「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

独り言~地域の文化レベルと図書館の充実度~

2012年03月31日 | 独り言

好きな作家の一人「吉村 昭」さんの随筆に「地域の文化レベルは図書館の充実度に如実に反映する」といった趣旨のことが書かれてあった。

吉村さんの幾多の優れた歴史小説の拠ってきたるものは極めて綿密な取材旅行にあったが、その際まず第一歩を記したのが彼(か)の地の図書館だったというから吉村さんならではの実体験に裏打ちされた説得力のある言葉である。

さて、そこで自分が住んでいる別府市とその図書館の関係について取り上げてみよう。

”活字中毒”を自認しているといっても、それほど学究肌でもなし、ミステリーなどの娯楽本や肩の凝らない雑学の本が大半だが、狭い我が家にこれ以上本を積んでおくスペースもないし、経費の節約ということもあって読んでいる本はほとんどが図書館から借りてきた本ばかり。

現在、近隣の4つの図書館を利用しているが最も当てにしているのは県立図書館と大分市図書館。地元の別府市の図書館については、専用駐車場も無く、借り物の古ぼけたビルの2階のフロワーに少しばかりの蔵書が並べられている程度なので、今のところ「新刊」だけがお目当てになっている。まるで風前の灯(ともしび)みたいな有り様。

3年ほど前に「知り合い」が別府市の助役に「派遣」されてきたので表敬訪問した際、「まずは何よりも図書館の充実を」と訴えたのだが何ら種も蒔かないままに、2年ほどであっさり古巣の県に戻ってしまった。

「ウン、ウン」と頷いていたので、ご本人は分かっていたと思うのだが、こればかりは市民からの熱意と盛り上がりがなければどうしようもない話。

だが、これまで配付される「市報」をいつも隅から隅までどんなに目を皿のようにして見ても図書館の充実整備の話が市議会の討論などで一度も出てきたことがないのがいかにも別府らしいところ。

さらに、余計な話だが大きなプロジェクトがスンナリと推進された例(ためし)が一度もないのも別府市の特筆事項。

たとえば4年ほど前に大規模商業施設の誘致に当たって議会が混乱を極めてしまったので現市長が一度辞任して信を問い、再選されてようやく建設にGoサインが出たほど。とにかく業界内外で利害が対立するせいか、すんなり話がまとまった験しがない。

「魅力ある観光地づくり」を果たしたお隣の湯布院なんかは、ちゃんとしたリーダーがいて個別の旅館やホテルの名前よりも「湯布院という地域イメージ」による団結のもとに成功を納めたが、その点別府は「百鬼夜行」の伏魔殿みたいなところで、「別府」という地名は抜きにしてホテルなどの個々の固有名詞を優先することが多い。

なぜ、こういう体質なんだろうか?

別府は、山あり、海あり、高原あり、温泉ありの観光都市。毎年1,000万人を越える観光客を受け入れようと、温泉から吹き出る湯けむりのもと、ホテル、旅館、民宿、湯治場といったサービス業が乱立している。

「別府の湯けむり」 (2012.3.30.14:30 撮影 天候:薄曇)

             

(自宅から歩いて2分ほどの「別府湯けむり展望台」から撮影した遠景。ちなみに「21世紀に残したい日本の風景百選」の第2位で、第1位は富士山。)

したがって、経営者を含めてこういったサービス産業に従事する人たちの市人口に占める割合も半端ではないが、こういう職業は総じて毎日の顧客の獲得やサービスに精一杯で目先の利害に右往左往するのが良きにつけ悪しきにつけ習い性みたいなもの。

とても、ゆったり腰かけて読書に耽るイメージは想像しにくく、図書館の需要もそれに比例する。


市議会議員などの地方選挙にしても、業界の利益をどれだけ代弁できるかがポイントになっているようで、全体的に民度がイマイチなのは争えない。

別府に移り住んでもう30年以上になるが、都会の喧騒から離れて静かだし、空気はうまいし、景色はいいし、温泉はあるしで自分にとってこれ以上住みやすいところはないと大満足だが、図書館だけは期待外れである。

因みに県都の大分市は大分駅の高架事業がこの3月に完成し、それに伴って駅周辺の開発事業の一環として大規模な図書館が25年7月に完成予定になっている。大分市の人口が約46万人、泉都別府市は約12万人とおよそ4分の1ほどだが、蔵書量はその比率よりもはるかに差があるし、さらにその上、施設まで充実しようというのだからうらやましい。

しかし、まあ、車で片側3車線の大きな国道の1本道を30分も走れば簡単に行き着くので同じ県民の一人として厚かましく利用すればいいようなものだが、大分市に税金を払っているわけでもないので、胸を張って利用できないのがちと心苦しい。

しかし、よく考えてみると「民度がイマイチ」と大きな口を叩くわりに自分が借りるのは、いつもミステリーを中心とした娯楽本が大半で肝心の中身には乏しい。

「地域の文化レベルと図書館の充実度」なんて偉そうに言う資格はあまり無さそうで、所詮は”お湯ボケ”の別府の人間の”戯言”(たわごと)かと”いと恥ずかし”!(笑)



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オーディオ談義~黄金の組み合わせ~

2012年03月29日 | オーディオ談義

今年の2月からメールのやり取りをしている新潟のSさんから、先日「黄金の組み合わせ」と題する一文が届いた。

ご本人の了解なしだが、匿名だし別に差し障りがないと思うので勝手に要約して紹介させていただこう。

オーデイオ機器の組み合わせ例は無数に存在して、それにアンプの自作を加えると、一つとして同じ音はない。

「直熱三極管シングルとコンプレッションドライバーと高能率ウーハー」の組み合わせで黄金の日々というのが夢だったが、ようやく実現したように思う。

40年前に製作されたONKYOのユニットとエレクトロボイスの30cmウーハーの組み合わせがそれ。

ONKYOのドライバーが106dB、ツイーターが100dBある。これに見合ったウーハーとして98dBのエレクトロボイスを組み合わせた。これでウーハーがドライバーのスピードに追随できるようになった。

この能率であれば8Wの300Bシングルで悠々とドライブできる。

ちなみに、PX-25シングルの音も自作仲間のアンプで聴いたことがある。300Bが王様でEL156が皇帝とか聞いたことがあるが、PX-25は女王様といった風情だった。○○さん(自分のこと)のブログもPX-25で検索していて、たどり着いたように思う。 

これまでオーデイオ復興とか大げさに書いてきたが、「直熱三極管シングルとコンプレッションドライバーと高能率ウーハー」という組み合わせこそ「復興」ではないかという気がしている。

300Bの中国・ロシア製が出回ることで直熱三極管シングルは身近になったが、「コンプレッションドライバーと高能率ウーハー」を
本気でやるメーカーは現在ない。エレクトロボイスのPA用ウーハーとONKYOのユニットの組み合わせで成功した。

これで「黄金の組み合わせ」にたどり着いたと思っている。

以上のような内容だったが、Sさんの現在のシステムに対する満足感がひしひしと伝わってくるようで、まったくご同慶の至りである。

「黄金の組み合わせ」で思い出すのが、ずっと昔にオーディオ専門誌「ステレオ・サウンド」で推奨していたラックス社の「SQ38F」真空管アンプとタンノイ「ⅢLZイン・キャビネット」(スピーカー)との組み合わせ。

この組み合わせは「五味康祐」さんの「オーディオ巡礼」にも出てくるほどの折り紙つきだったので、自分も”なけなし”のお金をはたいて同じ組み合わせにしてしばらく楽しんだが、そのうち「SQ38F」のトランスが頻繁に故障するし、音のスケール感にも不満が出てきてスピーカーをタンノイの38cmシステムに入れ替えたりしていつの間にか発展的に消散してしまった。

当時はまだオーディオ初心者のような段階で、これはお仕着せの「黄金の組み合わせ」だったが、本来はSさんのように自ら時間をかけて発掘し独自の「黄金の組み合わせ」を創造して満足すべきものだろう。

さて、そこでだが自分独自の「黄金の組み合わせ」となると、現在使用しているシステムということになるがまだ「黄金」とまでは自信を持って言える段階ではなく、まあ80点程度には満足している。日頃、万事70点主義がモットーなので完全に合格圏内には入っている状況。

基本的にはSさんと同様に「直熱三極管シングルとコンプレッションドライバーと高能率ウーハー」の思想にはもろ手を挙げて賛成で、高能率のSPユニット(中高域用)と真空管アンプの組み合わせの魅力はスピード感や繊細さにおいてとても捨てがたい。これははっきりと、未来永劫に変える積もりはないと断言できる。

現実にも第二システムの中域用ユニット「JBLのLE85」にPX25・2号機を、高域用のユニット「JBLの075」に2A3シングルアンプを使っているが、そのメリットは計り知れない。

しかし、ウーハーについてはやむなくトランジスターアンプを使っている。我が家の手持ちの真空管アンプではどうしても出力不足を感じるので仕方がない。何せウーハーの能率が低いのが悩みの種で、たとえば10db違うだけでアンプの出力が余分に100ワット必要になる世界だからたまらない。

これまでの経験から言えば、SPユニットの能率が90db以下になると真空管アンプにはちょっと厳しい。

ただし、真空管アンプといってもいろいろあって”ひとくくり”にはできない。プッシュプル方式により馬力のあるアンプもあるし、
同じシングルアンプでも電源対策や回路を工夫することでまったく次元が違う「超弩級アンプ」を知っている。

それは湯布院のAさん宅のアンプ。とにかく夢のような「黄金の組み合わせ」である。

               

以前にもこのブログで紹介したことがあるが、「ウェスタンの15Aホーン+555ドライバー」専用のアンプである。WE300B真空管を使用したシングルアンプだが、出力用、電源用に左右各1台、トランス類のカバーは磁気がこもらないようにすべて北海道産の木でカバーしてある程の凝り様。

出力はたかだか数ワットなのに聴いてみて、野太い音とともに力が無尽蔵に湧いてくるようで驚く。アンプは数値上の出力は当てにならず電源対策次第でいかようにもなるとつくづく感じる。

このアンプは大宰府にお住いのMさんの製作だが、つい先日(26日)、Aさんと会った折に伺った話として、海外にも広く知られたオーディオ評論家がこのたびAさん宅や、Mさん宅を相次いで訪れて試聴され、感心のあまりこのアンプによるフランスでの試聴会を開催する話が持ち上がっているという。

自分もこういう次元の違うアンプを一度使ってみたい気がするが、何事もバランスの問題でそうなるとスピーカーシステムについても特段の配慮が必要になるし、それに何といってもこれまで長年使って手の内を知り尽くしている機器への愛着がある
。簡単にポイするわけにはいかない。

現在のシステムの範囲内でいかに「黄金の組み合わせ」に向けて磨きをかけていくか、もうこれしか残された手段はないと思っているが、オーディオ人生にとって「夢を持つこと」の大切さも分かるし、はてさて。


 


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音楽談義~ピアニスト 内田光子さんの魅力~

2012年03月23日 | 音楽談義

クラシック音楽にとってピアノとヴァイオリンは数ある楽器の中でも間違いなく双璧といっていい存在だが、(個人的にはヴァイオリンの音色の方が好みだが)ピアノの場合、表現力が多彩なのでたった1台でオーケストラの代役だって務まるのが凄いところ。

ずっと以前のテレビ番組で、ヨーロッパで活躍されている日本人指揮者「大野和士」さんが、オペラの練習のときにオーケストラの楽団員たちがストに入ったため、やむなく自分でピアノを弾いて(オーケストラの)代役をさせていた記憶があ
る。

ちなみに「基音」の範囲はピアノが30~5000ヘルツ程度、ヴァイオリンが200~3000ヘルツ程度だから低音域の表現力がまるで違うのがよく分かる。オーディオだって低音域の表現力が総合力の顕著な差につながるのと同じ。

さて、音楽鑑賞にも周期があって最近では、不思議とピアノのCD盤に手が伸びることが多い。

しかし、聴くのはどうしてもバックハウス、リパッティやグールドなど往年の大家といわれるピアニストに偏りがちで”進歩がない”と言われても仕方がないが不思議とこれらの演奏の方が心が落ち着く、ただし惜しむらくは昔のアナログ録音をCDに焼き直したものばかりなので音質(録音)が今一つでもっと鮮度が欲しいところ。

それかといって、音質はいい代わりに今風のピアニストの表層的な演奏を聴く気には”さらさら”ならない。キーシンあたりは別格だが、いまだにモーツァルトのピアノソナタ全集やベートーヴェンの後期ピアノソナタ(作品109~111)をなぜ録音しないのか、ちょっと腑に落ちない。

ショパンなんて所詮は二流の音楽でその場で聴いただけで結着のつく音楽なのに録音だけはやたらに多いんだから、もう~。

そこで出てくるのがいささか贅沢な注文になるが、現役として活躍しており、芸格があって、演奏がうまくて、音質(録音)もいいピアニストがどこかにいないかという話になるが、それが実際に居るのである。これらの条件にピッタリと適うピアニストが。

それは
女流ピアニストの内田光子さん。

いまさら言うまでもなく国際的なピアニストとして功なり名を遂げたといってもいい大ピアニストである。しかも日本人としてこのくらい傑出した芸術家もいないのではあるまいか。

聞くところによると彼女が弾いている愛器「スタンウェイ」(一説によると4千万円近くする?)は特別につくりがよくて抜群の響きだそうだし、しかもフェリップス・レーベルでCDを輩出しているので録音もいいとなると、まさに芸術家としての資質と周辺のテクノロジーが両立した近年稀にみる演奏家。

彼女のモーツァルト・ピアノ・ソナタ全集(5枚組)はまさに絶品。                      

彼女の演奏するCD盤はまずハズレが無い。あのとびっきり難しいベートーヴェンのピアノ・ソナタ32番だってバックハウスの神演に迫る勢いだし、録音がいいだけに総合力では引けを取らない。

彼女の根強いファンの一人として改めてこの際いろんな情報を整理してみたが、調べていくうちに演奏家としての活動のほかにいろんな人たち、たとえば音楽評論家などとの対談が非常に多く、これらを通じて音楽への造詣がことのほか深いのに驚かされた。

それでは、まずネット情報
から。

「ウィキペディア」によると、1948年静岡県生まれとある。ということは当年とって64歳前後。ずっとロンドン住まいで2001年、英国エリザベス女王より「サー」に続くCBE勲章(大英帝国勲章)を授与されている。

また、音楽評論家濱田滋郎氏との対談「内田光子の指揮者論」によるといろんな音楽を相当深く聴きこんでおり特に
指揮者フルトヴェングラーへの傾倒が目を引いた。これだけでも音楽への接し方におよそ想像がつこうというもの。

次に、
文献として
「ピアノとピアノ音楽」(2008年7月10日、音楽之友社刊)から 

                                   

著者の藤田晴子さんは1918年生まれ、昭和13年に日本音楽コンクールピアノ部門の第一位。昭和21年に東京大学法学部の女子第一期生として入学した才媛。

本書の
268頁~275頁にかけて、内田光子さんに関する詳しい記述があったので箇条書き風に引用させてもらった。

 ドイツやオーストリアの大使を務めた外交官「内田藤雄」氏のご息女であり、12歳で渡欧、ウィーン音大を最優秀で卒業し、1970年ショパン国際コンクールの第二位という今でも日本人としては最高位の入賞を果たした。

 佐々木喜久氏によると内田光子さんが一気に「世界的」となった契機は1982年6月のロンドンのウィグモア・ホールにおけるモーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏だった。このときはリサイタルを5回に分けて火曜日ごとに開き「ウチダの火曜日」(ファイナンシャル・タイムズ)という今や伝説的にさえなった名コピーが生まれたほどの鮮烈なデヴューを果たした。

このときの演奏がもとで、メジャー・レーベル、フィリップスによりモーツァルのソナタと協奏曲の全曲録音という大事業に結びついた。

内田さんも後日、対談で
「いろんな試行錯誤を繰り返して、完全に抜け切れたのは、やはり、モーツァルトのソナタを全曲演奏で弾いたとき(’82年)。突然、自分の音楽の形がスパッと見えちゃったんです。」

 次にアメリカでの好評。同じく佐々木氏によるとモーツァルト没後200年に湧くアメリカでの「内田のニューヨーク初のモーツァルト・ソナタ・シリーズは注目の演奏会だった。高名な音楽評論家が、内田さんの初日演奏のあと「モーツァルトを愛する人は、是非ウチダの演奏を聴きに行くべきだ」と批評の中に思わず書かずにいられなかった。」という。

 「この20年はロンドンでひとり住まい」に対して「私がつくっている西洋音楽の世界というものは、私程度の才能では日本に住んだら死んでしまいます。私が勉強したウィーンには伝統の良さと悪さの両方があってモーツァルトはこういうものというような押しつけがましい規則にあふれていました。英国の方が自由な空気があるはずだと本能的に思ったんです。実際にそうでした。ロンドンが私の家。ああ、帰ったなとほっとします。」これで彼女のロンドン好きの謎が解ける。

 2008年4月30日の来日記念会見で内田さんは「1000回生まれ変わったら998回はピアニストに」と言っておられる。あと2回はヴァイオリニストにというのも面白い。

 今後「20世紀のものをどんどん取り上げたいですね。シェーンベルクとヴェーベルンを中心に、これを広げて「ウィーン派と新ウィーン派とその友人たち」とするとモーツァルトもシューベルトも入ればベートーヴェンもブラームスもバッハも入る。面白いプログラムをつくってみたいな、と。それと乗りかかった船でベートーヴェンの協奏曲集。シューベルトとシューマンとかドイツ語の世界にも気を引かれます。だから、もう人生短くて、短くて、アホなことやってられない」

※ この「アホ」なことに因んで次のような言葉がある。

「私は口紅1本持っていません。そんな時間が勿体ないから」

最後になるが、「80歳までピアノを弾き続ける」といわれる内田さん、日本と西洋の「文化と価値観」が合体しているといわれる独自の「内田節」が今後さらに完成度を高めて歴史に名を深く刻むピアニストになるのは確実。

 


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独り言~ヨーロッパで野球が広まらない理由~

2012年03月21日 | 独り言

毎年、4月が近づくと「球音」がひときわ高くなってくる。

「春の選抜高校野球」に続いて、いよいよプロ野球の開幕。今年のペナントレースの行方は、パリーグは群雄割拠だろうが、セリーグは投打の補強に成功した巨人のブッチぎりレースで間違いなしと断言しておこう。

海の向こうに目を転じてアメリカ大リーグ(MLB)だが、今年も日本人選手の活躍が楽しみ。何といっても、鳴り物入りでテキサス・レンジャーズに入団したダルビッシュが焦点だが、厳しいMLB関係者の評価でも「15勝は間違いなし」との声があるが、もっと欲を出して18勝程度は期待したいものだ。

また松坂(レッドソックス)が肘の手術を乗り越えて5月からマウンドに復帰する予定だし、今年はかなりやれそう。お気の毒なのが次の二人の選手。

先ず松井秀樹だがいまだに入団先が決まらない。もはや1年ごとに所属球団が変わるという引退間近の末期症状だが、もうこのまま終わってしまうのだろうか。ちょっともったいない気もするので、恥を忍んで日本に帰ってきたらどうかな。

もう一人がツィンズの西岡選手。昨年がダメだったので今年は「捲土重来」といったところだったが、何と早々とこの段階(3月中旬)で二軍落ち。「日本で首位打者のタイトルを取ったほどの選手がこの程度では」と、日本人野手の評価を一気に下げてしまった。

たとえば屈辱の入団実技テストまで強いられた青木外野手(ブリュワーズ)、名門ヤンキースから最初から補欠扱いを提示されて入団できなかった中島内野手(西武)たちは、その影響をもろに被ってしまった。契約金にまで響く大問題。

川に落ちた犬をさらに鞭打つようで酷かもしれないが、西岡選手から「自分のせいで、後に続く野手たちに迷惑をかけて申し訳ない」との謝罪の言葉を一度聞きたいものだ。

この事例は日本人野手はよほどの気構えと実力に裏打ちされた状態でないと、軽々しくMLB挑戦はしないでほしいという一つの教訓になる。

とまあ、野球となると話題は尽きないわけだが、アメリカや日本でこれだけ盛んな野球がどうしてヨーロッパでは広まらないのだろうか。

以前、この話題をブログに登載したことがあるが、社会学的にみてなかなか興味深いテーマなので再度掲載させてもらおう。まだ記憶にある方には申し訳ない。

「随想集:偶然のめぐみ」(2007年、日本経済新聞社) 

                                       

本書の207頁~241頁にかけて鼎談(ていだん:清岡卓行、清水哲男、平出隆)により、この辺の理由が述べられている。

1 野球の特殊性

サッカー、ラグビーは双方に陣地があってお互いに攻め合うか、いつ攻め返されるか分からないという対称性が常にある。一方、野球の場合は攻守ところを変えてという面はルールできちんと縛っておりある時間帯を区切って守るだけ、攻めるだけとなっている。

ヨーロッパの感覚では国境を越えたり、超えられたりという侵略意識といったものがうまく国民的なスポーツになっている。

一方、アメリカ、オーストラリア、日本など野球が盛んなところは歴史的にも国境という意識が希薄なところがあり、その部分に野球が根付いているという側面がある。

2 知的で人工的な野球

ヨーロッパは歴史的にみて哲学的ないし科学的な知性による仕事の蓄積と疲労が一番著しいところ。したがって、スポーツが知性とは対照的な位置づけにあり本能への遊び、慰め、楽しみである側面が大きく、ルールが単純明快、ポジションもそれほど個性的ではない気安いスポーツが受け入れられ普及している。

これに対して野球はルールがとても複雑で知的かつ人工的。ヨーロッパ人にとって知的にわずらわしくて不自然で面白くないといった感覚がある。さらに一方では「ホームラン」というまるで試合の知的な要素すべてを一挙に吹き飛ばすような摩訶不思議なものがあり、ある意味不自然な印象を受ける。

概略、以上のとおり。

ヨーロッパ戦史の研究の第一人者で「陸軍大学校創設以来、かってない優秀な頭脳の持ち主」と評され、陸大兵学教官まで務められた軍事思想家の「石原莞爾」氏(故人)によると「ヨーロッパは三度の飯より戦争が好きな連中の集まり」だそうで、昔のヨーロッパでは「戦争」が「スポーツ感覚」で日常的に行われていたようだ。やはり肉食人種は元気がいい!

「狩猟民族」と「農耕民族」の違いなど、いろいろと彼我の違いは根が深いが、「野球の普及」はその象徴なのかもしれない。

 


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オーディオ談義~「座右の書」ならぬ「座右の表」~

2012年03月18日 | オーディオ談義

17日(土)の午前中は朝から気温が高くてようやく春爛漫を思わせるムードが満開。身体も一段と軽くなったような気がしてことのほか動きやすい。

丁度いい機会だと冬支度から春支度へ衣替えをかねて懸案のオーディオ・ルームの整理整頓に取り掛かった。

どちらかと言えば、片付けが苦手で日頃からかなり散らかし放題。このところお客さんがご無沙汰なので一層、”磨き”がかかっている。

先ず部屋の隅の椅子に無造作にかけていた洋服類をクリーニングに出すものと、そのまま着る物とに選り分けた。何かの本に
洋服を脱いだときに、「その都度きちんと折りたたんで直す人はいい育ちが伺われる」という趣旨のことを書いてあったが、まったく自分は正反対。

分かっちゃいるけど、ちょっと面倒くさがり屋なんだよねえ~。言い換えると、結局「育ちの良くない人間」ということになるのだろう。

さて、部屋の後方の中心部、音楽試聴用の椅子の横にあるテーブルにも借りてきた本を乱雑に置いているので、読みかけの本を除いてすべて書棚に移動させたが、一番下に「クロスオーバーネットワーク早見表」があった。

おっと~、これは簡単に直し込むというわけにはいかない!

「座右の書」ならぬ「座右の表」である。しょっちゅう見るわけではないが、これが手元にないと毎日が安心できないという不思議な表である。

                  

あまりにも数字が細かすぎて、判然としないのが残念。


市販のスピーカーをそのまま使っている人には、この表はまったく縁がないだろうが、自らスピーカー・ユニットを購入したり既成のシステムをいじって聴く人には絶対に欠かすわけにはいかない表である。自分もこれまでどんなにこの表にお世話になったことか、とても計り知れない。

この表の役割を一言でいうとネットワークを編成するときに該当周波数とその数値に見合ったコイルとコンデンサーの値が一目でわかるようになっている。

たとえばタンノイ・スピーカーの場合、1000ヘルツでクロスさせるときに6db/octでSPのインピーダンス8Ωの場合、コイルは1.3mh(ミリヘンリー)、コンデンサーは19.9μF(マイクロファラッド)という数値を使えばいいとなる。もちろん、これらは一つの目安になるだけで具体的には試聴しながらバランスが取れるようにコイルとコンデンサーの数値を探っていかねばならない。


こういう作業を何度も繰り返していると、オーディオとは煎じ詰めると「周波数特性」が友達みたいな存在にならないと”やってられない趣味”ではなかろうかと、いつも思う。

普通、人間の耳に聴こえる音は20ヘルツ~2万ヘルツとされており、音楽を再生するときにこの周波数特性に山とか谷がなくてすべてフラットに聴こえるのが理想なのだろうが、現実にはまずあり得ない話。

それぞれの部屋の音響特性も違うし駆動するアンプにもクセがあるし、SPボックスだってその容量はもちろんのこと、吸音材によっても特性が変わるし、SPユニットの背圧の逃がし方などにもこれといった理論は確立されていないしで、まったくの試行錯誤の世界。

したがってある程度、個々のおかれたケース・バイ・ケースで工夫しながら自分好みの周波数特性に仕立てあげていかざるを得ないが、そういうときに、強力な武器になるのがこの「クロスオーバーネットワーク早見表」によって、コイルとコンデンサーを駆使してネットワークを自由自在に設定すること。

とにかく効果的で即効的でその割に費用があまりかからない得難い手段の一つである。

何せ、コイルやコンデンサーの値をちょっと変えるだけでアンプを替える以上に音が変わる場合があるのだから、いったんツボにはまるともう病み付きになってしまうこと請け合い。また、数値は同じでもメーカー・ブランドによっても音が変わるし、なかなか奥が深い世界である。ちなみに自分が現在使っているのは、コイル、コンデンンサーともに「ウェスタン」製である。

さて、ひととおり整理整頓が終わってようやく部屋が見られる様(さま)になった頃に、実にタイミングよく湯布院のAさんが久しぶりに我が家に立ち寄られた。Aさんは、最近、古代史の研究に随分ご熱心の様子で興味深い学説を次々に打ち立てられている。この辺はオーディオに打ち込まれているのとよく似ていて、やはりつくづく凝り性の方だと思う。

まあ、普通のラジカセ程度でも音楽は十分鑑賞できるのだから、あえてオーディオまで欲を出す人間とは、自分を含めてすべて、凝り性なのは間違いないだろう。

古代史の定説に安住している学界が沸騰するような話を30分ほどお伺いしたのちに、度重なる「音の武者修行」で経験豊かなAさんに我が家の現システムの寸評をいただこうと試聴盤として選んだのがグリークの「ピアノ協奏曲イ短調第二楽章」。

ずっと目を閉じて聴かれていたAさん、やおら「これは誰の演奏ですか?思わずうっとりと聴き惚れてしまいました。」

「リパッティです。1947年の録音ですから何せ音が悪いのですが、演奏はえらく気に入ってます。往時は”ほかのどのレコードも及ばぬ美しさ”と評判になっていたようですよ。」

「リパッティですか~、道理で!この盤は持っていません・・・。」
と、実に残念そうにおっしゃる。

ウ~ン、「That’s」の「CD-R for master」で何とかしてあげたいのはやまやまだが、リーガル・マインドが邪魔するしねえ、まあ、迷った挙句の結果については「推して知るべし」ということで。

音楽談義を早々に切り上げて、次にオーディオ談義へ。

同じ曲目を最初に「Axiom80」をメインとした第一システムで聴いてもらって、次にJBLの3ウェイシステムによる第二システムで試聴。その後に「どちらの音がお好きですか?」とストレートにお訊ねしてみた。

「Axiom80の方が好みです。それぞれに一長一短ありますが、音の”しなやかさ”という点で際立っています。ことクラシックを聴くときにこの音の佇まいと細かなニュアンスを金属のダイアフラムで再生するのは到底無理でしょう。」

「やっぱりそうですか」と、(そっと)うれしいため息。

どうやら、ここ当分、晩酌がことのほか美味しくなりそうで~。けっしてこういう”落ち”を誘導したわけではありませんが、毎度のことで、どうも相済みません。

     


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独り言~エビ、カニ、高級牛肉、食べ放題~

2012年03月16日 | 独り言

現在の楽しみと言えば「食べる」「読む」「聴く」「観る」ぐらいのものだが、もっと暖かくなったら「釣る」も加えてみようかなと思う今日この頃。

この13日(火)~14日(水)にかけては、久しぶりに「食べる」に主眼を置いて、本当にささやかな一泊二日の小旅行に行ってきた。

行く先は長崎県の島原半島に位置する「雲仙」。

ご近所の方によると「エビ、カニ、高級牛肉、食べ放題」のホテルがあるという話を聞きつけて、実際に行ってみたところ噂にたがわず、100種類以上の料理が食べ放題だったそうで、「絶対に行って損はしませんよ」とのお墨付き。しかも宿泊代込みで1万円でお釣りがくるという。

最近になってようやく県外への自由行動がとれる身分になったので、実にタイミングのいい話だが、一緒に行くつもりで母の遺影をバッグの中にそっと忍ばせた。

別府からなので行きは熊本港発の高速フェリーを利用することにして13日の午前8時半に自宅を車で出発し、13時発のフェリーで島原に到着したのが13時35分。

峠に上って島原の風景を存分に楽しんでからホテルに16時過ぎにチェックイン。バイキング形式で17時半からと19時からの二コースに分かれているが、遅く食べると寝るときに胃にもたれるだろうからと、17時半コースを選択。

定時ちかくに大きなバイキング会場の入り口で待っていると、ホテルの関係者から説明があって「すべて手作りの時価にすると200万円以上の本格的な料理を準備していますが、食べ放題と取り放題は違います。食べられる分だけ、テーブルに持ち込んでください、毎回無駄になる料理が4割近くあります。部屋番号とテーブル番号が特定されていますので目に余るときは追加料金をいただきます。」と注意。

人数にするとざっと200人は優に越えるだろうか、長蛇の列を作って待っている中、隣の4人グループのご婦人方はリピーターさんでもう何回もこのホテルに来ているという。いずれの方も大層ご立派な体格をされていて、全員グルメなのが分かって微笑ましい。

さあ、いよいよ食事開始。この年齢になるとそれほど食べられるものではないが、まずエビ、カニを優先してたらふく食べたものの、想像以上においしかったのが焼肉。経営者が牧場の持ち主なので破格の値段で高級牛肉(和牛)を提供できるのだという。とにかく全体的に食材にケチっていないのがよく分かった。

おまけに、お酒の方もビール、日本酒、焼酎、ワインすべて呑み放題。しかし、こういう絶好のチャンスにもかかわらず日頃の小食の悲しさで40分ほどで胃袋が満杯になって早くもダウン。1時間ほどで部屋に引き上げた。ウ~ン、残念。

翌日の朝食もバイキングでこれも豪華な食材による「食べ放題」。「エビの剥き身」をたらふく腹の中に収めたが、帰りの際には一人当たり1箱のカステラのお土産付きで、このホテルは経営が大丈夫かいなと心配になるほど。

翌日は折角なので一路長崎市に向けて快走した後、中心部を観光し、中華街で「長崎ちゃんぽん」をぱくついてから、高速で別府方面へ。


丁度3時間を要したが、料金は行きの高速フェリー代と一緒だったので待ち時間などを考えると、やはり高速利用が一番いいようだ。

2日間とも好天気に恵まれて、いい思い出になった小旅行だったが、やはり信用の措ける方の「口コミ」情報は間違いないようである。

 


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オーデイオ談義~「じゃじゃ馬スピーカーの乗りこなし」~

2012年03月13日 | オーディオ談義

つい最近、メールのやり取りを始めた新潟県の「S」さん。

モーツァルトのオペラ「魔笛」(レーザーディスク)をお持ちとの話を受けて「サバリッシュ指揮のオペラ魔笛」と題して2週間ほど前のブログに掲載させてもらったが、この11日(日)にいただいたメールには「無人島に持っていく一枚」と題してベートーヴェンの後期ピアノソナタ「30番~32番」(バックハウス演奏、モノラル盤)が挙げてあった。

これらの後期ソナタ、しかもバックハウスの演奏がお好みとは、曲目も演奏者も随分と自分の嗜好と似通っていて驚いた。

楽聖「ベートーヴェン」が晩年に至ってようやく到達した深淵な境地を物語るこれらのソナタは、きわめて内省的な趣を持っているため、この良さが分かる人は相当深く聴き込んだクラシックファンだと勝手に決めている。

取り分け32番のソナタは、以前のブログ「シューマンの指」(奥泉 光著)の中で、「ベートーヴェンは、ピアノ・ソナタというジャンルを完成させた。後期の、とりわけ最後の作品111のc-Moll(ツェーモル→ハ短調)は明らかに破壊だろう?偉大な完成者が自分で解体してみせるところまでやり尽くしたジャンルで、後から来た人間に何ができるだろう?それへのシューマンの解答が、小曲集形式なのだ。」(31頁)と紹介させてもらったばかり。

このソナタの第二楽章などはまるで「ジャズの乗り=Swing」に近いところがあり、簡潔な二楽章形式の構成と相俟って上記の「破壊」という表現に繋がっているのだが、聴けば聴くほどに全体が「静謐感」と「乗り」の絶妙なバランスによって成り立っているのが分かる。

これほどの複雑な名曲になると演奏者の巧拙が一気に明るみのもとに照らし出されるが、「S]さんによるとポリーニの演奏が「オーディオ装置」のレベルによって相当変化するそうで、昔聴いたときよりも完成の域に達した現在の装置で聴く方がずっといいそうである。

ポリーニの演奏を一度聴いてみたいものだが、文春新書の「クラシックCDの名盤 演奏家編」によると音楽評論家の「宇野功芳」さんが次のように酷評している。

「クラシック音楽なのに聴いているのが苦痛、ということがある。ポリーニが良い例だ。ライブはそれなりに楽しめるがCDは駄目。特に精神的なベートーヴェンは聴くに堪えない。」

「S」さんが「宇野さんはいったいどういうオーディオ装置で聴いたうえでこういう評価をしているのか」と、疑惑の眼を持って調べてみると「クラシックCDの名盤」に宇野さんのオーディオ装置が紹介されていた。

使用機器のうち、新製品はプレーヤーだけで、アンプとスピーカーはいずれもモノラル時代あるいはステレオ初期の名品である。

今のものに比べると、周波数レンジは狭いし分解能も悪いが、中音域の美しさ、豊かさ、気品は最高で使用年数は実に40年を超える。

トーレンスTD126Mk111 (プレーヤー)

シュア=ウルトラ500 (カートリッジ)

マランツ7 (プリアンプ)

クオードⅡ (パワーアンプ)

スピーカー 

 低域 ワーフェデール15 

 中域 グッドマン Axiom80 

 高域 ワーフェデール スーパー3

そして「○○さん(自分のこと)もAxiom80を使っておられますがどういう感想をお持ちですか?」とあったので、前置きが随分長くなったが、ここからいよいよ本題に入ってメールではなくてこのブログで以下のとおり「回答」させていただこう。

              

まず、「Axiom80」(フルレンジ用:20cm口径)を中域専用に使っているのはさすがに慧眼(けいがん)だと思います。

このSPユニットは極めて繊細な音を出しますが”つくり”の方もすごく繊細なので大きめの低域信号を入れると壊れやすいのが難点です。したがって、中域専用に使うのは理にかなっています。

しかし、一番の問題は低域用ユニット(ウーファー)とのマッチングです。実際に聴いてみないと断言できませんが、ワ-フェデールのユニットではおそらく「Axiom80」の「強力マグネット+エッジレス」に裏打ちされたハイスピードについていけないと思います。

まあ、オーディオ的に考えたらそういうことですが、雰囲気を楽しむのだと割り切ればそれでいいのでしょうが。


また、「Axiom80」は高域にもちょっと癖があって普通の鳴らし方をすると「キャンキャン」と、ときどき耳障りな音を出す傾向にありますので高域に別のユニットを持ってきていることも十分理解できます。

我が家の場合はクロス周波数を200ヘルツ前後にとって、それから上の中域と高域部分をこの「Axiom80」で鳴らしていますが、高域が”うるさく”鳴らないようにいろいろと工夫しています。

                                

先ず2cm厚のパイン(松)で密閉型のボックス(タンノイⅢLZクラス)を自作して、箱鳴りをそこそこに誘発するようにしています。裏蓋にはユニットの背圧を適当に逃がすため120個ほどの1㎝直系の穴をランダムに開けています。この効果は非常に大きいようです。ボックスの中にはもちろん吸音材として「羽毛」を木綿袋に小分けしてぎっしり詰め込んでいます。

そして、ユニットの前には100円ショップで購入した「絹綿タオル」を二重にして、ぶら下げて刺激音を吸収するようにしています。

駆動しているのは「PX25真空管」(同じイギリス製)アンプですが、スピーカーへの接続端子が4Ω、8Ω、16Ωとあるところ、「Axiom80」は15Ω負荷ですが、試行錯誤の結果、今のところ8Ω接続に落ち着いています。

以上の方法によりこの「じゃじゃ馬スピーカー」を何とか乗りこなしていますが、まるで「苦労の連続」に応えてくれるように、ヴァイオリンの音色がいったんツボに”はまった”らこのぐらい心強い味方はありません。これからも骨までしゃぶり尽くしながら愛用していくつもりです。

「S」さんが九州にお見えになる機会があったときはぜひ当地まで足を延ばしてもらって、「百聞は一聴にしかず
一度試聴していただいてご意見を伺いたいものです。


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独り言~困った、自治会の役員に成り手がいない~

2012年03月11日 | 独り言

自分が現在住んでいる団地は40年ほど前に関西の大手不動産会社が開発したもので、160区画のうち現在140区画ほどが埋まっている。

この10年ほどは景気低迷の関係なのか2~3軒程度の新築しかなかったが、ここ1年ほどの間に新たに建築中も含めて4軒もの建築ラッシュが続いている。

「何故だろうか?」と考えるのに、今のところ思い当たるのはただ一つしかない。

「消費税増税」の動きである。

たとえば建築費が3千万円とすると5%増税になるだけで150万円も余分な出費となるので結構バカにならない。大きな買い物を控えている人は、まだ気が早いかもしれないがそろそろ心積もりをしておいた方がいいのかもしれない。

大きな買い物と言えば自分の場合、もう自動車ぐらいしかない。高価なオーディオ機器となると、もはや自分には縁のない存在で、もし購入したとしても楽しむ時間的余裕がないのであっさりあきらめがつく。昔ならとても我慢ができず借金まみれになってでも購入しただろうが今やそういう情熱はない。ちょっと淋しい気もするが・・・。


さて、「消費税増税」の動きは党内外の反対もあって今後どういう展開になるのか分からないし、野田首相(好きなタイプ!)も随分苦労されているようだがもはや趨勢は見えている。

ところで、自分が住んでいる団地は言い方は悪いが自分も含めて県外、県内からの「流れ者」が多いので住民同士の結束がイマイチ。

これが自治会の運営に如実に反映して、運動会や敬老会などの行事の参加率も悪くて何をやっても盛り上がることがない。

そういう状況のもとに今年は2年に一度の自治会の役員の改選期。

もう3月中旬にもなって新体制による発足を間近に控えているのにいまだに役員(会長)が決まらない。

3月に入って2~3日おきに夜中の会議が続く中、合間をみて候補になりそうな人に打診するものの、全員あれこれ理由をつけて逃げ回っている。自分は「会計」担当として4年もお勤めを果たしているのに、後任がすんなり見つかりそうもなくほとほと困っている。

いっそのこと自治会を解散したらという意見も出て、市当局に相談したところ「任意団体ではあるが解散はあり得ない、隣の町との併合ならいいですが」との見解。

今日の夜(11日)も集まって解決策の協議をするが、思い切って会費の増額をして高額の役員報酬で釣るのも一案だが。

やれやれ。


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読書コーナー~脳は何かと言い訳する~

2012年03月08日 | 読書コーナー

 「脳はなにかと言い訳する」(平成18年9月15日、祥伝社刊) 

                                

著者の「池谷裕二」氏は薬学博士で、現在東京大学大学院薬学系研究家の講師。

本書は脳にまつわる知識や考え方を述べた本だと言えば、やや堅苦しそうだが、従来の「脳関係」の本に載っていないような新しい知見が紹介されている。

以下、興味を引いたものを2点ほど紹介。

☆ 脳は何かと錯覚する~ヒトも動物も、なぜか「赤色」が勝負強い~

2005年5月の「ネイチャー」誌に掲載された科学論文に英ダーラム大学の進化人類学者ヒル博士の研究成果として「赤色は試合の勝率を上げる」という話題。

たとえば、ボクシングやレスリングなどの格闘競技では選手のウェアやプロテクターに赤色と青色がランダムに割り当てられる。

ヒル博士がアテネ・オリンピックの格闘競技四種の試合結果を詳細に調査した結果、すべての競技について赤の勝つ割合が高いことが分かった。赤の平均勝率は55%というから、青よりも10%も高い勝率となる。実力が拮抗した選手同士の試合だけを選別して比較し他ところ、赤と青の勝率差は何と20%にまで拡大した。

赤は燃えるような情熱を、青は憂鬱なメランコリーを暗示する傾向があることは民族を越えて普遍的であると考えられている。

自然界においても赤色は血や炎に通じるものがあるようで、猿や鳥類、魚類でも一部の体色を赤色に変えることで攻撃性を増したり異性に強くアピールしたりする種がある。

ヒル博士は赤色が相手を無意識のうちに威嚇し、優位に立ちやすい状況を作るのではないかと推測している。

もしかしたら人間が「真っ赤な顔」で怒るというのもそれなりに意味のあることなのかもしれない。

☆ 脳は何かと眠れない~睡眠は情報整理と記憶補強に最高の時間~

何かを習得するためにはひたすら勉強すればよいわけではない。睡眠をとることもまた肝心ですよという話。

2004年7月「ニューロサイエンス」誌に掲載されたチューリヒ大学のゴッツェリッヒ博士の論文は睡眠による「記憶補強効果」を証明した。

ある連続した音の並びを被験者に覚えさせ、数時間後に音列をどれほど正確に覚えているかをテストしたところ、思い出す前に十分に睡眠をとった人は軒並み高得点をはじき出した。

ところが驚くことに、睡眠どころか目を閉じてリラックスしていただけでも睡眠とほぼ同じ効果が得られることが分かった。つまり学習促進に必要だったのは睡眠そのものではなく周囲の環境からの情報入力を断ち切ることだった。つまり脳には情報整理の猶予が与えられることが必要というわけである。

なお、これにはちょっとした「うたた寝」でも良いようで、忙しくて十分な睡眠が得られなくても脳に独自の作業時間を与えることができればそれで十分である。

これは不眠症の人や重要な仕事を明日に控えて緊張してなかなか寝付けない人には朗報で、眠れなくともベッドに横になるだけで脳にとっては睡眠と同じ効果があるというわけ。

つまり、眠れないことをストレスに感じる必要はないが、ただし同博士によるとテレビを観ながらの休憩は効果がないとのことで、あくまで「外界から情報を隔離する」ことが肝心。

大好きな作家の一人である「吉村 昭」さん(1927~2006)の本に出てくる話だが、吉村さんは若い頃、当時は不治の病と言われた「結核」だった時期があり、それも手術を要するほどの重症患者で、長期間、日中でも絶対安静を要したが「意識は覚醒したまま横になって身体を休めておくのも慣れてしまうといいものだ」という記述がある。

自分に言わせると「死んだ方がマシ」ともいえるこうした退屈な時間を、そう思えるような境地になるのはなかなかできないことだと思ったが、吉村さんの作風には他の作家にはない沈着冷静な筆致の中にゆったりとした時間の流れを常々感じていたので、若い頃にそういう貴重な体験が背景にあったのかと頷いたことだった。

実を言うと、自分もときどき不眠症の傾向にあるのだが、これを知ってから、寝付けなくてもあまり苦にならないようになって、逆にこの頃では「外界の情報を遮断して冷静に考えるには1日のうえで最も適した思考の時間」ではないかと思えるようになった。

オーディオに関してアイデアが浮かんだり、ブログに投稿する材料を思いつくのもこの時間帯が多い。

一時期、眠れなくてあれほど焦っていた人間が、今度は逆に不眠の時間をうまく利用するようになる、本当に人間は気持ちの持ちようで随分と変わるものである。

とはいえ、何だかんだと言ってみてもやっぱり熟睡できるのが一番、これも自分の脳が何かと言い訳する結果かもしれない!

 


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オーディオ談義~「キング・オブ・ホビー」~

2012年03月02日 | オーディオ談義

「キング・オブ・ホビー」(趣味の王様)という名をほしいままにしていた30年~40年ほど前のオーディオの「黄金時代」を知っている自分にとって、近年のオーディオの衰退は目を覆うばかりである。

減少の一途をたどり、一向に増える兆しが見られないオーディオ人口、オーディオ市場から相次ぐ撤退をしているメーカーなどがそれ。

「CD(レコード)にこんな微妙な音が入っていたのか」という素直な驚き、そして同じ音楽がオーディオ・システム次第で全然違った印象を受け「大きな感銘と音楽への傾倒」を呼び起こしてくれるというのが、(ちょっと気障な表現かもしれないが)オーディオの究極の愉しみ」ともいうべきものだろう。

とはいっても所詮、オーディオは「音楽を聴くための道具」、「音楽芸術」あってこその存在であり位置づけに過ぎないのだが、ひとまず音楽は差し置いて、オーディオについて一人の極めて熱心な愛好家の立場からその衰退の原因を「独断と偏見」を交えて述べてみよう。

1 高価すぎるオーディオ製品

オーディオはマイナーな趣味なので大量生産というわけにもいかず、総じていい製品になると開発費も関係して値段の方も高くなる。

少々高くても「いい音であれば構わない」のが愛好家というものだろうが
「音楽は好きだしオーディオにもある程度興味はあるがそれほどまでして”のめり込む”のはどうも」という入り口付近に佇む大多数の人にとって、そのコストと満足感のバランスが大きな問題で、ちょっと全体的に製品価格が高すぎて門戸が狭すぎるんではなかろうか。

この不況の時代、それに昨今は高級車にも興味を示さない草食系男子の話をよく聞くが、CDプレーヤー、アンプ、スピーカーの一式をそろえてそこそこの音質で音楽を聴こうと思えばまず50万円程度の出費は覚悟しなければならないがこういうまとまった出費に抵抗感を覚える人が多いのは容易に想像がつく。

「開発費はかかるし大量に売れないので安価に供給できないメーカー側」「高価すぎて購入しない消費者側」「中途半端な製品を購入してオーディオとはこんなものかと失望する消費者」「オーディオ離れにより沈没する良心的な中小メーカー」の嘆かわしい負のスパイラルをどこかで断ち切らなければいけない。

2 未成熟なオーディオ関係者

まとまった出費に対してそれなりの対価として「いい音」に出会えれば、満足感を覚えオーディオへの傾倒が持続するし深まっていくものだがこれまでの自分の経験では機器の選択において期待外れが多かった。

もちろん自分の選択眼に問題があったのが一番の理由だが、ほかにもオーディオ専門誌が適切なガイドの役割を果たしていないことにも一因がある。

取り分けオーディオ評論家の意見というのは実に無責任でいい加減だし、しかもメーカーとの馴れ合いの世界なのでまず信頼するに足りない存在だと思ったほうがいい。彼らの製品紹介についてのコメントの鵜呑みは禁物である。

それとオーディオ情報の確認という面でオーディオ店での店頭試聴は無視できないが、電源対策と環境、音響空間に問題があってこれもあまり信用できない。音の傾向を知るのにはいいだろうが、スピーカーが沢山並んだところで聴いてみても家庭の音響空間とでは雲泥の違いだから音が変化してあたり前。

やはり信頼すべきは友人・知人のクチコミでありそれぞれのご自宅で聴かせてもらう音質が基本になるべきだろう。

最小のコストで自分の「好きな音」が手に入る「良き相談相手」に恵まれるのが一番いいのだが。

3 素敵なオーディオ装置に巡り会う機会に恵まれない

自分の場合「オーディオ」への目覚めというのはずっと若い時分に友人宅のオーディオ装置でシューベルトの「未完成」を聴かせてもらってから。

自分のチャチな装置ではそれほどいいとも思わなかったのに、友人の装置では心が震えるほどの感動を味わい当時「こんなに”いい音と音楽”に巡り会えるのであればどんなにお金を突っ込んでもいい」と大いに奮い立ったものだった。

結局のところ現在でもiPodなんかで音楽を聴く人は多いんだから音楽人口は決して減っていないように思うし、ということはITの時代になったこともあり友人・知人同士の深い交流や行き来が希薄になり素敵なオーディオ装置に出会ってカルチャー・ショックを受ける機会が減ったのも一因ではなかろうか。

4 正しい音楽鑑賞とは

音楽は耳だけで聴くものと思ったら大間違いで上半身全体で聴いているもので、このことはつい最近のブログで「音楽の周波数と脊髄の位置は対応関係にある」と紹介したばかり。もちろん、これは「モーツァルトで免疫力を高める・・」(2005、和合治久著)の受け売り。    

脊髄は頭頂から尾てい骨までピアノの鍵盤のように並んでいて周波数の違いにより反響する部分が異なる。尾椎は250ヘルツ前後、腰椎は250~500ヘルツ、胃のあたりが1000ヘルツ、胸椎が750~2000ヘルツ、頚椎が2000~3000ヘルツ、延髄から上は4000ヘルツ以上で高い周波数ほど脊髄の上の方に反響する。低い音がズーンとお腹(なか)に響くように感じるのもこれで説明がつく。

ここで何が言いたいかというと、「iPod」のイヤフォンなんかで聴く音楽はどんなにきれいな音質でも頭蓋骨の中で響いているだけでそれは「正しい音楽鑑賞ではない」ということ。

もちろん自分も運動ジムなどでiPodを利用して大変重宝しているが、それもPopや歌謡曲まででとてもクラシックを聴く気にはなれないのもこれでお分かりいただけようか。しかし「音楽鑑賞に正しいもへちまもない」と反論されると返す言葉もないのだが。

5 「音楽とオーディオ」が両立した啓蒙家の不在

自分の音楽への開眼は五味康祐氏(作家:芥川賞受賞)の「西方の音」を読んでからで同時に同氏のタンノイ・オートグラフへの傾倒に圧倒されたことにもよる。日本でこんなにタンノイ(イギリス製のスピーカー)が広く普及したのも「タンノイの回し者」とまでいわれた五味さんの影響力に拠るところ大だと思う。

「音楽とオーディオの両立」は絶対におろそかにできないテーマだが、当時はレコード全盛の時代であり、さすがにこの良本もCDの時代となるとオーディオ面でいささか古いという読後感は否めない。

これは「クラシック」に限っての話だがどうも「音楽評論家はオーディオに弱い」「オーディオ評論家は音楽に弱い」のは歴然たる事実で
、「五味康祐」氏や「瀬川冬樹」氏の急逝以来これまで両方を兼ね備えた評論家にはついぞ巡り会ったことがない。

これはオーデイオ業界にとってたいへん不幸なことで早く「商売っ気を抜きにした」人材を育成して広く啓蒙し、うまくリードしてくれればと思う。もっとも、感性もさることながら結局のところ文章力がものをいう世界なので五味さんのような作家が出てくれば最適のような気がする。

すぐに村上春樹さん、石田依良さん(本名の姓が石平(いしだいら)!)、奥泉光さんなどが浮かんでくる。

以上の5点を思いつくままにざっと羅列してみたが、このまま「オーディオ離れ」が続くとなると少々先行き心配である。

オーディオ業界が儲けなくても自分はちっとも構わないが、その行く末が”尻すぼみ”となってしまい、とどのつまり貧弱なシステムの蔓延によってこの世から
「音楽とオーディオに感動する機会」が次第に失われていくという図式はやはり淋しくなる。

ここで、ふとした思いつきになるが「オーディオ協会」のような組織を作って、愛好者のいろんなデータを登録し身元保証を行ったうえで、会員が全国津々浦々、自由に行き来して他人のオーディオ・システムに気軽に触れ合う機会を増やしたらどうかとも思うのだが、「言うは易く、行うは難し」かな~。


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