○文京区立鴎外記念館 コレクション展『奈良、京都の鴎外-今日オクラガアキマシタ。』(2015年12月11日~2016年2月7日)
小さい展覧会だが面白かった。文豪・森鴎外(1862-1922)が奈良、京都で過ごした日々にフォーカスする。チラシによれば、大正4年(1915)11月、陸軍軍医総監として大正天皇の即位の大礼に参列するため、京都を訪れたこと、大正7年(1918)から10年まで、帝室博物館総長兼図書頭として、正倉院の曝涼(虫干し)に立会うため、ひと月ほど奈良に滞在したことが取り上げられている。圧倒的に印象的だったのは後者(奈良)。京都については資料点数も少ないし、参列者の中に鴎外の氏名がまじる「官報号外」とか、参列記念品の「御大礼恩賜銀杯」など、鴎外の顔が見えない資料が大半である。
それに比べると奈良については、内面の信念や嗜好に動かされる、生き生きした鴎外の姿が目に浮かぶ。当時、正倉院宝物の拝観は、高等官や有爵者(華族)などに限られていた。帝室博物館総長たる鴎外は「学術技芸に関し相当の経歴ありと認め」た場合は、特別に許可するように規程を改正し、正倉院宝物の調査研究を後押しした。また、佐々木信綱、山田孝雄、田中親美などに拝観の便宜をはからっている。鴎外って、こういうところ実に有能だなあ。規程をつくることが改革のキモだということをよく分かっている。鴎外が帝室博物館において、図書・統計・台帳などを保管する文庫(アーカイブズ)の規程を定めたこと(※東博の展示で見た)を思い出した。なお、この展示で知った余談だが、江戸時代の国学者・穂井田忠友は正倉院御物を見るために、一人娘を開封の勅使・梶野良材の側室に差し出したという。ううむ『地獄変』みたいな話だ。
大正7年、鴎外は正倉院聖語蔵の経巻から一切経音義の零本を発見し、のちに山田孝雄は、これが巻六の残闕であることを確認した。山田孝雄は聖語蔵本『一切経音義』の研究に取り組み、大著『一切経音義索引』を完成させる。国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で同書(レコード2件あり)を閲覧することができるが、どちらも手書き原稿を印刷したもののようだ。漢字の種類がありすぎて活字を組めなかったのかなあ。同書刊行後、鴎外は正倉院宝物の楽器の調査を山田孝雄に依頼し、自分でも古楽器調査の記録を残している。
「奈良の鴎外」のもうひとつの側面を示すのは、子供たちに書き送った大量の絵葉書である。大きな読みやすい字で「けふは長谷寺といふ山の中の寺に行きました。」などの簡単な近況報告が添えられている。ツイッターみたいだ。「今日は京都にいったからおみやげにするおくゎしをかってきました。」なんてのもある。大正8年の葉書はひらがなが多いが、その前後の年を見ると、カタカナもどちらもある。子供の成長に伴って、漢字が増え、文も少し長くなっていく。「正倉院の中はゲンゲがいっぱいさいてゐて子供にとらせたいとおもった」というのもいいなあ。今でも春はまわりにゲンゲが咲くんだろうか。鴎外が奈良で愛用していた地図(官舎の位置が記されている)は東大総合図書館に所蔵されている由。見てみたい。
展示品で驚いたのは、鴎外が奈良の官舎で使用していたという布団。鴎外は、帝室博物館職員の松嶋氏が暮らしていた官舎の十畳間に寝泊まりしていた。紫色の布団と同じ生地の掻巻は松嶋家で大切に保管され、平成2年、松嶋順正氏(息子さん?)から鴎外記念館に寄贈されたのだという。今の羽毛布団と違って寒そう~と思ったが、曝涼が秋なら問題ないかな。
奈良の鴎外を知るには、日記「委蛇録」(その一部が「寧都訪古録」)のほかに「奈良五十首」という短歌群があり、聖俗入り混じった題材が興味深い。京都から宇治、木津を経て、奈良に近づいていくところから始まるのだが、冒頭の京都を詠んだ歌が好きなので、ここに掲げておく(京はわが先づ車よりおり立ちて 古本あさり日をくらす街)。帰りにミュージアムショップで、平山城児著『鴎外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)を見つけて、買ってしまった。
※奈良国立博物館の敷地にある「鴎外の門」(鴎外が滞在した官舎の門)の写真
小さい展覧会だが面白かった。文豪・森鴎外(1862-1922)が奈良、京都で過ごした日々にフォーカスする。チラシによれば、大正4年(1915)11月、陸軍軍医総監として大正天皇の即位の大礼に参列するため、京都を訪れたこと、大正7年(1918)から10年まで、帝室博物館総長兼図書頭として、正倉院の曝涼(虫干し)に立会うため、ひと月ほど奈良に滞在したことが取り上げられている。圧倒的に印象的だったのは後者(奈良)。京都については資料点数も少ないし、参列者の中に鴎外の氏名がまじる「官報号外」とか、参列記念品の「御大礼恩賜銀杯」など、鴎外の顔が見えない資料が大半である。
それに比べると奈良については、内面の信念や嗜好に動かされる、生き生きした鴎外の姿が目に浮かぶ。当時、正倉院宝物の拝観は、高等官や有爵者(華族)などに限られていた。帝室博物館総長たる鴎外は「学術技芸に関し相当の経歴ありと認め」た場合は、特別に許可するように規程を改正し、正倉院宝物の調査研究を後押しした。また、佐々木信綱、山田孝雄、田中親美などに拝観の便宜をはからっている。鴎外って、こういうところ実に有能だなあ。規程をつくることが改革のキモだということをよく分かっている。鴎外が帝室博物館において、図書・統計・台帳などを保管する文庫(アーカイブズ)の規程を定めたこと(※東博の展示で見た)を思い出した。なお、この展示で知った余談だが、江戸時代の国学者・穂井田忠友は正倉院御物を見るために、一人娘を開封の勅使・梶野良材の側室に差し出したという。ううむ『地獄変』みたいな話だ。
大正7年、鴎外は正倉院聖語蔵の経巻から一切経音義の零本を発見し、のちに山田孝雄は、これが巻六の残闕であることを確認した。山田孝雄は聖語蔵本『一切経音義』の研究に取り組み、大著『一切経音義索引』を完成させる。国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で同書(レコード2件あり)を閲覧することができるが、どちらも手書き原稿を印刷したもののようだ。漢字の種類がありすぎて活字を組めなかったのかなあ。同書刊行後、鴎外は正倉院宝物の楽器の調査を山田孝雄に依頼し、自分でも古楽器調査の記録を残している。
「奈良の鴎外」のもうひとつの側面を示すのは、子供たちに書き送った大量の絵葉書である。大きな読みやすい字で「けふは長谷寺といふ山の中の寺に行きました。」などの簡単な近況報告が添えられている。ツイッターみたいだ。「今日は京都にいったからおみやげにするおくゎしをかってきました。」なんてのもある。大正8年の葉書はひらがなが多いが、その前後の年を見ると、カタカナもどちらもある。子供の成長に伴って、漢字が増え、文も少し長くなっていく。「正倉院の中はゲンゲがいっぱいさいてゐて子供にとらせたいとおもった」というのもいいなあ。今でも春はまわりにゲンゲが咲くんだろうか。鴎外が奈良で愛用していた地図(官舎の位置が記されている)は東大総合図書館に所蔵されている由。見てみたい。
展示品で驚いたのは、鴎外が奈良の官舎で使用していたという布団。鴎外は、帝室博物館職員の松嶋氏が暮らしていた官舎の十畳間に寝泊まりしていた。紫色の布団と同じ生地の掻巻は松嶋家で大切に保管され、平成2年、松嶋順正氏(息子さん?)から鴎外記念館に寄贈されたのだという。今の羽毛布団と違って寒そう~と思ったが、曝涼が秋なら問題ないかな。
奈良の鴎外を知るには、日記「委蛇録」(その一部が「寧都訪古録」)のほかに「奈良五十首」という短歌群があり、聖俗入り混じった題材が興味深い。京都から宇治、木津を経て、奈良に近づいていくところから始まるのだが、冒頭の京都を詠んだ歌が好きなので、ここに掲げておく(京はわが先づ車よりおり立ちて 古本あさり日をくらす街)。帰りにミュージアムショップで、平山城児著『鴎外「奈良五十首」を読む』(中公文庫)を見つけて、買ってしまった。
※奈良国立博物館の敷地にある「鴎外の門」(鴎外が滞在した官舎の門)の写真