「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

番組視聴コーナー~文豪ヘミングウェイの初恋~

2007年02月28日 | 番組視聴コーナー

「初恋の想い出は、ちょっぴりほろ苦くて、せつなくて、時間の風化とともにひっそりと自分の胸だけにしまっておくもの」と世の中の相場がだいたい決まっている。

ところが、その初恋の相手がこともあろうにその成り行きを詳細に日記にしたためていて、後世になって白日の下にさらされ研究家から鵜の目鷹の目で詮索されたとしたら・・・。

他人の初恋の顛末はそっとしておけばいいのにという反面、あの文豪(ノーベル文学賞受賞)の作品にどういう影響を及ぼしたのかという興味も大いに湧いてくる。

2月25日NHKBSハイビジョン「坊やの初恋~ヘミングウェイと看護婦アグネス」はそういう番組だった。

番組のテーマは次のとおり。

1 ヘミングウェイの秘められた初恋

2ヘミングウェイが描く恋愛が悲劇で終わるのは?

3 トラウマになった初恋に注目

4 ヘミングウェイの恋愛観に迫る

当時19歳でジャーナリスト志望のヘミングウェイ(1899~1961)は戦争の現場に立ちたい思いから赤十字要員に志願し、第一次世界大戦のイタリア戦線に参加、足に負傷を受けてミラノの赤十字病院に入院する。そこで出会ったのが7歳年上の看護婦アグネスだった。

以後の経過は彼女の日記によって詳細な進行が明らかにされる(1985年公表)のだが、結局この恋愛は実を結ばずアグネスからの一方的な破棄で終わりを迎える。

7歳という年齢の差が最後まで障害になったようで、ヘミングウェイはショックのあまり1週間も床についたままだった(実姉の証言)とのこと。

アグネスの魅力は美、勇気、献身だったようだがこの激しくてひたむきな初恋に破れた悲惨な経験と深い傷が、大きな不信感を生じさせ、その後の彼の人生と文学に決定的な影響を与えた。

通常の初恋の破綻とはやや様相を異にするようで、それだけ作家としての資質と感性が成せる業だったのだろうが、以後、友人や妻(4度の結婚)との関係を常に自分の方から終わらせるなど、彼女から受けた屈辱が終生のトラウマとなった。

研究家によると、子供の恋愛ごっこと揶揄された彼女を見返すために、自分に何が出来るのかと発奮し、10年後に不朽の名作
「武器よさらば」(1929年)を書き上げてアグネスに見せつけたとのこと。

アグネスとの実体験をモデルにしたこの作品は、ヘミングウェイ文学の原点ともいわれているが、最後は死産に伴う看護婦の死によって、救いようのない悲劇となり結末を迎えているが(終末2頁に亘る寂寥感は最高!)、研究家の間では作品の背景を知る上で現実の恋愛がどこまで進んでいたかが長い間議論の的になってきた。

ヘミングウェイの熱心な研究家は世界中で何と27か国650人(ヘミングウェイ協会)もいるとのことだが、二通りの意見が紹介されていた。

恋愛成就説

日中の病院の中では無理だが彼女には夜勤があったので愛し合えただろう。彼女の日記には”あの晩あなたはとても素敵だった”との記述がある。つまり小説どおりというわけ。

恋愛成就否定説

当時、看護婦は患者とそういう関係になれば即解雇となる厳しい規則だった。また、イタリアはカトリックの国であり現実には無理ではないか。小説の中身の方は作家が想像を膨らませた結果だろう。

初恋の破綻後、アグネスと二度と会うことのなかったヘミングウェイは1961年61歳で猟銃自殺(父親も過去拳銃自殺)を遂げたが、死の前日寝床に着くときアグネスとの恋愛中に覚えた愛の歌を口ずさんでいたという。最後まで初恋のイメージを追っていたのかもしれない。

なお、「武器よさらば」の映画は以前ロック・ハドソン主演のものを観たが、ゲーリー・クーパー主演(1932年)のものがあるとは知らなかった。

                      
          当時のヘミングウェイ            初恋の人アグネス





 

 


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魔笛視聴コーナー~CDの部~♯3

2007年02月27日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

CD番号   WLCD 0084(2枚組)
収録年    1954年

評価(A+、A-、B+、B-、C、の5段階評価)

総  合    B+    極めて上質の魔笛だが語り形式が大きなマイナス点   

指揮者     B+    
ヨーゼフ・カイルベルト(1908~1968)

管弦楽団   B+    WESTDEUTSCHEN RUNDFUNKS

合唱団     B+    同  上

ザラストロ   A+     ヨーゼフ・グラインドル

夜の女王    A-     ヴィルマ・リップ

タミーノ     A-     ルドルフ・ショック

パミーナ    A+     テレサ・シュティヒ=ランダル

パパゲーノ   A-     エリッヒ・クンツ

音   質    B-   (モノラル:台詞なし)

”聴きどころ”

”名花”ランダルのパミーナ役は唯一この盤だけ。
第一幕パミーナとパパゲーノの二重唱「恋を知るほどの殿方には」
第二幕パミーナのアリア「愛の喜びは露と消え」
第二幕ザラストロのアリア「この聖なる殿堂には」

私   見

指揮者カイルベルトは南ドイツ出身でカラヤンと同じ年の1908年に生まれ42歳でハンブルグフィルの主席指揮者に就任している。1965年に初めてNHK交響楽団を指揮しており、その後も密接な関係を保ちながら同楽団の名誉指揮者になっている。通常、指揮者は長寿が多いが、惜しいことに公演中のさなかに60歳で急逝している。

音質の方はCDのジャケットに2005年・24BIT/96KHZのリマスタリングと記載してありスッキリした音質のモノラル録音で聴きやすかったが、奥行き感はそれほど感じられない。

さて肝心の演奏だが、台詞のかわりに幕間に語りが入る珍しい魔笛だった。あの1987年のアーノンク-ル盤と同様である。耳慣れた旋律を期待しているときに、いきなり語りが入るという具合で、どうも音楽の流れが途切れてしまう。慣れないせいもあって最後まで違和感を持ってしまった。

制作当時の歌芝居を意識しているのだろうがこれはどうもいただけない。台詞からアリアや重唱に移っていくときのあのテンポやリズム感が失くなるのはオペラでは致命傷に近いと思う。

歌手の配役は全て一流の印象で、粒がそろっており、しかも実力をフルに発揮している印象。主役のタミーノ役は始めて聞く名前で、後にも先にもこの1回だけの出演だが、どこに出ても立派に通用する歌唱力でこれで十分。

パミーナ役のランダルはトスカニーニが「世紀の発見」と言って見出した歌手で名ソプラノ歌手。あらゆる魔笛の中でこの盤限りの出演なので希少価値は大きい。
夜の女王役リップも5回にわたる出演の中ではこの盤が最上の出来だと思う。

とにかくアリアや重唱、合唱を独立したパートとして聴く分には、いずれも素晴らしい上質の出来栄えで何ら不足はない。

演奏も奇を衒ったところがなく、叙情味もある魔笛。第2幕に入ってやや密度が落ちてくる気もするが語り形式でなければA-以上の資格十分あり。

                                   



 


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読書コーナー~ダ・ヴィンチ・コード~

2007年02月26日 | 読書コーナー

「お父さん、ここ数年で一番面白いミステリーだったから読んでみて」といって今年の正月に娘から手渡されたのが、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」。何でも綾辻行人の「時計館の殺人」以来の面白さとのこと。

世界中の大ベストセラーなので、今更という気もあるし、何せその分厚さに気後れして読むのがつい億劫になってしまい部屋の片隅に置いたままにしていたのだが、ようやく気候も良くなり日向ぼっこでもしながらと気分が乗ってきたので読み始めてみた。

冒頭の部分からしばらくはストーりーの展開が何が何だかよく分からず、やや退屈だがしばらく我慢していると主人公2人が逃避行を始めるところから俄然面白くなってきてもう止まらない。

なにしろ、食べること大好きの自分だが、「ご飯よ~」という食事の催促がうるさく感じるほどで、二日掛かりで楽しみながら読み終えた。

推理小説紹介のマナーとして筋やトリックについての話はご法度だがキリストに妻がいて子供までいたという話が核となっており、仏教徒にとっては新鮮で耳新しい話ばかり。しかし、聖職者の異性問題は古今東西不変の興味あるテーマなのだろう。

カトリック教会では古来、信仰上の問題からキリストに妻がいたことをタブーとし厳重に隠蔽し封印してきたことに対して、真実を追究する芸術家が「隠された女性を探し出して顕にする」というテーマのもとにあえて自分の作品の中で暗示しようと試みているとされている。

レオナルド・ダ・ヴィンチがその最たるものだがそれは、モーツァルトの音楽にも現れているとされ、オペラ「魔笛」が例として上げられていた。

確かにこのオペラでは「誘拐された王女を王子が助けに行く」ことがストーリーの中心となっているので、成る程そういう暗示も考えられるのかと一つ知識が増えた。

筋立ての展開もあまりウソらしさが少くごく自然な成り行きで筆者の筆力を感じるし、キリスト教に対する深い研究が裏づけになっているので、結構知的な世界にも浸れる。

最後の方でややドタバタしすぎる感がありエンディングもやや甘いが、やはりこれはとても上質なミステリーである。まだご覧になっていない方は一度読んでおいても損はしない作品。


                       









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魔笛視聴コーナー~CDの部~♯2

2007年02月25日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

CD番号    EMI 7243 5671652 0(2枚組)
収録年     1950年

評価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総   合   A-   情感に満ち溢れたデルモータの世界を満喫

指揮者     A-   ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)

管弦楽団   A-   ウィーンフィルハーモニー

合唱団     A-   ウィーン国立歌劇場合唱団

ザラストロ   A-   ルードヴィッヒ・ウェーバー

夜の女王   B+   ウィルマ・リップ

タミーノ     A+   アントン・デルモータ

パミーナ    A-   イルムガルト・ゼーフリート

パパゲーノ   A-   
エリッヒ・クンツ

音   質    B-  (モノラル:台詞なし)

私   見

”聴きどころ”
リリック(抒情的)テノールの代表選手アントン・デルモータの一人舞台。
第一幕タミーノのアリア「何という美しい絵姿」
第二幕タミーノとパミーナの二重唱「おお何という幸福」

カラヤンは魔笛を全部で5回(スタジオ録音2回、ライブ3回)録音しているが、これは最初の魔笛である。指揮者として既に頭角を現した時期でライヴァル視されたフルトヴェングラーから度々イヤがらせを受けている時代だ。(「指揮台の神々」から)

後の時代との違いをいえば指揮者もオーケストラも随分控えめにしていて、歌手達の自主性を重んじて存分に歌わせている印象を受けた。

歌手陣だが全編に亘ってタミーノ役デルモータの歌唱力が際立っていて力感、情感いずれも申し分なかった。このオペラの主役として十分な存在感を発揮している。

夜の女王役は声質によって重量級と軽量級に区分できるが、リップは軽量級の最たるものだが、肝心の超高音のハイFは相変わらずやや余裕がない。

パミーナ役のゼーフリートはフルトヴェングラー盤に1949年、1951年に出演しておりこの盤を含めて3年連続ということで、当時ソプラノの第一人者だったことが伺える。事実、当時あのシュワルツコップとウィーンの人気を二分した大スターだったという。(
「アマデウスの使徒たち」野崎正俊著)。清純、可憐の一言に尽きるだろう。

パパゲーノ役も本能の赴くままに行動する自由人のイメージにピッタリの表現。
ザラストロ役も水準以上の出来栄え。

全編を通して歌手たちのひたむきさが伝わってきて熱の入った魔笛というところだろう。
   
                    

 











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魔笛視聴コーナー~CDの部~♯1

2007年02月23日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

C D 番 号             CACD5.00178F(2枚組)
収  録  年           1937年/1938年

評価
(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総合      B-  平和でのどか過ぎるメルヘン風の魔笛      

指揮者     B+  トーマス・ビーチャム(1879~1961)

管弦楽団   A-   ベルリンフィルハーモニー

合唱団     A-   Favres Soristen Vereigung

ザラストロ   B-   ウィルヘルム・シュトリーンツ

夜の女王    A-   エルナ・ベルガー

タミーノ     A+   ヘルゲ・ロスヴェンゲ

パミーナ    A-    ティアナ・レムニッツ

パパゲーノ   A+   
ゲルハルド・ヒュッシュ

音質       B-  (モノラル:台詞なし) 

私  見

1937年の収録だから、トスカニーニのライブ盤と同年の収録になる。この二大巨匠の魔笛は当時大いに話題を呼んだに違いないが、どのように評価され優劣をつけられていたのか興味深い。

個人的な感想だが、この魔笛に限ってはビーチャムはトスカニーニの域に達していないと思った。

音質は、スタジオ録音だけに雑音はそれほど目立たないし、70年前の録音にしては随分いい。やや感度が低いので、相当ボリュームを上げる必要があるが十分鑑賞の対象になる。

次に歌手陣だが、タミーノ役のロスヴェンゲがトスカニーニ盤に続いて起用されている。さすがに両指揮者とも大事なポイントをしっかり押さえている。ロスヴェンゲはここでは迫力よりもやや余裕を持って情感たっぷりの表現に徹しており、これはこれで悪くない。

ザラストロ役にやや不安定感を感じるが全体的に粒がそろっていて、歌手陣に不足はない。

ただし総合的には、平和でのどかな魔笛という印象が強すぎてやや物足りなさを感じた。波乱、葛藤、緊張などのピンと張り詰めたものが音楽の中にもっと伝わってきてもいいような気がする。

魔笛は指揮者の解釈によってメルヘン風、風刺劇、教訓劇、SF風、喜劇、宗教劇、恋愛劇など様々に色分けされるが、この盤は強いて言えばメルヘン風に偏り過ぎということになろうか。これはこれで悪くはないのだが・・。

                   



                     











 


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魔笛談義~魔笛の由来~

2007年02月22日 | オーディオ談義

モーツァルトのオペラ魔笛のあらすじや台本の不備については今日までいろいろと数多くの非難、論評がなされている。あの美しい音楽と台本とのアンバランスがついつい目立ってしまうのだろう。

いわく「善玉と悪玉が途中で逆転してしまう」「筋書きが途中から変更された」とか、「信じ難い展開ばかりが続く支離滅裂な台本だ」という類の話である。

しかし、「このオペラの台本をよく読めばそういうことはない」とその辺の疑問を明快に解いているのが
「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏)だ。

まず、「このオペラは何故「魔笛」と名付けられているのか」への答えを要約してみよう。

このオペラの中で魔法の笛はたしかに重要な小道具になっているが、この笛をめぐって話が展開するほどには重要な存在ではない、それなのに何故、標題が魔笛となっているのか、魔笛に親しむ人なら誰もが抱く疑問だろう。

ところが、この問いを台本の中に探ってみると、このオペラ全体の構成が実にくっきりと浮かび上がって見えてくるのだ。段階的に追ってみよう。

第一ステップ(魔法の笛の由来)

第二幕第二十八場「火と水の試練」でパミーナ(王女役)はタミーノ(王子役)に向かって言う。「この笛こそ
私の父が・・・千古のカシワの樹の幹の奥の奥から刻んだ笛・・」。実はここに出てくる「私の父」を解明することこそが魔笛の台本の矛盾を解くになるのである。

第二ステップ(「パミーナの父」であり「夜の女王の夫」とは一体何者なのか)

この父であり夫である人物は、このオペラに姿を現すことはないが、第二幕第八場で夜の女王が娘のパミーナに短剣を渡すときの十数行の科白の中にその死の前後の経緯が語られる。しかし、その
肝心の部分がかなり長い台詞で語られるためか、ほとんどの上演でカットされてしまうのが筋が分からないという大きな混乱のもとになっている。

第三ステップ(そのカットされた十数行の科白の全容)

「かって太陽世界を支配していた偉大な王は、妻(というよりはむしろ女性)を信頼せず、死ぬ間際に太陽の世界とそれに伴う力とを神々に仕えるザラストロ達に譲ってしまう。(ただし、それ以外の宝物は
形見となる魔法の笛
を含めて母娘に与えた。)

しかし、妻たる夜の女王は王の真意を解せず不当な辱めを受けたとして怒りに燃える。ザラストロは無垢な少女パミーナ姫をこの母のもとに置くことに危惧の念を抱き彼女を己のもとへ連れ去ってしまう。

自分の無力を知る夜の女王は、そこで王子タミーノの力で娘を、ひいては太陽世界を奪い返そうと計る」

たしかに、以上の科白の全容で台本や筋書きに関するいろんな矛盾が大筋で氷解する。少なくとも「善玉と悪玉の逆転説」はありえないのである。

このように魔法の笛の由来をたどっていくと全体のつじつまが合う仕組みになっているので、結局、魔笛という題名は伊達ではなかった。

ただし、余談だがこのおとぎ話のようなオペラに魔笛という堅苦しい題名は似つかわしくないという意見も一部にはあるようだ。

以上、縷々魔笛という題名の由来をたどったが自分の本音を言うと台本の辻褄が合わなくても少しも構わないと思っている。むしろ、破天荒さ、支離滅裂さがあったほうが、いかようにも解釈できて夢や幻のような魔笛の世界にマッチしており、そのメリットの方が大きいのではないかとさえ思っている。要は音楽が美しければそれで十分。

また、台本の解釈によってさまざまな魅力が存在する魔笛はまるで指揮者の力量を示す見本市
の観があって面白い。

                        




 

 


 


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魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~まとめ

2007年02月21日 | 魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~

1937年のトスカニーニ盤から1974年のカラヤン盤までCDライブ盤9セットの魔笛を視聴したのでまとめてみる。

今回の視聴を通じて、改めて演奏の優れた出来の良いライブ盤は録音の良し悪しに関係なくスタジオ録音盤とはまた違った良さがあるという思いを新たにした。ライブは演奏者の裸の実力と感情がストレートに伝わってくるところに大きな利点がある。

ライブの王様フルトヴェングラーは
「スタジオ録音は技術的な問題が優先するために音楽作品の直接性を実際に表現することは出来ない」と言っている。

また、視聴にあたって録音がいいのに越したことはないが、その良し悪しに関係なく作品の持つ音楽性は必ずしも損なわれないことも改めて考えさせられた。

このことはオーディオ装置は、むしろ音質が悪ければ悪いほど良質の装置が必要であるという考えにつながった。

どういうことかというと、装置によっては演奏部分と雑音とが渾然一体となって聞こえてくるのもあるが、逆に演奏部分と機械的な雑音とを分離させて聴きやすくしてくれる装置もある。

要は装置のもつ音の解像度(各楽器の音や人の声が綺麗に分離して音色や演奏位置をそれらしく聞かせる能力)の問題になってくる。

したがって音質の悪い盤を再生するときほど、オーディオ装置の力量が試され、良い装置が必要になる。

終わりに、CDライブ盤の優秀盤を上げておこう。

トスカニーニ盤フルトヴェングラー盤(1951年)
の往年のマエストロの2セットはたしかに音質は良くないが演奏の方は手持ちの全43セットの中でも屈指の存在だと思った。

特にトスカニーニ盤は音質は一番悪いが逆に演奏の方は一番ではなかろうか。ままならないものだが、不思議なことに録音は悪くても演奏の良さが十分聴き取れた。

とにかく、70年の時空を越えてこれほどの魔笛はなかなか存在しないというのもいろいろと考えさせられる。

またヨッフム盤もこれらに劣らぬ名盤でこれは録音も比較的いいので万人向きだ。ライブ盤は以上の3セットに尽きると思う。とにかくスタジオ録音では味わえない世界だった。

なお、その後の調査で未入手のライブ盤として次の盤が存在していることが分った。

ワルター1942、ワルター1949、クレンペラー1949、ショルティ1955、コズマ1958、ビーチャム1958、カラヤン1962、ケルテス1964、以上8セット。(レコード盤も含む)

この中では特にワルターの1942年、1949年の2セット、それにケルテス盤は是非聴いてみたい。

              
                CDライブ盤9セット

 





 


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愛聴盤紹介コーナー~ピアノ協奏曲13番~

2007年02月20日 | 愛聴盤紹介コーナー

CD番号      469820-2(8枚組セットのうちの1枚)
レーベル      ドイツ・グラモフォン
指揮者       コード ガーベン
管弦楽団     北ドイツ放送交響楽団
曲目        モーツァアルト・ピアノ協奏曲13番(K.415)
演奏者       アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
           (イタリア:1920~1995) 

モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲あるが、通説では、大きな飛躍を遂げたハ短調の20番を境にしてそれ以降の作品と19番以下とでは質的に大きな開きがあるといわれている。

じぶんも、これまで20番以降は随分愛聴してきたが、19番以下は全くといっていいほどのノーマークで、手持ちではアシュケナージの弾いた18番、19番を持っている程度だった。

ところが、通説とはまことに当てにならないもので、つい最近13番を付随的に手に入れて聴いてみたが思わぬ収穫だった。実に叙情味があって20番以降と遜色がないほど美しい。特に第2楽章は、詩情味溢れる世界が繰り広げられる。

この13番はK.415で、あの名曲の誉れ高い「フルートとハープの協奏曲」はK.299であり、単純に年代順とモーツァルトの成熟度との比例度からいえば、この13番が名曲であっても少しも不思議はないのだが、どうやらこの「13」という比較的若い番号に幻惑されていたようで、やはり、モーツァルトの音楽に先入観は禁物だった。

ただし、どんなに名曲でもピアニストによってこうはいかないことは明らかで、ピアニストのミケランジェリだからこそ可能に出来た表現の世界だと思う。

ミケランジェリはあのホロヴィッツやリヒテルに並び称される大ピアニストだがミスタッチが非常に少ないことでも有名で、ライブでもその真価が十分に発揮される。

この録音もライブだが、それが実に功を奏しており観衆との一体感の中で生命感が吹き込まれたようなみずみずしいピアノの音がホールトーンの中で実にきれいに流れていく、特にピアニッシモの美しさは格別だった。オーケストラもピッタリ寄り添うようで息が実にピッタリ合っている。

ミケランジェリの魅力については「ピアニストが見たピアニスト」(青柳いずみこ:白水社)に詳しく記載されているが「楽器に何か細工をしているようなこの世ならぬ神秘の響き」の秘密は「ドからソまで届く巨大な左手と並外れた聴覚のなせる技」とある。

とにかくピアノという楽器の表現力には今更ながら魅了され、やはり楽器の王様であるとの感を深くした。

ところで、ピアノの場合は演奏家とピアノと調律師は三位一体の関係にあるといわれているが、ミケランジェリの調律は一時期日本人の村上輝久氏があたっていた。ミケランジェリとの出会いから彼の演奏旅行に同行していく経緯は「いい音ってなんだろう」(刊行:2001年、(株)ショパン)に詳しい。

67年のドイツの新聞紙上で「全てのピアノをストラディバリウスに変える東洋の魔術師」とも報じられるほどで、ミケランジェリ以外にもリヒテル、ギレリスといった錚々たる巨匠に重宝され、まつわる裏話も面白い。 

                 


 


 


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魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~♯9

2007年02月19日 | 魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~

CD番号       BMW 1000/2(3枚組)
収録年        1974年

評    価(A+、A-、B、C、Dの5段階評価)

総合      

指揮者     B     ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)

管弦楽団    A-   ウィーン・フィルハーモニー

合唱団     A-   ウィーン国立歌劇場合唱団

ザラストロ        ピーター・メヴン

夜の女王    A-   エディタ・グルベローヴァ 

タミーノ     B     リーン・コロー

パミーナ    A+    エディット・マチス

パパゲーノ   A+    ヘルマン・プライ

音質       

私   見 

1974年ザルツブルク音楽祭でのライブである。まず、視聴後すぐに浮かんだ印象は、上品さを優先させた上流階級向けの魔笛だということだった。1980年盤(スタジオ録音)と実によく似ている。これは明らかに指揮者の意図なのだろうが制作者の意図とは距離があるようだ。

「モーツァルト最後の年」(H.C.ロビンズ.ランドン:中央公論新社)によると、台本作者シカネーダーは魔笛の作曲にあたってモーツァルトにこう頼んだ。

「あらゆる階層に共通する最低限の平均的な好みを満たすように心がけて欲しい、全ては大衆が求めている今様なものを・・・

モーツァルト「よろしい・・・。引き受けた」

こうしてオペラ魔笛は大衆を念頭に置いた最初のオペラとしてモーツァルト最大のヒット作となったが、こうした経緯からも上品さだけの魔笛は、台本作者、作曲家いずれにとってもその本意ではない。

聖なるものと俗なるもの、上品なものと下品なもの、これらの相反する要素が織り交じって崇高な調べになるのが魔笛の最大の魅力だと思う。

カラヤンの上品さは何といってもタミーノ役の配役に象徴されるのだが、総じて上記のような相反する概念の対立による相克感が聴き取れず上滑りしている印象がつきまとう。これではドラマにならない。

彼の出自は典型的な貴族階級なのでその辺が強く影響しているのだろうか。とにかく、指揮の良し悪しは別にして体質的にどうも魔笛に合った指揮者ではないように思う。

1950年のカラヤン盤(スタジオ録音)はやや事情が違っており、タミーノ役があのデルモータで野性味溢れる配役で緊張感が漲っているが、この盤の指揮はピンチヒッターに近かったというのが真相のようだ。皮肉にもカラヤンが録音した中でこの盤の出来が一番良い。

さて、歌手陣だがザラストロ役はやや音程が不安定だった。
グルベローヴァはおそらくこの盤が夜の女王のデヴュー盤ではなかろうか。彼女の場合、若いときの声質が後年になってもあまり変わらない印象を受ける。
タミーノ役は上述したように上品過ぎて押しの強さが足りない。
パパゲーノ役のプライはさすがに貫禄十分でハマリ役というところ。

特筆すべきはパミーナ役のエディット・マチスだ。さすがに容姿とともに一世を風靡したソプラノ歌手だけのことはある。柔らかくて、叙情味があって理想的なソプラノでアリアも重唱もいうことなし。マティスだけがお目当てでこの盤を購入してもいいくらい。

カラヤンはオペラでは歌手の選定にあたって声の質は当然として容姿も随分重視したようで 彼女は1980年のカラヤン盤(スタジオ録音)にも再登場している。

                     
 

 

 

 



  


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音楽談義~指揮台の神々~

2007年02月18日 | 音楽談義

クラシック音楽の世界で指揮者といえば演奏の頂点に位置する絶対権力者であり司令塔のような存在だが、指揮台に立っていないときの普段の素顔となると意外に知られていない。

嫉妬深さ、吝嗇、女性好き(指揮者には不思議なことに女性がいない!?)など彼らの赤裸々な実像に迫ったのが
「指揮台の神々」(ルーペルト・シェトレ:音楽之友社2003年刊)である。

この本には次の13名の指揮者の列伝が紹介されている。右は逝去した年。

雄弁家ビューロー1894、教育家リヒター1916、英雄ニキシュ1922、殉教者マーラー1911、独裁者トスカニーニ1957、天使の声の持ち主ワルター1957、大器晩成クレンペラー1973、ぐずフルトヴェングラー1954、時代錯誤者クナッパーツブッシュ1965、人間嫌いべーム1981、帝王カラヤン1989、感激家バーンスタイン1990、期待の星ラトル(存命中)

各指揮者にまつわるエピソードが面白く、中には少々品に欠けるものもあるがそれらは決して彼らの芸術性を貶めるものではなくむしろより身近に親しみを感じさせるとともに、音楽解釈への糸口に導く役目を果たしてくれる場合もある。

また、一方では指揮棒のミスが決定的なミスにつながらない得な指揮者と比較して演奏のミスが絶対許されない演奏家との落差、成り上がりのソリストによる指揮者への転身問題など興味が尽きない。

さらに、本来なら作曲家が主で指揮者はその忠実な下僕にすぎず、「音頭とり」としてオーケストラの中に埋もれてろくに姿も見えなかった指揮者がどんな経緯で人もうらやむ権力を握りそれをほしいままにふるったか、そしてスターとしてのスポットライトを浴びながら何故その威光が近年減衰してきたのか検証している。

最後にカラヤンとバーンスタインの死後、マエストロを偶像化してきた時代が過去のものとなり、新しい道を開きつつあるとして次の3名の指揮者を挙げている。

イギリス出身の
サイモン・ラトルはバーミンガム市立交響楽団を妥協のない厳しさで完璧な練習を求め一流に育て上げた功績を踏まえて現在世界でもトップのベルリンフィルハーモニーの主席指揮者に就任しているが、古色蒼然とした指揮界の徹底的な改革にその手腕が期待されている。

バルト出身のマリス・ヤンソンスはあのムラヴィンスキーの弟子でその演奏にはドラマティックな興奮を伴っておりどの演奏会も全て色合いが違っている。残念なのは健康に問題があることで二度の心筋梗塞に見舞われている。

ヴァレリー・ゲルギエフも熱血漢的なタイプとして将来の期待の星である。指揮活動の中心をサンクト・ペテルブルグにおきその録音CDはここ数年の市場の宝石となっている。1998年のザルツブルク音楽祭でのチャイコフスキーの5番は名演としてCDになりベストセラーになっている。


                    

 


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魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~♯8

2007年02月16日 | 魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~

CD番号        ROP-CD-3-D(3枚組)
収録年         1966年

評     価(A+、A-、B、C、Dの5段階評価)

総合      A-

指揮者    A+   オイゲン・ヨッフム(1902~1987)

管弦楽団   A-   ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

合唱団    A-     同 合唱団

ザラストロ   A-   マルッティ・タルヴェラ 

夜の女王   A-   キャスリン・ゲイヤー

タミーノ     A-   エルンスト・ヘフリガー

パミーナ    A+   ヒルデ・ギューデン

パパゲーノ   A-   マンフレッド・レール

音    質   A-

私    見

さすがに1966年の収録になると、ライブでも随分音質がよくなる。ステレオになっているうえ、観客のしわぶき一つも逃さないような録音である。これなら十分鑑賞に堪えうる。

演奏においても上出来の魔笛だった。序曲の始まりを聴いた途端に非常に厳かな雰囲気を感じさせてこれは他の魔笛とは一味違うぞと思わせた。とても一音一音を大事にする丁寧な演奏である。

全体に亘ってオーソドックスな演奏だが決して盛り上がりにも欠けていない。おとぎ話の世界を楽しそうな雰囲気でしかも情熱を込めて進行している印象。

歌手陣もこのオペラの中に溶け込んで伸び伸びと歌っていて一体感が感じられる。しかも粒がそろっていてレベルが高く、実力が十分に発揮できていて会心の出来栄えだろう。中でもパミーナ役のギューデンはやはり華になれるソプラノだ。第二幕の”嘆きのアリア”にはうっとりと聴き惚れてしまった。

申し分の無い名盤だが、第一幕の”鳥刺しのアリア”でところどころ録音ミスで音が流れているのがやや難点。それと出演者の台詞を介添え役がごく小さなささやき声で囁いているのが聞こえてくるのも一興か。

それにしても、オケと歌手の力をフルに引き出して崇高で楽しい魔笛の世界を紡ぎだしたオイゲン・ヨッフムは何という素晴らしい指揮者なんだろう。 

                          



 



 



 

 

 

   


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オーディオ談義~いい音・いい音楽~

2007年02月15日 | オーディオ談義

オーディオ愛好家の一人として、他の愛好家の出している音は気になるもので、自分が井の中の蛙にならないように時々は訪問して音を聴かせてもらったり、あるいは逆に耳がよいと信頼のおける方に自宅に来ていただいてアドバイスをお願いしたりする。

人はそれぞれ生まれた時から環境も違うし感性も違うのでいい音に対する感覚も実に千差万別であり、しかも、たまたま幼少時にしょっちゅう聞かされた音があまりいい音ではなくても刷り込み現象のようになっていて無意識のうちに影響していることも十分ありうる。

したがって、自分ではいい音と思っていても他人が聴けばそれほどでもないといったことが日常茶飯事に起こり、オーディオ機器にかなりの投資を伴っていることから悲喜劇が絶えない。

ただし、そうはいっても普遍的に誰が聴いてもいい音というのはあるもので、定義するのは実に難しいが一言で表現すれば「原音に忠実で長く聴いても疲れない音」といっていいかもしれない。

じぶんもそういう音を目指そうと考えているので、己の耳に絶対の自信がないことも手伝って謙虚に他人のアドバイスを積極的に受け入れる気持ちをいつも持っている。

もっとも、このタイプはかなり少数派のようで、
例えば他家の音を聴いてはっきり良くないとご本人の面前で指摘することは、「あなたの家の子供はバカですね」と言うのと一緒だという記事を読んだことがある。

オーディオに縁の無い方は、何故面前で指摘するのが悪いのか
分かりにくいだろうが、簡単に言うとどのような音を出すかは、オーディオ機器の選択から部屋の状況、音楽の聴き方まで、幅広くその人の芸術に対するセンス、どうかすると人生や生き方に関するプライドに関わることとして、人によっては、あだやおろそかに出来ない世界なのである。

したがって、単なるお付き合い程度の他家での試聴結果の第一声は慎重にならざるを得ず、相手に配慮しながら結局あたりさわりのないやりとりに終始する事が多い。

もちろん遠慮のない懇意な間柄なら別で、じぶんの場合には装置の一部を入れ替えるたびに耳のいいオーディオ仲間に来ていただいて遠慮なく指摘を頂いているが、そういう間柄を築くのにはすごく時間がかかる。

しかし、実は簡単に本音を聞かせてもらう手っ取り早いやり方がある。

それは、例えば機器を接続するケーブルとか、簡単に取替えがきく機器を2,3種類準備しておいて、それぞれ入れ替えるごとに意見を聞くようにすると比較試聴ということで本音の意見があっさりと聞けることが多い。

指摘する方も比較してどちらかに軍配を上げる以上何らかの具体的な理由を述べねばならず、その理由を敷衍してみると率直な意見につながり、実に有益な点が多い。少なくとも独りよがりの弊害から抜け出るチャンスがある。

とにかく、オーディオ装置には本当に苦労するし、音楽を聴く限りこれは一生続くテーマなのだが、一方では変化に富んだ大きな楽しみでもある。

"いい音、いい音楽”に向けて毎日が前進あるのみである。

                  

                 ’07年2月現在の装置             ワディアと真空管アンプ
        



            

                           
      





 


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魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~♯7

2007年02月14日 | 魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~

CD番号       GL 100.502(2枚組)
収録年        1959年

評   価(A+、A-、B、C、Dの5段階評価)

総   合   

指揮者    B    ジョージ・セル(1897~1970)

管弦楽団   A-  ウィーン・フィルハーモニー

合唱団    A-   ウィーン国立歌劇場合唱団

ザラストロ   A-  クルト・ベーメ

夜の女王   B    エリカ・コーツ

タミーノ    B    レオポルド・シモノー

パミーナ   A-   リサ・デラ・カーサ

パパゲーノ  A-   ワルター・ベリー

音   質   

私   見

1959年ザルツブルク音楽祭でのライブ録音だが、指揮者ジョージ・セルと魔笛の組み合わせにはやや異色の印象を受けてしまった。

あの謹厳実直で怖そうなセル(事実、楽団員に執拗なほど厳しかった)とおとぎ話の世界の魔笛のイメージがどうも一致しないが、当時クリーブランド管弦楽団の音楽監督として同楽団を一流に育て上げたことから白羽の矢が立ったのだろう。

さて、演奏の方だがセルの代名詞のような中庸、端正かつ緻密という言葉で要約されるように、非常に歯切れの良い進行だ。

しかし、全編を通じて盛り上がりの無い平板な印象を受けた。もう少し燃えるような熱気みたいなものが欲しいし、それに架空の夢の世界を思わせるような楽しさがもっとあってもいい。自由闊達、天真爛漫、天衣無縫さは魔笛には欠かせない要素だ。

一つの原因として歌手陣がこじんまりとまとまっていて何だか萎縮している印象を受けた。少なくとも伸び伸びとはしていない。

タミーノ役はA-かBか迷ったが、元気度の点でB。夜の女王は音程に不安定さを感じたのでB。

73歳と指揮者にしては比較的若くして急逝したセルの記念碑的な価値はあるのだろうが、決して水準以上に位置する魔笛ではないと思う。

                        

 




 


         


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健康コーナー~「生きがい」と死亡のリスク~

2007年02月13日 | 健康コーナー

「ボランティアとは究極のエゴイズム」なのだそうだ。

これを象徴するような記事が2007年2月12日付読売新聞朝刊の「生きがいがないと死亡のリスクが1.5倍」だった。

無料で奉仕して自分が社会の役に立っているという意識が自然に自己陶酔感を呼び起こし、それが健康や長寿につながっていって結局は自分のために一番役立っているとのこと。

記事の中身は東北大の大学院が1994年に約4万人の男女を対象に生きがいの有無などを調査したものを保存しておき7年後の2001年末までに死亡した約3千人についてその死因などを分析したものだ。

その結果、生きがいが「ない」とした人は「ある」と答えた人に比べ脳血管疾患で死亡した割合が2.1倍高く、肺炎も1.8倍高かった。がんについては生きがいの有無による影響は見られなかった。

こうした病気のほか、自殺などを含めて死亡した人の割合を全体で見ると生きがいがない人はある人に比べ1.5倍高かった。調査担当の教授によると「良好な感情を持つことは感染症を防ぐ免疫系に良い効果があるといわれている。定年後も、社会活動への参加などで生きがいを持ち続けることが大事だ」とのこと。

なかなか意義深い調査だと思うが、さて、「生きがい」もいろいろあって個人差があり定義が難しそうだが、広辞苑で意味を引いてみると「生きる張り合い、生きていて良かったと思えるようなこと」とある。これでより身近な語感になった。

必ずしも社会活動ではなくても生きていて良かったと思えることなら誰にでも結構あると思う。そういうものをこまめに見つけることが大切なのだろうが、少なくとも熱中できる趣味を何か見つけておけば死亡のリスクが低くなるということだ。

さて、長生きの実例が身近にいる。我が家の90歳になる母である。69才のときに心筋梗塞で死の淵をさまよったが大手術で奇跡的に息を吹き返して21年も経過した。

長生きの原因を生きがいという面から観察してみると、どうもかかりつけのお医者さんに恵まれたことに尽きるようだ。

近くの大学関連病院の経験豊富なS先生だが、実にいい先生なのである。どこがいいかというと、この先生は患者の毎月一回の検診結果の数値にまるでわが事のように一喜一憂してくれるのだ。

母はS先生のがっかりした顔を見たくないといって日ごろから食生活をはじめ軽い運動など実によく節制をしている。血糖値が高かった場合は甘いものをピタリと断つ。

「その年齢だからおいしいもの優先でいい」と言っても、感心なくらいS先生に義理立てする。S先生のがっかりした顔を見たくないというのがまるで生きがいになっているみたいだ。

おそらく想像するに、S先生の一喜一憂には多少なりともお芝居が入っていると思うのだが、自然な形で患者の自助努力を促すこのやり方が実に堂に入っていて、名医とはこういう先生を指すのだとつくづく感じ入っている。

      
           

 



 




 


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魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~♯6

2007年02月09日 | 魔笛視聴コーナー~CD(ライブ)の部~

CD番号      WHRA6007(2枚組)
収録年       1956年

評    価   (A+、A-、B、C、Dの5段階評価)

総   合    

指揮者     B   ブルーノ・ワルター(1876~1962)

管弦楽団       メトロポリタン歌劇場管弦楽団

合唱団     B    同 上  合唱団

ザラストロ   A+  ジェローム・ハインズ

夜の女王    A-   ロバータ・ピーターズ

タミーノ     B    ブライアン・サリヴァン

パミーナ    A-   ルシーン・アマーラ

パパゲーノ   A-   セオドア・アプマン

音   質    

私   見

1956年のメトロポリタン歌劇場におけるライブ録音である。魔笛の台詞は通常はドイツ語だがこの盤は英語で、♯5のカラヤン盤のイタリア語とは違って、終始、多少の違和感をぬぐえなかった。

指揮者のブルーノ・ワルターはトスカニーニやフルトヴェングラーと並び称される大指揮者で、あのカ-ル・ベームの師とも言われているが、特にモーツァルトの作品には定評があり、ワルターの魔笛で遺されているのはこのセットだけなので貴重な盤である。

さて視聴結果なのだが、それがどうも残念なことにこの盤はやや期待はずれのようだ。どこといって悪いところが無いのだが、それかといって心を打つような魅力にも乏しい。盛り上がりに欠けていてやや退屈感を覚えてしまう。

歌手では、タミーノ役に声の艶と張りがもっと欲しい。その他の歌手は全て水準以上の出来栄えである。

ところで、二,三の指揮者の話によると、一般的にオペラにはかなりの不確定要素がつきまとっているといわれている。例えばまったく同じメンバーで前回素晴らしい公演が出来たからといって、次の公演はどうにもならないほどダメな公演に終わる危険が決して無いとは言い切れないそうだ。

原因が分るようで分らないが、生身の人間が集って役割分担をしながら出来上がる作品にはそういう波というものがあるらしい。とにかくそういう場合は運が悪いとしかいいようがないそうである。

この盤も運の悪さに尽きるのかもしれないが、あえて原因を突き詰めるとワルター80歳のときの収録でやや気力と体力が十分ではなかった(?)のかもしれない。

                         





 





 



  


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