「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

人間の生涯は「真面目さ」と「遊び」からなる

2024年08月31日 | 音楽談義

「人間の生涯は“真面目さ”と“遊び”から成る。この二つのバランスの取り方を知っている者こそが、最も賢明なる者、最も幸運な者と呼ばれるにふさわしい。」(ゲーテ)

いきなりこういう文章で始まるのが「ギャンブラー・モーツァルト」~遊びの世紀に生きた天才~(ギュンター・バウアー著)。

ちなみに、自分のように「遊び」の方が大きな比重を占めている人間は、とても賢明とはいえないが、不幸な人生だったとは思っていない(笑)。

                 

さて、本書は431頁にわたって細かい文字がビッシリ詰まっており、よほどのモーツァルト・ファンじゃないととても読む気が起こらないに違いないが、ザット、ひと通り目を通してみたがこれはこれでたいへんな労作だと思った。

本書のテー
マは「ゲーテが語ったような意味でモーツァルトははたして幸運な人間であったのだろうか、生涯を賢く生きたのだろうか。別の言い方をすれば“音楽への真面目さ”と“遊び”の魔力との間でうまくバランスをとることが出来たのだろうか」に尽きる。


結論から言えば、モーツァルトは35年という短い生涯(1756~1791)において600以上にもわたる膨大な曲を作ったにもかかわらず、あらゆる遊びを楽しんでいたことが分かった。きっと人生を大いに楽しんだに違いない。

たとえば遊びの種類を挙げるだけでも第一章「射的」、第二章「カードゲーム
」、以下「ビリヤードと九柱戯」 「パーティゲーム」 「言葉遊び」 「お祭り、舞踏会、仮装パーティ」 「富くじ」と実に多種多様なものが(章ごとに)詳しく紹介されている。


「楽想は奔流のように現れて、頭の中で一気に完成します。すべてのものが皆一緒になって聞えるのです。まるで一幅の美しい絵を見ているみたいです。後で作曲する段になると、脳髄という袋の中からこれらを取り出してくるだけです。」(小林秀雄著「モーツァルト」)

モーツァルトの音楽がロジック的に解明できない原因を、驚くべき率直さとシンプルさでもって(モーツァルトの手紙の一節)語られているが、こういう天性の才能に恵まれた音楽家だからこそ時間に余裕ができて沢山の遊びを楽しめたに違いない。

つまり、逆説的に言えば「仕事の処理能力が高い者ほど遊びも楽しめる」と解釈できる(笑)。

モーツァルトは手紙魔だったらしく、(当時は唯一の通信手段だったので当然だが)、父や妻、姉、友人たちに宛てた膨大な手紙が「モーツァルト書簡集」として残されており、これからの引用が本書の全編にわたって多様に駆使されていて、読んでいくうちに自然にモーツァルトの人間像が浮かび上がってくる。

映画「アマデウス」にも描かれていたようにモーツァルトは通常の市井の人間と何ら変わりなかったが、あまりにもありふれた人間像とあの神々しいほどの輝きを放つ作品との落差がとても印象的だった。

さて、本書の中で頻繁に登場するのは教育魔だった父親(レオポルド)だが、姉のナンネル(二人姉弟)も負けず劣らずの頻度で登場する。幼い頃に彼女と一緒に興じた“遊び”はモーツァルトの生涯に大きな影響を与えた。

そのナンネルを主人公にした映画が光テレビで放映されたので録画して、このほど観賞してみた。「ナンネル・モーツァルト~哀しみの旅路~」

                    

フランス映画だそうで、折角取り上げたのだから「絶賛!」といきたいところだが個人的には「?」だった。

「弟モーツァルトに劣らないほどの才能に恵まれたナンネルだったが、女性に生まれたばかりに作曲を許されず、ソロ活動もできなかった。時代に恵まれなかった歴史上のヒロインに光を当ててみた。」というのが趣旨なのだろうが、どうもピンとこなかった。女性が観ればまた別の感想があるのかもしれない。

最後に、最愛の姉ナンネルの結婚に当たり、彼女に宛てたモーツァルトの天真爛漫な手紙を同書の中から紹介しておこう。(298頁)

「それではウィーンからザルツブルグへ、1000回の祝福を送りましょう。お二人が私たちよりも幸せに暮らすことが出来ますように。お、お、おっと、詩でいっぱいの頭の中の引き出しから、ちょっとした文句が出てきましたよ。ではご静聴。

結婚したら沢山のことが分かります。これまで半分謎だったことも経験すればわかるのです。エヴァがその昔カインを産むためにしなければならなかったこと。しかし姉さん、この結婚のお務めをあなたは喜んで果たすでしょう。ぼくを信じて、少しも辛くはないのですから。

でも物事には表と裏が、結婚だって同じこと、楽しみもあれば苦労もある。彼が険しい顔をしていても、心当たりがないならば、勝手に不機嫌になっているだけ。男の気まぐれと思えば良し。そして彼に言いましょう。“旦那様、昼間はあなたのお好きなように。でも夜は私のものよ”」~あなたの誠実な弟 W.A.モーツァルト

いやはや・・・(笑)。



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マーラーの音楽からジャズとクラシックの再生を問う 

2024年08月27日 | 音楽談義
先日のこと、メル友の「I」さんから興味深い内容のメールが届いた。

ちなみに、ブログで情報発信をやってると全国各地からメールをいただくがず~っと継続して長続きしているのは「I」さん(東海地方)、「K」さん(横浜)、そして南スコットランド在住の「ウマさん」だけなのはちょっと淋しい(笑)。


「〇〇様にクラシックの話を持ち出すのは、ケンカを売っている(笑)ようなものですが、ご意見を聞かせていただけましたら幸いです。
 
当方、実は、マーラーが好きです。マーラーの交響曲を聴いていると、巨大な室内楽を聴いているような気分になります。なぜ室内楽のように聴こえるのか。よくわかりませんが、たぶん、指揮者なしで、奏者の間合いで演奏する方が合っているような気が・・・。
 
普段そんなふうに思っているところへ、先月NHKTVで、交響曲第4番室内楽版の放送がありました。演奏者はパリ管弦楽団&紀尾井シンフォニエッタ東京の10人編成です。室内楽版があったんだ!!
 
演奏は素晴らしかったです。初めは、やはりバイオリンとビオラはもう少し人数がほしいかなとも感じましたが、聴いているうちに「そんなことはない、これでいい」と納得できました。
 
その後、FMでも同じコンサートの放送がありました。音を比較してしまいました。どちらかと言えば、FMの方が好きな音ですね。今のTVやFMの放送は、マスターはデジタルとアナログどっちなんでしょうか。その後、DA、ADの変換はどのようになっているのでしょうか。知る術もないところですが。
 
ということで、マーラーの室内楽版についてどう思われますか。また、1番と4番はともかく、マーラーの交響曲はなぜあんなに長いのでしょう。長いことに必然性はあるのでしょうか。(音楽家の失業対策?失礼!)

というわけで「盲目蛇に怖じず」とばかり、次のように返信した。

「いつも当方の拙いブログに付き合っていただきありがとうございます。
そこでマーラーの話ですが・・。過去に好きになったこともありますが以下はあくまでも「現時点」での個人的な意見です。

マーラーは元々指揮者として大成した音楽家ですが、作曲の方はイマイチだと思ってます。ま、モーツァルトなどに比較すればの話ですが・・・。

大編成の曲目が多いのですが、それに意味があるのかなと思ってます。むしろ中身の薄さをカバーするためにコケオドシ的な要素もあるのではないかという気がします。ちょっと辛口ですが~。また、ときおり魅力的な旋律が出てくるのですがどうも部分的で持続しません。

また長さの方もこれまた大編成と同じで必然性があまり感じられません。

したがって私には縁の薄い作曲家だと思ってます。ただし、「大地の歌」の最終楽章にはいつも胸を打たれます。この曲にはずっと以前のブログ「大地の歌8枚の試聴盤」(2009.11.28)に記載したことがあります。

これに対して「I」さんからご返信がありました。

「ご回答ありがとうございました。早速「大地の歌」を聴きなおしました。(バーンスタイン・ウィーンフィル・キング・ディースカウ)
この曲は最終楽章だけでもひとつの作品として充分ですね。ということは、全楽章の作品としての在り方・必然性が薄いということにもなります。
 
今回、お話を伺って、なぜマーラーの交響曲を巨大な室内楽と感じてしまうのか、理由が少し見えてきました。
素晴らしい素材を内包している割には、交響曲としては構成に難がある(失礼!マーラーさん)ということでしょうか。
そこで、演奏家に素材を生かして欲しい・・・「室内楽」を聴きたい、となってしまうようです。
 
似たようなことを、チャイコフスキーにも感じます。また、パガニーニに対しては、誰もが思うことではないでしょうか。
もっとも、パガニーニの5番・6番の協奏曲のオーケストレーションは後世の作曲家の手によるもののようですが、あまり良くないですね。オーケストレーションには大変な才能が必要ということでしょう。
 
以下は、門外漢であるジャズファンの、世間知らずの戯言とお聞き流しいただきたいのですが、現代作曲家は、オリジナルの作曲もいいけれど、古典のアレンジをもっとしてみたらどうかと思います。
 
ジャズやポップス風ではなく、クラシック音楽の現代の技法を用いてです。新たな楽しみが生まれると思います。私が知らないだけで、音楽界では行われているのかも知れませんが。
 
今回はありがとうございました。クラシックには「曲」と「演奏」という2面があるのでまだ嗜好が分散していいのですが、ジャズでうかつにこのような嗜好をいうと、人間関係が悪くなりかねません。ジャズには演奏=演奏者しかありませんので。」

稀代のジャズ愛好家「I」さんからは、いろいろとご示唆をいただくことが多い。

たとえば、ジャズとクラシックの再生の違いについて、前者では「力感と勢い」が重視され、後者は「ハーモニー」が重視されるので、両者に対してオーディオ的には異なるアプローチが必要だと気付かされたのもその一つ。

ジャズの再生は「何でもあり」のようでオーディオ的には欠点になるところが聴感上ではむしろ長所になったりして、「個性」という言葉で片付けられるところがとても便利~。

その一方、クラシックの再生となると人間の耳は押しなべてハーモニーの違和感にはとても敏感に感じやすいので、家庭で十全に聴こうと思ったら、まずは泥沼の世界を覚悟しなければならない。

こんなことを書くとジャズ・ファンから盛大なバッシングを受けるかもしれないですね~。

最後に、ときどきですけど「クラシックもジャズも両方いける!」という二刀流のシステムに出会うこともありますので念のため(笑)。



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「現状に飽き足らない貪欲さ」が左右するものとは

2024年08月14日 | 音楽談義

先日のこと、NTTの光テレビ「時代劇専門チャンネル」で黒沢明監督の名作「七人の侍」を放映していた。

過去、何度も観た映画だが今回もつい惹きつけられてしまい、3時間半もの大作を一気に見終った。いやあ、とても面白い!

映画に求められるあらゆる要素がびっしり詰まっていて、改めて黒沢監督(故人)の偉大さに思いを馳せたが、折しもBS放送の「昭和偉人伝」(1時間もの)で黒沢監督特集をやってた。

その中で「七人の侍」の製作裏話が披露されていたが、当時の俳優陣で最後まで生き残られた「土屋嘉男」さん(現在では故人)が出演されていた。

妻を野武士にさらわれた苦悩を一身に背負う難しい役どころで、百姓の中で武闘派の急先鋒となっていた「利吉」の役柄である。

この番組の中で黒沢監督の映画につきものだった俳優「三船敏郎」(故人)と同監督との訣別に至った理由などが明かされ、興味深い話が満載だった。

それはそれとして、ここで話題にしたいのは芸術家にも二つのタイプがあるようで、年齢を重ねるにつれて才能をますます開花させる「才能昂進型」と、一方では才能がますます朽ち果てていく「才能枯渇型」とがあるように思える。

たとえば、後者の例として挙げられるのが冒頭の「七人の侍」だ。見終ったときに「こんな完璧な作品を若い頃に作ったら後が大変だろうなあ」というのが正直な感想だった。

事実、黒沢監督は以後、この作品を越える映画を作れなかった(と思う)。後年の映画にはいずれも緊張感の持続性というのか、根気が続かない中だるみの印象を受けるのは自分だけだろうか。

晩年には「自殺未遂」騒ぎまで起こしているが、理由はいろいろあろうが、この才能の「枯渇現象」が一因であったことは想像に難くない。

芸術家にとって「命」ともいえる閃きが加齢とともに失われていく苦しみと悲しみは自分のような凡人にはとても想像がつかないが、一方では加齢とともにますます才能を開花させていく芸術家だっている。

江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」がそれだ。今や「神奈川沖浪裏」に代表される「富岳36景」などで世界の「北斎」になっている。

    

88歳という当時ではたいへんな長生きの生涯だったが「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」とある。

死を目前にして、現状に満足しなかったその意気たるや凄い!

作曲家モーツァルトも35年の短い生涯だったが、わずか10代の頃にあれほど優れた作品を残しておきながら益々才能を開花させていき、とうとう亡くなる年に作曲したオペラ「魔笛」が彼の生涯の集大成となる最高傑作となった。

はたして最高傑作かどうか、論議がいろいろあろうが文豪「ゲーテ」や楽聖「ベートーヴェン」が最高傑作だと言ってるのだからそう決めつけてもおかしくはないだろう。

その一方、作曲家でも「才能枯渇型」が居ることはいる。それは北欧フィンランドが生んだ国民的作曲家「シベリウス」(1865~1957)。

とても長い生涯だったが、40歳ごろを境にプツンと才能が切れてしまった。ご本人の慟哭たるやいかばかりかと思うが、92歳まで生きたのだから過去の栄光にしがみつきながら意外とのんびり余生を送ったのかもしれない(笑)。

以上、こうしてみると「才能枯渇型」と「才能昂進型」の二つのタイプの芸術家を分かつものはいったい何だろうか?

もちろん、持って生まれた資質もあるんだろうが、意欲というか向上心とでもいうか、どうも根っこには「現状に飽き足らない貪欲さ」があるような気がしてならない。皆様はどう思われますか?

文豪「森鴎外」の名作「高瀬舟」には「罪人・喜助の 足るを知る ことの崇高さ」が見事な筆致で描かれているが、こと芸術に関しては「足るを知らない貪欲さ」が必要なのかもしれない。

オーディオもしかりだと思うが、ちょっと手前味噌かな~(笑)。

それはさておき、前述のシベリウスには代表作として「ヴァイオリン協奏曲」がある。彼の才能がプツンと切れる前の37歳の時の作品である。

           

上段左から順に「ジネット・ヌヴー」盤、「カミラ・ウィックス」盤、「ダヴィド・オイストラフ」盤、下段左から「ヤッシャ・ハイフェッツ」盤、「サルヴァトーレ・アッカルド」盤、「ヒラリー・ハーン」盤の6枚。

この曲の聴きどころは「北欧フィンランドのリリシズム、透明な抒情とほのかな暖かみ、強奏するときのオーケストラが常に保持する暗い、激しい響き。これらはシベリウスの音楽を愛する者を直ちにとらえる要素である」(小林利之氏)だそうだ。

この中で一番好きなのは「アッカルド」盤でオケの指揮がコリン・デーヴィスだが、シベリウスには定評のあるところでたしかに申し分のない演奏とお見受けした。

ヌヴー盤もさすがで、第二楽章はダントツといっていいくらいだが、もっと録音とオケが良ければ言うことなし・・、惜しい。

カミラ・ウィックス盤は、シベリウスが存命中に「これが一番私の作曲の意図を再現している」と作曲家ご本人が推奨した曰くつきの演奏だが「老いては駄馬」(失礼!)だった作曲家の言うことにしばられる必要はないだろうと、それくらいの印象だったけど、あの五味康佑氏さえもが名演奏として挙げられているので、おいらの鑑賞力不足なのかなあ~(笑)。

オイストラフ盤とハイフェッツ盤は巨匠同士だが何だか新鮮味に乏しい。

最後のヒラリー・ハーン盤は期待したほどではなかった・・、「プレイズ     バッハ」でたいへんなテクニックを披露したものの、同時に若さを露呈した感じのハーンだが、この盤でも まだまだ の感がする。

後年のブルッフのヴァイオリン協奏曲の方がずっといいと思うのは自分だけだろうか。

ただし、未完の大器の雰囲気を感じさせるところがあるのはさすがで、それには、主たる活動拠点をアメリカからクラシックの本場ヨーロッパに移した方がいいと思うが、これは素人風情の余計なお世話かもね~(笑)。



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生命の暗号を聴く

2024年08月12日 | 音楽談義

通常、音楽の効用といえば、ストレス解消や癒し、あるいは精神の高揚などが言われているが、それ以外にもたとえば乳牛にモーツァルトの音楽を聴かせると乳の出が良くなったとか、あるいは酒の酵母を活性化させて発酵を促進するなどの不思議な現象の話も散見する。

その因果関係については科学的な根拠がハッキリと示されたわけでもないので「偶然の産物」とか「眉唾モノ」という受け止め方が一般的だ。

しかし、こうした生物と音楽とを結びつける不思議な現象の「科学的根拠」として提唱されているのがここで紹介する
「生命の暗号を聴く」だ。

 

これをうまく利用すると人類の宿敵「ガン」を撃退できるというのだ。今や国民の2人に1人がガンになるというのだから放っておく手はない。

というわけで、以下やや ”理屈っぽくなる” が順を追って紹介してみよう。

ただし、最終的にこの内容を信じる信じないはまったく貴方の自由・・、決して押し付けるつもりはないので念のため申し添えます!

☆ 「音楽の不思議な力の由来」について

「音楽」とは一体何か。音楽を知らない人はいないのに、言葉で説明しようとするとうまく説明できないのが音楽だ。(そもそも音符を言葉で表現するなんて、どだい無理な話だ。)

まず、音楽の起源について。

中国では音楽を意味する文字として「樂」という語が一般に用いられていた。「樂」は象形文字で、楽器とそれを載せる台の組み合わせでできている。上辺の中心文字である白という字が鼓を象(かたど)っているとすると、太鼓のような楽器を叩いて音を出したことが、音楽という概念が生まれるきっかけになったとも考えられる。

西洋に目を転じると、「音楽」に対応する英語は「ミュージック」である。その語源をたどっていくと、ギリシャ語の「ムシケー」に行き着く。

これは「ムーサの技芸」という意味で、これに対応する英単語が「ミューズ」(学芸をつかさどる女神)→「ミュージック」(ミューズの技芸)となる。因みにミューズの女神を祭った場所が、美術館や博物館を意味する「ミュージアム」である。

ミューズ(女神)は全部で9人いる。いずれも神々の頂点に立つゼウスと記憶の女神ムネモシュネとの間に生まれた娘たちである。それぞれ、天文学、喜劇、舞踊、宗教音楽、悲劇、音楽、歴史、叙事詩(2名)を担っている。

(音楽には終始優しい女性的なイメージがつきまとっているがこの辺に由来しているのかもしれない)

なお、天と地の結びつきによって生まれた女神ムネモシュネ(天空の神ウラノスと大地の女神ガイアの娘)がミューズたちの母であるというのは音楽の意味を考える意味で示唆的である。

アフリカでは「音楽は神々の言語である」と見なされているし、カトリック・キリスト教でも、「音楽は天国の言語であり、それを人間が発見して真似したのが教会音楽である」とされている。

音楽が天と地をつなぐものであれば、神秘的な力を持っているのは当然で音楽の不思議な効果は古今東西を問わず、物語の形で多数残されている。

☆ 「細胞が奏でる音楽」
とは

こうした不思議な効果を持つ音楽と生物を科学的に結びつけるカギがステルンナイメール博士(素粒子論を専門とする理論物理学者)による「タンパク質の音楽」の発見である。

ご承知のとおり、タンパク質は生物の身体を構成する基本材料である。細胞の中で必要に応じて必要なタンパク質が合成されるから生物は生きていける。

たとえば皮膚のコラーゲン、髪の毛や爪のケラチン、赤血球に含まれるヘモグロビン、それに血糖値を下げるインスリンなどの酵素もそうだが、これらは壊れては新たに合成されるという新陳代謝によって生まれ変わっている。

ステルンナイメール博士によるとそれぞれのタンパク質は独自のメロディを持っているという。「コラーゲン」という題名の曲、「インスリン」という題名の曲があるというのだ!それぞれの曲はDNAの中に「生命の暗号」として隠れている。

DNAが四種類の塩基からなることはよく知られている。A=アデニン、T=チミン、G=グアニン、C=シトシンである。これらの塩基が決められた順番で並ぶことで一種の「文章」が作られている。つまりDNAとは四種類のアルファベットでできた書物であり、「辞書」を作ればそれを読んで理解できるようになるはず。

ステルンナイメール博士は理論的な研究に基づき、同じDNAという書物を文章としてだけでなく音楽としても読めることを発見した。タンパク質のアミノ酸配列を解読してメロディに変換する規則を見出すとともに、そのメロディの持つ意味まで明らかにした。その規則にしたがって得られたメロディを「タンパク質の音楽」と呼ぶ。

ひとつのタンパク質には合成を盛んにするメロディと合成を抑えるメロディとがあって、それぞれ独自の非可変式チューナーがあり、そのメロディを同調させて電磁波に変換して細胞に伝えていくという。

まあ、平たく言えば音楽の中にも「ガンを促進する曲」と「ガンを打ち消す曲」があるというわけ。

好きな音楽を毎日聴きながらガンを撃退できれば言うことなし・・。

という調子だが、この猛暑の中で「理屈っぽい話を・・、いい加減にしろ」という声が聞こえて来そうなので、この辺で打ち止め~(笑)。


続きに興味のある方はご一読をお薦めします。



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「ワーグナー」の音楽と熱中症

2024年08月05日 | 音楽談義

かってクラシック音楽好きが集まって試聴会(計4名)を開催した時に「ローマの松」(レスピーギ)というCDがあった。やっぱりというか、一度聴いたくらいでは良さがわからず、自分のレパートリーではとても及びもつかないような曲目だった。

そういえば、食べ物の好き嫌いと同じで、音楽も人によって嗜好に随分差があり、そっくり同じ曲目が好きだというケースは稀のような気がする。

たとえば自分の場合ではオペラ「魔笛」(モーツァルト)だが、一方では「こんな退屈極まりないオペラは大嫌い」という人がいたりする~、もちろんこれは「いい、悪い」という問題でもない。

音楽にも一度聴いてすぐに好きになる曲目があれば、何度でも聴いていくうちに好きになってくる曲目と二通りあるが、えてして、前者の場合、何回か聴いているうちに比較的早く「飽き」がくるが、後者は聴く度に新たな発見があったりして長期間の鑑賞に耐え得るケースが多い。

オペラは典型的な後者だと思うのだが、逆に開き直られて ”いったいオペラのどこがそんなにいいのか” と問われた場合にその魅力を適切に表現する言葉がすぐに浮かんでこず、何ともいえない ”もどかしさ” を感じてしまう。

そもそも音楽の魅力を口で表現するのは本質的に難しくて、なぜなら言葉(文字)で表現できないために音楽(音符)というものがある~。

しかし、そういう “もどかしさ” を解消し代弁してくれる恰好の本がある。

「ドイツオペラの魅力」(著者:中島悠爾氏、日本放送教会刊)

                                

この本は、冒頭から「魔笛」がドイツオペラの草分けとなる重要なオペラとしてしてかなりのページを割いて詳しく解説しているが、音楽理論というよりもオペラ愛好家の立場から素人向きに執筆されていて大変分りやすい。

クラシックには交響曲、協奏曲、室内楽、管弦楽、そして声楽などいろんなジャンルがあるがオペラはこれらと、どういう点が違うのだろうか、というわけで「オペラの特質」について以下のように書いてある。

☆ 演劇的な要素

オペラの特質の第一点は、演劇を通して、具体化された音楽を提供することにある。ドイツのソプラノ歌手エッダ・モーザー女史(1972年サバリッシュ盤:夜の女王)が自らの体験を踏まえて実に分かりやすい表現をしている。   

「オペラには舞台装置があり、衣装があり、演技があり、共演者たちがあり、そして色彩豊かなオーケストラがあって、私の歌う内容は視覚的にも聴覚的にもリート(独唱用歌曲)に比べ、はるかに容易に聴衆に伝わっていきます。いわば、オペラは自分の周りに既に半ば以上構築されている一つの世界の中で歌い、その世界を深めていけばよいので、リートよりは
ずっと楽です。」

☆ 人間の声という特質

第二点目は人間の声の特質である。声という音の素材はどんな楽器よりも直接的にはっきりと、また容易に人間のさまざまな感情を表現し得ることにある。

例えば舞台でヒロインが一人たたずむとき、あわただしく登場してくる人物に向かって「まあ、あなたでしたの」と発する、たった一言の中にはこのオペラの文脈に沿って、喜び、悲しみ、恥じらい、ためらい、皮肉、怒りなどごく微妙な心の表現が可能である。

これほどに直接的な感情の表現は人間の声以外のいかなる楽器にも不可能であり肉声という音素材の持つ簡単で直接的な効果、そしてそれを十二分に活用したオペラという形式はやはり最も分かり易く、身近で、一般にも親しみやすい音楽なのである。

というわけで、オペラの特質は以上の二点に尽きるが、オペラがレパートリーに入るとたとえ台詞の意味が多少分からなくても音楽の楽しみ方が倍増すること請け合い。

そういうわけで、長年親しんできたモーツァルトのオペラはひとまず脇に置くことにして、ここ3日ばかり「ワーグナー」のオペラに挑戦してみた。

手持ちのCDを「You Tube」のせいで「宝の持ち腐れ」にするのはもったいないし、さらにはスケールの大きな音楽で猛暑なんか吹き飛ばしてしまおうという魂胆である(笑)。


            

「ヴァルキューレ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ジークフリート」(ショルティ指揮、4枚組)、「パルシファル」(クナッパーツブッシュ、4枚組)、「神々のたそがれ」(ショルティ指揮、4枚組)、「ラインの黄金」(ショルティ指揮、3枚組)

何せ一つの楽劇あたりにCDが3枚~4枚セットだから、時間にするといずれも4時間あまり~。

一通り聴いてみたが、乱暴な言い方を許してもらえれば、ひたすら「雄大なスケール感」を楽しむ音楽ということに尽きる・・、加えて劇中の人物になりきれる「自己陶酔型」に浸れればいうことなし。

となると、こういう音楽は「豊かな音」で聴くのが常道で、しかも「たっぷりとした中低音域」のもとで鑑賞したい・・となると、必然的に次のシステムの出番。



タンノイ・オートグラフを愛好していた作家の五味康祐さん(故人)が「我が家のオートグラフはワーグナーを聴くためにある」といった趣旨のことを著書の中で述べられていたが、あの深々とした低音なら “さもありなん” 、ただし、ほかの曲目ではあまり頷けない・・とは、これは個人的な意見です。

で、どうしても比較的大きめの音で聴くので、はた迷惑にならないように窓を閉め切ってエアコンを入れっぱなしでの鑑賞となったが、根がビンボー性のせいか電気代がちょっと気になる・・。

ただし、老人がワーグナーを聴きながら熱中症で亡くなったとなると、まったく様にならないしねえ(笑)。



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バッハとモーツァルトの両立は「可能or不可能」?

2024年07月31日 | 音楽談義

月一回のペースでの受診時に、医師が「コロナが猛烈に流行っていますので気を付けた方がいいですよ」、「そうですか・・、以前と違って症状は大したことないんでしょう?」「いえいえ、そうでもないですよ・・、〇〇さんは持病があるので特に用心してくださいね」

昨日(30日)には、家内の友人からメールが来たそうで「コロナに罹りました。ようやく熱が下がりました。どうも運動ジムでもらったみたいです」とのこと。

人混みにはなるべく行かない、マスク、手洗い、うがいを忘れないようにお互いに気を付けましょうね。

閑話休題


指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人物の著作は非常に参考になることが多いので、図書館で見かけたら必ず借りてくることにしている。

                   

そういう中でも女性ヴァイオリニスト「千住真理子」(せんじゅ まりこ)さんは雰囲気が好きな演奏家の一人なので本書を興味深く読ませてもらった。

父が慶応大学名誉教授、母が教育評論家、長兄が日本画家、次兄が作曲家、ご本人は慶応大学哲学科卒というまるで絵に描いたようなエリート一家である。

血筋がいい人はそれだけで説得力がありそうな気がする(笑)。

本書は音楽や音響を主な題材にしたエッセイ集だったが、207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような記事があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、「どうやって自分を捨てるか=無になる」というのは、文豪「夏目漱石」が理想とした境地「則天去私」(天に則り、私心を去る)に通じるものがあると思うし、自分の拙い「人生経験」を振り返ってみてもたいへん厳しいテーマだった。

たとえば、様々な人間関係をはじめとして、いろいろ思い当たる節が多いし、このブログの主題になっている「音楽&オーディオ」だってソックリ当てはまると思う。

だって、王様は音楽でありオーディオは召使いに過ぎないので、(音楽の前では)オーディオは存在感を消して「無」になってもらわないといけない。

言い換えると「スピーカーの存在を意識させない音」これが、オーディオのあるべき究極の姿だといつも思っているが、これが油断するとつい「出しゃばって」きて、いつのまにか主役に祭り上げてしまうのが我が家の大きな課題だ(笑)。

さて、何度も書くようだがこれまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、しっくりこないのがバッハの音楽である。嫌いじゃないんだけど進んで聴こうとは思わない。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに挑戦してみたが、その都度「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに軽く場外へはじき出されてしまう(笑)。

「いきなり高い山を目指すのでなくて、手頃な山から始めたらどう」という「ありがたいアドバイス」を読者からいただいたこともある。

そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた新聞記事にこういうのが載っていた。                       

          

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。

巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!

幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってるんですよねえ(笑)。
                  

もういつ頃聴いたのかはるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。

「涙の音」が聴こえてくればしめたもので、ひとつのきっかけになってくれればありがたい。

だが、しかし・・・。

真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門で、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない・・、に思い至った。

バッハを愛好する人でオペラ「魔笛」が死ぬほど好きという方はこれまでお目にかかったこともないし聞いたこともない・・、つまりこれは理屈以前の問題として秘かに自分の胸に収めておきましょうかね~(笑)。



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タフな人間に向いた作品

2024年07月24日 | 音楽談義

ずっと昔に投稿したブログ「五味康祐」さんのクラシックベスト20」だが、現在でも記事へのアクセスがちらほら垣間見える。

この稀代の音楽愛好家に対していまだに関心があることが興味深いが、このベスト20にはバッハの作品がやたらに多いことにお気づきだろうか。


たとえば「平均率クラヴィーア曲集」をはじめ「無伴奏チェロソナタ」「3つのピアノのためのコンツェルト」「パルティータ」などがそうで、しかも大半が上位に食い込んでいる。(ちなみに第1位はオペラ「魔笛」である! 五味さんの耳を信用する第一の理由である)

実を言うと、クラシック歴およそ60年以上になろうかというのにバッハの音楽にはいまだに馴染めないままでいる。モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスッと胸に入ってくるのに、バッハだけは手こずっているというか、もう縁がないととうの昔に諦めの境地に入っている。

自分だけかもしれないがバッハの音楽には同じクラシックの中でも孤高というのか、ひときわ高い山を感じる。したがって「バッハが好きです」という音楽愛好家には「この人は本物だ!」と始めから一目も二目も置いてしまう(笑)。

こう書いてきて何の脈絡もなしにふっと思ったのが、「バッハ」と「ドストエフスキー」は似たような存在ではなかろうか。

片や音楽界の雄、片や文学界の雄である。


ドストエフスキーの文学も容易に人を寄せ付けない。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」「悪霊」などやたらに長編だし、とっかかるだけでも億劫さが先に立つ。

両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに、後世に与えた影響も測り知れない。

バッハは周知のとおり「音楽の父」と称されているし、ドストエフスキーに至っては「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(「加賀乙彦」氏)と称されているほどだし、「世の中には二種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことのない人です。」と、宣うたのは「村上春樹」さんだ。

ただし、ドストエフスキーはその気になれば何とか付いていけそうな気もするが、バッハだけはどうも苦手意識が先に立つ。つまり理屈を抜きにして「線香臭い」のがそもそも嫌っ!(笑)。


こういう ”ややっこしい” バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。

                

著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。

本書の第9章
「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。

以下、要約。

 モーツァルトのダンディズム

バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。

いわば問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。

※ 私見だが、モーツァルトの音楽にはひとしきり悲しげでシリアスな旋律が続いたと思ったら突然転調して軽快な音楽に変化することが度々あって、たしかピアニストの「青柳いずみ子」さんだったか「な~んちゃって音楽」と言ってたのを思い出す。ただしオペラは例外~。

 神と対峙するバッハ

バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。

モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。

以上、「ごもっとも!」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に ”タフ” な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。

道理で、両者ともに自分のような ”ヤワ” な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得させられてしまいました(笑)。



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付け入るスキを与えない作品

2024年07月15日 | 音楽談義

「クラシック音楽がすーっとわかるピアノ音楽入門」(山本一太著、講談社刊)を読んでいたところ、「ベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ」について次のような記述(95~96頁)があった。

          

~以下引用~


『ベートーヴェンは、1820年から22年にかけて「第30番作品109」、「第31番作品110」、「第32番作品111」のピアノ・ソナタを書き、これらがこのジャンルの最後の作品となった。

この三曲をお聴きになったことのある人なら、これが現世を突き抜けた新しい境地で鳴り響く音楽だとして理解していただけると思う。

とにかくこういう超越的な音楽の神々しさを適切に美しく語ることは、少なくとも著者には不可能なので、簡単なメモ程度の文章でご容赦ください。
ベートーヴェンの晩年の音楽の特徴として、饒舌よりは簡潔、エネルギーの放射よりは極度の内向性ということが挙げられる。

簡潔さの極致は「作品111」でご存知のようにこの作品は序奏を伴った堂々たるアレグロと感動的なアダージョの変奏曲の二つの楽章しか持っていない。ベートーヴェンは、これ以上何も付け加えることなしに、言うべきことを言い尽くしたと考えたのだろう。

こんなに性格の異なる二つの楽章を、何というか、ただぶっきらぼうに並べて、なおかつ見事なまでの統一性を達成しているというのは、控え目にいっても奇跡に類することだと思う。

もっとも、この曲を演奏会で聴くと、何といっても第二楽章の言語に絶する変奏曲が私の胸をしめつけるので、聴いた後は、第一楽章の音楽がはるかかなたの出来事であったかのような気分になることも事実だが。』

以上のように非常に抑制のきいた控え目な表現に大いに親近感を持ったのだが、「音楽の神々しさを適切に美しく語ることは不可能」という言葉に、ふと憶い出したのがずっと昔に読んだ小林秀雄氏(評論家)の文章。

「美しいものは諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。」(「美を求める心」より)

いささか堅苦しくなったが・・(笑)、自分も「作品111」についてまったく著者の山本氏と同様の感想のもと、この第二楽章こそ数あるクラシック音楽の作品の中で「人を黙らせる力」にかけては一番ではなかろうかとの想いは20代の頃から今日まで一貫して変わらない。

とはいえ、ベートーヴェン自身がピアノの名手だったせいか、ハイドンやモーツァルトの作品よりも技術的には格段にむずかしくなっているそうで、標記の本では「最高音と最低音との幅がドンドン大きくなっている」「高い音と低い音を同時に鳴らす傾向が目立つ」といった具合。

言い換えるとピアニストにとっても弾きこなすのが大変な難曲というわけで、聴く側にとっては芸術家のテクニックと資質を試すのにもってこいの作品ともいえる。

以前のブログでこの「ソナタ作品111」について手持ちのCD8セットについて3回に分けて聴き比べをしたことがある。

そのときの個人的なお気に入りの順番といえば次のとおり。

 
 1 バックハウス  2 リヒテル  3 内田光子  4 アラウ  5 ケンプ  6 
ミケラジェリ  7 ブレンデル  8 グールド


         

       


ちなみに、天才の名にふさわしいピアニストのグールドがこのベートーヴェンの至高のソナタともいえる作品でドンジリというのはちょっと意外・・。

しかし、これは自分ばかりでなく世評においてもこの演奏に限ってあまり芳しくない評価が横行しているのだが、その原因について音楽好きの仲間が面白いことを言っていた。

『グールドはすべての作品を演奏するにあたって、いったん全体をバラバラに分解して自分なりに咀嚼し、そして見事に再構築して自分の色に染め上げて演奏する。

だが、この簡潔にして完全無欠の構成を持った「作品111」についてはどうにも分解のしようがなくて結局、彼独自の色彩を出せなかったのではないだろうか。』


グールドの演奏に常に彼独自の句読点を持った個性的な文章を感じるのは自分だけではないと思うが、この「作品111」にはそれが感じられないので、この指摘はかなり的(まと)を射たものではないかと思っている。

天才ともいえる演奏家がどんなにチャレンジしても分解することすら許さない、いわば「付け入る隙(すき)をまったく与えない」完璧な作品を創っていたベートーヴェンの晩年はやっぱり凄いと思う。



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「いい音」って何?

2024年07月12日 | 音楽談義

我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」がおおよそ一体化している積りだが、いったい「いい音って何?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書では様々な作曲家や演奏家について取り上げている。たとえば

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手
2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走
3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”
4 ワーグナー  フォルクからの世界統合
5 マーラー  童謡・音響・カオス
6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速
7 カラヤン サウンドの覇権主義
8 カルロス クライバー  生動する無
9 グレン・グールド  線の変容

といった具合。


この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がダンゴになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」


これはオーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因がありそうだ・・。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて透明感や分解能に優れ、なおかつ奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけたあの「スピーカー」も、逆に捨てがたい味があったのかもしれないとちょっぴり反省(笑)~。

ずっと以前のブログで村上春樹さんの「バイロイト音楽祭」の試聴記を投稿したことがあるが、その会場ではオーケストラ・ピットが沈み込んでおり、その音が大きな壁に反響して「音が大きな一つの塊のようになって響く」とあったのを思い出した。

そういえばフルトヴェングラーが指揮したあの感動的な「第九」(バイロイト祝祭管弦楽団)がまさしくそういう音で、こういう「鬱蒼とした音の塊」からしか伝わってこない音楽があることも事実で
「いい音って何?」、改めて考えさせられる。

次いで、グールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄してスタジオ録音だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

 グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。


したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、40年以上にわたってグールドを聴いてきたので “いかにも” と思った。

「音楽は生演奏に限る・・、オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの「音楽好き」なんだろうか・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていたとされる理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオ・システムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる・・、さらには個人ごとの好みも加わってくるのでもう無限大といっていい。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、とはいえ、その一方では何となく虚しい気持ちになるのはいったいどうしたことか・・(笑)。 



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読書コーナー~音楽の本~

2024年07月09日 | 音楽談義



図書館の「新刊コーナー」でたまたま見つけたのが「交響曲名盤鑑定百科」という本。

「交響曲」でいちばん好きなのは「第39番K543」(モーツァルト)なのでどういう鑑定をしているのか、真っ先に目を通してみたところガッカリ・・、肝心の「第4楽章」に言及していない。

50年以上も前に読んだ「モーツァルト」(小林秀雄著「無私の精神」所蔵)では、この4楽章についてこう書かれている。

「部屋の窓から明け方の空に赤く染まった小さな雲の切れ切れが動いているのが見える。まるで「連なった♪」のような形をしているとふと思った。

39番のシンフォニーの最後の全楽章が、このささやかな16分音符の不安定な集まりを支点とした梃子(てこ)の上で、奇跡のようにゆらめく様はモーツァルトが好きな人ならだれでも知っている」

以上のような表現だが、この「揺らぎ」こそモーツァルトの音楽の真骨頂なのに、これに触れないなんて音楽評論家としてあるまじき行為だと思うよ~。

腹が立ったので、もう読まずに返却することにした(笑)。

もう一冊・・。



「宗教音楽の手引き」に目を通していたら、次のような箇所があった。(60頁)。

「クリスマスが近づいてきました。一時代前の日本ではクリスマスというと顔を真っ赤にして酔っ払ったご機嫌の紳士がケーキの箱をぶらさげて きよしこの夜 を歌いながら千鳥足で歩く姿をよく見かけたものでした。

それでも普段キリスト教に関心を持たない日本人が年に一度でもキリストの誕生を祝う気持ちになるならそれはそれでいいことだと思っておりましたが、どうも話はそう簡単ではなかったようです。

その頃たまたまテレビを見ておりましたところ、若い芸能人たちが「連想ゲーム」をしていました。「クリスマス」という題を出されて、それぞれ「プレゼント」「シャンパン」「パーティ」などと言い合っています。その中で一人だけ気の利いた若者が「キリスト」と言ったとたん「バカァー、お前、何言ってんだョー」「何の関係があるんだよョー」と一斉にののしられ、当人も自信をなくして「アア、そうか」と引き下がってしまったのです。

なるほど、これが日本の現実かとわたくしはしばらく考え込んでしまいました。」

そして、各国のクリスマスの祝い方に移り「アメリカは商業的」「ヨーロッパは地味で静かで、フランスは聖夜のミサが秘かに捧げられ教会堂から流れ出る鐘の音がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出す、もっとも好ましいのはドイツで質実剛健で浮かれ上がったところが無く堅実で素朴です」といった具合。

ブログ主は「クリスマス」に限らず、外国の風習を安易にとり入れる日本独特の浮かれ方について、苦々しく思っているうちの一人です。

あっ、そうそう、ふと思い出した・・、何かの雑誌に書いてあったことだが、「イブともなると若者たちで都会のラブホテルが満員になる、聖なる夜をみだらな性欲で汚さないで欲しいと外国人が嘆いていた」というお話。アハハ、と笑い話で済ましていいのかどうか・・。

皆さまはどう思われますか?

さて、本論に移ろう。

宗教曲といえば死者の霊魂を天国に送る「レクイエム」、正式には「死者のためのミサ曲」に代表される。日本でいえばお坊さんの念仏みたいなものですかね~。

本書では「レクイエム」の代表曲として「ガブリエル・フォーレ」と「モーツァルト」が挙げてあったが、まったく異論なし~、「ヴェルディを忘れちゃいかん!」と怒り狂う方がいらっしゃるかもねえ(笑)。

前者には「クリュイタンス」盤が推薦してあったが、「ミシェル・コルボ」盤を忘れてはいませんかと言いたくなる~。

後者では「ワルター」盤と「ベーム」盤が推してあったが、ちょっと古いかなあ・・、近代の名演をご存知の方があればご教示ください。



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悪貨は良貨を駆逐する

2024年07月07日 | 音楽談義

前々回のブログ「理系人間にクラシック好きが多い理由」の続きです。

大好きな音楽を聴くときに「数学」を意識する方はまずいないと思うが、じつはその底面下にはそれが秘かに横たわっているというお話。



本書を読んでみたが、なにぶん自分の読解力では荷が重すぎたようで完全に理解するにはほど遠かったが、概ね理解できたエキスだけを記して恰好だけつけておこう(笑)。

「古代ギリシャでは数論(算術)、音楽、幾何学、天文学が数学の4大科目とされていた。そのうち音楽は数の比を扱う分野とされ、美しい音楽は調和のとれた音の比によって成り立っており、それこそが美の原点と考えられた。

もっともよく協和する二つの高さの音は1対2の関係(つまり1オクターブ)により作られているというように、ここでは常に音は数と対応して考えられ、また美しい数の比は美しい音楽を表すとも考えられた。

そもそも音楽は数学とは切っても切れない関係にあり、メロディーもビート(拍)も和音も、数の並びそのものである。つまり書かれた音符は数の並びなのである。数として認識された音は、身体的行為としての演奏を通して音楽になる。

したがって、私たちは何気なしに音楽を聴いているが、それは無意識のうちに数学にふれていることにほかならない。

「音楽を考えることは数学を考えることであり、数学を考えることは音楽を考えることである」
 

とまあ、簡単に噛み砕くと以上のような話だった。

どんなに好きな音楽であろうと長時間聴くと自然に(頭が)疲れてしまう経験もこれで説明がつくのかもしれない。

とにかく、本書は超難しかったけど音楽と数学とは切っても切れない縁を持っており、これで理系人間に音楽好きが多い理由が、何となく分かってもらえたかな~?

「ど~もよく分からん、もっと詳しく知りたい」という方は、直接本書を読んで欲しい(笑)。

さて、実はこのことよりも、もっと興味のある事柄がこの本には記載されていたのでそれを紹介しておこう。こういう思わぬ“拾いもの”があるから濫読はやめられない。

第3章では数学家(桜井氏)と音楽家(坂口氏)の対談方式になっており、数学の観点から「アナログのレコードとCDではどちらの音がいいか」について論じられた箇所があった。(158頁)

数学家「これは数学と物理学で説明できます。デジタルを究極にしたのがアナログです。レコードの音はアナログだから時代遅れだと思う方がいるかもしれませんが、数学を勉強した人は逆なのです。アナログの音が究極の音なのです。

CDは1秒間を44.1K(キロ)、つまり4万4100分割しています。その分割した音をサンプリングと言って電圧に変換してその値を記録する。これをA/D(アナログ→デジタル)変換といいますが、このCDになったデジタルデータはフーリエ変換によってアナログに戻されます。

しかし、レコードの原理はマイクから録った音の波形をそのままカッティングするので原音に近いのです。だから究極では情報量に圧倒的な差があるのです。CDは情報量を削っているから、あんなに小さく安くなっていて便利なのです。」

音楽家「ただし、アナログで圧倒的にいい音を聴くためには何百万ものお金が必要になりますよね(笑)」

数学家「それなりのリスニングルームとそれなりの装置と、そこに費やされる努力はいかほどか・・・。だから趣味になってしまうんです。それはやはり究極の贅沢みたいなことになります。そんなことは実際に出来ないということでCDができて、さらにiPodができて、どんどんデジタルの音になっています。」

音楽家「結局、それで一つの文化というものが作られました。アナログの時代には“オーディオマニア”という人種がいたのだけれども、今、そういう人種はいなくなってしまいましたね。ほんのわずかに残っているみたいですが。」

その「ほんのわずかに残っている人種」のうちの一人が自分というわけだが(笑)、いまだに続いているアナログとデジタルの優劣論争においてこの理論は特に目新しくはないものの、いざ改めて専門家からこんな風に断定されると、
「ハイレゾ」をどんなに詰めてみても所詮「アナログには適わない」ということを頭の片隅に置いておいた方が良さそうだ。

我が家のケースではもう20年以上も前にワディアのデジタルシステムを購入してアナログとあっさり手を切ったわけだが、それではたしてよかったのかどうか?

その後にはさらにエスカレートして「ワディア」から「dCS」に乗り換えてしまったがこれらの機器の
値段を書くと「お前はバカの上塗りか!」と言われそうなので差し控えるが、これだけのお金をアナログに投資する術もあったのかもしれない。

   

つい最近も仲間のお宅でレコードの音を聴かせてもらったが実に自然な「高音域」が出ているのに感心した。

いまだにアナログに拘る人の存在理由を現実に思い知らされるわけだが、貴重なレコード針が手に入りにくくなったり、ターンテーブルの高さやフォノモーターの回転精度、アームの形状で音が変わったり、フォノアンプの性能に左右されたり、有名盤のレコードがたいへんな値上がりをしていたりと、いろいろ腐心されていたのでレコードマニアにはそれなりの悩み(楽しみ?)もあるようだ。

また、DAコンバーター、真空管プリ・パワーアンプ、あるいはスピーカーなど周辺システムに細心の注意を払ったCDシステムと、幾分かでもそれらに手を抜いた場合のレコードシステムのどちらが「いい音」かという総合的な問題も当然残る。

結局のところ、俯瞰(ふかん)しないと、その優劣について何ともいえないのがそれぞれの現実的なオーディオというものだろう。


まあ、CDにはCDの良さもあって、前述のようにソフトの安さ、取り扱い回しの便利さなどがあるわけだし、今さらアナログに戻るのはたいへんな手間がかかるし、第一、肝心のレコードはすべて処分してしまっている。

もはや乗ってしまった船でオーディオ航路の終着駅もぼちぼち見えてきたので、CDで「潔く “まっとう” するかなあ」と思う今日この頃~。

あっ、そうそうこのところ聴いてる音楽ソースといえば 昔好きだった希少な曲目をタダで聴ける、そしてリモコン一つで簡単に聴ける 「You Tube」オンリーになっているが音質にまったく不満はないので大いに重宝している・・、「悪貨は良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)のかな~(笑)。



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理系人間にクラシック好きが多い理由

2024年07月05日 | 音楽談義

「音楽、特にクラシック好きは理系人間に多い」これは争えない事実だと思う。

実際に身辺を見回してもお医者さんあたりに該当者が多いし、ちょくちょく我が家にやって来る高校時代の同級生(福岡在住3名)だってそう。


いずれも理系出身で、卒業後の進路は建築科、機械科、電気科と見事に色分けされるし、自分だって理系の “端くれ” なのでいわば4人すべてが理系を専攻している。

”たまたま” かもしれないが、「4人そろって」となると確率的にみてどう考えても意味がありそうである。

全員がオーディオというよりも音楽の方を優先しているタイプで音楽を聴くときに、より興趣を深めるために仕方なくオーディオ機器に手を染めているというのが実状である。

これは、なかなか興味深い事象ではなかろうか。

周知のとおり、ほとんどの人が高校時代に大学受験のため「文系と理系のどちらに進むか」の選択を迫られるが、これはその後の人生をかなり大きく左右する要素の一つとなっている。そのことは、一定の年齢に達した人たちのそれぞれが己の胸に問いかけてみるとお分かりだろう。

「自分がはたして理系、文系のどちらに向いているか」なんて、多感な青春時代の一時期に最終判断を求めるのは何だか酷のような気もするが、
生涯に亘る総合的な幸福度を勘案するとなれば、なるべくここで誤った選択をしないに越したことはない。

現代でも進路を決める際の大きな選択肢の一つとなっているのは、おそらく本人の好きな科目が拠り所になっているはずで、たとえば、数学、理科が好きな子は理系を志望し、国語、英語、社会などが好きな子は文系志望ということになる。もちろんその中には「数学は好き」という子がいても不思議ではない。

それで概ね大きなミスはないのだろうが、
さて、ここからいよいよ本論に入るとして、なぜ、音楽好きは理系人間に多いのだろうか。

その理由について実に示唆に富んだ興味深い本がある。

                      

音楽と数学の専門家によって書かれた本書の
序文の中で音楽と数学の関わり合いについてこう述べられている。

「私たちは、数の世界の背後には深い抽象性があることを、ほとんど無意識で感じています。音楽によって与えられる快感は、ときにはこの抽象世界の中を感覚的に漂う心地よさで高まり、それは広がっていく心の小宇宙に浮遊し、魂が解放されるような感動まで到達することがあります。~中略~。音楽は数の比によって成り立っており、それを考える数学の一分野です。」(抜粋)

抽象的だけどなかなか含蓄のある文章だと思うが、要するに音楽は数の比によって成り立っており数学の一分野というわけ。

以下、さらに分け入ってみよう。

続く。


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音楽ソースに振り回される「悲しいオーディオ」の顛末

2024年07月02日 | 音楽談義

クラシック愛好家なら「ワグネリアン」という言葉をご存知のはずですよね!

とはいえ、読者の中にはジャズ愛好家もいらっしゃることだろうし、確率は五分五分くらいかな~。

一言でいえば「リヒャルト・ワーグナー」(1813~1883年)の音楽が好きで好きでたまらない連中を指す。

昨日(1日)のこと、梅雨真っ只中の鬱陶しい気分を吹き飛ばそうと久しぶりに「ワルキューレ」(ショルティ指揮)を聴いてみた。

すると「威風堂々と辺りを睥睨(へいげい)する」かのような独特の音楽に大いに痺れてしまった。

平たくいえば、自分がまるで天下の英雄になったかのような痛快な気分とでもいおうか・・、なるほどとワグネリアンの心境の一端が分かるような気がした。

そういえば第二次世界大戦のさなか、あの「ヒトラー」(ドイツ)が聴衆を鼓舞するのにワーグナーの音楽をよく利用していたことは有名な話。

たとえ一時的にせよ「こういう錯覚」を起こさせてくれるのだから「凄い音楽」である。

これまでにもたびたびワーグナーの音楽に親しんできたがこういう気分になったのは初めてで、これは明らかにオーディオ・システムのおかげ・・、というか豊かな低音域を誇る「ウェストミンスター」(改)の面目躍如といったところかな~(笑)。

あの「五味康佑」さんの言葉・・、「オートグラフはワーグナーを聴くためにつくられたスピーカーだ」と、一脈通じるものがあると思いますよ~。



というわけで、いつものように「熱に浮かされるタイプ」(博多弁でいえば「逆上(のぼ)せもん!」ですな)なので次から次にワーグナー三昧。

  

聴けば聴くほどに凄い音楽ですよ~(笑)。

で、そのうちいつものように「欲」が出てきた・・、もっとスケール感が出るといいなあ


というのも、ワーグナーを聴いている限り、通常の音の「彫琢とか艶とか奥行き感」などの「”ちまちま”した音質」の心配は吹っ飛んでしまう、というか、もう ”そこそこ” でいい(笑)。

とにかくマッシブで雄大で力強い低音が出てくれればそれで十分な気になるのが不思議。こればかりはもう「ワーグナーの魔法」にかかったとしか言いようがない。

で、この低音域に相応しいアンプをあてがうとなると、我が家の9台のアンプの中では「EL34プッシュプル」アンプにとどめを刺すといっていい。

我が家では一番の「力持ち」だが、やや繊細さに欠けるところがあって、日頃はめったに登板の機会が無いアンプ・・。



こうして「ワーグナー」さんのおかげで、眠っていた「アンプ」が見事に蘇ってくれました~、メデタシ、メデタシ。

以上、音楽ソースに振り回される「悲しいオーディオ」の顛末でした(笑)。



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音楽をタダで聴ける 夢のような時代 がやってきた

2024年06月23日 | 音楽談義

今朝、起床した時(4時30分)の気温は27℃だった、窓を開け放した状態でこれだから今年いちばんの高温・・、いよいよ本格的な夏の到来ですか~。

さて、一年ほど前のブログで「百花繚乱のソプラノ歌手たち」と題して投稿したことをご記憶だろうか・・。

そして、つい最近、新たなソプラノ歌手を発掘したので一部重複するけど改めて記録しておこう。

テレビの故障による買い替えに伴い、内蔵された「You Tube」にリモコンで簡単にアクセスできる様になってからおよそ一年、あらゆるクラシック音楽が手軽に聴けるようになって、ちょっと大げさだが「狂喜乱舞」状態になり、今でもその余波が続いている(笑)。

たとえば、昔から大好きなモーツァルトの宗教曲「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ K165」は「ソプラノ歌手と小編成の管弦楽団」という素朴な組み合わせだが、日本ではそれほどポピュラーな曲目ではなくどんな演奏会でもプログラムに入っているのをこれまで見たこともないし、聞いたこともない・・。

ところが、「You Tube」のテレビ画面でこの曲を検索してみると、ずらりとこの曲のアルバムが登場してくるから驚く。

欧米ではこういう曲目が中世風の素敵な小ホールで、まるで当たり前のように数限りなく演奏されていることに少なからずショックを受ける。日常的に宗教音楽がとても身近に鑑賞されているのだ!

延々と続いてきた伝統に深く裏打ちされた西欧の「精神文化」は、急に成金になった国々や科学技術がどんなに進展した国であろうと、 揺るぎない堅城を誇っている ような気がする。

で、たくさんのソプラノ歌手たちの歌唱を次から次に楽しませてもらったが、その中でも特上だと気に入ったのが次の2名の歌手。

「Stefanie Steger」(ドイツ)



はじめて聴く歌手だったが、声の張りといい、伸び具合といいたいへんな逸材ですね、おまけに見てくれもいい。もう、ぞっこんです(笑)。

そして、次は「Arleen Auger」(アーリーン・オジェー)



いかにも落ち着いた佇まい、自信に満ち溢れた表情のもと、その揺るぎない歌唱力に感心した。こんな歌手がいたなんて・・、大発見である。

急いでネットでググってみると、エ~ッ、1993年に59歳で鬼籍に入っていた! ガンだったそうでまだ若いのに・・。

ほかにもありまっせ~。

歌劇「死の都」(コルンゴルド作曲)はそれほど有名ではないが、その中の曲目「マリエッタの歌~私に残された幸せは~」は名曲中の名曲で、何度聴いても胸が熱くなる。

この一曲だけで「死の都」の存在価値があると思えるほどで、ほら、歌劇「カバレリア・ルスティカーナ」だってあの有名な「間奏曲」で持っているのと同じようなものかもね~。

で、「マリエッタの歌」も演奏会のプログラムに頻繁に登場しているようで、次から次にいろんな歌手が楽しめる。

シュワルツコップ、ミゲネス、オッター、そして日本人の「中江早希」も十分伍しているので楽しくなる。

名前は不詳だがこの歌手も大変良かった。



こうして、次から次にお気に入りのソプラノ歌手たちがタダで発掘できるのだから、もう時間がいくらあっても足りない(笑)。

そういえば、昔の演奏会のプログラムは「ソプラノ」が中心だったんですよねえ。

裏付けるために、「クラシック名曲全史」にあったプログラムを引用しよう。



「1783年のモーツァルトの音楽会のプログラム」

いわば240
年前の「音楽会」の演目なので極めて珍しいが、モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったので、換算すると27歳のときの演奏会になる。

ウィーンで開かれたそのときの演奏会のプログラムの内容はこうだ。

1 序曲「ハフナー」交響曲

2 オペラ「イドメネオ」よりアリア(ソプラノ)

3 ピアノ協奏曲K415(モーツァルト演奏)

4 オペラのシェーナK369(テノール独唱)

5 「ポストホルン」セレナードの協奏曲楽章

6 ピアノ協奏曲K175(モーツァルト演奏)

 

7 オペラ「ルーチォ・シッラ」よりアリア(ソプラノ)

8 モーツァルトのピアノ独奏

9 オペラのシェーナK416(ソプラノ独唱)

10 終曲(序曲の終楽章)

解説によると、当時の音楽会の目玉演目はいつも声楽であり、注目されるのも声楽家たちだった。

1番と10番はオーケストラだけの演奏で、まだ電気も発明されておらず普及していない時代なので1曲目の序曲は開幕のベル代わりであり、最後の10曲目にあたる終曲は終了の合図だった。

つまり交響曲はベル代わりで「前座」のようなものでありコンサートの華は歌曲だった。

とまあ、コンサートの華が歌曲だったということに大いに興味を惹かれる。人の声(ボーカル)は昔も今も変わらない「最高の楽器」なのでしょうね。

我が家の音楽鑑賞においても中心となるのはやはりボーカルだが、その再生は簡単そうに見えて実はオーディオ機器の弱点を洗いざらい白日の下にさらけ出す手強い難物でもある(笑)。

そして、つい最近発掘したのが「レグラ・ミューレマン」(スイス)で、グリーク作曲「ソルヴェイグの歌」(歌劇ぺールギュント)が惚れ惚れするほどいい! ほかにも「モーツァルト」の歌曲なども れっきとしたレパートリー と来ている!!



今や各種演奏会に 引っ張りだこ だそうだがたしかに非の打ち所がない歌唱力と容姿に毎日ウットリ~(笑)。

それにしても、ひところでは夢想だにしないほどの「音楽をタダで聴ける夢のような時代」が実際に現実のものとなりましたね。

これも「You Tube」のおかげです・・、仕組みを考え付いた人たちに足を向けて寝れませんな(笑)。

おっと、最後に・・、オーディオのことだけど「192KHz」のハイレゾで「You・・」を聴いてるけど、CDと何ら遜色(そんしょく)を感じませんよ~。



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「音楽は楽譜で読むもの」なのか

2024年06月17日 | 音楽談義

図書館で新刊本の「ノーベル文学賞」というタイトルの本をざっと立ち読みしたところ、近年の選考基準は既に世界的に著名な作家、いわばポピュラーになった作家には与えない方針とかで、昔は既に有名になっていた「ヘミングウェイ」なども受賞しているのに、まことに手前勝手な都合のいい話だが何とも仕方がない。

これまで有望とされてきた作家の村上春樹さんはもはや有名になり過ぎたので、その目はもう無くなったというのが大方の見方だろうか・・、ただし村上さんは「エリーティズム」には程遠い作家なので、ノーベル文学賞を受賞できなくてもおそらく何ら痛痒を感じていないことだろう。

音楽好きで知られる彼の著作は希少なので見逃せない存在だが長編については、このところ根気がなくなってしまいなかなか読む気にならない・・、ただしインタビュー形式のエッセイは率直な語り口で非常に面白いので、機会あるごとに目を通している。

最近では、「村上春樹インタビュー集」~夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~が面白かった・・、何と19本のインタビューが紹介されている。

               

つい読み耽ってしまったが、185頁に音楽ファンにとっては実に興味のある問答が収録されている。

「20世紀の偉大な文学作品の後にまだ書くべきテーマがあるでしょうか?文学にはもはや書くべきテーマも、言うべきものごともない、という意見に同意されますか?」

と、外国の愛読者が発する問いに対して村上さんはこう答えている。

「バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。」

とあり、以下長くなるので要約すると「音楽を作曲したり物語を書いたりするのは”意味があるからやる、ないからしない”という種類のことではありません。選択の余地がなく、何があろうと人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」とあった。

文学的には、村上が理想とする書いてみたい小説の筆頭は「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小説に必要なすべての要素が詰まっているそうで、そのことを念頭に置いて解答しているわけだが、興味を引かれるのは音楽的な話。

「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人組に対して、はたして他の作曲家の存在意義とは?」

これはクラシック音楽において常に問われる「旧くて新しい」テーマではないだろうか。

ほかにも「ブラームス、ワーグナー、マーラー、ブルックナーなどが居るぞ」と声高に叫んでみてもこれら三人組の重量感にはまったく抗しようがないのも、なんだか虚しくなる事実である。

とりわけ我が家では作曲家たちを「大木」に例えると、太い「幹」に当たる部分がモーツァルトでほかは「枝葉」に過ぎない・・、なんだよねえ~(笑)。


本書には、もうひとつ音楽に関して興味あることが書かれてあった。(312頁)

村上さんは映画が好きで青春時代に台本(シナリオ)を読み耽ったそうだが、それが嵩じてそのうち自分なりの映画を空想の中で組み立てていくクセがついてしまった。

それは、近代音楽の雄であるアーノルド・シェーンベルクが「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ。」と、言っていることと、ちょっと似ているとのこと。

「実際の音は邪魔だ」とは実にユニークな言葉である


「楽譜を読みながら音楽を頭の中で想像する」ことが出来れば実にいいことに違いない。第一、それほど広くもない部屋の中で我が物顔で大きなスペースを占めているオーディオ・システムを駆逐できるのが何よりもいい(笑)。

「文学」は文字という記号で行間の意味を伝える仕組みになっているが、音楽だって音符という記号で情感を伝える仕組みだから同じようなものかもしれない。

もしかして、楽譜が読める音楽家がオーディオ・システムにとかく無関心なのもその辺に理由があるのかもしれないですね。

人間が勝手に描くイマジネーションほど華麗なものはないので、頭の中で鳴り響く音楽はきっと素晴らしいものに違いない。


これから音楽を聴くときはできるだけ頭の中で想像しながら聴くことにしようと心掛けたいところだが、この歳になるともう無理だよね~(笑)。



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