南スコットランドからの「ウマさん便り」です。
「ウマの、あゝ青天のへきれき物語」
時々、訊かれることがある。
「どうして、スコットランド人と結婚したんですか?」
ところが、そんな質問にどう答えていいのか自分でもよくわからない。でね、以下の文章を読んでいただいたら、皆さんにも、なんとなくその理由がわかっていただけるような気がするんだけど…さあ、どうかなあ?
そもそも僕の場合、結婚に至る経緯(いきさつ)がちょっと普通じゃないんだよね。ま、それはともかく、結婚したからにはその相手との出逢(であ)いというものがある。ちょうどいい機会だから、とりあえず、まず、そこらへんから振り返ってみようかな…
…1978年9月の始め頃のことだった…(と思う)。その頃、世田谷の僕のアパートに、エリックというフランス人が居候(いそうろう)していた。その彼が「パーティーがあるから一緒に行こう」と僕を誘った。かなり蒸(む)し暑(あつ)い日だった。あまり気が進まなかったけど、ま、暇(ひま)だったので出かけた。
ペットボトルなどなかった当時、コカコーラの1リットル入り瓶(びん)とナビスコのクラッカーを手にJR中央線に乗り、東京の西方、三鷹駅で降りた。そして、駅の南口からかなり離れた、まあ、恐ろしく粗末(そまつ)な、外国人ばかり住んでいるというそのオンボロアパートの、崩(くず)れ落ちそうな階段を上った。
お世辞(せじ)にも綺麗(きれい)とはいえない6畳の間には、車座(くるまざ)に座った外国人の男女が10人ほどいただろうか。
「よかったらどうぞ」…
僕はコカコーラとクラッカーを、車座の真ん中あたりに置いた。その直後
「コカコーラは身体(からだ)によくないですよ」と、僕の対面(たいめん)にいた女の子がぬかしはった。ややカチンときた僕は、すごく目の大きいそのブロンド・ロングヘヤーの女の子に軽く反発してしまった…「じゃあ、何が身体(からだ)にいいんですか?」
表情豊かでなかなか可愛い娘(こ)やなあと思ってたけど、ちょっと意地(いじ)を張ったんやろね。ところが、その彼女の返事には面食(めんく)らった。
「玄米(げんまい)が身体(からだ)にいいです」…
ちょっとちょっと君なあ、飲み物と食べ物を混同したらアカン。さらに意地を張った僕「じゃ、あなたは玄米を食べてるんですか?」
ところが「エエ、毎日食べてますと」とぬかしはる。その上さらに「あなたにも食べさせてあげましょうか?」とニコッとしておっしゃる。意地を張ってた僕は、あとに引けなくなっちゃって「じゃ、食べさせていただきましょう」
それが、キャロラインさんとの出逢(であ)いだったですね。
ま、そんなわけで、僕は、わざわざ玄米を食べに、日本にやって来てまだ間がないというキャロラインさんの、渋谷区代々木上原(よよぎうえはら)のアパートを訪(たず)ねる羽目(はめ)になっちゃったんや。ま、武士に二言(にごん)はないっちゅうことでござるよね。
もちろん、独身女性、しかも外国人女性のアパートに、単身で訪(おとず)れるという非礼は避(さ)けたかったので、友人を伴(ともな)ったのは云うまでもないのでござる。
なっ?こういうこころがけ、やっぱり武士とちゃうか? エッ? 尊皇攘夷(そんのうじょうい)を思い出せ!いや、おぬしな、大きなお目目の西洋美人を目にしたウマは開国派(かいこくは)に転向(てんこう)したのよ。勝海舟(かつかいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)に習(なら)えでござるぞ。
エッ? 情けないニッポン男子や! すんまへんな…
ところで、玄米(げんまい)が身体(からだ)に良いというのは僕も充分承知していた。でもね、当時、マクロヴァイオティック、つまり、菜食(さいしょく)中心の健康食にいたく興味と関心をもっていたキャロラインさんの、その玄米なあ…小さい鍋にニンジンやキューリをぶつ切りにしたのといっしょにぐつぐつ煮(に)てるんや。そして塩を振っただけのそのお味なあ…ウ~ム、ちょっとコメントは控(ひか)えたい。いっしょに御馳走(ごちそう)になった舟橋君も、ニコニコしながらもちょっと顔をしかめてたね。
屈託(くったく)のないその笑顔、大きなお目目が印象的な、とても爽(さわ)やかな人だとは思ったけど、でもね、キャロラインさんって、日本から遥(はる)か遠~い西洋からやって来た方や。僕にしたら、スコットランドなんて、地球の裏側の、そう、ネッシーがいるファンタジーの国なんや。所詮(しょせん)、別世界にいる縁のない人だよね。で…
「玄米ありがとう。とても美味(おい)しかったです(一応な)」
それで、彼女とはそれっきりになってしまったと思った。
ところが、一週間後ぐらいだった。おおぜいの人でごった返す渋谷駅のハチ公前で、ばったりキャロラインさんと再会したんや。
「ウマッ!」うしろから声をかけられたので振り返ったら彼女だった。
当時は今と違い、東京でもまだまだ外国の方は少ない時代やった。だから、ブロンド・ロングヘヤーの彼女はハチ公前でもかなり目立ってたね。
僕は、道玄坂(どうげんざか)の百軒店(ひゃっけんだな)にある行きつけのジャズ喫茶で、たった今買ったばかりの話題のハードボイルド、ギャビン・ライアル著 「深夜プラス1」 を読もうと、ワクワクしながら向かうところやった。
でもね、偶然(ぐうぜん)とはいえ予期せぬ再会じゃない。ちょっと迷ったけど、ダメもとで誘ってみた。「良かったら一緒に来ませんか?」
いや驚いた。なんと彼女、一緒に来ると言うんや。エッ? ほんまかいな? 予想外の反応に僕はちょっとうろたえた。でも、あとで気が付いたことなんやけど、日本に来たばかりの当時のキャロラインさん、たぶん、日本人の友達が欲しかったんやろね。少しは英語が通じる日本人の友達がいたら、なにかと便利やもんな。
ジャズ喫茶というものは日本独特のもので外国にはないということは僕も承知していた。そのせいかキャロラインさん、巨大なスピーカーや、壁一面のおびただしい数のLPレコードに目を瞠(みは)っていた。しかし、その大音量の中ではとてもお話など出来ないので早めに出て、すぐ隣りのカレー屋さんで食事をした。
彼女との再会はまったく想定外(そうていがい)の出来事だったけど、その時が、彼女と、まあ少しはプライベートなお話をした最初だったんじゃないかな。いや、ウマにとって、西洋人の女性と二人きりでお話したのはその時が最初だったんで、ちょっと緊張(きんちょう)した。
パーレビ当時の革命直前、外出もままならない超不穏(ちょうふおん)なイランの、その軍学校で彼女は英語教師のアルバイトをしていた。教員宿舎のとなりにいた、当時の慶応大学教授で、イスラム学者として知られたK教授と出逢(であ)ったことが日本に来るきっかけとなった。
でもその時、彼女は、日本がアジアのどの辺にあるのか、はっきりとは知らなかったと言う。来日直後は、千葉の田舎の、K教授の実家にお世話になり、その後、代々木上原(よよぎうえはら)に住む教授の妹さん宅の近くにアパートを見つけてもらったことなど、日本に来た経緯を教えてくれた。
僕と出逢(であ)ったのは、どうやら、その代々木上原に住み始めてすぐの頃だったようやね。
渋谷・百軒店(ひゃくけんだな)のその老舗(しにせ)のカレー屋さんで、美味(おい)しそうに日本のビールを飲む当時23歳の彼女を眺(なが)めながら、正直言って、素敵な外国人女性と少しはお近づきになれて、ま、嬉しいなとは思った。しかし、いつかは国に帰りはるやろし、もちろん、きっとハンサムな外国人の彼氏もいてはるやろし…
彼女ってやはり縁のない人だと思った僕は、再会の約束なんてもちろん遠慮した。ま、彼女とはそれっきり…と、再び思ったわけやね。
が、ところがや…、やはり一週間後ぐらいだった。中央線四谷駅で、なんと、またまたバッタリ出くわしたんや。電車に乗ると、すぐそこに彼女が立ってたんだよね。ほんとにびっくりした。彼女も大きなお目めをさらに大きくして驚いていた。
巨大都市巨大人口の東京で、またまた偶然の再会や。なんなのこれって?
ちょうどその週末、居候(いそうろう)のエリックが、アメリカ人やニュージーランド人カナダ人など友人を呼んで「鍋(なべ)」パーティーをする計画を立てていた。
で、彼女に「鍋」のことを説明してみた。野菜なども含め、もうなんでも放り込んで煮て、それを皆でつっつく。そうそう豆腐(とうふ)も入れるよと云うと、彼女、途端にニッコリ「豆腐をぜひ食べたい」…で、是非パーティーに参加したいとおっしゃる。
豆腐には格別に興味があったんやろか。そこで「彼氏も連れて来たらどうですか?」と云うと「もし彼氏がいたら連れて行きます」との返事…
でも、鍋パーティーには彼女一人でやって来た。そして「こんなに美味(おい)しいものはない」と、豆腐が大好きになった様子。
その時、この人はきっと日本が好きなんやろなと思った。
その鍋パーティー以後かな、彼女と週に一度ぐらい会うようになったのは。お互いに便利なので渋谷近辺が多かったと思う。
忘れもしないのは、ガード下のおでんの屋台だった…
屋台で、初めてのおでんと日本酒を楽しんだ彼女、もう感激してたね。
「こんなお店見たことない。素晴らしい!」と、豆腐はもちろん、初めて食べるこんにゃくやハンペンに大感激してた。屋台のおじさんも、「この外人さん、日本人みたいだね」と、おでんもお酒も特別にサービスしてくれた。
その時、また思った…この人、やっぱり日本が好きなんやな。
会うたびに彼女は、愛するスコットランドのことや、グラスゴーに住む自分の家族のこと、伯母(おば)さんたちや従姉妹(いとこ)たちのことを語り、大学を休学してヒッチハイクでスペインやギリシャなどへ行った思い出話を、楽しそうに話してくれた。
伯母(おば)さんたちや従姉妹(いとこ)たちには独身者が多く、独身生活を謳歌(おうか)している彼女たちの暮らしぶりを見てきたせいやろか、僕には「私は結婚しない人」ってよく云っていた。
つまり独身主義者というわけやね。最初、僕と一定の距離をおくための発言じゃないかと思ったけど、何度も「私は結婚しません」と真剣に云うんで、やっぱりほんまの独身主義者だと信じたね。
時々会ってたとは云え、交際しているという感覚は、実はあまりなかった。彼女もそう感じてたと思う。ま、遠い国から来た方に、いろいろ日本のことを教えてあげることが出来て嬉しいなってなスタンスで接していた部分が大きかった。
キャロラインは、一度訪れた京都の嵯峨野(さがの)にかなり惹(ひ)かれたようで「お豆腐の美味(おい)しい嵯峨野に住めたら最高!」と云ったことがある。健康食に人一倍興味と関心があった当時の彼女が、豆腐ファンになったのは当然やろね。
で、翌年のことだけど、僕が家の事情で大阪に戻ることになった時…
「大阪は京都に近いから、どう? とりあえず大阪に引越してじっくり嵯峨野でアパートを探したら?」と、もちろんダメもとで彼女に話を振(ふ)ってみた。
すでに慣(な)れ親(した)しみつつあった東京、仕事も順調で友人もたくさん出来た東京、さらに、日本語学校の松尾先生を自分の実の叔母のように慕っていたし…
それらを捨てて大阪に移住するってのは、ま、とても無理な話しだと僕が思ったのは当然だったけど…
だけど驚いた。彼女、なんと「大阪に行ってみようかな?」と反応したんや。
いやあ、予想外の反応に、ほんまかいな?と思ったね。だから念を押した…
「東京と大阪はまったく違うよ。日本で大阪だけがラテンの国みたいやで」と云うと「大阪はコメディの本場って聞いてるけど、私の育ったグラスゴーも英国ではコメディーの本場、だから大阪には興味がある」と云う。
彼女の好奇心の強さには、もう、ウ~ム…だったね。そもそも、はるか遠い日本にやってきたのも、その好奇心のなせるわざだったんやろね。そしてその好奇心って、異文化に対するものだった。自分の知らない世界、違う文化の国を知りたいという、人一倍強い好奇心…
聖徳太子建立(こんりゅう)とされる大阪の四天王寺、その東門脇の境内(けいだい)にあった「一音院(いちおんいん)」(今もあると思う)、その住職で画家でもあった坂本さんの奥さんは、歌舞伎が大好きなアメリカ人のヘレンさんだった。
坂本住職夫妻は、その風情(ふぜい)ある「一音院」の中にアパートを設け、近くにあった大阪外国語大学の海外からの留学生を住まわせ、何かとお世話をしておられた。ところが、その大阪外大が郊外に移転したため、その小さなアパートには空(あ)き部屋がたくさん出来ていた。
で、キャロラインのことを坂本夫妻に相談したところ、快い返事をいただき、彼女はめでたく四天王寺の境内に住むことになった。ま、嵯峨野(さがの)じゃないけど、この「一音院」での暮らしは、彼女にとってかなり快適だったみたいやね。
そして、大阪でのあらたな仕事も順調で、友人も増え、さらに、なんと、東京にいた外国人の友人たちが、続々と大阪に引越してきたりして、日々、とても楽しかったんじゃないかな。
普通の日本人にとっても、由緒(ゆいしょ)あるお寺の境内にあるとても風情(ふぜい)ある院に住むなんて、ちょっと得がたいことだよね。その一音院には、なんと小さいけどプールまであった。
そんな大阪での生活が始まってしばらく経(た)ったある日…
「お腹が強烈に痛くて動けない」と、僕に緊急の電話をしてきた。喋(しゃべ)るのもかなり苦しそうな彼女、これは普通じゃないと判断した僕は救急車を要請(ようせい)した。で、運ばれた生野(いくの)区内の民間病院で盲腸の緊急手術を受けた。
ラッキーなことに、ちょうどその三日前、彼女は国民健康保険に加入したところだった。そして、僕はもちろん、僕の母も、入院中の彼女のお世話をすることになったわけです。
当時の僕の家族、両親はもちろん、おばあちゃんも、言葉など全然通じないのに、彼女のことをかなり気に入ってた。彼女が昼下(ひるさ)がりの縁側(えんがわ)でおばあちゃんの肩を揉(も)んでたこともあった。おばあちゃんがニコニコして云った「エエ娘(こ)や」…
その時思った…この人は人種的偏見をまったく持ってないな。
いや、今、思うんだけど、人を上にも下にも見ない人なんやね。人を見下したり、逆にへりくだったりする彼女を見たことは、今まで一度もない。後年、ダライラマやエリザベス女王と会った時も、態度が普段とまったく変らなかった。
ま、盲腸の手術などは想定外だったと思うけど、東京同様、様々な異文化体験を楽しんだ大阪での生活は、けっこう楽しかったんじゃないかな。
やがて、スコットランドに帰ることになった彼女を、伊丹空港に見送る日が来た。そしてその時、東京や大阪、京都や奈良、それに、大好きな日本の田舎(いなか)を存分に楽しみ、異文化に対する好奇心をふんだんに満足させた彼女のことだから、多分、もう日本には来ないんじゃないかという予感がした。
でも「ウマ、グラスゴーに遊びに来たら?」との誘いには乗った。
そして1980年8月、僕はグラスゴーを訪れた。初めてのスコットランドは、実に楽しく有意義な体験だった。彼女の家族はもちろん、すべての方が僕を温(あたた)かく歓迎してくれた。そして皆さんどなたも「日本に行ってみたい」とおっしゃるんでびっくりした。キャロラインが「日本は素晴らしい国」だと伝えてたんやね。で、後年、兄弟や妹、それに従姉妹たちが続々と日本にやってくることになる。
十日ほどの滞在中、例の独身の伯母さんたちや従姉妹たちのおうちにも何度か呼ばれた。やっぱりキャロラインの云う通りや。皆さん独身生活を優雅に楽しんでおられる。
だから「私は独身の人生を歩むつもり」と、 かつて彼女が何度も云ったことにも、ま、納得出来たわけやね。一生独身の人生も、また良きかなだよね。
愛する故郷スコットランドに帰り、素晴らしい人たちに囲まれ、幸せに過ごしている彼女を見た僕は、帰りの飛行機の中で、たぶん彼女と会うことは、もうないやろなと思った。そしてそれ以降、手紙のやりとりもうんと少なくなった。
ところがや…
なんと晴天のヘキレキや!もうウマは目が点になりましたがな、その、とんでもない手紙を受取った時は…
1981年師走(しわす)に入った頃だった。クリスマスカードに添(そ)えられた、彼女からの、まあ、実に久し振りの手紙…、それを見たウマは、もう、目が点になっちゃったのよ。なんとなんと、あのコテコテの独身主義者が
「わたし来年の二月に結婚することしました」…エーーッ!!! なんやてーー???
一生、独身で過ごす云うとったやないか!
でもな、めちゃビックリしたけど、すぐに思い直した。本人さんがそう云う以上、これはやっぱり祝福(しゅくふく)せんといかん。そうや、ここはひとつ祝福せんといかんよな。で、その衝撃的な手紙の続きを読んだ…
ところがや、驚いた! 驚いた! またまた驚いた! な、な、なんやこれは?
なんと晴天のヘキレキ第二弾が待っていた。目が天に、アッ、ちゃう、目が店に、アッ、ちゃう、興奮して間違うてしもたやないか。お目目がね、もう一回点になっちゃったのでござる。な、な、なんやこの手紙は? これを晴天のヘキレキと云わずしてなんと云う!
その手紙の最後にはこうあった…
「…そう言うわけだからウマ、あなたは、遅くとも結婚式の一週間前にはグラスゴーに来て、まず神父さんと会ってください。新郎として着用する服は日本から持ってきてください」ナ? ナ? なんやコレ~~???
以上、我が人生における「晴天のヘキレキ物語」でございました。ああ、しんど…
いずれにしてもその手紙のビックリ内容に、コレほんまかいな?と若干(じゃっかん)の疑いは持ってた。だから姉や妹には「ひょっとしたらキャロラインさんと結婚することになるかもわからん」ってな言い方をしてたね。
ま、そんなわけで、翌年二月、若干(じゃっかん)の不安を抱(かか)えながら、グラスゴー行きの飛行機に搭乗した次第です。飛行機の中で気が付いた。結婚ってプロポーズっちゅうもんがあるんと違うか普通は。僕、プロポーズしたっけ? いや、そんな記憶ないで。プロポーズなんかしてませんがな。そもそも彼女が「わたしは独身主義」…何度も云うとったしな。
では、なぜ彼女がウマとの結婚を決意したのか? これ当然の疑問だよね。彼女の独身主義は、伯母(おば)さんたち従姉妹(いとこ)たちの影響だったのは間違いない。ところが、伯母さんたち従姉妹たちは、そのどちらも姉妹で暮らしてた。
つまり、同じ屋根の下で助け合う相手がいたってことや。で、万が一の事が起こった場合…例えば大阪での盲腸で緊急入院した件などを思い起こすと、やっぱり誰か一緒にいたほうが将来何かと安心ではないか、と考えたんじゃないか。だけど、そうだとしてもやな、そんな相手は、手近(てぢか)なスコットランドで現地調達すればエエやないか?
いくら異文化に対する好奇心や、特に、前世(ぜんせ)は日本人じゃなかったか?というほど日本大好きな彼女にしても、だからと言って亭主まで日本産を選ぶかなあ?
異文化に対する挑戦と、その人一倍強い好奇心を考えてもちょっとなあ…
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