〇柿沼陽平『古代中国の裏社会:伝説の任侠と路地裏の物語』(平凡社新書) 平凡社 2025.3
『史記』遊侠列伝にも取り上げられた大侠・郭解(前漢時代、紀元前170年頃~)の生涯をたどりながら、古代中国の裏社会を多面的に描き出す。著者は、前著『古代中国の24時間』では、古代中国の「ふつうの人々」が、どこに住み、何時に起き、何を食べていたかを、よくできた再現ドラマのように詳述してくれたが、今度は「裏社会の人々」である。「プロローグ」は例によって小説仕立て。闇夜の晩、ひそかに貧民街を訪ねた県令は、ある男に殺しを依頼し、男は迷いもなく引き受ける――。
謎の男の正体は郭解。『史記』によれば、許負という女性の人相見の外孫だという。字は翁伯(おやじ、おやぶん)。若い頃から殺人・刃傷沙汰のほか、強盗、ニセガネづくり、墓泥棒にかかわり、敵や不快な相手は容赦しなかったが、時には仲間を救い、郭解のもとに逃げ込んできた人々を庇護し、「任侠」と呼ばれることを好んだ。彼のもとには多くの「少年」が集ったというが、中国古代の史書に見える「少年」は、おおむねチンピラの意味だという(へえ!李白の詩もそんなニュアンスなのかな?)。
郭解が壮年を迎える頃、漢の帝室では武帝が即位する。武帝時代を彩る個性的なキャラクターのひとり、車騎将軍・衛青と郭解には「うっすら関係がある」と知って驚く。武帝は生前に陵墓(茂陵)の建設を始め、茂陵県に裕福な豪族らを強制的に移住させることにした。移住対象者に選ばれた郭解は、これを逃れるため、かねて懇意にしていた衛青に口添えを頼んだと考えられる。しかし武帝の気持ちは動かず、郭解は茂陵(陝西省興平県)へ旅立つ。
司馬遷は、青年時代の一時期、父の司馬談とともに茂陵に住んだことがあり、ここで郭解と出会っていた可能性がある。ただし、司馬遷の生年推定には10年ほどの揺れがある上、郭解も本当に茂陵に移住したかは不確定(函谷関までは確実)だという。『史記』は「太史公曰く」として「私は郭解を見たことがある」と語り、平凡な外見と、天下に響きわたる名声とのギャップに驚き、郭解に称賛を送っている。実際に郭解に会った「太史公」は、父の司馬談の可能性もあるが、最終的にこの郭解評を書き入れたのは司馬遷である。
郭解が茂陵へ移動中、故郷に残してきた兄の息子が県の役人を殺害する事件が起きた。被害者の一族(楊氏)は県の役所に直訴に赴いたが、何者かに斬り殺されてしまう。一連の事件は中央朝廷にも届き、武帝は郭解を首謀者とみなして捕縛を命じる。ここで新たな事件が起きる。朝廷から派遣された使者(おそらく郭解赦免のための)に随行していた儒者が、郭解の食客と口論になり、殺害されてしまう。郭解本人は全く与り知らない事件だったが、武帝側近の公孫弘は儒者の殺害を容認せず、武帝もこれに追随して、郭解を「大逆無道」の名目で死刑に処した。本書の著者が「武帝と公孫弘が郭解のもつ任侠的なつながりを恐れていた」と読み解いているのが興味深い。そして『史記』に記述された郭解評には、司馬遷の武帝に対する批判を汲み取ることもできる。
「エピローグ」は著者による「任侠」論で、たいへん興味深く読んだ。まず『史記』が刺客列伝と遊侠列伝を区別しているという指摘は重要である。刺客には任侠的な者も含まれるが、任侠には暗殺や報仇に還元されない側面がある。増渕龍夫氏の説によれば、「侠」は「私剣武勇」「侵す者があれば、剣をもってこれに報ずる」「私交をむすんでは常に節操を立てる」を意味し、「任とは、そのような私交をむすぶに信なることであり、一旦交わりをむすべば、責任をもって他を引き受け、自己の利害生死を無視しても交友知人の急を救い、身をもって亡命罪人をかくまうことであった」という。著者はこれに加えて「諸々の任侠的行為には広く利他や友愛の精神がふくまれている」と述べ、これによって任侠と刺客を切り分けることができるという。中国ドラマ好きとしては、分かる分かる! この段を読みながら、私がずっと思い浮かべていたのは、2022年のドラマ『飛狐外伝』の苗大侠(苗人鳳)のセリフ「所守者道義、所行者忠義、所惜者名節」である。
儒家と任侠は、本来、親和的な面もあるが、敵対的な面もある(既存の社会秩序の維持に対して)とか、困っている個人や社会のために立ち上がる任侠的心性は国籍を問わない(清末には、吉田松陰・大久保利通・西郷隆盛らが「任侠」の例とされた:梁啓超の発言らしい)という考察も、うなずけるところが多くて面白かった。