正月早々のブログと、つい最近のブログで、今年に入って2回も取り上げたバッハの「マタイ受難曲」。
信仰心の厚いバッハが「キリストの受難」を題材にした畢生の大作であり、数あるクラシックの曲目の中でも別格とされる作品。
この曲を好きと広言される方はクラシック・ファンの中でも「ホンモノ」であり「極めてハイレベルの鑑賞者」と断言して間違いなし。
このまま知らん振りをして人生を終えるのも「何だかシャクだし勿体ない」と、心境の変化を来たしたので、とにかく耳に馴染ませるのが先決とクルマのCDチェンジャーに3枚セットを歌謡曲やポピュラー音楽に紛れ込ませてここ1ヶ月ほど運転しながら聴いているのはこれまで記載してきたとおり。
ところがつい先日、ブログが取り持つ縁で交流している方から次のような興味深いメールが入った。
1月3日掲載の「年頭に思うこと・・・」(マタイ受難曲に挑戦)のブログで気にはしておりましたが、その回答を1月24日付のブログで拝読しました。
(さらに)もう一度「キリストの受難を鼻歌で歌ったら困ります」真剣でした!後で知りましたが、〔その人は)「キリスト教の信者」でした。もうこの話、昭和48年の頃の昔話となりました。
いやあ、前段部分には驚きましたねえ。
敬虔なクリスチャンにとって「クルマを運転しながらマタイ受難曲を聴くなんて不敬もいいとこ、しかも歌謡曲やポピュラー音楽と同列に聴くなんてとんでもない!」というわけ。
思わず「そんなお堅い事を」と言いたいところだが、宗教〔信仰)の前には是非もない。
自分は、まあ一応仏教徒、とはいっても困ったときの「神頼み」、あるいは葬式や法事のときに必要な定番みたいなものでそれほど厚い信仰心を持ち合わせているわけではない。おそらく大方の日本人がそういうもんだろう。
そういうさしたる信仰心も無くクリスチャンでもない人間が、「単なる音楽鑑賞の一環」として「マタイ受難曲」を聴くことに対して本家本元の西洋人たちは一体どういう意見を持っているんだろうか。
と、何だか鋭く盲点を突かれた感じ。
そういえば似たような話で「クリスマス」に対する日本人の言動が思い浮かぶ。
本来はキリストの「降誕」を敬虔に祝う日なのに、神様そっちのけでのあの浮かれ様。
数年前のテレビ番組だったが、クリスマスかイブとかの夜に高級ホテルの客室がカップルの予約で埋め尽くされるという会話の中で、出演していた外人タレントが”どうも日本人は・・・”と、苦虫を噛み潰したような顔をしていたのが妙に記憶に残っている。
しかし、程度の差こそあれ、自分なんかも運転中に(いくら耳に馴染ませるためとはいえ)「マタイ」を聞き流している行為なんて同じようなものかもしれない。
「宗教音楽に本格的に”はまる”と、ベートーヴェンやモーツァルトの音楽でさえも聴いていてバカらしくなるそうだよ」とはオーディオ仲間の話だが、もともとクラシックはキリスト教への信仰が大元になって発展を遂げてきたのだからこれは十分うなづける話。
クラシックを聴くことは「神と対峙することだ」なんて言うとちょっと気障で大げさだが、それなりの心構えが要るんだろう。
イエス・キリストは普遍的な神になり得るんだろうか?