「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ秋の陣~3ウェイへの挑戦~

2023年10月31日 | オーディオ談義

前々回の「秋の陣~残り物に福あり?」の続きです。

我が家で最後(6番目)に登場したのがこれ。



ご覧の通り久しぶりの「3ウェイ」への挑戦となった。

ここ10年あまり、なぜフルレンジや2ウェイに拘ってきたか、言い換えると3ウェイを忌避してきたかといえば、「音像定位」を重視するうえで、各ユニット間の周波数帯域の重なりを警戒してきたからである。

たとえば3ウェイの場合、クロスオーバーを500ヘルツ、7000ヘルツに分けるのが一般的だが、するとどうしてもそれらの帯域付近で各ユニットの音が重なり合って(音が)濁りやすい傾向がある・・、「くどい! 分かりきったことを言うな」とお叱りを受けそうだけどね・・(笑)。

しかし、今回ばかりは背に腹は代えられない。まあ、せめて耳にとって鈍感な帯域ともいえる200ヘルツあたりで低音域をハイカットしているのでその辺が救い、かな~。

とにかく、理屈はどうであれオーディオは実際に音を聴いてみないと、いいも悪いもなし、「結果がすべて」だと思っている。

はじめに、スコーカー(200~6000ヘルツ)だけ鳴らしてみたところ、何だか透明感が足りないなあというのが第一印象だった。

「やっぱりダメか」と思いつつ、アンプを代えてみるとこれがまあ、まるで生まれ変わったように「いい音」へ変貌を遂げたのだから驚いた。

これまで「スコーカーなんて」と、内心バカにしてきたのだが、この帯域だけで十分音楽が聴けるじゃないか!

この帯域は人間の耳にとって核心部分を占めているんだ・・、これまた「今さら何を言ってるんだ!」と外野席から叱声を浴びそう(笑)。


で、「当たり」のアンプがこれ。

我が家の9台のアンプのうち一番お値段が安くて常に控えに回っているアンプがいきなり存在感を発揮したのだから「うれしい悲鳴」以外の何物でもない。

たとえて言えば、二軍の選手が日本シリーズでいきなりレギュラーに抜擢されて大活躍するようなものかな(笑)。

真空管に馴染みのない方には「ちんぷんかんぷん」だろうが念のため、解説しておこう。

入力段は「6SL7GT」(GEのニッケルプレート)、出力段は「6SN7GT」(レイセオン)、整流管は「GZ32」(英国:ムラード)という何の変哲もない組み合わせ。

出力トランスが名門「TRIAD」(トライアッド)なので、それが効いているのかもしれない。

そもそも、このアンプの弱点は、第一に低音域が薄い、そして高音域が蒸留水みたいで艶とか色気が足りない、といったところだが、結局これらの弱点が帯域の狭い範囲を受け持つ「スコーカー」に起用したことですっかり解消したというわけ。

まさに「〇〇と鋏は使いよう」だね(笑)。

そして、それぞれの帯域にあてがったアンプは「低音域」に「2A3シングル」(VISSEAUX:刻印)を、高音域には「デフォレ471BAシングル」で決まり。



各アンプのボリューム調整を終えて耳を澄ましてみると、「2ウェイ」や「フルレンジ」の時に比べて試聴帯域の周波数帯に音の粒子がびっしり詰まった印象を受けた。言い換えると、音の密度が実に濃い。

懸念した全体的なバランスも良好で、各ユニット間の干渉もあまり気にならない。

「3ウェイ」もまんざら捨てたもんじゃないなあ・・、喰わず嫌いだったのかなあ(笑)。

想像以上の仕上がりに我ながら舌を巻いたと同時に、このシステムに加えてお客さん用の「AXIOM80」があればもう十分かもしれない。

とはいえ、自分の耳はあまり当てにならないので(笑)、仲間の率直な意見を待つとしよう。



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「3か条の教え」に想う

2023年10月29日 | 独り言

かなり前の話だが、めでたくノーベル賞(医学・生理学)を受賞された大隅良典氏(東京工大栄誉教授)は、我が母校「福岡高校」(福高)の先輩にあたる。

ちなみに福岡市の場合、当時は学区制があって東部地域の大学進学希望者は「福岡高校」へ、西部地域の進学希望者は「修猷館高校」へと勢力地図がくっきりと色分けされていた。

今はどうか知らないが、当時の福高は模擬試験の結果を1番から100番くらいまで廊下の壁を利用してずらっと名前を張り出してあったが、かっての同級生によると「大隅さんはいつもトップだった」というから、じぶんのような「落ちこぼれ」とは大違い(笑)。

父は元九州大学工学部教授、長兄は東京女子大名誉教授だそうで、学者一家である。

その大隅さんの受賞インタヴューの言葉が未だに強く印象に残っている。

「誰もやってないことをやる」、「ワクワクすることが科学の醍醐味」、「面白いと思ったことはとことんやってみよう」

この3点セットに思わず膝を打った。いわば「3か条の教え」だ。

少しでもあやかりたい一心で、これらを少々強引だが我がオーディオに、こじつけてみよう(笑)。

☆ 誰もやってないことをやる

オーディオシステムへの取り組み方を大まかに分けると、評判のいい機器を組み合わせて事足れりとする「常識派」と、一方では誰もが考えもしない、あっと驚く組み合わせをやってのける「異端派」とに区分されると言っても大きな間違いは無かろう。

どちらがいいとか悪いとかいうことではないが、「音は人なり」という言葉もあるし、せめてオーディオくらいは人に迷惑をかけることがないのだから思いっきり個性を発揮したいところ。

というわけで、自分はどちらかといえば数少ない「異端派」だと自認している。

たとえば手元にあるオーディオ機器のうち、さすがにデジタル系の機器には手を出せないが、アンプやスピーカー類は個人に作ってもらうか、あるいは市販のものを購入しても必ずといっていいほど自分好みに改造している。いわばオリジナル排斥主義者 兼 オンリーワン主義者。他人と同じことをやっても仕方がないといつも思う。

とりわけ、オーディオ仲間たちから「随分思い切りましたねえ!」と言われるのが、タンノイ・ウェストミンスターの改造。                

タンノイのフラッグシップモデルともいうべき「ウェストミンスター」を改造して他のユニットを取りつけるなんて「常識的には考えられず、とても怖くてできない。」そうだ(笑)。

自分でも当時を振り返ってみるとつくづく「盲目蛇に怖じず」だったと思うが、随分長いこと回り道して、ようやく「正解だった。まったく後悔はない」と思えるようになってきた。

まあ、その反面、弄る楽しみはなくなったのでそういう意味では「良かったか、悪かったか」の差し引き勘定は当分お預け(笑)。

次に、

☆ ワクワクすることが科学の醍醐味

☆ 面白いと思ったことはとことんやってみる

オーディオシステムの構成機器となると、前段機器(CDやレコードプレイヤー)~プリアンプ~パワーアンプ~スピーカーとなるが、これらのどこを弄っても音は変わる。

そして、弄るところが多ければ多いほどオーディオは楽しくなる。一部を変えて、新たに音出しするときのあのドキドキ、ワクワク感は何物にも代えがたく、まるで少年時の未知の体験に目を輝かした頃に戻ったかのような気持ちになる。

仲間たちも「よくもまあ、熱心に取り組んで~。いつも来るたんびにどこかシステムの一部が変わってるなあ。」と、呆れ顔だが、理由の一つは代えてから音が出るときのあのワクワク感が忘れられないからである。

また、とことんやるのも性格的に合っている。いわば凝り性である。

古今東西の有名なミステリーはたいがい読破したし、波止場釣りは「仕掛けつくり」から「竿さばき」まで極めた積りでいるし、大好きなクラシックのオペラ「魔笛」(モーツァルト)に至ってはトチ狂ってしまいCD、SACD、DVD合わせて指揮者の違うものを50セット近く収集している。

おそらく数としては日本で一番だろう。オーディオだって、まだ未知の世界があって道半ばだと思っているのでこれからもとことん突き詰めるつもり。

アッ、そうそう、このブログだってこの10月21日で18年目を迎えたが、投稿した記事の数は「3223件」(2023.10.29現在)に上り、これからも病気にでもならない限りとことん続けるつもり。

こうして、とことん詰めていく趣味があると日常まったく退屈感を覚えることがないので大いに助かる。

ただし、学問と社会貢献(出世など)の方は面白いと思ったことがないし能力もなかったため、とことんやることもなく結局中途半端で終わったのが残念至極~(笑)。



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オーディオ秋の陣~残り物に福あり?~

2023年10月28日 | オーディオ談義

オーディオ仲間と丁々発止でやり合った先日の「試聴会」の模様は、縷々二回に分けて投稿した通りで、第三者の視点を入れることで実り多きものとなった(と思う)。

4系統のうち3系統のスピーカーが見る影もなくズタズタにされたが(笑)、これはこれで良しとして、さらに改良の余地があると思っているので、まだ少なからず楽しみが残っている。

で、残るスピーカーはいよいよ2系統となった。

☆ 「TRIAXIOM」(英国グッドマン)



口径30cm(同軸3ウェイ)のユニットを自作の箱(板厚1.2cm)に収めている。

このユニットはもう弄り様がないので残された課題はただ一つ、箱をどうするかだろう。

1年前にオーディオ仲間(福岡)から、「ウェストミンスターに容れたらどうですか」と熱心に勧められたが、サブウーファーとしての役割も無視できないので「延び延び」となっている。いずれそのうち~。

で、最後に残るスピーカーはいよいよこれだけとなった。

☆ 「スーパー12」+175ドライバー



ウェストミンスターに内蔵しているのは「スーパー12」(口径30cm):英国ワーフェデール)。



補助バッフルのネジ穴をオリジナルのネジ穴と合わせるのに四苦八苦した記憶がある。

現在、クロスオーバーを、ハイカット「200ヘルツ」、ローカット「900ヘルツ」にしており何ら不満はないが、まことに日柄の良い秋の好日は「遊び心」を沸き起こさせるので困ったことだ(笑)。

このところゾッコンの「コーーン型ツィーター」を使ってみたらどうかな・・、ブランドも同じ「ワーフェデール」だから音色が合うのは間違いない。



というわけで、さっそく取り掛かった。このツィーターは受け持つ周波数帯域はせいぜい「5000ヘルツ~」あたりがまっとうなところだろう。

となると、「スーパー12」のハイカットを1000ヘルツあたりに持っていきたいところだが、となると低音域がまことに淋しいものとなる。

というのも、このウェストミンスターはハイカットを200ヘルツあたりにして「コイル」(ムンドルフ)で(低音域を)塞いでやらないとローエンドまで伸びのある本格的な低音は出てくれない。

ちなみに、タンノイのシステムに共通する「クロスオーバー1000ヘルツ」がはたしていいのかどうか、使用者は今一度真剣に考えて欲しいと、いつも思う。(まあ、要らん世話だが~笑)

となると、今回のケースでは200ヘルツ~5000ヘルツまでに周波数の空白帯が出来てしまう。

そこで出番が来たのがこのスコーカーだ。



口径12cm(テクニクス)のユニットで再生帯域は「200~6000ヘルツ」と、もってこい

さっそく郊外の大型「100均」店にクルマを走らせた。すぐにお目当ての品物を見つけた。



何に使うのか・・、スピーカーの「置台」である。

かくして、全容が明らかになった。



さあ、どういう音が出てくるかハラハラドキドキ・・、乾坤一擲の大勝負だっ!

以下、続く。



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仮説と検証

2023年10月27日 | 独り言

ある本に書いてあったことだが「学問とは端的に言えば仮説と検証だ」・・、この言葉が妙に記憶に残っている。

で、「チャットGPT」に訊いてみた。「学問は仮説と検証ですか?」

すると次のような回答が出てきた。

学問は、仮説の設定と検証のプロセスを通じて知識を積み重ねることが多いですが、それだけで学問全体を説明するのは簡略化し過ぎかもしれません。学問の成り立ちや進行には以下のような要素やステップが関わることがよくあります:

1 観察
現象やデータを注意深く観察し、問題や疑問を明らかにする。

2 問題の定義
何がわからないのか、何を知りたいのかを明確にする。

3 仮説の設定
観察や既存の知識に基づき、新たな仮説や理論を提案する。

4 検証
実験、研究、または他の手段を用いて仮説をテストする。

5 結果の解析
得られたデータを解析し、仮説との整合性を評価する。

6 結論の形成
検証の結果に基づき、仮説を受け入れる、修正する、または棄却する。

7 共有と再評価
他の研究者や専門家と知見を共有し、批判やフィードバックを受け入れる。

このプロセスは、科学的手法を基盤としており、特に自然科学の分野で顕著です。しかし、人文科学や社会科学などの分野では、様々なアプローチや方法論が採用されることもあります。学問の進行は、文化、時代、研究者の価値観などによっても変わることがあります。

したがって、予想と検証は学問の一部として非常に重要ですが、学問全体を形成する要素やプロセスはそれ以上に多岐にわたります。

というものでした。まあ、いろいろあっても「仮説と検証」が重要な要素であることは間違いなし。

そういう意味では「オーディオ」も学問かもしれないと思うわけ~。

オーディオの妙味は各機器の「組み合わせ」だから、それぞれのアンプとスピーカーの長所と弱点を考えながら、仮説を立てていろんな組み合わせを毎日のように実行しており、いわば「仮説と検証」を飽くなく繰り返している。

ただし、外れることが圧倒的に多いが(笑)、これも学問の一環として後日の糧になればそれに越したことはないし、けっして無駄な作業ではなかろうと自分を慰めている。

まあ、何ごとにも仮説が無いことには出発点が無いともいえそうですね。

というわけで、今や「宴たけなわ」の「野球」について仮説(予想)を立ててみよう。

まずは「MLB」(アメリカ大リーグ)のワールド・シリーズ

今年は「ア・リーグ」から「テキサス・レンジャース」、「ナ・リーグから「アリゾナ・ダイヤモンドバックス」という珍しい顔合わせ。

ズバリ「レンジャース」の「4勝0敗」あるいは「4勝1敗」と予想する。

その根拠は・・。

今年の「ア・リーグ」は「西地区」(レンジャース、アストロズ)が圧倒的に強かった。ヤンキースやレッドソックスなどの強豪チームが控える「東地区」が軒並み冴えなかったのが大きな特徴だった。

その原因は「西地区」のエンゼルスに大谷翔平がいたからだと思う。

あの剛速球をどうやって打つか・・、すると打者のレベルが上がる、あのホームランをどう投げて阻止するか・・、すると投手のレベルが上がる、というわけ。

かくして、投打のレベルが上がった同じ西地区のレンジャースの優位は動かない。

たった一人の飛びぬけた選手が居るだけで、対戦試合の多い地区全体のレベルアップに貢献できるのだからこれは凄いこと!

もし、この予想が外れたときは腹を切ります・・というか、しばらく謹慎してブログを休みます(笑)。

次にややスケールが小さい日本の「プロ野球」について。

「セリーグの阪神」と「パリーグのオリックス」の対決だが、どちらも、いかにも日本の野球を象徴するような「こじんまり」とまとまったチーム同士。

投手力も打撃もほぼ互角だと思うが「岡田監督の頭脳と采配力」を買って、阪神の「4勝2敗」あるいは「4勝3敗」としておこう。

ただし、こちらの方はあまり自信がないのでどっちが勝っても責任を取りたくないなあ~(笑)。


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秋の好日に「モーツァルト」を想う

2023年10月26日 | 音楽談義

ずっと昔に購入したモーツァルト全集。
          

55枚に亘るCD全集で版元は名門「グラモフォン」とあって指揮者も演奏家もすべて一流ときている・・、で「座右の盤」としていつも目立つところに置いている。

気候的に過ごしやすい秋の好日ともなると、「ど~れ、モーツァルトでも聴いてみるか」となり、この1か月ばかり集中的に聴いているが、改めて自分と極めて相性のいい音楽だと思った。と、同時に新たに想うこともあったので二点ほど列挙してみよう。

な~に、けっして大上段に振りかぶるつもりはない。どうせ、きちんとした音楽教育を受けたわけでもなし、楽譜さえも読めない素人の「戯言」に過ぎないので軽く読み飛ばしてくださいな(笑)。

☆ 「魔笛」と肩を並べる最高峰のオペラ「ドン・ジョバンニ」

この全集にはオペラが6曲収められていた。「クレタの王イドメネオ」(3枚組)「後宮からの逃走」(2枚組)「フィガロの結婚」(3枚組)「ドン・ジョバンニ」(3枚組)「コシ・ファン・トゥッテ」(3枚組)「魔笛」(3枚組)で、計17枚のCD。

55枚の中で17枚のCDということはおよそ1/3の割合。モーツァルトの音楽に占めるオペラの比重は明らかにそれ以上だと思うがまあ、量と質は別ということにしよう。


「イドメネオ」と「後宮からの逃走」を改めて聴いてみると、成熟度一歩手前の感を強くしたものの、それなりに楽しませてもらった。取り分け、後者は”雰囲気”が最後のオペラ「魔笛」にそっくりだったので驚いた。モーツァルトほどの天才でも、いざとなると過去の作品を大いにフィーチャーしているのだ!

そういえば、55枚の一連のCDを聴いていると、似たような旋律がいろんな局面に登場してくることに気付かさせられる。彼の頭の中には過去から現在までいくつもの旋律が折り重なって渦を巻いて流れていたのだろう。

それはさておき、彼の三大オペラとされているのは周知のとおり「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」である。

個人的にもそう思うが、その順番としては「魔笛」が一頭地を抜いており、「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」が同列でそれに続くという意識を持ってきたが、今回改めて本腰をいれて「ドン・ジョバンニ」を聴いてみると、その劇的性、登場人物の心理描写を音楽で表現する巧みさに大いに感じ入った。

まるで手紙を書くみたいに鼻歌まじりで五線譜に音符を記したとされるモーツァルトにとって、音符と言葉を感情表現の伝達手段として同列に位置づけできるのが最大の特色だが、このオペラにもその強みがいかんなく発揮されている。

そもそも「オペラとは何か」ということで、ご承知の方も多いと思うがネットから引用すると、
 

オペラは、舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と共通しているが、台詞だけではなく、大半の部分(特に役柄の感情表現)が歌手による歌唱で進められることを特徴とする。歌手は器楽合奏により伴奏されつつ歌い演じる。伴奏は、多くの場合交響楽団模の編成に及ぶ。 

初期ロマン派までのオペラでは、歌唱には二つの様式がある。一つはレチタティーボ(朗唱)で、会話を表現するものであり、普通の朗読に近い抑揚で歌われる。もう一つはソロ(独唱)で歌われるアリア(詠唱)や複数の歌手が歌う重唱(アンサンブル)あるいは大勢で歌う合唱で、通常の歌唱である。これらの様式はみな伴奏を伴う。

端的に言えば役柄の感情表現を音楽で行うのがオペラというわけだが、登場人物の生身の人間臭さを音楽で強烈に“しゃべらせる”点で「ドン・ジョバンニ」は出色の存在である。旋律の美しさでは「魔笛」に一歩譲るが、ドラマ性では明らかに上回っていて今や両者は“甲乙つけがたし”。

年齢を重ねるにつれて、ますますその「凄さ」に心打たれる「ドン・ジョバンニ」である。

☆ 孤高の作曲家「モーツァルト」


今回の一連の試聴でモーツァルトと他の作曲家ではまったく音楽の作風が違うことにはっきりと思いが至った。音楽の成り立ちがそもそも違っている。

遺されたモーツァルトの有名な書簡によると、「(作曲するときに)全体の構想が一気に頭の中に浮かんできて各パートの旋律が一斉に鳴り響きます。大したご馳走ですよ。まるで一幅の美しい絵画を観ているみたいです。後で音符を書く段になれば、脳髄という袋の中からそれを取り出してくるだけです」(小林秀雄「モーツァルト」)という驚くべき体験を述べているが、他の音楽家たちが苦吟して作曲する過程とはまったく異なっていることがこれで分かる。

過程が違えば結果もまるっきり違う。あまりにも他とは隔絶した音楽なのでクラシックは「モーツァルト」をまったく別物として「その他作曲家たち」と、大きく区分すべきではなかろうか、なんて思ってしまう。

極めて乱暴な「珍説」だろう、この「その他作曲家たち」の範囲には、まことに畏れ多いがモーツァルトに匹敵する、あるいは上回る存在として語り継がれてきたバッハも、それからベートーヴェンでさえも入るのできっと大勢の顰蹙を買うに違いない。

しかし、あの600曲以上にもわたるモーツァルトの膨大な作品を指揮者や演奏などを違えながら、じっくり鑑賞するとなると、「その他作曲家たち」の試聴に時間を割くには「人生はあまりにも短すぎる」と想うんだけどなあ~(笑)。



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オーディオ秋の陣~最後の勝利者~

2023年10月24日 | オーディオ談義

前々回のブログ「オーディオ秋の陣~小口径ユニットの活躍~」からの続きです。

オーディオ記事には珍しく(前々回の記事は)盛況だったので、いったいどうしてかな~?

(せっかく時間を割いて創るのだから読み手が大いに越したことはない・・。)

その理由を推し測るに「周囲の環境や部屋の事情もあったりして小口径ユニットを使う人が比較的多いため共感を呼んだ」というところかな・・。

その反面「口径38cm以上のユニットを使っているけど十分満足しているぞ。お前の言うことは不愉快だ!」という方がいてもちっとも不思議ではない。

自分の世界が狭いだけで、世の中にはきっとうまく使いこなされている方もいるはず・・。

そういう実例がありましたら是非ご教示ください。「さぞや」と、共感できたらこのブログでご紹介させていただきます~。

まあ、堂々巡りの話はもう止めましょう(笑)。

さて4系統のスピーカーのうち、吟味が済んだのが2系統でいよいよ残る2系統になった。

3番目はこれ。



このスピーカーの「売り」はウーファーとツィーターのそれぞれの個性に尽きる。

まず、ウーファーはフルレンジの「スーパーー10」(英国ワーフェデール)だ。「10 → 10インチ → 25cm」ということになる。つまり「1インチ=2.54cm」ですよね。



これまで「赤帯マグネット」に期待を裏切られたことがないので、2~3年前にオークションでダボハゼみたいに飛びついたけど、幸か不幸か「まっさらの新品」だった。

というのも、エージングが済んでないせいか「音が硬い」のである。

おそらく3年間ほどぶっ続けで鳴らしてやると、音がこなれてくるのだろうが、我が家ではスピーカー間の競争が激しいし、肝心の持ち主が「移り気」ときているのでゆっくりと席が暖まる暇がない(笑)。

かくして、中途半端な状態で留め置かれている可哀想な「スーパー10」。

今回は「音の硬さ」を少しでも懐柔するためにハイカットを「700ヘルツ」前後にして、同じワーフェデールの「ツィーター」(次の画像:口径10cm)をローカット「5000ヘルツ」にして組み合わせてみた。



「どうですか?」と審判役の「Y」さんに水を向けると、「音が硬いとはいえ、せっかくのフルレンジなんですから(コイルを使わずに)そのまま鳴らしてあげたらいかがでしょうか。それに、ツィーターはゴールドマグネットの方が切れ味に優位性があると思いますよ。」

「なるほど・・、そういう手もありますか」と、これまた「電光石火の早業」で処置した(笑)。



次から次にまことにごもっともな意見を吐き続ける「Y」さんは「審判役」として比類なき存在だなあ(笑)。

ちなみに「075ツィーター」(JBL)は、極小値のマイカコンデンサーでローカットしている。つまり、微かに聴こえるか、聴こえないかのギリギリの状態にして、できるだけフルレンジを邪魔しないように配慮~。

「自然な音がいちばんです!」。

これにて一件落着。

さあ、次のスピーカーはいよいよ「トリ」へ。

ちなみに、最後の登場者をなぜ「トリ」というのか・・。

「昔の寄席では、最後に出演する人(主に真打の落語家です)が、その興行の主任格となり席亭(寄席の主人)の取り分を引いた売り上げを全部取るシステムになっていました。 この取るということから「トリ」という語が生まれたのです。 売り上げを取るから「トリ」なのです。(ネット)



これまでのスピーカーとは打って変わって初めから大絶賛。

「まったく非の打ちどころがありませんね! まるでヴェルサイユ宮殿で聴いてるみたいです」と、うっとりと目を細めて恍惚の表情を浮かべながら聴きふけられるYさん。



「バロック・ヴァイオリン」の魅力全開・・!

「どうしてこういうスピーカーが現代になって創られないんでしょう・・」と呟きながら、「AXIOM80」に近寄ってしげしげと凝視される。

「さあ・・、そもそもマグネットの製作(材料)が無理なんじゃないですか~」

結局今回の4台のスピーカーのうち、無修正だったのは「AXIOM80」だけだった。いわば「最後の勝利者」だったということになる。

(当たり前過ぎて)あまり面白くないなあ(笑)。

最後に、この日の話題となったのはオーディオ仲間の「離合集散」だった。

オーディオは「音質についての好き嫌い」の個人差が大きい趣味である。言い換えると感性が比較的豊かな人たちの趣味といっても過言ではなかろう。

それが嵩じると「アイツの音は嫌だ、そのうち顔を見るのも嫌になる」という傾向があるのも否定できない。いわば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」(笑)。

この日はYさんとの雑談の中で(自分と)すっかり音信不通になった人たち同士で連絡を取り合って往来が続いていることを漏れ承った。

「どうして我が家に連絡してこないんでしょう」とド直球を投げ込んだところ(笑)、Yさんが困ったような顔をされて「さあ、流儀が違うんじゃないんですか・・」。

ふ~ん、流儀ねえ・・(笑)。

まあ、どんな理由があろうと結局わが身の「不徳」の致すところだから(音信不通は)仕方がないが、そういう人たちにはせめてこのブログを読んでほしくないなあ・・。

顔も見たくない人間のブログを盗み見る・・、まさか、そんな「はしたない」真似はやってないよねえ(笑)。



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音楽ジャンルって何だろう

2023年10月23日 | 音楽談義

「音楽のジャンルといえば、まず意識するのが、クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲などの区分ということになるが、いざこれらを「選り分ける具体的な基準は?」と問われると明快な答えを得るのはそう簡単なことではない。

たとえばクラシックとポップスの違い、ジャズとロックの違い、加えてクラシックひとつとってみても古典派とかロマン派といった分類がある。」

    

というのが、この本だった。著者は「みつとみ俊郎」さん。

本書の姿勢は、極端にマニアックな定義ではなく、標準的にこの程度の理解があれば、お互いに意思の疎通ができるような音楽のジャンルを示したというもので、根っこの部分では皆同じ音楽なのだという考えに立っている。これにはまったく同感。

音楽を聴くときに己の「琴線」に触れるものであれば「モーツァルトも演歌も同じだ。音楽に貴賤はない。」と思っているが、これは一部のクラシックファンにとっては眉をひそめるような話かもしれない。

つい先日もクラシック通の知人から申し出があったので「フランク永井」のCD盤を「
貸して」あげたところ、今や大の愛聴盤とのこと。音楽の食わず嫌いって意外と多いんですよねえ(笑)。

「メロディと歌詞」が一体となって切々と訴えかけてくる日本の歌謡曲は心情的にピタリとくるところがあって、やはり
人間の生まれ育ったルーツは争えない。

さて、テーマをクラシックのジャンルに移そう。

歌謡曲などと比べると極めて長い伝統を有するクラシックについてはどうしても身構えるところ多々あるが、いろんな歴史を知っておくと曲趣の理解がより一層増すという利点もたしかに無視できない。

音楽のジャンルを分ける基本中の基本は西洋音階(ドレミファソラシド)とそれ以外の民族特有の言語としての音階をもとに作られた音楽との二種類に分けられるという。

「クラシック音楽
の定義」となると一見簡単そうに見えて意外と手ごわい。そもそも定義なんてないに等しいが、結局のところ、古さ(歴史)、曲目の奥深さ、作曲家自身の多彩な人間像などがポップスなどとの境界線になる。

以上を踏まえて、クラシック音楽のジャンルの中味をそれぞれ定義するとつぎのようになる。以下、興味のない方はどうか素通りを~。

Ⅰ ルネッサンス音楽
14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ・ルネッサンスの期に書かれた音楽作品の総称

Ⅱ バロック音楽
1600年から1750年ぐらいまでのヨーロッパの音楽を指す。大型の真珠の形のいびつさを形容するbarrocoというポルトガル語がもともとの語源で「ゆがんだ」「仰々しい」といった意味合いを持つ。

イタリア
モンテベルディ、ヴィヴァルディ、コレルリなど多彩な作品が多くバロック音楽をリードした。

フランス
リュリ、ラモーなどのクラブサン(チェンバロ)に特徴づけられ、オペラの中にバレエが頻繁に使われたのもフランスならでは。

イギイス
ヘンリー・パーセルが様々な作品を残し、ヘンデルがイギリスに帰化して「メサイア」などの完成度の高い、劇的な作品を数多く残した。

ドイツ
シュッツが宗教音楽を数多く残し、バッハが宗教曲、器楽曲に数多くの傑作を残した。

Ⅲ 古典派音楽
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの初期までを中心とした1800年次前後のおよそ30年間のヨーロッパ音楽の総称。
メロディと伴奏がはっきり分かれるホモフォニック形式で作られているのが特徴で、これを音楽のスタイルとしてまとめたのがソナタ形式。

Ⅳ ロマン派音楽
19世紀始めごろから印象主義の始まる19世紀末までの作曲家たちで、もっとも多い。古典派のように形式にとらわれず旋律が自由で伸び伸びしており、メロディ主体の音楽が多い。

ベートーベンは古典派とロマン派の過渡期に位置しているがほかに、シューベルト、シューマン、ブラームス、ショパン、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー、ベルリオーズ、

そして、後期ロマン派としては、ワーグナー、マーラー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、ムソルグスキーなどのロシア5人組、チャイコフスキー、グリーグ、スメタナ、ドヴォルザーク。

Ⅴ 印象派の音楽
近代音楽の幕開けを飾るドビュッシーやラベルなどのフランスの作曲家たちの音楽スタイル。
音楽の特徴はモネなどの絵画のように全体のつくりの焦点をぼやけさせ、始まりと終わりを合理的に解決しないところ。イギリスのディリアスなどの作品も印象派音楽として位置づけられる。

Ⅵ 近代音楽
ロマン派音楽と現代音楽との橋渡し的な役割として理解される面が多い。
ストラビンスキー、バルトーク、シベリウス、スクリャービン、シェーンベルク、ベルク、そして、ショスタコーヴィッチとプロコフィエフ。

Ⅶ 現代音楽
第一次大戦終了後から現在に至るまでの音楽を総称して現代音楽と呼ぶ。この中に含まれる音楽スタイルはさまざまで現在もなお進行中のジャンル。電子音楽の試みをしたシュトックハウゼン、前衛的なアプローチの第一人者ジョン・ケージ、自然音を楽器によって模倣しようとしたメシアンなどがあげられる。

最後になるが、本格的なクラシックの歴史がバロック時代(1600年~)からとすると今日までおよそ400年経過したことになる。一方、絵画の世界ではダ・ヴィンチの傑作「モナ・リザ」が描かれたのが1500年頃だからこちらの方が100年ほど古い。

西洋芸術の粋は音楽と絵画に尽きると思うが、いったいどちらに優位性があるだろうと、ときどき妙なことを考えてしまう。

ついては、ずっと以前に某新聞の「天声人語」にこんな記事が載っていた。

「絵画は音楽に負ける」と冒頭にあって「音楽に涙する人は多けれど、絵画で泣いた話はめったに聞かない」とあり、興味深いのは音楽側の人の発言ではなく、昭和洋画壇の重鎮、中村研一氏の言ということ。

耳からの情報は五感の中でも唯一脳幹に直結しており、感情が生まれる古い脳に最も近い。

だから、音楽を聴いて一瞬で引き込まれ、涙することもある。音楽の効用の一つに感情の浄化だと言われるのはそのためだ。

この天声人語の最後はこんな言葉で結ばれている。

「心がうらぶれたときは音楽を聴くな」(笑)。



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オーディオ秋の陣~小口径ユニットの活躍~

2023年10月21日 | オーディオ談義

前々回の「オーディオ秋の陣~大波乱~」からの続きです。

その前にまずは一言。

「オーディオだけで音楽的感性を養うのは拙いんじゃないの」という専門家のご意見には、たしかに一理あるどころか音楽の楽しみ方の本質を突いているようで大いに考えさせられた。

だけどねえ・・。

我が家の場合で言わせてもらうと、オーディオに対してむしろ(音楽的な感性を養うよりも)音質の微妙な差を楽しむ方に重点を置いていることを改めて確認した。

そう、オーディオは音質の差を確認する道具であり、いわば「顕微鏡」としての役割を担っていて、高度な顕微鏡になればなるほど微細な差を明らかにしてくれる。

そしてその副次的な効果として再生音楽の生々しさを享受できるようになれば「めっけもの」、という感じかな~。

という「言い訳」をしておいて(笑)、さっそく表題に移ろう。

2番目に登場したスピーカーはこれ。



口径20cmのユニット(ウ-ファー専用)+ツィーター(スーパー3)である。2番目に登場したので「B」タイプとしておこう。

ずっと以前の我が家の主流は「口径38cm」のユニットだったけど、どうしても不満がたまってきて小さな口径のユニットに移行した。

たとえば、現在は口径10cmのユニットが1系統、以下口径20cmが1系統、口径25cmが2系統、口径30cmが2系統といった具合。

今では口径38cmの大型ユニットが前後振動により空気を動かす「量と抵抗力」を想像するだけで背筋がゾッとするほど~(笑)。

このBタイプはとてもシャープな音で好評だった。とりわけ強力なマグネットを持つ「ツィーター」の凄さは「Y」さんも大絶賛。



しかし、どんなシステムもじっくり聴き込んでいくと何かしら弱点が見つかるものである。

「ウーファーとツィターの繋がりはどうなっているんですか?」

「はい、低音専用のユニットですからコイルは使っていません。おそらく3000ヘルツくらいまでは伸びているはずです。ツィーターの方は5000ヘルツでローカットしています」

「なんだかその境界付近で音が干渉しあって、ほんの少しですが濁っている印象を受けます。いっそのこと、コイルを入れたらどうなんでしょう、おそらく低音域もずっと締まるでしょうし、相互のユニットの干渉も薄くなると思いますが・・」

「なるほど・・、試してみる価値はありそうですね」

さっそくコイル(ムンドルフ)を使って、700ヘルツあたりでハイカットした。所要時間は5分程度で「電光石火の早業」だ(笑)。


その結果、(良質の)コイルを付け加えただけでこんなに変わるものか・・。

ついでに、駆動するアンプを「71Aプッシュプル」(画像左側の一部)に代えたのも大きかった。重量感が出てきてオーケストラも何のその。

「いやあ、口径20cmのユニットの奥深さを堪能できました」と、Yさん。

これにて一件落着~。

次に登場したスピーカーはこれ。



やや本格的なスピーカーの登場だが、ちょっと長くなりそうなので・・。

以下、続く。


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オーディオだけで音楽的感性を養うのは恐ろしいことだ

2023年10月20日 | 音楽談義

10日前(9日付け)に投稿した「音楽家とオーディオの希薄な関係」だが、今年最大のヒット作となって反響が大きかったのはすでに述べた通り。

といっても、すでに忘却の彼方にあり、どれだけの方が覚えておられるかな・・(笑)。

かいつまむと、指揮者や演奏家などの音楽家は練習時間が多すぎて音楽をゆったり楽しむ暇がなく自宅でもオーディオを必要としないという内容だった。

そして、文中の中で実例としてこういうことを記載していた。

「身近な例をあげると、桐朋学園を卒業後渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがない。」

で、その該当する高校時代の同窓生を仮にO君としておこう。福岡で「音楽教室」を主宰しているその「O君」からつい先日メールが届いたのには驚いた。10年ぶりぐらいだろうか・・。

「〇〇くん、ご無沙汰いたしております、福高17回生のOです。何年振りかで音楽ブログ・ランキングを開いてみたら、貴君が不動の〇位を続けておられて驚かされました。素晴らしいですね!!

 
その寄稿文を読むと(何と!)私のことにも触れておられて、二重に驚きました。何だろう...開いたのも「虫の知らせ」だったのでしょうか??

書かれている内容を読んで、欧州留学の第一歩をしるしたザルツブルグからウィーンに移り住んだ9月の下旬に、西日本新聞の依頼を受けた寄稿文をいくつかの短い文章にして書き送った事を思い出しました。

それらは10月中旬に一括して<文化欄>に掲載されたのですが、その中で〇〇くんの書かれていることに関連する部分を抜粋してお送りします。これが私なりの<答え>になるのではないかと思い、PDFを添付するとともに、以下に文章をペーストしておきます。

(昭和54年10月19日 西日本新聞 文化欄)

熱狂を読んだ小澤征爾 ーザルツブルグ音楽祭ーより抜粋)

なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にも咳一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。

それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。

マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。

この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。」

というものでした・・。

オーディオだけで音楽的感性を養っている身にとっては、非常に考えさせられる内容ですね・・。

畢竟(ひっきょう)「生の音楽」に比べると「オーディオ」は「箱庭」の世界かもしれない。

つまり、家庭でどんなに大型スピーカーや高級オーディオを揃えようと所詮は「五十歩百歩」・・。

とはいえ、長年親しんだ趣味であり、理屈抜きで生活の中に深く沁み込んでいるので今さら止めようがないし、止めるつもりもない。

むしろ、ほんの小さな音質の差にこだわり、微妙な差をかぎ分ける楽しみだってある・・、いわば「壺中の天」である。

ただし、O君のような現実論を脳裡の片隅に置いておくことは必要なことに違いない。

と、あれこれ物思いに耽るのに相応しい秋の好日が続く・・。


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オーディオ秋の陣~大波乱~

2023年10月19日 | オーディオ談義

前々回の記事「プレイヤーは審判役を兼ねてはいけない」の続きです。

オーディオのレベルを上げようと思ったら冷静な第三者の耳を借りることを厭わない方がいいという内容でした。

もちろん個人的な意見ですから念のため・・、「フン、偉そうに」なんて思わないようにね~(笑)。

で、一昨日(17日)のこと、読者の「K」さん(横浜)から次のようなメールが届いた。

(スピーカーの)評価を早く読みたいのですが、私なりの予想をしてみました。

1 PL100 +JBL075ツィーター
シンバルは良いが、弦楽合奏では帯域バランス高音に疑問が・・、これは改造せず素のままがいい。

2 口径20㎝+ワーフェデール
バランスが良い、特に弦楽四重奏。ただしオーケストラでは押出に弱さがあるのでは・・。

3 スーパー10+ワーフェデール
バランス押し出し両立のシステム。

4 AXIOM80
いつ聴いても安定していて心地よいが、他のシステムに比べると少し神経質?

「見たことも聴いたことのないSPを想像し駄文を書く暇があったらもう少し勉強せよ」とのお叱り覚悟でメールしました。

ありがたいことです。しかもわざわざメールをいただくなんて「ブログ主」冥利に尽きます。

このメールに対して即座に返信した。

「概ね、当たってます! 驚きました!!」

すると、早速の連絡ありがとうございます。まあリップサービスは置いといて次のブログが楽しみです。」

アハハ~(笑)。

それではさっそく「品定め」に移ろう。

今回は審判役の「Y」さんがわざわざテスト用のCDを持ってこられた。


「バロック・ヴァイオリンが使ってあります」「それは何ですか?」「弦に羊の腸を使っているのがガット弦ですが、その中でも独特の煌びやかな音色がするヴァイオリンです。」

この「バロック・ヴァイオリン」の個性的な音色が、まさか後々の苦しみのタネになろうとはその時は知る由もなかった(笑)。

最初に登場したスピーカーがこれ。

1 PL100+075ツィーター

なかなか「気に入った音」が出てくれない「PL100」(英国モニターオーディオ)。高音域のスッキリ爽やか感が加わると言うことなしなんだけどなあ。

そこで、窮余の一策として加えたのが「075ツィーター」(JBL)。

実は、この「075ツィーター」には特別の思い入れがあって・・。

何しろ「ステンレス削り出しホーン」が高かった! 「AXIOM80」(オリジナル)と同じくらいの値段がしたんだから~。

これを遊ばせておく手はない・・、つまり「思い入れ=もったいない精神」が強いため、つい積極的に「活用」したくなる心理が無いと言ったらウソになる。

お前は身銭を切った額に大切な感性を左右されるのか? 躊躇なくハイと答えたい(笑)。

ところが・・、

「ジャズやポピュラーには向いてますが、弦楽器の再生となると075の個性が前面に出てきてちょっと聴きづらいですね。PL100のせっかくのリボン・ツィーターの響きがかき消される印象を受けました」

「このところYou Tubeのギター音楽を聴くことが多くて・・、弦楽器の試聴が多少おろそかになってました。たしかに仰るとおりかもしれませんね・・」

「ちょっと弄ってみましょうか」

「変わり身が早い=臨機応変」という言葉を裏返せば「定見の無さ」に通じるかもしれない~(笑)。



「075」の代わりにデッカの「リボン・ツィーター」を乗っけてみた。な~に、手間は5分程度だから電光石火の早業だ(笑)。

「いやあ、これは素晴らしい! リボン型同士だからまったく違和感がありませんよ。これでPL100が見事に生き返りましたね。」

フ、フ、フッ・・。

そして、一難去ってまた一難・・。

次に登場したのは、

2 口径20cmのユニット+ツィーター「スーパー3」


読者の「K」さんの予想では「バランスはいいけど、オーケストラでの押し出しの弱さ」を懸念されていたが、概ね当たっていたようで・・。

以下、続く。



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署名入りの書評は当てにならない

2023年10月18日 | 読書コーナー

「外山 滋比古」(とやま しげひこ:お茶の水大学名誉教授)氏のエッセイ「新聞大学」を読んでいたら、次のような箇所があった。(84頁)

    

「新聞はそろって日曜に読書のページ、書評のページをこしらえている。読書好きの人への手引きとして新聞はユニークである。3ページから4ページがそれに当てられるが、取り上げられるのは専門書が多い。

そうでなくても堅い本ばかりが取り上げられているから読者には今一つ物足りないのである。面白い、というような書評にはあまりお目にかからない。書評に署名があるからである。かっては、無署名が普通であったが今は肩書付きの名前が出る。

署名が有る無しなど、呑気な人は問題にしないようだが大違いである。匿名の方がいい書評ができる。身分を明かした原稿にはいろいろのシガラミがまつわりやすい。著者への気兼ねもある。出版社への配慮もある。縁のある出版社の本を悪く書けば面白くないことになる。

というのが、普通の人の思惑だろう。著者との関係もデリケート。本当のことを書けば社交上おもしろくないことになるという心配をしないほどの人物は書評などしない。」

以上のような内容だった。

つまり「署名がある書評はいろんなシガラミがあるので本当のことを書いていない。あまり当てにはできない。」というわけ。

ネット情報に象徴されるように「署名がない無責任な記事」の悪口はこれまで散々耳にタコができるほど聞かされてきたが、これが「書評」ともなるとすっかり攻守ところを変えるらしい(笑)。

実はなんでこんなことを話題にしたかといえば、やっぱりオーディオがらみなのである。

これを読んで真っ先に脳裡に浮かんだのがオーディオ評論家の存在だった。オーディオ機器に対する評価のケースとまったく似ている!

以下、我が経験に照らし合わせて遠慮なく言わせてもらおう。署名無しだからほんとうのことが言える(笑)。

今でもオーディオ愛好家の間で語り継がれているように1970年代はオーディオの全盛期だった。我がオーディオの黎明期と丁度重なっていた時代である。

国内では「トリオ、サンスイ、パイオニア」がオーディオ御三家として君臨していた夢のような時代だった。今となってはこの御三家は影も形もない。

いずれにしろ当時は夢中になって
、それこそ鵜の目鷹の目でいろんなオーディオ雑誌を読み漁ったものだったが前述のようにたいへんな活況を呈していたオーディオ業界において評論家といえばメーカーや販売店にとってまさに神様のような存在だった。

何といってもその発言次第でオーディオ機器の売れ行きが左右されるのだからどうしようもない。

一読者としても当時のお気に入りだったタンノイさんに関する記事などは活字に穴が開くほど何回も読み耽ったものである(笑)。

当然のごとくオーディオ評論家の発言も一喜一憂しながらまともに受け止めていたので、つい甘言に釣られてしまい、いろんなオーディオ機器を買い漁ってはガッカリして二束三文で下取りしてもらい、また新たな機器を購入するというアリ地獄に陥ってしまった。

素直に記事を信用してしまった自分が愚かだったのだろう。評論家だっていろんなシガラミの中で記事を書いていたであろうことは今となっては容易に想像できる。

さすがにオーディオ専門誌側も反省したのだろうか、「ブラインドテスト」(機器のメーカー名を伏しての試聴テスト)なるものを実施したケースもときどき見受けたが、名もしれぬ三流メーカーが評価が良かったりして”ちぐはぐ”さが目立ちこの種のテストは自然に立ち消えとなった。

むしろ評論家がブランドの先入観に左右されることが証明され、かえっておかしな結果になったことは想像に難くない(笑)。

しかし、いたずらに評論家を謗るわけにはいかない。私たちだってある程度ブランド名に気分的に左右されていることは、きっと身に覚えがあるはずだ。

いずれにせよ、こういう失敗は前向きに考えて現在に至るまでの授業料だと割り切ればいいのだろうが、あまりにも高くつきすぎた感がして悔しさだけが未だに残っている(笑)。

大いに懲りたのでここ20年ほどはオーディオ雑誌はあまり読まないし、読む機会があったとしても「ホンマかいな?」と半信半疑のまま活字を追っている。

当時の評論家諸氏は大半が鬼籍に入られており、現代のオーディオ評論家の実状がどうかは知らないが、いろんなシガラミのもとでホンネが吐けない状況が昔と現在とそれほど変わりがないことは十分推察できる。

したがって、オーディオ雑誌の内容をむやみに信用しない方がいい、と思いますよ~。

むしろ無記名のネット情報の方が信用できると思いませんかね。

おっと、これは手前味噌かな(笑)~。



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プレイヤーは審判役を兼ねてはいけない

2023年10月17日 | オーディオ談義

本のタイトルは忘れたけど、著者は名脚本家として知られる「橋本 忍」氏だった。こういうことが書いてあった。(要旨)

「名作として知られる「七人の侍」の脚本は「小国英雄」「黒澤明」「橋本忍」の3人による共作だった。

審判役は「小国の旦那」で、黒沢と橋本の両者が書いたものを比べて、「これはいい」「悪い」を冷静に取捨選択した。

ところが後年の黒澤さんは、独りで脚本を書くようになったために独善的になって作品自体が色褪せたものになっていった。やはりプレイヤーが審判役を兼ねるのはよくない・・」

同じようなことがオーディオにも言えるのではあるまいか(笑)。

たしかに「自分(プレイヤー)さえ良ければそれでいい」という趣味だが、どうしても思い入れが強いとフィルターがかかってつい目(耳)が曇る・・、そこでときどき冷静な第三者の耳を借りて判定してもらうことも必要かな・・、と思うわけ~。

というわけで、去る15日(日)に近隣のオーディオ仲間「Y」さんに見えていただいた。

およそ1か月ぶりくらいかな~、節目、節目で謙虚な気持ちになって判断を仰いでいる「ありがたい存在」だが、今回は対象がひときわ多かった。

☆ 「PL100 + 075ツィーター」



☆ 「口径20cmのユニット + スーパー3(第1ツィーター)」



☆ 「スーパー10 + スーパー3(第2ツィーター)」


☆ 「AXIOM80」

 

これらのスピーカーをおよそ3時間に亘って聴いてもらい、審判役として忌憚のないご意見をいただいた。

想像以上に「予想外の展開」となったのは、開催の趣旨から実にありがたいことだった・・・、そして、やはり「審判役は必要だった」との思いを強くした。

それでは、個別に俎上に載せていくとしよう。

以下、続く。



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以心伝心の「ウマさん便り」

2023年10月16日 | ウマさん便り

前々回のブログ「イギリス社会入門」を投稿したときに、ふと閃いたのが「南スコットランド在住のウマさんからタイトルに関連したお便りが来るとうれしいんだけどな・・」。

なにしろ実際にイギリス在住の方からのお話となるととても参考になる。

ところが・・、これを「以心伝心」というのか、すぐにウマさんからメールが届いた。

「イギリス入門」…
面白そうですね。僕も、いずれ、そんな文章を書いて見たいですね。
「スコットランド在住のおっさんが見た英国」ってなタイトルになるかな?
親しい友達に貴族がいるし、毎日のように貴族の私有地を車で通るし、僕の目から見た貴族の存在などなど、書いて見たいことはかなりあります。
皆さん、きっと驚かれる内容になるんじゃないかなあ?
とりあえず、英国について書いた「ウマ便り」を添付しておきますが、すでにお送りしたかと…

PS: 感謝感謝! ローラ・ボベスコ女史のヴィオッティ 22番 素晴らしい!(美女だし…ウフッ…)

では、その「ウマさん便り」をご紹介。

「英国はイングランドではない」 

初めてスコットランドを訪れたのは1980年の夏だった。

グラスゴーのキャロラインの実家で、弟のマーティンが、ある日、やや興奮して言った。「今夜、スコットランドとイングランドのサッカーの試合がある」

 そして、ビールやらウィスキーやらポテトチップス(英語ではクリスプス、ポテトチップスはフレンチフライのこと)などをしこたま用意しテレビの前に座った… 

いよいよゲームのスタート、ところがそのタイトル画面を見て僕は首をかしげた。「スコットランドvsイングランド」、これはわかる。が、そのタイトルの下に「国際試合」とあるんや。なんなのコレ? 「マーティン! なんで国際試合や?」

 「当たり前や。イングランドは外国や!」「エッ? スコットランドもイングランドも同じ英国とちゃうのか?」 「同じ英国やけど、違う国や!」 

英国が「連合国家」であることを知るのに時間はかからなかった。

英国は四つの国で成立している。「イングランド」 「スコットランド」 「ウェールズ」 「北アイルランド」…

この国は、歴史上、ケルト人、ローマ人、それにゲルマン人であるアングロサクソン人やノルマン人その他が入り乱れ、他の欧州の国々同様に、様々な王国を築き集合離散を繰り返してきた。現フランスのほとんどが英国の領地だった時代もある。 

18世紀はじめにイングランドに併合されたスコットランドは、それまではれっきとした独立国家だった。だから、イングランドへの対抗意識や気風・気概は今に引き継がれ、スコットランド独自の法律や銀行制度(独自の紙幣を発行)、或いは教育制度や医療制度など、イングランドとは違う行政制度がある。さらに立派な国会もあるし首相も存在する。 

 「英国」と「イギリス」、この国を呼ぶのにこの二つの名称が日本にはある。ここらもちょっと事情をややこしくしているんじゃないかな。

「英国」は、ブリテン島と北アイルランドを示し、文字通り英国全体を現している。ところが問題は「イギリス」や。もともと「イングランド」が語源のこの言葉、  

「英国」も表わすが「イングランド」を示す場合も多い。

だから僕は、英国全体を示す場合、イギリスという言葉は極力使わないようにしている。 

さてここで、日本の学校の英語の授業をちょっと振り返ってみよう… 

 「英国は英語でイングランド、英国人は英語でイングリッシュ…」

僕は中学で確かにそう習った。いまでもこう教えている先生は多いんじゃないかな。でも、これ、明らかに間違いなんだよね。 

 イングランド人    →  イングリッシュ

 ウェールズ人      →  ウェーリッシュ

 スコットランド人  →  スコティッシュ

 北アイルランド人  →  アイリッシュ 

イングリッシュってのはイングランド人のこと。同じ英国人であるスコットランド人はスコティッシュであり、間違ってもイングリッシュとは云わない。もちろん、ウェールズ人はウェーリッシュでありイングリッシュじゃない。だから、英国人のことをイングリッシュと呼ぶのは間違いだってわかるよね。 

英国には四つの国があり四種類の国民がいる(現実にはおびただしい移民との共生社会だけど)。この四国民を総称して、つまり英国人は「ブリティッシュ」が正解となる。

でも国籍を尋(たず)ねられた場合、「入管」など公的な場以外で自分のことをブリティッシュとみずから言う英国人はあまりいないと思う。「私はイングリッシュです」 「私はスコティッシュです」…が普通でしょう。

「私はイングリッシュです」と云う方を、この人英国人だと捉(とら)えずに、この人、イングランド人だ…と認識すべきでしょうね。

「英国人はイングリッシュ」、これが間違いだということ、わかってもらえました? 

じゃあ「英国」は英語でなんと呼ぶのか? 

 英国の正式名称、実はコレ、世界で一番長い国名なんです。「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」

 「グレートブリテンと北アイルランドによる連合王国」 コレ長すぎるよね。だから通常は「United Kingdom」(ユナイテッド・キングダム)と呼ぶ。

キングは王様、ダムは領地のこと、つまり、キングダムは王国の意味。だから、ユナイテッド(連合)とキングダム(王国)で「連合王国」となるわけ。これは御存知の方も多いでしょう。  

これをさらに省略して「U.K.」となる。「英国はユナイテッドキングダム」、これが正解となります。もっとも慣習的に昔から「グレートブリテン」と呼ぶ場合も多いけど、正式名称ではない。 

スコットランドで暮らす僕に、日本からの手紙のほか、時に、本や雑誌、あるいは様々な日本食材を送ってくださる方がかなりいらっしゃる。

手間隙(てまひま)かかる梱包(こんぽう)、そして決して安くはない郵送料…、非常にありがたいことだと、いつも心より感謝している。でもその郵便物を見ると、僕への宛名として、スコットランドのあとにイングランドと記入しておられる方が実は少なくない。つまり国名が二つ並んでいるんですね。

だから皆さん、僕に何か郵送してくださる場合(催促してるんとちゃうよ)、どうか宛名のスコットランドのあとに「U.K.」とご記入くださいましね。 

いつだったか、大阪のラジオで、英国製紳士服地のCMを聞いたことがある。ナレーターが格調高い語り口でこうおっしゃった… 

 「イングランドの誇り…最高級ウール…それが〇×紳士服地…」 

ところが、そのCMのバックに流れていたのはバグパイプなんです。もちろんバグパイプはスコットランドの誇りでイングランドのものじゃない。笑っちゃうよねコレ… 

御存知だとは思うけど、UやKのあとに付いているピリオドは、省略の意味です。そこで思い出した… 

大阪に置いてある僕の自転車は、自転車屋の友人が組上げてくれた特製です。で、彼、わざわざ、フレームに「U.M.A.」とレタリングしてくれた。 

それは嬉しいんやけど、なんでピリオドが付いてるんや? ピリオドなんかいらん筈や。で、その理由を訊いた… 

 「コレなあ、Uは胡散(うさん)くさい、Mはマヌケ、Aはアホ。胡散臭(うさんくさ)いマヌケのアホ…」

…あ、あのなぁー… 

さてさて、日本の英語の先生方! もうやめましょうよ。

「英国はイングランド、英国人はイングリッシュ」と教えるのは、ネッ!

と、以上のとおりでした。

さらに、今朝(16日)いちばんのメールがこれ。

いろんなオーディオ関連の記事を見るけど、「噴火炎上!」「♪人生いろいろ♪ 男もいろいろ」こんなコメント見たことない。後にも先にもこのブログだけやろ。もう、笑うてしまう。
やっぱりおもろいお方や、笑笑笑…


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オーディオ秋の陣~アンプ選び~

2023年10月15日 | オーディオ談義

前々回のブログ「オーディオ秋の陣~自縄自縛~」からの続きです。

いよいよ自分の色に染め上げたいスピーカーも残りひとつとなった。

嬉しさ半分、淋しさ半分、といったところかな~(笑)。



我が家で唯一の大型スピーカーである。

ちなみに、オーディオの最終的な行き着く先といえば「箱」であり、その容積、重量、板厚、構造(バックロードホーンなど)という気がしている。(もちろん個人的な意見ですよ)

というのも、箱が変わると同じユニットでもガラリと音が変わるし、それはもうアンプを代えたときの変化などとは比べものにならないほどの差が生じる~。

ただし、所詮は機材や計測機器に恵まれない「一介の市井の徒」だからメーカー製の手厚い研究設備のもとで作られた箱にはどうしても及ばない・・、それは分かっているつもり~。

つまり、英国のグッドマンやワーフェデールなど、ユニット販売が中心で箱を作らなかったメーカーの場合に限って自分の出番がやってくる、と理解している(笑)。

で、問題は現用中の「ウェストミンスター」(タンノイ)である。

なにしろ30年ほど前に「清水の舞台」から飛び降りる思いで購入したスピーカーだったけど、はじめのうちは「タンノイ」の信奉者の一人として崇(あが)めたくって拝聴していたのだけど、そのうちどうも気に食わんなあ・・。

まずは、ローエンドの伸びが不足している、低音域の分解能がどうもイマイチだ、これはクロスオーバーの「1000ヘルツ」が起因しているんじゃないか・・。

こういう不満がたまり溜まってとうとう15年後に噴火炎上・・(笑)。

大改造のやむなきに至った。

ちなみに、この顛末を10年以上も前のブログに搭載したところ、「神聖なタンノイを改造するとは何事か!」と抗議のメールが届いたのも懐かしい思い出である。

北陸地方の方だったけど、このところ抗議のメールがとんとご無沙汰だがまだ息をしておられるのかな~(笑)。

ただし、タンノイを改造するのは多大の勇気が必要だった。

何といっても「オリジナルではない」となると下取り価格が「二束三文」になるのは目に見えているし、それに上手くいくかどうかも保証の限りではない~。

とはいえ、「え~い、乗りかかった船だ」と、徹底的にやっつけることにした。何かにつけ「小心者」だけどオーディオだけには蛮勇を奮えるのだから不思議(笑)。

まずは「口径38cm」のユニットの交換、お粗末な部品を使ったネットワークの廃棄、バックロードホーンの内部の仕切りを外して簡略化を図るなど・・。

その後、ユニットの遍歴に限っては「D130」「AXIOM80」「フィリップスのフルレンジ」(口径30cm)、そして現用中の「スーパー12」(ワーフェデール)でようやく落ち着いた。


赤帯マグネット付きのユニットは、やはり「一味」違う。(補助バッフル作りが大変だったなあ)。

おっと、何の話だったけ・・、あっ、そうそう「スピーカーを手なづける」話だったね(笑)。

で、このシステムの持ち味としてどうしても「ゆったり感」「ゆとり感」「茫洋」とした響きを求めたくなるが、ほかの5系統のスピーカー共通の持ち味である「繊細」さも必要で、この二つの両立をどうしても図りたいところ。

これはもうアンプの責任範囲だろう、つまり、相性のいい「アンプ選び」が必要。

まず、900ヘルツ以上を受け持つ「175ドライバー」(JBL)だが、能率が109dbとメチャ高いので低出力のアンプで十分間に合う。



高音域の爽やかなスッキリ感から言えば「71Aシングル」か「WE300Bシングル」かということになるが、「175」には前者で十分だろう。後者は能率の低い「コーン型ツィーター」にこそ相応しい。

ポイントは200ヘルツ以下の帯域を受け持つ「スーパー12」を鳴らすアンプで、候補はいろいろ・・、♪人生いろいろ、♪男もいろいろ・・(笑)。

「EL34プッシュプル」「71Aプッシュプル」「2A3シングル」「6AR6シングル」「6SN7プッシュプル」

この激戦を勝ち抜いたのは「6AR6シングル」(三極管接続)だった。



音が太くなり過ぎず、そして痩せることもなく絶妙のバランスといえる。

これで大団円を迎えた。

「オーディオ秋の陣」は終了といきたいところだが、まだまだ秋は長い。

もっと課題を見つけなくちゃ・・、何せ「
山ほどある=山積」してるんだから(笑)。



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「イギリス社会入門」と「フェルマーの最終定理」

2023年10月14日 | 読書コーナー

このところ随分気候が良くなってとても過ごしやすくなった。

音楽、オーディオ、読書、ミステリードラマの鑑賞、ウォーキング、買い出しのドライバー役と目が回るほど忙しく、時間がいくらあっても足りない(笑)。

☆ 「イギリス社会」入門

世界には、いろんな国があるが今のところ自分が一番シンパシーを持っているのは「イギリス」。

結局、オーディオがらみになってしまうのだがイギリス発の製品はスピーカーにしろ真空管にしろ自分の相性に合う機器がいちばん多い。

その音質の特徴を一言でいえば「決して出しゃばることなく、付き合えば付き合うほどに味が出てくる、まるで”いぶし銀”のような渋い音」。

あの五味康祐さん〔作家:故人)も名著「西方の音」で、「西方」を「イギリス」と位置づけてブリティッシュ・サウンドについて比類なき音楽・オーディオ論を展開されている。

もともと、イギリスは日本と同じ島国国家なので国民気質が似ているのかもしれない。

そこで、知っているようで知らない「イギリス」をもっと知りたくなるところ。

「イギリス社会」入門~日本人に伝えたい本当の英国~(NHK出版新書)と題したこの本はそういうイギリスの実情を赤裸々に伝えてくれるものだった。

            

著者のコリン・ジョイス氏は1970年イギリス生まれでオックスフォード大学卒、92年来日し高校の英語教師やジャーナリストを経て10年帰国。

「女王のことをみんなどう思っているの?」「階級社会は今も続いているの?」といったベーシックな話題を中心にイギリス人なら誰もが共有している習慣や感覚をユーモアたっぷりに解説していて、一気に読ませてもらった。

中身のほうは「1 階級」から「6 王室」を経て「19 品格」まで項目ごとに分けてイギリス人の気質が浮き彫りにされているが、ここでは「階級」について取り上げてみよう。


何といってもイギリス人気質を手っ取り早く理解できるのは「階級意識」が一番だと思うから。

「みすぼらしい上流、目立ちたがる労働者」という副題のもと、冒頭に提示されるのが次のテーマ。

「二組の夫婦がクルマに乗り込む。さて、誰がどこに座るだろうか。」

これがイギリス人の階級を見分ける方法の一つだそうだ。

○ 労働者階級

男性二人が前に座ってサッカーの話をし、女性二人が後に座ってショッピングの話をする。

○ 中流階級

それぞれのパートナーを大切にするので一組の夫婦が前に、もう一組の夫婦が後に座る。

○ 上流階級

夫婦がばらばらになる。前の座席には男性のひとりが、別の男性の妻と一緒に座る。後ろにはもうひとりの男性と、別の男性の妻が座る。

つまり、社交の場ではふだん話さない相手と出来るだけ話さないといけないと考えるのが上流階級。

このさりげないエピソードに接しての個人的な感想だが、「社会」を優先させ、「個人」と「家族」の安楽を後回しにするのが上流階級なのだと何となく得心させるところがある。

ただし、著者によるとたしかにイギリス社会で階級は一定の重みを持っているものの、その意味合いは外国人が思っているものとは大きく違う。

どうも階級意識が誇張されて伝わり過ぎているようで、決して上流階級はお上品ぶって威張っているわけではない。

階級意識を鼻にかけることを警戒してか、ことさらにそれを隠したがっており、時代に合わせるのが一番と心得ている。

たとえば上流の気取ったアクセントで話し、卒業した名門校のタイを締めている人などめったにおらず、もし、いたとしたら笑いものになるそうだ。

生活スタイルも質素、倹約を旨としていて、この辺の「自己韜晦(とうかい)」が、わが国の古典「徒然草」〔兼好法師)の精神にもつながってくるところで、あのオーディオ製品に見られる「渋さ」とも共通するところだと思う。

ほかにも王室一族は民族的にいえば「ドイツ系」であり、そのことが国民に与える影響などが記されており、ことイギリスに関しては興味満載の本である。

次いで、


☆ 「フェルマーの最終定理」

17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」。

以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが~。

イギリスの天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動のノンフィクション!

表紙の裏にこう記された解説につられて読んだのが「フェルマーの最終定理」。

ご存知の方も多いと思うが2000年1月に本書の単行本が出版され大きな反響を呼んだが、これはその文庫版である。

            

ちなみに、フェルマーの最終定理とは、

Xn+Yn=Zn

この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。(XnとはXのn乗のことで、Yn、Znも同様)

この証明は簡単なように見えて実はたいへん難しく、3世紀もの間、幾多の数学者が挑戦し、なかには精神に異常をきたしたり、数学者としての生涯を台無しにされた者もいる超難問である。

数学者アンドリュー・ワイルズ(ここにもイギリス人が出てくる!)が1993年にこの定理の完全証明を行って後世に偉大な足跡を刻んだが、本書はそれにまつわる話である。

一言でいえば、根気とインスピレーション〔閃き)がいかに大切かが延々と語り継がれるわけだが、「万物は数なり」で、数と自然とのつながりが面白かった。

たとえば、次の逸話。

あるとき、鍛冶屋の前を通りかかったピタゴラスはハンマーが一斉に鉄に打ち下ろされる音を耳にした。さまざま調和音が響いてきたが、あるひとつの音が加わったときに限って音が調和しなくなった。

そこでハンマーの重さを調べてみると互いに調和しあう音を出すハンマー同士は重さの比がたとえば1/2や2/3となっていたが、不調和な音を出すハンマーは簡単な重さの比になっていなかったことが判明した。

もうひとつ、自然現象から「π」がひょっこり顔を出す話。

ケンブリッジ大学のステルム教授はいろんな川の曲がりくねった実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。

その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることが分かった。実をいうとこの比はほぼ3.14なのである。

これは、π(パイ)、すなわち円周と直径の比の値〔円周率)に近い。

端的にいえば川は常に曲がろう(カーブ)とする傾向を持っており、カオスと秩序とのせめぎ合いの結果、πの値に近くなるのである。

特に顕著なのはシベリアのツンドラ地帯やブラジルのような非常になだらかな平原を流れる川の場合だという。

これらはほんの一例だが、たとえば「リーマン予想」(素数の並び方の法則性)が明らかにされると宇宙の神秘が解明されると言われており、何だか「数」には不思議な力が込められているようだ。

なお、本書によると「フェルマーの最終定理」の証明は日本の数学者が発表した「谷山~志村予想」が決定的な役割を果たしており、日本人として実に誇らしくなる。



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