「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~「メーカーの技術屋さんは信頼できるの?」最終第3部~

2011年12月30日 | オーディオ談義

前々回からの続きです。3回シリーズのこれが最終段です。

(これが本年最後の投稿になりますが、今年も読者の皆様から元気をもらったおかげでどうにか続けることができました。ありがとうございました。どうか良いお年を迎えられますように~。


したがって、最初からこの種の製品に対してはある程度疑惑の眼を向けていて、果たして手を抜いているのか、いないのか漠然とながらも常に判断するのがクセになっている。もちろん、その製品の値段と見合った範囲内での話だし、自分の耳にそれほど自信を持っているわけでもないが。

こういうクセがついたのも、けっして責めを負わせるわけではないがオーディオ仲間のN・Mさんの影響も否定できない。

N・Mさんは、現在は引退されているが若い頃は実際に首都圏のオーディオメーカーに勤めておられた方で、どちらかといえばオーディオよりも音楽を優先される方。

メーカーに勤務されている時代、周囲で大学の電気系を出たてのホヤホヤの技術者や、何ら音楽への興味を持っていない技術者の連中たちが企画設計の段階からアンプづくりに携わり、コストダウンと物理特性だけをたよりに「音楽性に欠けた」製品を次々に量産化していくのをずっと目(ま)の当りにしてこられ、
「メーカー製品は当てにならない」
というのが持論である。

まあそういうわけで、裏事情にも詳しいN・Mさんからオーディオ評論家たちも含めてメーカーの実状を散々聞かされたこともあるし、実体験上でもメーカー既成のネットワークの悪さ加減を認識していたので「一事が万事」というわけでもないが、どんな有名ブランドであろうと「技術力、恐るるに足らず」という気持ちが植えつけられたことは否定できない。

たしかに、N・Mさんがご指摘のとおり音楽を愛好している人が自ら設計して作った製品は音質に独特の光芒を放っているようで、たとえばマランツの往年の名真空管プリアンプ「マランツ♯7」などはその筆頭だし、スピーカーではたしかJ・B・ランシングの初期の製品もそうだった。

そもそも「音」は「空気の振動」として伝わり、耳はそれを受け止める臓器にすぎず、実際に「聞こえる」と感じているのは脳である。もっといえば、もともとこの世には「音」なんてものは存在しておらず、各自の脳が勝手に「音」としてイメージしているだけである。


したがって、オーディオ機器の表現力には製作者の「脳のイメージ=美的感受性」がストレートに反映されているといっていい。

真剣にいい製品を手に入れようと思うのならどこの誰が作ったかわからないような「既製品」を購入するよりも、そういう技術者を発見、発掘して、そのうえで頭を下げて作ってもらうのが一番近道で確実な方法であることがこれでお分かりだろう。

しかし、よくよく考えてみると、「音楽愛好家」=「オーディオマニア」の図式でさえ難しいのに「音楽愛好家」=「オーディオマニア」=「高度な電気技術者」の連立方程式の成立なんて現実にはとても至難の業ではなかろうか。

高名な音楽評論家の吉田秀和さんのオーディオ装置を、どなたかのブログで拝見したことがあるが実に”こじんまり”としたシステム(たしかスピーカーはエラックだったと記憶している。エラックといえばずっと昔、愛用していたカートリッジのSTS-455Eを思い出す)だった。

もちろん、音楽評論の真髄を極めた方だからそれなりに深いお考えのもとに選択されたのだろうが、明らかに巷のオーディオマニアの範疇には入らないタイプである。

もともと人間の脳なんて「音楽=右脳の活用」、「物理学(電気技術)=左脳の活用」なんだから、お互いにまったく畑違いの分野であり、これは、もう”いい、悪い”を超越して生理学的な問題であることはたしかである。

とするなら、もはや機器のほうは「ある程度の段階」で諦めて、沢山「いい音楽」を聴いて個人としての美的感受性を磨き、音楽的なイマジネーション力を向上させる方が「正道」だという考え方も当然成り立つわけである。

作家の五味康祐さん(故人)がオーディオ関係の著作を通じて、しきりにこの辺を力説されていたのを、今となってはっきり思い出す。

ただし、機器を「ある程度の段階」で諦めるという話だが、実際にはこの「ある程度」という段階の具体的な見極めが実に難しい。どこでどういう区切りを付けるのか、マニアがいつも悩んでいるのもこの点にある。

自分もけっして例外ではない。これまでオーディオ機器を入れ替えるたびに「まあ、この辺ぐらいで止めとくかな~」と何度口(くち)ずさんだことだろう!財力とも大いに関係してくるしねえ~。

結局、マニアにとって「音楽」とは日頃使っているオーディオ製品(=製作者)に対する信頼感と愛情を抜きにして語れないわけだが、Mさんが言われるように「メーカーの技術屋さんに一目も二目も措く」のか、N・Mさんのように「メーカー製品は当てにならない」と思って聴くのか、この先入観によって音楽を聴く姿勢が随分と左右されるようである。

果たしてオーディオマニアにとっては、どちらが幸せなのだろうか。
 

これはとても自分の手に負えそうもない難題なので、逃げるわけではないが解答のほうは読者の皆さんに下駄を預けた方がよさそうである。

「あなたはメーカー製品を信頼しますか、しませんか?」

 


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独り言~「この心臓ならマラソンだって大丈夫!」~

2011年12月27日 | 独り言

以前のブログにも登載したように、今年の1月に「労作性狭心症」と診断され、即座に「心臓カテーテル手術」を受けて「ステント」を2本、心臓血管の狭窄した部分に挿入した。

退院する際には、
「1年後に再度カテーテル検査をしてステント部分の血管の詰まり具合を是非見せてください」との病院からのお達しだった。

その来年の1月が間近に迫る中、現在、心臓の自覚症状に違和感はまったくないものの、このまま何となく気になる状態で「正月」を迎えるのも「癪」なので早めに病院に行って先制攻撃を仕掛けることにした。

前回はなにせ始めての「心臓手術」におっかなびっくりで、わざわざ隣のO市の大病院を選んで手術を受けたが、「心臓カテーテル」は技術的に確立され安全な手術だと分かったので、今度は気楽な気持ちで車で10分ほどの交通の便がいい地元の公的病院で診てもらうことにした。

12月14日(水)~16日(金)にかけて二泊三日の小旅行気分で入院したが、15日の手術に備えて14日の夕方に主治医(以下、「O医師」)と面談。

まず自分から、こう切り出した。

「前回のO病院でのカテーテルの手術中のことですが、それこそ息をするのも苦しいほどで脂汗をビッショリ流しました。動脈硬化でニキビ状になった血管にステントを埋め込んだとき、プラーク(垢)が飛び散り一時的に毛細血管の一部が詰まったみたいです。

プラークが飛び散りそうなときはステントの両端にパラシュートをつけて回収するようになっていると聞いていたのですが、どうもお医者さんがそういう処置をやってくれなかったみたいで、もしかして後遺症が残っていないかと心配です。術後の血液検査でも心臓細胞の一部破壊が数値として明らかに出ていました。」とやんわり申し上げた。


すると「心臓血管に異物を入れるときは生体が拒絶反応を起こしますので、ステントにパラシュートを付けるかどうかは医師の判断に任されていますが、やはり異物には違いないのでなるべく容れない方がいいと思いますよ・・・。とにかく必要な処置を施したら素早く撤退するのが原則です。前回のときは手術中に一時的な軽い心筋梗塞を起こされたのでしょうね~」と、明らかに思い当たる節のありそうな顔をしながら当たり障りのない返事をするO医師。

年齢的にはまさに脂の乗り切った40歳代くらいの温厚そうな方だったのでまずはひと安心。何せ自分の命を100%委ねる相手だから人間観察にはひときわ慎重になる。

ここまで言っておけば、念には念を入れて慎重に手術をやってくれるに違いない。

翌15日は、予定きっかりの13時から手術開始。

文字通り、まな板の上の鯉で手術台の上で覚悟を決めて深呼吸を繰り返す中で前回どおり右手首からカテーテルを挿入されたが今回は明らかにカテーテルが心臓に届くのが自覚症状としてわかった。

事前に同意書をとられたとおり、術中に人工的に心臓に痙攣をおこさせる薬を注入されて(心臓の)動きの反応を観察されたが、まったく異常がなかった。前回のときは1時間ほどかかったが、今回は滞りなく30分ほどであっさり終了。

その日の夕方、O医師から画像写真を見ながらていねいに説明があった。

「まったく異常はありませんでした。今のステントはレアメタルが使ってあってものすごく性能が良くなっています。以前は10人に2~3人の割合で再狭窄が見つかっていましたが、現在では一桁違っていて、100人に2~3人の割合になりました。

ステントを埋め込んだところが大きな血管となって中心的な役割を果たしています。ほかに一部の血管が細くなっているところがありますが、それをカバーするかのように他から血管が迂回してきています。この心臓ならマラソンだって大丈夫ですよ。そのために、ステントを容れたのですからね。心臓を大事にしすぎるとかえって筋肉がサボってしまいますから適度にハード・トレーニングをしてください。」
とうれしいお達し。

「いやあ、先生どうもありがとうございました」と、うれしさと感謝の気持ちいっぱいで、前もってカミさんから指図があったとおり「心付け」を少々包んだ。(こんなこと、書いていいのかな?)

その場で気持ちよく受け取ってくれたので、安心していたところ、退院後の翌々日、自宅に「現金書留封筒」が届いた。

「折角のご配慮の御品ではございますが、私ども〇〇病院に勤務する職員挙げて、綱紀の厳正な保持に取り組んでおり、皆様からのご贈答品につきましては固くご辞退申し上げているところでございます。お気持ちのみ、頂戴させていただきます。」という文面が添えてあって「心付け」がそっくり同封してあった。

医師への任意の謝礼で受け取ってもらえなかったのは今回が始めてのケースで、まさか送り返して来るとは夢にも思わなかったが、かえって現金書留代金の余計な出費をさせてしまい大いに恐縮したことだった。

さ~て、この宙に浮いた「お金」をどうすりゃいいのか「思案橋ブルース」だが、カミさんに正直に言おうか、それとも・・・。

なお、日ごろ運動ジムに通っているうちに顔見知りになった同年輩ぐらいのご婦人から、カテーテル手術の経過を詳しく訊かれたので、状況を正確に教えてあげると、その方のご主人がやはり狭心症気味でカテーテル手術を恐ろしがってなかなか病院に行きたがらなかったそうだが、自分の話を伝え聞いてようやく重い腰を上げて病院へ行こうと決断された由。

もちろん、ステントの挿入後は毎日、血液をサラサラにする薬が欠かせないのがデメリットの一つだが、94歳と11か月で今年の9月に亡くなった母は25年間ずっとこの薬を飲み続けたが副作用はまったく心配しなくてよかった。


このご婦人によると、自分が教えてあげた「この心臓ならマラソンだって大丈夫ですよ!」とのお医者さんの言葉が、どうやら強力な”プラス・イメージ”となって病院行きを渋るご本人の背中を力強く後押しした模様だ。

どうやら「ステント」を容れてしまうと行動に制約ができて半病人みたいになるという先入観があったらしい。

もしかして、
人助けに貢献できたかな?


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オーディオ談義~「メーカーの技術屋さんは信頼できるの?」第2部~

2011年12月23日 | オーディオ談義

前々回からの続きです。

自分がもし”ひとかど”のオーディオマニアだと思っているのなら、「いい音」というのは個人の「美的感受性」のレベルによって左右されると
分かっているはずなのに、オーディオ機器さえ上等なら簡単に手に入るという錯覚に陥りがちなのもこれまた悲しい現実である。

今回のタンノイとJBLのSPユニットの交換という大胆な試みも、「美的感受性」の重要さが自分の脳裡にきちんと刻み込まれていれば、とても思いもよらない発想だったのかもしれない。

けっして言い訳するわけではないのだが今回の当該ブログの趣旨は、「いくら神格化されたスピーカーでも使っているうちに、もし”音”に疑問を感じたり、飽いてきたときには、こういう思い切った使い方もありますよ~」というほんの軽い気持ちだったのだが、まさに「口は禍のもと」ならぬ「筆は禍のもと」、こうした奥深い考え方もあるのかと思うと(自分の軽率なブログに)少なからず恥じ入ったことだった。

ただ、地元仲間の湯布院のAさんからは、「ブログは個人の日記みたいなものですからねえ。あたりさわりのないことを書いても、ちっとも面白くありませんよ。たとえ常識はずれの低次元のことでも自分の信念のもとで思い切ったことを書かないとあなたの個性がうまく出ませんからね~」というご意見もあって、たしかにその辺の兼ね合いもあるところで、両方のバランスをうまくとるのが、まあ「センス」というものだろう。

ところで、ここからようやく本題に入らせてもらって今回のテーマは「メーカーの技術屋さんは信頼できるの?」である。

実は今回の件で、一番印象に残ったのはメールの中でMさんがいみじくも漏らされたように「一流メーカーの技術屋さんに一目も二目も措いている」という言葉である。

Mさんはオーディオ歴も長く真空管アンプを実際に自作される素晴らしい技術者である。

現在は会社をご退職されているが、これまでに故障した真空管アンプを2台ほど修繕していただいたが、きちんとした技術的な裏付けのもとに修繕や改善個所をきちんと写真にとって画像で送っていただき素人の自分に分かりやすく説明しながら進めるその親切な手法に感心しつつ、完了後の素晴らしい音色とその”たしかな腕”に驚嘆させられたものだった。これはまったくお世辞抜きの本心からの賛辞である。

おまけにクラシックが”大好き”ときていて以前、グールドのCD盤「イギリス組曲」(バッハ)をお借りしたこともあって、「技術力+音楽への深い造詣」のコラボレーションのほうも完璧でまさに技術屋さんとして「鬼に金棒」の方である。

そういう方だからこそ、「一流メーカーの技術屋さんに一目も二目も措いている」という言葉に、ひときわ深い印象を受けたというわけである。

実を言うと、自分はこれまでオーディオ評論家に対するのと同様にメーカーの技術屋さんに対してもたいへん不遜ながら、懐疑的な目を向けてきた一人である。

もちろん、お医者さんなどの富裕層がよく使っているアキュフェーズなどの精緻な高級製品などは、一般的な技術屋さんも含めて”介入する”余地はほとんどないといっていいが、真空管アンプなどの場合は部品数も少なく回路も比較的単純なので、いったん出来上がった製品でも可能性の宝庫みたいなところがあって実に面白い存在だといえる。

現在、自分も二つのシステムで3台の真空管アンプ(いずれも三極管のシングルで出力管はWE300B、PX25、2A3)をフル回転させているが、初段管や、出力管、コンデンサーの銘柄を変えるだけで音がコロコロ変わるのだから楽しみも多いが、一方ではその良し悪しの見極めもたいへんである。

以下、「第3部」へ続く。


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読書コーナー~「怪優伝・三国連太郎」~

2011年12月20日 | 読書コーナー

「役者と乞食は三日やったら止められない」という言葉を以前、目にしたことがあるが、「乞食」はともかく「役者」とはそんなに面白いものだろうか? 

映画俳優「三国連太郎」の映画人生を紹介した「怪優伝」(2011.11.20、講談社刊)を読んで、ようやくその理由の一端に触れる思いがした。

                 


とにかく映画の中の老人役に徹するために、大切な前歯を取ってしまうほどの打ち込みようだから、その執念たるや凄まじい。見るほうの観客は何もそこまではしなくてもいいのにと思うが、演じる本人にとってはそうもいかないのだろう。

通常のいわゆる一般人は、たった一度きりの人生の中で自分なりに培ってきた人間性と生き方のスタイルをずっと通したままで生涯を終わらざるを得ないわけだが、役者の場合はいろんな映画の役どころを演じることで仮初(かりそめ)とはいえ、様々な人格とか生き方を経験できるわけで、それが一番の「妙味」なのかもしれないと思った。

日本映画にはそれほど詳しいわけでもなし、「三国連太郎」という俳優はそれほどの大スターでもないと思うが、ある種独特の雰囲気を持った存在感があり、まさに本書の題名のとおり「怪優」という呼称がふさわしいように思う。

著者の「佐野真一」氏は「東電OL殺人事件」などのノンフィクション作家としても有名で、2009年に「甘粕正彦 乱心の荒野」で講談社ノンフィクション賞を受賞しているが、鋭い筆致で物事の核心に近づいていく迫力とスタイルはなかなかのもので、好きな作家のひとり。

本書は、佐野氏が三国氏にロング・インタビューしてその内容を紹介する形式で進められ、終わりに三国が自薦した10本の映画を三国の自宅でDVDで一緒に鑑賞しながら、三国の演技論や監督論、共演した男優や女優にまつわる話を聞いて、それを紹介するという内容になっている。

2010年の晩秋にインタビューが行われた内容が本書にそのまま結実したというわけだが、当時で三国は87歳だから、現在はもはや88歳の米寿である。本書の密度の濃さからいって、おそらくいずれは三国連太郎の映画人生を総括した記念碑的な著作になるのではなかろうか。

三国のただ一人の子息(長女は死亡)で同じく映画俳優の「佐藤浩市」との確執も興味深く紹介されている。

「浩市」の名前は三国が当時、一緒に仕事をしていた監督の「稲垣 浩」と「市川 崑」からそれぞれ一字を取ったそうで、同じ俳優としてのライバル心と父子の断絶に至る裏話(佐藤浩市が「役者をやりたい」と言ったとき、「だったら親子の縁を切ろう」と三国が言った)も面白いが、今でも親子の断絶は相当、根が深い。

映画の役作りに打ち込むあまり、一切、家庭を顧みることのなかった三国の方にどうやら非がありそうである。

三国がこれまでに出演したおよそ180本にものぼる映画の中から自薦した選り抜きの映画10本を本書に掲載された順に紹介すると次のとおり。

☆ 「飢餓海峡」 1965年 監督「内田 吐夢」

☆ 「にっぽん泥棒物語」 1965年 監督「山本 薩夫」

☆ 「本日休診」 1952年 監督「渋谷 実」

☆ 「ビルマの竪琴」 1956年 監督「市川 昆」

☆ 「異母兄弟」 1957年 監督「家城 巳代治」

☆ 「夜の鼓」 1958年 監督「今井 正」

☆ 「襤褸(らんる)の旗」 1974年 監督「吉村公三郎」

☆ 「復讐するは我にあり」 1979年 監督「今村昌平」

☆ 「利休」 1989年 監督「勅使河原 宏」

☆ 「息子」 1991年 監督「山田 洋次」 

著者によると、まったく、”ため息”が出るほどの戦後を代表する名監督ばかりだそうで、もちろん共演者たちも名優ぞろい。天皇として知られる「黒沢 明」の名前が見受けられないのが目を引くが、三国は監督から指示された通りの演技をしないタイプだからどうやら嫌われたらしい。

最後に、印象に残った記事を箇条書きに紹介すると次のとおり。

 役者同士って不思議ですよ。一緒にいると、どちらか必ず才能のある方にエネルギーが全部吸収されていくんです。

 共演した中で一番”きれい”と思った女優は「有馬稲子」さんで、”うまい”と思った女優は「望月優子」さん。共演してもまったく印象に残らなかった俳優として市川雷蔵、小川真由美などの名前が挙げられていて、緒方拳や二枚目スターだった鶴田浩二との確執も興味深い。

〇 私はつらい出征経験がありますが、一人で生き延びていくための術をいつの間にか身につけていました。たとえば危険を敏感に察知し、変わり身が早く危機的状況から退散する能力、これはほとんど動物的といってもいいくらいです。私が役者稼業を長く続けてこられたのも、ひょっとすると、この異能に負うところが大きかったかもしれません、と三国は述懐する。

このことを物語る話として、戦時中、中国で敵との交戦中に自分の所在が分かるからとあえて銃を撃たなかったと、およそ兵隊としてあるまじき卑怯な振る舞いを”あっけらかん”と語る三国の率直さ(?)にも驚いた。

最後に余計な一言だが、映画界というところは今さらながら男女関係が奔放なのには驚いた。本書の中でも監督と女優あるいはいろんな男優の女性遍歴が赤裸々に告白されているが、映画の究極のテーマは「愛」だろうから、芸の”肥やし”としてそれを地でいっているのだと言われればそれまでだが、何ともはや、表現のしようがないほどの乱脈ぶりである。

やはり一般人の常識では通用しないのが芸能界というところなんだろうか。それとも芸能界の方が正常なのかな~?


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オーディオ談義~「メーカーの技術屋さんは信頼できるの?」第1部~

2011年12月17日 | オーディオ談義

およそ2週間ほど前(12月1日付)のブログで、「タンノイ・ウェストミンスター」のエンクロージャーにJBLのD130ユニット(口径38cm)を取り付けるという思い切った(?)試みをしたうえで、その試聴結果を登載したところ、奈良県にお住まいのオーディオ仲間Mさんからメールをいただいた。

個人的なメールを公開するのはどうかと思いしばらく迷ったが、これからの「オーディオに対する指針」のひとつとして、読者の皆様にご参考にしていただければと考え直し、ご本人に了解を求めたところ「ご快諾」をいただいたので次のとおり登載させていただいた。

(ちなみに該当するブログのタイトルは「一歩前進、二歩後退」ですが、現在は自主的に「非公開措置」をとっています。わずか1日半だけ公開した、いわば”幻のブログ”です。)

                                   

「オーディオに日夜努力されている〇〇さん(自分のこと)には、非常に言いにくいのですが、今回のブログを拝読して私は次のような感想を抱きました。

メーカー既成のSPシステムをいじってユニットを入れ替えるのはあなたの趣味ですから仕方ありません。

また、あまり器用でないため怖さのあまりメーカー既成のスピーカーシステムを触(さわ)りきれないでいるブログ読者のために、実験して公開してくださるのですから読み応えはあると思います。

しかし、私は日頃から一流メーカーの技術屋さんには一目も二目も措いております。簡単に改造しようとはとても思いません。たしかに中には、ひどいメーカーもありますが、それは時が自然淘汰してくれているように思います


ここで、「一流メーカー」の定義についてちょっと補足しておきますと、名前だけで有名なだけなのか、真に一流なのかという点については世間が名器とし(名曲と同様に)、
自らの感性名器と判断したメーカーの技術屋さんという意味ですから、念のために申し添えておきます

ちょっと話が逸れますが私は『情熱の真空管アンプ』の著者「木村 哲」氏のホームページの文章に心から賛同しています。

結局は、(聴く人間に)「美的感受性」がなければ高額なオーディオ装置を手にして高いから素晴らしい音がする、程度のマニアになってしまうと思います。

長い文章ですので別添資料としますが、趣味の奥深い到達点の本質、根本をついていると思いますのでぜひご覧になって参考にしてください。

(該当箇所は、”私のアンプ設計マニュアル雑学編”「19良い音のアンプやオーディオシステムを実現するには」です。)
 

とにかく、繰り返しになりますが私は明らかにコストダウン目的と考えられるもの以外は改造しないことにしています。(特にスピーカーシステム)

スピーカー・システム
(五味康祐氏は特に一体であることの意味を込めてスピーカー・エンクロージャーと謂ってます)は、
スピーカー+音響設計+木工技術=スピーカー・エンクロージャーと考えております。

(昭和54年発行の”TANNOY”(ステレオサウンド)の五味康祐氏の”わがタンノイオートグラフから"はその意味でたいへん賛同できる文章です。)        

したがって、メーカーが自信を持って世に送り出した製品はもう再来などあり得ないわけです。もし、あるメーカーのスピーカー・システムの音に賛同出来ないのであれば、自作設計し自分の理想とするものを追求すべきでは、と思いますが
。」

いやあ、まったく「ご高説」のとおりで
・・・。

お互いに長い時間をかけて築き上げた(と思う)信頼関係のもとでMさんからこういう直截かつご親切な提言をいただくと、まことに清々しく、ありがたく、いたく感じ入ったことだった。

自分のブログはことさら深い考えもなしに実際に見聞し、体験し、感じたことをありのままに文章に移し替える作業をしているだけだが、中にはこうして個人の「美的感受性」にまで言及したうえで、メーカーの意図をきちんと思いやり、尊重する「ご意見」もあるわけである。

いくら「ブログ」とはいえ、公開する以上は慎重にならねばとつくづく感じたことだった。

それに「高額なオーディオ装置を手にして、”高いから素晴らしい音がする”程度のマニア」とは、これまた実に手厳しい表現。

こういう言葉を聞かされると、音楽的教養のない人間が高級装置の前で自慢げにしているのを見聞すると、その人物まで卑しく見えてくるから不思議だ。

しかし翻って「お前はどうなんだ?」と問われると、「いや、違う。俺は貧乏人だから高級品を持ったことはない」と言いたいところだが、過去に身の丈以上に背伸びした時代があったことはたしかだからあまり偉そうなことは言えない。

まあ、人並み以上に打ち込んだことは事実なので、とりあえず自分は「音楽優先のマニア」だからと言い訳けさせてもらっておこう。

以下、「第2部」へ続く~。


 
 


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オーディオ談義~「オリジナルよりも音がいい?コピーCD」~

2011年12月13日 | オーディオ談義

1週間ほど前に購入した「由紀さおり」(敬称略)のアルバム「1969」にすっかり”はまって”しまった。

このところ毎日のように聴いているが、万一、取扱い上のミスでこのCD盤に傷を入れたらたいへんだと、この際、予備としてコピー盤を作っておくことにした。

これまでに苦い経験があって、ひときわ大切にしていたウィーン・フィルのフルート奏者「ウォルフガング・シュルツ&ウィーン弦楽四重奏団」による「魔笛」のCD盤を裸のまま落としてしまい、アンプのトランスの角に当たって傷が入って、使いものにならなくなり、ショックのあまり寝込んでしまう(?)ほどだったので念には念をいれることにしたもの。

                

コピーは「著作権法」で禁止されているが、たしか自分だけで楽しむ分には許されているはず。

さて、こういう大切な愛聴盤をコピーするとなると、おのずからコピー先のCDーR盤もそれなりのものにしてあげたいものである。

そこで久しぶりにエース級の出番となって「CD-R for master」(以下、マスター用)の登場である。

     

発売元の「太陽誘電」によると、

〇 エラーレート、ジッター等を極限まで抑えるため、特別に製造した究極のCD-R

〇 新開発のプロテクトシートが傷やほこり、紫外線からディスクの記録面を保護

〇 マスターディスク制作のために特別に製造したCD-Rの品質を記録の直前まで維持

とある。

ずっと以前に購入したものだが、たしかその頃は1枚が400円前後したような記憶があり、(自分のような)貧乏人にはうかつに使えないCD-Rである。

定評のあるパソコン用外付けCDドライブ「プレクスター」により、読み込み速度「10倍速」、書き込み速度「4倍速」でコピー作業をしているうちに、ふとCD-Rの材質によってコピー盤の音質はどれくらい変わるのだろうかと、思いついた。

                   

現在、3種類のCD-R盤を持っていて、ほかの2種類のうちの一つは同じく太陽誘電の「CD-R for AUDIO」(以下、オーディオ用)で、開発者ゆえの高信頼性を標榜しており、まあCD-Rの中では中級品といったところで、たしか1枚が150円程度かな、そして、もう一つは量販品で1枚50円程度のデータ用のCD-R盤(以下、データ用)である。

       

ちなみに、CD-R盤を購入するときは開発者ゆえの初期投資があったことだろうとメーカーに敬意を表して「太陽誘電」ブランド(「That’s」)を努めて購入することにしている。これは奈良県にお住いのオーディオ仲間のMさんからのアドバイスによるもの。

さて、読み込み速度、書き込み速度がすべて同じ条件で3種類のCD-R盤が出来上がった。

さあ、いいよ試聴開始である。こういうときは湯布院のAさんのご意見もぜひ参考にしたいところなので連絡してみると「それは面白い実験ですね、私も大いに興味があります」というわけで、11日(日)16時から一緒に試聴ということに。

試聴した曲目は「1969」のアルバムの中から、9トラック目の「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?」1曲だけに絞った。この曲目はリズム感といい、スイング感といい大のお気に入りでAさんには悪いが繰り返し聴いてもあまり苦にならないから。

始めにオリジナルCDを聴いて、次に「データ用」「オーディオ用」「マスター用」の順に聴き、そして最後に再度オリジナルCDを試聴した。

当事者(自分)の感想よりもAさんのコメントの方が「信憑性」があるし、分かりやすいと思うのでそのまま記載してみよう。

 データ用はまったく響きが良くないです。中域の情報量が少なくて狭いし、オリジナルとは全然違います。全体の三角形が小さすぎます。

 オーディオ用は随分良くなりました。これは音楽になっています。しかし、ちょっと品がないというか、色気が足りませんね。由紀さおりが素っ気なく歌っている印象を受けます。

 マスター用は最初のピアノの音からして違います。すごい情報量です。これだとオリジナルに引けを取りません。解像力はちょっと落ちますが、むしろ声の「品」はこちらのほうが優っている感じです。

オリジナルの方が安っぽく聞こえます。CD-Rの素材の良さが際立っていますね。キメが細かく、なめらかでむしろ総合力ではオリジナルより上ではないでしょうか。CDメーカーもこのCD-Rの素材を使って録音して販売してくれるといいのですが。

ただし、繊細な「Axiom80」で聴くからこの違いがはっきり分かりますが、別のシステムではおそらく分かりずらいでしょうね~」。

最後に自分からほんの一言だが、「マスター用は”由紀さおり”の声がイギリス系の”いぶし銀”のような光沢を帯びて聴こえた」とだけ述べておこう。

参考までにCD盤の目方を測ってみると、「データ用」、「オーディオ用」、「オリジナル」がいずれも同じ19g、そして「マスター用」が20gだった。この1gの差に何か秘密でも隠されているのだろうか。

仮に「1969」のアルバムが世界中で500万枚売れたとして、CD素材が200円違うだけで
10億円のコストが浮くので、メーカーも簡単には妥協しないだろうが、(メーカーが)音質にも配慮してくれる時代の到来を期待したいものだ。

それにしても驚いた!

オリジナルよりも「コピーCD」のほうが”音がいい”なんて、いったいそういうことがあるのだろうか。(あくまでも我が家のシステムで聴けば、という条件つきだが。)

音質に関しては日頃、オーディオ機器の方に目を奪われがちだが、CD盤の素材の方も大切とはまったくの盲点だった。これから極め付きの愛聴盤はすべて「マスター用」CDーRにコピーしなければいけないのか。さあ、たいへん~。

前述したように傷が入った「シュルツ」のオリジナルCD盤もすぐに「マスター用」にコピーしてみたが、「プレクスター」には独自のデータ修復機能があるとみえて見事に雑音を克服して完全復活。オリジナルを上回る「コピーCD」に変身~。

これぞまさしく「怪我の功名」。


由紀さおりの「1969」もこれからは「マスター用CD-R」で聴くことにしたが、念には念を入れて「読み込み速度2倍速」「書き込み速度4倍速」の限界値により再度「マスター用CD-R」を作成した。ただ、ちょっと時間がかかり過ぎたのには閉口した。

さ~て、オリジナルCD盤はどのように処分しようか?「お役御免」で情け容赦なくオークションにでも出してみようか。

しかし、今は配信主体の「PCオーディオ時代」だから、「そんなものは必要ない」と”そっぽ(外方)”を向かれる可能性が高いなあ~。

まあ、お客さんが見えた時の比較試聴用として使いながら、話の”たね”にするのが一番いいのかもしれない。

 


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読書コーナー~「雑学四題」~

2011年12月11日 | 読書コーナー

「現役から退くと、暇を持て余してたいへんだよ。今からでもいいからぜひ何か熱中できる趣味を持っていた方がいいよ~」と、親切な先輩から散々聞かされていたが、いざその身分になってみると「音楽とオーディオ」という趣味をやっているせいで、時間がいくらあっても足りないほどでつくづく恵まれていると思っている。

この趣味はあまりにも面白くて魅力的すぎる!

ただ、その結果、一時的なフィーバーから身分不相応の”とんでもない”高額の機器を買いたくなったりするので、そういうときはちょっと熱を冷ます工夫が
必要である。

これまでを振り返ってみて自分の経験でいえば、無理して購入するよりも後になって「購入しないでよかった、助かった」と思うことのほうが多かった。

欲しくて欲しくてたまらなくなったときには、以前は「魚釣り」に行ったりして自分の気分を紛らわせていたものだが、近年は何となく「魚釣り」も億劫になりつつあって困っている。

あれは不思議なもので一度行くと病み付きになって次々に行きだすのだが、行かないとなるとパタリと途切れてそれがずっと続く。「釣り紀行」が中断してからもう2年半が経過している。

やはり家庭内で手軽に楽しめる趣味は間断なく長続きするというわけだが、若い頃の情熱ほどではないが今でも欲しくてたまらないものが2~3つあるので、
なるべく意識して、本を読んだり、テレビを観たりして幅広く「ムダ知識」の取得にも精をだし、趣味の振幅を広げることにしている。

そういうわけで、前置きが長くなったが今回は久しぶりに肩の凝らない「雑学」を四題ほどご提供。

                    

☆ 左腕投手をなぜ「サウスポー」と呼ぶのか

左利きの投手のことをサウスポー(southpaw)といい、左利きのボクサーもそのようにいう。サウス(south)は「南」、ポー(paw)は「手」を意味する。

それがどうして「左利き」になるのか。

サウスポーという言葉は19世紀末、アメリカの野球から生まれたものだった。その由来については二つの説がある。

まず一番目の説はかってアメリカのプロ野球では、南部出身の投手に左利きが多かったそうで、そこからこの言葉が起こったという。

二番目の説は、シカゴの野球場に由来するという説。その野球場は打者の目にまぶしい夕日が当たらないように、本塁が西側にあり、投手は東の方角から投球した。そうすると、左腕投手がボールを投げるとき、利き腕(左腕)が南に向くことになる。

そこから左腕投手のことをサウスポー(南の手)と呼ぶようになったという。果たしてどちらが正解なのだろう。

☆ 「スクール」は暇人が行くところ

英語のスクール(school)は、江戸時代には「書塾」「学習処」「稽古所」などと訳されていた。それを「学校」と訳するようになったのは、明治時代になってから。

もともとスクールとは古代ギリシア人にとっては暇つぶしの場であった。

スクール(school)の語源をたどっていくと、ギリシア語のスコーレ(schole)に行き着くがそのスコーレの意味は「暇、余暇」。

そこには「学ぶ」という意味はなかった。それがどうして「学校」という意味になったのか。古代ギリシアでは肉体労働は奴隷に任せ、学者や芸術家などの文化人や裕福な市民たちは暇を有意義に使って哲学や芸術などについて議論したりした。

そこからスコーレは「学問をするための暇」→「学問をする場所」に転じ、さらに「学校
」という意味を持つようになった。そしてスコーレをもとに、英語のスクールが生まれた。

☆ 「コーチ」は本来、馬車のこと

スポーツなどの技術の指導や訓練をすること、またはその人のことをコーチ(coach)という。しかし、それはコーチの本来の意味ではない。英語のcoachは、もともとは馬車をいう言葉であった。

15世紀、ハンガリーの首都ブダペストの近くのコーチという町で乗り心地のよい馬車(4頭立て4輪馬車)が作られ、ヨーロッパ中に広まり英語ではそれをコーチ(coach)といった。

それがのちに「家庭教師」「指導者」と言う意味にも用いられるようになる。それはどうしてか。

馬車(コーチ)は人を早く目的地へ運んでくれる。家庭教師の役割は教え子を訓練・指導して目的地(目標)へ連れていくこと。あるいは、馬車を走らせるには御者は相当の訓練・技術を要し勉強を教える家庭教師の役割と同じほど大切である。そんなところから、馬車と家庭教師が結びつくことになり、家庭教師のことをコーチと称するようになった。

そして、さらにスポーツの指導者を意味するようになった。

☆ 「ハンサム」はなぜ”手”と関係があるのか

目鼻だちの良い男、容姿の整った男のことをハンサム(handsome)という。(ただし近年、日本ではイケメンともいうが)。

英語のハンサムは形容詞で「立派な」「端麗な」という意味なのだが、日本語では名詞として用いられている。

handsomeのhandはもちろん「手」のことで、someは適性や傾向などを表わす形容詞語尾で、「~しやすい」「~の傾向がある」という意味。すなわちhandsomeとは「手が~しやすい」「手で扱いやすい」という意味。それがどうして美男子、好男子を意味するようになったのか。

あまり大きいもの、あまりに小さいものは手で扱いにくいし、形がいびつなものも扱いにくい。手で扱いやすいもの、それは形が良くて適当な大きさのものである。

そこから、手で扱いやすいことを意味するhandsomeは、転じて「形が良い」「立派な」→「顔立ちや風采が良い」という意味を持ったわけである。


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音楽談義~「由紀さおりの1969」ほか~

2011年12月06日 | 音楽談義

由紀さおり(敬称略)の「1969」というアルバムが欧米で大ヒットしているという。つい先日のNHKの朝のテレビ番組でも紹介されていたし、ネット情報でもすでにご承知のとおり。

12月8日付の朝日の朝刊「ひと」欄にも次のような紹介が。

              

「由紀さおり」の「夜明けのスキャット」は大好きな曲だった。大学を出て就職したての頃なのでもう40年以上も昔の話。

まさに「光陰矢のごとし!」。

当時はまだレコード全盛の時代で、45回転のドーナツ盤を購入して粗末な一体型のレコードプレイヤーでよく聴いたものだった。

今でもレコード盤には未練があってプレイヤーのほうはとっくの昔に処分したものの、倉庫の片隅に大切に保管しているので、この機会にと覗いてみたところ、LP盤ばかりでドーナツ盤はすべて整理したとみえて残念なことをしてしまった。

この「1969」には、文字通り1969年当時に流行った曲が収録されており、懐かしさのあまりすぐに購入しようといつものとおり「HMV」のネットで検索。

すぐに見つかったのはいいものの、同じジャケットの「1969」なのに値段に差があって、2、500円と1,200円とに分かれている。

一体どうしてだろうと、首を傾げながらもとにかく貧乏人なので安い方の1200円をクリックして「カート」に放り込んだ。3枚買うと送料がタダになるので、かねて狙っていたモーツァルトのクラリネット・クィンテットを2枚抱き合わせ。

うち1枚は、近年、売れ行きが良くて評判がいい「デイヴィッド・シフリン」とエマーソン弦楽四重奏団のコラボによるもので、もう一枚は歴史的な名盤とされるウラッハ盤。

このウラッハ盤はずっと以前に「20bit」のデジタル・リマスター盤を購入したのだが、明らかに失敗作で滅茶苦茶に悪い音質だったので、買い直すことにしたものだが今回は「変ないじり方」をしていない盤のようである。

現在の手持ちは、ほかにもプリンツ盤、シュミードル盤の計3枚持っているが今回は追加したこの2枚の聴き比べが楽しみである。

古いモノラル録音と最新のデジタル録音、演奏力のいずれが音楽鑑賞に影響を及ぼすのか、そういう興味も尽きない。

さて、この3枚をHMVで注文したのはいいけれど、待てど暮らせど到着しない。ようやくメールが届いたと思ったら、クラリネット・クィンテットは2枚とも入荷済だが、由紀さおりの「1969」は未入荷とある。

えっ、国内ではあれほど溢れているのにどうしてと思ったが、たちどころに疑問が氷解した。

な~んだ、輸入盤なんだ!道理で~。これで値段が安かったのが分かった。

結局、犬がエサを前にしてお預けをくわされたようなもので「待ち賃」が値段の差(2,500円-1,200円)の1,300円というわけである。ただし、輸入盤と国内盤ではこれまでの経験で音質にどうも差があるような気がしてならない。

総じて国内盤より輸入盤の方が音質が良かった記憶があって、とりわけ、CBSソニー盤などでは顕著な違いを感じているが、これはあくまでも個人的な経験なので断言は差し控えたい。

さて、まあ、そのうち到着するだろうと腹を括って待っていたらようやく4日(日)の午後に到着した。結局、注文してから2週間ぐらいかな。なにせお金はないが時間だけはたっぷりとあるのだから、1,300円の節約効果の方が素直にうれしい。やっぱりケチなのかな~?

5日(月)の朝からさっそく試聴開始。

先ず「1969」から。

                 

全体12曲をずっと通して試聴したが、外国のバンド(ピンク・マルティーニ)とのコラボによる和風+洋風のエキゾチック性が欧米で受けているのだろうと推測できた。

総体的な印象としては「由紀さおりはやっぱりうまい、軽快なロック調の曲からスローバラードまで難なく歌いこなしている。ものすごくレパートリーが広いが、いったい今、何歳(いくつ)なんだろう、相当、歳をくってるはずだが軽い発声法だから長持ちするのかなあ」と独り言を言いながら大いに感心した。

とにかく買って損はしない、十分に楽しめるアルバムだった。一番好みだった曲目は9トラックの「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?」で、こればかりは由紀さおりの魅力と歌唱力全開。この1曲だけで購入の価値あり!この絶妙のリズムとスイング感はアメリカのジャズバンドでないと出せない。

逆にちょっぴり残念だったのは「夜明けのスキャット」で昔のオリジナルのイメージどおりを期待していたものだから相当アレンジされていたためちょっと物足りなかった。まあ、期待するほうが無理というものだろう。

さて、残るのはいよいよクラリネット・クィンテット(五重奏曲)の試聴である。

こんな穏やかな冬日和の絶好の日を自分独りだけで聴くのはもったいないような気がしたので、湯布院のAさんに「一緒に試聴してみませんか」とお誘いしたところ、「Axiom80で聴くクラリネットの音色が楽しみですねえ」と一つ返事で引き受けていただき、午後3時から一緒に試聴ということになった。

当日は好天気のため、暖房を入れなくて済んだのでエアコンの音が気にならなくて大助かり。

  

初めにシフリン盤、次にウラッハ盤の順に試聴した。

さすがにこれほどの名曲になると曲目自体が録音の差や演奏の差を超越しているような印象がして、両方とも無難に鑑賞できるように思ったが、あえて指摘するとシフリン盤はたしかに録音はいいものの全体的に現代人がせかせかと仕事をこなしていくような印象を受けて、もっと余裕と潤いが欲しいような気がした。まだ芸格が備わっていないとみたが断言は控えておこう。

ウラッハ盤はモノラル録音ながら、明らかに手持ちの「20bit」盤よりも音質が良好だったのでほっと一息。演奏のほうは、ゆったりとしてほのぼのとした慈父のような味わい深さがあって落ち着いて鑑賞できるのが実にいい。1950年代初頭に録音された歴史的名盤とされているだけのことはあると再確認した。

いずれもアバウトな感想だが、Aさんのご意見となると、もっとはっきりしたものだった。

「シフリン盤はそれぞれ5人の演奏者の自己主張が強すぎて平板な音楽になってます。この五重奏は、クラリネット、チェロ、和音を受け持つバイオリン(3人)の3つのパートがそれぞれ出たり引っ込んだりして役割分担をしながらあざなえる縄のように音楽を構成すべきものです。その点、ウラッハ盤の方が明らかに多彩な演奏になっていて一枚上です」とのことだった。

穏やかな冬の午後、ゆったりと時間が流れる中で音楽仲間とモーツァルトの名曲の聴き比べができるなんて実に”至福のひととき”だったが、クラリネットの豊かにして何か物悲しいような訴えかけるような音彩はこういう冬日和にこそふさわしいのではなかろうかと思ったことだった。

最後にこのクラリネット・クィンテットについて音楽評論家「小林利之」氏により「永遠に色あせぬ名曲」として、次の名解説(「ステレオ名曲に聴く」1976年)があるので第一楽章と第二楽章のサワリの部分を紹介しておこう。

興味のある方は目を通してください。

「ステンドグラスの窓の色彩とその美しさにも似たと言われる多彩な音感で繰り広げられる第一楽章アレグロ、それは豊潤で透明な弦の四重奏(第一主題)で始まるのですが、続いて現れるクラリネットの閃くような動き、またピチカートの低音と長くひきのばした中音部の和音の上に、第一ヴァイオリンが歌う流れるような第二主題。コンチェルトふうにきらびやかな装いを示すクラリネットの活躍、すべてが円熟した手法です。

第二楽章はラルゲットでいちだんと深い味わいと静穏な抒情性を発揮し、弱音器つきの弦がクラリネットのやわらかい音をやさしく包むように引くとクラリネットは飾り気のない美しい旋律を歌います。ロマンティシズムの音楽の芽生えです。」(以下、略~)

 


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独り言~メディア・リテラシー~

2011年12月02日 | 独り言

防衛省の沖縄防衛局長が「(女を)犯す前に犯すなんて言わない」という比喩を使って沖縄問題に関する環境測定評価についてのコメントをしたため、即刻「罷免」という憂き目にあってしまった。

けっして許される発言ではないのだが、非公開を前提の酒席での話だったと聞いてちょっと気の毒に思ってしまった。

自分にも身に覚えがあるが、日頃は小心者のくせに酒の席では気が緩んで大きくなり、ついつい大言壮語をしたり、あからさまに本音を漏らしたりして、酔いが醒めた後になって「あんなことを言わねばよかった」と反省することが多々あったのでその辺の事情はちょっぴり分かる。

先般の「鉢呂」前経産大臣の失言問題も非公開、オフレコ前提の席での出来事だったが結局は「罷免」という結果に終わったことといい、最近ちょっと「言葉狩り」が度を過ぎているように思う。

もちろん、その地位にあるものとして職務執行上許されることではないのだが、せいぜい「厳重注意」ぐらいが関の山で、何も「罷免」までいかなくてもいいのではなかろうか。

与野党の力関係が伯仲し政権基盤が脆弱なので、国会運営が持たないというのが一番の理由だろうが、あたら起用した折角の人材を活用できないのも大きなマイナスである。


メディアがこういう「言葉狩り」を繰り返していると、万事に用心深さが先に立って、すべて「美辞麗句」が支配する「きれいごとの世界」に終わってしまい、「物事の本質」が隠されてしまう恐れがあることの方がまずいような気がする。

1時間半のテレビ番組で「たかじんの何でも言って委員会」というのがあって、評論家と称する無責任な連中の「言いたい放題」を売り物にしている番組だが、本音の世界をストレートに述べる良さにはなかなかの爽快感があって毎週録画して観ている。

人気番組だそうだが、おそらく視聴者は「言いたい放題」の中から、自分なりに取捨選択して納得できることだけを取り込める「快感」がその理由のひとつだと思う。


あふれる情報の洪水の中で価値があるものと価値がないもの、優れたものと下劣なものをしっかり見極めることを「メディア・リテラシー」というそうだ。

政治家や官僚たちがうっかり漏らす本音にこそ、物事の本質が見え隠れしていると思うので、先ず大目に見てやる寛容さとともに、そういう内容を公開することこそ国民の「メディア・リテラシー」を鍛える絶好の機会のようにも思うが。

ところで、最後に、自分のブログも情報の洪水のうちの端くれで泡沫に過ぎないのだが、時々「オーバーラン」しますので、どうか読者の皆様には「メディア・リテラシー」を発揮されますように~。


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