「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「聴く鏡」~読書コーナー~

2024年09月03日 | 読書コーナー

「貴方が好きな「グッドマン」(英国)についての記述が載ってますよ」というコメントともに、メル友の「I」さんからご親切にも送付していただいたのが「聴く鏡」。



著者はジャズ界では国際的にも有名な「菅原正二」さんで、この拙ブログでもいつぞやのこと「日本一音のいいジャズ喫茶」(一関市)というタイトルで紹介させてもらったことがある。

オーディオ誌「ステレオサウンド」(季刊)に連載されていたものを、まとめたものだが、一読してみるとジャズへの燃えたぎるような情熱と「JBLシステム」への迸(ほとばし)る愛情にほとほと感心するばかり~。

「音楽&オーディオ」の両方が見事に一体化してますね。

我が家はクラシックオンリーといってもいいくらいだけど、それでも参考になることが沢山あったので、未読の方はぜひご一読をお薦めします。

ちなみに「聴く鏡」のタイトルの由来は「時間をかけて自分が作った音を自分一人で聴いてみる。スピーカーから出る音が<聴く鏡>である。これが所以である。(159頁)。

いわば、自分の「人となり」が音に反映する・・、これでは迂闊に他人に聴かせるわけにはいきませんな~(笑)。

最後に、「グッドマン」に関する記述を記録しておこう。

「ぼくはJBLを持つ前にグッドマンの12インチ・フルレンジAXIOM301を愛用していたことがあって。あれは12インチ大口径にもかかわらず。ダブルコーン式だったせいか「ミダックス」「トレバックス」と、用意されていた3ウェイに発展しないで、故意にそのフルレンジの派手目のカラーを楽しんでいたが、フルレンジとしてもっと完成度の高い10インチのAXIOM80にあっさり負けてしまった経験がある。」(153頁)

「ついでながら告白しておくと、その入院中に僕は全然音楽を聴かなかった。聴く気もしなかったのであるが、状況が変わると、聴きたい音楽も、聴きたい音も変わるという当たり前のことを考えていた。

いつもは戦闘的なジャズを戦闘的なJBLのそれも ”大砲” で聴いていたわけで、それは単に元気だった証拠だ。カラダが弱ると、さすがに内心 ”ああいうのはごめんだナ” と思う。無責任な話ではありますが、病床では正直なところ ”グッドマンのアキシオム80でクラシックを・・” 願いたいと思ったりした。

これをカラダが弱った証拠といっては、いつもこういうのを聴いてる人に失礼に当たるが、それで実際に退院後間もなく仙台の友人の所へ行ってグッドマンのアキシオム80を聴いてみた。僕も昔は持っていたのだが、人に持っていかれ今は手元にない。

こういうよくできた小型スピーカーはやっぱりいいなあ・・、としばらくウットリとしたのだが、次にアルテックのA7を”聴かしてよ”といってサッチモのレコードをオルトフォンのSPUでかけてもらった。

そしたら圧倒的!なスケール感と臨場感でぶっ飛んでしまい、弱ったカラダにたちまちムラムラと熱気が帯びてきたではありませんか!?

弱ったときに大型のA7、元気な時にむしろ小型のアキシオム80か!」(162頁)

以上のとおりです。

で、一言いわせてもらうと、「AXIOM80」をスピード感溢れる「サブウーファー」(100ヘルツ以下を補完)付きでぜひ聴いたもらいたかったですねえ(笑)。

それでは「I」さん、長期間のご貸与ありがとうございました。熟読玩味させてもらいましたが、たいへん参考になりました。「負けてはおられない」とヤル気がますます湧いてきましたよ(笑)。今週中に返送します。

次いで、近隣にお住いのオーディオ仲間「Y」さんからお借りした「ステレオサウンド」誌(2024年春号)。



「ステサンには珍しくブラインドテストをやっているので読んでみませんか~」、というわけだった。


昔と比べて、専門誌に対する読者の目は厳しくなっているように思う。「業者から秘かに接待を受けたオーディオ評論家が提灯持ちの記事を書いているんではないか・・、疑心暗鬼のもと、そう簡単には騙されないぞ」というわけ(笑)。

軽く50年以上のオーディオ歴に及ぶブログ主も何度騙されたことか・・、もちろん簡単に盲信して騙される方が悪いんだけどどれだけ授業料を払ったかわからないほどの苦~い歴史を引きずっている。

そういう状況の中での「ブラインドテスト」だから、一応期待を持って読ませてもらったけど、全体的に歯切れの悪い記事が目立つ印象を受けた。

オイオイ・・、悪いなら悪いと欠点をハッキリ指摘しろよ~、褒めてばっかりじゃ参考にならんぞ~と、負け犬の遠吠えをしておこう(笑)。


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人は何かと言い訳をして幸せになるようにできている

2024年08月26日 | 読書コーナー

自分の思考パターンを辿ると、いつも何かしら「言い訳」をしていることに気付かされる。

たとえば、前回のブログ「オーディオにおける見た目の比重」にしても、他人から見てシステムの「見た目が冴えない」ことは分かっているつもりだが、つい言い訳がましく何やかや理屈付けを行っているのがお分かりかな~(笑)。

そういうときに、タイミングよく格好の本にぶち当たった。



本書は脳にまつわる知識や考え方を述べた本、といえばいかにも堅苦しそうだが従来の「脳の本」には載っていないような新しい知見が紹介されている。興味を引いたものを2項目紹介してみよう。

なお、著者の池谷裕二氏は薬学博士で、現在東京大学大学院薬学系研究科・教授。

☆ 脳はなにかと錯覚する~ヒトも動物も、なぜか「赤色」が勝負強い~

過去の「ネイチャー」誌に掲載された科学論文に英ダーラム大学の進化人類学者ヒル博士の研究成果として「赤い色は試合の勝率を上げる」という話題。

たとえば、ボクシングやレスリングなどの格闘競技では、選手のウェアやプロテクターに赤色と青色がランダムに割り当てられる。

ヒル博士がアテネ・オリンピックの格闘競技四種の試合結果を詳細に調査した結果、すべての競技について、赤の勝つ勝率が高いことが分かった。赤の平均勝率は55%というから、青よりも10%も高い勝率になる。実力が拮抗した選手同士の試合だけを選別して比較したところ、赤と青の勝率差はなんと20%にまで拡大した。

赤は燃えるような情熱を、青は憂鬱なメランコリーを暗示する傾向があるのは民族を越えて普遍的であると考えられている。

自然界においても赤色は血や炎に通じるものがあるようで、サルや鳥類、魚類でも一部の体色を赤色に変えることで攻撃性を増したり異性に強くアピールしたりする種がある。

ヒル博士は赤色が相手を無意識のうちに威嚇し、優位に立ちやすい状況を作るのではないかと推測している。

もしかしたら「真っ赤な顔」
で怒るというのもそれなりに意味のあることなのかもしれないですね(笑)。

☆ 脳はなにかと眠れない~睡眠は情報整理と記憶補強に最高の時間~

このところ寝苦しいせいか、6時間ほどで目が覚めてしまい二度寝も無理そうなので仕方なく起きて、暇つぶしに「ブログ」の投稿をしている(笑)。

そして午前中は何とか持つのだが、午後になると必ずといっていいほど「睡魔」が襲ってきて「午睡」という破目になる。まあ「毎日が日曜日」の人間だから何とかやり繰り出来ているが、現役時代なら身が持たないことは確実~。

さて、かって「ニューロサイエンス」誌に掲載されたチューリヒ大学のゴッツェリッヒ博士の論文は、睡眠による「記憶補強効果」を証明している。

ある連続した音の並びを被験者に覚えさせ、数時間後に音列をどれほど正確に覚えているかをテストしたところ、思い出す前に十分な睡眠を取った人は軒並み高得点をはじき出した。

ところが驚くことに、目を閉じてリラックスしていただけでも、睡眠とほぼ同じ効果が得られることが分かった。つまり学習促進に必要だったのは睡眠そのものではなく周囲の環境からの情報入力を断ち切ることだった。つまり脳には情報整理の猶予が与えられることが必要というわけ。

それには、ちょっとした「うたた寝」でもよいようで、忙しくて十分な睡眠が得られなくても、脳に独自の作業時間を与えることが出来れば、それで十分なのである。

という内容だったが、
これはなかなか寝付けない人間には朗報だろう。何しろ眠れなくともベッドで横になるだけで、脳にとっては睡眠と同じ効果があるんだから~。

そう、眠れないことを何もストレスに感じる必要はなし、ただし同博士によるとテレビを見ながらの休憩は効果がないとのこと。あくまでも外界から情報を隔離する
ことが肝心!

そういえば、好きな作家の一人、「吉村 昭」さん(1927~2006)の本に出てくる話だが、吉村さんは若い頃結核だった時期があり、それも手術を要するほどの重症患者で、長期間、日中でも絶対安静にしてじっと寝ていたそうだが「意識は覚醒したまま横になって体を休めておくというのも慣れてしまうとなかなかいいものだ」という記述がある。

自分に言わせると死んだ方がマシともいえるこういった退屈な時間をそう思えるほどの境地になるのはなかなかできることではないと思った。

吉村さんの作風には根気強いというのか、ゆったりとした時間の流れを感じていたのだが、若い頃にそういう体験が背景にあったのかと思わず合点したことだった。


これを読んでから、外界の情報を遮断して冷静に考えるには「途中覚醒」は1日のうちで最も適した思考の時間かもしれない
・・、つまり気持ちの持ちよう次第で逆に不眠の時間を楽しめるようになれたら「しめたもの」だが~。

とはいえ、やっぱり熟睡できるのが一番だけどなあ・・・。

これも結局、自分が生きやすくなるように「脳がなにかと言い訳をした」結果かもしれないですね!(笑)。



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真夏の読書の楽しみ

2024年08月10日 | 読書コーナー

日没後のウォーキングで会う人ごとに「今年の夏は異常ですね!」と口にされる。

「そうですね、お盆が過ぎると少しは涼しくなるんじゃないですか」と返しているが、そのお盆がもうすぐやってくる。

あと少しの辛抱だが、心なしか夜が少し涼しくなった気がする・・、しかし日中となるとまだ暑くて、出かける気にもならず「読書三昧」「オーディオ三昧」が続いている。


☆ 「最高齢プロフェッショナルの教え」

             

漫画家、パイロット、ギター職人など、「その道」を極めた最高齢のプロフェッショナルたち15名の人生哲学を収録した本。

最高齢というだけあって、年齢的にも最高が103歳、90歳代が5名、80歳代が7名と後期高齢者が大半を占める。

さすがに、並外れた苦労を実際に積み重ねて来られた方々だけに、その人生観も浮ついたものがなくズシリと胸に響いてくるものがある。大いに感銘を受けた。

いずれの方々ともに、若い頃に人生設計とかの細かい計算をせずに、ただ「無我夢中になって打ち込む」、「人との出会いを大切にする」、「破天荒とも思える冒険をする」、そして「結果なんて後からついてくる」という前向き思考が共通点だった。

また男性陣は年齢からして若い頃に「兵隊」にとられた方が多くて、あのときの理不尽な鍛われ方に比べると、どんな苦労だって ”へっちゃら” という言い方が目に付いた。

こういう「たくましい」人たちの話に触れると「自分はマダマダ甘い」とツイ反省してしまう(笑)。

一番興味を惹かれたのは「ギター職人」の「矢入 一男」氏〔78歳)。

「ヤイリギター」の創設者で、これまでギターのブランドには疎くて「ギブソン」ぐらいしか知らなかったが、「ヤイリギター」は海外の著名人も使っているブランドと初めて知った。

コメントの中にこういう行(くだり)があった。

「そのへんの安いギターは丈夫な合板でできています。でもヤイリギターのもとになるのは、天然の木そのままの無垢材です。そうなると、いい音で鳴るギターを作る以前に、壊れないギターをつくることが問題になります。」

「壊れないということは丈夫だということだ。しかし、丈夫だということは、ギターがよく鳴らんということでもあります。そこで試行錯誤しなけりゃならない。いい音で鳴る繊細な”つくり”をしていて、しかも壊れないギターが目標です。」

ポイントは「丈夫さ」と「いい音」とは基本的に両立しないことが当たり前のこととして実体験的に述べられていること。

楽器とスピーカーは似たようなものなので、これは何だかオーディオにも通じるような話。

たとえば許容入力が大きくて、まるで工業製品みたいな頑丈なユニットからは大味な音しか出てこない。

したがって「丈夫さ」と「いい音」の両方が手に入ると考えるのは間違いで、このあたりは「オーディオの盲点」ではなかろうか、とさえ思う。


最後に103歳の声楽家「嘉納 愛子」さんの言葉を。

「103年、生きていて思うのは”人生は公平だ”ということ。苦労したら同じだけ、恵みがあるんです。」

はたして、そうだろうか‥(笑)。


☆ 「黒い家」

                

貴志祐介氏の作品はほとんど読んでいるが、どうしてこんなに面白いんだろうと、堪能しながら息もつかせず読ませてもらった。

第4回日本ホラー小説大賞受賞作だが、「恐怖の連続、桁外れのサスペンス、読者をいまだかってない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編」という宣伝文句は決して誇張ではない。

主人公は生命保険会社で保険金支払いの査定を担当しており、保険金を騙し取ろうというワルたちと次から次に対面する。

そして、とうとう、ある顧客の家に呼び出され、子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。それからが信じられないような悪夢の連続。

この顧客が悪魔のような人物で、保険金目当てに自分の子供を殺して自殺に装ったり、夫の両腕を切断して保険金詐欺を目論んだりという極悪非道ぶり。

最後には命をかけた凄惨な対決となるが勧善懲悪で終わるのがせめてもの救い。

とにかく、途中であまりの怖さに該当部分をつい飛ばし読みするほどの迫真性がある。

また著者は作家になる前に社会で組織勤めをしたことがあるだけに、仕事への取り組み方とか上司と部下の間の機微に触れる描き方が実にうまい。

「ホラー小説大賞」に恥じない作品なのでまだ読んでない方は是非ご一読を~、スリル満点で背筋が凍りつくので真夏向きの本です。

☆ 「作家の値段」

                

著者の「出久根 達郎」氏は作家と古書店主をかねておられる方。

本書は「藤沢周平」氏から「吉行淳之介」氏まで24名の作家たちの初版本を中心に市価の状況を詳細に記した本。

基本的に初版当時のままの美本、帯付きの状態での価格になるが、どなたの家でも意外と押入れの中から簡単に発見できそうな本が実は何万円もしているというのが新鮮な驚き。

本書を読むと、とても十把ひとからげで古書を廃品回収に出す気になれず事前に綿密に調べたくなるほどだが、ちなみに高額な値のついた主な作品を興味のある作家、一作品に絞って挙げると次のとおり。

大仏次郎(「ふらんす人形」昭和7年新潮社刊、帯付きで60万円以上)

谷崎潤一郎(「小説二編」大正4年、三生社刊、函付きで50~60万円)

芥川龍之介(「羅生門」大正6年、阿蘭陀書房刊、25~30万円)

井上靖(「闘牛」昭和25年、帯付きで35万円前後)

なお中年以降の方々が「青春の書」として挙げるであろう「あすなろ物語」(新潮社)は昭和29年の帯付きで2万~2万5千円。これなんか、もしかするとどこかにありそうな感じ。

松本清張(”或る小倉日記伝”収録の「戦国権謀」昭和28年、15万円前後)

萩原朔太郎(「月に吠える」大正6年初版本で200万円)

井伏鱒二(「父の罪」大正13年、60万円)

与謝野晶子(「みだれ髪」明治34年、130~150万円)

中原中也(「山羊の歌」70~80万円)

開高健(「あかめであ めらんこりあ」昭和26年、40~45万円)

手塚治虫(「新宝島」初版500万円)

さすがにこの辺のレベルになるとやっぱり「在りそうに無い」のが「稀観本」たる所以かなあ。



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「柔らかな犀(さい)の角(つの)」~読書コーナー~

2024年08月06日 | 読書コーナー

お隣さんの購読紙は「日経新聞」で我が家は「読売新聞」・・、新聞にも「品格」というものがあるとすればやはり前者の方が上だと思うが、家人が大の巨人ファンなので仕方なく現状に合わせている。

「老いては妻に従え」だからね(笑)。

で、「日経」を読みたいばかりにお隣さんに「1日遅れの新聞を交換しましょうよ」と、もちかけてから早いものでもう10年以上にもなる。

「日経」のどこがいいかというと、どこにも偏らない「政治・経済記事」の精確さに加えて「文化芸術面の記事」の充実度にあると個人的には思っている。

とりわけ、政財界、芸術界、スポーツ界などで功成り名を遂げた方々の生涯記ともいえる「私の履歴書」には必ず目を通している。

さすがに各界の一流の方々なので参考になることが多く、そして出自の方も「どこの馬の骨かわからない」という方よりも、由緒ある方のほうが圧倒的に多いように思える。

やっぱり、人間は何やかや言ってみても「遺伝が大きな要素を占めているなあ・・」と、自分とひき較べてみて諦めと悲嘆の境地に達しているのがホンネ(笑)。

そういう中で、去る7月の1か月間はある名門の不動産会社の会長さんが投稿されていたが、経済不況の中で都会の「大プロジェクト」を次から次に押し進める方だった。まさに「行けゆけ、どんどんタイプ」で、ものすごく馬力があって仕事熱心~。


それはそれでたいへん立派なことで、十分尊敬に値する方だと思ったが、読み進むにつれ、「仕事を取ったら何も残らないような人生」にある種の「物足りなさ」を感じるようになった。

言い換えると、サクセス・ストーリーにはもう飽きた・・、失敗談や人付き合い、音楽に熱中したりとか、そういう幅の広いエピソードが欲しいんだけど・・、ちょっと「無いものねだり」なのかな~(笑)。

その点、2~3年ほど前に登場された映画俳優「山崎 努」さんの「私の履歴書」は型破りだった。



己の失敗談を衒うことなくさらけ出して、実に柔らかであっけらかんとした表現で詳らかにされている・・、つまり「政財界に比べて芸能界の方が人間観察にかけては一枚上かな」という印象を持っている次第。

その山崎さんの著作が図書館の新刊コーナーで目についたので喜び勇んで借りてきた。週刊文春の好評連載「私の読書日記」6年分を収録したものだという。



いやあ、実に面白かった。内容はいろんな本を読んで(ものすごい読書量です!)、その感想をエッセイ風に書き記されている。

たとえば54頁にこういうことが述べられている。

「演技する上で大切なのは、危なっかしくやることである。失敗を覚悟で、どうなってしまうかわからないところへ自分を追い込んで行く。それが大事。失敗は正直怖いが、そのリスクを背負わない安全運転的演技などなんの価値もない。

危険を避けるのではなく安全を避けなければならない。実を言うと、演技には失敗も成功もない。失敗だって成立する。問題は、どんなことにこだわり、どれだけ自分を投げ出せたか、ということなのだ。」

どうです・・、これだけでも、とても「一筋縄ではいかない役者」さんというのがわかるでしょう。

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というのか、これは、いろんなことに通じそうですよ~、ほら「演奏」や「オーディオ弄り」だってそうとは思いませんかね・・(笑)。

もう一つ紹介、91頁~。

養老孟司が「養老訓」で「年をとって良かったなと思うことが沢山あります」と言っている。年寄りは上機嫌で生きましょう。

じいさんは笑っていればいいのです、先日亡くなられた河合隼雄(かわいはやお)さんは、いつもニコニコされて駄洒落ばかり言っていました。人の意見を訂正することもなかった」という。

いつも、まず「そうですね」「なるほど」とイエスで受け止め、その上で穏やかに相手の言葉に寄り添うように話し出す。あれは真似ができない。どうしても、思わず「いや」「でも」と返してしまう。

大人(たいじん)と小人、器が違うのだから仕方がないが、とりあえず僕は話した後にニコっと笑顔を付け加えるよう努めている。それが気持ち悪いと言われたりするが。

老人はすべからく「上機嫌」で生きたいものですね!(笑)

そして最後に未練がましいがもう一つ~(327頁)。

赤瀬川源平が「健康半分」の中でこう言っている。

「怪我や病気で落ち込んでも、何か小さな未来の好きなことを先ず思い浮かべる。夜のプロ野球中継を期待したり、夕食はどうもオデンになるらしいぞとか、何か近未来の自分の楽しみを期待する。」

歳をとるとどうしても「頻尿」になる。赤瀬川は町でトイレを見かけたら、「まだ大丈夫」でも「後悔をしないように」必ず用を足すようにしているという。鳥は空を飛ぶために身を軽くしておかないといけない。

だから少しでも溜まると飛行しながら排泄しているらしい。老人は鳥に近づいているのだ、と思っておけばいいそうだ。

同感です!(笑)

そして、最後の最後にもう一つ~(399頁)。

ある老賢人がこんなことを言っていた。「毒」という字には「母」がいるぞ。男の子は母が死んでやっと一人前になるのさ。生きているうちはだめだね。とはいえ、おねしょに付き合ってくれた人の残像が消えて無くなることはない。

以上のとおり興味のある話が満載・・、読書好きの方にはぜひお薦めしたい一冊です!


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暑い、暑い・・、読書三昧

2024年07月29日 | 読書コーナー

今年の夏は近年にない猛暑が続いているような気がする・・、外に出かけるのも億劫なのであとはお決まりの「オーディオ弄り」か「読書」に落ち着く。



図書館の新刊コーナーで本書を見かけたときに、中学時代の同級生に「日下部」(クサカベ)君という野球のうまい子がいたことを思い出した。

そういえば「日下」をなぜ「クサカ」と呼ぶんだろう?

訓読みとか音読みとかは無縁の話で、どう考えても「日下=クサカ」とは読めない。

本書の著者によると、茨城県を中心としたエリアに「草」という地名が異常に多いことに気付く。現地に出かけて「道の駅」のトイレの通路の壁の掲示板に現地の方言として「コサ(日陰地」という言葉が紹介してあった。

「私はこれを目にした瞬間、数十年来の疑問が解けたと思った。コサとクサは音がごく近い。地名に付く草とはコサ(日陰地)のことにほかなるまいと直感した。」

そこを出発点にして「日は二日(ふつか)、三日(みっか)というときのカ、それがクに変わる。下はサガルそれがサカとなり、結局「日下=クサカ」となるのだ。」へ辿り着くという次第。

ほかにも

「鳥居のトリとは境のことである」、「卑弥呼のような女性のことを大市(おおいち)といった」、「国は山に囲まれた土地のことだった」、「山中と中山は同じか、違うか」、「ツマ(妻)の原義は「そば」「へり」である」、「アオ、イヤは葬地を指す言葉であった」、「賽(さい)の河原とはどんなところか」

と、興味のある地名の由来が満載だった。関心を持たれた方はご一読を~。



オーディオ愛好家の中で「寺島靖国」さんを知らない方は「もぐり」と言っていいかもしれないですね。

その寺島さんも御年「84歳」(2024年現在)になられたようで、「オーディオ愛好家は長生きする」の見本のような存在になって欲しい気がする~(笑)。

中身の方は相変わらずオーディオに熱心に勤しんでおられるご様子だが、やはり寄る年波には抗えず、不眠症など体の不調に対する健康対策がかなり盛り込まれている。

本書は、2023年の7月号で惜しくも休刊した「レコード芸術」に5年7か月にわたって連載された原稿を1冊にまとめたもので、その折のタイトルは「クラシックファンのための音のいいJAZZ CD」。

ちなみに、クラシック音楽の退潮は「レコード芸術」の休刊に象徴されると当時思っていたけど、もう歯止めがかからないのじゃないかな~。

「IT」などの「スピード重視」の時代に「悠長なクラシックなんて・・」と敬遠される一方だろう。時代に合わないといえばそれまでだが、実に惜しいこと・・、ただし「いい知恵」は浮かばないけどね(笑)。

本書の46頁に興味のある事柄が記載されていた。

「オーディオはケーブル選びに始まり、ケーブル選びに終わる。これ私の座右の銘です」。アハハ、そう来ましたか。

レベルが高いシステムほどケーブルによる音の変化が「わかりやすい」のも事実である。

おいらも一時ケーブル選びに嵌ったことがあるが、現在は勝手に自分宛てへの卒業証書を発行している。ほら、静岡県の「T」さんに作ってもらった「LANケーブル」・・、何といってもお値段がリーズナブルだし、性能にもまったく不満はない。

ときどきメールをいただく方々の中で「LANケーブルにして良かった!」という方がいらっしゃるぐらいだから、これからも同好の士の中で深く静かに浸透していくことだろう。「T」さん、お忙しくなるだろうけどゴメンね・・(笑)。

最後はこの本。



表紙の裏にこういうことが書かれてあった。

「コカ・コーラとコカイン、フォードとヒトラー、シャネルとナチス・・、あなたの身近にある、世界を代表する9つの有名ブランドの誕生と成長に隠されたその黒い歴史とは。創始者たちの偉大な業績の陰にあった知られざる物語が次々と明らかに」

ざっと、ひととおり目を通してみたが、会社の繫栄と個人の幸福とはあまり関係がないみたいで、いくら栄華を極めてみても、自由な時間に恵まれて好きな趣味に没頭できることに優るものはないという気がしてきましたぞ(笑)。

象徴的な物語が「ウィンチェスター~幽霊への発砲~」だった。

その昔「ウィンチェスター銃”73」(1950年製作)という映画があった。主演は大好きな俳優「ジェイムス・スチュアート」で、何万丁もの銃が製作される中でたまたま命中率が極めて高い銃が出来る、それが1873という番号が付けられたライフル銃。

その名銃が賞品となった大会で、スチュアートが見事に勝ち抜く。その選抜方法がふるっていて、空中に高くトスした硬貨を銃弾で打ち抜くというもの。スチュアートはその硬貨のど真ん中の部分に貼ってあった切手を見事に打ち抜くのだからまさに「神業」だった。

ブログ主が幼少の頃だったが、いまだに鮮明に記憶に残っているくらいだから、よほど強烈な印象だったのだろう。

それはさておき、本書の中のウィンチェスター銃にまつわる話も、巨万の富を築きながらも悲しくて哀れな結末で終わる。

本書には、全編を通して「人間の幸福っていったい何だろう・・」、という問いかけが通奏低音のように流れている気がする。



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色男 金と力は なかりけり

2024年07月26日 | 読書コーナー

「経済学的思考のセンス」(中公新書刊)いう本がある。

                  

著者は大竹文雄氏(大阪大学社会経済研究所教授)だが、序文の終わりに「身近に
ある”さまざまな格差”を経済学で考えてみることで、経済学的思考のセンスを体得していただければ幸い」だとある。 

さて、その身近にある格差にもいろんなものがあるが、日常で一番意識に上るのは「所得の格差」、つまり「お金持ちか、貧乏人か」という区別だろう。

ただ、これは運、不運もたしかにあるが個人の「才能」や「心がけ」、「努力」などもまったく無視するわけにもいかず、多分に因果応報の面もあって
「まあ、しょうがないか」と思うこと無しとしない。

ところが、人間の努力とは一切関係がない単なる生まれついての
「容姿」
による格差がどの程度人生に得失を生じさせるかというのは不条理な面があってなかなか興味深いテーマである。

ということで、本書の14頁に次の小節があった。

☆ 美男美女は本当に得か?」

これの正確な解答を得るためには、昔「美男美女」だった該当者に人生の終末になって、「あなたは美男美女だったおかげで人生を得したと思いますか?」と沢山のアンケートをとって、集計するのがいちばんだろうが、本書では経済学的な視点から
労働市場において「いい就職機会を得るのか」、「より高い賃金を受け取るのか」、「昇進が早いのか」といったことに焦点を絞って考察している。

以下、要約してみると、

残念なことに「美男美女は得か」の
実証研究は日本ではまだなされていないが、
アメリカではこのテーマでの事例がある。(テキサス大学ハマメシュ教授)

それによると「美男美女」は「不器量」な人よりも高い賃金を得ていることが明らかになっており、さらに重役の美男美女度が高いほど企業の実績がいいとあって、むしろ業績がいいからその会社に美男美女の重役がいるという逆の因果関係も確認されている。

ここで一つの疑問が出される
「美人」の定義
である。

「たで食う虫も好き好き」という言葉にもあるように、人によって美の尺度はさまざまなのでそのような主観的なものが、厳密な実証分析に耐えられるものだろうかということと、さらに、そもそも
「美人の経済学的研究」意味があることなのだろうか、ということなのだが、実際には、

 美人が労働市場で得をしているかどうか


〇 得をしているとしたらどういう理由なのか

この2点を明らかにすることは「労働経済学的」にきわめて重要なことだという。

なぜなら、公平かつ機会均等の観点から、生まれつきの容姿の差による所得格差を解消するとしたら、ハーバード大学のバロー教授が提案する「美男美女に税金を課す」「不器量な人間に補助金を交付する」が経済学的に正しい政策となるからだ。

つまり、美男美女は努力なしに生まれつき得をしているので税金を納める必要があるし、不器量な人はもらった補助金で「リクルート整形」をするのも自由だし、うっぷん晴らしに娯楽に使うのも自由となることで社会的な調和が保てるというわけ。

ただし、これは具体的な手段が難しい。たとえば自己申告制にした場合
「美男美女税」「不器量補助金」の申請者数がどの程度になるのか皆目分からないのが難点。「美男美女税負担者証明書」を発行することにすれば大幅税収アップを見込めるかもしれない

かいつまむと以上のような内容で、バロー教授が提案する「美男美女税」には思わず笑ってしまったが、結局「美男美女はほんとうに得なのか?」
正しい考察には経済学的視点以外にも遺伝学、社会学、哲学、心理学、芸術などいろんな分野を総動員することが必要ではないかという気がする。

たとえば、ベートーヴェンは醜男だったそうで生涯にわたって女性にまったくモテずずっと独身を通して子供もいなかったが、それが逆にエネルギーとなって内面的に深~い進化を遂げ、跡継ぎになる子供の存在なんかとは比較にならない程の偉大な作品を次々に後世に遺していった。

現代のクラシック音楽界は彼の作品抜きには考えられないので、ベートーヴェンがもし美男だったとしたら私たちは音楽芸術を今のようには享受できなかったかもしれず、音楽産業にしても随分と縮小したことだろう。これは人類にとって大きな損失ではなかろうか。

また、鎌倉時代の古典「徒然草」(兼好法師)では「素性とか容貌は生まれついてのものだからしようがないけれど、それ以上に大切なのは賢いことであって、学才がないとかえって素性の劣った憎々しい顔の人にやり込められる」という「段」がある。

というわけで、このテーマは大上段に振りかぶってはみたものの「外見よりも内面が大切」という「ありきたりの結論」で終わりにするのが無難のようだ。

アッ、いちばん最後になって「色男 金と力は なかりけり」いう言葉を思い出した! これでまずは ひと安心(笑)。



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裁判の現実と闇の底

2024年07月19日 | 読書コーナー

図書館に行って手当たり次第に本を借りてくるものの、読んでみて面白いという「当たり」の確率はおよそ「1/4」くらい。

また、作家などのプロが薦める本にしても当たりの確率はせいぜい「1/3」ぐらいで百発百中は望むべくもないと はな からあきらめている。

音楽やオーディオにしても「好きな曲目」や「好きな音質」が他人となかなか一致しないのと同じことですね、これは~(笑)。

人間は生まれも育ちも感性だってそれぞれ違う・・そもそも貌だって同じものは無いんだから~。

そういう中、このほど珍しく「当たり!」の本があったので紹介してみよう。

☆ 「無罪を見抜く」~裁判官・木谷 明の生き方~(岩波書店)

                         

「裁判官・木谷 明」氏と言っても大半の方が「Who?」だろうが、囲碁界の名門で知られる「木谷一門」を率いた「木谷 實」氏のご次男と言えば「ほう!」という方もいるかもしれない。

長兄が東大医学部卒、ご本人は東大法学部卒という秀才兄弟である。

「碁は別智」という言葉も聞くが、父親譲りの智能なのだろうか(笑)。


本書の表紙の裏に次のような解説文がある。

「30件に及ぶ無罪判決をすべて確定させたことで知られる元裁判官が自らの人生をふり返る。囲碁棋士の父親の下で育った少年期から、札幌地裁に遭遇した平賀書簡問題、白鳥事件の思い出、最高裁調査官として憲法判例にかかわった日々、裁判官に求められるものは何かまで、すべてを語り尽くした決定版。」

世の中にはいろんな職業が無数にある。「職業に貴賤なし」の戦後教育を受けて育ってきた人間だが、ある程度人生経験を積むとどういうレベルの人たちがどういう仕事をやっているかはおおかた想像がつく。

たとえば世間では政治家、大学教授、医師、高級官僚などの一応“権威ある”とされている職業にしても、一皮めくってみると意外にもそれほど“粒ぞろい”でもなく、人間性も含めて玉石混交の状態にあるといえばちょっと言い過ぎかな~(笑)。

しかし、「裁判官」という職業ばかりは犯罪の当事者にでもならない限り一般人にとっては縁遠い存在であり仕事の内情だってとても窺い知れないし、いわば「孤高の存在」だといえるのではあるまいか。

間違いなく言えることは、「人を裁く」という崇高な使命のもとで最難関の「司法試験」に合格した秀才たちが携わっている職業であり間違っても「過ち」を起こす確率の少ない人たちの集まりだと、ずっと思ってきたわけだが本書によって見事にその幻想が打ち砕かれた。

ありていに言わせてもらうと、

「よくぞ、ここまで裁判所の内情を思う存分に語ってくれたものです。裁判官だって所詮は人の子、法曹の世界も意外と一般の社会的組織と似たようなもんですねえ!」

これが本書を読んでの正直な感想である。


本書は著者が質問に答える形式で構成されている。印象に残った“めぼしい点”を列挙してみよう。

☆ 裁判官のタイプの色分けはどうなっているのですか(289頁:要旨)

これまで多くの裁判官と付き合ってきましたが、私は3分類しています。

一つは「迷信型」です。「捜査官はウソをつかない」「被告人はウソをつく」という考えに凝り固まっているタイプ。これが3割ぐらいいます。

二つ目はその対極で「熟慮断行型」です。「疑わしきは罰せず」の原則に忠実なタイプで大目に見積もって1割いるかいないかです。

三つ目は中間層の「優柔不断・右顧左眄(うこさべん)型」です。「判決」に対する周囲の評価ばかりを気にして決断できないタイプで最後は検事のいうとおりにしてしまう。これが6割くらいです。

☆ 無罪判決についての意義について(290頁)

「無実の人を処罰してはいけない」に尽きます。そのためにはグレーゾーンに当たる人たちを出来るだけ無罪に持っていく方向にしないといけません。また、裁判所は捜査官の増長を防止するために捜査を厳しく批判するべきだと思います。そうしないと捜査自体が良くなりません。

☆ グレーゾーンに該当する被告がたまたま審理に当たる裁判官次第で主張を聞きいれてもらったり、そうでなかったり、不公平だと思いますがその辺はどうお考えですか(291頁)

だからその点が問題なのです。困った問題ですが「熟慮断行型」の裁判官を増やすように努力するしかありません。私は、冤罪は本当に数限りなくある、と思います。私は弁護士として事件を扱うようになってますます痛感しますが「なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ」と怒りたくなる判決が沢山あります。本当に驚いています。「後輩たちよ、君たちはこんな判決をしているのか」と一喝したくなります。刑務所の中には冤罪者が一杯いると思わないといけません。

☆ 死刑制度について先生のお考えを聞かせてください(179頁)

私は今、完全に「死刑廃止論」を言っています。最大の論拠は団藤重光先生(故人:刑法の権威)と同じで、間違ったときに取り返しがつかないということです。「誤審の可能性」はどんな事件にもあります。ほかにも、死刑と無期刑とを区別する絶対的な基準を見つけることは不可能です。被告人にとって、当たった裁判官次第で死刑になったりならなかったりする、それでいいのでしょうか。

また、刑罰の目的というのは、応報と、最終的にはその人を更生させて元の社会に戻す、それで一緒にやっていく、というためにあるのではないでしょうか。死刑の場合は後の方の目的を完全に捨ててしまっています。

本書にはほかにも、裁判官の人事異動の内情などについても記載されており、上役の心証次第であちこちの地方に飛ばされたりして、まるで官僚組織とそっくりなのには驚いた。

最後に、まことに身勝手な個人的意見を言わせてもらおう。

本書の中で印象に残った言葉が「グレーゾーンにある被告人を出来るだけ白の方向で考える」

基本的に「疑わしきは罰せず」になるのだろうが、そもそもグレーゾーンに至ったこと自体が本人の不徳のいたす所であり、はたしてそんな甘っちょろい考えでいいのかという気がする。

証拠がいくら薄弱でも、捜査官の長年によるカンで「こいつはクロだ!」という心証もあながち無視できないのではあるまいか。


したがって「本当は有罪の人間が証拠薄弱のおかげで無罪になる」ことだって十分あり得るわけで、被害者側の心情を考え合わせるとはたして許されることだろうか。

つまり、犯人の罪歴や情況判断次第で「疑わしきは罰せよ」も有りだと思うわけ、そして(実際には)有罪の人間が無罪になるのがいちばん悪い・・、
こんなことを書くと「お前はまったく分かってない!」と、お叱りを受けそうだけど・・(笑)。

さて、皆様のお考えはいかがでしょう・・、この際はっきりと白黒つけましょうや!



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「音響・音楽心理学」と「”は” と ”が”の使い分け」

2024年07月03日 | 読書コーナー

つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆく よしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(兼好法師「徒然草」より序段)

およそ700年前の鎌倉時代に書かれた書物だけど、万物が流転する中で人間の心理(内面)はいっさい変わってないことを思い知らされます。

✰ 「音響・音楽心理学」



「音楽は好きだけど、大がかりなシステムで聴くのは億劫だ」という若者たちの声が聞こえて来そうな気がする。

アパートの間借りやマンション住まいなどの住宅事情もあるのだろうが、魅力あふれるオーディオを楽しむ層が減少していくのはやはり寂しい。

一介の「市井の徒」がそんなご大層なことを心配しても何の役にも立たないけれど、いずれ自宅のSPユニットや真空管などがオークション市場に出回ることになるだろうから、そのときに少しでも活気を帯びていて欲しいと思うのは自分だけだろうか(笑)。

さて、このほど「音響・音楽心理学」に目を通していたら、今どきの「大学生」(平均年齢20歳)182名に対するアンケート調査の結果が記載されていた(P156頁)。

「音楽を毎日聴く」「ときどき聴く」を合わせて83%に上るほど、音楽の人気は高い。

その一方、「利用するオーディオ機器」の割合となるといささか寂しい結果が明らかとなった。

割合の多い順に羅列すると次のとおり。

「コンポ:34%」「カーステレオ:19%」「携帯電話15%」「パソコン:14%」「ウォークマン:11%」「iPod:5%」「その他:2%」と、いった具合。

興味深いのは「カー・・」「携帯・・」「パソコン」で48%とほぼ半分を占めていること。

これらの層をいかに「コンポ」へ引きずり込むかが今後の課題だろう・・、たとえば性能が良くてコスパに優れた「コンポ」をいかに普及させるか。

となると、小口径のフルレンジユニットや低価格でも設計次第では比較的簡単にいい音が出せる真空管アンプの出番でしょうよ、いや我田引水じゃなくて~(笑)。

ただし、若者たちから「なぜそんなにシステムに拘るんですか?」と、問われる可能性が高い。

そこで「システム次第で音楽から受ける感動はかなり違ってきますよ、それにデジタル社会に潤いをもたらす音楽の役割は増えることはあっても減ることはないんだから~」と答えるとしよう。

で、実際に商売気なしに相談できたり、聴く機会があるのがいちばん効果的だと思うけど、昔と違って世話焼きの「ご隠居」さんが減ってしまい、そういう老人と若者の交流の場が少なくなりました。

そういう意味では、2か月前のブログでご紹介させていただいた「田中」さん開設の「音の館」(ブログ:「ボロトレーンの日記」)は実に貴重な存在ですね・・。

✰ 「日々翻訳ざんげ~エンタメ翻訳この40年~」



たいへん興味深く読ませてもらったが、31頁に次のような叙述があったのでご紹介しよう。

「”は”と”が”の問題というのは日本語表現の永遠のテーマのように思うが、その使い分けについては私は次の二つの定義を一番のよりどころにしている。

ひとつは国語学者、大野普先生の有名な定義、未知の主語には”が”つき、既知の主語には”は”がつくというやつ。

<昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました>

という説明を初めて知ったときには軽く感動した。最初のお爺さんとお婆さんはまだ未知の存在だから”が”で、二番目のお爺さんとお婆さんは既に分かっている既知の主語だから”は”になるというわけだ。何とも明快である。

もうひとつは作家の井上ひさし氏の”は”はやさしく提示し、”が”は鋭く提示するというものだ。大作家の感性が光るこれも明解な定義である。

”は”と”が”の使い分けに迷ったときには、この二つの定義を思い出せばだいたい解決できるはずである。

ついでにもうひとつ言っておくと、”は”と”が”の使い分けに迷うのはたいてい言いたいことがハッキリしていないときである。

ということだった。

自分のケースで言わせてもらうと、たかがブログにしろ18年もやっていると、これまで「は」と「が」の使い分けについては「何となく」カンに頼ってきたものの、こうして明解に指針を提示していただくと非常に分かりやすいし、頭の訓練にもなる。

これだから、ブログは(が)止められない(笑)。



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忙しすぎるので時間が2倍欲しい

2024年06月21日 | 読書コーナー

もう毎日 目が回る ほど忙しい。

音楽&オーディオ、ブログの更新、図書館(3か所)への往来、録りためたテレビ番組の視聴、ウォーキング、刻々と返却期限が迫ってくる図書の購読、そして身の回り品の買い物など・・。

優先事項がつけられないほどすべてが大切なので、今よりも倍くらいの時間があると大いに助かるんだけどなあ(笑)。

そういう中で興味を惹かれた本を2冊紹介しよう。

✰ 「歴史を変えた10の薬」


中高年で薬のお世話になっていない人はまずおるまいと思う。かくいう自分もその例に漏れず、血液がサラサラになる薬、血糖値を下げる薬など毎朝4種類ほどの薬を服用している。

とりわけ、血液がサラサラになる薬は心臓にステントを入れているので「1週間服用しないと貴方は死にますよ」と医者から脅されている(笑)。

まあ、薬というのは日頃意識することはあまりないが、身近で生死にかかわる問題だけにいくら知識があってもそれほど邪魔にはならないだろうと、新刊を見かけたらまず借りることにしている。

本書のプロローグに次のような文章があったのでご紹介しよう。

「本書全体にわたって、あなたに伝えたい教訓は次のことだ。

ひたすら いい薬 などというものはない。とにかく悪い薬というものもない。


どの薬もいいところと悪いところがある。別の言い方をすれば効果が高い薬はどれも例外なく危険を及ぼしうる副作用がある。

けれども、この(厳粛な)事実は新しい薬が市販され、熱狂的に迎えられたりすると簡単に忘れ去られてしまう。

大規模な広告キャンペーンに後押しされ、また熱心なマスコミのニュースやレポートで期待が増幅された、市販されたばかりの話題沸騰の新薬はサイゲサイクル(人名に由来)と呼ばれるものに突入する。それは(これまで)幾度も繰り返されている。

つまり、画期的な薬が市販されると、熱烈に迎えられ広く受け入れられる(これが第一段階)。

蜜月期間のあと、数年間、この新たな売り出し中の薬の危険性について数多くのネガティブなニュース記事が続く(第二段階)。昨日まで驚くべき薬だったものが今日は危険だと警告を与えられるのだ。

そして、この段階も過ぎると第三段階に突入する。その薬がほんとうにどういうものなのか、人々は冷静に理解し、バランスの取れた態度を取るようになり、薬は適度な売れ行きになり、薬の神殿の適切な位置に納まる。

そして・・・。(性懲りもなく)製薬会社がつぎの魔法の薬を発売し、前述のサイクルが再び最初から繰り返される。」

とまあ、本書は薬に対して随分醒めた見方をしているが妙に説得力のある話でもある。薬のほんとうの効果は長期間、それも数えきれないほどの人体実験をしないと判明しづらいというわけだ。

そして、現在、大いに注目しているのが「認知症」に利くという「レカネマブ」(エーザイ)・・、画期的な薬だそうだが先日のテレビ番組では「認知症は遺伝するケースが多い」といってた。

13年前に94歳で亡くなった母は88歳ごろから「認知症」になり、その悲惨さを目(ま)の当たりにしてきたので、この薬に対する期待感は大きい・・、しかし、とても88歳まで長生きする自信はないので、うれしさ半分というところかなあ~(笑)。

✰ 「釣りの名著50冊」



本書で紹介されているのは「釣り文学の傑作」ぞろいで、近年、稀に見るほどの感銘を受けた本だった。数多(あまた)の文豪の「釣り随筆」には、人生観も含めて大いに身につまされる。

というのも、若い時分に釣りに熱中していた時期があり「波止の上で死ねたら本望だ」とさえ思っていたほどの凝り性ぶりだった。

では、その中の1冊を紹介しよう。明治期の文豪「幸田露伴」(こうだ ろはん)の娘「文」(あや)が記した「鱸」(スズキ)の名文の一節をぜひ~。

「料理の腕は船頭がふるう。夕陽のなごりが明るく船上での炊事が始まるのである。文豪はいつものように一杯やり始める。そこへ、塩をぶっかけて大雑把に焼いたスズキを節くれだった漁師の手が供す。皿からはみ出す大物だ。

弟は、今しがた自分が釣りあげたばかりの尾頭付きを頬張ってうまいなあと破顔。それに続いて次のような情景描写が続く。

色の白い子が一日で陽に焼けて頬が紅く笑う。それは親の目には浸みつく顔だったようである。ただ愉快とか満足とかだけではなく、浸み入ってくるもののある表情である。

魚を食べてうまいなあと微笑む少年の心には何の翳りもないけれど”少年”というもの自体には美しさのかなしさ、詩の哀しさのようなものがある。

少年の笑顔は親の心の奥底に映像として刻印され、それは単に美しいだけではなくて哀しささえにじませている。

そして、そのすぐ後に突然、次のような文章が立ち上がる。

”父は何度この話をしたろう”・・、あの可愛い少年は結核のために20歳で先立ってしまっていたのである。露伴59歳のときだ。

それからというもの、老後の文豪は娘の文(あや)にこのスズキ釣りの話を何度も何度も語り聞かせるようになったのである。随筆の最後は次のように終わる。

少年の姿が可愛いのか、父親の心が哀しいのか、釣られる魚がいとおしいのか、供をする船頭が辛いのか、水が切ないのか、船が寂しいのか、・・いちばんはっきりわかっていることは、父は息子を可愛がっていてそれに先立たれたということである」

「ものの哀れ」もここに極まれり、でしょうか・・。



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ゆれるマナー~読書コーナー~

2024年06月14日 | 読書コーナー

世の中には「マナー」を軽視する方もいらっしゃるようだが、人間が社会で寄り添って生きていくためには最低限の必要なルールだと思っている。

ただし、はたして正しいマナーが自分に身に付いているかどうかはあまり自信が無いので
、マナー関係の本を見つけるとすぐに借りてくる。



本書には「食のマナー」をはじめ「人付き合い」「身だしなみ」「恥じらい」「季節を感じる」「旅」「自然と格闘する」「命と向き合う」「道なき道を行く」「生活を楽しむ」「もったいない」「気配り上手」「人生いろいろ」など多数の項目に亘って、9人の作家、エイッセイストが述べたもの。

いくつか実例を挙げてみよう。

☆ 登場人物の名前のマナー(216頁)

「先日、テレビ番組で本名が「半沢直樹」だという男性が病院などで名前を呼ばれる際に、周りがざわついて注目を浴びると言っていた。それは大変だろうなと、ちょっと笑ってしまったのだが、実在してもおかしくない登場人物の名前というのは、そうなる可能性を持っている。

そこまでの大ヒット作でなくても、こちらの書き様によって読む人が嫌な思いをするかもしれないパターンもある。物語には、ときにいけ好かない人物も必要だが、その人の名前が偶然にも自分と同じだったらどうだろう。

読んでいる小説の中にあなたと同じ名前の人が出てきたとして、そいつがろくでもない人間で、他人を傷つけることが屁とも思わないというような説明があったとしたら、なんだか嫌な気持ちになるんじゃないだろうか。

物語にも集中できないし、時間とお金を割いているのに損した気分になるかもしれない。そう思うと、たいしてこだわりがあるわけでもない登場人物の名前で読む人を不快にしかねないのは、作家としてはもったいないと思ってしまう。

もちろんそれを回避する方法はある‥、以下~省略」

という内容だったが、これで思いだしたことがある・・、何かの雑誌だったと思うがヨーロッパでの話。

「エマニエル」という名前のご夫人がいたが、病院などで「エマニエル様」と名前を呼ばれる際に、周囲の男性が思わず「ニヤリ」とするのが苦痛で、そのたびに目から火が出るほど恥ずかしい思いをする・・。



そうそう、昔「エマニエル夫人」という「R15」指定の艶っぽい映画がありましたね~、大好評で続編もあったはず~。

主演はたしか「シルヴィア・クリステル」じゃなかったかな・・、たしかに公衆の面前で呼ばれると恥ずかしくなる気持ちわかりますよ~(笑)。

次は・・、

☆ 会計のマナー(98頁)

「ドイツに行って驚いたことのひとつはワイングラスに100CCと200CCの線が必ずといっていいほどついていて、飲食店で飲み物を注文すると、線ピッタリの位置までワインが注がれて出されることだった。同じように、市販の紙コップにもあらかじめ線が記してある。

そう、彼らはキッチリしているのだ。キッチリ、同じ量を平等に提供する。これが彼らの矜持である。適当とか、いい加減は許されない。これがひとたびフランスやイタリアに行くとまったく様子が違ってくるのだから面白い。~中略~

週末ともなればレストランンに集まって家族や友人らが大きなテーブルを囲み、食事を楽しむ。そんな場面にわたしも何度か立ち会ったが、さすがドイツ人と感心するのは、お会計のときだった。

給仕さんは必ず「ツザーメン オーダー ゲトレント?」と聞いてくれる。これは会計をまとめてするのか、それとも別々に払うか?との確認で「ゲトレント」と答えれば、一人一人、自分が頼んだ飲み物と食べ物だけを支払う。

これを知って以来、日本の割り勘システムがどうも馴染めなくなった。お酒を多く飲んだ人の分を、少ししか飲んでいない人が補わなくてはいけない。不公平だ。曖昧さは日本の美徳でもあるけれど、ことお金に関することはキッチリしたいのである。だから、多く飲んだ人は自ら名乗り出て余計に支払い、周りの人のモヤモヤを払拭してほしい。ゲトレントのシステムが早く日本に広がることを願うばかりである」

ということでした。

個人的には「割り勘」システムで「不公平」の気持ちを持ったことはない・・、勘定の中に「その場の雰囲気を共有した」分まで含まれていると思うし、国民の大多数もそう思っているのではなかろうか。

その辺に、とかくキッチリと白黒をつけたがるドイツ人と雰囲気を大切にし、そしてそれに流されがちな日本人の国民性との違いが推し測られますね~。

本書にはほかにも面白いエピソードが縦横無尽に散りばめられていた。興味のある方はぜひご一読を~。



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「関ケ原」と「狼の牙を折れ」

2024年05月30日 | 読書コーナー

        

ミステリーもいいが、やはり「ノン・フィクション」は現実味と迫真性があって捨てがたい面白さがある。

☆ 「関ヶ原」(岡田秀文著、双葉社刊)

日本の歴史を大きく左右した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、司馬遼太郎さんの名作「関ヶ原」をはじめ沢山の著書があって枚挙にいとまがないし、あらゆる史実が公にされているので「今さら関ヶ原?」の感はどうしても拭えないがそういう中であえてこの題材を取り上げた著者の勇気に刮目(かつもく)


「よほどユニークな視点からの“関ヶ原”だろう」と、興味を持って読み進んだが期待にたがわぬ内容だった。

戦場の荒々しさを期待すると完全に裏切られるほどの静かな物語といっていい。

とても大きな事件が起こっているようには感じられないけれど、時勢は確実に「どこか」へ転がっていく。その先は誰にもわからない。今でこそ「東軍が勝利する」と後世の人は分かりきっているが、当時の関係者たちはまったく勝敗の予断が付かなかった。

「戦いは実際にやってみないとどっちに転ぶか分からない。果たして、どちらに組すればいいのか、どういう行動をとればいいのか」、自分の生命はもちろん一族郎党の行く末を案じて当時の武将たちの言動は文字どおり必死で命がけの極限状態だった。

徳川家康(東軍)、石田光成(西軍)、寧〃(ねね、秀吉の正室)、西軍を裏切った小早川秀秋をはじめ当時の関係者たちの切迫した心理がまるで実在する人物のように生き生きと克明に描かれている。

さらに、迷いに迷っても思惑通りに事が運んだ人は結局皆無だったという視点が実に鮮やか~。

結局、思惑がはずれながらも挽回する思慮深さと流れを読むに長けた家康の存在感が全編を通して際だっている。


歴史にイフ(IF)は禁物だが、関ヶ原の戦いほどイフの魅力が横溢する事件はないといっていい。

とにかく、戦国物を読むといつも思うのだが敗者への残酷な仕打ちを見るにつけ つくづく平和な時代に生まれて良かった、どんなことをしても
命までとられることはないからねえ・・

オーディオごときに悩むのがアホらしくなりますなあ~(笑)。


☆ 「狼の牙を折れ」~史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部~(門田隆将、小学館刊)

今から50年前の1974年8月30日に起きた三菱重工本社前(東京丸の内)の爆破事件の記憶は年齢からしておよそ70歳以上の方々にはまだ残っているに違いない。

死者8人、重軽傷者376人もの被害を出した大参事だったが、これは11件にも及ぶ連続企業爆破事件の嚆矢(こうし)に過ぎなかった。

本書はこの犯行声明を出した「東アジア反日武装戦線”狼”」の正体に迫る警視庁公安部の活躍を描いたもの。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるが文字どおりそれを地でいく様な内容で、当時の捜査官が次から次へと実名で登場し、地を這(は)う努力のすえに犯人を追い詰めていく模様が、まさにサスペンスドラマを見ているような迫力がある。

皆目手がかりがつかめない中、声明文の内容を細かく分析することにより思想的な背景が明らかにされ、アイヌ問題などを通じてじわじわと犯人の影が炙り出されるわけだが、その “きっかけ” となったのが「北海道旅行をしていた二人組の若者たちの手荷物(爆弾在中)を何気なく触った旅館の女将が(若者から)ひどく叱られた」という人間臭い出来事だったのも非常に興味深い。

また、手柄を立てた捜査官たちの生い立ちなども詳しく紹介され人物像の彫り込みにも成功している。

貧しい家庭に育ち、大学に行きたかったが家庭の事情でやむなく進学を断念して巡査になったという人たちがほとんどで、「同じ人間に生まれて、どうしてこうも違うのか」という世の中の矛盾を嘆きつつ「親の脛をかじりながら学生運動に身を投じる学生たちが許せない存在」に映るのも仕方がないことだろう。


また、容疑者たちの行動や仲間を把握するためグループに分かれて慎重に尾行を繰り返していたものの、絶対に気付かれていないと思っていた尾行が、逮捕後に犯人たちが(尾行には)全て気付いていたと自供したのもご愛嬌。

そりゃあ、脛に傷を持つ人間が尾行に気が付かない方がおかしいよねえ(笑)。

結局、この事件で逮捕されたのは7人。しかし、その後のダッカ事件などで3人が超法規的措置として海外に逃亡、死刑が確定した2人も、海外逃亡犯の裁判が終了していないとの理由で刑の執行ができないでいる。

そして、半年ほど前のこと指名手配されていた「桐島 聡」容疑者が末期ガンで病院に入院して死亡していたことはまだ記憶に新しいですね。

小さな建設会社に勤めながら 気さくな人物 として市井に溶け込んでいたが、結局は長年の心労がたたったせいで病気になったのだろうか・・、「せめて最後は 桐島 聡として死にたい」と病床で素性を明かしたそうだが、いくら若気の至りだったとはいえ言葉が無いですね・・。



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「教師の質の低下」そして「出世を決めるのは能力か学歴か」

2024年05月24日 | 読書コーナー



「こんなに使える経済学」(大竹文雄編、ちくま新書刊)
   

本書は現実のさまざまな社会経済問題(27本のテーマ)を経済学の視点で一般の人にも分かるような記述方法で紹介したもの。そのうち読者の興味がありそうな2本をピックアップしてみた。

☆ 教師の質はなぜ低下したのか

(個々の先生の中には当然のごとく優秀な方もおられるだろうが、あくまでも一般論ということなので悪しからず。)

公立校の教育レベルが下がり、学力低下を心配した親たちが、子供を私学に入れようとして小、中、高等学校への受験熱が高まるばかりという。

≪都会で進む公立不信≫

こうした私学ブームは特に大都市圏に見られるようで、その背景の一つにあるのは「教師の質の低下」である。

わいせつ、万引きなどの問題教師は論外だが、平均的な教師の(教える)レベルも落ちてきているそうだ。

教師の質の低下は実は米国でも大きな問題になってきた。その原因として経済学者たちが指摘してきたのが1960年代から始まった「労働市場における男女平等の進展」である。

どうして、女性の雇用機会均等が教師の質を低下させるのだろうか?

かっては米国の労働市場でも男女差別が根強く存在し、一般のビジネスの世界では女性は活躍できなかった。このため、学業に優れた大卒女性は教職についた。つまり、学校は男女差別のおかげで優秀な女性を安い賃金で雇用できた。

ところが、男女差別が解消されてくると優秀な女性は教師よりも給与が高い仕事やより魅力的な職種を選べるようになり昔に比べて教師になる人がはるかに少なくなった。

ここで、「男性教師もいるではないか」という反論が出てくるが、教師の採用数が一定だとすれば優秀な女性が集中して教師を希望していた時代よりも、
優秀ではない男性が教師になれるチャンスが広がる結果
となり、レベルの低下は否めないことになる。

そして、もう一つの反論。

「教師になる人は子供を教えたいという情熱を持った人ばかりなので経済的動機ぐらいで志望を変えるはずがない」。


これに対しては、高校時代(教師になりたい人は高校時代の終わりに教職系を志望する)の成績と教師になった人たちの詳細な関連データによって経済学的な検証(省略)が行われ、教師といえども収入や待遇などのインセンティブに基づき選ばれる職業の一つであることが証明される。

この分析が日本においてもそっくり当てはまるという。

日本では小中学校の教師の多くが教員養成系学部の出身者である。これらの学部の難易度を調べれば教師の質が変化してきた原因をおよそ推定できるが、90年代以降全国的に平均偏差値がずっと低下してきている


次に、男女間賃金格差と教員養成系学部の偏差値の相関も高いことがわかった。

つまり地方では現在でも優秀な女性が働ける職場の絶対数が都市部に比べて不足しているので女性教員の質の低下、ひいては全体的な質の低下が少なくて済んでいるが、都市部では女性の雇用機会の改善が急速に進みそのことが教員の質の低下を促進している。

結局、「教師の質の低下」は「労働市場における男女平等」に起因しているとみるのが経済学的思考による一つの解答となる。

さらにもう一つのテーマを挙げてみよう。


☆ 出世を決めるのは能力か学歴か

毎年のごとく春先になると、週刊誌がこぞって出身高校別の難関大学合格者数のリストを掲載する。目を通す人が多いのは、やはり大学受験の成否が人生の一大事だと思うからだろう。

ただ、その一方、「実社会においては学歴や学校歴による能力差がさほどあるわけでもない」ということも、多くの人が日々実感していることではあるまいか。

実際のところ、出身大学によって出世はどのくらい左右されるのだろうか。経済学はこうした問題に対しても科学的なアプローチで解明を進めている。

現状分析~学歴と年収の相関~

アメリカ・テキサスA&M大学の小野浩助教授によるサンプル調査(日本人570人)によると、学歴と年収の相関は次のとおりになっている。

サンプルの平均値である偏差値52の4年制大学の卒業生は高卒に比べて年収が約30%高い。次に偏差値62の大学の卒業生は約42%も高くなっており、明らかに両者に相関関係が認められる。

ここで自然に出てくるのが次の疑問。

高い偏差値の大学を出た人の年収が高いのは、「大学名のブランド」のせいなのか」それとも「教育内容や個人の能力が優れていたおかげで高い実力を身につけたためか」。

この疑問に対して本書では具体的に「東大」を例に挙げて検証が進められた結果、
概ね「官庁は学歴主義、民間は能力主義」が裏づけされる形となった。

最後に、ブログ主の感想を言わせてもらうと個々の人生にとって肝要なのは学歴なんぞに左右されずに「幸せ感に満たされているかどうか」に尽きると思うが、実はこれがなかなか難しい(笑)。

ふと、僧侶の玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんの言葉「幸せと楽の違い」が蘇った。

「幸せ」は「お金」「長寿」「愛情」などに左右され、求めてもきりがない。常に目標が上方修正され「幸せ」を感じ取る暇がない。

一方「楽」というのは「安楽な状態」でわかるように身体状況を伴い、「足るを知る」という感情面での基盤も重要となるので限度がある。

そして、僧侶は年をとるほどに深い「楽」を味わい、最も円熟するのは、死ぬ間際なのだと思考している。

結局、煎じ詰めると「身体の健康と心の健康がいちばん」ってことですか~(笑)。



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夢の正体 そして 趣味を楽しみ尽くす

2024年05月12日 | 読書コーナー

明け方近くになって、ときどき おかしな夢 を見る。

たとえば「クルマで坂道を登っているのに逆に下がり続けてブレーキを踏んでも止まらない」という冷や汗が出るシ~ン、さらには「療養を終えて職場に復帰したところ、見知らぬ顔ばかりで自分の机さえもない」、こうなるとほんとうに心臓に悪い・・(笑)。

「どうしてこんなに重苦しい夢を見るんだろう」というのが長年の疑問だったが、それに終止符を打てそうな本に出会った。



期待しながらざっと一読してみたが、専門家向きの内容みたいでとても歯が立たなかった。

とはいえ、分かったことが一つ。つまり「夢に関してはまだ未解明のことばかり」ということだった。たとえば106頁。

1 脳はどうやって夢を生み出すのか

2 夢にはどんな役割があるのか

3 その役割を果たすために、なぜ夢を見なければならないのか

答えはこうだ。「すべて、わからない」。

終わりに男女を含めて「今まで見たことのある典型夢の順番」というのがあった(182頁)。

1 追いかけられるが無事だった夢

2 性的経験の夢

3 学校/教師/勉強の夢

4 落下する夢

5 遅刻する夢(列車に乗り遅れたなど)

6 生きているはずの人が死んでいる夢

7 落ちる寸前の夢

8 空を飛ぶ、あるいは空高く上昇する夢

9 試験で失敗する夢

10 何度も試みるがうまくいかない夢

これらからおよそ類推できるのは「日頃から抑圧された感情」が元になった夢が多いということで、これで「楽しい夢」が少ないことにも頷けそうだ。

そして、次の本はこれ。



読んでいてとてもご機嫌になれる本で一気読みしてしまった。こういう本は極めて珍しい。


小説家、逢坂剛、80歳。

直木賞をはじめ数々の受賞歴を持ち、小説家として第一線で活躍し続ける一方、フラメンコギター、スペイン語、古書収集、野球、将棋、西部劇などの映画に精通し、多芸・多趣味でも知られる。

ユーモラスで温厚な人柄から、敬意と親しみを込めて「剛爺(ごうじい)」と呼ばれる小説家の<上機嫌生活>指南書。

人生100年時代。仕事も趣味も楽しみ尽くして、日々を機嫌よく過ごすためのヒント満載。

次は目次の一部。

第一章 画家の父、母の早世、二人の兄
~探求心は職人気質の父から、勉強は秀才の長兄から、遊びは多趣味の次兄から学ぶ 

「小説家」の原点は画家の父/母の思い出/六畳一間の男四人暮らし/兄二人から教わったこと/好きなことにお金をつぎ込む癖/ふるさとは神保町

第二章 ハメットと出会った十代、開成での六年間、ギターまみれの大学時代
~自主性を学生生活から、創作姿勢をハメットから、修練の達成感をギターから得る

自主性を学んだ開成時代/「文才があるね」。背中を押した教師のひとこと/ハメットという衝撃/英語が上達したわけ/第三志望の男/法曹界を目指しかけるも……/ギター三昧の大学生活/探求の楽しみを知る

第三章 PRマン時代、スペイン
~第三志望の就職先でも、知恵と工夫で仕事は面白くなる

再び、第三志望の男/楽しみを見出す、つくり出す/趣味道楽こそが本業なのだ/初めてのスペイン、一生の出会い/どんな仕事も面白がる

第四章 二足のわらじ、直木賞受賞、サラリーマンと執筆と
~会社員と小説家の兼業をこなす中、生涯書き続ける決心をする
会社員生活の傍ら、小説執筆を再開/プロの感想を聞きたくて/“兼業作家"としてデビュー/無理なく続いた「二足のわらじ」/自分にとって最適なリズムで/オリジナルをとことん楽しむ

第五章 多彩、多芸、鍛錬と開花、幅広い交友
~好きな街に身を置き、リズムとリフレッシュを交え仕事と長年の趣味に没頭する
日常に、文化の薫りを/永遠のマイブーム/リズムとリフレッシュ/趣味はいつでも見つけられる/愛しの古本コレクション/オーダーメイドの楽しみ/逢坂流・語学上達のこつ/五十を過ぎて、野球チームを結成/いつまでも動ける体を維持する/趣味仲間とディープに交流する

第六章 “終活"より“修活"だ!
~断捨離するより愛着品を楽しみ尽くし、争いごとは遠ざけて、上機嫌で過ごす
好ききらいに忠実に/一番の刺激は、がんばる同世代/終活? まっぴらごめん!/シャープの〈書院〉よ、いつまでも/話術はメモから/不便から学ぼう/DIYの楽しみ/夫婦共通の趣味は食べ歩き/まだまだ捨てたもんじゃないぞ、街中の人情/若き編集者に出した“宿題"/調べずにはいられない!/機嫌よくいる。それが一番/争いごとを引き寄せない/年をとったら兄弟仲よく/一生勉強!(いや、道楽気分)/一度きりの人生、好きなことを

以上のとおりだが、母親の早世、人生の岐路となる大学受験、そして就職試験と失敗を繰り返しながら、いっさいめげずに前向きに取り組む姿勢に感心するし、損得を抜きにして「好きなことに一生懸命打ち込む」ことに大いに共感を覚えた。

「趣味を楽しみ尽くす」まさにそのとおり!

「負けてはおられないぞ」と、勇気百倍!(笑)



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事実は小説よりも奇なり~「死に山」~

2024年05月06日 | 読書コーナー

ようやく今日(6日)で長かった連休も終わりです。

温泉観光地・別府の宿命とはいえ、県外ナンバーの車による渋滞も終わるので営業関係者には申し訳ないが内心ではほっとしています。

で、連休に入る直前のブログ「本のお薦め」(4月27日付)の中で紹介したように、この期間中は家にこもって、日頃にもまして「読書三昧でいこう」と、書いてたのをご記憶でしょうか。



このうち、とりあえず3冊を読了したがいちばん面白かったのは「死に山」だった。ぜひ皆様方にもご一読をお薦めしたいので中身に分け入ってみよう。

本書は「ノンフィクション」である。表紙の副題にあるように「世界一不気味な遭難事故」「ディアトロフ峠事件の真相」とある。

概略はこうである。

「1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム九名(ウラル工科大学在学生)はテントから一キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。

氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。

最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

彼が到達した驚くべき結末とは…!」

どうです! ちょっと興味をそそられませんか・・。

何しろ「全員死亡」しているので、最終的な真相は「憶測」以外の何物でもないが、要は「科学的説明がつくかどうか」の一点に絞られる・・、そして、本書は見事にその着地に成功していると見た。

読者レヴュー(ネット)から一件だけ借用させてもらおう。

「原作タイトルは「dead mountain」。草木が生えていない山という意味。日本語タイトルは売れ行き狙いのひねったタイトル。よくない。

ドキュメンタリーの書き方は素晴らしい。1959年と2012-2013年を一章づつ割り当てて、交互に関連させながら記述していく。冷静な筆致で、そのためにぐいぐいと引き付けられる。日本の本ではこんなきちんとしたノンフィクションはない。実に面白かった。

事件内容
1959年の冬、ウラル工科大学の学生とOBがウラル山脈北部のオトルテン山に登るため出発し、2月1日、ホラチャフリ山(dead mountain)の東斜面でキャンプした。その日の夜、何かが起こり、全員死亡した。

最終的にテントは見つかったが、テントには内側から切り裂かれた跡があり、誰一人、テントにはいなかった。遺体はテントから1.5kmほど離れた場所で見つかったが、それぞれ、ロクに服を着ていなかったし、ほぼ全員が靴を履いていなかった。4人は低体温症、3人は頭蓋骨骨折などの外傷で死亡していた。一人は舌がなくなっていた。一部の衣服からは異常な濃度の放射能が検出された。ディアトロフはリーダーの名前。


様々な仮説
1.マンシ族による攻撃。
事件の起こった頃、マンシ族はそのあたりに居住していなかった。また、ホラチャフリ山には獲物がなく、近寄らなかった。平和な人々で、捜査活動に最初から協力した。この仮説は最初に否定された。

2.雪崩
斜面の傾斜角は16度で、雪崩の起こる確率は非常に少ない。テントは発見された時、立っていたし、この仮説も否定された。

3.強風
一人か二人、外に出た時に吹き飛ばされたので、それを他のメンバーが助けに出た。この仮説ではなぜ全員がテントの外に出たのか、誰も靴を履かなかったのか説明できない。テントを切り裂く必要もない。

4.武装集団
一行の持ち物は後に確認すると、ほとんど何もなくなっていなかった。三人の遺体に激しい損傷があった点は崖(高さ7m)から落ちたことで説明される。舌がなかった点は雪解け水による腐敗現象と思われる。

5.兵器実験
同時期に「光球」が目撃されている。これは2月初めという証言だったが、2月17日と推定されるので、この仮説は否定される。

6.放射線関連の実験
衣服についていた放射能は異常というレベルではなかった。冬の核実験でウラル山脈に到達したことも考えられる。この仮説も否定された。
最後に謎を解くのは、NOAAの気象科学の専門家である。今はポピュラーな現象だが、この当時は知られていなかった。これ以上、書くと良くないので、これで終了。

以上のとおり、簡にして要を得たレヴューです! これでわざわざ本書を読まなくても内容を把握できたことでしょう。

で、問題は最終的な真相(科学的な仮説)をここで明らかにするかどうか・・、ハムレットみたいに悩みますな~(笑)。

そして、これは日頃の個人的な思いだが、他人のブログを読んでいて いちばん腹が立つ のは「肝心なことは明らかにせずに、もったいぶった書き方」をしていることに尽きる!

したがって、このブログもこの轍(てつ=わだち)を踏むわけにはいかないでしょうよ(笑)。

したがって、真相を明らかにしておくことに決めた。

ただし、もし本書を読みたいという方がいらっしゃるのであれば、ここから先は読み進まないようにね~(笑)。

で、その真相とは・・。

何よりもテントの設置場所が悪かった。冬のウラル山脈は想像を絶するほどの強風が吹きつける。周囲の地形(小高い二つの山に囲まれていた)により、何と「超低周波音」が発生し、それがテントにも盛大に押し寄せた。

恐怖に捕らわれた学生たちは取るのもとりあえず、全員が真っ暗闇の雪原にほとばしり出た。そして、あるものは道に迷って雪原の中に埋まり、あるものは崖から落ちて重傷を負った。そして全員が死亡した・・。

というのが、本書による種明かしだった。個人的には納得です。それ以外に科学的な説明はつかないと思う。

周知のとおり、人間の耳の可聴周波数帯域は「20~2万ヘルツ」である。

20ヘルツ以下の「超低周波音」・・、低音の「お化け」ですぞ! 聴いたことはないがやはり不気味ですねえ。

オーディオシステムにも むやみやたら に低音を求めると精神に異常をきたす恐れがあるのでどうかご用心を~(笑)。



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本のお薦め

2024年04月27日 | 読書コーナー

さあ、今日(27日)から胸躍るゴールデンウィークです。とはいえ、ブログ主は 毎日が日曜日 の人間なので、普段と変わりなしですが(笑)。

むしろ、温泉観光地なので県外からどっと観光客が押し寄せてきて、道路が渋滞するのでかえって迷惑・・、そこで、期間中は 読書三昧 で行くことにしました。

さて、ミステリー作家「宮部みゆき」さんは「蒲生邸事件」を読んでからずっと気になっている存在。

その宮部さんが「読売新聞」日曜版(2015~2019)
に連載されていた「お薦め本」をまとめた「中公新書」がこれ。



ブログ主が ぜひ読んでみたい と思った本をメモしてみた。

☆「闇からの贈り物 上下~あっぱれ!新米女性刑事」(ジャンバンコ)

発端は幼い子供を含めた一家4人惨殺というショッキングな事件。しかも捜査が始まるとすぐに不穏な事実が判明する。被害者家族の夫と現場に残された物証から浮上した第一容疑者と彼の雇った弁護士は過去の未解決事三少年誘拐事件の被害者とその遺族だったのだ・・。主人公の女性刑事の人物造形が素晴らしい!

といった調子。

☆ 「音と身体のふしぎな関係」(ホロウィッツ)

「耳とは何かを考えてみよう。耳は分子の圧力変化を感知する器官だ。私たちは耳が音楽や車のクラクションを聞くことを想像しがちだが、耳が真に 気づいている のは振動である」~中略~

たとえば、映画「ジョーズ」のあまりにも有名なメインテーマ。あの低音の心拍のような曲が流れると、映画の内容を知らない人でさえ何か不穏なものが現れそうだと感じるのはなぜだろう。それはね、あの曲が よりにもよってチューバで演奏されるからなのです。

チューバは非常に低い音を出せる楽器で、生体力学的進化論ではより低い音はより大きな音を意味する。生物が つがい の相手を探す場合は大きな声を出せる個体は好ましい対象になる、ただしそれ以外の場合では大きくて低い声を出す動物は、貴方より大きな 何ものか であって、だからあのテーマ曲を聴くと、私たちは本能的な警戒感を喚起されるのだ・・。

ブログ主から

より深い低音の持ち主は女性にもてそうですね・・(笑)、さらにオーディオシステムでも本格的な低音を出そうと思ったら、スピーカー(ユニット+箱)がどうしても大きくなりますよね。他家でも本格的な低音を聴かされると、まず「恐怖心or警戒心」が先に立ちます・・(笑)。

ほかにも、本書には読んでみたい本がたくさん紹介してあって、昨日(26日)図書館に行って「在庫」分を借りてきました。



そして、もう一冊紹介・・。

☆ 「大楽必易(たいがくひつい)~わたくしの 伊福部 昭 伝~」



「大楽必易 大礼必簡(たいがくひつい たいれいひっかん)」とは,中国の古典『礼記(らいき)』の言葉で、「すぐれた音楽がわかりやすいものであるように、すぐれた礼儀は簡素なものである」という意味です。これを常に自身の戒めとしていたのが 伊福部 昭(いふくべ あきら) という作曲家です。」

音楽評論家にして慶応大学教授の「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏の、これは たいへんな労作 だと思う。

作曲家「伊福部 昭」(いふくべ あきら:北海道)といえば、何といっても往年の名画「ゴジラ」のテーマ音楽で知られている。

ほら、中高年にとって「ジャジャジャッ、ジャジャンッ・・」と畳みかけてくるような音楽を聴くだけで、途方もない大きな怪獣が現れてくるような予感に襲われます、そうまるで「ジョーズ」のような・・(笑)。

本書は片山氏が若いころから謦咳(けいがい)に接された伊福部氏の音楽家としての生涯に言及したものだった。

音楽好きにとっては興味ある事項が満載。

たとえば・・

「バルトークの近代的自意識は鼻持ちならない、ストラヴィンスキーにはそれがない、そこがいい、バルトークの嫌いな人間はストラヴィンスキーが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」(伊福部氏 談)

といった調子~。

で、調子に乗ってブログ主から・・、

「バッハの線香臭さは鼻持ちならない、モーツァルトはそれがない、そこがいい、バッハの嫌いな人間はモーツァルトが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」 アハハ・・。

著者は「あとがき」の中で、伊福部氏をモーツァルトに比肩しうる作曲家として礼賛されている、だがしかし・・、冷静に見てどうなんだろう?

代表作とされる「シンフォニア・タプカーラ」「日本狂詩曲」を「You Tube」で聴いてみたが、どうも「?」だった。

己の感性が貧弱なのかもしれないが、何だか「映画音楽」っぽいなあ・・(笑)。

ふと「コルンゴルト」(1897~1957)という作曲家を思い出した。オペラ「死の都」のアリア「マリエッタの歌」は絶品だと思うが、幼少のころからモーツァルトの再来と謳われたものの、大戦後に生活のため映画音楽に手を出してから次第に評価が下がっていった。

作曲するときに映像に縛られてしまう癖がつくと、(作曲に)必要なイメージを湧き起こす才能が枯渇していくのではあるまいか。

本格的な 音楽の創造 を目指そうとするなら、作曲家は(映像付きの)「映画音楽」とは共存出来ないと思うのだが、どうなんだろう・・。

「眼と耳の優先順位」にも関わってくる問題だが、広くご意見を求めたいと思います~(笑)。



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