見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

パンを求めて/ロシア革命(池田嘉郎)

2017-03-23 22:49:51 | 読んだもの(書籍)
〇池田嘉郎『ロシア革命:破局の8か月』(岩波新書) 岩波書店 2017.1

 今年2017年は、ロシア革命から100年目に当たる。そのことに気づいて本書を読んでみたが、難しかった。旧勢力側は皇帝ニコライ二世、革命勢力はレーニンとトロツキーくらいしか名前を知らないので、なじみのない人名や党派名がずらずら出てくるのに辟易した。明治維新や中国の辛亥革命なら、名前を聞くだけで、親しみや反感が湧く人物がたくさんいるのだけど。

 本書が焦点をあてる「8か月」とは、1917年2月の二月革命から同年10月の十月革命までの期間をいう。革命以前のロシアは、ニコライ二世の治世で、1906年に二院制の議会が開設されていた。真に議会らしかったのは下院(国家ドゥーマ)である。1914年には第一次世界大戦が勃発し、ロシアは参戦して、挙国一致の総力戦体制がつくられる。しかし、戦線では退却が続き、経済は悪化し、食糧事情が逼迫する中で、1917年2月23日、女工たちが「パンを!」の声をあげて街頭に出たことが革命の始まりとなる。街頭に出る労働者の数は日ごとに増え、はじめは軍隊が群衆に発砲して鎮圧につとめたが、やがて兵士も反乱に加わる。議員たちは、議論の末、ドゥーマとしてではなく「臨時委員会」として、事態に対応することを決める。

 やがて群衆の中から、労働者と兵士の代議員評議会=ソヴィエトが誕生する。このへんが私には唐突で、よく分からないのだが…皇帝退位後、ドゥーマの権威を継承する臨時政府がつくられた。しかし、臨時政府とペトログラード・ソヴィエトの二重権力状態にあった。5月には、社会主義者が入閣して、自由主義者と社会主義者の連立政府が発足するが、ドイツ軍との戦闘は続き、農民による土地の奪取、生産現場の混乱、民族紛争、食糧不足、犯罪の横行など、あらゆる災厄に疲弊する中で、武装蜂起による十月革命が成立する。そして、新政府の決断で、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国とは講和が成立するが、そのかわり、白軍×赤軍に分かれた内戦が勃発し、諸外国の介入が始まる。

 初学者のメモはこのくらいにしておくが、とにかくロシア民衆にとって苛酷な時代だったことは少し分かった。やっぱり「食べるものがない」怒りから始まる革命は後戻りしないのだな。人間にとって、最も根本的な欲求であるから。逆にいうと、自由や平和を求めるデモにも意味はあるけど、食べさせている限り、政権は簡単に倒れないんだな、とも感じた。そして革命は、長い混乱と暴力を伴う。革命なしで過ごせるなら、たぶんそのほうがいいだろう。

 また、ロシア革命の特徴としては、女性の活躍が目につき、面白かった。もちろん一部の少数者であり、著者は「総じて、女性の役割を限定しようとする発想法は、革命ロシアの労働者の間にも長く残った」と述べているけれど、臨時政府は女性を迎え入れている。
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適正な働きかた/正社員消滅(竹信三恵子)

2017-03-21 23:02:56 | 読んだもの(書籍)
〇竹信三恵子『正社員消滅』(朝日選書) 朝日新聞出版 2017.3

 竹信さんの本は『ルポ雇用劣化不況』(岩波新書 2009.4)『ルポ賃金差別』(ちくま新書 2012.4)などを読んできた。いま、これらの感想を読み返してみたら「あまり感心しない本だった」「あまり共感しない本だった」と繰り返していて苦笑した。そうだったかもしれないが、本書はわりと共感できる内容だった。

 著者はいう。私たちはいま、二つの意味での「正社員」消滅に直面している。一つは、非正社員(時間雇用、有期契約、昇給なし)の増加による、労働現場からの文字通りの正社員消滅。もう一つは、「正しい(適正な)働きかた」という意味での正社員消滅である。正社員として就職することは、もはや「安定と安心の生活」を保障しない。「正社員なんだから」という理由で課される長時間労働、さまざまな拘束、内面支配。そのあげく、要らなくなれば、正社員でも「追い出し」に遭う。これまでの著者のルポは、主に前者にフォーカスされていたと思うが、後者の問題が重点化している点に、私は共感したのである。

 全6章のうち、はじめの1章だけは「正社員の消えた職場」を描く。そこでは、責任もノルマも辞めにくさも、正社員そっくりのパート社員が、低賃金と不安定雇用に苦しみながら働いている。スーパー、郵便局、ハローワーク、製造業までも。「人件費を下げるには、働き手の自尊心を砕くことが最も効果的だ」って、ぞっとするほど怖い記述だ。

 次に正社員である。今でこそ正社員は、会社に対して無限の責任を負うかのようになってしまったが、1970年代までは、戦後の国際社会が目指した「あるべき働き方」のモデルだった。この指摘には、あらためて蒙を開かれた。1990年代には、臨時職員と正職員の賃金格差について「同一労働の賃金差は八割を超えてはいけない」という判例が示される。うーむ、なんだこれ。なぜ八割?という問いに対して、ある労働法研究者は「同一義務同一賃金」を唱えた。正社員は残業命令や配転命令に従わなければならず、パートより重い義務を負っているから、賃金も高いのだという。

 これが「メンバーシップ型契約」という用語とともに定着していく。この言葉は濱口桂一郎さんの『働く女子の運命』(文春新書 2015.12)で知ったが、少なくとも濱口さんは「日本の正社員はメンバーシップ型だから、無限定に働くべき」なんてことは言っていなかったのに、現状と規範を混同する人が多いのは困ったものだ。

 そして「高拘束」の実態には暗澹とする。ハラスメントの横行である。これは非正社員の労働現場にも及んでいて、多くの学生もブラックバイトの餌食となっている。「高拘束に耐える働き手」は素晴らしい、という価値観が広まることで、悪辣なビジネスが淘汰されにくくなっているという指摘は重い。耐えることを称賛する道徳観は、ほんとにもう辞めたほうがいい。

 一方で「正社員追い出しビジネス」というものが進化しているらしい。これも酷い話だ。「痛みを感じずにクビを切る」ことを外注する会社もひどいし、それを請け負ってビジネスにしている会社もひどい。しかし、最もひどいのは、リストラ推進に助成金を投じる国の政策である。正社員のクビを切り、同じ職場が低賃金の派遣労働者として、その人を受け入れる。これだけで会社は助成金をもらえるのである。いつの間に日本は、こんな社会に向けて舵を切ってしまったのだろう。

 政府主導の「働き方改革」はさらに進む。経営者の代表たちが、とにかく「解雇しやすさ」を切望していることはよく分かった。さらに残業代ゼロ法(ホワイトカラー・エグゼプション)やら、残業時間規制の緩和など。しかし、その結果は、正社員が増えても消費が伸びない現実となっている。確かに会社経営も大変かもしれないが、だからと言って労働者が「わがままはいけない」と我慢する態度が、みんなが幸せな社会の実現に貢献するかは、もう一度考えてみる必要があると思う。
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大阪あいりん地区の経験/貧困と地域(白波瀬達也)

2017-03-20 23:03:48 | 読んだもの(書籍)
〇白波瀬達也『貧困と地域:あいりん地区から見る高齢化と孤立死』(中公新書) 中央公論新社 2017.2

 東京育ちの私も「あいりん地区」の名前くらいは聞いたことがある。たぶん「愛隣」なのだろうと推測していたが、それが正しかったことを初めて確認できた。大阪市西成区の「あいりん地区」は、東京の山谷(さんや)、横浜の寿町と並ぶ「日雇労働者の町」として知られてきた。1966年に大阪市・大阪府・大阪府警本部の「愛隣対策三者連絡協議会」によって地区指定され、今日に至るまで、主に日雇労働者を対象にした治安、労働、福祉、医療などの対策が講じられてきた。同地区は「釜ヶ崎」と呼ばれることもあるが、本書は「あいりん地区」を用いる。著者は、院生だった2003年から同地区にかかわり、調査・研究と並行して地域福祉施設の職員もつとめ、さらに新しいまちづくりの取り組みにも関与している。

 歴史を振り返ると、釜ヶ崎は田畑が広がる農地であったが、20世紀に入ると、貧困層が集住する木賃宿街となった。名護町(いまの浪速区日本橋界隈)のスラム街の強制クリアランスによって、貧困層が移住してきたと考えられている(へえ!日本橋はスラム街だったのか)。その後、太平洋戦争下で釜ヶ崎は焦土となったが、戦後、下宿旅館の町として復興し、1950年代には全国有数の「ドヤ街」となった。ただし、当時は男女の人口比があまり変わらず、子供の姿も見えるなど、ドヤ(個人的・一時的・流動的)というよりスラム(家族的・恒久的・固定的)であった。

 1960年代後半、「大阪万博建設に伴う労働力需要の急激な高まり」が、あいりん地区を単身日雇労働者の町(=寄せ場)に変質させたと考えられている。東京人の私は、考えたこともなかった歴史で、びっくりした。大きな経済的プロジェクトは、よきにつけ悪しきにつけ、町(社会)のありかたを根本から変えてしまうんだなあ。なお著者は、図式的に考えすぎないよう留意を求めつつ「概ね的を射ている」と評している。

 同じ頃から、労働運動に従事する若い活動家たちが流入し、ラディカルな労働運動(新左翼運動)が活発化する。公的機関によるあいりん対策も続いた。女性、児童、高齢者など弱い立場の人々に対しては、キリスト教関係者が支援を展開した。外国人宣教師による活動もあった。はじめは布教に熱意を持っていたが、やがて信者を増やすことよりも「人を人として」向き合うようになる。先日読んだ、沖浦和光『宣教師ザビエルと被差別民』を彷彿とさせる。

 90年代、バブル景気の崩壊や建築工法の高度化によって寄せ場の求人が激減し、高齢化した日雇労働者は野宿生活を余儀なくされるようになる。著者は、日本で中高年の単身男性が野宿者となる理由として、彼らが労働市場から「雇用するに値しない」と見切られると同時に、行政からは「稼働能力がある」と見られて、福祉サービスへのアクセスを断たれていると指摘する。考えてみると、こういう二律背反は、よくあると思う。

 さまざまな支援の取り組みによって、あいりん地区では生活保護受給者が増加し、野宿者は減少した。同地区は、再び定住型の貧困地域に変化しつつある。簡易宿泊所を転用し、多様な支援を提供するサポーティブハウスの取り組みや、社会的孤立や孤立死への対策として、新たな地縁の構築も試行されている。キリスト教と仏教が協働する事例も報告されていて、興味深い。

 さて、2011年12月に就任した橋下徹大阪市長は、あいりん地区の改革に関心を注ぎ、「西成特区構想」計画を提示した。著者は、あいりん地区を「金のかかる町」から「金を生み出す町」に変えていこうという橋下構想に一定の理解を示しつつ、その歩みは平坦なものにならないだろうとの危惧を表明している。手厚いケアは「強い管理」と一体であり、さまざまな事情から匿名性の中で生きている人々を圧迫するものであること。再開発によって地価が上昇すれば、生活困窮者は排除され、手厚いケアは有名無実化せざるを得ないこと、など。そして、「生活困窮者をあいりん地区だけに押しつけてしまっている社会のあり方」でいいのかどうか。必要なのは、彼らの問題を我々の問題として考える態度だと思う。
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裁判官の仕事と胸のうち/裁判の非情と人情(原田國男)

2017-03-17 23:49:53 | 読んだもの(書籍)
〇原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書) 岩波書店 2017.2

 著者の名前は全く知らなかった。オビの紹介文を見て、裁判官のエッセイだと知り、ぱらぱら中をめくって、読みやすそうだったので読んでみた。原田國男(1945-)は、刑事を専門とする日本の裁判官で、2010年に東京高等裁判所部総括判事を最後に定年退官し、慶応大で客員教授をしているそうだ。Wikiには「量刑研究の第一人者として知られており、この分野に関して多数の論文を発表している」とあるが、私は門外漢で全く知らなかった。

 あとがきに、本書は岩波の雑誌『世界』に連載されたエッセイ「裁判官の余白録」をまとめたものという種あかしがあって、へえ!と驚いた。最近の『世界』は、ずいぶん平易な読みものを載せているのだな。内容は、普遍的な裁判官の仕事についての解説と著者の個人的な体験談が、ほどよく混ざり、興味深い。

 著者は、裁判官は多くの小説を読むべきだという。裁判官は社会の実情や人情に通じている必要があり、小説で経験の不足を補うことができるからだ。裁判官のこういう発言はうれしい。著者のおすすめは池波正太郎の『鬼平犯科帳』で、悪い奴はこらしめ、可哀想な奴は救うことで一貫している。「ここがいい」のであって、裁判官は権力をもっているのだから、可哀想と思ったら、量刑相当でなくとも、軽い刑や執行猶予にすればよい、という。ちょっと誤解を招く言い方だが、裁判官の権力は何のためにあるかを考えさせられる。

 裁判の仕事が記録に始まって記録に終わるらしいことも、あらためて認識した。はじめは予断を排して訴状を読み、公判記録を読む。大きな事件だと、公判記録がロッカー何棹分になることもあるそうだ。これを整理して頭の中に入れ、判決を書く。歴史学の史料研究などと基本は同じで、典型的な文系の作業であると思った。

 著者が出会った先輩裁判官たちの話も面白かった。裁判は、裁判長と右陪席、左陪席の三人の合議でおこなわれるが、自分は最後まで意見を言わず、右陪席、左陪席、それに司法研修生に時間制限なく議論させる裁判長がいた。また、判決文は左陪席が起案し、右陪席が手を入れ、最後に裁判長が確定する。このとき、全く文章を直さない裁判長だと、プレッシャーがかかって大変だったという。今のご時世では裁判長の手抜きと見られそうだが、私は、こういうおおらかな人の育て方をする年長者はいいなあと思う。

 逆にあまり愉快でなかったのは、最近の学生のひとりが「自分は将来最高裁判所長官になりたい」「どうしたらなれますか」と聞いてきた話。出世を望むこと自体は悪くないが、出世するためにどういう裁判をしたらいいかばかり考えるようになると、目の前の事件や被告人の姿が消え失せてしまう、と著者は心配する。全くそのとおりだ。著者は「自分を待っている事件は、日本中のどこにでもある」と考える。そうそう、世間の一番や二番に惑わされることはない。仕事に対するこの考え方にはとても共感する。

 著者の個人的な体験で微笑ましかったのは、在外研修員にノミネイトされ、ディクテイション(聴き取り)の試験を受けたら、大学時代懸命に覚えたケネディ大統領の就任演説だったので、聴き取るまでもなく全文書けたというもの。まるで武侠小説『射鵰英雄伝』で郭靖が九陰真経を暗唱する下りみたいだと思った。

 それから、著者は20件以上の逆転無罪判決を出しており、ネットで「またやっちゃったよ原田判事」と揶揄されたこともあるそうだ。無罪判決を続出すると出世に影響するのではないかという推測について、著者は「残念ながら事実」と書いている(正直!)。しかし、犯人とすることに「合理的な疑い」が残る場合は、無罪としなければいけない。この原則は、私たち市民のほうが忘れがちだが、法の専門家は忘れずにいてくれるものと信じたい。

 なお、気になったことだが、日本は他国に比べて偽証罪の起訴が極めて少ないという。これは日本人が偽証をしないからではない。たとえば裁判で、同じ事実に正反対の証言がされるときは、どちらかが偽証しているはずだが、検察は起訴をしたがらない。警察が偽証した場合も同様である。これはよくないと思った。こんな状態を放置しているから、政治家にもジャーナリストにも嘘を言い放題の風潮がはびこるのである。
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爆弾低気圧の夜/函館の大火(宮崎揚弘)

2017-03-14 23:43:27 | 読んだもの(書籍)
〇宮崎揚弘『函館の大火:昭和九年の都市災害』 法政大学出版局 2017.1

 東京の大型書店で、めずらしい主題の本を見つけて、思わず買ってしまった。まあ法政大学出版局の本だから、東京で売られていてもおかしくはないが、ローカルな災害の調査記録である。昭和9年(1934)3月21日夕刻、函館の街を襲った大火は、一晩で2,000人以上の命を奪い、日本災害史上に残る大惨禍をもたらした。ふと気になってネットで調べたら、自然災害の死者行方不明者数ランキングでは、三河地震(1947年)の2,306人やカスリーン台風(1945年)の1,930人に匹敵する。しかし、函館大火の文字がないのであれ?と思ったら、火災は自然災害に含まれないのだ。なんだかなあ…。確かに函館大火の場合も火元は特定されているが、不幸な自然条件に大きく影響されたことも事実である。

 私は2013年に函館に旅行した時、市立函館博物館の展示で、はじめてこの大火の存在を知った。想像をはるかに超える大火だったことがよく分かって、強烈な印象となって残った。本書は、はじめに函館の地形、気候、自然環境を述べ、街の成り立ち、人口、産業、交通などについて述べる。昭和10年の統計では、函館市は日本で13番目に人口の多い都市だったというのは、あらためて知る事実。札幌市より多かったのである。

 また、函館は頻繁に強い風が吹く環境にあった。しかも寒冷で火を使うことが多かったため、昔から大規模火災が多かった。古くは安永7年(1778)の記録があり、明治40年、大正10年にも大火が発生している。これに対して、消防・防災体制の整備と設備の改善に尽力する篤志家もあらわれ、昭和8年には、市民と消防関係者の悲願であった火災保険料の値下げがもたらされた。

 それでも昭和9年3月21日の大火は起きた。ここから著者は、新聞記事や被災者の手記、そして139名に及ぶ存命者への聞き取りをもとに、当日の様子を再構成していく。確か、私が見た市立函館博物館の展示も、同じように多数の証言で構成されていたと記憶している。その日は朝からはっきりしない空模様で、日本海側に強力な低気圧が迫っていた。今でいう爆弾低気圧である。

 市内では夕方から強風が発生し、立木が折れたり、板塀が倒れたり、看板が落下したりした。いくつかの火災が起きたが、いずれも消し止められた。そんな中、ある家の二階の屋根が吹きとばされ、あたりにあった新聞紙が切爐(きりろ)に落ちて引火した。これは天災と思わなければ仕方ないだろう。安普請の家、劣悪な水利という悪条件が重なって、消火が間に合わず、延焼が広がっていく。強風の中、市民は逃げ惑った。

 函館駅には5,000人ともいう避難民が集まったが、駅長は独断で彼らを無賃乗車させ、安全地へ避難させた。つくづく鉄道には、こういういい話が多いなあ。函館市の庶務課の一職員は、すでに電話が途絶していたため、港内に停泊中の船舶の無線を使わせてもらい、内務大臣、北海道長官、新聞社などに大火の第一報と救援要請を打電する。全く独自判断による行動だったというのが尊い。

 恐ろしいと思ったのは、風向が刻々と変化する中を逃げなければならなかったこと。漁師や海事関係者は「風向きは必ず東南から西へ廻る」と知っていたというが、風を読み誤った人々もいた。海岸や砂山にのがれたが、波にさらわれて命を落とした人々もいる。まだ冷たい北の海である。風で吹き上げられた火の柱が、のたうつ龍のように地上に襲いかかる描写もすさまじい。火と水と風の責め苦である。

 翌22日早朝には鎮火が認められ、炊き出しや医療救護、それに遺体の収容が始まった。当時の写真を見ると、焼け跡に白い雪がうっすら積もっているのも厳しい環境だなあと思う。人情の荒廃は避けられず、窃盗、殺人、婦女暴行、詐欺、扇動など多くの犯罪が発生したことも記憶されている。しかし、大火前に多くの市民が生命保険や火災保険に入っていたことは僥倖であった。それから、その年が近年まれなる豊漁で水産業界は大いに活況を呈し、予想外に早く沿岸漁業が復興したという結びには少しほっとした。

 本書によって、多くの人が函館大火を記憶にとどめてくれることを望む。多くの記録を収録した労作だが、もう少しよい地図を掲載してほしかった。
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空襲は怖くない/「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」(大前治)

2017-03-13 23:28:33 | 読んだもの(書籍)
〇大前治 『「逃げるな、火を消せ!」戦時下トンデモ「防空法」』 合同出版 2016.11

 かつて「防空法」という法律があったことを、私は、2013年下半期のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」で知った。主人公のめ以子の夫である西門悠太郎は、大阪市役所の建築課に勤務していたが、戦争がはじまり、空襲に備えて建物疎開をすすめる防火改修課へ異動となる。さらに市民向けの防火演習を担当することになったが、軍の意向を無視して「命が惜しかったら逃げろ」と指導したために逮捕され、満州行きとなる。

 このドラマ、いまBSプレミアムで3年ぶりの再放送が進行中である。明治末年の東京に生まれた主人公が、大正のハイカラ女学生となり、伝統とモダンが同居する大阪での新婚生活、戦中、戦後と、生活風俗の変化がよく描かれていて面白い。空襲による延焼を防ぐため、行政主導で「建物疎開」が行われる一方、人の「疎開」は本人の意思だけで自由にできなかったことなど、私はこのドラマで初めて知った。そして、詳しいことが知りたいと思っていたら、まるで再放送のタイミングに合わせるように、本書が刊行されたのである。

 本書には、当時の新聞・雑誌記事、ビラ、ポスターなど200点以上の図版が掲載されており(カラーも多い)、有無を言わせぬ迫力がある。第一次世界大戦以降の航空技術の発達により、防空の必要性を感じた日本政府は、昭和3年(1928)頃から防空演習キャンペーンを全国的に展開し、昭和12年(1937)3月「防空法」を制定する。当時は、中国大陸での武力衝突も沈静化しており、一般市民は空襲の危機感を抱いていなかった。まずは防空訓練と施設整備から、という触れ込みで制定された「防空法」だったが、同年7月に盧溝橋事件が起き、にわかに戦争が切迫してくると、「警防団」が結成される。これがもう…『警防団教養指針』によれば、団員たる者「忠心愛国、滅私奉公の信念を堅持すべからずを得ず」「徒(いたずら)に理論形式に流れることなく」というのだ。こんな団体いやだ。当時も警防団員になりたがらない人が多く、人員不足に悩んだというのは、少し救われるような気がする。

 そして昭和13年になると、内務省から「警戒警報又は空襲警報発令されたる場合」は「原則として避難せしめざる様指導」するという通達が出る。なんだこれは。老幼病者等、特に認められた者以外は退去・避難させず、「自衛防空の精神により各々自己の持ち場を守り、防空その他の業務に従事する」ことが求められた。そうであれば、この結果、空襲の犠牲になった民間人には、兵士と同様の補償があってしかるべきではないだろうか。

 昭和16年に発表された「国民防空訓」は、勝手に防空壕をつくることを禁じている。防空壕も医薬品も食糧も当局が準備万端ととのえているから、国民は「安心してよろしい」という。さらに、今後は当局が刊行した防空資料を基準とすることを求めている。昭和14年刊行の『国民防空読本』(内務省計画局編)は、焼夷弾の恐ろしさを明記しており、消防作業の困難も予言されていた。ところが、昭和16年頃から「危険でない焼夷弾」「怖くない空襲」の記述が増えていく。果ては「濡れむしろをかぶせる」とか「手袋で手づかみ」を言い出すんだからトンデモない。のちの原発プロパガンダを思い出すところもある…。

 当時も醒めた目で真実を見ていた人々はいた。物理学者の浅田常三郎は著書『防災科学』(昭和18年5月刊)に、焼夷弾の消化は不可能という趣旨のことを書いた。政府の広報誌『写真週報』には、昭和18年、大阪で行われた焼夷弾の消火実験が掲載されている。閃光、爆発、巨大な黒煙など、写真の恐ろしさは身震いするほどだが、なぜか記事は「消火成功」「怖くても逃げるな」でまとめられている。そして、ついに本土空襲が始まり、多くの都市が焼き尽くされた。

 忘れてならないのは、昭和20年7月の青森空襲の悲劇。「空襲予告ビラ」を見た市民が郊外に避難したことに県知事が怒り、「住家に帰らない者は町会の台帳から抹消し、配給を受けられなくする」と脅した。このため、多くの市民が青森市内に戻って来たところに空襲があり、死者1000名を超す大被害となった。これも最近の震災避難者の帰還を促す「恫喝」を思い出して暗澹となった。一方、新潟県知事や八戸市長は、軍や政府の意向に逆らっても「避難」を勧告し、多くの生命を救おうとしたことが本書に記されている(結果的に空襲は行われなかったが)。生きるために必要なのは、大勢に逆らっても合理的判断をする力であり、そういうリーダーを選ぶことだと感じた。

 なお、ドラマ「ごちそうさん」で神回とされる「地下鉄への避難」(史実に基づく)だが、政府は昭和19年の「防空計画」で「地下鉄道の施設は、これを退避または避難の場所として使用せしめざるものとす」と身も蓋もなく定めている。この方針に基づき、空襲が始まると、構内の客は地上の火の海へ追い出された。ひどすぎる。しかし「大阪府防空計画」によると、大阪市営地下鉄は、始発から終電の間に空襲警報が発令されたときは、10分間隔で運転された。これは市民の避難のためでなく、「防空上緊急参集を要する人」を輸送するための措置だった。そして、昭和20年3月深夜の大阪大空襲では、朝の一番電車で移動した体験談が知られているが、6月以降、昼の空襲時には地下鉄駅の入口が固く閉ざされたという。こんな死に方を強いられるような時代は、絶対二度と来てほしくない。
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意図しない交流/漂流ものがたり(国立公文書館)

2017-03-11 23:14:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立公文書館 企画展『漂流ものがたり』(2017年1月14日~3月11日)

 なんとか最終日に間に合って見てきた。最近の公文書館は、狭くテーマをしぼった資料展示をいろいろやっているが、これは私の日頃の関心とピタリ合っていて、とても面白かった。海に囲まれた日本に暮らす人びとが体験してきた、近世・近代の「漂流」「漂着」の記録を紹介する。展示資料は35件。

 はじめは「異国への漂流」で、行き先は中国、台湾、ベトナム、アメリカ、ロシア、そして無人島(鳥島)も。教科書などでは、アメリカやロシアへ至った漂流者に注目を置きがちだが、当然、中国や台湾に流れ着いた例もたびたびあるのだな。『越前三国浦竹内藤右衛門等韃靼国漂流言上書上(落葉集)』『韃靼漂流記(文鳳堂雑纂)』は、1644(寛永21/正保元)年、越前の船頭竹内藤右衛門らが松前へ貿易に赴く途中、清国(現在のロシア沿海州)に漂着した顛末を伝える。生存者15人は、盛京(瀋陽)に送られ、次いで国都北京へ連行されたのち、翌45年朝鮮を経て日本へ送還された。1644年といえば、3月に李自成が明を滅ぼし、次いで山海関を越えた清軍が李自成軍に大勝し、10月、順治帝が紫禁城で即位した、まさにその年(順治元年)なのである。すごい~!と感心しながら、どこかで聞いたような気もすると思って、自分のブログを検索したら、入江曜子さんの『紫禁城:清朝の歴史を歩く』(岩波新書 2008)に紹介されていた。平凡社の東洋文庫に収める現代語訳、いつか読んでみたい。

 『安南国漂流記』によれば、常陸国の漁師が、風にあおられるまま、安南(ベトナム)まで流されてしまう。そんなこともあったんだなあ。驚くべきは「日本国水戸」と書くと通じたらしいとか、「米」と書いたら米を持ってきてくれたとか。漢字文化圏すごい!と感心した。『文化薩人漂流記』は、奄美大島での在番役の交代の帰途、広東省に流された薩摩武士の話である。面白いのは、漂流した先で暮らしていると、新たに日本人が流されてくるという話が多いこと。異国への漂流の例は、けっこう多かったということだろう。

 アメリカへの漂流者としてはジョン万次郎が有名だが、嘉永3年(1850)に太平洋を漂流し、アメリカ船に助けられた13歳の彦蔵の話も面白い。アメリカでミッションスクールに入学し、大統領フランクリン・ピアースに面会したりする。9年後、アメリカ領事館付通訳として帰国し、幕末の日米外交交渉で活躍する。どの話も小説やドラマのネタになるなあ、と思って想像をふくらませた。

 逆に、日本への漂着としては、中国からの漂着、欧米船の漂着が紹介されているが、わけがわからないのは「うつろ舟の女」。展示資料は『改正甘露草』と『弘賢随筆』である。『弘賢随筆』は、毎月15日、屋代弘賢の友人たちが集まり、披露しあった文章の一篇。享和3年(1803)2月、常陸国の浜に漂着した奇妙なかたちの舟と、それに乗っていた蛮女(異国の女性)のことが記録されている。彼女が持っていた箱の中は「おそらく密通した男の首」と言われている。甘美で怖い話だが、誰かが確かめたわけではなく、「地元の古老」が「昔も同様の漂着があった」と訳知り顔に解説しているのが面白い。ああ~そうだ、澁澤龍彦先生に「うつろ舟」という小説があったなあと懐かしく思い出した。



 ロシアに漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫の漂流記録は、重要文化財『北槎聞略』とともに特別扱いで展示。一時、北海道民だったことのある私は、北方交流に親しみがあり、懐かしかった。

 最近の国立公文書館は、解説入りの展示図録を作らなくなってしまったのは仕方ないとして、展示品リストくらいはネット上げて保存しておいてほしい。あとで、何を見たかが分からなくなってしまうので、なんとかお願いしたい。
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昭和生まれの犯罪簿/殺人者はそこにいる(「新潮45」編集部)

2017-03-08 21:20:59 | 読んだもの(書籍)
〇「新潮45」編集部編『殺人者はそこにいる:逃げ切れない狂気、非情に13事件』(新潮文庫) 新潮社 2002

 実はこの本、清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』を探していて、間違えて購入してしまった。同じ新潮文庫で、ここまで似た題名で、しかも著者記号まで同じ「し」ってヒドイなあ。ちなみに文庫の刊行年は、本書のほうが早い。

 本書は、昭和の終わりから平成の始めにかけて世間を驚かせた13件の殺人事件を紹介している。雑誌「新潮45」に掲載されたもので、巻末に執筆者の一覧がついている。私が記憶していたのは、冒頭の西宮「森安九段」殺人事件くらい。あとは、ぼんやり思い出せる事件もあったが、たぶん一般の報道では、犯行のあまりにも凶悪で猟奇的な側面は伏せられるから、記憶と結びつかないのではないかと思う。

 平成に起きた事件も含まれているのだが、犯行の動機や背景には「昭和」を感じるものが多かった。妬みや恨み、あるいは愛欲などのどろどろした感情。最近は、昭和の頃に比べると、凶悪な殺人事件は減ったような気がする。そのかわり、いじめとかヘイトスピーチとかパワハラとか、あるいは衝動的な犯罪など、昭和と違うタイプの事件が増えているような気がするが、どうなのだろう。

 いろいろ酷い犯罪が並ぶ中で、最も酸鼻をきわめる凄惨な事件は、熊本「お礼参り」連続殺人事件だろう。昭和37年、妻に離婚を迫られた男は、ナイフで妻に重傷を負わせ、妻の実母を刺し殺してしまう。「無期懲役」の判決を受けたが、14年後の昭和51年に仮出獄となる。養母でもある叔母夫妻が身元引受人となったが、仕事もせずにぶらぶらしている男に意見をした叔母夫妻と口論になり、刺身包丁を振り回したため、再び刑務所へ。しかし、それでも昭和59年には、二度目の仮出獄が認められる。これ、本当にこんな制度でいいのか?

 男は30人以上をリストアップして復讐計画を立てていたが、実際に襲われたのは、男の元妻に離婚を勧めた仲人男性の弟の未亡人。仲人男性もその弟もすでに故人になっていたため、「特別個人的な恨みはありませんでしたが、私に冷たく当たり、相談にも乗ってくれなかった」という理由で殺害され、その娘も、一面識もない男に殺害されてしまう。

 この事件は犯行の凶悪さもさることながら、「無期懲役」という刑罰、「仮出獄」という制度がこれでいいのか?と考えさせられる。明治のはじめには「終身刑」(生涯のすべてをもって償う罰)が存在していたが、明治13年に旧刑法が制定された際、終身刑は廃止された。「無期懲役」とは「懲役期間(の定め)がない」という意味で、終身刑ではない。無期刑の場合は「仮釈放」が許される。仮釈放は「改悛の状が認められた場合」等の条件が定められているが、実際は厳密に守られているわけではない。本書には、仮釈放を許された受刑者のうち、実に四割近くが再び犯行に走るという数字も示されている。

 私は死刑にはあまり賛成しない立場だが、日本では有期刑の最高が20年であるのに、「無期懲役」は平均19年4ヶ月で仮釈放を許されているというデータを見ると釈然としない。なんとかならないものか。
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春近し札幌:片岡球子(北海道近美)+あったかい住まい(北海道博物館)

2017-03-07 22:25:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
北海道立近代美術館 特別展『片岡球子 本画とスケッチで探る画業のひみつ』(2017年1月4日~3月20日)

 週末、久しぶりに北海道に行ってきた。むかしの仕事仲間が集まる飲み会が目的だった。土曜の午後は、約束の時間まで少し余裕があったので、この展覧会を見に行った。日本画家の片岡球子(1905-2008)は札幌生まれ。高等女学校卒業後に上京しているので、あまり北海道出身のイメージがなかったが、道内ではけっこう愛されている画家である。

 本展は、球子が小学校教師時代から最晩年に至るまで描きつづけた約350冊のスケッチブックと、完成品として世に出た作品をあわせて展示し、画家の創造のひみつを探るもの。いやー噂には聞いていたけど、すごい迫力のスケッチブックだった。私は、最晩年の「裸婦」シリーズのスケッチは見たことがあるのだが、それ以外は初めて見た。「雅楽」シリーズの爆発する色彩、すごい。小学生が教室で使うような油性のマジックインキを使って描いている。「火山」シリーズもすごい。「阿波踊り」も「歴史人物」も、ただ呆然と眺めるしかなかった。

 展覧会に落選し続けて「落選の神様」と呼ばれたとか、小林古径に「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ」と励まされたとか、これはドラマになりそうだと思ったが、結婚や家族のエピソードがないと駄目だろうか。

北海道博物館 総合展示+第7回企画テーマ展『あったかい住まい-北海道・住まいの道のり-』(2017年2月3日~3月31日)+秩父宮記念スポーツ博物館北海道巡回展『2020年東京オリンピック・パラリンピックがやってくる』(2017年2月3日~3月17日)



 日曜日はいろいろ考えた末、北海道博物館を訪ねた。アプローチにはかなり雪が残っていたが、防滑底のブーツで足元は万全。二度目なので、アッサリ見られるかなと思ったら、結局、2時間近くかけてじっくり見てしまった。

 北海道の歴史や地誌が分かってくればくるほど、面白さが増す。年末に読んだ本『シャクシャインの戦い』を思い出したり、先月見た『火焔型土器のデザインと機能』展を思い出して、本州の縄文式土器と北海道の縄文式土器の違いに思いを馳せたりした。北から南から、また大陸から、さまざまな文化が出入りし、境界線が伸び縮みする様子を見ていると、「日本文化」とか「日本らしさ」という言葉が、いかに無根拠なものかが実感できる。

 企画展示『あったかい住まい』も面白く、特に屋根のかたちの変遷が興味深かった。私が札幌に住んでいたとき、本州から訪ねてきた友人が「住宅の屋根は三角じゃないのねえ」と不思議がっていた。そういえば、私が小学生の頃、北海道は積雪を避けるため、 急勾配屋根が多いと社会科で習った記憶がある。今回の展示によると、昭和20年代に「三角屋根住宅」が開発され、同時に断熱材や外付アルミサッシュで防寒化が進み、石油ストーブが急速に普及して、真冬でも室内では薄着という北海道の生活スタイルが生まれたという。ちなみに、写真は「冬の室内温度」の都道府県別比較表(茨城、寒い…)。



 一方、人口が増えて住宅地の狭隘化が進むと、屋根の雪を落として捨てることができなくなり、M字型屋根の「無落雪屋根住宅」が普及した。このかたちの住宅は、いまも札幌の市街地で見ることがあるが、M字部分に雪を溜めて溶かしていたのか。知らなかった。
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阿蘭陀人と唐人/長崎版画と異国の面影(板橋区立美術館)

2017-03-06 21:47:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
板橋区立美術館 『江戸に長崎がやってきた! 長崎版画と異国の面影』(2017年2月25日~3月26日)

 長崎版画とは、オランダ船や唐船など、異国趣味に溢れた長崎の風物に題材を求めた版画で、18~19世紀に長崎で版行され、主に土産物として親しまれた。蘇州版画を源流とするという説明を読んで、あまり質のよくない、色数も少ない地味な版画をイメージしていた。ところが行ってみたら、全く予想と違った。

 第1室は、広い展示室にくねくねした巡路をつくって壁を増やし、小さな版画作品(B4からA3くらい)をたくさん展示している。さまざまな異国船の姿を描いた作品が楽しい。オランダ船はだいたい三本マストの帆船で、色とりどりの小さな旗をたくさん付けている。唐船(中国船)は縦に折りたためる帆を持ったジャンク船で、舳先に魔除けの大きな目玉が描かれている。少数だが蒸気船の姿もある。乗り物好きとしては、これらを見ただけで心を奪われてしまった。

 次に異国の人物像と異国人の暮らしぶり。中国人がこんなにたくさん描かれているとは思わなかった。「唐人」と呼んだり「清朝人」「大清人」と呼んだりしている。もちろん辮髪頭で、朝帽をかぶる。眼鏡をかけた清人も描かれている。元気に遊ぶ唐子の図、関帝の図、どこだかよく分からない中国風の庭園風景など、中国製にしか見えない版画が、実は長崎で刊行され、売られていたのは面白い。「長崎八景」も面白かった。江戸や東海道を思わせる風景の中に、石造りの眼鏡橋や異国の帆船がおさまっているのは、瀟湘八景図のパロディのようにも見える。

 第2室に入ると華麗な色彩の洪水が目に飛び込んでくる。おお~南蛮画だ。いや、時代的には洋風画と呼ぶのが正しいかな? 日本人が制作した西洋風の絵画。荒木如元『蘭人鷹狩図』と若杉五十八『鷹匠図』は、かなり本格的に洋風な油彩画。解説によると、舶来の銅版画集『狩猟家と鷹匠』の挿絵を参考にしているそうだ。『鷹匠図』の鷹がミミズクっぽいなあと思ったら、原画もそんな雰囲気だった。皐錦春の『洋人散歩図』は色白の美青年。梅湾竹直公の『西洋婦人図』は睦まじい男女を描いたものだが、歪んだ空間がグロテスクで怖い。谷鵬紫溟『唐蘭風俗屏風』は六曲一双、片方に遊ぶ唐子たちを見守る唐人夫妻、片方に阿蘭陀人たちの祝宴を描いたもの。色彩の強烈さが、ほとんど曽我蕭白。

 眩暈のしそうなキッチュな洋風画もある一方で、安定した描写力を見せるのが川原慶賀。オランダ人も唐人も、肌の茶色い従者も、話せば分かりそうな聡明な表情をしている。商館ブロンホフの妻と幼い息子の図も愛らしい。今回の展示作品は、長崎版画の下絵を描いた絵師の作品を中心に集められており、知らなかった絵師の名前を新たにずいぶん覚えた。長崎歴史文化博物館と神戸市立文化博物館から多数の作品が来ていて、とても嬉しかった。

 最後に展示室の外に、長崎版画の版元に関するパネル展示があって面白かった。「針屋」「竹寿軒」「豊嶋屋(富嶋屋)」など判明している版元について、活動時期、所在地、特徴が紹介されていた。でもだいたい幕末には店を閉めてしまい、残っている版元はないのだな。次に長崎を歩くときは往時をしのんでみたい。
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