見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

鞍馬天狗あれこれ(テレビ・本・展覧会)

2008-02-29 23:52:46 | 見たもの(Webサイト・TV)
■NHK木曜時代劇『鞍馬天狗』 第7回「角兵衛獅子 前編」

http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kuramatengu/

 テレビの『鞍馬天狗』にハマっている。と言っても、第1回(1/17)を途中から見て以来、帰りの遅い木曜日が続き、録画しか見られなかった。昨日の第7回は、久しぶりに20時にテレビの前に座った。ネットの”実況”と一緒に楽しもうと思っていたのだが、あんまりドラマが素晴らしくて、しばしば実況を忘れた。

 第7回にして、杉作少年が登場。「天狗のおいちゃん」に懐く様子がかわいい。考えてみると、私の子ども時代(1960年代)特撮物や時代劇のヒーローには、ヒーローに憧れる子役がつきものだった。そして、子どもの目から見たヒーローは、けっこうオジサンだったのである。それが、いつの頃からか、だんだんヒーローが若くなって(幼稚になって)子どもが同一化できるようなヒーローが喜ばれるようになった。昨日の野村萬斎は、この流れに反して、たっぷりと「父性」を感じさせる懐かしいヒーローを演じていた。どこかの寺(神護寺?)の石段で、杉作と話し込むシーンは秀逸。まわりの配役も、ひとり残らずいい。なのに来週は最終回!! 許しがたい!

■川西政明『鞍馬天狗』(岩波新書) 岩波書店 2003.8

 本書は「鞍馬天狗シリーズ」全作品のあらすじを、発行年順に紹介している。作者・大佛次郎は、大正13年、短編『鬼面の老女』以来、なんと昭和40年まで鞍馬天狗を書き継いでいる。初期の鞍馬天狗は、「天下は天子のもとにかえるのが正義である」という信念のもと、躊躇なく人を斬った。しかし、鞍馬天狗の立脚点は、「薩長を軸に幕府を倒す」ことよりも、「薩摩も長州も徳川もない、日本国だけがある」という論理に近い。この点で、彼は幕臣勝安房守と意気投合する。また、宿敵近藤勇と刃を交えるうち、主義主張の違いを越えて、近藤の人間性に共感を見出す。

 戦後の作品では、鞍馬天狗は明治維新後の東京を舞台に、反新政府の危険人物として登場する。理由は、明治新政府が革命の志を無にするものだったから、と説明されている。このように、鞍馬天狗が、複雑に変貌するヒーローであることを、私は初めて知った。大正から戦前~戦後と、社会体制の大変化とともに書き継がれた作品であることが、影響しているらしい。最後の作品『地獄太平記』は、舞台を上海に広げているが、鞍馬天狗自身は上海に渡っていない。これは著者のいうとおり、ちょっと惜しい気がする。最後は大陸で姿を消していたら、後日の空想の余地があってよかったのに。

 なお、大佛次郎は、アラカン(嵐寛寿郎)の「鞍馬天狗」を好まなかったそうだ。理由のひとつとして「映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎている」と語ったという。ふーむ。だとすると、大佛次郎は、いまの萬斎の鞍馬天狗も許さないかなあ。

■大佛次郎記念館 特別展『21世紀の鞍馬天狗―見る、考える、行動する』

http://www.yaf.or.jp/facilities/osaragi/ev080323.htm

 自筆原稿や初版本、挿絵原画、作品舞台の写真パネル、映画のポスターなどによる鞍馬天狗の特別展。昭和40年代まで、少年マンガ誌やおもちゃにも使われている。ペーター佐藤、生頼範義など、さまざまな画家の描く鞍馬天狗が興味深かった。またアラカンの「鞍馬天狗」のDVD化(2/22発売)を記念して、数本の予告編を見ることができる。もちろん白黒フィルム。初めて見たが、これはこれでカッコいいものだと思った。
コメント

七人の東大生/天下之記者(高島俊男)

2008-02-27 23:55:16 | 読んだもの(書籍)
○高島俊男『天下之記者:「奇人」山田一郎とその時代』(文春新書)文藝春秋社 2008.2

 山田一郎(1860~1905)は、明治の新聞界で「天下之記者」を名乗ったフリージャーナリストの走りである。早稲田大学の前身、東京専門学校の創立に深くかかわり、教壇では政治学を教えた。昭和40年代まで、早稲田大学図書館には、山田一郎の肖像画が掲げてあったという。だから、早大関係者には、そこそこ知名度があるのかも知れないが、私は本書に出会うまで”山田一郎”なる人物を全く知らなかった。

 書店で本書を手に取って、パラパラと中をめくったら「東京開成学校から東京大学へ」「勉強会から政治結社へ」「明治十四年の政変」「改進党小野グループの誕生」等々の文字が目に入った。それで、ははあ、あの頃の人物か、と納得した。

 東京大学の歴史については、多少、読んだり調べたりしたことがある。明治初頭の東大の歴史(および前史)はおもしろい。はっきり言えば、真面目に付き合うのが馬鹿馬鹿しいほどのドタバタである。しかし、その大混乱の中から、新時代を担う逸材が輩出するのだから不思議な時代であった。やがて、全ての制度が整い、官吏養成学校としての「帝国大学」が姿をあらわすのが明治19年のことだ。

 これに先立つ明治15年(1882)、大学当局を当惑させる「事件」が起きた。法文ニ学部の卒業生12人のうち6人が改進党に行くことになったのだ。改進党(立憲改進党)は、大隈重信と、その懐刀・小野梓を中心とする反政府党である。小野梓のもとに参じて、東京専門学校の創立にかかわった6人が、岡山兼吉、山田喜之助、砂川雄峻、高田早苗、天野為之、そして山田一郎である(在学生の市島謙吉も参加、計7人)。卒業式で、かのフェノロサが「国家有為の人材を養成するこの大学に学びながら、卒業後官吏になることを拒絶して政治に関係する者がある」ことに対して、強い「遺憾」を表明したという大事件であった。

 そうか~早稲田大学って、彼ら東大のはみ出し者が作った学校であるということも初めて知った。しかし、彼ら7人(鴎渡会と称した)は一枚岩の集団ではなかった。まもなくゴタゴタが起こり、山田一郎は、学校を飛び出す。この「挫折」から、彼は生涯、立ち直れなかった。磊落な「奇人」を装っているが、その実、小心で煮え切らない性格が災いしたのである。著者の批評は公平で厳しく、またどこか優しい。一方、学校に残った高田早苗と天野為之は、今なお早大創設の功労者として称えられているし、他の仲間たちも、それぞれ社会的成功を収めている。

 興味深いことに、山田一郎の同期生(明治9年入学)には、坪内逍遥がいる(途中で1年落第)。山田一郎の挫折の後にやってきて、やすやすと早稲田大学のシンボル的な地位を占めてしまう。不器用な「政治青年」よりも「文学オタク」のほうが世渡りの才覚があったかに見える。なお『当世書生気質』に描かれた怪人物、任那透一のモデルは山田一郎と言われているそうだ。

 晩年の山田一郎は、日本橋の木賃宿に住み、あちこちの新聞社に寄稿する生活を送った。46歳で、インフルエンザをこじらせて死去。功なり名を遂げたむかしの仲間たちは、落魄の友に最後まで優しかった。山田一郎の名を後世に残すため、彼らの寄附金によって購入された漢籍コレクション(太平御覧など十部千三百六十冊)が「山田一郎記念図書」として、早稲田大学図書館に寄贈された(なるほど、大学図書館には、こんな友情の証が収められていることもあるのだな)。それにしても、社会的な成功や不成功を越えた彼らの友情の結末、女性の身には分かりにくい、不思議なものに感じられる。
コメント

国家を支えるエリート/中国の頭脳:清華大学と北京大学(紺野大介)

2008-02-26 23:25:42 | 読んだもの(書籍)
○紺野大介『中国の頭脳:清華大学と北京大学』(朝日選書) 朝日新聞社 2006.7

 中国を代表する有名大学といえば、清華大学と北京大学。ただし、日本人にとっては、北京大学の知名度のほうがずっと高いのではないかと思う。

 両大学は、いろいろな点で対照的である。清華大学は、義和団事件の対米賠償金によってつくられた米国留学予備校を前身としているが、北京大学は、日本とのつながりが深い。戦後(1952年)、毛沢東の指示で、大学の分離調整が行われたとき、清華大学は、人文社会学部を北京大学に移し、逆に北京大学の工学部を統合した。以来、清華大学=理工系、北京大学=文系、というイメージが定着している(現在は、どちらも総合大学に再編)。北京大学は、ゴーイング・マイ・ウェイを良しとする自由な校風だが、清華大学は、理系らしく「まじめでコンサバティブ」という評価がある。

 英国の大学情報誌タイムズ・ハイアー・エデュケーション・サプリメント(THES)の「世界の大学ランキング」では、北京大学の評価は、15位(2005年)→14位(2006年)→36位(2007年)。ちなみに東京大学は、16位→19位→17位で、アジアの首位を争っている。一方、清華大学は、62位→28位→40位で、北京大学に大きく水をあけられているように見える。ところが、中国国内のランキングでは、清華大学が圧倒的に強い。最新版のランキング(2008年1月9日付)では、12年連続の首位を獲得した。うーむ、どこから来るんだろう、この見解の相違は?

 本書の著者は、清華大学の優越を肯定する立場から、さまざまなエピソードを紹介している。TOEFL600点以上の学生がごろごろしているなどというのには驚かないが、原子間力顕微鏡を学生たちが自前で作ってしまうとか、人工衛星の単独打ち上げに成功している(2004年)ことには、さすがに舌を巻いた。こうなると「大学」というより、一企業の競争力に近いのではないかと思う。

 アメリカの大学は、大学の「武器」となり「資産」となる優秀な頭脳を求めて、清華大学の学生に、積極的なヘッドハンティング(留学の勧誘)を仕掛けている。その結果、中国では人材の海外流出が問題になっている、というのは、何かで読んだ。しかし、アメリカにおける理工系Ph.D取得者の国別一覧(242頁)を見ると、そもそも日本人の少なさに愕然とする。うーむ。清華大学が、アメリカの(つまり世界の)一流大学とガッチリ連携を深める一方で、「二番手」北京大学は、やむなく日本の大学に秋波を送っているのではないか、と勘ぐりたくなるのだが、如何?

 ところで、中国の現在の国家指導部(政治局常務委員会)は、9人のうち4人までが清華大学OB(理工系)である。これもすごい話だ。日本では、理科離れが言われて久しいが、理系って泥臭い損な仕事のイメージが強いのではなかろうか。一方、中国では、「理科を学んで国家の指導者になる」というモデル(朱鎔基さんもその1人)の実在によって、ますます優秀な人材が理系に誘導されていると思う。

 本書を読むと、日本は、政治も外交も教育システムもいいところなしだが、中国人は日本人の「モノ作り力」を高く評価しているという。確かに、日本の民間企業が築き上げてきた「万人を得心させる製品力」は、まだ中国にはないものだ。中国の底力を知り尽くした著者の言だけに、説得力があると思った。
コメント

文楽・冥途の飛脚(国立劇場)

2008-02-24 23:28:04 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立劇場 2月文楽公演『冥途の飛脚』

 2006年に、10年ぶりくらいで文楽公演を見て、やっぱり面白いなあ、また以前のように劇場に通おう、と思ったが、なかなか果たせない。結局、昨年2月の『摂州合邦辻』以来、1年ぶりの文楽である。

 大阪淡路町の飛脚問屋・亀屋の養子跡取りである忠兵衛は、近頃、遊女梅川と深い仲になり、養母や手代に黙って、店の金をつぎ込むまでになっている。忠兵衛の行状を案じた友人・八右衛門は、梅川ら遊女たちの前で、忠兵衛を悪しざまにののしり、彼が遊里に近づけなくなるよう、仕向けた。ところが、逆上した忠兵衛は、金のあるところを見せようとして、預かり物の公金の封印を切ってしまう。

 登場人物に悪人はひとりもいないのに、必然のように悲劇は起こる。あえて言うなら、忠兵衛本人の弱さと優しさと無分別が、悲劇の原因なのである。この役どころ、現代なら、オダギリ・ジョーあたりかなあ、などと考えていた。淡路町の段→封印切の段→道行相合かご、と短い時間に凝縮された人間ドラマだが、羽織落としに登場する野犬とか、禿(かむろ)による三味線の弾き真似とか、華やかな見どころもあって、深刻になり過ぎないところがよい。

 私が、この演目を初めて見たときの忠兵衛は、吉田玉男さんだった。”封印切り”というのが、具体的にどう演じられるものなのか、皆目見当のつかない中で、忠兵衛と八右衛門の激しい応酬のあと、一瞬の静寂をおいて、チャリン、という小判の音が響き渡ったときの驚愕と緊張は忘れられない。続いて、硬直した姿勢の忠兵衛のふところから、シャーッという摩擦音とともに流れ下る小判。運命が悲劇に向かって、砂のように崩れ出す瞬間だった。このとき、忠兵衛の後ろで顔色ひとつ変えることのなかった吉田玉男さんが、強い印象に残っている。

 今回は久しぶりに床に近い席が取れたので、大夫さんと三味線の表情がよく見えて嬉しかった。「封印切」は綱大夫と鶴澤清二郎。三味線の清二郎さん、いいなあ。綱大夫さんはもちろん定評のあるところだが、「淡路町」(~羽織落とし)を語った英大夫さんって、こんなに上手い方とは認識していなかった。何しろ1年に1演目聴きにいくだけじゃ、なかなか会えない大夫さんも多いのである。

 プログラムの冒頭エッセイを、売れっ子の茂木健一郎氏が書いていた。ドイツ人に勧められて、初めて文楽を見たという。「圧倒的な体験だった」という。そうでしょう、そうでしょう、とうなづく。でも茂木健一郎氏が「衝撃」を受けたという『夏祭浪花鑑』は、これだけ文楽に通って20余年、私はまだ一度も見たことがないのである。くやしい。
コメント

永井荷風のシングル・シンプル・ライフ(世田谷文学館)

2008-02-23 23:48:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
○世田谷文学館 企画展『永井荷風のシングル・シンプル・ライフ』

http://setabun.jp/exhibition/kafu/

 上に貼ったのは、この企画展トップページのURLである。開いてみると、白磁金彩のコーヒーカップと、皿にのったクロワッサンの写真。「<ひとり>の悦楽、戦略としてのエロス、老いへの周到な準備」という絶妙のキャプション。そして、写真の説明として、荷風の日記『断腸亭日乗』大正8年1月1日の冒頭、「正月元旦。曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のショコラを啜り、一片のクロワサンを食し、昨夜読残(よみのこし)の『疑雨集』をよむ。」とある。なんだ、この公営の文学館らしからぬオシャレなつくりは!!と思って、誘い出されて、見に行った。

 人によって、永井荷風(1879~1959)のイメージは、さまざまだろう。私は『腕くらべ』『おかめ笹』など、色町に残る江戸情緒の世界から接近した。西欧文化への若々しい憧憬に満ちた『ふらんす物語』『あめりか物語』を読んだのは、比較的、近年のことである。また、(当然だけど)ただの遊び人ではなくて、漢詩文から西欧の最新文学まで、幅広い教養を持ち、森鴎外と上田敏の推薦で慶応大学文学科教授に就任、「三田文学」の初代編集長をつとめたということも、実は、最近、認識した。

 生涯独身で、中年期は麻布の偏奇館(戦災で焼失)、晩年は市川に独居したことは、なぜか早い時期から知っていた(私は市川の隣の小岩育ちだったので)。けれど、家族を持たない”ひとり暮らしのおじさん”というのが、中学生くらいだった私には、よく飲み込めなかった記憶がある。いや、80年代、大学生になってもそうだった。巨額の貯金通帳を鞄に入れて持ち歩いていたとか、小岩の赤線に出没していたとか、晩年のエピソードは、普通に考えて”こうはなりたくない”と思うものばかりだった。

 ところが、2008年の今、気が付けば、ひとり暮らしのおじさんもおばさんも、街にあふれている。そこで、持田敦子氏の著書『朝寝の荷風』に基づき、都市的独身生活の真髄を学ぼうというのが、本展のコンセプトである。規模の点では、昨年の江戸博の『漱石展』に比ぶべくもないが、荷風の原稿・書簡・写真・日用品、あるいは当時の風俗を伝えるレストランのメニューやカフェのマッチなど、多様な資料で構成されていて、面白かった。

 ただ、荷風の独身生活は、私が子どもの頃に思ったほど悲惨なものではなかったとしても、あんまり理想化するのも間違いではないかと思う。会場には、戦後、荷風が使用した炊事道具や食器が展示されていたが、戦後~昭和30年代の日本の一般家庭と同様、使い込まれた質素なものばかりだった。決して、上記のイメージ写真のような、シャレた洋食器の朝食で一生を過ごしたわけではない。

 会場で、いちばん私の目を引いたのは、死の前日まで書き続けた日記『断腸亭日乗』の現物である。38歳から40年にわたって書き継いだわけだから、当然といえば当然だが、物理的形態が(紙の質、罫線の有無)少しずつ変化しているのを面白いと思った。戦時中は、いつでもすぐに持ち出せるよう、書類箱に入れて枕元に置いていたそうだ。おかげで、偏奇館の蔵書は焼けてしまったけれど、この日記だけは助かって、本当によかった。

 荷風が孤独な生涯を終えたとき、死の床には、尊敬する森鴎外の『渋江抽斎』が開いてあったという。これには、ちょっと参った。鴎外を、そこまで本気で敬愛していたのか。死を覚悟したら、私なら何の本を枕辺に持ち込むかなあ。まだ決められない。
コメント

自伝による美術史/日本美術と道づれ(宮島新一)

2008-02-22 23:58:31 | 見たもの(Webサイト・TV)
○日経ビジネスオンライン:宮島新一『日本美術と道づれ』

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121231/

 日本美術ファンなら、一度は著者の名前を聞いたことがあるだろう。東京、京都、奈良、九州の四つの国立博物館に勤務した学芸員、美術史家の宮島新一さんの自伝的コラムが、日経ビジネスオンラインに連載されている。

 昨年4月に開始された連載だが、私は今年に入って、はじめてその存在を知った。1946年生まれの著者が、いつ、どんな美術と出会ったかを、経年順に語っている。「単調な人生だったので自伝を書くほどでもない」と謙遜する著者の人生のエポックメーキングは、各種の展覧会である。1963(昭和38)年の『群像にみる仏教美術展』(会場は名古屋の松坂屋!)とか、1966(昭和41)年の『中国美術5000年展』(大阪市立美術館)とか、60~70年代の展覧会は、へえ~こんなのがあったんだ、と驚き、興味をそそられるものばかりだ。こうして展覧会の名前を並べたストーリーも、「普及」と「享受」の側面から見た、一種の現代美術史であると思う。

 宗達の『蓮池水禽図』、雪村の『夏冬山水図』など、好みの名作をじっくり語った段も興味深いが、学芸員の仕事まわりを語った「アメリカの美術館運営に学ぶ(印象に残ったのは館長のリーダーシップの強さ、教育担当学芸員、業務分担の徹底)」や「高松塚古墳壁画の現地保存(人間の美に対する欲望が美を損なうことがある)」は、考えさせられる点が多い。特に後者は、考古文化財保存のジレンマをめぐる率直な発言に、胸をうたれた。

 最新回(2008/02/22)「独立行政法人化で試練に直面(博物館の活性化には、学芸員の意識改革が必要だった)」も読み応えがある。そうだなあ。確かに2001年の独立行政法人化の前後で「東京国立博物館は変わった」という(プラス方向の)評価に私も同意する。あの頃から東博に行くのが、俄然、楽しくなった。

 それにしても、こんなすごいコラムが無料で読めてしまうのだから(著者には原稿料が支払われていることと思うが)インターネット時代というのは、贅沢なものだと思う。今後にも期待。
コメント

おとなりの近代/西洋と朝鮮(姜在彦)

2008-02-21 23:59:19 | 読んだもの(書籍)
○姜在彦『西洋と朝鮮:異文化の出会いと格闘の歴史』(朝日選書) 朝日新聞社 2008.2

 日本の洋学と西洋思想の受容史というのは、なんとなく気になっているテーマである。また、先行例(結果的には失敗例?)として、中国の洋学受容史にも興味がある。しかし、本書を目にするまで、朝鮮については、全く考えたことがなかった。いい本が出たなあ、と感謝と期待をもって読み始めた。

 第1部(17世紀)は、ほとんど中国の洋学史である。イエズス会宣教師のマテオ・リッチは、1601年に北京入りし、キリスト教の教理書・科学書・世界地図などを次々に刊行した。毎年、ソウルから北京に往来した朝鮮の使臣たち(燕行使)は、その漢訳西洋書を朝鮮に持ち帰った。1602年刊行の『坤輿萬国全図』は、1603年には朝鮮に伝わっていたという。おお~さすが陸続きは早いな。日本には何年に伝わったんだろう?

 鄭斗源(チョン・ドゥウォン)は山東省登州でロドリゲスに出会い、昭顕(ソンヒョ)世子は北京でアダム・シャールと親交を結んだ。このように、17世紀の朝鮮と西洋の接触は、中国というトポスを抜きには語れない。唯一の例外として、1653年、オランダの商船が、済州島に漂着するという事件が起きた。しかし、著者が、いかにも残念な口ぶりで語っているように、「彼らが朝鮮に残した痕跡は何もない」。日本人は、九州南端の種子島に伝わった鉄砲が、瞬く間に国内生産可能となり、伝統的な戦術を一変させたことや、臼杵に漂着したオランダ船の航海長ウィリアム・アダムスが徳川家康に仕え、貿易相手国を新教国に切り替えるきっかけとなったことを、「当たり前」のように受け止めがちだが、朝鮮の例を見れば、そうともいえないのである。

 第2部(18世紀)に至って、ようやく本格的な洋学の流入が始まる。日本と比べて興味深いのは、朝鮮では、キリスト教への対処(受容か排斥か)が、長年にわたり、最重要課題だったという点だ。やがて、キリスト教は、朝鮮の庶民と女性たちに浸透し、保守的な特権身分層の警戒を招くようになる。

 第3部(19世紀)は、1801年のキリスト教大弾圧(辛酉教難)で開けた。この弾圧は、西洋につながる人・もの・書物・学術研究の全てに及んだ。18世紀後半に積み重ねられた西学研究の成果は放擲せられ、以後80余年、武力による「開国」を迫られるまで、全く途絶してしまうのである。

 日本とのなんという違い。日本が、19世紀のウェスタン・インパクトを切り抜けることができたのは、それ以前に洋学研究の厚い蓄積があったからである。さらに淵源を探れば、徳川家康の深謀遠慮――封建制度の脅威となるキリスト教を徹底拒絶しながら、それ以外の情報・文物の流通路を閉ざさなかったことにあると思う。このグランド・デザインがあってこそ、8代将軍吉宗の、積極的な洋学奨励策も可能だった。明治維新の成功は、家康がもたらしたと言えるかも知れない。

 かくて日本は成功し、朝鮮は失敗した。しかし、今日の日本に、いまだ人権思想や民主主義が十分根づかないのは、思想と技術を切り分けて、後者だけを熱心に受容する習い性の悪弊なのではあるまいか。また、幕府主導の日本の洋学研究は、私人によって細々と行われた朝鮮の洋学研究に比べて安定した成果を築き、社会に大きな影響力を持った。しかしまた、国家主導でないと何もできない体質も、同時に作られたのではないかと思う。19世紀のプラスは、20&21世紀のマイナスと言えなくもない。よく考えてみたい。

 東方伝道をめぐる、イエズス会と他会派の確執、ルネサンスの学問的成果(科学&人文科学)を重視したイエズス会の性格など、ヨーロッパキリスト教史の部分も興味深かったし、秀吉の朝鮮侵攻や明清の交代が、東アジアの他国に与えた影響を考える段も面白かった。『明史』に「意太利亜伝」があるとは知らなかった!

コメント

ふつうの若者/「ニート」って言うな!(本田由紀ほか)

2008-02-20 00:07:07 | 読んだもの(書籍)
○本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書) 光文社 2006.1

 刊行された直後は、当時、書店にあふれていたニート本の1冊だと思って、手に取ることをしなかった。先日、本田由紀さんの『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版,2005)を読んで、なかなかいい論者だな、と思ったので、あらためて読んでみた。

 本書は3部構成である。本田由紀の「『現実』-『ニート』論という奇妙な幻想」は、精密な調査データに基づき、「ニート」言説と「ニート」と定義される若者たちの実像の乖離を検証したもの。著者によれば、日本で「ニート」と呼ばれるのは、通常、15~34歳の若者の中で、学生でない未婚者でかつ働いておらず、求職行動もとっていない人々である。その過半は、「働く意欲はあるが、いまは求職していない(資格取得準備中、療養中、家事手伝い中など)」の普通の若者、あるいは「(さまざまな理由により)今働く必要・予定がない」若者である。

 「ニート」の中で最も不活発な層は「働く意欲がない」若者だが、社会問題となる「犯罪親和層」や「ひきこもり」は、その中のさらに小さなコアでしかない。にもかかわらず、しばしば、全ての「ニート」に、「ひきこもり」の通俗イメージが拡大適用されている。これは、「ひきこもり」に対する誤解と偏見のもとにもなっており、「ニート」「ひきこもり」双方にとって、迷惑で不幸なことである。

 そして「ニート」の外側では、「失業者=求職中」や「フリーター=非正規雇用」の若者が増大しており、こちらのほうが大問題のはずなのだ。著者によれば、「ニート」という言葉が流行り始める直前には、若年就労問題の最大の要因は、企業が新規学卒者の採用を抑制したことにある、という認識が地歩を得つつあったのだそうだ(平成15年度版国民生活白書)。にもかかわらず、2004年以降、「ニート」論の「絨毯爆撃」(!)によって、上述の認識は掻き消されてしまった。著者が、この背景に、JIL(労働政策研究・研修機構)の変貌(独立行政法人化→評価の強化→世間の注目度の重視)を見ているのは、スルドイ洞察だと思う。

 第2部、内藤朝雄の「『構造』-社会の憎悪のメカニズム」は、「ニート」をはじめとして、若者にネガティヴな意味づけを与える言説が生み出される背景を分析する。「いいがかり資源」を相互に流用しながら、複数のネガティブイメージを生み出す術、先行ヒットにイメージを上乗せしながら続ヒットを狙う術など、キレのある分析を面白く読んだ。「教育という危険な欲望」「教育は阿片である」など、毒のある言い回しも好きだ。しかし、最後に提示される「透明な社会と決別して、不透明な成熟した社会にする」という解決策は、具体性を欠き、あまり感心しなかった。

 第3部、後藤和智の「『言説』-『ニート』論を検証する」は、新聞・雑誌など各種メディアに載った「ニート」言説を検証したもの。とりたてて重要な分析結果が導かれているわけではないが、資料的価値はある。何にしても、本来、社会や経済構造の問題であるものを、心構えとか親の責任にかぶせたがる言説には、厳しい警戒が必要だと思う。
コメント   トラックバック (1)

人間世界の変容/肖像写真(多木浩二)

2008-02-19 08:49:26 | 読んだもの(書籍)
○多木浩二『肖像写真:時代のまなざし』(岩波新書) 岩波書店 2007.7

 19世紀後半のナダール、20世紀前半のザンダー、20世紀後半のアヴェドン。3人の写真家を通して、肖像写真の意味を考える。私が知っていたのはナダールだけだが、本書の図版を見て、あとの2人にも興味を持った。ナダール(1820~1910)は、知的ブルジョワジーの肖像を好んで撮った。ボードレール、ゴーティエ、デュマ、ドラクロワ、ロッシーニ等。その写真を見る者は、撮影者の位置に立って、彼らの知性あふれるまなざしを受け止める。これは、ナダール作品のたまらない魅力である。

 アウグスト・ザンダー(1876~1964)は、ナダールの作品に登場しないような、無名の人々を多数撮った。農夫、商人、レンガ積み、郵便配達夫、ボクサー、放送局の女秘書など。彼は人間を職業や社会身分でグループに分けしながら、「20世紀の人びと」すべてを撮ろうという途方もない計画を持っていたように思われる。

 私は、本書で初めてザンダーの作品を見て、強く惹かれた。2005年の東京国立近代美術館の写真展を見ておけばよかったと悔やんだ。彼の作品は、不思議な懐かしさを呼び覚ます。名前も知らない、ワイマール期のドイツの一地方の人々。撮影者にとってさえ、通りすがりでしかない人々。けれど、彼らの肖像には、時代と地域を越えて共有できる「歴史の手応え」が感じられる。

 リチャード・アヴェドン(1923~2004)の作品は、ただ被写体だけが、空白の背景に刻まれているように思う。スタイリッシュで、レトリックに満ち、スノッブな芸術的肖像写真。しかし、「歴史」や「普遍」の不在は、どこか見る者を不安にさせる。19世紀のナダールから遠く離れた、肖像写真の到達点を考えると感慨深い。
コメント

露伴先生かたなし/しくじった皇帝たち(高島俊男)

2008-02-18 00:12:30 | 読んだもの(書籍)
○高島俊男『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫) 筑摩書房 2008.1

 天下をパーにした二代目皇帝を論じた2編を収録。最初が隋の煬帝。悪逆非道、暗愚な浪費家として悪名高いが、史実は、特別ひどい皇帝だったわけではない。死んだあとで、悪いことは全て押し付けられ、あることないこと、こしらえられて、ダメ皇帝の代表のようになってしまった。

 もう1人は明の健文帝。太祖洪武帝(朱元璋)の後を継いで即位したが、叔父の燕王(のちの永楽帝)に皇位を簒奪される。ただし、燕王軍が南京に攻め入ったとき、健文帝は僧侶に変装して地下道から逃亡し、忠臣たちとともに39年の間、各地を放浪したという伝説がある。これを「健文出亡伝説」と言い、幸田露伴の小説『運命』は、これを題材にしたものである。

 ええ、知らなかった。実は『運命』読んでないのである。この作品は「一般に、露伴の生涯第一の傑作とされてきた」そうだ。しかし、その文章は、タネ本『明史紀事本末』を、ほとんどそのまま引き写しているだけである、と著者は指摘する。独自に付け加えた文辞もあるが、これがまた「漢文張扇」式で、けたたましいばかりで内実がない。史料の理解も粗雑だし、そもそも、あり得ない与太話を、露伴は頭から信じて『運命』を書いている、と著者の批判は留まるところを知らない。

 史談の名手といわれる露伴先生にもこんな瑕瑾があったとは。それ以上に、21世紀の今日まで、誰も同様の指摘をしなかったことが不思議である。和漢洋の文献を自在に扱う能力は、露伴の世代で消滅し、その後は、露伴の読者といえども、原点の漢文資料まで目配りすることができなくなってしまったからだろうなあ。

※露伴の『運命』は、青空文庫で読める。ありがたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/1452_16991.html
コメント