〇黒田明伸『歴史のなかの貨幣:銅銭がつないだ東アジア』(岩波新書) 岩波書店 2025.3
経済史というのは、私にはやや苦手な分野なのだが、現代人の常識をくつがえす話がたくさんあって、たいへん面白かった。人類の歴史を振り返ると、政府が通貨供給を独占するようになったのも、通貨がつねに額面通りに使われるようになったのも、つい最近の話なのである。
7世紀に唐が発行した開元通宝は、その後の中華王朝の銅銭のモデルになった。しかし鋳造や輸送に費用がかかり、滞留(畜銭)を抑止できなかったため、供給不足を解消することができなかった。中国古代は酸化銅鉱石が用いられていたが、北宋時代の11世紀、硫化銅の精錬が可能になり、銅産が急増する。12世紀には再び銅産が減少し、南宋政府は紙幣の発行に頼ろうとした。次代の元も同様である。その結果、中国のエンドユーザーの手元にあった北宋の銅銭は、自国政府の過低評価を避けて、海を越えて流出する。
平安時代の日本では、米または絹が貨幣として使われていた。なぜその日本が銅銭を買い付けたかといえば、主には仏像や梵鐘の素材とするためである(貨幣としての使用も徐々に始まる)。本書によれば、日本国内の梵鐘や金銅仏の鋳造は、12世紀末から13世紀に明らかに増加している。鎌倉・高徳院の大仏(制作年は不明)の金属組成は、宋銭とほぼ一致しているという。うーむ、鎌倉期の仏像を見る目が少し変わってしまいそうだ。
中国では、14世紀に明政府が銅銭鋳造を再開するが、エンドユーザーに行きわたるような本格的な銅銭供給は行われなかった。一方、日本では15世紀初めから硫化銅精錬が始まり、15世紀半ばには、日本から輸入した銅を素材に、中国では民間の銅銭模造産業が勃興する。銅銭不足の解消はエンドユーザーたちが待ち望んだものだった。しかし、ピカピカの黄銅色の新銭と、緑青を帯びた旧銭は、異なる価値を持つとみなされ、中国、日本、さらにベトナムでも「撰銭(えりぜに)」が行われていた(禁止された)記録が残る。なお宋銭の模造は日本国内でも行われたが、錫の入手が困難であったため、銭銘を明確にすることができなかった。
明政府は新銭の使用を禁止もしたが、人々の猛烈な反発に遭い、東アジア全域で、通用銭と基準銭が併用される状況が続く。何を基準銭(精銭)とし、それ以外をどういう換算比率で用いるかは現場の合意に依った。
東寺には長期にわたる「銭建て米価」の記録が残されているが、15世紀後半には米価が低落している。これは「米が安くなった」のではなく「古銭の評価価値が高まった」と読み取ることもできるという。
日本では、1569年に織田信長が発した撰銭令(撰銭の禁止ではなく比率を定める)はよく知られている。背景には、機内では米建て取引が急増していた状況があった。信長は、上洛に同行した5万から8万といわれる軍勢の食料確保のため、銭遣いを維持する必要があった。しかも兵士たちは、それぞれも地元の通用銭を持ち込んでいたのである。なるほど、そんな差し迫った理由があったのか。前段では省略したが、古代中国でも、辺境警備に派遣された兵士たちに、どのように禄を与え、食料を確保させるかが、歴代王朝の貨幣政策の鍵になっていた。このあと、日本はビタ銭によって、列島内の通貨の水平統合を進めていく。
中国・明政府は、北辺防衛の軍事費捻出に貨幣の鋳造費用の差益を充てようとし、古銭を回収し、高額貨幣を発行したり、北京で、次いで軍鎮での鋳造を試みる。しかし程なく明は滅亡し、明政府が残した廃銅は、清朝初期の貨幣鋳造に使われたという。銅銭って何度も生まれ変わっているのだな。
なお、「異邦の古銭が支配的に流通する」というのは東アジアア特有のケースかと思ったら、そうでもないという例が最後に紹介されていた。オーストラリア国内では1860年に廃貨されたマリア・テレジア銀貨が紅海周辺とエチオピアでは1930年代になっても主要通貨として機能した。18世紀に製造されたスペイン銀貨も19世紀まで過高評価され続けたという(スペイン銀貨という単語は、たぶん英米の児童文学で読んで覚えた記憶がある)。貨幣という不思議なシステムについて、いろいろ考えさせられた。