよく『元史』を編纂した。これは、北方に隣接するモンゴル勢力が大きな脅威で、朱元璋が自らの体制存立に自信を持てなかったからこそ、明朝を「正統」として示すことが喫緊の課題だったのではないか。内藤湖南先生によれば『元史』は「歴代の正史中で最も蕪雑」だという。しかしそこからモンゴル語資料『元朝秘史』への注目が生まれたかもしれないので、歴史の禍福は分からない。

 続く清朝も北京に入るとまもなく『明史』の編纂を計画したが、目前の騒乱平定にてこずって沙汰止みになり、乾隆年間にようやく完成した。当時は考証学の機運が高まっており、公文書に基づく実証的な記述が採用された。半面、文章は味も綾も乏しく、面白さに欠けるという評価は仕方のないところだろう。これは二十四史の最後になる。

 清朝滅亡後、中華民国政府は清史館を設けて『清史』の編纂に取り掛かったが、完成したのは蒋介石の南京国民政府が北伐に成功した年だった。この『清史稿』の運命、および新たな『清史』編纂の試み(戦後、台湾にも大陸にもある)も興味深かった。「革命いまだ成らず」よりも「修史いまだ成らず」の状態なのだな。

 政治(君主)と史書の関係について、すでにさまざまなパターンが試されているのは、さすが歴史の国だと思った。中国史の常識のように言われる「新王朝は前王朝の歴史を編纂する」慣習も、そうではないケースが多々あると分かったのは大変よかった。

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次代を育てる/国立大学教授のお仕事(木村幹)

2025-05-08 22:52:30 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『国立大学教授のお仕事:とある部局長のホンネ』(ちくま新書) 筑摩書房 2025.4

 韓国政治を専門とする木村幹先生の著作は『韓国現代史』『全斗煥』など、何冊か読んでいるが、今度は「大学教授という仕事」について書いたというので、へえ~(物好きな)と驚きながら読んでみた。

 著者は、1993年に愛媛大学に助手として採用され、1994年に講師に昇任、1997年に神戸大学大学院国際協力研究科に助教授として赴任し、教授に昇任、2023年から研究科長をつとめている。本書は「国立大学教授のお仕事」と題してはいるが、著者の個人的な経験に基づくものであり、大学の規模や所在地域、研究分野や世代によって、その経験は、かなり違ったものになるだろう。そして、大学教授は互いの仕事について実はよく知らない、という著者の言葉にもうなずけた。私は、事務職員として、複数の国立大学(とその周辺の機関)を経験したことがあるので、大学による、また部局(研究分野)によるカルチャーの違い(格差と言ってもいい)は、実感としてよく分かるのだ。

 それでも本書のような著作が世に出て、読まれることの意味は、世間一般の「大学教授」に対するイメージを、少しでも現実に近いほうへ是正することにあるのではないかと思う。大学教授の仕事として多くの人々が思い浮かべる研究や教育に使える時間は減少し、それ以外の仕事が増え続けていること、しかし研究業績は出さねばならないので、睡眠時間や休日を削って研究時間をひねり出さなければならないこと、大学教員の給与は、日本人の平均年収に比べて安いとはいえないが、それは「テニュア」を確保して安定した立場にある場合で、そうでない教員(非常勤講師など)との格差が大きいこと、など。

 大学教員は、助教、講師、准教授などを経て教授になると、それより上の職階がないというのも、あまり知られていないことかもしれない。部局長は一時的な役職で、任期が終わればヒラ教授に戻り、その後の給与に違いが出るわけではないというのも、私は経験的に知っていたが、世間のイメージを裏切る話ではないかと思う。あと、「名誉教授」「客員教授」「特任教授」の意味も、知られていなんだろうなあ、やっぱり。苦笑したのは「大学教員とご飯」のコラムで、私の知っている大学教員は、著者と同様、だいたいコンビニのおにぎりやサンドイッチを常食にしているケースが多かった。

 興味深く読んだのは、大学教員の仕事のひとつが「次代の大学教員を育てる」ことだという表明である。大学教員は大学院で育てられる。学部では、社会において活躍するために、社会で広く共有されている知識を学ぶが、大学院では、自分にしかできない新たな何か(新奇性)を見出すことが期待される。研究の結果として何が見つかるかは、どのような研究を行うかによって決まる。そこで、多くの自然科学系の大学院では、教員がすでに実施している研究プロジェクトに学生を参加させ、研究計画の立て方を学ばせる。しかし人文社会科学系では、最初から学生に独自の研究計画を立てさせ、試行錯誤をさせる。この説明は、すごく納得できた。

 とは言え、試行錯誤だけでは漠然としすぎているので、「標準スケジュール」を設け、学位論文の執筆以前に、学会報告をさせたり、学術雑誌に論文を執筆・投稿させたりして、ネットワークを広げる手助けをする。また、ポストに余裕のない日本の大学では、どこも即戦力を求めているので、研究だけでなく、教育や学内行政、社会貢献の能力や経験を身に着けさせることにも気を遣う。さらに言えば、組織を維持する努力も重要であると著者は考える。組織がやせ細ってポストがなくなれば、若い研究者はポストにつけなくなってしまうからだ。

 この最後の部分は、大学教員である著者の、自分の研究領域への愛着を感じ、自分はそのように考えたことがなかったなあと思いながら読んだ。研究職ではないけれど、国立大学に在職して、ポストが減るのは逆らえない流れと考えていた自分は、同じ職種、職場を選んだ後輩に、冷淡だったかもしれない。

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国境を超える銅銭/歴史のなかの貨幣(黒田明伸)

2025-05-05 23:05:21 | 読んだもの(書籍)

〇黒田明伸『歴史のなかの貨幣:銅銭がつないだ東アジア』(岩波新書) 岩波書店 2025.3

 経済史というのは、私にはやや苦手な分野なのだが、現代人の常識をくつがえす話がたくさんあって、たいへん面白かった。人類の歴史を振り返ると、政府が通貨供給を独占するようになったのも、通貨がつねに額面通りに使われるようになったのも、つい最近の話なのである。

 7世紀に唐が発行した開元通宝は、その後の中華王朝の銅銭のモデルになった。しかし鋳造や輸送に費用がかかり、滞留(畜銭)を抑止できなかったため、供給不足を解消することができなかった。中国古代は酸化銅鉱石が用いられていたが、北宋時代の11世紀、硫化銅の精錬が可能になり、銅産が急増する。12世紀には再び銅産が減少し、南宋政府は紙幣の発行に頼ろうとした。次代の元も同様である。その結果、中国のエンドユーザーの手元にあった北宋の銅銭は、自国政府の過低評価を避けて、海を越えて流出する。

 平安時代の日本では、米または絹が貨幣として使われていた。なぜその日本が銅銭を買い付けたかといえば、主には仏像や梵鐘の素材とするためである(貨幣としての使用も徐々に始まる)。本書によれば、日本国内の梵鐘や金銅仏の鋳造は、12世紀末から13世紀に明らかに増加している。鎌倉・高徳院の大仏(制作年は不明)の金属組成は、宋銭とほぼ一致しているという。うーむ、鎌倉期の仏像を見る目が少し変わってしまいそうだ。

 中国では、14世紀に明政府が銅銭鋳造を再開するが、エンドユーザーに行きわたるような本格的な銅銭供給は行われなかった。一方、日本では15世紀初めから硫化銅精錬が始まり、15世紀半ばには、日本から輸入した銅を素材に、中国では民間の銅銭模造産業が勃興する。銅銭不足の解消はエンドユーザーたちが待ち望んだものだった。しかし、ピカピカの黄銅色の新銭と、緑青を帯びた旧銭は、異なる価値を持つとみなされ、中国、日本、さらにベトナムでも「撰銭(えりぜに)」が行われていた(禁止された)記録が残る。なお宋銭の模造は日本国内でも行われたが、錫の入手が困難であったため、銭銘を明確にすることができなかった。

 明政府は新銭の使用を禁止もしたが、人々の猛烈な反発に遭い、東アジア全域で、通用銭と基準銭が併用される状況が続く。何を基準銭(精銭)とし、それ以外をどういう換算比率で用いるかは現場の合意に依った。

 東寺には長期にわたる「銭建て米価」の記録が残されているが、15世紀後半には米価が低落している。これは「米が安くなった」のではなく「古銭の評価価値が高まった」と読み取ることもできるという。

 日本では、1569年に織田信長が発した撰銭令(撰銭の禁止ではなく比率を定める)はよく知られている。背景には、機内では米建て取引が急増していた状況があった。信長は、上洛に同行した5万から8万といわれる軍勢の食料確保のため、銭遣いを維持する必要があった。しかも兵士たちは、それぞれも地元の通用銭を持ち込んでいたのである。なるほど、そんな差し迫った理由があったのか。前段では省略したが、古代中国でも、辺境警備に派遣された兵士たちに、どのように禄を与え、食料を確保させるかが、歴代王朝の貨幣政策の鍵になっていた。このあと、日本はビタ銭によって、列島内の通貨の水平統合を進めていく。

 中国・明政府は、北辺防衛の軍事費捻出に貨幣の鋳造費用の差益を充てようとし、古銭を回収し、高額貨幣を発行したり、北京で、次いで軍鎮での鋳造を試みる。しかし程なく明は滅亡し、明政府が残した廃銅は、清朝初期の貨幣鋳造に使われたという。銅銭って何度も生まれ変わっているのだな。

 なお、「異邦の古銭が支配的に流通する」というのは東アジアア特有のケースかと思ったら、そうでもないという例が最後に紹介されていた。オーストラリア国内では1860年に廃貨されたマリア・テレジア銀貨が紅海周辺とエチオピアでは1930年代になっても主要通貨として機能した。18世紀に製造されたスペイン銀貨も19世紀まで過高評価され続けたという(スペイン銀貨という単語は、たぶん英米の児童文学で読んで覚えた記憶がある)。貨幣という不思議なシステムについて、いろいろ考えさせられた。

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権利と責任の主体/消費者と日本経済の歴史(満薗勇)

2025-03-26 22:28:59 | 読んだもの(書籍)

〇満薗勇『消費者と日本経済の歴史:高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8

 本書は戦後日本の社会と経済の変化を消費者の姿から読み解いていく。「消費者」という言葉が学問の議論を超えて使われ始めるのは1920年代、さらに一般化するのは1960年代以降だという。

 1946年に創立された経済同友会は少壮の進歩的な経済人から成る団体で(占領政策で大企業経営者が追放された影響)、修正資本主義の構想を持ち、消費者に強い関心を寄せた。大塚萬丈は「そもそも社会構成員は一人残らず消費者である。従って社会における最も普遍的・包括的の利益は消費者の利益である」と述べ、資本家中心の資本主義と労働者中心の社会主義の双方を批判し、消費者の利益を実現する主体=専門経営者の正統性を主張した。この発想は生産向上運動における消費者主権への着眼につながっていく。

 生産性向上運動は、労働者から見れば、労働強化や配置転換、賃金抑制を強いられる側面があるが、「究極において雇用を増大する」とうたわれ、官民の協力が求められた。同時にその成果は消費者・労働者・経営者が等しく享受するもので、経営者は、株主に奉仕するだけでなく、株主・消費者・従業員の「三点の頂点に立つ」自覚が必要とされた。古い考え方だろうけれど、私はこうした経営思想を好ましく思う。

 生産性向上運動が重視した「消費者の利益の追求」は「消費者は王様である」という言葉を生み、消費者団体である日本消費者協会が生まれた。しかし日本の消費者運動はアマチュアの女性たちによるボランタリーな活動が主流で、アメリカのようにプロフェッショナルな消費者団体は育たず、個人の生活自衛をベースにした「かしこい消費者」モデルには「消費者の権利」という発想が希薄だった。この「権利なき主体化」に、商品テストで有名な花森安治が批判的な視線を向けているのが興味深い。

 次に企業の側から、ダイエー・中内功の「バリュー主義」(商品のバリューは消費者の二ーズで決まる)と松下幸之助の「水道哲学」(水道水は生産量が豊富なのでタダ同然=大量生産すれば低価格が可能になり貧困をなくせる)を紹介する。現在の地点から見ると、どちらも危うさしか感じない。松下は「適正利潤の確保」を重視して消費者主権を閑却した結果、公取委の勧告を受け批判を浴びたし、中内による消費者利益の追求は労働者の利益を掘り崩してしまうという指摘に同意する。

 1970年代半ば、消費水準の向上と中流意識の定着に加え、食品公害など、科学技術文明がもたらす根源的な不安を背景に「消費者」から「生活者」への転換が起こる。ただし、この言葉には、消費行動に伴う社会的責任を厳しく問う「生活者」と、画一的な消費を否定し生活様式の個性化に向かう「生活者」という2つの立場があった。これを洗練・先鋭化していくのが、80年代の堤清二である。画一的な大量消費は、環境問題に対する消費者の加害責任の観点からも、個性化に向かう人間的な欲求という消費者の利益の観点からも否定された。

 平成バブルの崩壊を経て、1980年代半ばから日本経済は長期停滞の時代を迎える。産業構造が変わり、サービス経済の比重が高まった結果、持続的な経済成長が困難になった。グローバルな低賃金競争の圧力もあり、雇用の不安定化が進み、格差社会の生きづらさが広がった。景気回復のために必要とされた政策が一連の規制緩和である。政府の諮問委員会の報告書には、規制緩和は消費者の利益になるのに、消費者が不安を理由に自己責任を回避するから規制緩和が進まない、という論調が見られる。消費者団体は、価格の引き下げだけが消費者の利益ではないと反論しているが、実際、万人が納得する「消費者の利益」を定義するのは難しいと思う。

 企業では、1980年代末から「顧客満足の追求」という課題に関心が集まった。ここで紹介されるのは、イトーヨーカドー創業者の伊藤雅俊、セブンイレブンの鈴木敏文など。しかしこの「お客様」志向というのものが、私はあまり好きではない。個人的には、売り手と買い手の間に、もう少し溝というか距離があるほうが、かえって居心地がいい気がする。また、顧客満足の追求は、必ずしも企業成長に結びつくものではなく、徐々に個別企業の持続的成長を難しくしていく、という指摘も覚えておきたい。

 終章には、いま流行りの「推し活」・応援消費がはらむ危険も論じられている。応援消費は、消費論というより、贈与論(互酬性が成立しないと片方のプレッシャーになり、危うい)の文脈で考える必要があるという指摘にも考えさせられた。

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出会い、包み込まれるまで/アメリカ・イン・ジャパン(吉見俊哉)

2025-03-22 22:44:44 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン:ハーバード講義録』(岩波新書) 岩波書店 2025.1

 本書は、著者がハーバード大学の客員教授として2018年春学期に行った講義「日本の中のアメリカ」を活字化したものである。ちなみに2018年は最初のトランプ政権の2年目だった。全般的には、日本という小国が、海の向こうの大国に出会い、包み込まれてしまう歴史だが、そこに抗った人々の存在が印象的である。

 講義は、日本がアメリカに出会う「ぺリー来航」の前史から始まる。18世紀半ば、対仏戦争に勝利したアメリカでは「西漸運動」と呼ばれる西への不可逆的拡張が始まる。西谷修は「アメリカ」とは「ヨーロッパ国際秩序」の外部の「無主の地」にもたらされた、〈自由〉の制度空間の名前であると論じているという。そして大陸西岸に行き着いた西漸運動は、さらにその西へ、太平洋へと乗り出していく。

 第1講、ぺリーの遠征。ペリーの使命は、日本を開国させ、アメリカ西海岸を起点とする太平洋航路を開く道筋をつけることだった。ぺリーは、巨大な蒸気船など、進んだ文明を見せつける効果をよく理解しており、日本人は狙いどおりに反応した。ぺリーは遠征前に、可能な限り日本関連の情報を集めて交渉準備をしており、さらに二度の日本訪問を通じて、以下のように結論している。日本という国は「それぞれの組織が相互監視を徹底させて失敗を許さない仕組みを発達させており、内部からの変化はきわめて起こりにくい」。あまりにも的確で、21世紀の日本にも通じそうなので、唸ってしまった。

 第2講、捕鯨船と漂流者について。実はぺリーの遠征に先立って、アメリカの捕鯨産業は日本近海に達しており、日本の漁師たちと遭遇することもあった。土佐の漁師万次郎は漂流中をアメリカの捕鯨船に助けられ、公平で愛情深い船長に才覚を認められ、アメリカ市民としての教育を受ける。このジョン万次郎を論じた鶴見俊輔の著作も読みたい。のちに日本に帰国した万次郎は幕府の小笠原調査に参加するが、小笠原諸島が、船乗りをはじめとする移動民のコンタクトゾーン(無縁無主の地)だったという指摘も興味深い。

 第3講、宣教師と教育の近代。近代日本の私立大学や女子教育は、アメリカン・ボード(海外宣教組織)の影響を大きく受けている。「自国の文明が西洋文明を超えると信じていた中国や中東では、ボードの宣教は必ずしも成功しなかった」という著者の評価には苦笑してしまった。日本は外部の影響力に弱いんだよな。なかなか衝撃だったのは、未読の内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』が、アメリカの拝金主義や人種差別を告発し、真実の「アメリカ」がいかに非キリスト教的であるかを批判した書であるということ。初めて知った。

 第4講、モダンガール。有島武郎の『或る女』を取り上げる。主人公の葉子は、女というものが日本とは違って見られているらしいアメリカを目指して、客船で太平洋を渡るが、結局、上陸せずに帰国してしまう。彼女の不安定な自意識は「アメリカ」でも「日本」でもない海の上に漂い続けるのである。

 第5講、空爆。日米戦争において、アメリカは徹底的に日本を調査研究し、最も効果的な空爆を実行した。一方、日本は「アメリカとは何か」をまるで理解しないまま、無謀な戦争を仕掛けてしまった。この非対称性は、現代でも解消されていないように思う。

 第6講、マッカーサーと天皇。占領下の日本人がマッカーサーに熱烈なファンレターを送ったことはよく知られているが、「日本を米国の属国にして下され」「なるべくならば植民地にしてください」等の文面があったと聞くと苦々しい。日本人は、自分たちがこんなふうなので、かつて日本が占領した地域の住民は日本に感謝しているはずだと考えるのではないか。著者はこうした態度を「要するに権力ある者に一体化していこうとする願望」と要約する。マッカーサーは、最初から東洋人を「勝者にへつらい敗者をさげすむ」人種と見做していたというが、敗戦後の日本人はこの偏見を実証してしまったようで悔しい。

 第7講の原子力、第8講の米軍基地は、著者の他の著作でも詳述されているので省略。第9講は、アメリカの表象としての星条旗、自由の女神、ディズニーランド。自由の女神は、日本以外の国では「自由」「共和国」「独立」「革命」といった観念と結びついているが、日本では、アメリカ的な豊かさやギャンブルやセックスの自由奔放など、通俗的な欲望のキッチュとして受け入れられてきた。1960年代以前のアメリカは、大衆の欲望を投影する先だったが、70年代以降、「アメリカ」は日常的に消費可能な環境として日本人を包み込んでいく。その成功例が東京ディズニーランド。日本人の日常意識が、既に深く「アメリカ」に取り込まれているという指摘は、現下のトランプ政権を支持する日本人を見ても当たっていそうである。今こそ、内村鑑三に学ぶべきかもしれない。

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