「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「お客さん優先」のサウンドの功罪

2024年07月21日 | オーディオ談義

ようやく梅雨が終わって本格的な猛暑の到来です。

我が家のオーディオルームでは陽当たりの良くなる午後だけエアコンを使うようにしているが「そんなことをしていたら熱中症になりますよ、歳をとると体感センサーが鈍ってきますからね。たとえば喉の渇きに気付かずに水を飲もうとしないとか・・」と仲間からご親切なアドバイス。

「ハイ、その通りです。大いに気を付けます・・。ただ体感センサーどころか、耳の方のセンサーも確実に衰えてきているのですが、過去の音が耳に焼き付いていますので、その音を基準にして脳の方が勝手に補正してくれているようです」

というわけで、このところ我が家のオーディオは第一に「サウンドに違和感を感じるかどうか」に尺度が移っている。

こうなるともう執念に近いですな・・、まあ「ボケ防止」にでもなればそれに越したことはないでしょう(笑)。

閑話休題

昨日(20日)のこと、久しぶりにオーディオ仲間のYさんがお見えになった。我が家のサウンドに対し舌鋒鋭く指摘される貴重なアドバイザーである。

このところ日程の折り合いがつかず、およそ1か月ぶりぐらいのご来訪。

「毎回来るたびに音が変わっているので楽しいですよ」と仰るのだが、内心はきっと呆れられているに違いない・・、「ほんとに腰の落ち着かない男だなあ」と(笑)。

今回聴いてもらう主な目的は友人から借りている「コーラル」のドライバーとウッドホーンの組み合わせだが、まずはYさんが大のお気入りの「AXIOM80」(以下「80」)から聴いていただくことにした。

何といっても「お客さん優先」が我が家のモットーだからね(笑)。

で、植木鉢入りの「80」の楽しみ方は、低音域を簡単に手早く変更できることにある。



これまで、「口径20cm入りの小型の箱」と「AXIO150マークⅡ(口径30cm)などを試してきたが、Yさん向けにはサブウーファーとして「150ヘルツ以下」を「ウェストミンスター」(改)に持たせることにした。



これで大概の音楽ソースが守備範囲に入るはず・・、とりわけオーケストラがそう。

珍しく「CD」を持参されてなかったので、「You Tube」ばかり聴いてもらったが、例によって鳴らし方については ひと工夫 あり~。以下、ちょっと専門的になるが後日のために記録しておこう。

<80>用

DAコンバーター「HD7A 192」(フェーズメーション) → 「E80CCプリアンプ」→ 「PP5/400パワーアンプ」

このDACは光ケーブルの音はすべてハイレゾ「192KHz」に変換するという優れもので重宝している!

<ウェストミンスター>用(150ヘルツ以下)

DAコンバーター「D2R」 → 「安井式プリアンプ 12AU7」(改) → 「TR式パワーアンプ」

いわば2系統の流れで、2台のDAコンバーター、2台のプリアンプを駆使した変則的なシステムだが「Yさんのご意見はいかが?」と、注意深く見守ったが特段の意見は無し・・、可もなし、不可もなしといったところかな~(笑)。

2時間ほどクラシックを中心に聴き耽ったが、「80」なだけに得意とする「ヴァイオリン」が中心、となると「ヒラリー・ハーン」の「ブルッフのヴァイオリン協奏曲」「バッハ」など、そしてソプラノは「レグラ・ミューレマン」が舞台の主役~。

ハーンは技巧もさることながらヴァイオリンを弾く「立ち姿」がメチャ素敵! そういう意味では画像付きの「You Tube」向きといえる。

ハーンはアメリカ人だが「アメリカは所詮ジャズの国です。活躍の舞台を早くヨーロッパに移した方がいいです。(もう移しているかな?)クラシックを本格的にやるのなら、ヨーロッパの深い文化と伝統に染まる必要があると思いますけどね・・」と、会話したことだった。

2時間ほど聴いてから、いよいよ本命の新たなドライバーとウッドホーンの組み合わせへ変更~。



ドライバーを「600ヘルツ」あたりでローカットし、ウェストミンスターは700ヘルツあたりでハイカットして聴いてもらった。

通常は「TRアンプ」はせいぜい「200ヘルツ」あたりまでしか使わないのだが、プリアンプを「安井式」(12AU7使用)にしたせいか、違和感を感じなかった。

マランツ式のプリアンプ(12AX7使用)が「TRアンプ」に合わないことがわかったのは大きな収穫。

もちろんケースバイケースだが真空管の「μ(ミュー=増幅率)」の高低による音の変化のクセがようやくわかってきた気がする。

端的に言えば、ミューが高い真空管は高音は華やかだけど低音がやや淋しい、逆にミューが低い真空管は低音が豊かだけど高音はやや淋しい・・、間違ってたらゴメンね~、「それはお前の家だけの現象だ」と言われそう(笑)。

で、Yさんに「どうですか・・」と、促してみたが「ウ~ン・・」と明確な意見なし~。

本日はいつもの「歯に衣着せぬ」Yさん独特の鋭い舌鋒がとうとう聞かれず仕舞いだった。

「お客さん優先」のサウンドを意識したとはいえ、
ちょっと淋しかったなあ・・(笑)。



クリックをお願いね →      


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがたいメル友さんたち

2024年07月20日 | 独り言

つい先日のブログ「もったいない精神の追放」について、オーディオ機器の始末に絡んでメル友の「K」さん(横浜)からメールをいただいた。

私も「オーディオ機器高価買いとります」のTV広告を観ましたが「これだけの」ことができるのは「安く買って高く売る」すなわち価値がわからない遺族を言いくるめて「たたき買い」するみたいです。

聞いた話ですが(自身で調査してません)今国産のオーディオ製品は海外で高く売れるらしいですよ。

私は信頼しているオーディオ屋さんの責任者に「死んだら一式引き取り次の方に」とお願いしてます。」

「ほう、いいこと聞いた!」とダボハゼみたいに飛び付いた(笑)。

「なるほどですね・・、海外向けのブローカーが暗躍してますか。その、オーディオ屋さんにわたしも依頼しておこうかな・・。よろしかったら、ご紹介ください。」と依頼。

すると、すぐに返信が届いた。

それはK市で事業されている「O取締役」です。

私は真空管に目覚めるのが遅く、Oさんとは2011年ころからのお付き合いですが、(
Oさんが)東京出張時に拙宅に寄っていただいたのですが、たまたま「Thorenseプレーヤを譲り受けたが調子が悪い」と話したところ「できるかわからないけど持って帰ってチェックしてみましょう」と。

その後「以前プレーヤ開発時に世話になった技術者に集まっていただき問題点は抽出できました」、そして戻ってきた製品は「完璧」で安心して音楽を楽しめてます。費用は4万円弱!(交換部品程度)

誠実さはピカ一、信頼できる方です。ご検討いただければ「つなぎ」ます。(真空管にも明るい方です)。」

さっそく返信。

「とてもありがたい話です! まとめて面倒見てもらいたく繋いでいただきたいと思います。ところで、O様はいくつぐらいの方ですか? 私よりも確実に〈死への)順番が後の方なんでしょうね?(笑)」

以下、当事者のOさんからのメールも絡んできて話が進展していったが、内容の紹介まではOさんのご了解を得ていないので非公開とさせていただきます。

実にありがたいことで、ご親切なKさん・・どうもお手数をおかけしました!

そして、次は前回のブログ「裁判の現実と闇の底」について、南スコットランド在住の「ウマさん」からのメールを紹介させていただこう。

かつて司法試験を目指した人間の想いとして、三点ほど挙げたい。

1  僕の周りにいた人間の中で、人間的魅力のある人物が司法試験に合格したケースもあるが、こんな奴が合格するのかと憤然とした経験も少なくない。つまり、ひたすら勉強勉強で、社会の喜怒哀楽など知らない人間が、難関の試験を経て法曹界に入り、そして、人を裁く…

2  冤罪の発生は、警察や検事の面子や思い込みが、その背景にあるケースが少なくない。

僕自身、冤罪の経験があります…
昔むかし、大阪は阿倍野で、買ったばかりのホンダのナナハンで走ってた時、前を走ってたホンダカブが、女の子が乗る自転車に追突して逃げよった。

僕はひっくり返って泣いている女の子を起こし110番に通報した。ところが、その女の子は警官に、僕が追突したと証言した。頭が混乱してたのはわかるけど、そりゃあんまりや。

阿倍野署に連れていかれ、取り調べの警官は、てっきり僕が追突したものと思い込んでる。そこで…

女の子が乗ってた自転車を起こした時、リムに絡まったカブのカウルの破片を拾ってポケットに入れてたのを警官に見せた。

そして、ラッキーだったのは、高校のラグビーの先輩が阿倍野署に勤務していたので彼を呼んでもらった。

彼が「事故を起こして知らぬ存ぜぬを言う人間ではない」と強く言ってくれたことと、女の子も「そう言えば中年の男やった」と証言するにおよび、めでたく冤罪が晴れたんです。

冤罪は「思い込み」によるものとつくづく思いました。

3  ある精神科医のコメント…凶悪犯罪を起こす人間は、人間的情操や情緒の形成があまりなされていない。それらを育むのが、音楽であり、読書であり、美術や映画などである。

したがって「音楽とオーディオ」の小部屋の主どのや僕などは、凶悪犯罪をしでかすことはないと言えますね。よかったよかった。ホッ。」

さっそく返信。

「貴重なアドバイスありがとうございます。当時者にならないとわからない冤罪の危険・・、実際にそういうことが起こりうるんですね! 今さらながら 疑わしきは罰せず の真意がわかりました。いちばん悪いのは無罪の人間が有罪になることなんですね~」

以上、メル友さんたちにご教示いただき感謝の至りです!



クリックをお願いね →      


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判の現実と闇の底

2024年07月19日 | 読書コーナー

図書館に行って手当たり次第に本を借りてくるものの、読んでみて面白いという「当たり」の確率はおよそ「1/4」くらい。

また、作家などのプロが薦める本にしても当たりの確率はせいぜい「1/3」ぐらいで百発百中は望むべくもないと はな からあきらめている。

音楽やオーディオにしても「好きな曲目」や「好きな音質」が他人となかなか一致しないのと同じことですね、これは~(笑)。

人間は生まれも育ちも感性だってそれぞれ違う・・そもそも貌だって同じものは無いんだから~。

そういう中、このほど珍しく「当たり!」の本があったので紹介してみよう。

☆ 「無罪を見抜く」~裁判官・木谷 明の生き方~(岩波書店)

                         

「裁判官・木谷 明」氏と言っても大半の方が「Who?」だろうが、囲碁界の名門で知られる「木谷一門」を率いた「木谷 實」氏のご次男と言えば「ほう!」という方もいるかもしれない。

長兄が東大医学部卒、ご本人は東大法学部卒という秀才兄弟である。

「碁は別智」という言葉も聞くが、父親譲りの智能なのだろうか(笑)。


本書の表紙の裏に次のような解説文がある。

「30件に及ぶ無罪判決をすべて確定させたことで知られる元裁判官が自らの人生をふり返る。囲碁棋士の父親の下で育った少年期から、札幌地裁に遭遇した平賀書簡問題、白鳥事件の思い出、最高裁調査官として憲法判例にかかわった日々、裁判官に求められるものは何かまで、すべてを語り尽くした決定版。」

世の中にはいろんな職業が無数にある。「職業に貴賤なし」の戦後教育を受けて育ってきた人間だが、ある程度人生経験を積むとどういうレベルの人たちがどういう仕事をやっているかはおおかた想像がつく。

たとえば世間では政治家、大学教授、医師、高級官僚などの一応“権威ある”とされている職業にしても、一皮めくってみると意外にもそれほど“粒ぞろい”でもなく、人間性も含めて玉石混交の状態にあるといえばちょっと言い過ぎかな~(笑)。

しかし、「裁判官」という職業ばかりは犯罪の当事者にでもならない限り一般人にとっては縁遠い存在であり仕事の内情だってとても窺い知れないし、いわば「孤高の存在」だといえるのではあるまいか。

間違いなく言えることは、「人を裁く」という崇高な使命のもとで最難関の「司法試験」に合格した秀才たちが携わっている職業であり間違っても「過ち」を起こす確率の少ない人たちの集まりだと、ずっと思ってきたわけだが本書によって見事にその幻想が打ち砕かれた。

ありていに言わせてもらうと、

「よくぞ、ここまで裁判所の内情を思う存分に語ってくれたものです。裁判官だって所詮は人の子、法曹の世界も意外と一般の社会的組織と似たようなもんですねえ!」

これが本書を読んでの正直な感想である。


本書は著者が質問に答える形式で構成されている。印象に残った“めぼしい点”を列挙してみよう。

☆ 裁判官のタイプの色分けはどうなっているのですか(289頁:要旨)

これまで多くの裁判官と付き合ってきましたが、私は3分類しています。

一つは「迷信型」です。「捜査官はウソをつかない」「被告人はウソをつく」という考えに凝り固まっているタイプ。これが3割ぐらいいます。

二つ目はその対極で「熟慮断行型」です。「疑わしきは罰せず」の原則に忠実なタイプで大目に見積もって1割いるかいないかです。

三つ目は中間層の「優柔不断・右顧左眄(うこさべん)型」です。「判決」に対する周囲の評価ばかりを気にして決断できないタイプで最後は検事のいうとおりにしてしまう。これが6割くらいです。

☆ 無罪判決についての意義について(290頁)

「無実の人を処罰してはいけない」に尽きます。そのためにはグレーゾーンに当たる人たちを出来るだけ無罪に持っていく方向にしないといけません。また、裁判所は捜査官の増長を防止するために捜査を厳しく批判するべきだと思います。そうしないと捜査自体が良くなりません。

☆ グレーゾーンに該当する被告がたまたま審理に当たる裁判官次第で主張を聞きいれてもらったり、そうでなかったり、不公平だと思いますがその辺はどうお考えですか(291頁)

だからその点が問題なのです。困った問題ですが「熟慮断行型」の裁判官を増やすように努力するしかありません。私は、冤罪は本当に数限りなくある、と思います。私は弁護士として事件を扱うようになってますます痛感しますが「なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ」と怒りたくなる判決が沢山あります。本当に驚いています。「後輩たちよ、君たちはこんな判決をしているのか」と一喝したくなります。刑務所の中には冤罪者が一杯いると思わないといけません。

☆ 死刑制度について先生のお考えを聞かせてください(179頁)

私は今、完全に「死刑廃止論」を言っています。最大の論拠は団藤重光先生(故人:刑法の権威)と同じで、間違ったときに取り返しがつかないということです。「誤審の可能性」はどんな事件にもあります。ほかにも、死刑と無期刑とを区別する絶対的な基準を見つけることは不可能です。被告人にとって、当たった裁判官次第で死刑になったりならなかったりする、それでいいのでしょうか。

また、刑罰の目的というのは、応報と、最終的にはその人を更生させて元の社会に戻す、それで一緒にやっていく、というためにあるのではないでしょうか。死刑の場合は後の方の目的を完全に捨ててしまっています。

本書にはほかにも、裁判官の人事異動の内情などについても記載されており、上役の心証次第であちこちの地方に飛ばされたりして、まるで官僚組織とそっくりなのには驚いた。

最後に、まことに身勝手な個人的意見を言わせてもらおう。

本書の中で印象に残った言葉が「グレーゾーンにある被告人を出来るだけ白の方向で考える」

基本的に「疑わしきは罰せず」になるのだろうが、そもそもグレーゾーンに至ったこと自体が本人の不徳のいたす所であり、はたしてそんな甘っちょろい考えでいいのかという気がする。

証拠がいくら薄弱でも、捜査官の長年によるカンで「こいつはクロだ!」という心証もあながち無視できないのではあるまいか。


したがって「本当は有罪の人間が証拠薄弱のおかげで無罪になる」ことだって十分あり得るわけで、被害者側の心情を考え合わせるとはたして許されることだろうか。

つまり、犯人の罪歴や情況判断次第で「疑わしきは罰せよ」も有りだと思うわけ、そして(実際には)有罪の人間が無罪になるのがいちばん悪い・・、
こんなことを書くと「お前はまったく分かってない!」と、お叱りを受けそうだけど・・(笑)。

さて、皆様のお考えはいかがでしょう・・、この際はっきりと白黒つけましょうや!



クリックをお願いね →      


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「もったいない精神」の追放

2024年07月18日 | オーディオ談義

一昨日(16日)のこと、テレビを観ていたら「オーディオ機器を高価買取ます」の派手な宣伝が目についた。

ゴールデンタイムの宣伝費用もバカになるまいと思うが、当然のごとく需要と供給の原理から成り立っているのだろう。

つまり、(オーディオマニアの)遺された家族が時間が経つにつれ処分に困り果てる姿が自ずからみえてくる。

身につまされますな~、鎌倉時代の随筆「徒然草」(兼好法師)にあるように、「死は前からは来ない、静かに後ろから忍び寄ってくる」・・、いつも覚悟はしているものの、こうやって直接刺激を受けると「今のうちに希少な真空管を使い果たしてしまおう」という気にさせられた(笑)。

つまり、「もったいない精神の追放」である。

そして真っ先にその対象となるのは消耗品の「真空管」となる・・、すぐにこのアンプを引っ張り出した。



音がいいとされる「直熱三極管」選手権で、西の横綱「PX25真空管」、東の横綱「WE300B」と並び称される両雄だが、その「PX25」族の中でもとりわけ希少な真空管が「PP5/400」(英国マツダ)である。

しかも、この球は珍しい初期版ときている。その証拠はトップのマイカが細い長方形をしていることからわかる。



我が家ではもったいなくて出番は「お盆と正月」と決めているのだが、もはや遺された時間は少ない・・、まなじりを決して(笑)、このアンプでさっそく植木鉢入りの「AXIOM80」を聴いてみたところ、過不足をまったく感じさせない自然な響きにうっとり~。

少なくとも我が家では「WE300B」アンプを凌駕しているんじゃないかな~。

すると、いつものようについ欲が出てきた。

もっと「いいサウンド」を・・、
ウーファーを代えてみようかな~、というわけで次のとおり。



JBLの「D123」をサブウーファーにして「100ヘルツ以下」を受け持たせようという算段である。その狙いは箱に入ってない、言い換えると音が籠らないストレートなサウンドにある。

するとこれはあきまへん・・、たったの100ヘルツ以下でも全体のサウンドを一変させるほどの力を持っているが、いかんせん「グッドマン」と「JBL」では音色が合いませぬ~。

このサウンドを聴いていると、何だかイギリス人がアメリカ人を内心で軽蔑しているのが分かるような気がしてきた(笑)。

ほら、あのトランプみたいな人物を大統領にしようというお国柄だからね~、モラルも法の秩序もお構いなしなんだから。

余談はさておいて、そこで「D123」の代わりに引っ張り出したのが、同じ口径30cmの「AXIOM150マークⅡ」である。

ものの20分ほどで作業が完了した。



これは素晴らしい・・、というかまったく違和感がない!

さすがはグッドマンのコンビというわけで、このスタイルでしばらく聴くとしよう。

「もったいない精神の追放」から出発して、梅雨時(どき)にいい暇つぶしが出来ましたぞ(笑)。



クリックをお願いね →
   



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コネ社会」の現実と功罪

2024年07月17日 | 独り言

もう10年以上も前の話だが、「みの もんた」というテレビの司会者がいたことをご記憶だろうか。

で、彼の次男が窃盗容疑で逮捕され、あっさり自供したことで責任を取る形で当時の人気番組「朝ズバッ」などを降ろさせられたのが大きな話題となった。


30歳を越えた社会人の子どもが不始末をしでかしたからといって、はたして親が責任をとらねばならないのか・・、しかし「みの」に対する世間のバッシングは相当なものだった。

庶民にはとても考えられないような高給取りなので一部「やっかみ」も混じっていたようだが、日頃から高飛車で威張ってたとの風評もあって“日頃往生”の面もあったのかもしれない。


それはさておき、このニュースに関連して明らかにされたのがこの次男が親のコネで「日本テレビ」に就職していた(現在は退職)こと。これにはちょっと考えさせられた。

ちなみに「みの」の長男も某テレビ局に勤めているそうだ。周知のとおりテレビ局は就職試験の最難関とされているのに、政治家や芸能人の子供たちがウヨウヨしているそうだから驚く。


人生は始めから最後までそれこそ、大なり小なり「選択の連続」だと言っても過言ではないが、振り返ってみるととりわけ大きな分岐点になるのが「学校(専門コース)」「就職」「伴侶」だと思う。

その重要な「就職」の選択にあたって個人の才覚と努力には何ら関係のない「コネ」がおおっぴらに通用するというのは、社会の活力を維持していくうえで非常に好ましくない! とは思いませんかね。

「機会均等は民主主義の基本だ」と、声高に叫びたくなるほど(笑)。

しかし、世の中の「コネ」に対する考え方や現実にどのくらいまかり通っているのかという実態を知っておきたい気もするところ。

そういうときに目に留まったのが新聞の下段によく掲載されている週刊誌の見出し。

当時の「週刊ポスト」に「こんなにコネがまかり通っている日本というシステム」~持っている者だけが得をする~。

                 

週刊誌は滅多なことでは購入しないのだが、発売初日にわざわざ書店に出かけて行って手に入れてきた。

結構、物見高いのである(笑)。さっそく特集記事の部分を(32~37頁)を 話半分 の気持ちで読んでみたところ、「コネ」に対する認識がチョッピリ改まった。


「政界、官界、財界のトップ人事からこれから本格化する学生の就職活動戦線まで、日本社会ではあらゆる場面に“コネ”という見えざる力が働いている。それはこの国の絶対悪なのか、あるいは必要悪なのか。建前と本音が複雑に絡み合う“コネがまかり通る社会”の功罪を徹底的に解明する。」

相変わらず週刊誌独特のトーンが冒頭から炸裂~(笑)。

そして「不思議なことにそれほどコネに対する嫌悪感や批判が国民に共通しているのとは裏腹に、大真面目にコネをなくそうと言い出す人は少ない」

オヤオヤ、どちらかといえば「コネ肯定論かな?」と、読み進むうちにとうとう次の箇所へ。

「実は“コネ採用”は企業にとっていいことづくめ。むしろ海外の方が濃密なコネ社会という現実がある。」

テレビ局、広告代理店などはコネ採用の最たるもののようで、「スポンサー関係からの縁故採用によって、安定した広告料が見込める」というから、もう “何をか言いわんや” 。

出版界の老舗「岩波書店」の採用基準は「岩波書店発行の著者の紹介状あるいは書店社員の紹介があること」だそうで、「コネくらい自分で作ってこい」というわけ。

結局、「コネによる採用や出世は不公平だとする意見が正論であることは間違いない。だがコネがまかり通る社会が脈々と続いている理由は、コネによって築かれる “都合のいい仕組み” を、多くの日本人が認めているからで、その矛盾した2つの考え方に折り合いをつけることこそコネ社会を生きる重要な知恵なのかもしれない」

に集約されるようです。

したがって、コネとはまったく無縁の「音楽&オーディオ」の自由平等のもとで額に汗する努力が確実に報われる世界はやはり素敵だとは思いませんか・・、ただし「財力」がかなり 幅を利かせている のがちょっとシャクだけどね~(笑)。



クリックをお願いね →   


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつも大事な時の「後知恵」(あとぢえ)で困る

2024年07月16日 | オーディオ談義

我が家のオーディオって「シーソー」の両端に座っているようなものではなかろうか・・、と思うことがある。

どういう意味なのか・・。

このところ、よく聴いていたのは大型スピーカーと新しいウッドホーンの組み合わせ。



目新しさも手伝って、まったく不満は無かったのだが、1週間ほどすると変化が欲しくなって次のようなスタイルへ~。



大型スピーカーから小型スピーカーへと極端な変わり様~、まるで「シーソー」遊びみたいです(笑)。

「PL100」(英国モニターオーディオ)+口径20cmのサブウーファー(ハイカット100Hz)

大型スピーカーに求めても得られないものが小型スピーカーには有り、その逆も当然有りうるというわけですね。

で、前者に求めるものは、「ゆとり」と「スケール感」で 細かいちまちま したことは気にせずにゆったりと音楽に浸れるところが素敵。

その一方、後者の小型スピーカーに求めるものは、シャープな音像と繊細な表現力である。

この両方が備わっているスピーカーがあればそれがベストだと思うが、世の中にはそういうスピーカーは存在しないと思っている。

まあ自分が知らないだけかもしれないけどね・・、それに求めるレベルも各自で違うし~(笑)。

で、この小型スピーカーを3台の真空管アンプで鳴らしながら1週間ほど聴いてみたのだが、そのうち悪くはないんだけどうも食い足りなくなる・・、何だか無理して音を出している印象を受けてしまう。もっと自然な響きが出せないものか~。

というわけで、とうとう二転三転後の落ち着き先はこれに~。



これでいろんな不満も万事解決~(笑)。

いわばシーソーゲームの中点の「支え」になっている感じで、スピード感、繊細な再生、適度な量感、そして楽器の音色をそのまま出す表現力のバランスの良さにウットリさせられる、やっぱりコレコレ・・。

そして、いつの間にかスピーカーの存在をすっかり忘れて音楽に聴き耽っている。

この音なら永遠に続けてもいい~(笑)。

それに、手がかかる子供ほど可愛いというが、この「AXIOM80」も釣り具の仕掛けのように独自の工夫を施している。

というのも、通常このユニットはそもそも箱に容れて微妙に背圧を利用しながら低音を出すツクリになっている。

したがって裸で鳴らすなんて論外だが、それを知らなかったために初めの頃に平面バッフルに取り付けて鳴らしていたときに
音量を少しでも大きくするとすぐに故障して、ガサゴソとノイズが出だしたものだった。

修理費用が1回あたり「2万5千円」なり~、こういう繰り返しを懲りずに4回ほど繰り返してきたが近年はまったく無縁である。

何故なら故障しないコツを掴んだからで、上記の画像を御覧になっていただくと判ると思うが、ユニットの後部にあたる植木鉢の中に はみ出ない ように工夫して吸音材(羽毛)をぎゅうぎゅう詰めに押し込んでいる。

すると、容れないときに比べてシットリとした湿り気のある響きに変化するのが不思議・・、むしろ箱に容れて鳴らすときよりも自然な印象を受ける。

そして「100ヘルツ以下」を口径20cmのユニットが入った箱で心持ち補ってやる。

もちろん故障とは無縁だし場所も取らない・・、「AXIOM80」にはこの鳴らし方がベストじゃないかしらんと自惚れているのもご愛嬌~(笑)。

「AXIOM80」をお持ちの方で、現状にご不満をお持ちの方や飽いてきた方はぜひ試してご覧あれ~。手間は別として、お金は木製の植木鉢代だけだからね~(笑)。

シマッタ・・、6月に「AXIOM80」を聴くためにわざわざ岡山県からお見えになったお客様にこのスタイルで聴いてもらうと良かったのに~、いつも大事な時の「後知恵」で困るんだよねえ(笑)。



クリックをお願いね →   


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

付け入るスキを与えない作品

2024年07月15日 | 音楽談義

「クラシック音楽がすーっとわかるピアノ音楽入門」(山本一太著、講談社刊)を読んでいたところ、「ベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ」について次のような記述(95~96頁)があった。

          

~以下引用~


『ベートーヴェンは、1820年から22年にかけて「第30番作品109」、「第31番作品110」、「第32番作品111」のピアノ・ソナタを書き、これらがこのジャンルの最後の作品となった。

この三曲をお聴きになったことのある人なら、これが現世を突き抜けた新しい境地で鳴り響く音楽だとして理解していただけると思う。

とにかくこういう超越的な音楽の神々しさを適切に美しく語ることは、少なくとも著者には不可能なので、簡単なメモ程度の文章でご容赦ください。
ベートーヴェンの晩年の音楽の特徴として、饒舌よりは簡潔、エネルギーの放射よりは極度の内向性ということが挙げられる。

簡潔さの極致は「作品111」でご存知のようにこの作品は序奏を伴った堂々たるアレグロと感動的なアダージョの変奏曲の二つの楽章しか持っていない。ベートーヴェンは、これ以上何も付け加えることなしに、言うべきことを言い尽くしたと考えたのだろう。

こんなに性格の異なる二つの楽章を、何というか、ただぶっきらぼうに並べて、なおかつ見事なまでの統一性を達成しているというのは、控え目にいっても奇跡に類することだと思う。

もっとも、この曲を演奏会で聴くと、何といっても第二楽章の言語に絶する変奏曲が私の胸をしめつけるので、聴いた後は、第一楽章の音楽がはるかかなたの出来事であったかのような気分になることも事実だが。』

以上のように非常に抑制のきいた控え目な表現に大いに親近感を持ったのだが、「音楽の神々しさを適切に美しく語ることは不可能」という言葉に、ふと憶い出したのがずっと昔に読んだ小林秀雄氏(評論家)の文章。

「美しいものは諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。」(「美を求める心」より)

いささか堅苦しくなったが・・(笑)、自分も「作品111」についてまったく著者の山本氏と同様の感想のもと、この第二楽章こそ数あるクラシック音楽の作品の中で「人を黙らせる力」にかけては一番ではなかろうかとの想いは20代の頃から今日まで一貫して変わらない。

とはいえ、ベートーヴェン自身がピアノの名手だったせいか、ハイドンやモーツァルトの作品よりも技術的には格段にむずかしくなっているそうで、標記の本では「最高音と最低音との幅がドンドン大きくなっている」「高い音と低い音を同時に鳴らす傾向が目立つ」といった具合。

言い換えるとピアニストにとっても弾きこなすのが大変な難曲というわけで、聴く側にとっては芸術家のテクニックと資質を試すのにもってこいの作品ともいえる。

以前のブログでこの「ソナタ作品111」について手持ちのCD8セットについて3回に分けて聴き比べをしたことがある。

そのときの個人的なお気に入りの順番といえば次のとおり。

 
 1 バックハウス  2 リヒテル  3 内田光子  4 アラウ  5 ケンプ  6 
ミケラジェリ  7 ブレンデル  8 グールド


         

       


ちなみに、天才の名にふさわしいピアニストのグールドがこのベートーヴェンの至高のソナタともいえる作品でドンジリというのはちょっと意外・・。

しかし、これは自分ばかりでなく世評においてもこの演奏に限ってあまり芳しくない評価が横行しているのだが、その原因について音楽好きの仲間が面白いことを言っていた。

『グールドはすべての作品を演奏するにあたって、いったん全体をバラバラに分解して自分なりに咀嚼し、そして見事に再構築して自分の色に染め上げて演奏する。

だが、この簡潔にして完全無欠の構成を持った「作品111」についてはどうにも分解のしようがなくて結局、彼独自の色彩を出せなかったのではないだろうか。』


グールドの演奏に常に彼独自の句読点を持った個性的な文章を感じるのは自分だけではないと思うが、この「作品111」にはそれが感じられないので、この指摘はかなり的(まと)を射たものではないかと思っている。

天才ともいえる演奏家がどんなにチャレンジしても分解することすら許さない、いわば「付け入る隙(すき)をまったく与えない」完璧な作品を創っていたベートーヴェンの晩年はやっぱり凄いと思う。



クリックをお願いね →      


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音のスピード感、繊細な表現力、適度な量感のマッチングを求めて

2024年07月14日 | オーディオ談義

オーディオ機器に求めるものといえば当然「性能」なんだけど、趣味の世界なのでどうしても好き嫌いの「感情」が伴ってくる・・、で、どちらを優先させるかといえば、我が家では後者の方かな~。

もちろん両者が揃っていればいうことなし・・、実例をあげてみよう。

先日のこと、オークションにワーフェデール(英国)の口径38センチ(15インチ)のユニットが1本出品されていた。

お値段は「13,800円」と超安いうえに、音がメチャいいとされている「赤帯マグネット」付き!

我が家のウェストミンスターに使えそうなユニットなので落札したいところだが、なんといってもペアとしてあと1本欲しいところ。

そこでヨーロッパのSPユニットに関して独自の輸入ルートをお持ちの「T」さんに伺ってみた。

「現在オークションにワーフェデールの口径38センチのユニットが1本出品されてます。落札したいのですが、ステレオ用としてあと1本欲しいところです。

そこで、T様のルートから同じ口径38センチが手に入る可能性はありますでしょうか。まことに勝手のいいご相談ですが、いかがなものでしょうか。」

すると、ご親切にも次のような返信があった。

「お元気ですか。

ご照会の件ですが、当該のオークションも覗いてみましたが、アルニコの15インチタイプはなかなか見つけられないと思います。

15インチはどちらかというとアメリカ人好みのようで、イギリス国内では、Wharfedaleに限らず、15インチのユニットそのものが、あまり見受けられないように思います。

ご期待にそえず申し訳ありませんが、これに懲りず、また何かありましたら、いつでもご照会なり、ご相談なりしてください。 では、失礼いたします。」

というわけで、手に入れるのが難しいとなればオークションの出品物を諦めざるを得ない。1本だけではどうしようもないしねえ~。

さて、ここで何が言いたいのかといえば、イギリスでは15インチ(38センチ)のユニットがあまり見受けられないということ。

たしかにグッドマンやワーフェデールなどの有名どころにしても、15インチがあることはあるがめったに見かけないし、有名なタンノイにしても使えるのは往年の「モニター・シルヴァー」か「レッド」、せいぜい「ゴールド」あたりまでだろう。

後日、この件を「有識者」にご注進したところ次のようなコメントがあった。

「そうなんです。イギリスは口径30センチのユニットが圧倒的に多いです。音のスピード感と繊細な表現力と適度な量感をマッチングさせるとなると口径30センチのユニットがベストと考えているのでしょう。

私もそう思います。したがって、あなたのユニットの選択は間違っていないと思いますよ。口径38センチのユニットを思いどおりに動かすのはたいへんです。タンノイの昔のユニットがなぜいいかというと、コーン紙の重さが軽いのも一因でしょう。」


私見だが、口径38センチのユニットはそれなりの魅力もあるのだが、どうしても空気を押し出す量とそれに付随する抵抗、そしてコーン紙の重さを考え合わせると、音声信号に対する追従性に問題が出てきそうに思えて仕方がない。

そういう先入観があるだけでもうダメ・・、で、我が家のユニットはウェストミンスター内蔵のユニットまで含めてウーファー系はすべて「口径30センチ」に留めている。



左からグッドマンの「AXIOM150マークⅡ」、ワーフェデールの「スーパー12」、そしてJBLの「D123」でいずれも「12インチ」(30cm)


もちろん我が家で常用している小出力の「3極管シングル」アンプとの絡みもあるので一概には言えないが、これまで使ってきた口径38センチのユニットのJBLの「D130」やタンノイなどすべてオークションに放出してしまった。   

そういえば、タンノイの創始者「G.R.ファウンテン」氏が愛用していたのは「オートグラフ」ではなく、口径25センチの「イートン」だったことはよく知られている。

これがイギリス人の良識ある一般的なオーディオ観といっていいだろう。

自分もタンノイは「ⅢLZ・イン・オリジナル・キャビネット」「インパルス15」「ウェストミンスター」と使ってきたものの、一番バランスが良かったのは最初に使った「ⅢLZ」だった。今となっては手放さなきゃよかった(笑)。

まあ、「口径38センチ」のユニットが好きという方も当然いらっしゃるだろうし、さらには箱の容量とかパワーアンプの出力との兼ね合いもあるので一律には論じられないが肝心の「お耳のセンス」の方は「?」だと内心秘かに思っている。

もちろん、これは「クラシック愛好家」だけに通じる話で、「ジャズ愛好家」には別次元の話なので念のため申し添えておきます・・(笑)。



この映像は、つい最近メールを寄せていただいている、クラシック愛好家でプロカメラマンの「K」さん撮影のものです。


クリックをお願いね →    
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日頃から「いい音」で聴いてはいけない

2024年07月13日 | 独り言

「21世紀は文明の衝突になる」と予告したのはS.P.ハンチントン元ハーバード大学教授だが、いまだに「イスラム教」と「他宗教」との対立は世界各地の紛争の火種になっている。

で、現代人にとって世界中にあるいろんな宗教に対して無関心であることはもはや許されない状況になっているが、その一環としてずっと以前のブログで
「寒い地域でイスラム教が広まらなかったのは戒律によりアルコールが禁じられていたのが原因」という趣旨のことを書いたことがある。

そして、同様に疑問に思ったのが
「豚肉を食べることが禁止されている理由」。

これはイスラム教だけでなく、ユダヤ教でも同様だが、豚肉の赤身は(2007.6.7:「脳によく効く栄養学」)のところで記載したとおり、精神の安定に必要なセロトニン生成の原料となるトリプトファンの割合の含有量においてトップクラスの食物とされているので、栄養学上これを食べないというのは実にもったいない話。

合理的な理由を是非知りたいと思っていたところ、たまたま朝日新聞社発行の月刊誌(「一冊の本」)
を見ていたらその理由が詳細に記載されていた。         
                            
「宗教聖典を乱読する 5 」~ユダヤ教(下)~(61~65頁)著者:釈 徹宗氏

豚は食材として大変効率がいいのは周知の事実。中国料理では「鳴き声以外は全部使える」といわれているほどである。栄養価、料理のバリエーションなどとても優れている食材をわざわざ避けるのは生物学的にも不自然だし、人類学的にも一つの謎となっている。

この豚肉がなぜ禁止されているのかは昔からラビ(ユダヤ教の聖職者)たちの間ですら論争が続いている。様々な理由づけを列挙してみよう。

 美味しいものを避けることによって、大食の罪を諫めた。美味しいからこそ食べない!

 豚は雑菌が多く、当時の保存法では問題が多かったため食することが禁じられた。これは今でもよく使われる説明で、雑菌が発生・繁殖しやすい風土というのも関係している。

 異教徒の中で豚を神聖視する人たちがいたので差異化を図った。

 豚という動物が悪徳を表すイメージからタブーとした。たとえばひづめが割れているのは「善悪の識別が出来ない」などで、宗教はシンボルが重要な概念になっている。

 合理的説明は不可能。食規範はまったくの恣意的であり何の秩序もないという説。

 克己心や人格を形成するためという説。つまり不合理な禁止により結果的に人格が鍛錬される。これは1と関連している。

 食事のたびごとに神への忠誠を再確認させる。

以上のとおり、さまざまな理由づけがなされているが、人間の生理(食、性、睡眠など)にまで価値判断が持ち込まれているのは宗教だけが持つ特徴であり、その背景としては人間の本能がもろくて簡単に壊れやすいことが念頭に置かれている。

たとえば、「好物を見たら、満腹でも食べてしまう」「繁殖以外の目的で性行為をする」といった行動はほとんど人間だけの特性といえ、人間以外の動物は本能の働きにより、過剰な行動には自動的にブレーキがかかる。

ライオンが満腹のときは目の前をシマウマが通っても襲わないというのはよく聞く話で、「自分の生存を維持するための行動」「自らの遺伝子を残すための行動」が基本となっている。

結局、それだけ人間というのはエネルギーが過剰であり旺盛なので一歩間違うと人間という種自体を滅ぼす危険性を有している

その意味で、人間は本能が壊れやすい動物であればこそ、その過剰な部分をコントロールしストッパーの役目を果たしているのが「宗教」である。

したがって、「なぜ、豚肉を食べないか」に対する最も適切な答えは「神が禁じたから」となる。つきつめればそこへと行き着いてしまう。

ユダヤ教にはさまざまな宗派があるが共通基盤があって、それは「唯一なる神を信じ、安息日や食規範などの行為様式を守ること」にある。

この基本線に関してはどの宗派も共有している。そして敬虔なユダヤ人にとっては、「律法を守ることそれ自体が喜び」
なのである。

以上のとおりだが、「自分を律するために、あえて美味しいものを食べない」というのは、まったくの「眼からウロコ」で、それからすると総じて「仏教徒」たるもの、ちょっと自分に甘すぎて「快楽主義」に走り過ぎるきらいがあると思いませんかね・・。

で、最後にこれが言いたかったのだが「オーディオ愛好家は自分を律するために、日頃から“いい音”で聴いてはいけない」な~んちゃってね(笑)。



クリックをお願いね →     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いい音」って何?

2024年07月12日 | 音楽談義

我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」がおおよそ一体化している積りだが、いったい「いい音って何?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書では様々な作曲家や演奏家について取り上げている。たとえば

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手
2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走
3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”
4 ワーグナー  フォルクからの世界統合
5 マーラー  童謡・音響・カオス
6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速
7 カラヤン サウンドの覇権主義
8 カルロス クライバー  生動する無
9 グレン・グールド  線の変容

といった具合。


この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がダンゴになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」


これはオーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因がありそうだ・・。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて透明感や分解能に優れ、なおかつ奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけたあの「スピーカー」も、逆に捨てがたい味があったのかもしれないとちょっぴり反省(笑)~。

ずっと以前のブログで村上春樹さんの「バイロイト音楽祭」の試聴記を投稿したことがあるが、その会場ではオーケストラ・ピットが沈み込んでおり、その音が大きな壁に反響して「音が大きな一つの塊のようになって響く」とあったのを思い出した。

そういえばフルトヴェングラーが指揮したあの感動的な「第九」(バイロイト祝祭管弦楽団)がまさしくそういう音で、こういう「鬱蒼とした音の塊」からしか伝わってこない音楽があることも事実で
「いい音って何?」、改めて考えさせられる。

次いで、グールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄してスタジオ録音だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

 グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。


したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、40年以上にわたってグールドを聴いてきたので “いかにも” と思った。

「音楽は生演奏に限る・・、オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの「音楽好き」なんだろうか・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていたとされる理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオ・システムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる・・、さらには個人ごとの好みも加わってくるのでもう無限大といっていい。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、とはいえ、その一方では何となく虚しい気持ちになるのはいったいどうしたことか・・(笑)。 



クリックをお願いね →      


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反響が大きかった音楽関連の記事

2024年07月11日 | 独り言

前々回のブログ「読書コーナー~音楽の本~」は予想外にも反響が大きくて「アクセス」も好調だった・・、何がヒットするかいまだにどうもよくわからない(笑)。

こういう記事ばかり書いているといいんだろうけど、調子に乗って続けてしまうと「またか・・」と飽きられてくるだろうし、その辺の兼ね合いがなかなか難しい。

「賢いものが生き残るとは限らない、強いものが生き残るとは限らない、ただ変化するものだけが生き残る」(ダーウィン「種の起源」)だそうで、このブログも内容はともかく「絶えず変化する」ことをモットーにしています、あっ、そういえばオーディオもそうでしたね(笑)。

で、その反響とやらを時系列で紹介させてもらうとしましょう。

まずは南スコットランド在住の「ウマさん」からメールをいただきました。

「こちらのクリスマス…、お店はパブ以外すべて休み。街の目抜き通りは閑散としていて、人通りはほぼありません。
一年で一番重要な日、クリスマスは家で過ごします。何年か前、たまたまクリスマスの当日、所用があって、家族一同、街に出たときの写真がありました。

ご覧の通り、日頃賑やかな街の目抜き通りに、人通りはまったくありません。



日本におけるクリスマスの「はしゃぎ方」とは大違いのようですね!

次いで、メル友の「YO」さんから、「レクイエム」の名盤についてご教示いただきました。

「私もフォーレとモーツァルトのレクイエムは好きですね。良く聴くのは
フォーレがサマリー盤、モーツァルトはシュペリンク盤です。
モーツァルトの方は是非CDで聴いていただきたいです。驚きますよ(笑)」

「驚きますよ」という言葉にメチャ弱いのでさっそく「そんなに音がいいのですか?」と問い合わせたところ「CDのボーナストラックが素晴らしいとのこと」 なるほど・・。

そして、最後はプロカメラマンOBのKさんからだった。

「暑い日が続きます。家内がやっているシニア劇団員の中にも 最近新型コロナ感染者が2人出ています。

公演も近いことですので 皆さん元気で練習の成果が出せるように祈らずにはおれません。

運よく家内ともども 子供、孫達は感染経験者が結構いますのに かかる事も無く ありがたい事と思っています。

私のつたない写真が添付されていましたが まあ多くの人達に楽しんでもらえたら良いかなあと言うところです。

これからも時々メール差し上げる事があると思いますが その時の写真普通にブログ主様のメールの最後に載せていただいてもかまいません。

人により写真の雰囲気も変わってきますので 良いんじゃないでしょうか。今回は 友人の方も撮っておられる被写体ですが どうぞごらんになってください。特別に撮りにいったんではなく 偶然庭先で見つけた蝶です。

後輩達の中には 趣味の集まりの方たちが作っているクラブで教えているのが何人かいますが 私は会社時代で此の世界からはおさらば、ただ習性なんでしょう 

旅行先や自宅周辺で目の前に心留める景色を見てしまいますと 思わずシャッターを押してしまいますので定年後24年、何枚かの作品が残っています。添付できるのは 其の中からです。又楽しみにしていただければありがたいです。

宗教曲ですか、モーツアルトやフォーレのレクイエム、定番どおり ベームとコルベです。

ただベームは 我が家では美しくは響いてなく 合唱のところの再生が難しい。

アリエル ラミレスのMISA CRIOLLA(ミサ クリオージャ(南米大陸のミサ)ホセ カレーラスが歌っているCD(PHILIPS) 聞いておられますか。

ヴァティカン公会議で ミサは必ずしもラテン語に限ることなく諸国語で行っても良いとなってアフリカ ブラジル、アルゼンチンなど各国からミサ曲が誕生したそうですね。

雪の中ではない 真夏のクリスマス また面白いです。
此の曲が気にいって 私は夜寝る前になど時々聞いています。
レコードのベームのとは違って音が良い。凡人には 矢張り良い録音で聞けるのがありがたいです。」

ホセ・カレーラスのCDぜひ聴いてみたいです!

最後に、ありがたいことに写真が添付されていたのでご紹介させていただきます。



クリックをお願いね →  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無知というものの哀しさ

2024年07月10日 | オーディオ談義

「右チャンネルから音が出たり出なかったりするんだけど、ちょっと診てもらえませんか~」とオーディオ仲間のMさんへメッセージ。

Mさんはれっきとしたベテランの「アンプ・ビルダー」さんである。「ああそれは、半田の接着不良でしょう。明日お伺いします。」と即座に返事が返ってきた。

対象のアンプは「2A3」シングルアンプである。



ご覧の通り、大きな出力トランスのせいでやたらに重たい・・、こういう大きな出力トランスを持つアンプが繊細な音を出す事例をこれまで見聞したことはないが、低音域のゆとりに関しては大いに重宝しているので、専ら低音域用として使っている。

出力管の「2A3」は比較的ポピュラーな球なのでRCAを始めとしてブランドがいくつも出回っているが、我が家では「VISSEAUX」(フランス:刻印)を選択している。

刻印付きともなると今や希少品だそうで海外のオークションでは軽く「15万円以上で取引されている」との噂・・、まあスペアを含めて売るつもりはないけどね~(笑)。

で、お見えになったMさんがアンプの裏蓋を開けて点検したところ、すぐに「ボリューム」周りの半田が接触不良で「ついたり離れたり」の状態。

半田ごてが入りにくい部分というのが原因だった。

「音が出たり、出なかったり」というケースでは、まず半田の接触不良を疑った方が良さそうだ。

まずは一件落着だったが、Mさんがついでに持参されたのがこのほど落札された「TR式」のプリアンプだった。価格はわずか「8千円」というから、超安っ!

なぜこれほど安かったのかといえば、出品者が「STORE」だったせいで、ぞんざいな取り扱いだったことに尽きる・・、たとえば上蓋を開けて内部の画像を見せて欲しいと要望しても聞き入れてくれない。

したがって、入札者はMさん含めてたったの2名という有様~。

ところが、到着して上蓋を開けてみたところ、なんと希少なマイカ・コンデンサーがペアで使われていた!



画像上部の「茶色のコンデンサー」がそれで、市価ともなると確実に3万円ぐらいはするという代物、おまけに電源トランスは「TANGO」という有名どころが使われている。

もし、「STORE」が手間を惜しまずに「上蓋」を開けて画像を公開していたら、入札者が殺到し落札価格もきっと跳ね上がったことだろう。

Mさんのチャレンジ精神に拍手といったところだが、一方では「無知」というものの哀しさにやりきれなくなりますな・・(笑)。

で、修繕とか掘り出し物の話が一段落してから、「久しぶりにAXIOM80を聴かせてくれませんか」との要望に応えた。



この頃はこういう聴き方をしています、というわけで、オイルコンデンサーで「500へルツ」あたりでローカットし、それ以下の低音域は後方に控えるウェストミンスター(改)で補完するという世界中でも「ここだけ」のシステム。

両者、すなわち「AXIOM80」と「ウェストミンスター」内蔵の「スーパー12」(ワーフェデール:赤帯)ユニットの「位相」すなわち振動版の位置関係については、言わずもがなだが音の速さは秒速「340m」なので、100ヘルツのときの波長は「3.4m」、「500ヘルツ」のときは「1.7m」だからまあ許容範囲ではなかろうか・・。

ちなみに、植木鉢に据え付けた「AXIOM80」(復刻版)の背後には、「羽毛の吸音材」をこぼれ落ちないように工夫して詰め込んでいる。

「まったく違和感がないです!」と聞き惚れるMさん・・。

ついでに、コーラルのドライバーとウッドホーンのコンビも聴いてもらい、どちらが「お好きですか・・」と単刀直入にお訊ねしたところ「もっと長時間聴かないと簡単に応えは出せませんね・・」、誘導しようというこちらの思惑が見事に外れて、ギャフン~(笑)。



クリックをお願いね →  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~音楽の本~

2024年07月09日 | 音楽談義



図書館の「新刊コーナー」でたまたま見つけたのが「交響曲名盤鑑定百科」という本。

「交響曲」でいちばん好きなのは「第39番K543」(モーツァルト)なのでどういう鑑定をしているのか、真っ先に目を通してみたところガッカリ・・、肝心の「第4楽章」に言及していない。

50年以上も前に読んだ「モーツァルト」(小林秀雄著「無私の精神」所蔵)では、この4楽章についてこう書かれている。

「部屋の窓から明け方の空に赤く染まった小さな雲の切れ切れが動いているのが見える。まるで「連なった♪」のような形をしているとふと思った。

39番のシンフォニーの最後の全楽章が、このささやかな16分音符の不安定な集まりを支点とした梃子(てこ)の上で、奇跡のようにゆらめく様はモーツァルトが好きな人ならだれでも知っている」

以上のような表現だが、この「揺らぎ」こそモーツァルトの音楽の真骨頂なのに、これに触れないなんて音楽評論家としてあるまじき行為だと思うよ~。

腹が立ったので、もう読まずに返却することにした(笑)。

もう一冊・・。



「宗教音楽の手引き」に目を通していたら、次のような箇所があった。(60頁)。

「クリスマスが近づいてきました。一時代前の日本ではクリスマスというと顔を真っ赤にして酔っ払ったご機嫌の紳士がケーキの箱をぶらさげて きよしこの夜 を歌いながら千鳥足で歩く姿をよく見かけたものでした。

それでも普段キリスト教に関心を持たない日本人が年に一度でもキリストの誕生を祝う気持ちになるならそれはそれでいいことだと思っておりましたが、どうも話はそう簡単ではなかったようです。

その頃たまたまテレビを見ておりましたところ、若い芸能人たちが「連想ゲーム」をしていました。「クリスマス」という題を出されて、それぞれ「プレゼント」「シャンパン」「パーティ」などと言い合っています。その中で一人だけ気の利いた若者が「キリスト」と言ったとたん「バカァー、お前、何言ってんだョー」「何の関係があるんだよョー」と一斉にののしられ、当人も自信をなくして「アア、そうか」と引き下がってしまったのです。

なるほど、これが日本の現実かとわたくしはしばらく考え込んでしまいました。」

そして、各国のクリスマスの祝い方に移り「アメリカは商業的」「ヨーロッパは地味で静かで、フランスは聖夜のミサが秘かに捧げられ教会堂から流れ出る鐘の音がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出す、もっとも好ましいのはドイツで質実剛健で浮かれ上がったところが無く堅実で素朴です」といった具合。

ブログ主は「クリスマス」に限らず、外国の風習を安易にとり入れる日本独特の浮かれ方について、苦々しく思っているうちの一人です。

あっ、そうそう、ふと思い出した・・、何かの雑誌に書いてあったことだが、「イブともなると若者たちで都会のラブホテルが満員になる、聖なる夜をみだらな性欲で汚さないで欲しいと外国人が嘆いていた」というお話。アハハ、と笑い話で済ましていいのかどうか・・。

皆さまはどう思われますか?

さて、本論に移ろう。

宗教曲といえば死者の霊魂を天国に送る「レクイエム」、正式には「死者のためのミサ曲」に代表される。日本でいえばお坊さんの念仏みたいなものですかね~。

本書では「レクイエム」の代表曲として「ガブリエル・フォーレ」と「モーツァルト」が挙げてあったが、まったく異論なし~、「ヴェルディを忘れちゃいかん!」と怒り狂う方がいらっしゃるかもねえ(笑)。

前者には「クリュイタンス」盤が推薦してあったが、「ミシェル・コルボ」盤を忘れてはいませんかと言いたくなる~。

後者では「ワルター」盤と「ベーム」盤が推してあったが、ちょっと古いかなあ・・、近代の名演をご存知の方があればご教示ください。



クリックをお願いね →  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑い、暑い・・、懐かしのヒット曲集

2024年07月08日 | 独り言

このところ連日35度以上の猛暑が続いている。はたしてもう梅雨が終わったのだろうか・・、という疑問がつきまとうが、天気予報を見ると今週の後半から雨模様なのでそんなに甘くはないらしい。

昨日(7日)のこと、あんまり暑いので午後のウォーキングを久しぶりに公園に移すことにした。日影が多いので、家の周囲より少しはマシだろうとの思惑。

クルマに乗り込んで車内の温度表示を見ると何と「38℃!」~。

15分ほどで到着して公園に入ってみると、さすがに人が少ない。



ウォーキングを開始してみると、木立を縫って「そよ風」が吹いており、想像以上に快適だった。

夏のウォーキングはこれに決めた・・、しめしめと40分ほどで切り上げてから自宅に戻るとさっそくオーディオ機器のスイッチをオン。

さっそく「You Tube」を検索。

公園の「そよ風」に誘発されて、お目当ては往年のヒット曲「そよ風の誘惑」。歌手は「オリヴィア・ニュートン・ジョン」・・。2年ほど前に「乳がん」で73歳で死去、まだ若いのに・・、合掌。



それにしても、大ヒットしたこの「そよ風の誘惑」は名曲だと思う。

原題は「Have You Never Been Mellow」。英語は不得手だが「あなたは憂鬱になったことなんてないの?」という感じかな~。

それがどうして「そよ風の誘惑」というタイトルになったのか・・、実に上手い付け方だと思う。

それに反して実に拙いタイトルだと思うのが「白い渚のブルース」。

1960年代初頭に「ビルボード誌」で1位を獲得したヒット曲だが、しんみりと哀愁を帯びたクラリネットの音色が実に美しい。イギリスのテレビドラマのテーマ曲だったそうで、いかにもイギリスらしい内省的な雰囲気に満ち溢れている名曲。



クラリネット奏者は「エッカー・ビルク」(自作自演)だが、学生時代にこのレコード(シングル盤)を何度聴いたかわからないほど愛聴した。

そして原題は「Stranger On The Shore」・・、直訳すると「渚の見知らぬ人」~。

これがどうして「白い渚のブルース」というまことに陳腐なタイトルになるのか、もう歯がゆくて、歯がゆくて・・(笑)。あえて「白い渚」に拘るとすれば「白い渚の異邦人」ぐらいかな~。

調子に乗って、ほかにも往年のヒット曲を次から次にサーフィンした。

「ウォーク・ドント・ラン」(急がば回れ)。



このレコードのジャケットは実に懐かしいという方が多いのではなかろうか・・。

そして真打は「Walk On By」。歌手は「ルロイ・ファン・ダイク」



ウェスタン風の軽快なロック調の曲目で、女声のバックコーラスが冴えわたっている。どんなに探しても見つからなかった曲目でもう諦めていたのだが、やっと見つけました!

さらには「パッツィ・クライン」(飛行機事故で死亡)の「アイ・フォール・ツ・ピーシズ」・・。

「You Tube」万~歳!(笑)



クリックをお願いね →  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪貨は良貨を駆逐する

2024年07月07日 | 音楽談義

前々回のブログ「理系人間にクラシック好きが多い理由」の続きです。

大好きな音楽を聴くときに「数学」を意識する方はまずいないと思うが、じつはその底面下にはそれが秘かに横たわっているというお話。



本書を読んでみたが、なにぶん自分の読解力では荷が重すぎたようで完全に理解するにはほど遠かったが、概ね理解できたエキスだけを記して恰好だけつけておこう(笑)。

「古代ギリシャでは数論(算術)、音楽、幾何学、天文学が数学の4大科目とされていた。そのうち音楽は数の比を扱う分野とされ、美しい音楽は調和のとれた音の比によって成り立っており、それこそが美の原点と考えられた。

もっともよく協和する二つの高さの音は1対2の関係(つまり1オクターブ)により作られているというように、ここでは常に音は数と対応して考えられ、また美しい数の比は美しい音楽を表すとも考えられた。

そもそも音楽は数学とは切っても切れない関係にあり、メロディーもビート(拍)も和音も、数の並びそのものである。つまり書かれた音符は数の並びなのである。数として認識された音は、身体的行為としての演奏を通して音楽になる。

したがって、私たちは何気なしに音楽を聴いているが、それは無意識のうちに数学にふれていることにほかならない。

「音楽を考えることは数学を考えることであり、数学を考えることは音楽を考えることである」
 

とまあ、簡単に噛み砕くと以上のような話だった。

どんなに好きな音楽であろうと長時間聴くと自然に(頭が)疲れてしまう経験もこれで説明がつくのかもしれない。

とにかく、本書は超難しかったけど音楽と数学とは切っても切れない縁を持っており、これで理系人間に音楽好きが多い理由が、何となく分かってもらえたかな~?

「ど~もよく分からん、もっと詳しく知りたい」という方は、直接本書を読んで欲しい(笑)。

さて、実はこのことよりも、もっと興味のある事柄がこの本には記載されていたのでそれを紹介しておこう。こういう思わぬ“拾いもの”があるから濫読はやめられない。

第3章では数学家(桜井氏)と音楽家(坂口氏)の対談方式になっており、数学の観点から「アナログのレコードとCDではどちらの音がいいか」について論じられた箇所があった。(158頁)

数学家「これは数学と物理学で説明できます。デジタルを究極にしたのがアナログです。レコードの音はアナログだから時代遅れだと思う方がいるかもしれませんが、数学を勉強した人は逆なのです。アナログの音が究極の音なのです。

CDは1秒間を44.1K(キロ)、つまり4万4100分割しています。その分割した音をサンプリングと言って電圧に変換してその値を記録する。これをA/D(アナログ→デジタル)変換といいますが、このCDになったデジタルデータはフーリエ変換によってアナログに戻されます。

しかし、レコードの原理はマイクから録った音の波形をそのままカッティングするので原音に近いのです。だから究極では情報量に圧倒的な差があるのです。CDは情報量を削っているから、あんなに小さく安くなっていて便利なのです。」

音楽家「ただし、アナログで圧倒的にいい音を聴くためには何百万ものお金が必要になりますよね(笑)」

数学家「それなりのリスニングルームとそれなりの装置と、そこに費やされる努力はいかほどか・・・。だから趣味になってしまうんです。それはやはり究極の贅沢みたいなことになります。そんなことは実際に出来ないということでCDができて、さらにiPodができて、どんどんデジタルの音になっています。」

音楽家「結局、それで一つの文化というものが作られました。アナログの時代には“オーディオマニア”という人種がいたのだけれども、今、そういう人種はいなくなってしまいましたね。ほんのわずかに残っているみたいですが。」

その「ほんのわずかに残っている人種」のうちの一人が自分というわけだが(笑)、いまだに続いているアナログとデジタルの優劣論争においてこの理論は特に目新しくはないものの、いざ改めて専門家からこんな風に断定されると、
「ハイレゾ」をどんなに詰めてみても所詮「アナログには適わない」ということを頭の片隅に置いておいた方が良さそうだ。

我が家のケースではもう20年以上も前にワディアのデジタルシステムを購入してアナログとあっさり手を切ったわけだが、それではたしてよかったのかどうか?

その後にはさらにエスカレートして「ワディア」から「dCS」に乗り換えてしまったがこれらの機器の
値段を書くと「お前はバカの上塗りか!」と言われそうなので差し控えるが、これだけのお金をアナログに投資する術もあったのかもしれない。

   

つい最近も仲間のお宅でレコードの音を聴かせてもらったが実に自然な「高音域」が出ているのに感心した。

いまだにアナログに拘る人の存在理由を現実に思い知らされるわけだが、貴重なレコード針が手に入りにくくなったり、ターンテーブルの高さやフォノモーターの回転精度、アームの形状で音が変わったり、フォノアンプの性能に左右されたり、有名盤のレコードがたいへんな値上がりをしていたりと、いろいろ腐心されていたのでレコードマニアにはそれなりの悩み(楽しみ?)もあるようだ。

また、DAコンバーター、真空管プリ・パワーアンプ、あるいはスピーカーなど周辺システムに細心の注意を払ったCDシステムと、幾分かでもそれらに手を抜いた場合のレコードシステムのどちらが「いい音」かという総合的な問題も当然残る。

結局のところ、俯瞰(ふかん)しないと、その優劣について何ともいえないのがそれぞれの現実的なオーディオというものだろう。


まあ、CDにはCDの良さもあって、前述のようにソフトの安さ、取り扱い回しの便利さなどがあるわけだし、今さらアナログに戻るのはたいへんな手間がかかるし、第一、肝心のレコードはすべて処分してしまっている。

もはや乗ってしまった船でオーディオ航路の終着駅もぼちぼち見えてきたので、CDで「潔く “まっとう” するかなあ」と思う今日この頃~。

あっ、そうそうこのところ聴いてる音楽ソースといえば 昔好きだった希少な曲目をタダで聴ける、そしてリモコン一つで簡単に聴ける 「You Tube」オンリーになっているが音質にまったく不満はないので大いに重宝している・・、「悪貨は良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)のかな~(笑)。



クリックをお願いね →  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする