「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

健康コーナー~「疲労医学」の研究~

2009年09月30日 | 健康コーナー

暦のうえでは初秋ともいえるのに、いまだに蒸し暑い日が続いている。

今年の夏はことさら暑かったという記憶があるが夏バテの影響か、はたまた寄る年波のせいなのか、以前は毎日のようにトレーニングジムに通っても全然疲労を覚えなかったのに、最近では3~4日に1回ほどは何となく気が進まない日があって、そういうときは用心をとって休んでいる。

しかし、自覚症状だけに頼っている自分の体調が果たして客観的に見て「いいのか、悪いのか」いまいち判然としないのがどうも納得できないところ。

つまり、現状が果たして「トレーニングのやり過ぎなのか、逆にやり足りないのか、あるいはこれを乗り越えるともっと体力が増強できるのか?」という適切な選択肢がどうもよく分からない。

こういうときに自分の現在の「疲労度」がピタリと何らかの数値で示されれば十分納得して休養を摂るか、あるいは運動をするのかその辺の按配がうまくいくのにと思う方は意外に多いのでは。

その点、人間に比べて金属材料の「疲労度の測定」は十分に調査研究が行われている


もちろん致命的な箇所における金属疲労によって飛行機が墜落したり架橋が崩落したりして多数の人命が一度に失われる危険性があるので”ゆめゆめ”放置できない分野である。

金属の疲労とは、破壊力以下の微小応力が繰り返し負荷されることによって機械的強さが低下し、破壊する現象。

いささか専門的な領域になるが次の技術用語によってきちんと分類されている。もちろん本の受け売りだが題名は忘れてしまった。

1 疲労強度
一定回数の周期的応力を負荷した場合に破壊に抗する最大応力

 
疲労寿命
疲労破壊にいたるまでの応力負荷の繰り返し数

 
疲労限度
無限に繰り返し負荷しても疲労破壊を起こさない応力振幅の最大値

この指標によって現在、多くの材料の綿密な研究がなされたうえで膨大なデータが蓄積され構造物の建造や機器の生産における安全設計にきちんと反映されている。

ところが、残念なことに私たち人間の身体にとってこれらのような「疲労強度」、「疲労寿命」、「疲労限度」に当たるような指数が何一つ分かっていないのが実状。

「人間さまよりも金属の方がそんなに大事なのか?」なんて思いたくなるほど。

もっとも、
人間にとっての疲労は肉体的疲労のみならず精神的疲労も加わるために
物理的な測定が難しいし、個々の人間によって耐ストレス強度も違うので万人共通のスタンダードが設定されていないのもよく分かる。

もし人間の疲労メカニズムが深く解明されて各人ごとに簡単な検査で疲労度の数値が客観的なデータとして把握できるようになれば過労死などの疲労に関わる悲劇は起こらなくなるし、もっと安心できる平和な世の中になるに違いない。

関連して、以前のブログで
「オーバートレーニング症候群」
について紹介したことがある。

これは、スポーツ医学の見地から、トレーニングのしすぎによる一種の慢性疲労の状態を指したもので、主な症状は次のとおり。

基 本 症 状  
疲労感+パフォーマンス低下

その他の症状  
たちくらみ、動悸、息切れ、体重減少

重症になると   
不眠、意欲低下、うつ状態

これらの症状を客観的に見分ける方法として
「朝起きたときに脈拍をとる習慣を身につけると良い、疲労はまず脈拍に表れ、1分間に5~10拍以上増えていればトレーニングを控えたり抑える」。

これは朝日新聞の日曜版に掲載されていた記事だったが、そうはいっても脈拍を毎朝とるのも面倒だし、ときには心配事や家族との”いさかい”の名残で血圧とともに異常に高くなっている場合だってある。

それにヤル気満々の頑張り屋さんにとってはいろんなマイナスの自覚症状を、むしろ怠惰な自分自身を許すまじとして叱咤激励の発奮材料に使う場合だってあり得る。

というわけで、たとえばの素人考えだが血液検査には実にいろんな検査項目があり「好中球」「リンパ球」などの免疫指数があるので、これらを動員させて総合的に疲労度を判定できる指標があると現在の自分がどういう状態か即座に分かるし、今後の健康維持にとっても大いに役にたつ。

いわば、「予防医学」の範疇に入るのだろうが
疲労医学」
をもっと掘り下げて調査研究してもらえると病気の予防にも効果があってが医療費の抑制にもつながると思うのだが。

ただし、むやみに長生きを願望し「大きな塊が年金を食いつぶす」と評判の悪い”団塊の世代”以降は「世の中に役に立っている就労者」を除いて保険適用外が妥当だろう。自分なんかはもちろん適用外である。

              


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独り言~身辺あれこれ~

2009年09月27日 | 独り言

9月24日(木)、5連休明けの早朝のこと、92歳になる母が急に福岡に住んでいる姉のところに行きたいと言い出した。

23日に孫娘が大阪に帰ってしまい「大木が倒れた気がする」と気落ちしていたので寂しさに耐え切れずポッカリと空洞が出来たらしい。

週2回来ている訪問看護師さんに相談したところ「たまには気分転換もいいのでは」ということで、姉に申し入れたところ「いいよ」との快諾だったので薬や簡易トイレ、リハビリパンツなど身の回り品を一切合財クルマのトランクに積み込んで一路福岡市南区に向けて出発。

7月の交通事故で前のクルマを廃車し、8月から別のクルマに変えてから高速道に乗るのは初めて。ETC関連の登録事項の変更をパソコンで処理していたものの「レーンをうまく通過できるかな」とやや心配していたがどうやら無事通過でホット一息。平日の高速道なので随分空いていた。

以前と様変わりでビュンビュン追い越すこともなく安全運転に徹して片道150kmほどをトイレ休憩を含めて2時間ほどで到着。大宰府インターから都市高速に乗ったので便利が良かった。

それから2時間ほどの昼食休憩を挟んで再び別府まで折り返しターン。

いつ亡くなってもおかしくないような年令の母なのに何だか物体をポンと置いてくるみたいで気が重くなるが、どうせいつものように4~5日も経つと別府に帰りたいと我儘を言い出すに違いないなんて思いながら帰途に。

自宅に帰着したのは15時半頃だった。帰りは至る所に覆面パトが暗躍していてスピード違反で捕まっていたクルマを2台ほど見掛けたが以前の運転なら捕まっていただろう。危ない、危ない。

肝心の燃費の方だが、300km走って平均燃費が14.1km/ℓを表示していた。排気量2500ccのクルマにしては上出来で驚いた。

翌日、25日〔金)の午前中は気軽な気持ちで図書館へ出かけた。母がいると、いつも「(帰るのが)遅すぎる」と文句を言うのでおちおち本の選択もゆっくり出来ないが今日はゆったりした気持ちで広い館内を本の匂いに包まれながら散策できる。至福の時間である。

先日、「ホワイトアウト」の作者「真保裕一」のエッセイ本「夢の工房」を読んでいたら自らが読んで面白かった本を羅列していた。通常、作家は商売敵に当たる他の作家の本を推奨しない、それにプロの作家が読んで面白かったというのなら間違いはあるまいとノートにメモしていたのを捜し歩いて貸し出し制限一杯の10冊借りた。

「理由」(宮部みゆき)、「魍魎の匣」(京極夏彦)、「シャル・ウィー・ダンス?アメリカを行く」(周防正行)、「唇の後に続くすべてのこと」(永井するみ)、「レギュレイターズ」(リチャード・バックマン)、「双頭の悪魔」(有栖川有栖)、「慟哭」(貫井徳郎)ほかにP・D・ジェイムズの「わが職業は死」「黒い塔」、そして貫井徳朗の「烙印」。

以上、「シャル・ウィー・・・」を除いて全てミステリー。

ついでに市立図書館にも寄ってこちらも制限一杯の5冊。こちらは全て新刊。

「真実の一球」~怪物・江川卓はなぜ史上最高と呼ばれるのか~、「悩まない力」(大島清)、「ジパング再来」~大恐慌に一人勝ちする日本~、「元兵庫県警マル暴刑事の裏事件簿」、「フェルメールの楽器」~音楽の新しい聴き方~(梅津時比不古)

このうち早速「真実の一球」に目を通した。   

「江川卓」がなぜ「怪物」と呼ばれ「史上最高の投手」と謳われるのかを解説した本。高校時代のときが全盛期だったそうだが、たしかに当時のテレビ映像で観た江川の速球はケタ違いでいまだに記憶に鮮明に残っている。

軽く投げている印象なのに球が打者の手元でグゥーンと浮き上がってきていた。それにいかにも球が重そうな感じ。これがホントの「剛球」(「豪球」?)。

現代でもダルビッシュなどいい投手はいくらでもいるがモノが違うという印象で当時の江川を越える投手はいまだに出会わない。あの松坂でさえも物足りないほどで、当時を知っている同じ年代の方ならこの説に多数同意されるのでは。

江川はその後大学、プロ野球と進んだものの通算成績の方は”いまいち”だった。彼の場合、プロ野球に行くのなら大学生活は明らかに余分だったし、才能が有り余り過ぎて高校時代にピークを迎えたのが悲劇だった。

あの黒澤明が監督人生の比較的若いうちに
「七人の侍」というパーフェクトな作品を作ってしまったせいで、その後の作品が全て見劣りしてしまいジリ貧になった印象と重なってくる。北欧フィンランドの作曲家シベリウスも30代後半が全盛期で後は駄作ばかりになってしまい才能が枯渇した感がある。

一方では晩年になればなるほど成熟する芸術家もいる。あの葛飾北斎がそうだし、ベートーヴェンだって・・・。

年輪を味方につけるのも才能の一つだろうか?

さて、午後はカミサンが大阪に居る娘と一緒に宝塚を観劇するというので駅まで送っていった。これから久しぶりに一人暮らしで大いに羽を伸ばせる。

とはいっても、せいぜい邪魔が入らないでオーディオの音を大きくして聴けるくらいのもの。

一風呂浴びて午後の4時くらいから試聴に入った。朝の間、天気予報の番組のBGMが耳に残っていて、まずその曲から手始め。

その曲とはジャズ史上空前絶後の傑作とされる「サキソフォン・コロッサス」の一曲目”セント・トーマス”(ソニー・ロリンズ)。

どうです、田舎の民放局にしては気の利いた選曲でしょう!

久しぶりにボリュームを大きくして堪能した。この曲は自分のオーディオ装置を変えたときの試聴の「切り札」でもある。冒頭のシンバルが澄んだ音できれいに抜けなければ「それはオーディオではない」とさえ思っている。

低域用のユニット「リチャードアレン」に羽毛の吸音材を直接被せて、中高域用のアキシオム80との
”カブリ”を薄くしたのが功を奏してボリュームを少々上げてもウルサクないので気持ちがいい。

左が「アキシオム80」、右が「リチャードアレン」  

市販のスピーカーの完成品をそのまま利用している方は別として、自分でネットワークを工夫している方はお分かりのことだと思うが、低域ユニットが受け持つ周波数のうち高い方へ減衰する部分と、中域ユニットが受け持つ周波数の低い方へ減衰する部分との”カブリ”の処理次第で音質全体がガラリと変身する。

”カブリ”を多くすると音質が豊かで濃密になり、薄くすると音階が明瞭になって解像度が増す。この辺が各人の好み次第で自由自在、自作オーディオの愉しみとも妙味とも言えるところ。

通常は、チャンデバを使ったりコイルとコンデンサーを使って調整するが自分の場合はそれに加えて、こうして「羽毛を詰め込んだ吸音材」を使っており、手軽で簡単、しかも微妙に調整できるので大いに重宝している。

”セント・トーマス”のあとは同じジャズの「枯葉」(アダレイ&マイルス)に移り、いよいよ本命のクラシックへ。

モーツァルトのK・136の二楽章(トン・コープマン指揮)、ヴァイオリン協奏曲一番二楽章(オイストラフ指揮、演奏)、マーラーの「大地の歌」六楽章(クレンペラー指揮)、そしてベートーヴェンの「田園」。マリナー盤もいいけれど久しぶりにワルター盤を聴いたがやはり定番といわれるだけのことはある。聴き惚れてしまった。

そして最後はいつものとおり、グレン・グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタ。自分にとってはまるで子守唄のような存在で、ピリスやアラウなどいろんな奏者がいるのに不思議なことに最後は自然とグールドに還っていく、そして3枚目くらいで眠たくなる~。

             


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読書コーナー~「ちょいと、場を見させてもらいますよ」~

2009年09月25日 | 読書コーナー

作家の浅田次郎さんは「蒼穹の昴」を読んで以来のファンで短編の「鉄道員(ぽっぽや)」は、今でも時折、部分的に情景が思い浮かぶほど印象に残っている作品。人生の酸いも甘いも嘗め尽くした人でなければとてもああいう内容は書けない。

その浅田さんの著作に次のような本がある。

「僕は人生についてこんなふうに考えている」(H18年5月新潮文庫刊) 

これまで出版した膨大な小説、エッセイの中から著者独自の人生観に繋がるさわりの部分を抜粋してまとめて収録したものである。

その中の一部に
「勝ち運の極意」~運を支配する~
(124~128頁)というのがあった。

卑近な例で申し訳ないが学生時代、麻雀やパチンコなどにすっかりハマってしまい、ツク、ツカないを身を持って体験してきた。ツイているときがずっと続くかと思えば、ツカないときはまったく何をやってもダメでそれもまたずっと続く。

こういう周期は果たして自分だけの体験なのかと永年疑問に思ってきたが、浅田さんがこの「勝ち運の極意」の中でその辺の事情を”つまびらか”にしている。共感を覚えたので少々長くなるが引用させてもらおう。

以下、著者が大好きな競馬を例にしての話。

やるからにはまず、
運を支配してやろうという気概
を持たねばならない。すべてはここからはじまる。

競馬が極めて偶然性の高いゲームである以上、「運を天に任す」のは誰しも同じであるが、自分なりの根拠ある予想を立てて馬券を買うことはどうしても必要である。人事を尽くしてのち、天命を待つということこそ、競馬に臨む正しい姿勢なのである。

では、
「運を支配する」
とはどういうことであろうか。何もむずかしいことではない。ツイていないと感じたらピタリと止め、ツイてるぞと思ったらブンブン行くのである。この判断力に欠けている人間は競馬で身を滅ぼす。

ツキには時々刻々と変化する短期の波と、長い人生から見た長期の波がある。このいずれの波にも逆らってはならない。

たとえば、商売が不調のときに実生活の損失を競馬で何とかしようとするのは、風邪の熱を冷まそうとして水風呂に飛び込むようなもので、まず絶対に勝てない。

勝負の女神はたいへん気まぐれで、いったん見捨てた人間は徹底的に見捨て続け、いったん拾い上げた人間はとことん面倒をみる。
自分がいま、捨てられているのか拾われているのか、それを冷静に判断することこそ
「運を支配する」
ことなのである。

あえて、この非科学性を科学するとこういうことになる。

競馬の予想には冷静沈着な洞察力が必要である。とりわけ金銭的な悩みを抱えていると冷静な予想は出来ない。ひたすらオッズの数字ばかりを追うようになる。

こういう心境ではまぐれにでも馬券は取れない。いったん負い目に立って、自分がそうした領域に踏み込んだと察知したら、いさぎよく馬場を去ること。競馬を長く続けるにはこの勇気が肝心。

ただし、ツキがないからといってまったく目をそむけてしまってはならない。かならず予想をし、結果を見る。努力を怠ってしまえば勝負の女神は永久にソッポをむいたままなのである。

実はこれが一番むずかしい。金銭のやりとりから離れて、しばらくの間ジッと観察をする。鉄火場の用語ではこの状態を「場を見る」といって、たとえば少し負けがこんだら、「ちょいと、場を見させてもらいますよ」といって席を離れる。

そうしてしばらく高みの見物をしていると、不思議といままで見えなかったものが見えてくる。「ハハア、なるほど」と思えるのである。大事なものはこの「ハハア、なるほど」なのだ。

で、「ここぞ」というときにやおら「場」に復帰する。勝負から目をそむけてしまえば、「ハハア、なるほど」も、「ここぞ」のタイミングもわからない。ただ漫然と休んで、また始めれば、またヤラれるのがバクチである。

これを人生に応用してみよう。成功者の経験談を見聞すると必ず共通しているのが、いちどハネたあとにやってくる「冬の時代」で、この挫折を克服した者が真の成功をかちうるという図式がある。

彼らは「冬の時代」には決してジタバタしない。もちろん、ジタバタさえもできぬ場合もある。この時期に観察の努力
を怠らない者だけが、最後に笑うのである。

人生にも「ちょいと、場を見させてもらいますよ」と宣言して、勝負を横目でにらむ時間は必要なのだ。~以下、略~

以上のような内容だったが、賭け事論から始まって人生の処世訓のようなものに至るところがなかなか面白かった。

それにつけても仕事でも結婚生活でも
「ちょいと、場を見させてもらいますよ」
と休職なり別居なんかが手軽にできると本当にいいのだがなあ~。
                    

        


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音楽談義~相互理解のための音楽~

2009年09月19日 | 音楽談義

総選挙で民主党大勝利の後を受けて、この16日晴れて内閣総理大臣に選ばれた鳩山さんだがメディア情報によると、どうやら趣味の一つにクラシック鑑賞が入っているようだ。

何代か前の総理だった小泉さんはオペラ・ファンで有名だったし、先々代の福田さんはいわゆる通好みのバルトークを愛好されていたが鳩山さんがどういう作曲家や曲目を好まれるのか興味があるところ。おいおい分かってくることだろう。

国際人として活躍する前提として専門的な仕事の知識以外にも基礎的な教養として文学、絵画、音楽など幅広く芸術の分野にも通暁しておく必要があるとはよく聞く話。

日本の総理ともなると、当然「サミット」や「首脳会談」などで各国首脳との丁々発止の議論をしなければならないが、会議の時間以外の首脳同士の胸襟を開いた交流もそれに劣らず大切な仕事。

そのときの話題は各人の趣味に踏み込むことが多く、それも音楽の話が多いとあの「昭和の大勲位:中曽根」さんが言っていたのを聞いたことがある。

その音楽とは当然のごとく西洋の伝統と権威に支えられたクラシックが中心。

鳩山さんがクラシックの分野で各国首脳と堂々と薀蓄を披瀝して語り合い相互の理解を深めることは、単なる個人の趣味以上の問題で大げさに言えば国益に資するようなもの。

さて、ここで話がやや逸れるが「芸術に親しむ」に関連してガッカリした思いをしたのがたしか2008年12月号の「文藝春秋」。

本の中で、立花隆さんと佐藤優さんという現代を代表するような知性の持ち主が是非読んでおきたい本としてそれぞれ100冊の本を紹介し推薦していたが、いずれもが知識というか知性を優先した難しそうな本ばかりで、芸術関係の本が全然ないか、あるいは極端に少なかったのが妙に印象に残ってしまい非常に「潤い」が欠けている感じを抱いた。


人間にとって「知性と感性」はクルマの両輪みたいなもので、人生に幅と”ゆとり”のない「頭でっかちの知的バカ」をこれ以上量産して一体どうしようというんだろうか、な~んて偉そうに勝手な御託を並べたりして~。

さて、話はもどって相互理解のための手段としての音楽の話。

もちろん人間同士のコミュニケーションに言語は欠かせないが国ごとに使っている言葉が違うのが大きな難点。戦後すぐとは違って近年では日本人でも英語がペラペラの堪能な人はいくらでもいるが、フランス語、ドイツ語、イタリア語、中国語なんてことになるとおそらく全部操れる人はそうはおるまい。通訳を介してみてもお互いの”人情の機微”にまで触れるとなると”いまいち”だとは容易に想像できるところ。

その点、音符で成り立つ音楽は世界の共通言語みたいなもので実に相互理解に手っ取り早い。たとえば、自分の場合ともなるとモーツァルトのオペラ「魔笛」とかグールドが弾くピアノ・ソナタが好きと分かっただけで、瞬間的に百年も前からの知己のようなうれしい気持ちになる。

同じ感性を共有する喜び、親しみは言語を通じて分かり合えるよりもずっと心の奥深くまでつながるような気がするのが不思議だが、これは人によって様々で自分はどちらかというと感性人間かもしれないと思うことがある。場面、場面で適切な言葉を操るのが苦手なタイプで文章を作成する方が時間の余裕があるだけまだマシ。おそらく頭の回転が”いまいち”なんだろう。

しかし、弁解するわけではないがあの孔子に「巧言令色、仁あること少なし」という警句があるようにいくら言葉を尽くしてみてもその表現には限界があるような気もするのだが・・。

ところで、作曲家や演奏家、曲目などの好みが共有できる人に巡り会うのは本当に難しい。自分の周囲を見回してもオーディオはさておいて作曲家や曲目の好みが”おおかた”でも一致する人はまずいない。改めて人間の気質というか感性は千差万別と思う。

全国を捜し歩いてようやく巡り会えるようなものだろうが、作家の石田依良さんの著作「アイ・ラブ・モーツァルト」には魔笛とかグールドが好きとかあるのでホントにうれしくなる。好きな作品を通じて作曲家へとたどっていく道が一緒なのがいい。


五味康祐氏の「いい音、いい音楽」(1980年10月、読売新聞社刊)を読んでいたら、代表作品を聴けばその作曲家がどんな音楽家であるかが分かるとあった。(92頁)

偉大な音楽家ほどその代表作に人間性、民族性、芸術観の全てを表出しているという。

たとえば、大バッハであれば「マタイ受難曲」、ヘンデルなら「メサイア」、ショパンでは「24の前奏曲」、ブラームスでは「交響曲第1番」とあったが、モーツァルト、ベートーヴェンについては文中に記載がない。

この二人、クラシック音楽を語るときに絶対外せない存在だがあまりに代表作と目される優れた作品が多すぎて絞り込めなかったのだろうか。

しかし、衆目の一致するところベートーヴェンは「第九交響曲」だと思う。

問題はモーツァルトで、こればかりは難しい。交響曲、協奏曲、ピアノソナタ、オペラ、宗教曲いずれの分野でも代表作に値する作品が目白押し。結局、あえて挙げないほうが多作家で正体不明の感があるモーツァルトらしくていいのかもしれない。

                 
           
             


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オーディオ談義~「音の抜け」とは?~

2009年09月09日 | オーディオ談義

前々回のブログで、これからは「オーディオよりも音楽優先」と高らかに宣言しておきながら、その舌の根も乾かないうちに、またもやオーディオの話とはいささか”気が引ける”が、なにぶん「”こいつ”は薄志弱行の徒」と自他ともに公認ということで投稿の運びへ。

さて、残暑から初秋への移り変わりを象徴するかのように朝晩、涼風がさしこんで随分と過ごしやすくなったが、昨日(9月8日)は朝からオーディオ尽くしだった。

このところ口径20cmのフルレンジのユニットにすっかり魅了されている。とにかく、これ以上口径が大きくなるとツィーターが欲しくなるし、もっと口径が小さくなると専用のウーファーがほしくなるという絶妙のバランスを保っているところがいい。

グッド・リプロダクションと言おうか、音質に悪さをするネットワーク無しの素直な音質と音声信号に対する応答性の良さ、抜群の音像定位などの味わいがなかなか棄て難い。

「魚釣りは鮒(フナ)釣りに始まって鮒釣りに終わる」という諺がある。小さい頃に近所の小川でシンプルな仕掛けのフナ釣りに親しんだ釣り師が複雑で大掛かりな仕掛けの釣りを体験し幾多の紆余曲折の後、再びフナ釣りに戻っていくという話で、これはオーディオにも一脈相通じるところがありそう。

「シンプル・イズ・ベスト」は何事にも通じる真理ではなかろうか。

そういうわけで、つい最近購入したいくつかのフルレンジユニット(口径20cm)の音質を何とか生かそうと「テレビ視聴用専門のシステムづくり」に取り組んでみた。

その前に分かりやすいように現用のオーディオシステムを整理しておくと次のとおり。

  現用のシステム(全景:2009.9.8付け)        

CDトランスポート(ワディア270)→DAコンバーター(ワディア27ixVer3.0)→アッテネーター→パワーアンプ2台〔低域:ケンウッド01A、中高域:PX25真空管)→スピーカー(低域:ジェンセンのユニット、中高域:アキシオム80)

なお、このシステムにテレビ視聴用として次のような接続をしている。

シャープ45インチ液晶テレビ→光ケーブルでDAコンバーター(ワディア27ixVer3.0)に接続、以下、接続は上記に同じ

 テレビ視聴用の専門システム       

記のシステムとは別に今回、新たに取り組んだのがこれでアンプ、スピーカーともに現在使っていない、いわば予備の機器による組み合わせ。左の写真が近代菅(VV52B)を利用した真空管アンプで、右の写真が平面バッフル(北海道産楢系の厚さ5cmの木)に口径20cmのユニットを取り付けたもの。(以前はこれにアキシオム80を取り付けていた。)

スピーカーの置き場所に困って、全景写真でお分かりのようにウェストミンスターの後ろの空間に金属製の三段棚を左右セットで購入してその上に載せた。これは我ながら名案だったようで置き台を兼ねていろんなオーディオ部品を収納できたおかげでオーディオルームが見違えるほど整理整頓が出来た。

最初に取り付けたSPユニットはリチャードアレン。詳しいデータを持ち合わせていないが、たしか30年ほど前のイギリス製品で当時安価な割りに評判が良かったもの。

つい最近のオークションで購入したものだが非常に程度が良かった。オーディオ仲間のM崎さんによると「あのアキシオム80に比べて中高域は劣るが低域の再生能力は上だ」とのお墨付き。

「リチャードアレンのニューゴールデン8」   

試聴してみると非常に渋く同じイギリス系のタンノイの音に一脈通じるものがあり低域方向への素直な広がりは定評どおりで普段テレビの音だけ聴くのならこれで十分だと思ったが、念のため次はアルテックの403Aに交換。

重量級の平面バッフルの揚げ下ろしとユニットの取り付けに、筋力不足の痩せた身体には相当応えて両手両足がフラフラと覚束ないが好みの音で聴くために労を惜しんでいてはオーディオ愛好家たるものまったく話にならない。

そして、その甲斐があった。アルテックの方が低域方向への伸びはまだしも「音の抜け」が抜群だった。

「音の抜け」を言葉でどのように表現したらいいのだろうかと、ちょっと迷ってしまうが「音が晴れわたったようにスカッと限りなく天空に伸びる感じ」といえばいいだろうか、逆の言い方をすれば「音がこもらない」とも「スピーカーに音がまとわりつかない」とも言える。

もちろん好き好きの世界である。リチャードアレンの渋さと低域を採るかアルテックの中高域の抜けのよさを採るか大いに迷うところだが自分の耳にはアルテックのほうが心地よかった。テレビの音声は人の声(ボーカル)がほとんどで低域への伸びが必要ないことも手伝っているのは疑いなし。

スピーカーから出る音の判断基準にはいろんな尺度があって、周波数レンジの広さ、音色、音の抜け、音像定位、音声信号に対する反応の速さなどいろいろある。

いずれも重要だし全て揃っているのがベストだが、世界中探しても全て満たしている単体のユニットはまずない。いずれも「帯に短し、たすきに流し」で自分では今のところ総合的な観点から口径20cmのSPユニットに軍配を上げたい。

「周波数レンジの広さ」を欲張らない代わりに他の項目は比較的手軽に手に入るところがその理由でまるで「フナ釣り」の趣がある。

もちろん、口径20cmのユニットの中でも上には上があってアルテックなんかよりも往年のウェスタンの750Aとか755Aが最高との評判だが高価すぎてちょっと手が出ないのが残念。

                             


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音楽談義~「音楽&オーディオ」どちらを優先?~

2009年09月05日 | 音楽談義

つい先日、家内がドキリとするようなことを言う。

「昔は、お父さん〔自分のこと)はモーツァルトの音楽を聴いて”涙が出るほどいいなあ~”とよく感激していたのに、最近はなんだかオーディオばっかり熱中してちっとも音楽のことを話題にしなくなったね~」。

フーム、言われてみるとそうかもしれない。言い訳かもしれないが、どうもこの暑さで集中力が散漫になっっているせいか最近、音楽にのめり込む気がしないのも事実。困ったことである。

自分の最近のブログでも好きな曲目の紹介など音楽関係の記事なんかにはまるで無縁、「スピーカーや吸音材をどうした」とかのオーディオ関係の記事ばかりで埋め尽くされているのが実状。

さらに普段の生活では何かにつけてケチッぽいが、CD盤を購入しない代わりにオーディオだけにはせっせと投資しているのも紛れもない事実。

因みにこの1ヶ月ばかりでオークションで落札した商品をざっと挙げてみよう。

8月21日  SPユニット「リチャードアレンのフルレンジ・ニューゴールデン8ペアー」

8月21日  SPケーブル「ウェスタン10m」

8月16日  SPユニット「ジェンセン・フルレンジ8インチ1954年製レア品」

8月16日  SPユニット「アルテック・フルレンジ8インチ403A」

8月 6日  SPケーブル「ウェスタン7m」

7月31日  SPユニット「フォステクス・エッジレス低域専用20cmアルニコ2ぺア」

7月31日  SPユニット「アルテック・フルレンジ8インチ403A」

こうやって書き上げてみると改めて気が付いたがスピーカー関連部品ばかり。

これも8月に入ってタンノイ・ウェストミンスターに中高域用として「アキシオム80」を取り付けるという大変革に付随して、これを支える低音用にと購入したものでアルテックの403Aなんかは故障したときのことも考えて2セット購入。

このうち特にお買得と思ったのは「ジェンセン」で1954年製のオールドタイプだったが磁石がアルニコで口径20cmなのに極めて力強い低音だった。

さて、話がつい逸れてしまったが「音楽&とオーディオ」との関係に戻ろう。

改めて言うほどのことでもないが、これはいわば「主従の関係」であり「目的と手段」の関係でもある。もちろん主が音楽、オーディオが従である。つまり、俗に言う「音キチ」という言葉は道を踏み間違えて倒錯している人に対する蔑称なのだ。

ただし、自分の場合明らかに「音キチ」とは違うと思っている。「好きな音楽をいい音で聴きたい」ただそれだけ。そして装置の一部を代えたり、ちょっとした工夫で「いい音」になったときの快感が忘れられないだけ。

「早くオーディオを忘れて音楽に専念せねば」との気持ちは常に持っているつもりだが「いい音」になったと喜んでいても、何回も聴いているうちに何かしら不満が出てきてどこかをいじりたくなる、その繰り返しで「やむをえなく」というのが実状。

今回の場合は当初使用した低域用のアルテック403Aが凄く良かったが段々と低域がブーミーのように感じてきて気になりだすともう居てもたってもおられず、違うSPユニットを試してみたくなったというわけ。結局前述したように「ジェンセンのフルレンジユニット」が抜群でこれでもう終わりにしたいと思ったほど。

とにかく、いろいろ言ってみても音楽を聴くのがおろそかになっているというのは事実でこれは素直に認めざるをえない。

歳を取るとともに音楽に感動する瑞々しい感性が鈍くなってきたせいかもしれないとも思うが、オーディオ仲間のM崎さんなんかは先日電話したときにお伺いすると、いつも音楽ばかり、それも中毒みたいになっていて今日は「バッハのカンタータ」を一日中聴いていたなんておっしゃる。

結局、音楽を聴かなくなった原因は自分に求めざるをえないようだ。

音楽を聴くのに何が必要かといえば、自分の場合はいつぞやのブログでも書いたが「心のゆとりと静謐感」である。「心のゆとり」の方は現在、宮仕えもしておらず自由時間にもたっぷりと恵まれているので該当せず、問題は静謐感の方だろう。

たしかに最近じっくりと落ち着いてものごとに対処することが少なくなっているように思う。全てにわたって何かと気ぜわしく短絡的になって動いている。

よ~し、これから段々と涼しくなって気候の方もよくなるので気持ちを落ち着けて音楽に専念するぞ~。

                      

 


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独り言~「今日が一生。昨日を問わず、明日を思わず」~

2009年09月03日 | 独り言

7月19日〔日)、釣りの帰りに交通事故に遭遇し、やむなく9年半乗った車を廃車し中古のクルマが8月1日にやってきてからおよそ1ヶ月が経った。

まず、注目の燃費だがその間、給油は1回きりだったが満タン法で計ってみると9.3km/1リットル。同じ排気量なのに前の車が7km/1リットル前後だったので3割強の伸びとなる。

釣りなどの長距離走行をまったくしていないので、これはまさに驚異的な改善。その理由を分析してみた。

 今度のクルマには、走行中に「瞬間燃費」が表示されるようになっているのが何といってもいい。運転中、ヤミツキになってしまってこの燃費表示を常に意識しアクセルを踏み込まないようになった。クルマを発進するときが一番数値が悪くなるのでジワ~っと進む感じ。スピードを出しても誰も褒めてくれないが、燃費の改善は直接”ふところ”に響くので効果絶大。

 細かいアクセルワークが出来るようになったことも一因。前のクルマはターボ付でエンジンの形状の違いかと思うがアクセルの微妙な踏み込み加減が調整出来なかったが、今回はアクセル踏み込み具合に対してクルマの反応が実にシャープである。

3 身をもって体験した交通事故の恐ろしさが今でもトラウマになっている。何しろ交叉点で平気で信号無視をしてくるクルマがあるんだから・・・。事故というのはこちらがどんなに用心していても起きるというのが新発見。

おかげでまずスピードを出さないようになった。当然のごとく、ときどき後ろのクルマがピタリとくっついてきて煽られるが、安全運転をモットーにいっさい無視することにしている。

また、見通しの悪い交叉点では青信号になっても左右を確認しながらジワっと発進する。とにかくこれまでとはまったくの様変わりの運転でやはり人間というのは実際に恐怖を体験しないと骨身に染み込まないようだ。

まあ、以上のような状況になったが考えてみると交通事故のおかげで歳相応の安全運転になったことだし丁度いい切り換えの契機になったと思っている。

ところで、交通事故の過失割合についてのその後の顛末を記しておこう。

事故の当事者同士が、双方ともに青信号で入ったと主張しており目撃証言者もおらず当初から難航の気配だったが、とうとう保険会社同士では話がつかないため、第三者の「保険審査サービス」が入って客観的な立場から過失割合の審判を行うことになった。

我が家にも事故から2週間ほど経った頃にその保険調査員がやってきて事故の状況を細かく聴取していった。まったく、うそ偽りなくありのままを仔細に述べたので、正義、真実の行方に照らして絶対に自分に有利な判定があるものと自信をもっていたところ、つい先日の保険会社からの連絡で、「双方の主張を聞いた結果、過失割合の判定は不能でした」とのこと。

結局、まったく何のために第三者機関が入ったのか理由(わけ)が分からないことに。

以下、これはあくまでも憶測だが、自分のクルマの損害査定額が約90万円、相手のクルマのそれが約36万円。始めから大きな開きがあるので、たとえば五分五分の解決になったとしても自分が受け取るのが45万円、相手が18万円と2倍以上の差があるところ。

そういう点を加味して、五分五分にという話ではなかろうか。保険会社は少しでも支払額をケチろうとするし、調査員同士のいろんなつながりがあるのかも。

とにかく当初は、交差点内の事故という点を加味しても過失割合が8:2ぐらいじゃないとと強硬に思っていた自分も段々と諦めムードになってきつつあるのが実状。

自分の保険会社からは、どうしても納得できないときは「調停 → 裁判」という途もあると聞かされたが、ちょっと面倒くさそうでそこまでしてもねえ~。

時間の経過とともに「執念」というものは風化していくものなんだろう。

「今日が一生。昨日を問わず、明日を思わず」。

                    


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