「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオにおける「失敗の本質」~その3~

2019年10月16日 | オーディオ談義

随分更新が長くなりましたが、先日の「オーディオにおける失敗の本質~その2~」からの続きです。

これまでに己の失敗談を2項目述べてきたので今回は3つ目になります。

念のため2つの失敗談を再掲しておくと、

1 身の丈に合ったオーディオ

2 音楽とオーディオの間合いを常に意識する

そして今回は

3 周波数レンジを追いかけてはダメ

もう数年以上も前のことだが我がブログをご覧になった名古屋市在住で真空管アンプ愛好家のベテランの方から「周波数レンジを追いかけたらダメですよ、キリがないから」という戒めのアドバイスをいただいたことがある。

たしかに名言だと思うが、残念なことにまだまだ成仏できていない(笑)。

ただし、これもクラシック愛好家とジャズ愛好家では趣が異なるように思っている。

ジャズの再生は極端に言えば「何でもあり」だから思いっきり周波数レンジ(以下「レンジ」)を追いかけても面白いと思うが、クラシックはちょっと違う。

なぜなら主にハーモニーと旋律を愉しむのがクラシックだし、そこには音の余韻や、ふと音が鳴りやんだ時の静けさの深み、ステージの再現性などが求められる。

ところが自分の場合はクラシックにジャズ並みの周波数を追いかけてしまい、何が何やら随分ワケが分からないことになってしまった苦い経験を持っている。しかも現在進行中でもあるので悩みは深い。

フルトヴェングラーの昔の演奏なんかを聴いていると、つくづくそう思う。たしかにレンジは粗末には出来ないけどもっと大切なものがあるような気がしている。つい先日のブログで触れた「脳内補完力」もその一つですよね。

ここで申し添えておきたいのだが、つい先日の「175」のホルンの取り付けはけっして「周波数レンジ」を狙ったわけではなくサウンドの「覇気の不足」がそもそもの動機だったので念のため。

やたらに、あれもこれもと手を広げて投稿していると過去の記事との整合性に冷や汗が出てくることが度々あるが、賢明でおおらかな読者はきっと許してくれるはずだと思っています(笑)。

以上、なけなしの知恵を振り絞って3点ほど失敗談らしきものを挙げてみたが、もっと豊富な事例があればあるほど誰もが「オーディオの本質」に肉迫できるような気がしています。

そこで、読者の皆様へお願い。

もしよろしかったら広く「私の失敗談」をお寄せくださいませんか。もちろん「俺の辞書に失敗という言葉はない」という自信家は別ですよ(笑)。

小さな失敗から大きな失敗まで、そして幅広く製作過程からリスニングに至るまで、大いに読者の参考になると思います。

たとえばオーディオ専門誌「無線と実験」誌の、もうはるか10年以上も前の記事にこういうのがあった。

「鳴らしていた真空管アンプのスイッチを切り、点検のため真空管を引っこ抜いて冷たい床に横たえたところ、突然ガラス管にひびが入ってオシャカとなった。それはWE300B(刻印)だった。今、1本いったいいくらぐらいするんだろう」

    

こういう失敗談はいつまでも鮮明に記憶に残りますねえ!

以後、我が家では熱くなった真空管を引っこ抜いたときの処理に細心の注意を払うようになったのは言うまでもありません(笑)。

そういうわけで生意気なことを言うようですが、いつも読むばかりの一方通行ではなく、たまには情報発信をしてボランティア精神を発揮しようではありませんか。

もちろん、恥ずかしいやら照れ臭いのであれば、当方当てのメールも匿名で結構ですし、公表にあたってもご希望であれば匿名にさせていただきます。

メールのあて先は「smcgr544@ybb.ne.jp」です。

1か月先でも2か月先でもいいですから時期を問わず待ってます~。

皆で数々の「肩の凝らない失敗経験」を持ち寄って「失敗シリ~ズ」による情報交換をするなんて、実に面白い企画だと思いませんか(笑)。

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上達の3要素

2019年10月15日 | 独り言

一昨日(13日)搭載した「秋の写真四題と詩」は予想以上の反響だった。

   

日頃から理屈っぽい話が多いので、新鮮味を感じた方が多かったのかもしれない。

さっそく「お問い合わせ」と「ご意見」が1件づつあったので紙面で回答しておこう。

1 「撮影したカメラの機種をぜひ教えて欲しい」

撮影者のT君(高校時代の同窓生)に問い合わせたところ、次のような返事があった。

7年前にニコンのデジタル一眼レフカメラを購入しました。
ところがニコンの一眼レフカメラは設定ボタンが沢山あり、わかりませんでした。マニュアルを読んでも用語が分かりません。

ニコンにはニコンカレッジというカメラ専用の学校があることを知りました。専属のプロの写真家が講師です。それから7年間、品川、新宿のニコンカレッジに通い、約100回プロの写真家に指導を受けました。プロの写真家に指導を受けてすこしは見れる写真になりました。

ニコンカレッジの参加者はお金持ちが多いです。新製品が出ると、すぐに購入します。僕のカメラは安いです。現在は3代目です。NIKON D-500です。

レンズは10mm-24mmの広角ズームレンズ、85mmのマクロレンズ、35mmの単焦点レンズ、18mm-200mmの望遠ズームレンズをもっています。

あの写真は18mm-200mmの望遠ズームレンズを200mmに設定し開放(f5.6)にして撮影しました。

以上のとおりで、カメラはおそらく「キャノン」か「ニコン」と推測していたが後者だった。「D-500」が安いといっても、望遠や広角レンズなどを含めるととても素人の手が届く価格帯ではないようですよ。

そして「ニコンカレッジ」!

カメラの腕はこういうベースで鍛えられているんですね。オーディオも「オーディオカレッジ」があるといいですね・・。

いずれにしてもカメラもオーディオも、上達するには「熱意と根気と資金」の3要素が必要のようです(笑)。

次にご意見について回答しよう。

2 「詩」の解釈について

昨日の立原道造さんの詩、非常に感じ入りました。

詩や詩人にとんと疎い当方ですが、これは来ました。命が終るときの詩ですね。

”寂寥の中に”は、寂寥の中に星くづにてらされた道 とつながるのでしょうか?

それとも、てらされた道を過ぎ去って、”寂寥の中”にいく と読むのでしょうか?

前者ですかねえ。行き先が”寂寥”では・・・と思います、が、しかし、誰が寂寥なのでしょうか?

詩は深いですね。私が浅いだけ?!

以上のようなご意見だったが、わずか24歳で夭折(病気は結核)した詩人「立原道造」の名前が今ではいっさい出てこないのが残念です。

「優れた芸術作品はその底流に死を内在させている」とは、心理学者の「河合隼雄」氏の言葉ですが、幼心にその辺の雰囲気を感じ取って記憶に残っていたのかもしれません。

ただし、細かな解釈については正直言ってお手上げです。

そこで手っ取り早くネットからそれらしき解答を引用させてもらいましょう(笑)。

「作中使われている「夢」という言葉は、「魂」と置き換えてもよいであろう。動くこともままならず病床で死を迎える作者は、自らの魂を、かつて自分が愛したところへ彷徨させ、自分との別れを物語らせる。

その哀悼の彷徨を終え、魂が行き場を失ったとき、魂は凍りつくのである。すなわち、死、である。

生と死を隔てる扉から、魂は生の場より退場する。その先の世界は、寂寥に満ちた星くづに照らされた道であった。

ここで語られているのは、作者自身の死である。

作者は率直に自身の死を見つめ、自らの死の床を想像し、自らの死そして死の世界を考え、それらを表現する言葉を磨きぬき、完璧な詩に昇華させている。その徹底した冷徹な作業を行う、若き作者の精神の強さに私は慄然とする。

名作というもの、年を経れば、見えてくるものはまた違ってきて、新たな魅力を知ることができる。しばらくは、読書は古典を中心にしてみようと、近頃思った次第。」

以上でよろしいでしょうか(笑)。

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耳寄りの情報

2019年10月14日 | 独り言

いやあ、昨日のスコットランド戦には痺れましたねえ!

けっして便乗するわけではなく、昔からずっとラグビーファンである。だいたい人間にとってとても大切な「手」を使わないスポーツ(サッカーのこと)なんて不自然極まりないというのが持論。

この大会を契機にもっとラグビーファンが増えることを願っている。

さて、つい先日のことだったが「アレっ、おかしいなあ・・・」。

 

アンプの電源スイッチを入れたとたんに、パイロットランプが点滅し真空管が点ったり消えたりする。

どうやらスイッチ部分の接触不良のようだ。使い過ぎかなあ(笑)。これは安価な部品だし交換するしかない。

こういうときに頼りになるのがアンプビルダーのKさん(大分市)で、実にありがたくて心強い存在。

ただし、このアンプはメチャ重いので腰痛が不安、そこで次のように依頼した。

「アンプのスイッチ部分がおかしくなりました。持っていければいいんですが腰痛持ちなのでご都合のいいときに来ていただけませんか。出張料はお支払いしますから」。

「K」さんは出張料なんかこれっぽっちも要求される人ではないが、一応姿勢だけでも示しておかないと気が済まない(笑)。

午前中(11日)に依頼したら、その日の午後には往診カバンに道具や部品を入れて来ていただいた。

ものの30分ほどで終了した。小振りのスイッチは故障しやすいそうで、今度は大きめのがっちりしたものに交換してもらった。

修繕後は当然のことながら実際にスイッチを入れて確認しながらの試聴となった。

さっそくJBLの「175」のホルンを入れ替えたばかりの「ウェストミンスター」(改)を聴いていただいた。

   

曲目はもちろん「サムシン・エルス」の「枯れ葉」。

お終いまで(11分前後)聴いていただいてから、いかがですか?

「ちょっと音がストレートに飛んで来て”きつい”気がします・・・」。

どうやらKさんは高音域の聴き取り能力が自分よりずっと上のようだ(笑)。ことほど左様に「高音域」に対する反応は各自まちまちですね。

そして、いろいろ会話していたら耳寄りの情報が入ってきた。

Kさんが先日福岡に行く用事があって、そのときにある大きなオーディオショップの店主と話す機会があったそうだ。

「このところオーディオ愛好家の高齢者が相次いで亡くなっておりそのペースが速くなっている。そこで、貴重なオーディオ機器群が死後に散逸しないように生前に、それら機器群を査定したうえで引き取り契約を結んでおく。そして実際に引き取った後となると、当然機器の修理やメンテが必要なので手が足りないときはぜひ加勢してほしい」と依頼されたとのこと。

思わず膝を打ってそれはいいですねえ!

死後のオーディオ機器の散逸は自分にとっても切実な問題だ。

生前に「売る側」と「買う側」の相互の確認のもとに機器の一覧表を作成して、売買価格を決めておけばいっさい後顧の憂いなくあの世とやらに行けそうだ(笑)。

当然のごとく日頃使っておれば故障も消耗もあるだろうし、逆に新規の機器が増えたりもするだろうから、その都度買う側へ報告し修正しておけばそれでよい。

この「生前契約」って名案だとは思いませんか?

ただし懸念されるのは、できるだけ高く売りたい側と出来るだけ安く買いたい側の双方の値段が折り合うかどうかですよね。

もし、折り合わないときはこのブログで個別のシステムや機種ごとに広く公募する手もありますなあ。

ただし、問題は手を挙げる人がいるかどうかだが・・(笑)。

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秋の写真四題と詩

2019年10月13日 | 独り言

いつもグダグダと、くど過ぎることを書いてばかりなので(笑)、読者におかれてはときどき気分転換して目の保養が必要でしょう。(スマホでご覧になっている方は別ですよ!)

そこで秋にふさわしい写真を四題投稿してみよう。

プロ級の腕前を持つ高校時代の仲間がときおり「同窓生のメールクラブ」に写真を投稿してくれるので、同意を得たうえでupさせてもらいました。T君、どうもありがとう。

<彼岸花と蝶々>

   

<トンボの夫婦>

   

<トンボ>

   

<白い彼岸花と蝶々>

      

最後に、幼少時代の教科書に載っていたもので、今でも記憶に残っている「詩」をご紹介して終わりにしよう。

のちのおもひに(立原道造)

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に

水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた ――

そして私は 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない

なにもかも 忘れ果てようとおもひ 忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう

そして それは戸をあけて 寂寥のなかに 星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

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オーディオの怖さを思い知る

2019年10月12日 | オーディオ談義

前回からの続きです。

「サムシン・エルス」のまるでツバが飛んでくるようなマイルスのトランペットに心の底からびっくらこいて、何とかせねばと思ったウェストミンスター(改)。

まず何よりも元気さが足りないというか、サウンドに「覇気」がない!

人間でもそうですよね。「エネルギーが無ければそもそも善も悪もない」と言ったのは古い話で恐縮だが、歴代総理の指南役として有名だった「安岡正篤」氏だった。とはいえ、当方もエネルギーがある方ではないのであまり偉そうには言えませんけどね(笑)。

いずれにしても、このシステムはクラシックを聴いているときはさほどでもなかったがジャズで一気に馬脚を現してしまった。

   

原因は周波数800ヘルツ(-12db/oct)以上を担当するJBLの「175」(コンプレッション・ドライバー)あたりだろうとはおよそ推測がつく。

そもそも以前から次の2点が気になっていた。

 クロスオーバー800ヘルツ付近でのウーファーとの繋がり具合が薄い

 伸び切らない高音というか、はたしてツィーターが要るのか要らないのかどっちつかずで、ずっとモヤモヤ感が続いていた。

そこでふと思い出したのが6年ほど前に「北国のおじさん」からご厚意でいただいたホルンだ。学校の教材用として使い古しの楽器を改造されたものでこれまで倉庫の一角で大切に保管してきたものだ。

「175」付属の「小型ハチの巣ホーン」をホルンに代えてみようかな。な~に、悪ければ元に戻すだけの話だ。

ただし、メーカーが指定した純正のホーンを代えるとなると、かなり勇気が要ることはたしかですよ(笑)。

   

左が「175」で右がホルンになる。音の出口が理想的な形をしていますね。

繋ぎ口に「2インチ→1インチ」変換アダプターを取り付けて作業はお終い。

さっそく左右両方のSPの上部に載っけてみた。

   

さあ、ワクワクしながらさっそくの音出し。オーディオ愛好家が一番痺れる瞬間である(笑)。

まずは「サムシン・エルス」のトランペットといこう。

おおっ、なかなかいいじゃないか!

さすがに「075」には及ばないが「蜂の巣ホーン」のときよりもずっと生々しくて元気がいい。見事に合格!

次は一番気になっているのがヴァイオリンだ。いくら管楽器が良くても弦楽器が悪ければ元も子もない~。

しかし、これがまた素晴らしいんですよねえ・・。瑞々しくて潤いがあってとても金属のダイヤフラムで鳴らす弦の音ではない。

さすがだよ「175」さん。とうとう「さん付け」か(笑)。

JBLのコンプレッションドライバーといえば、以前に「375」と「LE85」を使ったことがあるが、前者は高音域の肌合いが合わず、後者は最高音域の伸びがイマイチなのでバランス的には「175」がベストではないだろうか。

タンノイさんでいえば丁度「ⅢLZ」(イン・オリジナル・キャビネット)みたいな感じ。

いずれにしても、これまでウェストミンスターは実験用としてあれやこれや弄り回してきたが、今回の改造でようやく魅力的なサウンドへと変身してくれた。

今回の成り行きを順を追っていけば、「このブログには珍しくジャズ記事を登載」 → 「それに呼応してくれたジャズファン」 → 「サムシン・エルスのトランペットに大いに触発された」 → 「175ドライバーホーンの見直し」へと繋がっていった。

ほんとに何が”きっかけ”になることやら・・・。

ただし、オーディオは聴き込めば聴きこむほど何らかの不満が出てくるものなので、10日間ほどはいろんな音楽ソースによるテストをして欠点を洗い出してみよう。

そういうわけで、今回の教訓は次の4点に絞られる。

 オーディオはジャズを聴かないと向上する”きっかけ”がつかみにくい

 いくらメーカー指定品といっても頭から信用してはダメですね

 高音域の聴き取り能力は年代に応じて変化するので臨機応変の対策が必要

 たった一発のホルンでサウンドのいろんな不満が解消するんだからオーディオはやっぱり怖いというか細心の注意が要る

改めて関係者の方々にはシステムの弱点を気付かせていただき心から感謝です!

また「北国のおじさん」、ようやくホルンが陽の目を見ましたよ~!

なんだか久しぶりにいろんなお客さんに自慢のサウンドを聴かせたくなったなあ(笑)。

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ジャズ「Somethin’ Else」を聴く

2019年10月11日 | 音楽談義

先日搭載した「読者に占めるジャズファンの割合」で、このブログでは極めて珍しいジャズの話題を取り上げたところ、アクセスがぐ~んと好調でジャズファンの多さが実証できた。

さらに、別のジャズファン(仮に「K」さんとしておこう)からも新たなメールをいただいたのは大きな収穫だった。ありがたく、ご了解を得たので以下のとおり紹介させてもらおう。

今回メールさせてもらったのは、貴ブログのJAZZファンのメールに共感を持ったからです。

そこで、私の知り合いのクラシックファンの方に、JAZZのCDを貸してあげた時、輸入盤だった為、解説書代わりにメモを添付しました。

よろしければ、その文書を一読して下さい。これは、私のJAZZの聴き方、感じ方を書いたものです。一笑に付されても構いません。」

さっそく拝読させていただいたところ、一笑に付すどころか、大いに感心の至りでしたよ!

全部で4枚のアルバムについてお見事な解説をいただいたが、そのうち紙数の都合で1枚だけ紹介させていただこう。

まずはじめに、個人的に名録音を選択した条件を挙げておくと、

・予め別個に録音したトラックを後で合成するデジタル録音ではなく、一発同時のアナログ録音であること。1950年代の録音にとどめを刺す。

・測定器による信号音の評価ではないから、必要条件として繰り返しに耐えうる名演でなくてはならない。

● Somethin’ Else

    

実質的にはマイルスがリーダーの、キャノンボール名義の1958年のアルバム。

麻薬禍で不遇時代のマイルスに、レコーディングの機会を与えてくれたのがブルーノートのアルフレッド・ライオンだった。マイルスの体調を診ながら年1回のペースで録音することにしていたのが、麻薬を断ち切って回復し大手のCBSと契約を交わしたのだ。

その後、配下のキャノンボール名義のアルバムにすることで、ライオンの恩義に応えてブルーノートに録音したと言われている。

白眉はシャンソンの「枯葉」で、ジャズマンに採りあげられる端緒となった。

ここでのマイルスは、鼓舞する他のメンバーの人選も良く、饒舌をそぎ落とした散文詩のようなミニマムのアドリブを展開し、知性を感じさせる不朽の演奏となった。

厳かな導入部のトランペットの短い高音のアクセントからして、マイルスのオリジナルな楽曲に聴こえてくる。この「枯葉」があまりに素晴らしいので、何回もこればかり聴いてしまい他の曲の印象が薄くなるのが欠点。

録音は、ルディ・ヴァン・ゲルダー。本来は検眼師なのだが、アマチュア録音が高じてブルーノート以外にもマイナーレーベルの録音を手がけた。

特徴は、いかにも黒人のエネルギッシュなガッツを感じさせる、東のニューヨークを代表するサウンドである。

マイクのセッティングは楽器に近づけるオン・マイクで、かつ各楽器を1本づつのマルチ・モノ・マイクで飽和レベルすれすれの音で収録。全体の空気感より、個別楽器のダイナミズムが優先されている。

唯一の欠点、問題はピアノの録音で、共鳴感がなくコロコロしていて残念でならない。直接音重視で、反響する間接音を排除している為か?

ビル・エヴァンスも、ヴァーブ時代にヴァンゲルダーの録音があるが嫌ったと言う。使用マイクは、ノイマンU-47、テープレコーダーはAMPEX 300で、本人共々ドイツ系。

以上のとおりで「K」さん、どうもありがとうございました。

この記事に大いに触発されて我が家でも「サムシン・エルス」を2系統のシステムで聴いてみた。

 JBLの「D123+075」の2ウェイシステム(クロス8000ヘルツ)。

 ウェストミンスター(改)の「ワーフェデールのスーパー12+JBLの175」の2ウェイシステム(クロス800ヘルツ)。

はトランペットの音がまるで唾が飛んでくるみたいに迫力があった。頭がクラクラッときたが、やはりこういう音は075の独壇場だ!改めて底力に唸った。これが「ステンレス削り出しホーン付き」の075。

   

その点
はまるでネクタイを締めてかしこまって聴いているみたいだった。

1に比べるとベースの豊かな響きと、ピアノにコロコロした感じが無かったのは良しとするがトランペットについてはまったく物足りなかった。全体的にも生き生き、伸び伸び感が足りない。

総じてジャズらしいといえば1のシステムで、おそらく生粋のジャズファンは圧倒的にを支持することだろう。

問題はだ!

いくらクラシック用のシステムとはいえ、これでは絶対にダメ(笑)。

何とかしなければと「沈思黙考することしばし」だったが、「窮すれば通ず」で名案(?)を思い付いた!

以下、続く。

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罪深き遊び、それは「聴き比べ」

2019年10月10日 | 音楽談義

音楽にしろ、オーディオにしろ「聴き比べ」は実に楽しい。

音楽の場合、出所は同じ「楽譜」なのに演奏によってこんなに印象が変わるのかという驚きは新鮮そのもので、次から次に違う演奏を楽しみたくなる。

オーディオだって使う真空管(初段管、出力管、整流管)によって、音がクルクル変わる「球転がし」ひいては「アンプ転がし」果てには「スピーカー転がし」などの「聴き比べ」はまさに究極の愉しみとして絶対に欠かせない存在だ!

ところが、その「聴き比べ」を「罪深き遊び」だと断罪している本を見かけた。興味を引かれたので以下、解説してみよう。

「許 光俊」氏の音楽評論はとても歯切れがいい。まさに一刀両断、評論家によくありがちな“業界”におもねった雰囲気がみじんも感じられないのでとても清々しい。

初見の方がいるかもしれないので「許 光俊」氏の情報についてざっとお知らせしておくと(ネットによる)、

「許 光俊(きょ みつとし:1965~ )は、東京都生まれのクラシック音楽評論家、文芸評論家。

ドイツ文学、音楽史専攻。近代の文芸を含む諸芸術と芸術批評を専門としている。慶応義塾大学法学部教授。」

そして許氏の最新作「クラシック魔の遊戯あるいは標題音楽の現象学」(2014.2.10刊)がその該当する本だ。

              

本書の冒頭(プロローグ)にこうある。

「聴き比べは、罪深い遊びである。さまざまな演奏家が研鑽と努力の末に成し遂げた仕事(そうであることを祈りたいが)を、これは駄目、あれは良いと断罪する。

それはクラシックの愛好家に可能なもっとも意地悪で、もっとも贅沢な遊びである。どうして多くの人々は知らない曲を知る代わりに同じ曲を何度となく聴き直して喜ぶのか。

ベートーヴェンの“第九”を100回聴く代わりに、せめて未知の作品を20曲聴いたら、新たなお気に入りが見つかるかもしれないのに。~中略~。

聴き比べは、陶酔ではなく覚醒へ向かおうとする。信じることではなく、疑うことを本分とする。満足を得ようとして不満を得る。」

さらに、加えて「演奏の歴史とはまったく驚くべきことに、演奏家がいかに楽譜を無視し、自分の感覚や想像力に従ってきたかという歴史である。」とあり、そういう醒めた視点から4つの曲目について延々と「聴き比べ」が展開される。

自分はとても
信じ込みやすいタイプなので「聴き比べは陶酔ではなくて覚醒へ向かう」に、「その通りです!」と、はたと膝を打って頷きながら、つい“お終い”まで読み耽ってしまった。

とにかく、その「聴き比べ」というのが中途半端ではないのである。

 ヴィヴァルディ「四季」(春)~演奏家のエゴの痕跡~

「精神が欠落した音楽の空白を埋めるかのように、様々な演奏者の録音が山積し(演奏の)実験場と化している。」と、著者は相変わらず手厳しい。

「虎の威を借りる狐」ではないが(笑)、自分も先般60枚にも及ぶボックス版を聴いての印象として「バロック音楽は聞き流しが適当な音楽」のような気がしてならない。

もちろん、いいとか悪いとかの話ではなく、こういう音楽が好きな人がいても少しも構わないので念のため。

「イ・ムジチ合奏団+フェリックス・アーヨ」を皮切りに、何と24もの演奏の「聴き比べ」が紹介される。とても半端な数字ではない。それぞれの演奏に対して的確なポイントをついた辛口の指摘がなされていて、著者の音楽への造詣の深さと分析力には脱帽する。

こういった調子で、 スメタナ「わが祖国」(モルダウ)~内容を再現したがらない指揮者たちの反抗~については、極めて民族的な(チェコ)音楽にもかかわらず、「アメリカのオーケストラ」の心なき演奏への嘆きなどを交えながら、23もの演奏の聴き比べ。

圧巻の ベルリオーズ「幻想交響曲」~自我の中で展開する私小説~に至っては、37もの演奏の「聴き比べ」。

作曲家自身のベルリオーズが残した楽章(5楽章)ごとの解説があまりにも“微に入り細にわたっている”ため、演奏家にとってはそれが“がんじがらめ”となっていっさいの想像力が許されず、両者の間に創造的な緊張関係が起きることはないとあり、「今さらながら、かくも多くの下らない演奏が氾濫している事実に呆れるしかない。」(216頁)。

というわけで、「言葉では表現できないことを生々しく伝えることが出来る芸術=音楽」の役割について改めて考えさせられた。

本書の読後感だが、「聴き比べ」とはたとえばA、B、Cと違う演奏がある場合にA、B、Cの差異を問題にするのではなく、「Aと作品」、「Bと作品」といった具合に常に演奏と作品の関係を追及しながら、基準となるものをしっかり据えて対比しつつ、「あえて演奏家同士の間には上下関係をつけようとしていない。」ことに感心した。

本来、「聴き比べ」とはそうあるべきものなのかもしれないと、深く感じ入った。

翻ってこれをオーディオに当てはめてみるとどうなんだろう。

いろんな真空管を差し換えて音質テストをするにしても、音楽における作品のような確たる羅針盤があるわけでもないのでハタと困ってしまう。

もしかすると、このことがオーディオ界において「単なる主観に基づいた意見」が「評判」となり、大手をふるって独り歩きする所以なのかもしれない。

音質を左右する要因は周知のとおりいろいろあって、その条件次第で真空管だって生き返ったり死んだりするから、「これはイイ」とか「あれはダメ」とか、早計な判断はムチャということが分かる。

これからは「聴き比べ」を「罪深い遊び」にしないように“心がけよう”とチョッピリ反省した次第です(笑)。 

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オーディオは「シンプル・イズ・ベスト」かな?

2019年10月09日 | オーディオ談義

先日、オーディオ仲間と一緒に試聴していたら妙なことが話題になった。

オーディオははたして「引き算」なのか「足し算」なのか。

言い換えると出来るだけ機器の数を減らしてシンプルな方向へ向かうべきか、それとも機器の数を増やして複雑化すべきか。

いったい、どちらが自分の好みのサウンドを得るのに適切なんだろう?

「そんなことはケースバイケースで個人の勝手だろ」という声が外野席から聞こえてきそうだが(笑)、まあオーディオに取り組むにも一応「原則」というか「拠り所」らしいものが欲しい気もするところ。

まず引き算的な発想からアプローチしてみよう。

実際の演奏会場の特等席で聴く音を100点満点の「原音」と仮定しよう。そして、その原音に出来るだけ近づいた音で家庭で聴けるようにマイクや録音機器でデジタル録音するとしよう。

完璧な収録はあり得ないのでその時点で「原音」からいくばくかの情報量が失われ減点される。


次に音声信号をCDにプレスする時点でも同様に減点の対象となる。(CDの材質もガラスからポリカーボネイドまであって、音質もさまざまだが)ここまではいわば他動的な話。

次に、お好みの「CDトランスポート → DAコンバーター → プリアンプ → パワーアンプ → スピーカー」と自宅で音楽再生に必要なオーディオ機器が接続用ケーブルとともに加わっていくが、すべてに亘って人工的な電気回路が使用されるのでその都度「音声信号」が次第に原音から遠ざかっていき減点が加算されていく。

そして、最終的に「再生音が耳に届くまでに原音に対してどれだけ減点を少なく留めることが出来たか」という尺度を問題にするのが「引き算」的な発想である。

いわば「シンプル・イズ・ベスト」で、オーディオ機器は必要悪として仕方なく使うという考え方が根底にある。いまだにコンサート至上主義が根強い人気を誇っているのも頷ける、かな(笑)。

その一方、「足し算」的な考え方というのはスタート時を0点として自分が目標とする音を100点と仮定すると、この目標に向かって上記のように再生に必要な機器を順次加えていくごとに点数が加算されていく。

そして各機器の個性を理想的にブレンドしていきながら最終的に目標の音に近づけていく。

たとえどんな音であろうと自分さえ気に入っていれば「良し」として、原音にこだわることなく積極的に機器を活用していくのがいわば「足し算」的な考え方。

まったくどちらがいいとも悪いとも言えず、「おいらの勝手でしょ」だが、自分に照らし合わせてみるとこのところ「引き算」的傾向にあると言わざるを得ない。

「行稼ぎ」みたいな長い前置きはこのくらいにして(笑)、実例を挙げてみよう。

最近よく聴いているシステムの「川上から川下への流れ」は次のとおり。

「ブルーレイレコーダー」→「液晶テレビ」→「DAコンバーター」→「パワーアンプ」→「スピーカー」

そこで、引き算としての特徴を挙げてみると、

✰ CDトランスポートを外す

CD音源を聴くのならもう「ブルーレイ」のHDD録音で十分な気がする。老体になるとリモコンの便利さにすっかり取りつかれてしまった(笑)。

✰ プリアンプを外す

DAコンバーターの「エルガー・プラス」(dCS)の出力電圧が異常と思えるほど高いのでプリアンプ無しでもパワー感に遜色がなく十分いける。

ただし、ボリュームの調整は微小電流を扱うDAコンバーター側をフルにしておき、パワーアンプ側のボリュームで操作する。

✰ スピーカーはフルレンジか、せいぜい2ウェイへ

フルレンジの「AXIOM80」を聴くことが多いが、ときどきはJBLの2ウェイと入れ替えている。

  

「D123」(口径30センチ)とツィーターの「075」との組み合わせはとても相性がいい!

やはりスピーカーはフルレンジか、せいぜい2ウェイが自分には合っていそうだ。ちなみに、ウェストミンスター(改)の方も現在2ウェイで落ち着いている。何といっても位相の調整が楽だ。

✰ パワーアンプ

このJBL2ウェイシステムに一番相性がいいのがとてもシンプルな「6SN7GT」シングルアンプ。

  

我が家では一番コストがかからなかったアンプだが、シンプルな回路と小さな出力トランス(TRIAD)が功を奏して音声信号に対する反応がメチャ早い。しかもこの種のアンプにありがちな低音域の不足がまったくないときている。  

「シンプルな小出力アンプで能率の高いSPを駆動する」ときに得られる満足感の典型例である。

こうしてみると、やっぱりオーディオは「シンプル・イズ・ベスト」が王道ではないかと思う今日この頃です(笑)。

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読者に占めるジャズファンの割合

2019年10月08日 | 音楽談義

ときどき、このブログの読者がどういうタイプかを想像してみることがある。

仮に1000人だとすると、クラシック愛好家は200人ぐらい、ジャズ愛好家が500人ぐらい、そして音楽なら何でも好きというタイプが300人といったところかな。つまり「2:5:3」というわけ。

もちろんあくまでも想像の域を出ないが、搭載しているブログの内容に応じたアクセス数から推し量ったものだから全然根拠が無いわけでもない。

また、これまで13年間にわたってときどきメールをいただいた方の傾向も加味している。

やはり、このブログのセールスポイントは「実践的なオーディオ実験」にあるとみている。もちろん、大した内容ではありませんよ(笑)。

ジャズファンはクラシックファンに比べて圧倒的にオーディオ愛好家が多いのでこの5割説の根拠にもなろうというものです。

そういうジャズファンの中で息が長い交流をさせていただいているのがメル友の「I」さん(東海地方)である。

折にふれ、コメントを引用させてもらいたいへん感謝しているが、このたびジャズのアーチストについて興味深い情報を得られたのでご了解のもとに掲載させてもらおう。

実を言うと、クラシック愛好家から見てジャズは芸術よりも娯楽に近いと思っていたが、これで認識を改めようと思った次第(笑)。

それでは以下のとおり。

ジャズの話題に便乗して、好みのジャズ(奏者)について白状させてください。

学生運動最後の時代が自分の大学時代と重なり、その頃にジャズを聴き始めています。思想的にジャズが扱われる時代でしたが、そのようにジャズを聴いたことはありません。もっと個人的な芸術表現として聴いてきました。

娯楽でなく芸術として聴いていますので、ジャズ奏者に求めるものは、けっして偉そうに言うわけではないのですが「創造性・・探求性?」と「矜持」です。

好きな(リスペクトする)奏者

<ピアノ>

バド・パウエル(比類なきドライブ感)

セロニアス・モンク(笑みがこぼれます)

ウィントン・ケリー(最高のハードバップピアニスト)

ビル・エバンス(ジャズピアノの・・・何と言ったらいいかわかりません)

<トランペット>
マイルス・デイビス(ウエイン・ショーターが参加する前までが帝王)

ブッカー・リトル(夭折が本当に惜しい)

ウィントン・マルサリス(批判にめげず頑張ってほしい)


<アルトサックス>

エリック・ドルフィー(早死にが悔しい。少なくともあと数年だけでも生きていてほしかった)

オーネット・コールマン(1964年のヨーロッパ・ツアーまでが眩しい)


<テナーサックス>

スタン・ゲッツ(うまい!それだけで凄い)

アーチー・シェップ(70年以降もいい演奏をしている稀有な存在)

<ベース>

ポール・チェンバース(はずせない)

(以下3人は白人。表現力が尋常ではない)

スコット・ラファロ、ニールス・ヘニング、ウルステッド・ペデルセン ジョージ・ムラーツ


<ドラム>(ドラムには関心が薄いのですが、強いて言えば)

フィリー・ジョー・ジョーンズ(上質な縁の下の力持ち)

ジミー・コブ(上に同じ)

トニー・ウイリアムス(超人なのに縁の下の力持ち)

偏ってますねえ(笑)

時代は1950、60年代がほとんど。楽器はアコースティック。ジャズ史的にいうと、ハードバップ・モード・フリー・ウルトラモダンになります。

ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズが入っていないのが不思議に感じられると思いますが、この二人へのコメントは不遜になりますので差し控えます。

以上のとおりだが、「I」さんのジャズとオーディオへの熱意にはいつも感心する。

ところで、クラシックの場合は作曲家をはじめ指揮者や演奏家など好みの対象が広範囲に広がるが、ジャズともなると演奏家だけに収斂されていくのが特徴のようだ。

それだけ許容範囲が狭くなるというのか、ジャズファン同士の「口角泡を飛ばす」議論の要因にもなりそうな気がしている(笑)。

ちなみに、ときどき我が家ではコルトレーンを聴いてみるのだが、どうもサッパリで皆が言うほどピンとこない。

   

素人なりに、この疑問を率直に「I」さんにぶつけたところ次のような返信があった。 

「コルトレーンについては私もそう思います。バップ、フリー等何を聴いてもピントきません。
 
とんでもなく尊大なことを言いますが、コルトレーンはジャズの勘所が判っていないのではないかと・・・私、死刑ですね(笑)
 
逆に勘所だらけで、それがくどくなっているのがロリンズかなと・・・2回目の死刑です。
 
コルトレーンはヴィレッジバンガードを良く聴きますが、実はドルフィーを聴くためです。
 
好きな演奏もあります。セルフレスネス(LP)のマイ・フェイヴァリット・シングスです。コルトレーンを聴いている人なら持っている1枚だと思いますので、機会がありましたら聴いてみてください。「おんなじヤー」かもしれませんが(笑)。」

以上、クラシックファンと比べるとジャズファンは音楽に対する入れ込みようが一段と「ヒート・アップ」しているような気がする(笑)。

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音楽情報に対する脳内補完力について

2019年10月07日 | オーディオ談義

先日のブログ「水増しされた交響曲、そしてブログ」(2019.9.28)をご記憶されているだろうか。

この中で、水増しされた交響曲の作曲家として名指しされた「ブルックナー」(ゴメンね!)についての関連図書として紹介したのが「いい音 いい音楽」だった。

   

著者は言わずと知れた「五味康介」さん(故人)である。文筆家として芥川賞を受賞されるとともに、こよなくクラシック音楽を愛された方である。

この機会にと、あれから本書を再度じっくりと読ませていただいたが、改めてクラシック音楽への接し方について啓発される点がとても多かった。

大いに興味を惹かれて五味氏の著作は大概読んでいる積りだが、読み残しの著作はないだろうかと、ネットで漁っていたところ、同氏のファンから寄せられた次のようなコメントが目に入った。

無断引用させてもらいます、どうかお許しを。

「音楽というのは不思議なもので視覚と違って、日によって聞こえ方が違ったりします。 恐らく少ない情報量を脳内補完しているために、体調によって感じ方が変わるためでしょう。 良い音を求めて止まないオーディオ道が成り立つのは、このためかも知れません。」

「脳内補完」という新鮮な響きに、とてもシンパシーを覚えると同時に、暗闇の中で一筋の光明を見た思いがした。

音楽鑑賞力とは受け止めた音楽情報をいかに脳内補完し、イメージとして完成させるかに尽きるのかもしれない!

つまり、いい音とか悪い音とかオーディオ的に問うたとしても、それには限界があって所詮は詮無き事、最後はそれぞれの脳内補完力に決定的な要因が求められるのではあるまいか。

とはいえ、脳内補完力と言っても具体的なイメージが湧いてこないだろうから実例を挙げてみよう。

これまた「五味康介」さんの著作「西方の音」からの引用。クラシック愛好家なら少なくとも一度は読むべき本だと思っている。

   


12頁に次のような記述がある。

「分かりやすくするためにフォーレのヴァイオリン・ソナタを例にとるが、フォーレのこのソナタ一番をボベスコ、ジェンティの英国デッカ盤ではじめて聞いたとき、夜の海浜で、貴婦人に抱擁される私自身をはっきり幻覚させてくれた。

彼女は未亡人であることは確かだが、金髪で、むろん名前も知らぬし会ったこともない。

彼女は優しく貧乏青年の私を愛撫し、潮風に髪を乱して嫋々(じょうじょう)たる彼女の過去の嘆きと過ちへの悔恨を訴え、どうかすると波涛の飛沫が私たちの頬に降りかかったが、彼女は細い指で私の頬を拭ってくれ、自身のは濡れるに任せている。

彼女の告白はフランス語だから意味はいっさい私には分からない。一人の寂しく生きた婦人がここにいる。そう分かるだけだ。


ことわっておくが、フォーレの音楽にのって浮かびだした光景である。~以下略~」
といった具合。

もちろん「五味さんの勝手な妄想だろ!」の一言に尽きるが、こういう情景を脳内補完力でもって描きながら音楽を鑑賞するクセがつくと、端的にオーディオの役割っていったい何だろうという気がしてきてしまう。

たとえば、昔の録音なのでノイズだらけのフルトヴェングラーの演奏を聴いて、今でも感動できるのもこの「脳内補完力」のおかげかもしれませんよ。

こうしてみると、システムのUPも必要だけど同時並行的に沢山の音楽を聴いて己の「脳内補完力」をUPさせることもとても大切なことがわかりますね。

自分にとって大きな反省材料です(笑)。

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後日談

2019年10月06日 | 独り言

このところのブログで2件ほど「後日談」があるので記載しておこう。

ちなみに、「後日談」とは「ある事件の落着した後、それからどうなったかという話」(広辞苑)という意味である。

「そのくらい知ってるぞ、バカにするな!」と、どうかお腹立ちになりませんように(笑)。

まずは、次のタイトルのブログから。

✰ 「今が良ければすべて良し」かな?(2019.9.30)

「おじちゃんのシステムでぜひクラシックを聴いてみたい」という大学2年生のS子ちゃん(福岡在住:姉の長女の子供)に実際に聴いてもらった話を中心に記載していたところ、一昨日(4日)になって姉から電話があった。

   

「S子ちゃんが手放しで感激していたわよ。おじちゃんの音が凄く良かったって。」

「ほう、それは良かった。ほとんど馴染みがないクラシックなのに最初から目を瞑って聴く子だから、素養があると思っていたよ。聴きたいときはいつでもどうぞと、言っといてね~」

これで、「音楽&オーディオ」のファンが一人誕生かな(笑)。

そういえば若い人たちのオーディオ離れが叫ばれ始めてから久しい。音楽ファンは決して減っていないようだが、今やパソコン絡みの”ちまちま”した音で楽しむ若者たちが大半だと思う。

そんな音でクラシックの良さが分かってもらえれば、それに越したことはないが・・・。

もっと豊かな響きを持ったシステムで聴くと重層的な「ハーモニー」が楽しめてクラシックファンがさらに増えると思うが、実に惜しい。

とはいえ、別にクラシックが好きになっても何も金銭的に得るものはないし、より善人に成れるわけでもないが人生が豊かになるのは間違いない。

あの物理学者「アインシュタイン」は「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」と言ったが、天才と凡人が同じ土俵に上って同じ趣味を楽しめるなんて素晴らしいことだと思いませんか。

それかといってクラシックを普及する具体的な対策はないしねえ。

せいぜい「素(す)隠居」(貧乏な隠居)で出来ることといえば「音楽&オーディオ」の面白さをブログで伝えることぐらいしかないのが悲しい(笑)。

次のブログのタイトルは、

✰ オペラ狂だった「ドナルド・キーン」さん(2019.9.13)

およそ3週間前の話なので読者の記憶がちょっと心配、そこで要点をかいつまんでおこう。

運動ジムの「BGM」でご機嫌なポピュラー音楽にすっかり馴染んでしまい、トレーナーさんへ曲名をお伺いしたところ、チューナーの表示から「テイラー・スウィフト」の最新曲だと分かった。

    

この件をご承知のようにブログのネタにさせてもらったわけだが、折角なのでジムのトレーナーさんに、メモを差し出し「ブログに書いてますので、よろしかったらご覧になっていただきませんか。タイトルは・・」と積極的にアプローチした。

歳を取るといかにも図々しくなる(笑)。

すると、それからブログをご覧になったご様子で、さらには他のトレーナーさんにまでクチコミで伝わった模様。

「凄いですねえ、とても専門的な内容でよくわかりませんがテイラー・スウィフトからクラシックまで実に幅が広いですねえ。」

「ハイ、暇にまかせて毎日投稿しています。よろしかったら好きなCDを持って我が家に聴きに来ませんか、クルマで送迎しますよ」

機会を見つけては「音楽&オーディオ」の普及にせっせと邁進する日々が続いています(笑)。

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オーディオにおける「失敗の本質」~その2~

2019年10月05日 | オーディオ談義

1週間前に投稿した「オーディオにおける失敗の本質~その1~」の続きです。

これまで簡単に安請け合いして、いざ実際に事を運ぼうとしたら「さて困ったなあ」ということがときどきあるが、まさに今回がそうだった。

「その1」の末尾でお約束していたとおり自分の「失敗談」について、さあ実際に書こうとなるとハタと困ってしまった(笑)。

50年近く「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を繰り返してきたので、(オーディオの)失敗はいくつもやってきたが「失敗の本質」と銘打った以上、普通の失敗談では面白くないだろうし、ましてや「本質」ともなるとちょっと敷居が高い。

そこで一気に肩の力を抜くことにした。

これから初めてオーディオに取り組もうという方を対象にし、どうか自分のような「つまらない失敗」をしないで欲しいという観点から身近な事例を挙げてみるとしよう。

ただし、あくまでもこの事例は「ワン・オブ・ゼム」に過ぎないし、自分で実際に痛い目を見ないとほんとうに身につかないかもしれませんので念のため(笑)。

1 身の丈にあったオーディオ

振り返ってみるとオーディオに興味を持ってから20年ほどの間は、わけも分からないくせにとかく「背伸び」をし過ぎていたと反省している。

まあ、それも授業料だと割り切る考え方もあろうが、いかにも時間がもったいなかったし、それに高くつきすぎた(笑)。

たとえばプリアンプではマーク・レヴィンソンの「N0.26SL」を無理して買ってみたり、真空管ではSTCの名管「4300B」を手にいれたものの、未熟なせいでとうとう使いこなせないまま手放してしまった。

今となっては明らかに「猫に小判」だった。オーディオは音楽的な教養をしっかり身に付けながらレンガを一段づつ積み重ねるように地道に取り組んでいくべきだったと痛切に反省している。

オーディオに対する自分なりのポリシーがないまま、いきなり跳躍するのは当座は良くても、きっと後になって何かしらの歪みがやってくるものでこれは凄く苦い経験の一つだった。

2 音楽とオーディオの間合いを常に意識する

音楽とオーディオは切っても切れない関係にあるが(もちろんコンサート愛好家は別として)その比率をどう考えたらいいんだろうかと、ときどき思う。

つまりどちらに意識の比重を置くか、たとえば「6:4」「7:3」なのか、それともオーディオに一方的に比重を置いて「1:9」といった極端なことも人によっては十分有り得る。ただし、そういう人のオーディオが長続きした試しはない(笑)。

昔の話を持ち出して恐縮だが20代の頃を振り返ってみると「8:2」ぐらいで圧倒的に音楽に比重を置いていた。それが年齢を重ねるとともに、だんだんとオーディオの比重が増していく(笑)。おそらく大半の方はそうだと思う。

それはそれで楽しければいいんだろうが、私見では「音楽:オーディオ」の比率はせいぜいでも「6:4」ぐらいに留めておくべきだったと今にして思う。

しょせんオーディオは音楽の召使いなんだから則(のり)を越えてはいけないし、もしそれを越えたとしたら「罰が当たる」としか言いようがない。どんな「罰」かはそのうち分かる(笑)。

それから、どなたにとってもシステムの良否を測る「テスト盤」があると思う。

たとえば、我が家ではずっと「サキソフォン・コロッサス」(ジャズ:ソニー・ロリンズ)がその1枚だった。

  

何しろ「SACD」盤、「xRCD」盤、「普通」盤と3枚も揃えてしまった! ジャズはめったに聴かないのにこのありさま~。

この1曲目「セント・トーマス」冒頭のシンバルの一撃(マックス・ローチ)がどれだけ鮮明に鳴ってくれるか、それこそこの一撃にシステムの命を懸けたものだが、これに合わせてしまうと逆に他の曲目と巧くマッチングしてくれないというジレンマをずっと抱えてきた。

この頃はどうやら悟った境地に入れたようで「サキコロ」のシンバルを聴いても”ほどほどのレベル”で許してあげようという気になった。

ようやく呪縛から解き放たれた気がしているが、クラシック愛好家なんだからそれでいいんだと自分にいつも言い聞かせているもののやはりチョッピリ淋しい・・かな(笑)。

以下、「~その3~」へ続く。

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新たな「HDMI」ケーブルをゲット

2019年10月04日 | オーディオ談義

およそ2週間前に搭載した「光分配器と黄金ルート」(2019・9・18)をご記憶だろうか。

要は「光分配器」を購入して2系統のシステムの入力部分での「デジタル化」を図ったという内容だった。この画像が「光分配器」。

   


これで、2系統のシステムのケーブルの流れが次のようになった。

「ブルーレイ・レコーダー」→HDMIケーブル→「ソニー製のテレビ」→光ケーブル→分配器(2分配)→2本の光ケーブル→2台のDAコンバーターというルートである。

この中でキーポイントになるのが「HDMIケーブル」で、たった1本のケーブルで映像信号と音声信号を同時に輸送できる優れものである。

ネット情報によると、

HDMIケーブルのhdmiというのは、High-Definition Multimedia Interfaceの略語になります。このケーブルを利用することによって、映像信号と音声信号、それからテレビなどの操作信号などを伝送することができるようになります。

従来は、それぞれを伝送するためにバラバラのケーブルが必要でした。映像を伝送するためには映像用のケーブルが、音声を伝送するために音声用のケーブルといった具合だったのですが、現在はhdmiケーブルが1本あれば全てを送ることができるのです。

例えば、テレビとDVDプレーヤーを繋ぐためにhdmiケーブル1本だけ使用すればいいので、機械が苦手だという方や繋げるのが面倒だという方であっても、簡単に接続することができます。

それだけではなく、デジタルデータを圧縮せずに送るため、データが劣化せずにクオリティーの高い映像や音声を楽しむことができます。

hdmi端子を搭載した機器の増加に伴って、最近はますますhdmiケーブルが普及するようになってきています。一度使用してみるとその違いがわかると思いますので、興味のある方は是非お試しくださいませ。

hdmi搭載の機器をお持ちの場合は、hdmiケーブルを使用することで最高の画質を楽しむことができるはずです。

以上のとおりだが、我が家で現用中のものはたしか2千円前後のありふれた代物でまったく不満はないものの、デジタル時代はケーブル次第で音質が激変するのをこれまで何度も経験している。

たとえば中高音域のSPケーブルを「銀線ケーブル」に変えただけで音が豹変するのでまったく油断できない。

したがって、どうせならもっと上質のHDMIケーブルを使うに越したことはないと思うのが自然の成り行きではないだろうか(笑)。

そこでよく調べてみると、価格から評判までまったくピンからキリの世界だったがオーディオ評論家が自らも実際に使用し、激賞していたのが「CAMELOT TECHNOLOGY HPE-1 HDMIケーブル」だった。

「キャメロット・テクノロジー」の旧社名は「SAEC」(サエク)で、昔から定評のあるメーカーだから信用できそうだ。

ただし、お値段の方も凄い!1本当り販売価格が8万円前後もする!!

たかが「HDMIケーブル」に、とてもそこまでは出せませぬ(笑)。


そこでオークションに方向転換して、出品状況をググってみると1件だけありました!

ケーブルだから真空管などと違って消耗度はほとんど無視してよいだろうし、そして肝心のお値段は通常の1/3前後である。ビンボー人にはそれでも痛いなあ(笑)。

ウ~ン、どうしようかと、ずいぶん悩んだ挙句「出品価格で入札してそれ以上は追いかけない」と決意して落札日当日の夕方に入札し、あとは「白川夜船」。

翌朝、朝一番でメールを見ると入札は自分だけで無事「落札」。

今どき「HDMIケーブル」で贅沢する人なんて幸か不幸か、いないらしい。

「Yahoo!かんたん決済」で振り込んで、ほどなく我が家に到着。

   

何しろ電源付きの「HDMIケーブル」だから増幅度にも念が入っていそうだ。

すぐに交換して、ワクワクしながらテレビの電源をスイッチオン。

すると「あれっ、画面が出てこないぞ」と、青くなったが電源部の通電時間が必要だったとみえて、1分ほどで回復した。ああ、良かった。

さて、肝心の「音質と画像」だがまだ小時間の試聴だけど激変とまではいかないようだ(笑)。

まあ、安心感だけでもいいとするかな。

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「四つの最後の歌」の後日談

2019年10月03日 | 音楽談義

つい先日、わざわざ2回に分けて投稿した「四大歌手による4つの最後の歌の聴き比べ」をご記憶だろうか?

これについて、メル友の「I」さん(東海地方)から次のようなメールをいただいた。

「四つの最後の歌」はシュワルツコップ盤とバーバラ・ボニー盤を持ってます。

丁度、小型スピーカー選抜戦でVifaが勝ち残ったところでしたので、二人の聴き比べをしました。

二人ともいいですねえ! ボニーちゃんは飛び切りの美声・・・でもシュワルコップですね。シュワちゃんはまちがいなく”イイ女”だと思います(私の感性では)。

フラグスタートはもちろん知りませんが、私には良く判らないでしょうね。当方は、ヌブーのブラームス(ヴァイオリン協奏曲)の良さが判りませんから(涙)。

最近音楽の記事が多くなりましたね。

オーディオは仲間との意見交換というか切磋琢磨というか・・・が可能だと思いますが、音楽に関してはあまりしないような気がします。

音楽はオーディオより個人の趣味嗜好の強い文化だということでしょうか。下手すると人生感が絡んでしまうようなことに?

懇意にしている友人はジャズファンですが、私は、ジャズの話をするのはかなり慎重にしています。何かあったわけではありません。オーディオのことはもう少し率直に話題にできますが。

クラシック音楽には、まだ、愛好者の共通項のようなものが存在している感じがありますが、ジャズではそういうものも無いように思います。

例えば、私の好む奏者、ドルフィー、O・コールマン、A・シェップなど、全く聴かないジャズファンはたくさんいます。

一方、私は、ビッグなO・ピーターソン、S・ロリンズ、C・コリア、W・ショーターなどは聴きません(食わず嫌いではありませんよ)。「それがどうした」なのですが・・・

〇〇区に小さなジャズ喫茶があります。私より年配のマスターの好みも当方とはまるで異なります。ケンカになってしまいそうなので、適当にお茶を濁しています。ほんと、人それぞれです。」

以上のとおりで、猛烈なジャズファン「I」さんのお好みから推測させてもらうと、「これでどうだと舞台の上で大見えを切るようなプレイヤーはお嫌いかな」との印象を抱いた。

なお「四つの最後の歌」はせっかくなら「フラグスタート」盤と「ヤノヴィッツ」盤を聴いていただかないと、「画竜点睛を欠く」というものだろう(笑)。

     

そこで両者のCD盤を「貸して」上げることにして、さっそく発送した。これら4枚のCDは既に「ブルーレイレコーダー」のHDDに取り込んでいるので余裕である。

29日(日)の午前中に到着し、さっそくその日の午後に次のようなご感想をいただいた。

「4枚聴き比べてみました。クラシック経験値の低い当方のことですから、どうなりますやら(笑)。

まず、フラグスタートのノイズにはびっくりしました。確かに音楽を聴いているうちに少しノイズは遠のきますね。それにしても1950年の録音にしては相当なノイズですね。

次のフィッシャー・ディースカウ(1952年)は、それほど録音状態が気にならないのに。2年でだいぶ違いますね。

ヤノヴィッツはボニーより美声ですね。というより、ボニーが、この作品を唄うには、すこし声が若すぎるかなと。

今回聴きなおしたことで、シュワルツコップの歌が更に良くなりました。艶と言うか、潤いというか・・・もっと別の適した表現があるのでしょうが。

シュワルツコップの上にフラグスタートがいるのでしょうね。当方はまだノイズを越えられていない状態です(涙)

他のトラックも聴きました。フィッシャー・ディースカウはいいですねえ。これ以上のバリトンっているのでしょうか。

私は、現役の演奏家を聴くことがほとんどですので、フルトヴェングラーはもちろんカラヤンもあまり聴いていません。

当方の低い経験値ですから、フルヴェンは私には敷居が高いです。一方、カラヤンはもっと聴いた方がいいかもしれないと思いました。録音がいいからかな?

クラシック経験値が上がりました! ありがとうございました。」

以上だが、「シュワルツコップ」と「ディースカウ」のファンがこの世に一人増えただけでも当方としてはうれしい限りですよ!(笑)。

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音楽サーフィン

2019年10月02日 | 音楽談義

先日のブログ「”今が良ければすべて良し”かな?」の続きです。

去る28日(土)の午後に二組目のお客さんとしてお見えになったのは近くにお住いのオーディオ仲間のYさんだった。

こちらからお誘いしてわざわざ来ていただいたもので、つい先日のブログ「人間は夜よりも朝の方が賢い」(2019.9.27)で紹介したように、一段とグレードアップした(積りの)「AXIOM80」を聴いていただこうという算段である。

今回は「ブルーレイレコーダー」のHDDに溜め込んだCD音源を「ほんとに便利がいいですねえ」と、二人して感嘆の声を上げながら、テレビの大型画面(55インチ)を見て次から次にリモコンスイッチで聴き流していった。

「ネット・サーフィン」という言葉があるが、これはもう「音楽サーフィン」ですね(笑)。

取り分け便利がいいのが歌曲で、たとえばある歌手の全集があるとすれば好きなのはせいぜい2~3曲どまりで他はもう聴かなくてもいいというCDが”ごまん”とあるが、そういうときに好きな曲目だけ聴いてさっと移れるところがもうたまらない!

たとえば大好きなジョン・デンバーの「緑の風のアニー」(原題:Annie’s Song)なんか、このところしょちゅう聴いてるが、フルート奏者のYさんが「あっ、この曲はゴールウェイが吹いてましたよ」と、いった具合。

余談になるが、ゴールウェイは周知のとおりベルリン・フィルの首席フルートだったが、指揮者カラヤンの慰留を強引に振り切って辞めたことから「帝王カラヤンを振った男」として、当時有名だった。

おっと、肝心な「AXIOM80」の試聴結果だが「以前よりもさらにヌケが良くなったし、低音も結構出てますよ」と、Yさん。

「そうなんですよ」と、ばかリ例の「ARU」(背圧調整器)の一部として使った「ビニール袋」の効用を熱く語ったが、おそらく「くど過ぎる」とたいへんご迷惑だったに違いない(笑)。

終盤になってからYさんが持参されたCDを聴かせていただいた。

   

パリの音楽院在学が縁で、ご結婚されたご夫婦(別府市在住)による「フルートとギター」の競演で、とても柔らかい響きとともに押しつ押されつの両者の「阿吽の呼吸」が絶妙で、このままずっと聴いていたいと思わせるほどの演奏だった。

ちなみに、フルート奏者の石井暁子さんはYさんのお師匠さんにあたり、もう10年以上も指導を受けに教室に通われているとのこと。石井さんが使用されているフルートは「パール」(24金製)というブランドだそうだ。

Yさんによると精巧極まるフルートの製作技術は今や日本が世界でダントツの一番だそうですよ。

世界の一流プレイヤーはほとんどが「村松」(24金製)を愛用しているが、なぜかYさんは「村松」(24金製)を追放して現在は「プラチナ」製を使っておられるとのこと。

なお、あるとき某国がそっくりそのまま村松に似せてフルートをつくったところ「これは形は同じでもフルートではない」と廃嫡されたとのことで痛快極まる出来事(笑)。

製作技術が「コンマ何ミリ」の厳しい世界だそうで緻密な日本人向きなんでしょう。

そして、この日は他にも「小椋 佳」をよく聴いた。

中でも「シクラメンのかほり」は、二人してとてもいい歌詞ですねえと感じ入った。

それでは秋のメランコリックにふさわしい歌詞の一部とともに終わりとしよう。


真綿色した シクラメンほど 清(すが)しいものはない

出逢いの時の 君のようです

ためらいがちに かけた言葉に 驚いたように

ふりむく君に 季節が頬をそめて 過ぎてゆきました ・・・

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