「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~「努力すれば報われる?」

2010年06月29日 | オーディオ談義

母の緊急入院(17日)のため、とうとう聴きに行けなかったクラシックの「演奏会」(20日)。ウ~ン、残念!

その穴埋めというわけでもないが、25日(金)朝のNHKテレビの地元放送で、市内でも1,2を争う病院の大きな待合室でミニコンサート開催のお知らせがあっ
たので興味が湧いた。

時間を聞き損ねたので、病院に直接問い合わせると夕方の6時40分からで、編成はピアノ、ヴァイオリン、ソプラノ、クラシックギターの組み合わせ。

出不精の自分だが、久しぶりにヴァイオリンの音色を確認してみようと俄然ヤル気に。

夕食時のささやかな楽しみのひとつである「晩酌」を後回しにし、軽食で済ませた後の18時過ぎにいそいそと病院へ向かった。

梅雨の時期とあって、そぼ降る雨の中、着いたのが20分ほど前だったが、まだ閑散としていて”かぶりつき”の席をうまくゲットできた。

               

プログラムを見ると、毎月、最後の週の金曜日に開催されるコンサートのようで第229回とある。勘定すると5年ほど続いていることになる。

どうやら病院の患者さんや医療従事者向けのようで、見回すと外部の一般人は自分くらいのもの。

定刻ピッタリに始まりポピュラーの小曲が12曲ほどだったが、演奏のほうはお世辞にも”うまい”とは言えないが(無料なのにゴメン!)目的は楽器の音色を確認することだったので気にならなかった。

印象的だったのはやはりヴァイオリンの音色。

実に柔らかい。

オーディオでいう「ツィーター(高音用機器)」の存在をまったく意識させず、それでいて自然で素直な伸びの高音とでもいおうか。

ウ~ン、この自然な響きの柔らかさは一体どこから来るんだろう?

曖昧模糊の中、思い当たるのは中域から高域にかけての滑らかさで、結局、ツィーターの是非、そして中域と高域のクロスオーバーの問題ぐらいかなあ~。


「我が家の音も、もっとスピーカーの存在を意識させない音にしたいもの。もっとさりげない自然な音が欲しい」。

少なからずショックを受けたので翌土曜日に、一日かけてオーディオ仲間ともいろいろ相談してお知恵を拝借、実際に取り掛かったのは日曜日。

低域対策は十分(だと思う)なので、今回は中高域対策がメイン。

まず、ツィーターの「JBL075」はジャズのときだけ聴けるようにしてクラシックのときは思い切って外すことにした。

したがって3ウェイから2ウェイに変更し「アキシオム」の高域を十分に活用する方向にもっていく。

次に、「アキシオム」を容れているタンノイ・ウェストミンスターのバッハル面にフェルトの吸音材を貼り付けてみた。出来るだけ音の反射を少なくしてピュア~な音にしようという魂胆。ただし、あくまでも実験である。

因みにこのフェルトの吸音材は湯布院のA永さんがスピーカーの背後に全面的に使用して絶大な効果を上げており、お願いしておすそ分けしてもらったもの。

次に、以前から気になっていた「アキシオム」の時折り突き刺すような鋭い最高域の音を和らげるため、ユニットに羽毛を貼り付けてみた。今回の作業の
ハイライトである。

熱心に作業をしていたところ、それを見かけたカミサンが
「お父さん、羽毛にいちいち接着剤を貼り付けるような面倒なことをしなくても、両面テープを利用して羽毛を1本づつくっつけていけば簡単なのに~」

「お前は大知恵は回らんが、昔から小知恵はよく回るからなあ~」と”くやしまぎれ”にそっとつぶやいた。

経過は次の写真に。(いずれも画像の上をクリックすれば拡大できます。)

            

左の写真が作業前で、中の写真が作業後、右が片チャンネルの全景。

とりあえず右チャンネルの作業だけ済ませ、左右両チャンネルの音出しをして聴き比べてみたが、明らかに右チャンネルのほうが刺激的な響きが見事に抑えられていて、実に聴きやすい。

こっちの方が明らかに自然で
「生の音に近い!」と勇気百倍。

左チャンネルのほうも作業を続行したのは言うまでもない。

完了後、次から次にお気に入りの試聴盤のサワリの部分を聴きまくったが、いずれも実にうまい具合に鳴ってくれる。これは想像以上の効果。

とはいえ、これから朝な夕なに体調のいいときも悪いときも含めて2週間ほど聴いてみなければ「速断は禁物」。

どうか「努力すれば報われる」
でありますように~。

いずれにしても今回の改良はお金を1円もかけないで、ただ半日ほどの労力だけで済んだのはうれしい限り。

 


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音楽談義~「ワルターとベーム」指揮の「田園」~

2010年06月26日 | 音楽談義

いつぞやのブログでワルター指揮の「田園」(コロンビア交響楽団)を自分にとっては「子守唄」のような存在で日頃から愛好している旨を書いたことがあるが、ネット情報を何気なく漁っていたら次のようなコメントがあった。

「田園」はベートーヴェンの中でも屈指の作品だが、ワルター指揮のものを聴くのなら、コロンビア交響楽団よりも1936年に録音したウィーンフィルの方がずっといい。これを聴くと、もうコロンビアなんて論外。

ウ~ン。こんな記事を見かけるともうダメ。早速、ネットでHMVを開いて探してみると「あった、あった」。

どうせ購入するならと
ベーム指揮の「田園」(これもウィーンフィル)も抱き合わせで注文。ベームのものはたしか音楽評論家の投票で「田園」の名演としてベスト1に選出されていた記憶がある。

すぐには在庫がなかったようで、自宅に届いたのが2週間ほど経ってからの24日(木)の午前11時ごろ。

               

早速、試聴に入りたいところだが、本格的なオーケストラによる重厚感あふれる名曲中の名曲なので、是非とも満足のいく音質で聴きたいところ。

そこで、かねて気になっていたオーディオ・システムの低域のクロスオーバーを変更してみた。

と、いうのはこれまで低域の音が元気が良すぎて中域の方に侵入しすぎているような印象を時折り受けていた。つまり低域と中域のクロスオーバー付近の濁りというか分解能の劣化がちょっと気になっていた。

もっとも、この辺は凄くデリケートなところで人間の耳にとって一番重要な帯域でもあり、ちょっと定数を変えるだけでアンプを替えたぐらいの影響を及ぼす帯域。

歌唱とかヴァイオリン独奏のときは合格点だが、オーケストラのようなたっぷりと低域が入ったファンダメンタルな領域の多い曲を聴くと特に目立つ。

しかも気になりだすと、オーディオ愛好家の常でひたすら増幅の一途をたどってことさら神経質になっていく。

とりあえず、低域の上限の周波数をこれまでのおよそ350ヘルツほどから一気に200ヘルツほどまで降下させた。これで大幅にカブリが収まるはず。たった150ヘルツの違いだがこれは随分と大きい。

すなわち、350ヘルツの場合、肩落ち6dbのときに1オクターブの倍々ゲームだから700ヘルツ、1,400ヘルツ、2,800ヘルツごとに6db減衰していく。

一方、200ヘルツのときは400ヘルツ、800ヘルツ、1,600ヘルツと減衰していくので非常に大きな差となる。

ただし中域の下限は変更しないままにしておくことが肝要。これ以上「アキシオム80」を低い方向に伸ばすのはユニットの故障に直結するのでいわば自殺行為。

さあ、クロスオーバーの一新なって25日(金)は朝一番に入院中の母のケアを済ませてから「田園」の聴きまくり。

まずワルター盤。

1936年の録音だから当然モノラルでSP盤からの焼き直し。出だしから盛大なノイズが出て、”ありゃりゃ”と先行き心配になったがそのうち段々と気にならなくなる。

全体的にコロンビア盤に比べてオーソドックスな印象を受けたが、どちらを択ぶか
は、熟慮のすえに自分ならコロンビア盤を取る。たっぷりと情緒性豊かに謳い上げているところが素人向きで自分の好み。もちろん音質も一枚も二枚も上。

次にベーム盤。

ワルター盤の後だけに、やけに音質がよく聴こえるが1971年の録音なのでアナログ録音のソースをCD化したもの。こういう出自のせいか最新のデジタル録音にはとても敵わない印象。

演奏のほうはいかにもベームらしく隅々まで神経が行き届いて何ら過不足なし、一つの模範となる演奏の印象を深くした。

全体の演奏時間は約46分でワルター盤と比べてみるとおよそ6分ほど長い。オヤっと思って楽章ごとに時間を比べてみたら、第一楽章と第二楽章にベームはたっぷり時間を使っていて6分はこの差だった。

ベートーヴェン自らが表題を「パストラル」と名づけ、「音で描かれた風景画」として作曲されたこの「田園」の構成は次による。

第一楽章 田舎に着いたときの晴れやかな気分のめざめ

第二楽章 小川のほとりの情景

第三楽章 田舎の人たちの楽しいつどい

第四楽章 雷雨、嵐

第五楽章 嵐のあとの喜びと感謝の気持ち

この曲目のクライマックスは第五楽章にあるのは衆目の一致するところだが、それに向けて段々と効果的に盛り上げていく手法に指揮者の個性が現われるが、ベームは前半部分に随分と比重を置いているのがこのことから伺える。

そして最後に、このベーム盤とワルター盤(コロンビア交響楽団)の一騎打ち。

両者じっくりと聴きくらべたが、結局ワルター盤の方が好みだった。癒されるというか自然の豊かさとかスケール感がことのほか身に沁みて、やはりこれは癒し系の代表的な演奏という気がする。

結局、今回はワルターのコロンビア盤の良さを改めて確認した結果になった~。

 


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独り言~「母の入院」と「聞き逃した演奏会」~

2010年06月24日 | 独り言

母(93歳)が緊急入院し、ようやく1週間が過ぎて容態も安定してきた。

去る17日(木)の午前10時頃のこと、市立図書館で新刊書を調べていたところ、
「夢の途中」のメロディが鳴り響いた。

娘が「いつまでそんな古い曲、使ってんの?」と呆れる(携帯の)選曲だが、好きな歌(カラオケの十八番)だからしかたがない。

急いで館外に出て、応じると家内からで「大変よ!母さんがウ~ンとうめいて、痙攣していて様子がおかしいわ。とにかく救急車を呼んだから急いで帰ってきて」と悲鳴のような声が。

もう新刊書どころではなく心臓がバクバクしながら、小走りで駐車場まで駆けつけて自宅まで一目散。

年齢が年齢だけに「もうダメかも」という不安がよぎる。運転中なのに「お母さん!」とフロントガラスの向こうが何だか
ボーッとかすんでくる。

今年の1月にも真夜中に咳き込んで呼吸が”ぜいぜい”となり救急車を呼んだが、そのときは飲んだ水が誤って肺に入ったのが原因(誤嚥)だった。

1ヶ月ほどの入院で無事退院できたが、今回ばかりは持病の心臓病が原因かもしれず、そのときはもう「終わり」だろうと悪い予感がする。

自宅に着くと、丁度救急車が母を乗せて出発するところだった。急いで運転手さんに、「真後ろを病院までついて行きます」といったら「ちゃんと信号を守って、ついて来てくださいね」。

と、いうわけで罹りつけの病院には(救急車より)遅れて到着。沢山の患者さんを尻目に担架で処置室に運ばれて、医師が診察していた。

本人の意識は割と戻っていて、「大したことはなさそうですが、念のためレントゲンと血液を採って調べてみましょう、その結果によっては帰宅できるかもしれません」と、当初は楽観的な診断。

そして、検査の結果は極端な貧血からくる「心不全」と分かった。それもヘモグロビン濃度が通常レベルの半分程度と危険な状態。

さすがにお医者さん「どうも内臓から出血してるみたいです、胃カメラを入れて覗いてみましょう。輸血も必要なので承諾書にサインをお願いします」と迅速な対応。

その結果、何と胃の血管が破裂して大出血中、急いでクリップで留めて絶対安静に。

「緊急入院です。心臓もだいぶ弱ってます。平日で(スタッフがそろっていて)良かったですね~。土、日なら怖ろしいことになってました」

「胃から出血なんて想像も出来ません、胃潰瘍によるものでしょうか?ストレスなんかないはずですが・・・」

「高齢になると胃の粘膜が薄くなって血管が浮き出るようになり、何かのはずみで切れることがよくあります」

何はともあれ、ホッと一息。病院に入っていればまず安心。しかし、容態の急変も十分考えられるので、病院からの連絡に備えて就寝のときもずっと枕元に携帯を置いておくことに。

大阪で働いている娘が心配して土曜日に帰ってきた。我が家は共稼ぎだったため、幼少の頃から「おばあちゃん」が親代わりだし、母も娘に会うのを一番喜ぶ。

そして、丁度、日曜日が「父の日」だとかでプレゼントしてくれたのが小銭入れ。

                 

「ありがとさんよ」と、折角なのでもらってやった。

ところで、残念だったのがそういう事情で20日(日)の「○○フィルハーモニー」の公演(杵築市)を聴きに行けなかったこと。折角、オーディオ仲間のM崎さんがチケットの予約までしてくれたのに。

日頃、生演奏は滅多にというか"ぜんぜん"聴きに行かない。

そりゃあ、「田園」とかの好きな曲目をベルリンフィルとかウィーンフィルが演奏するなら何とか”やり繰り”して絶対に行くが、まあ、ほとんどの演奏会では自宅のオーディオ装置で名演奏を聴くほうが無難といったところ。

とはいえ、今回の機会は何といっても無料だし、生の演奏の響きを耳にとどめておくのも悪くはない。

つまり「音楽鑑賞」よりも「オーディオ」のためといったら○○フィルのメンバーの方々に随分と失礼な話だが、M崎さんが誘ってくれた狙いも本心はそこにあったに違いない。

そして21日(月)になって、M崎さんに連絡。

「昨日はどうも行けなくて済みません。折角のご好意を無にしてしまって~。それで、演奏会はどうでした?」

「ウン、ヤッパリ行って良かったよ。「生の音」は実に柔らかくて、中域が非常に充実しているのが印象的だったね。しかし、本当に音楽を鑑賞しようと思ったら自宅のオーディオ装置で聴くのが一番だね。観客がザワザワしてうるさくて、丁度、前の席に小さな子供が居てね~」

それだけでおよそ”察し”がつく。地方の演奏会なんてそんなものだろう。
「そうでしょうね~」と思わず同情した。

ふと、名ピアニストのバックハウス(ドイツ)が中米で開催したコンサートの逸話を思い出した。

「客席に一人の女性が幼児を連れて座っていたが、その子が笑ったり、ガタガタ音を立てたりしてうるさくてしようがない。バックハウスはマネジャーを通じてその夫人に立ち去るよう要請した。彼女は立ち去り際に、憤慨した様子で聞こえよがしにこう言った。

「ふん、一人前のピアニストとはいえないね。私の妹なんかは、この子がそばでどんなに騒いでいても、ちゃんとピアノが弾けるんだよ!」


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オーディオ談義~「プリアンプはもう要らない?」~

2010年06月22日 | オーディオ談義

レコードの時代からCDに切り替わったのが、たしか1980年頃。早いものでもう30年にもなる。

「レコードとCDはどちらが音質がいいか?」なんて話は、いまだに根強く続いているようだが、物理特性の面では明らかにCDに軍配が上がるものの各人の好みの差も手伝って結論は永久に出ないと思う。

自分の場合はとにかく便利だし、長時間演奏が可能ということもあって何のためらいもなく、そして節操もないままにあっさりとレコード・プレイヤーを知人に譲って、CDに乗り換えた。 

そして、そのとき以来、今日までずっと次の疑問がアタマの片隅から離れない。

「果たしてオーディオ装置の中でプリアンプってのは本当に必要なんだろうか?」

まず、通常のオーディオ・システムを単純化すると次のような構成となる。

「CDトランスポート」→「DAコンバーター」→
「プリアンプ」→「メインアンプ」→「スピーカー」

ここで、「プリアンプ」の機能を考えてみよう。

 種々の入力信号の切り替え

 フォノ入力をラインレベルに増幅

 ボリュームの調整

 高音や低音の調整

 正しい入力負荷インピーダンスを与え、低いインピーダンスを出力する。

このうちまず、
はレコード用の機能のためCDを聴くときには要らないし、は余計な回路でかえって音を悪くするだけなのでこれまた不必要、そしてはよっぽど特殊なCDプレーヤーとメインアンプを使っていない限りこれまた必要なし。

となると、
の機能が必要なだけなので、そうなると「パッシブプリアンプ」で十分間に合ってしまう。

「パッシブプリアンプ」とは入力切替スイッチとボリュームだけの機能でまったく増幅を行わない制御装置のこと。

自分が使っている2台の「パッシブ・プリ」は関西の○○○○電子のもので値段はわずか3万円前後。(次の写真の真ん中付近の白い小さな代物)

             

一方、高級なプリアンプ、それも老舗「アキュフェーズ」の最高級品ともなると、たしか200万近くするはず。

3万円 VS 200万円。

ウ~ン!「天と地との差」ともいえるこのお金を、スピーカーとかメインアンプの充実に回せば、そっちのほうがはるかに効率がよくて、音も良くなると考えるのは当然のこと。

それに、オーディオ装置の構成にあたって、
余分な電子回路は少しでも減らしたいところで「シンプル・イズ・ベスト」の真理はこの世界でもきちんと当て嵌まるはず。

ところが、オーディオ評論家はほとんど一致して「プリアンプ必要論」だ。消費者になるべく沢山の機器を購入させたほうがメーカーが儲けるし、共存共栄の自分たちにも都合がいいからといえばちょっと言い過ぎか。

ただしプリアンプをうまく使って雰囲気よく鳴らして満足されている方も沢山おられるだろうから、他人がとやかく言う筋合いのものではないが、自分の実体験に限った話でプリアンプについての現在の所感を勝手に述べてみよう。

まず現状(2010.6.22)のシステムの概要、つまり音声信号の流れを述べると次のとおり。

 「CDトランスポート」(ワディア270) 

 「DAコンバーター」ワディア27ixVer3.0 ボリューム付き) 

 「パッシブプリアンプ2台(低域用・高域用)」 

 「メインアンプ4台」(低域左右両チャンネル各1台ケンウッド
   L01ーA、中域 PX25 真空管アンプ、高域 2A3真
   空管アンプ)

 「スピーカー」
   (低域:片チャンネル4本のSPユニット、中域:アキシオム 
    80、高域:JBL075)

このうち以前、低域用のユニットとしてJBLの130Aユニット(口径38cm)を使っていた頃に、プリアンプとして「マランツ7」を使用していた。

              

まあ、真空管プリの往年の名器としてよく知られたものだがこのときはメインアンプも真空管でなにぶん小出力のため、プリアンプで味付けしてやると適度に低域が膨らんでうまく聴けたものだった。したがって当時は絶対の必需品。

ところが、低域用のアンプをトランジスター(Lー01A:4Ω時出力140ワット)に取替え、SPを片チャンネル4本にしたときに「マランツ7」を入れてみると、パッシブプリと比べて低域がボワ~ンとなって締りがなくなりとても聴けたものではなかった。

つまり、メインアンプとスピーカーが充実するとプリアンプの効果が如実に薄くなったというわけ。

もちろんケース・バイ・ケースだろうがこれで自分は完全にプリアンプ不要論に傾いてしまった。

とはいえ、200万くらいのプリアンプを入れたときの音というのを実際に(我が家の装置で)一度聴いてみたい気持ちがあるのも事実なのであまり断定的なことは言えないのがつらいところ~。

 


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オーディオ談義~「良い失敗」と「悪い失敗」~

2010年06月18日 | オーディオ談義

人それぞれの人生に何らかの失敗はつきもの、結果的には小さな失敗から大きな失敗までいろんな種類の失敗がその人の人生を彩っているように思う。

と、カッコよく言ってみたいところだが、自分の場合はそうもいかない。

こういう前向きな視点のもとで余裕を持って(失敗を)振り返ることが出来ればこの上なくいいのだが現実はムリ。

どうしても失敗体験をマイナスイメージでとらえる傾向があり、失敗を恐れるあまり必要以上に臆病になったり、失敗自体を苦い想い出として追い払う傾向にあるのは否めない。

それ以上に、実はここだけの話だが(といっても無理だが)今でも現役時代に”しでかした”仕事上の大失敗や大恥をかいたことをふと何の脈絡もなく思い出すことがあり、一瞬、身の置き所がないような感覚にとらわれることさえある。

卒業して、もう何年か経つのに失敗体験の影を今でも色濃く引き摺っているこの情けなさ。

不思議なことに楽しかったことや成功事例はまず思い出さない!

大げさに言えば仏教の教えでこれを
「業苦」(ごうく)というそうだが、おそらくこれは自分が「灰」になるまで続くことだろう。

また、他人のサクセス・ストーリーにはほとんど興味がなく失敗談の方が身につまされて面白く、よく記憶に残っているケースが多いのも特色。

こういう傾向は、やや”ひねくれ気質”の自分だけのことかと思っていたら、どうやらそうでもないようである。

「失敗学のすすめ」(講談社刊、著者:畑村洋太郎氏、東京大学大学院工学系研究科教授)はその点で実に面白い本だった。

                       

2000年11月の出版だから、もう10年以上も前の本でご存知の方も多いと思うが、自分の興味を引いた点をかいつまんで列挙してみよう。

 失敗の定義→「人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと」

 学生たちに過去の失敗例を通じて大切な知識を伝えると、途端に目を輝かせ、吸収度がまるで違う。失敗体験には、人の関心、興味を引きつける不思議な力がある。

 失敗には「良い失敗」「悪い失敗」がある

「良い失敗」とは、その経験が薬となってその後の飛躍につながるもの、あるいは成長過程で必ず通過しなければならない失敗をいう

「悪い失敗」とは、単なる不注意や誤った判断による失敗、周りに与える悪影響が多きいもの、自分の成長の糧にならないものをいう。

以下、やや学問的な趣が強くなり長くなるので簡略化するが「失敗から教訓を学ぶためのプロセス」など失敗を生きた教訓にしていくためのノウハウが事細かに述べられている。

さ~て、「良い失敗」と「悪い失敗」とくれば我がオーディオの世界ではどうだろうか。

それこそ失敗が無数にあるといっても過言ではないほどで「オーディオの歴史=失敗の歴史」と言い換えていいくらいで、およそ40年に亘って累々と屍が横たわっている。

数え切れないほどのスピーカー交換、評論家に踊らされた「4チャンネル・システム」への挑戦、高価なケーブルの購入、2~3年毎にアンプをトッカエ、ヒッカエしたことなど。一体、つぎ込んだお金はどれくらいに?

これらはいわゆる機器類の選択ミスというヤツだが、ほかにもお客さんとの試聴中にアンプが故障して片方から音が出なくなり、赤っ恥をかいたこともある。

しかし、今となっては
意外にもいずれの失敗とも気楽に思い出せるのが不思議。

やはり教訓が今後に生きるような「良い失敗」ばかりのような気がするし、自分の能力不足とか他人の人格を辱しめるようなことが一切なく、モノが相手で金銭面でカタがつくような失敗なのが救い。

結局、貧乏人のクセにこう言うのは何だが、よほどの例外は別としてお金で済むことなら「失敗のうちに入らない」ような気がする~。


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音楽談義~「モーツァルトを聴く・私のベスト1」~

2010年06月16日 | 音楽談義

オーディオ装置の音も随分変わったことだしと、実に久しぶりにモーツァルトのオペラ「魔笛」を聴いてみた。

試聴盤の方はクリスティ指揮(演奏:レ・アール・フロリサン)で「夜の女王」役はあの「ナタリー・デセイ」。

極め付きの名曲が次から次に目白押しでやはりいつ聴いても「いいなあ~」とウットリ。

改めて、「魔笛」はモーツァルトの代表曲との思いを深くしたが、これはいわば自分だけの”ものさし”。

モーツァルトは35歳の短い生涯を閉じるまでに実に600曲以上もの夥しい曲目を作曲しているが、そのうち「ベスト1」とされる曲は一体何だろうかと改めて考えてみた。

わずか5歳のときにピアノの小曲を、8歳のときに最初の交響曲を、11歳のときに最初のオペラを書いたという早熟の天才
にとって文字と音符(♪)は同じことなので、スイスイと手紙を書くみたいに作曲したとか、全体の構想が奔流のように一気にアタマの中に流れ出てきて、後は鼻歌でも歌いながら引っ張り出して五線紙に書き写すだけだった(小林秀雄著「モーツァルト」)なんて話もあるところ。


ベートーヴェンと同じで晩年になるほど作品の純度が高くなっていると個人的に思っているが、おおかたの傾向を知ることが出来るのが「モーツァルトを聴く~私のベスト1~」(1994年、リテレール誌別冊)
だ。

                   

文学界、音楽家、コラムニスト、学界など幅広い分野で一応「知識人」と目される方々52名を対象に「ベスト1と位置づけているモーツァルトの作品とそれにまつわる感想、意見など」を収録した本である。

多い順に挙げてみると次のとおり。

 ピアノ協奏曲第20番ニ短調(6名)

 オペラ「魔笛」(4名)

 
交響曲第40番ト短調(3名)

 
ピアノソナタ第8番イ短調(2名)
    〃    第14番ハ短調(〃)
  オペラ「フィガロの結婚」(〃)
  オペラ「ドンジョバンニ」(〃)
  クラリネット協奏曲イ長調(〃)
  レクイエムニ短調(〃)

以上、ズラリと挙がった曲目を見るとやっぱりというべきか定評ある作品ばかり。いずれも小差で紙一重といったところだが、1位のニ短調はたしかに名曲には違いないがこれを(1位に)択ぶ人とはモーツァルをともに語ろうとは思わない。

自分の一押しである「魔笛」はとっつきにくいのにもかかわらず第2位と善戦していてうれしくなるが、たいへん
シンプルなピアノ・ソナタを挙げる人
にも大いに共感を覚える。

取り分け感心したのは、コラムニスト
「石堂淑朗」
氏である。~以下引用~

『一生の間、間断なく固執して作曲したジャンルに作曲家の本質が顕現している。ベートーヴェンは九つの交響曲、三十二のピアノ・ソナタ、十五の弦楽カルテットに生涯の足跡を刻み込んだ。モーツァルトの真髄はオペラとピアノ協奏曲にありで、同じく生涯に亘って作曲されたピアノ・ソナタはいくつかの佳曲を含みながらも弟子の訓練用に作られたことから、やや軽いといううらみを残す』

こういう前置きのもとに、石堂氏がベスト1として挙げられたのがピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457。「湧き出る欲求の赴くままに、報酬の当てもなく作られた故か、
不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」。

ウ~ン!実を言うと、この「ハ短調ソナタK.457]は「魔笛」を越えぬまでもほとんど肩を並べるぐらい大好きな曲。

「魔笛」(全二幕)は演奏時間が2時間30分、主役クラスの歌手が5名、登場人物が多数に及ぶ大曲なのに対して、このハ短調ソナタはピアニストがたった一人で鍵盤に向かってひそやかに音を紡ぎ出すわずか21分かそこらの小曲。

まったくの好対照の両者だが好きという面では十分比肩するのが不思議な気がする。

しかも、近年、年齢とともに長時間の曲を一気に聴く根気がなくなってきているので20分前後の曲は本当にありがたい。
 

 


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オーディオ談義~「スピーカー・ケーブルの入れ替え」♯2~

2010年06月11日 | オーディオ談義

<前回の続きです>

たかだか3,000時程度のブログだが、投稿するときにはある程度ストーリーというかシナリオを事前に組み立てている。

たとえば前回の場合、大まかには次の目論見だった。

 SPユニット8本分のたいへん安いスピーカー・ケーブルが見つかった。

 事前準備でSPユニットから既存のケーブルを外そうとしたら致命的な結線ミスをしていた。とにかく発見できて良かった~。

3 新しいSPケーブルが到着したので入れ替えて聴いたところ、音が滅茶苦茶に良くなった。

 メデタシ、メデタシ。

ところが、この苦心(?)の起承転結も、40m注文していたSPケーブルが業者の発送ミスで10mしか送ってこず、大幅に狂って予想外の展開に。

一時、結末をどうしようかと途方に暮れたが、何よりも「リアリティ」を優先と正直に、かつ、体裁を繕って(?)どうにか終了させたが、今回はいよいよ肝心の以下について詳述。

待ちに待った追加のケーブル30m分が到着したのが9日(水)の13時ごろのこと。丁度昼食を終えた頃だったのですぐに作業開始。

まずは、ケーブルの長さをきっちり3.5mに統一して切断し8本作った。端っこの芯を剥き出すのがたいへん。何しろ4箇所×8本=32箇所だから半端な数字ではない。

その点、以前、一気にケーブルの芯が剥ける便利のいい器具を購入していたので助かった。

             

そして、ようやく8本のユニットのプラス・マイナスの接点にケーブルの芯線のハンダ付け開始。少々引っ張っても簡単に外れないようにしっかりとくっつける、高熱のハンダの滴がユニットのコーン紙にかからないようにと結構神経を使う。

前回の結線ミスに懲りて、二度も三度も確認して、ようやく完了したのが次の写真。

            

まるで楽屋裏の風景みたいで見るからに手間が掛かって面倒くさそうだと自分でさえ思う。オーディオとはつまるところ”根気の勝負”ということが十分お分かりのことだろう。

さて、次は力仕事に移る。

丁度カミサンがガーデニング用の花壇として知人から貰っていた一升瓶を容れるケースが4個あったので、有無を言わさず2個取り上げてスピーカーの設置台にした。

一番下にあるSPユニットが床に近すぎてカブり気味だったので当然の帰結。

               

たかだか30cmほどの台(ケース)だがこれにスピーカーを持ち上げて乗せるのがたいへん。カミサンは勤めに出ているし、93歳になる母を加勢させようものなら骨折するのが関の山。この歳になって「虐待」の罪で監獄に入るのはイヤ。

仕方なく我が家に出入りの電器屋さんに来てもらうことにした。待つことしばし、ようやくお見えになって二人でヨイショと左右計2本を抱え上げて載せた。うまくいった~。                

お帰り際に、”ほんの気持ちだけですが”と「缶ビール3本」を差し上げたが多すぎたか、少なすぎたか「That is question」(シェークスピア「ハムレット」)。

さあ、結線が済んでいよいよ音出しである。下は完成後の写真。

              

まず、最初はベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲第12番の第一楽章(演奏:アルバン・ベルク・カルテット)。出だしの迸り出るような魂の叫びが、四重奏とともに部屋中に一気に響き渡った。スゴイ!思わず鳥肌が立った。

この感激があるからこそ未来永劫にオーディオは止められない。


しかし、音質はともかく、まったく何という音楽だろう!ベートーヴェンの後期の作品、それも弦楽四重奏曲は歳をとればとるほど良くなるなあ。

後はいつもの試聴盤をひと通り聴いていった。

サキソフォン・コロッサス(ソニー・ロリンズ)、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲(1番、4番、5番)の第二楽章(演奏:グリュミオー)、田園、そして真打がグールドのピアノ・ソナタで打ち止め~。

いずれも期待どおりの鳴りっぷりで、わずか1万円の投資だったが大満足の改善だった。低域の分解能が良くなったのが一番の収穫!

 


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オーディオ談義~「スピーカー・ケーブルの入れ替え」~

2010年06月08日 | オーディオ談義

「ベルデンというメーカー知ってる?」とオーディオ仲間のM崎さんから電話があったのが6月3日(木)のこと。

「えー、知ってますよ。スピーカー・コードのメーカーですよねえ。」

「アマゾンで10mのコードが2,000円で売ってるよ。ベルデンは研究熱心なメーカーだから品質の方は間違いないと思うよ」

「エッ、そんなに安いんですか、すぐに検索してみましょう」。

と、「滑り出し」がいきなりの会話から始まってしまったが、ちょっと、その辺の
いきさつを述べておこう。

低域用として新たに4本のSPユニット(口径20cm)を専用のボックスに収納して聴きだしたのが3月下旬のこと。

               

理論上は4本合わせて口径40cm(20cm×√4倍)のユニットに匹敵する低音が出てくるはずなので、大いに期待したのだがどうもイマイチ。試聴したM崎さんも同意見。

その原因として「4本のユニットにバラバラのSPコードを使っているのが一因じゃないのかな」というご指摘。

実は4本のユニット(左右両チャンネルで合計8本)に使っているSPコードは銘柄が別々のケーブルで太さもマチマチ、とりあえず手持ちの”あり合わせ”のもので間に合わせていた。

何しろ8個のSPユニットのケーブルとなると4m×8本=32mという計算。通常1mあたり2、000円はするので6万円ほどの出費を覚悟せねばならず、貧乏人にとってはちょいと痛いので節約していたというわけ。

しかし、冒頭の話のように10mで2,000円、40mでも送料込みで1万円となると当然使ってみようかという気にもなる。8本とも同じSPケーブルを使うと、どんな音になるか考えただけでもワクワクしてくる。

早速、3日の夕方に注文したが東京からの発送なので遅くとも6日(日)には到着と見込んで、5日(土)にスピーカーを定位置から引っ張り出して仰向けにしてケーブルを付け替えする準備に入った。

               

右チャンネル分から始めてSPユニットのプラス・マイナスとケーブルのそれぞれの接点を「ハンダごて」で外していたところ上から2番目のユニットのところで思わず「ギャ~」と叫び声を挙げてしまった。

何とプラス・マイナスの接続をこれだけ逆にしていた!4本あるうちの1本を逆に接続にするなんて致命的な結線ミス!

つまりこのSPだけ逆相になるので、上下の他のSPの音に干渉して音を打ち消し合い4本の効果が十分に発揮できない計算に。

2ヶ月間あまり、この状態で聴いていたのかと思うと、もう情けなくて泣き出したくなった。あれだけ用心して結線したのに何というていたらく。
バカ、バカ、バカ!

(因みに、「バカ、バカ」は女性が男性に甘える言葉になるので、バカという言葉を使うときは1つか3つに限定?)

道理で右チャンネルの音がえらく小さいので、てっきり低域用アンプの故障とばかり思ってしまいボリュームで調整していたのだが真相は予想だにしないところにあったというわけ。

しかし、新たにSPコードを購入しなければずっとこのままの状態が続いていただろうから、まあ不幸中の幸いとでもいうべきか。

そして待ちに待ったSPケーブルが届いたのが7日(月)の午後のこと。運動ジムから帰って16時ごろポストを覗いてみたらあった。

             

クロネコの小さなメール便で届いたのでおかしいと思ったら、案の定40m注文したのに入っていたのは10m分だけ。トホホ。代金はカードでちゃっかり40m分引かれるのに、ケシカラン。

全国津々浦々、40mも一挙に注文するバカは自分くらいのものだろうからつい発送ミスをしたのだろう。あわてて「一体、どういう管理をしてるんですか?大至急あと30m分送ってください」とアマゾンに抗議のメールを入れたが、さて、どういう返事が返ってくることやら。

とにかく、あと4~5日ほどは音楽を聴けない状態を覚悟しなければならない。

「物事は思ったようにはいかないもの。ただ忍耐あるのみ」と自分に言い聞かせた。

と、ここまで原稿を書いて一段落していたら次のメールが入って来た。

この度は、大変失礼致しました。
 
ただいま、ヤマト宅急便で未送分10m×3を発送いたしました。
 
問合せ「no:○○○」になります。
 
品物到着まで、もう少々お待ち下さい。
 
宜しくお願い致します。

やれ、やれ、やっと今晩(7日)はぐっすり眠れそう!

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音楽談義~「子守唄」と「お経」~

2010年06月04日 | 音楽談義

もっと粘るかと思っていた鳩山さんだが潔く首相を辞任した。小沢幹事長との道連れというのが爽やかな後味を遺した。

結局、政権発足当初から「政治とカネ」の問題が最後までボディー・ブローのように利いてしまった。

ただし、総理を経験した人間が議員として後々まで影響力を残すのは好ましくないので次期衆院選には出ないとのことで、これはたいへん立派。

自民党の総理経験者で今なお現役の「森、安倍、福田、麻生」さんたちの面々はさぞや耳が痛かろう。

ともあれ、退陣に当たって「気障」と言われるのを覚悟の上で芭蕉の一句を。

「おもしろうて やがて悲しき 鵜船かな」

元禄一年(一六八八)四十五歳のときの作として知られ「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍り」との前詞がある。

<句意>

鵜船が目の前で、華やかな篝(かがり)火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極みに達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、なんとも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残る。

300年以上も前の作品なのに「詩情」にあふれている。

さて、本題に戻って音楽の話。

音楽にはいろんなジャンルがあって曲目も数限りないが、どんなに好きな曲目でも何回も聴いていると
飽きがくるというのは誰しも経験されることではあるまいか。

歌謡曲とかポピュラーなんかは1曲あたりせいぜい4~5分程度なので仕方のない面もあるが、クラシックだって例外ではない。

たとえばシンフォニーの場合、第一楽章から第四楽章まで起承転結にならって、およそ40分ほどにわたって展開されるものが多いが、そういう中身の濃い曲でも何回も聴いているとほとんどの曲が飽いてくる。

人に自分の考えを押し付ける積もりは無いが少なくとも自分はそう。

そういう中で、
こればかりは”いつ””いかなるとき”に聴いてもホッとして心地よい曲というのがある。

そう、まるで
「子守唄」のような存在。

人によって様々だろうが自分の場合は最終的に2つに絞られる。

それはベートーヴェンの「田園」とモーツァルトの「ピアノソナタ全集」。

ちょっと月並みでガッカリされる向きもあるかと思うが、これらはレコードの時代も含めてもう30年以上にわたって相も変わらずつい手が伸びる曲目。

「長い時間の経過」という天然のフィルターがたしかな役割を果たしてくれている好例である。

                         

「自然の美しさ、優しさ、厳しさ、そして感謝」を高らかに賛美した「田園」はずっと昔のブログでいろんな指揮者の聴き比べ特集を投稿したことがある。

因みにそのときの指揮者を挙げてみると次のとおり。

フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、マリナー、ケーゲル、ジュリーニ、ジンマンの10名。カラヤン盤がないのはご愛嬌。後にチェリビダッケ盤も追加。

ブログの発足当初ということもあり変に気負ってしまって臆面も無くそれぞれの試聴結果の寸評を書いたのだが今となってはまったく赤面の至り


当時はマリナー盤を自分にとってのベストとして挙げておいたのだが、今ではまず聴かない。自然とワルター盤に還ってしまった。

演奏の良し悪しは別として、もうアタマの中に刷り込み現象のようになっていて、これはもうワルターでないと絶対ダメ~。

次に、
モーツァルトのピアノ・ソナタ。これもいろんな奏者がいる。

手元にあるだけでも、アラウ、ピリス、内田光子さん、ギーゼキング、グールドといったところだが時によってアラウが良かったり、ピリスだったりするがいつも自然とグールド盤に還っていく。

これはモーツァルトのソナタというよりもグールドのソナタと言ったほうがいいくらいで独自の解釈で自由奔放に弾きまくっていて、一風変わった奇妙な魅力が心を捉えて離さない。

コンコンとまるで汲めども尽きせぬ泉が湧き出てくるような演奏だが、自分にとってはこれはもう「子守唄」を通り越して「お経」みたいな存在といっていい。縁起でもないが通夜のときにはこれをしめやかに流してもらおうとひそかに心に決めている。

ただしグールド自身の書簡集などを見ると、決してモーツァルトという作曲家を評価しておらず、シェーンベルクやバッハなどに思いを馳せていて、このピアノ・ソナタ集録音への言及は一切ない。

しかし、CD盤の帯封に「世界中のグールド・ファンの愛聴盤」
とあるように作品自体が一人歩きしている感がある。

これは演奏家の思惑と人気が必ずしも一致しない実例の一つだろう。

 


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読書コーナー~「村上春樹さんの人気の秘密」ほか~

2010年06月02日 | 読書コーナー

表題とはぜんぜん関係ない話だが、ちょっと一言。

5月31日(月)のテレビのモーニングショーで国交省の「辻元清美」副大臣が社民党の連立離脱に伴い辞表提出の経緯を説明するためゲストとして招かれて一説を講じていた。

そして、丁度、話が一段落したときに党首の「福島瑞穂」さんが更なるゲストとして颯爽と登場して着席された。

爽やかな決断と実行を果たされた、いわば
「時の人」である。当然、福島さんの開口一番を期待していたところ、何と隣席の辻元議員が何を勘違いしたのか、党首そっちのけで党の方針など大所高所の話をし始めた。

一体この人、どういう教育と”しつけ”を受けてきたんだろうか。

いくら国会議員とはいえ党首の了解無しで副大臣には就任できまい。いわば党首は上司に当たる存在。その上司が登場して、さあ発言というときに部下がしゃしゃり出て口舌を振るうなんて、通常の組織では絶対ありえない話。ビックリしてしまった。

あまりに福島さんの立場が無視されたようでお気の毒だったので思わずチャンネルを切り換えた。

国会議員なんて「オレが、オレが」という自己顕示欲の塊みたいな連中だと聞かされているが、それにしても時と場所とタイミングをわきまえないと傍から見ていて不快感を覚える。

もっとも、自営業などの方からはそんな些細(?)なことに何もそう目くじらを立てなくてもと軽く受け流されそうな気もするので、長年、組織に従属してきた習性から(自分は)ちょっと神経過敏なのかもしれない。

ともかく、行き届いた統制とは程遠い社民党の現状を垣間見る思いがしたが、そもそも議員の社会的マナーとかの教育は”どこ”の”どなた”がするんだろうか?

閑話休題。(それはさておき)

☆ 「村上春樹さんの人気の秘密」



村上春樹さんの新作「1Q84」が爆発的に売れているそうだ。

この本についてはまだ読んでないので語る資格はないけれども、「ノルウェーの森」をはじめいくつかの作品は過去に読んだことがあるが正直言って期待したほどピタリとはこなかった。

肌合いの違いというか(自分の)読解力不足もあるのだが「村上さんの本はそんなに人気に比例するほど面白いのかな~?」という疑問がずっと晴れないまま今日に至っている。

そして、ようやくその秘密の一端らしきものにめぐり会った。


村上文学とフィッツジェラルドなど近代のアメリカ文学との関係などを論じた「偽アメリカ文学の誕生」(2009.7.10、都甲幸治著、水声社刊)という本の78頁に
それはあった。

                    


~日本近代文学の言語はエリート主義に毒されていると感じていた。高等教育を受け、知識を持った優れた書き手が上から一般大衆に向けて書く。したがって、多少は難解でも構わないといった姿勢に、彼(村上さんのこと)は違和感を持っていたのである。

「書き手・読者という関係も出来るだけ並列的でありたい。他人に何かを教えるというのは好きじゃないんです」(「『物語』のための冒険」より)。

「モノを教えてやる」という「上から目線の書き方で難解な表現」とくればすぐに連想するのが「評論の神様」と言われた「小林秀雄」さんだが、たしかに村上さんの文体は平易かつ権威的な偉ぶった匂いがちっともしないのが特徴で、読者との並列的な関係に彼の人気の秘密を解く鍵があるのかもしれない。

本書にはほかにも興味深いことが書いてある。

村上さんは昔、ジャズ喫茶を経営していて、毎日ジャズを10時間聴く生活をおよそ10年続けて過ごした程のジャズ好きだが、あるとき黒人兵がジャズを聴きながら「アメリカに帰りたい」と望郷の涙を流した。

その涙を見て、黒人と自分とのジャズの受け止め方の差に愕然として、(限界を感じて)本気になって作家への転身を決意したという。

有力なノーベル賞(文学部門)候補誕生のいきさつには「ジャズと黒人兵の涙」があった!

☆ 頭のでき~決めるのは遺伝か環境か~

この種の論議は果てしないし、関係する著作も沢山あって少々ヘキヘキ気味だが、興味の尽きないテーマではある。

ミシガン大学心理学の教授が書いたこの本は、そういった論争に終止符を打つ書(アメリカの書評)だそうだ。

 「頭のでき」(2010.3.10、R.E.ニスベット著、ダイヤモンド社刊) 

本書の構成は次の章で成り立っている。

1章 知能の種類は一つではない

2章 遺伝子はどれほど重要なのか

3章 学校は人を賢くする

4章 学校をさらによくするための方法

5章 貧富の差は知能に大きな影響を及ぼす

6章 黒人と白人のIQ

7章 知能の差は縮められるのか

8章 アジア人のほうが賢いか

9章 ユダヤ人の教育の秘密

10章 あなたの子供、そしてあなた自身の知能を高める

項目的に興味事項満載の本書だが、ザット目を通したところ豊富な専門知識と統計数値にしっかりと裏づけされた内容で期待を裏切らないものだった。

学校の1年は年齢の2歳分の知的な成長に相当するなどと学校教育、なかんずく先生の資質の重要性に言及してあるのが印象に残った。

とにかく
「遺伝よりも環境が大切」という著者の考え方が終始一貫しており、「自分の知能は自分でコントロールできると信じることが驚くような効果をもたらす」なんて書いてあると明るい展望が見えてくるようで楽しい。

特に10章(229~240頁)などは、小さいお子さんがいる家庭では是非一読しておいたほうが良いと思うのだが、これはお節介かなあ~。


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