見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

学術の守護者/奈良、京都の鴎外(鴎外記念館)

2016-01-30 22:56:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
文京区立鴎外記念館 コレクション展『奈良、京都の鴎外-今日オクラガアキマシタ。』(2015年12月11日~2016年2月7日)

 小さい展覧会だが面白かった。文豪・森鴎外(1862-1922)が奈良、京都で過ごした日々にフォーカスする。チラシによれば、大正4年(1915)11月、陸軍軍医総監として大正天皇の即位の大礼に参列するため、京都を訪れたこと、大正7年(1918)から10年まで、帝室博物館総長兼図書頭として、正倉院の曝涼(虫干し)に立会うため、ひと月ほど奈良に滞在したことが取り上げられている。圧倒的に印象的だったのは後者(奈良)。京都については資料点数も少ないし、参列者の中に鴎外の氏名がまじる「官報号外」とか、参列記念品の「御大礼恩賜銀杯」など、鴎外の顔が見えない資料が大半である。

 それに比べると奈良については、内面の信念や嗜好に動かされる、生き生きした鴎外の姿が目に浮かぶ。当時、正倉院宝物の拝観は、高等官や有爵者(華族)などに限られていた。帝室博物館総長たる鴎外は「学術技芸に関し相当の経歴ありと認め」た場合は、特別に許可するように規程を改正し、正倉院宝物の調査研究を後押しした。また、佐々木信綱、山田孝雄、田中親美などに拝観の便宜をはからっている。鴎外って、こういうところ実に有能だなあ。規程をつくることが改革のキモだということをよく分かっている。鴎外が帝室博物館において、図書・統計・台帳などを保管する文庫(アーカイブズ)の規程を定めたこと(※東博の展示で見た)を思い出した。なお、この展示で知った余談だが、江戸時代の国学者・穂井田忠友は正倉院御物を見るために、一人娘を開封の勅使・梶野良材の側室に差し出したという。ううむ『地獄変』みたいな話だ。

 大正7年、鴎外は正倉院聖語蔵の経巻から一切経音義の零本を発見し、のちに山田孝雄は、これが巻六の残闕であることを確認した。山田孝雄は聖語蔵本『一切経音義』の研究に取り組み、大著『一切経音義索引』を完成させる。国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で同書(レコード2件あり)を閲覧することができるが、どちらも手書き原稿を印刷したもののようだ。漢字の種類がありすぎて活字を組めなかったのかなあ。同書刊行後、鴎外は正倉院宝物の楽器の調査を山田孝雄に依頼し、自分でも古楽器調査の記録を残している。

 「奈良の鴎外」のもうひとつの側面を示すのは、子供たちに書き送った大量の絵葉書である。大きな読みやすい字で「けふは長谷寺といふ山の中の寺に行きました。」などの簡単な近況報告が添えられている。ツイッターみたいだ。「今日は京都にいったからおみやげにするおくゎしをかってきました。」なんてのもある。大正8年の葉書はひらがなが多いが、その前後の年を見ると、カタカナもどちらもある。子供の成長に伴って、漢字が増え、文も少し長くなっていく。「正倉院の中はゲンゲがいっぱいさいてゐて子供にとらせたいとおもった」というのもいいなあ。今でも春はまわりにゲンゲが咲くんだろうか。鴎外が奈良で愛用していた地図(官舎の位置が記されている)は東大総合図書館に所蔵されている由。見てみたい。

 展示品で驚いたのは、鴎外が奈良の官舎で使用していたという布団。鴎外は、帝室博物館職員の松嶋氏が暮らしていた官舎の十畳間に寝泊まりしていた。紫色の布団と同じ生地の掻巻は松嶋家で大切に保管され、平成2年、松嶋順正氏(息子さん?)から鴎外記念館に寄贈されたのだという。今の羽毛布団と違って寒そう~と思ったが、曝涼が秋なら問題ないかな。

 奈良の鴎外を知るには、日記「委蛇録」(その一部が「寧都訪古録」)のほかに「奈良五十首」という短歌群があり、聖俗入り混じった題材が興味深い。京都から宇治、木津を経て、奈良に近づいていくところから始まるのだが、冒頭の京都を詠んだ歌が好きなので、ここに掲げておく(京はわが先づ車よりおり立ちて 古本あさり日をくらす街)。帰りにミュージアムショップで、平山城児著『鴎外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)を見つけて、買ってしまった。

奈良国立博物館の敷地にある「鴎外の門」(鴎外が滞在した官舎の門)の写真
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古代を夢見た日々/山岸凉子「日出処の天子」古代飛鳥への旅(太陽の地図帖)

2016-01-29 23:54:32 | 読んだもの(書籍)
○太陽の地図帖編集部編『山岸凉子「日出処の天子」古代飛鳥への旅』(別冊太陽 太陽の地図帖_032) 平凡社 2016.1

 書店の棚に、なつかしい山岸凉子先生描く『日出処の天子』のカラー表紙を見て、何事?!と思ったら「太陽の地図帖」シリーズの最新刊だった。このシリーズ、もとは「水の東京を歩く」とか「地形と鉄道」とか、普通の散歩好き・地図好きをターゲットにしていたはずなのに、諸星大二郎関連を2冊出したと思ったら、今度は山岸凉子の『日出処の天子』って、目のつけどころが絶妙である。

 『日出処の天子』は、不思議な能力を持つ厩戸皇子(聖徳太子)を主人公とし、朝廷や蘇我氏の人々を独自の解釈で描いた長編マンガで、1980年から1984年に月刊誌『LaLa』に連載された。私は初回から最終回まで、ずっと雑誌連載を追い続けた。

 本書には、その雑誌連載時のカラー扉絵がたくさん掲載されていて、嬉しくてならなかった。雑誌の最後のページ(裏表紙の内側)は、次号の予告になっていて、人気作品にはそれなりのスペースが与えられる。ここに使われたカットもたくさん掲載されていた。だいたい厩戸皇子のカットが多いのだが、1点だけ、特に個性のない采女たちを描いたものがあって「連載開始前で、登場人物の顔も決まっていなかったので采女の後ろ姿」にしたという裏話が添えられていた。これ覚えてる。『日出処の天子』というタイトルからして、聖徳太子を描くのだろうけど、いったいどんな話になるのだろう?と、すごく不安で予告を眺めたことを。

 そして、連載第1回のカラー扉絵も本書に掲載されているが、これは衝撃だったなあ。法隆寺金堂壁画をモデルにした菩薩たち、と当時の私は分かっただろうか。雑誌『LaLa』には個性の強いマンガが目白押しだったけれど、全く別次元の作品が始まろうとしていることを感じて、胸がふるえた。そして、髭を生やした成人の聖徳太子像(一万円札でおなじみ)。しかし、この姿は、物語の最後まで、ついに出てこなかった。

 どれも印象深いカラー扉絵の中に、1点だけ記憶にないものがあった。炎につつまれる塔のシルエット。不気味な童子。実は第1回のための絵だったが、結末を暗示してしまうので、掲載を取りやめたものだそうだ。30年以上を経て、はじめての公開だという。いやこれは怖い。

 作品解題の部分が面白すぎて、「地図帖」の印象が薄いのだが、「厩戸と毛人の青春の地をゆく」と題して飛鳥が、「蘇我・物部戦争の地をゆく」と題して河内が紹介されている。この河内コースは訪ねたことがない。JR八尾駅から南に向かうと、物部守屋の墓所、それに鏑矢塚や弓代塚があるのか。

 また、登場人物のひとり泊瀬部大王(崇峻天皇)の子の蜂子皇子は東北に赴き、羽黒山で苦行の末、出羽神社を建立したという伝説がある。出羽三山神社が所蔵する「蜂子皇子御尊影」の写真が掲載されているのだが、その異形ぶりにおののいた。調べたら、2014年に開扉されていたのか(山形県ホームページ)。見たかったなあ。

 山岸凉子さんのインタビュー、荒俣宏さんとの対談、略年譜(ああ、もう68歳になられたのか)、全作品初出誌&初収録単行本データ等、貴重な記録もあり。私は、「愛読者エッセイ」と題して、綿矢りささん、おかざき真里さん、桜木紫乃さんがコラムを書いているのが面白かった。綿矢さんは少し若いけれど、おかざき真里さん、桜木紫乃さんは、私と同様に雑誌連載時に『日出処の天子』を読みふけっていた世代らしく、親近感を感じた。
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アテネ民主政の経験に学ぶ/民主主義の源流(橋場弦)

2016-01-26 00:38:17 | 読んだもの(書籍)
○橋場弦『民主主義の源流:古代アテネの実験』(講談社学術文庫) 講談社 2016.1

 私が習った高校の世界史の先生は、ものすごいギリシア好きだった。神話、哲学、美術に文学、そして民主政治の歴史について、どんな受験参考書よりも詳しい講義をしてくれた。そんな過去もしばらく忘れていたのだが、昨年、高橋源一郎+SEALDsの『民主主義ってなんだ?』を読んだ。高橋源一郎氏が、心底うれしそうに古代ギリシアの民主制度について語るのを読んで、もう一度、ギリシアについて知りたいと思っていたところで、本書に出会った。

 本書はアテネ民主政の草創から廃止に至る約190年間の歴史を物語るもの。一般読者向けなので、センセーショナルな弾劾裁判に注目したり、「民会の一日」を具体的に描いてみたり、飽きない工夫が凝らされている。1997年刊行の『丘のうえの民主政:古代アテネの実験』(東京大学出版会)を改題・文庫化したものだが、これに先立つ1992年が、アテネに初めて民主政が樹立された前508年から数えて2500年目の節目であったことが冒頭に記されている。

 時系列順にまとめておくと、アテネに最初の政治的まとまりができたのはミケーネ時代(前16~12世紀)。専制的王政→暗黒時代を経て、前8世紀半ばに貴族政に移行し、前7世紀後半から平民層が力を得て民主化の歩みが始まる(ソロンの改革)。前561年、ペイシストラトスの僭主政の開始。アテネ市民は「一人の支配者の意のままに市民全員の生命が翻弄される恐怖政治」をいやというほど味わったあげく、二代目の僭主ヒッピアスを倒し、民主政を樹立した(クレイステネスの改革)。アテネ市民は、ふたたび僭主政の世の中に戻ることを警戒し、特定の個人に権力を集中させないシステムを作り上げた。オストラキスモス(陶片追放)では、罪状のあるなしにかかわらず「勢力が集まりすぎて僭主になる恐れのある者」として一定数の投票を集めた人物は追放された。これは…徹底した民主制度と呼ぶべきなんだろうか。

 前5~前4世紀、アテネ民主政の盛期を代表する指導者がペリクレスである。彼は選挙で選ばれた「将軍」で、軍事的専門職の最高位であると同時に、事実上、政治的な最高指導者でもあった。ペリクレスは計数に明るく、公私の区別に厳格だった。政敵のキモンは、親分肌で大衆に人気があったが、著者によれば「ギリシア人は一般的にこのような(注:親分子分的な)従属関係を嫌う」「貧しくとも独立自営を尊ぶのがポリス市民の生き方であった」そうで、日本社会の伝統カルチャーとは大きく違うなあと思った。

 ペリクレスはキモンの勢力をそぐため、「国家に流入する冨を、ある政治家個人の名においてではなく、国家の名において永続的に市民団に分配する」システムを整備する。裁判員の日当、民会の日当、さらには各種の公共事業など、国家による冨の再分配は健全な民主政を成立させる必須の条件であるのだ。

 ペリクレスは、不肖の息子に悩まされるなど、私生活はあまり恵まれなかった。最晩年にはペロポネソス戦争(スパルタとの戦争)を指揮する最中、伝染病の流行などの不運に見舞われ、公職者弾劾制度によって民衆裁判にかけられている。本書を読むと、古代ギリシアには晩年不遇に終わった政治家が多いように感じた。民衆の審判の厳しさは、暴君に劣らないのかもしれない。

 ペリクレスの死後、ペロポネソス戦争は泥沼化し、世界史の教科書には「デマゴーグの扇動によって、アテネ民主政は衆愚政に堕した」と説明されている。しかし、仔細に見れば寡頭政と民主政は一進一退で、前403年以降、民主政の再生が図られたことに著者は注目を促す。ペリクレスのような偉大な指導者の下、アテネ繁栄の日々のほうが、絵にも文学にもなりやすいが、本当に私たちが(今の日本の現状で)学ぶべきは、むしろこういう衰退の中の粘り腰かもしれない。

 民主政を立て直すために、アテネ市民が確認した原則のひとつは「法というものの地位を、そのときどきの民会の判断によっては容易に左右されない次元にまで高める」ということであった。ここは何度も読み返した。やっぱり民主政は立憲主義と相携えなければいけないのだと思う。

 それでも前4世紀の後半から、アテネ民主政は変質していく。評価は分かれるが、軍事や財政の専門家の登場。また、市民の公共意識の低下によって、「民主政転覆罪」という最大級の罪状が、どこにでもある軽犯罪の弾劾に用いられるようになる。悪口雑言を言い放ちながら「言論の自由」をたてにする人々の存在も記録されており、「このような人格にとって、民主主義とは人を誹謗中傷するための口実にすぎない」と著者は厳しい(昨今のヘイトスピーチみたい)。前322年、マケドニア軍の進駐によってアテネ民主政は滅ぶ。民主政はそれ自体に内在する欠陥によって自滅したというよりも、外部からの圧力を受けて崩壊したという説明が正しいのではないか、というのが著者の見解である。

 最後に著者も述べているが、古代ギリシアの民主政を、そのまま現代社会に当てはめることはできない。前提条件がいろいろと違いすぎる。しかし、現代の民主政を考え直すヒントもたくさん盛り込まれていると感じた。
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笑いと吉祥/狂言を悦しむ(永青文庫)

2016-01-25 22:44:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 冬季展示『狂言を悦しむ』(2015年1月9日~2月21日)

 細川家に残る狂言の装束や狂言面、狂言の台詞を記す資料を展示。永青文庫の過去の展覧会一覧を見ると「能」や「能と狂言」の企画展はあるけれど、「狂言」にテーマをしぼるのは新機軸じゃないかしら。私は、能にはほとんど触れた経験がないが、小中学生の頃、母親の影響でよく狂言を見ていたので、狂言には親しみがある。

 はじめに「猿」「三番叟(黒式尉)」「恵比寿」など数々の面。狂言は、基本的に面を使わない演劇だと思っていたので、ちょっと不思議に思う。Wikiにも「狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたもの」とある。そうだよね。役者の、大げさで豊かな表情は狂言の魅力のひとつなのだから。それから、肩衣や素襖などの衣装。大胆な文様がカッコいい。

 「狂言記」「絵入狂言記」と呼ばれる版本もたくさん出ていた。いずれも横長のスマホ大サイズなのは、舞台を見ながら参照したためだろうか。いま文楽のプログラムについてくる床本みたいなもので、セリフがきちんと聞き取れないと、台本が手元に欲しいと思うのだろうな。狂言は台本の成立が遅かったため、流派によって詞章の違いが大きいという説明を読んで、なるほどと思う。能の世阿弥や文楽の近松みたいな「作者」「作品」という概念が狂言にはないのだな。「元禄12年入手」という注がついた(この手の出版物は、刊記もないのだろう)版本は、最後のページに「明治15年4月28日」の能楽の来観証(上等二枚)が貼り付けてあった。オレンジ色の摺り。枠外に「弁当湯水適宜」とあるのが面白かった。また参考資料として、明治時代の活字本の「柿山伏」(これはB6サイズ位)も出ていて、表紙の絵に味があった。

 その他の常設展示は、正月らしく吉祥の書画が多め。不詳の画家・新翠筆『群雀図』、細川家のお抱え絵師・矢野吉重筆と見られる『日の出老松図』など。2階には仙筆『七福神図』、白隠筆『猿曳翁図』など。

 それにしても『春画展』の喧騒が遠のき、都会の中の静かな隠れ家に戻って何よりである。出入口は『春画展』のとき、位置が変わって広くなり、そのままだった。
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結界を張る服/魔除け(文化学園服飾博物館)

2016-01-24 22:27:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
文化学園服飾博物館 『魔除け~身にまとう祈るこころ~』(2015年12月17日~2016年2月17日)

 アジア・アフリカ地域を中心に、各民族の服飾に見られる多様な魔除けの役割を紹介する。ポスターに英語で「AMULETS」と入っていて、アミュレットって魔除け・お守りの意味だったのかと初めて知った。装飾品(アクセサリー)と同等くらいの意味に考えていたので。

 展示は地域別に分かれていて、はじめは日本。筒形の懸守りや背守りは鎌倉時代の絵巻に例があるそうだ。麻の葉繋ぎ、籠目、矢絣(破魔矢に通じる)などの文様にも魔除けの意味が込められている。コントラストの強い斜めストライプは手綱模様というのだと知った。

 中国では、人に害をなす五毒(サソリ、ムカデ、クモ、ヒキガエル、ヘビ)から子供を守るため、子供の靴や帽子に虎のデザインを用いる。うん、田舎の町で見たことがある。一方で「毒をもって毒を制す」思想から、五毒そのものの姿を用いることもあるそうだ。五毒をアップリケにしたベストは、可愛いんだか何だか。少数民族の衣装はどれも美しいが、侗(トン)族の「百鳥衣」は裾などに白い鳥の羽根をたくさんつけたもの。中国の歴史や伝説には「鳥の羽根をまとう」って、ときどき出てきたように思う。調べたら、RecordChina「180万円の値がついたミャオ族の豪華衣装-貴州省貴陽市」(2006/9/21)など、ネットにいくつか写真があるが、会場で見たのは白一色に近い落ち着いたものだった。

 東南アジアでは動物の尖った牙を使った装身具が多い。タイのヤオ族の子供用の帽子は、赤いポンポンがたくさんついていて可愛かった。悪霊の嫌う朝をもたらすニワトリのトサカを模している。現代人は忘れがちだが、ニワトリって強い魔除けの鳥なんだなあ。南インドでは、目、耳、鼻などの身体の孔、あるいは服の袖口、裾、襟元などの境界から悪霊が入ってくるのを防ぐため、装身具(光をはねかえす金属)や色(赤は悪霊が嫌う)、文様などで、注意深く結界を張る。アンチモニーという染料で目のまわりを黒くするにも結界の一種。背中にもお守りを忘れない。牛や馬の背飾り、面飾りにも魔除けの意味が込められている。

 西アジアでは邪視をはねかえすため、目を意味する三角形や菱形モチーフ、金属片、揺れるもの、コントラストの強い色彩などが好まれた。あとはアフリカ、ヨーロッパ(主に東欧)も少々。いちばん気に入ったのは、パキスタンの女性用の服で、黒と濃ピンクの二色使いが可愛かった。それからウズベキスタンの絣。色のコントラストが大胆で祭りの半纏みたい。

 展覧会の趣旨にも書いてあったけれど、衣服や化粧には、物理的に身体を守るだけでなく、目に見えないものから命を守る「護符」の役割もあったのだな。いつも(魔に対して)スキだらけで暮らしている自分を少し反省した。
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好きな作品ランキング/雑誌・CREA「大人の少年少女文学」

2016-01-21 22:58:35 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『CREA』2016年2月号「特集・大人の少年少女文学」 文藝春秋 2016.2

 はじめのほうに「500人が選んだ好きな作品ベスト50」というランキングがある。50作品を選ぶのにサンプル500人はちょっと少ないんじゃないかな(複数回答可だが)。30位以下は票数が1桁なので、あまり意味あるランキングと思えないが、上位20位を書き抜いておこう。

1位 赤毛のアン/モンゴメリ(×)
2位 若草物語/オルコット
3位 小公女/バーネット
4位 不思議の国のアリス/キャロル
5位 シャーロック・ホームズシリーズ/ドイル
6位 ハイジ/シュピーリ(△)
7位 大きな森の小さな家シリーズ/ワイルダー
8位 トムソーヤの冒険/トウェイン
9位 モモ/エンデ
10位 ハリー・ポッターシリーズ/ローリング
11位 オズの魔法使い/ボーム(△)
12位 あしながおじさん/ウェブスター(×)
13位 長くつ下のピッピ/リンドグレーン
13位 ムーミンシリーズ/ヤンソン 
15位 クマのプーさん/ミルン(×)
16位 秘密の花園/バーネット
17位 ナルニア国シリーズ/ルイス 
18位 フランダースの犬/ウィーダ
19位 怪盗ルパンシリーズ/ルブラン
20位 ドリトル先生シリーズ/ロフティング(×)

 なるほど。回答者の平均年齢は、私より(かなり)若いのだろう。私に取って『モモ』(日本語版は1976年刊)や『ハリー・ポッター」シリーズは、新刊が書店に並ぶのを見ていた本なので、はじめから家や図書館にあった「古典的名作」と一緒に扱うのは、少し居心地が悪い気がする。ただ「ナルニア国」シリーズなどは、実際に読んだのは中学時代だったが、あまりにも好きになりすぎて、小さい頃から読んでいたように記憶が補正されている感じがする。

 私は、好きな作品は繰り返し読む子どもだったが、好き嫌いが激しくて、一度「面白くない」と感じた本は、それきり手を出さないことが多かった。実は、上のリストで「×」をつけたものは、たぶん読んでいない。1位の「赤毛のアン」は、年少者向けのリライトだけ読んだが、それ以上は決して読まなかった。従姉妹のおねえさんが「面白いから」と文庫本を貸してくれても、かたくなに読まなかった。だいたい女子が主人公の作品には興味が薄かったように思う。

 「△」印は読んだかもしれないが、あまりよく覚えていないもの。『ハイジ』は夢遊病の描写が怖くて、その先が読めなくなってしまった。陽気なアニメの『ハイジ』のイメージが一般化する前の話。

 では、どんな作品が好きだったかというと、上のリストでは『秘密の花園』『小公女』『トムソーヤの冒険』『長くつ下のピッピ』。リストにはないけど『王子と乞食』『宝島』『十五少年漂流記』それに「ヘンリーくんとアバラー」シリーズなど、少年ものが好きだった。それから少年も少女も関係ない冒険ものや探偵もの、動物もの、怪奇もの、歴史もの、作品でいえば『海底二万マイル』『ああ無情』『三銃士』『ジャングル・ブック』『西遊記』、それに「シートン動物記」シリーズも好きだった(もちろん子ども向けリライトで読んだ)。あ、ケストナーの『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』は、少女が主人公でも受け入れやすかったな。忘れてならない、子ども向け「怪人二十面相」シリーズが50位までに入っていないのは、やっぱり世代の差だろうか。

 子ども時代の読書については、人それぞれ思い出とこだわりがあると思うのだけど、それを平均すると、上のようなランキング(主人公=少女ものがベスト3)になるのだろうか。少女(少年)時代の読書って、自分によく似た年代の少女(少年)が主人公の物語を、そんなに読みたいかなあ。特集のコンセプト「人生に迷ったら読みたい」にあわせすぎじゃないか? 私は、もっぱら現実の人生を忘れるために物語を読んできた。男の子になったり、オオカミになったり、中世のナイトになったり、孤独な科学者になったり、別の人生を生きてみるために。あと、本誌で面白そうだなと思ったのは「おいしそうな食べものベスト30」だが、これも回答者(or編集者)が少年少女文学を知らなすぎるんじゃないかと思った。
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今年はサル年/2016博物館に初もうで(東京国立博物館)+常設展

2016-01-20 21:52:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館の新年恒例企画。年末にメガネを紛失して、正月休みに動けなかったので、だいぶ遅れてしまったが、なんとか行ってきた。

■特別1室・2室 特集陳列『博物館に初もうで-猿の楽園』(2016年1月2日~1月31日)

 「博物館に初もうで」も今年で13年目を迎え、「申」から始まった本企画は今年で2周目に入るそうだ。この企画が始まった年(1月2日から博物館が開くようになった年でもある)のことはよく覚えているが、何が展示されていたかは覚えていない。今年は京博の「さるづくし」を先に見てしまったので、心の中で比べながら見る。狂言面は京博でも出ていた。水滴、目抜、根付など工芸品が多い。書画は狩野山雪筆『猿猴図』がメインビジュアル。とびぬけて可愛い。個人的には、狩野尚信筆『猿曳図』がすごく好き。墨の濃淡が気持ちいい。猿曳きは尖った帽子をかぶっている。

■本館2室(国宝室)ほか 新春特別公開

 常設展のところどころに「新春特別公開」の見出しをつけた名品が隠れている。国宝室では長谷川等伯筆『松林図屏風』を公開(2016年1月2日~1月17日)。これ、最近三年くらい新春特別公開が恒例になってしまっているが、できれば、もっとお客の少ない時期にそっと出してほしい。本館7室(屏風と襖絵)の池大雅筆『楼閣山水図屏風』(2016年1月2日~1月24日)は、金地に赤・青・緑などの色彩が華やかで、お正月らしくてよかった。岳陽楼と酔翁亭だというが、酔翁亭(安徽省)は行ったことないかなあ。本館10室(浮世絵)は、だいたい足早に通り過ぎるのだが、今回はオール葛飾北斎で足が止まった。『冨嶽三十六景・凱風快晴』などの有名作品だけでなく、版本『飛弾匠物語』や肉筆浮世絵『七面大明神応現図』など、めずらしいものが見られた。

■本館15室(歴史資料)『中国史跡写真』(2016年1月2日~2月28日)

 建築史家・関野貞(せきのただし、1867-1935)の中国史跡・建造物調査の写真展。関野に随行し、調査記録の作成と写真撮影に当たった竹島卓一(たけしまたくいち、1901-1992)が持ち伝えた4000件以上の焼付写真が、平成25年(2013)に竹島の親族から東博に寄贈された。今回の展示は、その一部を公開するもの。南京の棲霞寺や大同の下華厳寺など、行ったことのある史跡もあって、懐かしく眺めた。説明によると、同館は東京大学東洋文化研究所と共同して、平成26年度にこれら写真の目録を公開したそうである。昔からこのひとに興味があった私としては、ちょっと嬉しい。(※参考:東大総合研究博物館のニューズレター「特別展 関野貞の仕事と人物/藤井恵介

■東洋館8室(中国の書画) 特集陳列『藍瑛とその師友-家族と工房-』(2016年1月2日~2月14日)+『顔真卿と唐時代の書』(2015年12月1日~2016年1月31日)

 絵画は藍瑛(らんえい、1585-1664、異説あり)の特集。解説によれば、浙派の雄大な構図法に当時の江南で流行していた清雅な文人画法を取り入れて新しい画風を確立し、江戸の文人画家たちに影響を与えたそうだ。知らない名前の画家だったが、作品は気に入った。ただ、展示品のほとんどが「個人蔵」で写真撮影できなかったのが残念。書は、日本人にもなじみの深い唐時代の書を特集。展示品は、当たり前だが全て拓本である。顔真卿の書は、それと分かりやすくて好き。
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岩佐又兵衛と注文主/洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男)

2016-01-19 21:29:35 | 読んだもの(書籍)
○黒田日出男『洛中洛外図・舟木本を読む』(角川選書) KADOKAWA 2015.11

 黒田日出男先生の「近世初期風俗画に歴史を読む」シリーズ第3弾! 『豊国祭礼図を読む』『江戸名所図屏風を読む』に続いて著者が挑むのは、『舟木本洛中洛外図屏風』(舟木屏風)である。現在は東京国立博物館が所蔵しており、2007年の常設展、2013年の特別展『京都-洛中洛外図と障壁画の美』などで見たことがある。岩佐又兵衛描く「豊頬長頤」ふうの人々が躍動する、にぎやかでエネルギッシュな屏風だ。

 私はこの屏風の出自や研究の沿革を全く知らなかったので、非常に勉強になった。戦後まもなく滋賀県長浜の医師舟木邸で発見されたこと。舟木医師は少し前に彦根の古美術商からこれを購入したこと。発見者の美術史家・源豊宗は岩佐又兵衛の初期作であると直感したが、辻惟雄は「又兵衛ではなく、又兵衛前派とでもいうべき、又兵衛より一世代前の、すぐれた風俗画家」の作と推定し、1970年代から80年代にかけて、これが定説となった。しかし90年代以降にようやく変化のきざしが見られ、弟子の山下裕二氏の「口撃」がきっかけとなってか(この研究史のトレースはすごく面白い!)辻は2008年の著書『岩佐又兵衛』(文春新書)で、ついに半世紀にわたって維持してきた自らの仮説を改める。引用によれば「遂に納得できた。『舟木屏風』は又兵衛だ!」と書いているらしい。これ、ここだけ読んでもふーんと思うだけだが、半世紀の日本美術研究にかかわった人たちの喜怒哀楽を思うと感慨深い。

 著者は、美術史家の解読を「それはそれ」とした上で、絵画史料論的読解に踏み出す。はじめに六条柳町に描かれた紺暖簾が遊女屋のしるしであることを示す。谷峯蔵『暖簾考』によれば、最も多く使われたのは紺色・藍色。小泉八雲が、暖簾には緑色と黄色がまったく使用されていないと気付いていたこと、赤地の派手な暖簾は玩具商や水茶屋、相撲茶屋に使われていたことも。風俗を正確に再現するって難しいんだなあ。非現実的な「吹き上げ暖簾」によって遊女屋の内部を描くのは、絵巻の「吹き抜け屋台」の技法と同じ、という指摘も面白かった。

 次に舟木屏風は右隻に東山の名所、左隻に下京の町を、ムリヤリな構図で収めており、屏風の注文主は下京に住んでいたのではないかと推測する。さらに右隻のメインである方広寺大仏殿の豊国定舞台の表現を検討し、演じられているのは定説の「松風」ではなく「烏帽子折」であると結論する。描かれた装束や役柄を手がかりに『謡曲全集』を総めくりして演目を探し出す過程がスリリングである。さらに史料によって、豊国定舞台で「松風」が演じられた記録がないこと、『舜旧記』慶長19年8月19日条にある「長ハン」(長範)が「烏帽子折」の異称と判断できることを示す。

 左隻については、内裏の清涼殿の左側に冠直衣姿の年若い公家と赤い装束を着た黒髪の上臈が向き合っているのに注目。また紫宸殿の右側最上段(改装の際に裁ち落とされているので見にくい)に五人の上臈が短冊を持っているのにも注目。これまで誰も注目していなかったこれらの表現が「猪熊事件」(官女密通事件)を描いたものと指摘する。「戦国から近世初頭の日本史を研究している者にとっては、ピンとくる表現なのだ」と著者は書いているが、日本史の素養のない私は、全く知らなかった。しかしググったら『へうげもの』18巻にも登場する事件らしい。いろいろ勉強になる。ほかにも、鷹を拳に据えたかぶき者の描写から公家の鷹狩りの禁止を読み解き、五条橋の上で踊る花見帰りの一行(桜の枝を持っている)を豊国社の枝垂れ桜に結びつける(後者は武蔵大学大学院の院生の発見)など、あざやかな謎解きが次々に示される。

 最後に舟木本屏風の注文主について、印象的な「雪輪笹」の暖簾を手がかりに室町二条上ルの笹屋半四郎という人物にたどりつく。雪輪笹紋の暖簾のかかった町家の裏庭に、それらしき人物(坊主頭、着流し)が描かれている。そして、この町家の裏庭をはじめ、「若松」を描いた箇所が、舟木本屏風には九か所ある。これらは、注文主と特にかかわりのある場所を示す「しるし」ではないかと著者は指摘する。面白い。注文主の推定に総動員される、家紋研究、建築研究、京都の商人研究、茶道史などの先行研究の使い方は、長いキャリアを持つ研究者でなければできないと思って、賞賛のため息をつくばかりだが、こういう「若松」のような仕掛けの発見は、無心に屏風を眺め尽したら、素人もできそうな気がする。

 文中には、東本願寺の描き方(木に笠を掛ける習俗?)など、まだ解き明かせない「謎」も率直に言及されており、今後の研究の進展が待ち遠しい。それから、途中でさりげなく著者が「金の烏帽子については、又兵衛の絵巻群の読解を試みる次著で検討を加える予定」と書いている箇所があって、思わず二度読みしてしまった。そんな嬉しい次著が待っているのか。踊り出したいくらい楽しみ!!

e国宝:洛中洛外図屏風(舟木本)
「洛中洛外図屏風」アプリ(iPhone用)について(東京国立博物館)
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東国の古社/香取神宮(千葉県立美術館)

2016-01-18 22:36:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉県立美術館 特別展・千葉県文化財保護条例制定60周年記念『香取神宮-神に奉げた美-』(2015年11月17日~2016年1月17日)

 2ヶ月前に始まった展覧会なのに、気づいたら最終週になっていた。慌てて行き方を調べて、おや、この美術館は行ったことがないぞ、と思った。京葉線の「千葉みなと」という初めての駅に下りて、海側に少し歩いたところにある。

 展覧会のタイトルである香取神宮(千葉県香取市)は、鹿島神宮と並んで関東を代表する古社、と会場の説明パネルにあった。この展覧会に来てしまってから言うのも何だが、私は鹿島神宮は行ったことがあるが、香取神宮はない。どこにあるんだろう?と最後までよく分からなかった。さっき調べて、利根川の南岸、ほとんど茨城県に接する位置にあることを把握した。

 展覧会は、まず香取神宮が『日本書紀』や『延喜式』に登場する古社であることを示し、神宮や神職の家に伝わる文書などを展示する。絵図や地誌なども。『総州真景図藁』という油彩のようにはっきりした色彩の絵があって、思わぬことに亜欧堂田善の作品だった。

 次は「香取神宮神幸祭絵巻」の大特集。神幸祭(じんこうさい)は、祭神・経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が東国を平定した様子を模したものと言われ、絵巻には人馬の華やかな行列が端から端まで描かれている。現存する6点+1点(水戸彰考館本は焼失、写真アルバムのみ残る)の現物が全て(開いているのは一部だが)展示されており、さらに全体像の写真が会場の壁等に展示されている。すごい!楽しい!

 現存6点の特徴を簡単に記録しておこう。(1)国学院大学本:絹本で地色は暗い。造型はきっちりして生真面目な印象。 (2)大禰宜家本:色彩が薄めでさわやか。比較的きっちりしている。(3)権検非違使家本:色塗りは丁寧だが、建物を写すのが苦手らしくパースが狂いっぱなし。まっすぐな線が引けていない。(4)日本民藝館本:全体が粉を吹いたように白っぽく、クレパスで描いたように見える。(5)多田家本(現香取神宮所蔵):少しまとも。すっきりして水彩っぽい。(6)成田山仏教図書館本:異色。折り返した列が1枚の料紙を上下2段に通っている。いちばん面白かったのは、神宮寺本殿の床下に列柱と礎石が見えるのだが、(3)本では柱が多すぎて、ムカデのようになってしまっている。(4)本もこれを引き継いでおり、もぞもぞ動き出しそう。また顔を隠して馬に乗った「物忌」という存在が気になって調べてみたら、斎宮のようなものらしい。木曜時代劇『塚原卜伝』に出て来たらしいことも分かってしまった。

 次に「神を彩る名宝」の数々。中央に大きな木造十一面観音立像(関東最大で最古とも。頭上面は全て散逸)が据えられていたが、明治の廃仏毀釈の際に香取神宮を出され、現在は同じ香取市の荘厳寺に安置されている。銅造の掛け仏四体も、同様に別のお寺の保有となっていた。香取神宮には多数の銅鏡が伝わっているが、最大の見ものは、国宝『海獣葡萄鏡』。さまざまな動物の姿が躍動的で、見れば見るほど面白い。隣りにあった1対の『古瀬戸黄釉狛犬』は可愛かったなー。机に置きたいようなフィギュアサイズ。近代美術の奉納品もあわせて展示されていた。

 たいへん面白かった展覧会だが、残念だったのは図録が売り切れだったこと。「いつ売り切れたんですか?」と聞いたら「先週の金曜くらい」とおっしゃっていた。ううむ、やっぱり年末に来ておくべきだったか。ミュージアムショップで展覧会オリジナルの絵馬を売っていたので、今年の願い事を記入して奉納。美術館のロビーに吊るしておくと、あとでお焚き上げしてくれるのだそうだ。



 東国に住んでいるうちに、香取神宮と鹿島神宮は、一度行っておかねばならないな。
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体験する美術/誤解だらけの日本美術(小林泰三)

2016-01-17 23:30:05 | 読んだもの(書籍)
○小林泰三『誤解だらけの日本美術:デジタル復元が解き明かす「わびさび」』(光文社新書) 光文社 2015.9

 著者はさまざまな日本美術をコンピュータを使って制作当時の姿に復元する研究をしている。私たちが「わびさび」の美意識で見ることに慣らされている日本美術が、当初は意外と派手な色彩だったというのは、だんだん常識化して、あまり驚かなくなってきた。本書は、色彩を復元したそのあとの楽しみ方が詳しく語られていたので、読んでみようと思った。登場する美術品は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』、キトラ古墳壁画、銀閣寺、興福寺の阿修羅像。

 宗達の『風神雷神図屏風』は、風神の緑、雷神の白の対比が際立つ、軽快で「品のよいド派手」な姿が現れる。さらに著者はこれを屏風に仕立てて立体化してみる。屏風の金箔のタイル模様を再現する工夫が面白い。そして、できあがった屏風の前に座ってみると、雷神が見下ろしている視線を感じる。実は、宗達と光琳の『風神雷神図屏風』を比べると、大きな違いのひとつが雷神の視線で、光琳の雷神は右隻の風神と視線を交わしているように感じられる。けれど宗達の雷神は、屏風の外に視線を向けているのだ。それから照明を弱めて、夕陽のように横から当てると、さらに屏風の表情が変わって、風神と雷神がゆったりと浮遊して、前に飛び出してくる感じになったという。見たい! 著者もいうとおり、こうした実験は本物では難しい。そこで精巧なデジタル複製が威力を発揮するのだ。

 キトラ古墳壁画の復元の試み(けっこうアナログ)を紹介したあと、著者は2014年の東博の『キトラ古墳壁画』展に触れて、待っている間に「空間」を体感して楽しんでもらうべきだった、という意見を述べている。これは完全に同意。ちなみに奈良の飛鳥資料館には、実際の墓室をイメージできる「陶板複製」があったと思う。

 銀閣寺は、完全にコンピュータ・グラフィックスだけでの復元である。記録に忠実に、屋根の裏側には繧繝模様の彩色を施し、銀閣の壁を黒漆で塗ってみる。そこに満月の光を当てる。さらに正面にあったという池に反射した月の光が、下から銀閣を照らす効果を加味してみると、やわらかな光につつまれた、まさに銀の楼閣があらわれた。著者の記述を信じるなら、はじめから想定した結果ではなく、さまざまなエフェクトを積み上げていった末に、偶然、銀閣の真の姿が発見されたことになっている。CGってそんなことができるのか。面白い。

 阿修羅像の復元は、とにかくド派手な姿である。これが当初の姿だと言われても、正直、仏像だけはやっぱり年代を経た姿でないと受け入れがたい。ただ、腕の向きが今とは微妙に違ったのではないかという推定が面白い。著者は、いちばん外側の左右の手には日輪・月輪を戴かせ、次の手には弓と矢を持たせ、最後の手は合掌でなく、胸の前に法輪を捧げる姿に復元している。確かに落ち着く感じはする。
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