見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

碁盤の上の姫君/出光美術館

2005-02-28 00:04:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館『源氏絵―華やかなる王朝の世界―』

http://www.idemitsu.co.jp/museum/

 源氏物語の世界を視覚化した作品、特に室町~江戸の屏風絵を多数展示している。コマ仕立ての名場面を区切る金泥の雲が美しい。うーむ。しかし私は「源氏物語」って、平安の闇を前提として、初めて成立する物語だと思う。漆黒の夜の闇があってこそ、男は許されざる高貴な女性のもとに忍び入り、時には女性は操を守って逃げおおせ、時には相手の正体も知らないままに相契り、着物の残り香だけを記憶にとどめる。そういう「源氏」の世界と金泥のピカピカした華やかさにはちょっと違和感を覚える。もっとも、狩野探幽の源氏絵屏風では、惜しみなく使われた金泥が、凪の海みたいに渺々とした味わいを醸し出していて、そこがいいのだが。

 「伝・俵屋宗達」の源氏絵残闕が3点出ていた。登場人物の京人形のような顔立ちと、明らかに写実より「デザイン性」を重視した画面構成が、確かに宗達(の周辺)っぽい。その1枚、「葵」と題された画面では、碁盤の上に立った少女の髪を、男(源氏?)が鋏でそごうとしている(出光美術館のサイトに画像あり)。え?こんな場面あったっけ?

 帰ってから「源氏」を読み直してみた。すると確かに葵巻には、源氏が紫上の髪をそいでやる場面がある。「君の御髪は我そがむ」と言って。しかし、碁盤の上に立たせたという記述は原文にはない。

 下記のサイトによれば、長承三年(1134)に行われた恂子内親王・本仁親王の「髪削」(髪の先を切りそろえ、髪が豊かに生えることを願う儀式)に際しては「父役の鳥羽上皇が据えた碁盤の上に本人が上り、母役の太皇太后令子内親王が髪を削いだ」という記事があるらしい。原典は未確認である。

■源氏物語にみる平安時代の生活
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0307-1-7.htm

 後世、この習慣は「髪置」「着袴」など子供の成長を祝う様々な行事と交じり合って、今日の「七五三」に流れ込んでいるようだ。が、とりあえず、葵巻での紫上の整髪は日常の所作であって、特別な儀式ではないので、わざわざ碁盤の上には立たなかっただろう。紫上、もうかなり大人だし。まあ、下記のような図像が穏当なところか。

■風俗博物館「髪削ぎ 紫の君」
http://www.iz2.or.jp/tenji/main_sub_39.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九博への期待/東京国立博物館

2005-02-27 19:12:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特集陳列『ホップ・ステップ・九博』展

http://www.tnm.jp/

 ”九州大好き!”な私は、2005年10月の九州国立博物館の開館を心待ちにしている。そこで、今回の特集陳列を、さっそく覗きに行ってきた。そしたら入口付近は「唐招提寺展」と「踊るサテュロス」の宣伝ばかりで、あれ?九博展はまだ始まってなかったかしら?と、ちょっと不安にさせられた。

 本館1階の1室と2階の1室を使った小規模な展示である。1階は青銅器が中心だが、彩画鏡(銅鏡の上に彩色したもの)というのを初めて見た。おお、装飾古墳で知られる九州っぽいなあ、と思ったら、中国の出土品だった。

 福岡県にある装飾古墳、王塚古墳をデジタル復元したビデオ展示は興味深かった(東大生研の某研究室、トッパンなどの共同事業)。先週、NHKの『シルクロード』でもベゼクリク石窟の壁画の復元をやっていたなあ。所詮、復元は復元に過ぎないということは念頭に置きつつ、こういう試みは楽しみたいと思う。なお、王塚古墳の場合、本物は春秋の年2回、公開されるのだそうだ。また行きたいところが増えてしまった~。

 出色だったのは「装飾古墳をつくろう」という体験コーナー。装飾古墳に使われた絵画や文様をマグネットにしたものが一揃い置いてあり、台紙に貼り付けて、自分の装飾古墳をデザインするというもの。色鮮やかなキットがとってもかわいい。「よ~く見ると馬には男の子と女の子があるんですよ」と解説のおばさんが教えてくれた。

 2階は大宰府関係の文物。ここでも鬼瓦の複製品に触れたり、一定の区画に三角や四角の磚(せん)を敷き詰めるジグソーパズルなど、楽しい体験ものが待っていた。

 そのあと、ざっと流し見た平常展では、国宝室の「藤原光能像」(神護寺蔵)が思わぬ拾いものだった。東博所有の国宝しか展示しないのかと思っていたら、よその国宝もときどき出すのね!

 仏教美術の部屋では、名品「遊行上人伝絵巻(甲)」を見ることができた。ものを食う人々、もしくは食うことの期待に満ちた人々の、活気と生命力にあふれる場面が開かれている。お堂の中で箸をとる遊行上人と僧侶たち、庭先で忙しく給仕に立ち働く人々。続いて、炊き出しを取り巻く3つの輪が描かれる。最初の輪は、僧侶と庶民たち。次の輪は乞食たち。めくらやいざりの姿も交じる。そして、最後の輪は癩者たちなのであろう、白い布を顔や頭に巻いた人々。どの人物も、それぞれに生き生きした個性が想像されて見飽きない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個性際立つ十大弟子/金沢文庫

2005-02-26 20:10:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立金沢文庫開館75周年記念特別展『仏教美術の華』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 金沢文庫は、毎年、この時期に仏教美術に関する企画展示会をやっているはずだ。毎年、通りみちの民家の梅の咲き具合を気にしながら訪ねていく。しかし今回、「開館75周年記念」をうたっているにしては、いまいち華やかさがないように思った。

 絵画と文書が多い。見どころは十大弟子像(称名寺蔵)かなあ。ひとりひとり個性が際立っていて、鎌倉肖像彫刻の名品だと思う。中には、釈迦の弟子とは思えない、俗臭紛々とした面構えの持ち主も混じっている。できれば床にしゃがみこんで、下から目線を合わせるように覗き込むようにするといい。

 1体ずつ弟子の名前を付していないのは残念。同じフロアに2003年4月の特別展『釈迦と仏弟子たち』の図録が置いてあるので、これを参照しながら拝観するのがよい。釈迦の十大弟子は、それぞれ「智慧第一」「説法第一」「多聞第一」など、異なるキャッチコピーを背負っているので、それを念頭に置きながら面構えを見直すと、一層味わい深いものがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネット言葉と聯想のPC(記事2題)

2005-02-25 19:34:32 | 見たもの(Webサイト・TV)
■「ネット言葉」は表現の破壊? それとも進化?(Hotwired Japan, 2005/02/22)
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050225206.html

 私は大学で国文学を学び、塾と学校で、小学生、中学生、高校生に国語を教えたこともある。今でも「言語」というものに興味が尽きない。

 この数年、インターネットの普及によって、「読み書き」によるコミュニケーションの機会は激増しているのではないかと思う。たとえ珍奇でひとりよがりな表現を用いてであっても、とにかく「書く」機会が増え、それが思わぬコミュニケーションを生むことは、いろいろ問題も孕んでいるけれど、おもしろい状況だと思う。

 今日、どの言語も、さまざまな変革を迫られているに違いない。でも、ウェールズ大学のクリスタル教授と同様に、私もそれは素晴らしいこと・わくわくすることだと思っている。

■なにかと話題の「Lenovo」PCを使って中国でネットにアクセスしてみた(ITmedia, 2005/02/25)
http://www.itmedia.co.jp/pcupdate/articles/0502/25/news031.html

 Lenovo(聯想)といえば、さきごろIBMのパソコン事業部門を全て買い取った企業集団。そのLenovoのデスクトップPCは、17インチ液晶ディスプレイ付きが約5000元(6万5000円)で売られているそうだ。プレインストールされているOSはDOS(IBM DOS7)。

 筆者は言う。「Windows XPのインストール説明で、BIOS設定画面の出し方を紹介せずに、いきなり『BIOSの設定をCDブートに変えてください』と書いてあるのには驚かされた。本体や箱に『中国億万家庭の電脳の夢』と書いてあるように、初心者向け家庭を想定しているはずなのだが、これはちょっと厳しい表記ではないだろうか。」

 でも日本と違って、中国でパソコンを買おうという家庭は、お父さんとかお兄さんとか(お姉さんでも可)、ひとりくらい技術系がいて、この程度の作業は楽々クリアしてしまうのだったら、ホントに「億万家庭の電脳の夢」なんだが。

 私はいちおうDOSの時代からパソコンを使っているし、BIOS設定もやったことはある。ちょっと欲しいな、Lenovoのパソコン。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市場への抵抗/自由を耐え忍ぶ

2005-02-23 23:08:20 | 読んだもの(書籍)
○テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店 2004.10

 テッサさんの本を「おかわり」って感じでもう1冊。

 本書の主要テーマは、自由=自由市場主義の容赦ない拡大と深化が、世界の各地で、とりわけ貧しい国々で、人々の生活と生命を脅かしていることに対する「異議申し立て」である。

 市場原理の深化は、国家と市場の結託を生み出した。しかし「議会」「司法」という民主主義の装置は、今日のような状況を想定していない。したがって、軍事、警察、出入国管理、医療、薬事など、我々の生命の安全に直結する問題が、全て「民営化」「アウトソーシング」の美名のもとに、巨大な「私企業」の管理するところになれば、我々は重要な決定に参加する権利を失い、さらに、何か問題が生じても、リコールの意思表示や情報公開の請求ができない危険性がある。

 私の職場である大学は、昨年4月に法人化された。教育機関の民営化は、警察や軍事に比べれば社会的脅威は少ないかもしれない。しかし、本当にそれでよかったのか。確かに、これまで日本の公務員はコスト意識が低すぎた。その後ろめたさがあるため、良心的な職員ほど、「コスト意識」とか「経営の視点」とか言われると、なんだか恫喝を受けたように、反射的に引き下がってしまう。しかし、もう無批判に恐れおののくのはやめようと思った。

 なるほどコスト計算は重要である。しかし、コストの多寡は、生み出される価値の多寡と相関するものだ。では、教育における「価値」とは何か? 金を稼ぐことか? 学生や構成員に福利を提供することか? 国家のために先端的な研究成果を生むことか? 人類の遠い将来に責任を持つことか? 安易な「アウトソーシング」論議の中で、コスト削減論者が「価値」と考えているものは本当に正しいのか。もちろん、我々はどこかに「線」を引かなければならない。でも、それなら、可能な限り目線を高く上げて、責任ある線を引きたい。

 どっちを向いても暗いニュースばかりの昨今なのに、著者は言う。「もし(9.11のテロのように)個人や少人数の集団が、世界をより危険で暴力に満ちたものに変化させることができるとするなら、同じく個々人や小さな集団の行為は、言葉本来の意味での平和、相互理解、安全といったものを世界で実現する可能性を孕むはずである」。この強靭な楽観主義に学ぼう。

 考えなければならないことはたくさんある。また、学ぶべき試みもたくさんある。たとえば「知の囲い込み」に対する抵抗として、情報産業におけるフリーウェア、エイズ新薬の特許制限、熱帯雨林地域における”バイオ強盗”の阻止など。でも、あなたも私も、まず身近な一歩から。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すでに佳境の《白銀谷》

2005-02-22 23:58:40 | 見たもの(Webサイト・TV)
○電視連続劇『白銀谷』全45集

http://ent.sina.com.cn/v/f/byg/index.html

 例によってCCTVの古装劇。全45集の半ばを過ぎたところから見始めた。放映開始から気にはなっていたのだが、複数のドラマを並行して見始めるとキリがないので、『人生幾度秋涼』の終了を待って、こっちに乗り換えた次第である。

 時代はまさに清朝が倒れようとする動乱期。山西省太谷(実際にある地名)で金融為替業を営む大商人、いわゆる「晋商」の一家、康家の物語である。同業のライバル秦家との闘争、一族内部の愛憎、世代間や兄弟間の争い、また新時代の到来に翻弄される人々を描く。

 ドラマは康家の若主人(康三爺)とその父・康老太爺、三爺を愛しながら老太爺に嫁いだ女性の三者の葛藤を軸に進んでいる。三爺役は侯勇という俳優さん。昨年、ドラマ『大染坊』で評判になったので名前だけは知っていたが、ナルホドいいなあ。ぜんぜん美形ではなくて、色男役のできないタイプだが私は好きだ。

 既にストーリーが半分以上進んでいるので、ネットで前半のあらすじをチェックしながら見ている。DVDだかVCDだかを買ってもいいのだが、できれば小説で読んでみたい。原作は2002年に出版され、2004年に茅盾文学賞に入選した(大賞1作品を選ぶのでなく、4年に1度、複数の入選作を発表する。中国の純文学の最高賞とも言う)。しかし、どうやら日本語訳はなさそうだ。私は中国語で本格的な長編小説を読めるほどの語学力はないので、悔しい...

 昨年、台湾に行ったとき、書店に入って、翻訳文学の充実ぶりに圧倒された。日本文学では、漱石、芥川、村上春樹などはもちろんのこと。島崎藤村の「破戒」、ええと二葉亭四迷の「浮雲」もあったかな。新しいものでは夢枕獏「陰陽師」、小野不由美「十二国記」もあった。

 この状況は、正直なところ、日本の現代文学の質の高さというよりも、台湾読者の海外文学に対する貪欲さに拠ると思う。これに対して、日本の翻訳文学市場はさびしい。その中でも、アジアの近現代文学なんて、需要がないから出版されない、と言えばそれまでだけど、もう少しなんとかならないものかしら。

参考:
■商人の英知刻んだ大邸宅 山西省晋中市(人民中国)
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200302/zhuan62.htm
■中国新語流行語:茅盾文学奨
http://www.e-kampo.org/neword/
■成一商薯榷余秋雨 晋商不是這様写的(原作者・成一、自作を語る)(中国語)
http://www.chinese01.com/list.asp?articleid=1205
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディアに学ぶ歴史/過去は死なない

2005-02-21 00:08:45 | 読んだもの(書籍)
○テッサ・モーリス-スズキ『過去は死なない:メディア・記憶・歴史』岩波書店 2004.8

 (以下は、厳密には公言してはいけないことだが)私は、数年前、つとめていた図書室のカウンター越しに著者と対面したことがある。彼女は写真に関する図書を大量に借りていかれた。私は著者を社会思想や政治哲学の専門家と思っていたので、どうしてこんな本を必要とされるのか、とても不思議だった。本書を読んで、当時の疑問が氷解した。

 この数年、日本では歴史教科書をめぐって激しい議論が起きている。だが、その実、我々は教科書だけから、歴史を学ぶわけではない。むしろ我々の「過去に対する理解」は、写真、映画、歴史小説、マンガ、インターネットなど、さまざまな大衆メディアの影響によって形成されている。

 そこで著者は、各種メディアにおける歴史の表現を検証し、記憶に焼きつくメディア、感情をゆさぶるメディアなど、各々の特性を明らかにする。また、今日、ハリウッド映画をきっかけに公文書館のウェブサイトが立ち上がったり、ウェブサイト上に過去の白黒写真が展示されていたりと、さまざまなメディアが協同する場合が多いこと、しかし、それらのメディアで語られるものは、しょせん、資本の偏在と商業主義のコードに限定されたものであることに注意を促す。

 我々が、なんとなく真実そのものと混同しがちな「写真」というメディアについて、著者は慎重な批判を重ねる。「真実」と「捏造」は明白な二項対立であるのか? 撮影者が眼前の光景(たとえば幸せな家族の肖像)の”意味”を際立たせたいと思って、小道具や背景に周到な準備を行うことは捏造か? あるいは”意味”の際立つ一瞬が訪れるのをじっと待つことは捏造か? たまたまフィルムに写った構図に効果的な「トリミング」を施すことは?

 さらに言えば、我々が何か歴史的に意味のある写真を見るのは、展示会にしても写真集にしても、さまざまなテキスト、時には音楽や語り、別の写真が付加され、ある意図のもとに”編集”された結果である。したがって、問わなければならないのは、1枚の写真が「真実(トゥルース)」であるかではなく、むしろ編集者や展示者を含めて、その取り扱い方が「真摯(トゥルースフル)」であるかどうかなのだ。

 マンガ、歴史小説、インターネットに関する章も、それぞれに豊かな問題を提起していて、非常におもしろかった。結局、「この話をしているのは誰で、それはなぜなのか? どうしてわたしはそれにこんなふうに反応するのか?」と問いかけること、大量の矛盾する情報に遭遇しても”判断保留”のシニシズムに逃げ込むことなく、理解のために倦むことない努力を続けること、「歴史に対する真摯さ」はその態度の中にしかないということになるだろう。

 「あとがき」にさりげなく付け加えられた「1920年代初めのイギリスによるイラク爆撃」の挿話も、深く考えさせられるものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歩き始める民主主義/大統領の理髪師

2005-02-20 00:43:56 | 見たもの(Webサイト・TV)
○イム・チャンサン監督 映画『大統領の理髪師』

http://www.albatros-film.com/movie/barber/

 先月、京都の高麗美術館に行ったとき、「セヌリ」という在日韓国・朝鮮人向けらしい無料のミニコミ誌が置いてあった。「パッチギ!」の特集があったので貰ってきたのだが、その中にこの映画の囲み記事があった。

 短い紹介を読んで、おもしろそうな設定だな、と思った。首相制の日本では分かりにくいが、多くの国において”大統領”の権威と権力は、悲喜劇的なまでに絶対である。しかも、池東旭著『韓国大統領列伝』(中公新書 2002.7)は「韓国の大統領ほど、はげしい有為転変にさらされ、栄光と悲惨の落差が極端な職はない」と語っている。

 だから、大統領と市井の床屋の主人を軸にドラマを作るというのは、きっと面白いだろうな、と思ったのだ(作品中、主人公の息子は「お前の父さん床屋だろう」といじめられる。韓国では蔑視される職業なのかしら?)。でもまさか、こんなふうに韓国の現代史(1960~1970年代)にぴたりと寄り添うような作品ができあがっているとは思わなかった。イム・チャンサンは、これが監督および脚本家としてのデビュー作だと言うが、老練さを感じるほどうまくて、おもしろい。

 なんといっても主役のソン・ガンホがいいのだ。「JSA」のあの俳優さんか~と懐かしく思い出した。美人で気の強い奥さん、ちょっとひ弱そうなひとり息子、その兄貴分でもあるお調子者の若い店員、気のいい近所の人々など、”人情喜劇”のセオリーどおりの配置である。少し傾いた木造家屋、登場人物の服装や髪型には、私自身や両親のアルバムを見るような懐かしさがある。

 それにしても、この作品の歴史的背景を、一般の日本人はどのくらい理解できるんだろう? かくいう私も映画館の椅子で、李承晩の次ってことは、と少し考え、へえ~この若くて紳士然とした大統領は朴正煕がモデルかあ、と、うなっていた。だが、実際の朴正煕をほとんど知らないので、モデルと作品の間に、どのくらいの距離があるのかは、正直なところ、よく分かっていない。

 作品中の大統領の最期は、情報部長と大統領警護室長の対立、酒盛りの席での偶発的な犯行という、朴正煕暗殺事件の骨格をなぞっている。というか、前掲書で朴正煕暗殺の詳しい事実を知ったときは、あまりに「ドラマもどき」なことに驚いたものだ。

 主人公が次の大統領のもとで仕事を続けることを拒否すると同時に、拷問の後遺症で足萎えになっていた息子が歩き始めるのは、言わずもがなであるが、韓国の民主主義勢力が再び戦いに立ち上がることの寓意であろう。つまり、この作品はひそかに「国民の創生」の物語を目指した映画でもあると思う。

 だけど私は、息子を背負って雪深い山奥の名医を訪ねていく主人公の姿に、中国映画 『草ぶきの学校』を思い出した。あの映画も、父親と息子の強い絆が奇跡を呼び、ラストシーンで息子が難病から回復するのである。

 最後に蛇足。理髪師の主人公を当惑させる、頭髪の薄い「次の大統領」は、全斗煥さんですかね。写真で見ると...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自己責任」再考/日常・共同体・アイロニー

2005-02-19 21:36:32 | 読んだもの(書籍)
○宮台真司、仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー:自己決定の本質と限界』双風舎 2004.12

 2004年2月、3月、5月、6月の4回に渡って、三省堂本店で行われたトークセッションの記録である。なんだか「拾いもの」的におもしろかった。宮台真司の本はときどき読んでいる。仲正昌樹さんの名前は、最近、書店の平積み棚で見かけるので記憶にはあったが、何も読んだことがない。どんな人なんだろう?という興味があった。

 本書の冒頭は仲正さんの「まえがき」で始まるが、宮台真司という存在に対する長年の屈折した思いを、うだうだと連ねている(失礼)。「ウザい学生は嫌いだ」みたいなことを書いているわりには、お前がいちばんウザいよ!と言いたくなるような口ぶりである。

 対談の最初の2回は、正直、面白くなかった。仲正昌樹は専門のドイツ哲学から現代政治にかかわる社会思想までを、大学の講義みたいにきっちり説明し、宮台真司が「仲正さんはやっぱり鋭い」なんて持ち上げるのだが、2人の間に対話が成立している印象が薄い。凡庸な言論人や市民運動を、バカサヨ、バカウヨと呼んで斬っていくのだが、小気味よさよりも乱暴さが目立ってうんざりした。

 それが、3回目から俄然、おもしろくなる。2004年5月の対談は、同年4月に起きたイラクの日本人人質事件をマクラに始まる。この事件、というより、この事件に対する日本人の反応、もともと2人の対談の主要テーマであった「自己決定=自己責任」という言葉のひとり歩き状態が、2人にある種の危機感を与えたのではないか。対話に熱と真剣さが増し、実体験や内省を踏まえて、心に沁みる発言が続く。

 仲正昌樹は言う。どんなにうまくルールを作っても、誰もが納得できるルールは作れない。この”正義”のためには、あの”正義”を切り捨てる決断が必要になる。だから、我々は、そのつど、プラグマティックに”正義”を選びなさなくてはならない。しかし「お前が正しいといったおかげで私たちはひどい目にあった」という予想もしないバッシングを受けるかもしれない。そういうリスクを抱えながらも敢えて”正しい”ものを選び、その責任をとる。これが民主化された社会だと思う。

 宮台真司がイエスの教説を例に引きながら、これを受ける。「人のなす区別」は「神のなす区別」=真理ではない。しかし「人のなす区別」なしには何も始まらないのだから、絶えずオポチュニティックに線を引きなおし「区別を受け入れつつ永遠に信じずに実践する」しかない。

 4回目の対談で、宮台真司はさらに気になることを付け加えている。どこで線を引きなおしても「人のなす区別」は様々な抑圧を生み、自業自得を生む。にもかかわらず、我々は区別の線を引かないでは生きられない。それこそが「原罪」という観念の中核ではないか。現代日本の言論人から、こんなふうにイエスの教説を血肉化した発言を聞くことは稀なので、ちょっとびっくりした。

 それにしても昨年の4月、5月はあれほど日本を席巻した「自己責任」という言葉、年末には流行語大賞にさえ選ばれずに消えてしまったなあ。こんな重いはずの言葉さえ、軽々と消費してしまう社会が、やっぱりちょっと恥ずかしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モダン・ライフ/芹沢介展

2005-02-17 08:37:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
○そごう美術館(横浜そごう)『生誕110年 芹沢介展-用の美に魅せられた生涯-』

http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/index.html

 日本民藝館でこの展覧会を知って、ふらりと出かけた。芹沢介は「民藝」同人のひとり。沖縄の紅型(びんがた) に学びつつ、型絵染という独自の表現方法を確立した染色家である、ということは、なんとなく耳学問で知っていたが、あまり興味はなかった。

 ところが、この展覧会で、芹沢の作品の多くが、単なる染色にとどまらず、着物、帯、暖簾などの具体的なデザインに着地していること、絵本、挿絵、装丁、さらには飲食店のマッチやグリーティングカード、うちわ、行灯など、さまざまな商業デザインを手がけていることを知って、俄然、興味が増した。JALの鶴のマークや、銀座の名店・日本料理の「ざくろ」(1回だけ行ったことがあるぞ!)のお品書きも芹沢の作品である。

 芹沢のデザインは、どれも明るく軽やかで、快適感、清潔感に満ちている。「今ここにある生活」ではなくて、理想化された生活の匂いがする。なぜか、子供の頃、雑誌「暮らしの手帖」で、我が家にはない最新の家電製品(食器洗い機とか)を眺めていたときの気持ちを思い出してしまった。片や「民藝」で片やアメリカン・モダン・ライフなんだけど、実は通底しているものがあると思う。

 会場には20点ほどの着物が展示されていたが、誰かが袖を通した気配は希薄である。不思議なものだ。以前、千葉の歴史民族博物館で、民家から採集された古着の展覧会を見たときは、1点1点に持ち主の情念が残っていそうで、総毛立つような怖さがあった。夜になったら、展示室からすすり泣きが聞こえるのではないかと思った。それに比べると、芹沢の「作品」は安心して見ていられる。

 私は着物の「型」をよく知らないのだが、ひとつ気づいたことがある。芹沢の「作品」としての着物は、1例を除き、どれも袖の脇が完全には縫い閉じていないものだった。会場の最後に、芹沢の収集品が展示されており、芹沢のデザインの原型のような染め生地の着物が数点あったが、これらは逆に、1例を除き、袖がしっかり身頃に縫い閉じてあった。たまたまなのかも知れないが、そうだよな、生活着だったら縫い閉じておくよな、と思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする