〇須田努『幕末社会』(岩波新書) 岩波書店 2022.1
幕末、すなわち西暦でいうと19世紀前半の日本社会について、まず前提となる江戸時代の社会枠組みを確認したのち、「天保期(1830-1844)」「弘化から安政期(1845-1860)」「万延から文久期(1860-1864)」「元治から慶応期(1864-1868)」の順に語っていく。このように時代を小さく刻んだ解説は珍しくて、ちょっと面白かった。
江戸時代、治者となった武士は平和をつくり出し、百姓の生命と家の存続を保障する役割を担った(仁政)。また武士は武力を独占したが、これを行使するのではなく畏怖させることで民衆を支配した(武威)。この考え方は元禄期頃から浄瑠璃や歌舞伎を通じて民衆に共有され、社会の安定を生んでいたが、幕末には揺らぎ始める。
享保期(18世紀前半)に新田開発が限界を迎えると、文政期(1818-1830)頃から百姓として生きることを嫌う風潮が広まり、若者が村を離脱し、博徒・無宿となることが増える。特に関東では幕藩領主の権威が相対化され、百姓一揆の流儀も変質・崩壊していく。甲州騒動とか、庄内藩の三方領知替え反対一揆とか、実力行使を伴う不穏な事件も起きる。
弘化~安政期、欧米列強の接近に続いて、地震の多発、コレラの流行が社会を襲った。幕末を象徴する政治思想、国体・尊王攘夷は、そもそも水戸藩の会沢正志斎が唱えたもので、仁政・武威という政治理念が揺らぐ中で、それを乗り越えるものとして提示された。これを受け継ぎ、先鋭化・実践化したのが長州藩の吉田松陰。国体・尊王攘夷論は剣術ネットワークに乗って、徐々に拡散していく。ペリー来航を契機に、民衆は自分たちの暮らす「国」「日本」を意識し、時には政治的な発言をするようになった。地方の在地社会にも、幕藩領主の支配におとなしく従わず、強烈な自己主張をする百姓たち(三閉伊一揆)や、学問を身に付けて自立する女性(松岡小鶴=柳田国男の母親)が現れる。しかし彼らの影響力は、まだ限定的だった。
万延~文久期に至ると、尊王攘夷運動は在地社会にも広がり全盛期を迎える。和宮降嫁、生麦事件、馬関戦争など、教科書でおなじみの事件と並んで、伊那谷の「勤王ばあさん」松尾多勢子、関東の真忠組、日野宿名主の佐藤彦五郎など、興味深い例が取り上げられている。在地社会の尊王攘夷運動は、倒幕を明確に目指していたわけでなく、それぞれの地域は抱える矛盾を解決するための方便であったともいえる、という解説は腑に落ちるところがあった。運動の担い手の多くは若者たちで、彼らはそこに自己の居場所(社会的承認の場)を見出していたという。いまの日本社会で、外国人ヘイトやカルト政治集団に若者が求めるものも同じなのではないか。
元治~慶応期、社会は中立や曖昧さを許さない、勤王か佐幕かという分断(政治的二元論)の時代に突入していく。いやだな。そういう時代は、二度と来てほしくない。本書は、やはり関東・東北を中心に、在地社会に大きな影響を与えた騒動の顛末を紹介する。水戸藩の権力抗争が生んだ天狗党の乱に対して、冷静で批判的な目を向けていた在地社会の記録が残っているという。天狗党は信州・諏訪・越前を通過して、最後は加賀藩に投降する。幕府追討軍の責任者は田沼意尊(意次-意正-意留-意尊;田沼意次のひ孫)で、天狗党を鰊(にしん)蔵に監禁の上、353名を現地で処刑した。その鰊蔵が水戸烈士記念館として残されていることを初めて知った。行ってみたい。
貿易と天候不順による物価高騰を背景に、北関東では世直し運動(打ちこわし)が頻発した。武州、上州、多摩地域、中山道周辺など。日本の民衆、この頃は生きるためにちゃんと蜂起していたんだな、と知る。上州では隠遁していた小栗忠順が武装集団に襲撃されている。小栗が多額の軍資金を隠し持っているという風聞があったらしい。最後は小栗の配下に撃退されてしまうのだが、これ、大河ドラマで描かれるだろうか。