「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

交響曲第6番「田園」に想う~最終回~

2020年07月31日 | 音楽談義

前回からの続きです。

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」について、残る7枚の試聴結果を記してみよう。

なお、繰り返し述べるようだが、個人の勝手きままな感想ですからどうか気軽に読み流してくださいな。

       
       
            

 ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 ウィーン・フィルハーモニー  録音1968年頃

 盛り上がりに欠け長く聴いていると飽きがくる

全盛期のウィーン・フィルの弦はやはりいい。オーソドックスだが華麗、きらびやかで音楽に色彩感がある。ただし5楽章が通り一遍で物足りない。もっと敬虔な祈りみたいなものが欲しい。長く聴いているとややマンネリ現象に陥りそうな感じ。

 ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルト・ヘボー  録音1985年

 中間色を多用した印象の薄い絵画の趣

ずっと以前の話だが、ドレスデン・シュターツカペレの第一ヴァイオリン奏者島原早恵女史のウェブサイト「ダイアリー」でハイティンクの指揮ぶりについて書かれていた。

練習で言葉をほとんど発することなく指揮棒だけで団員を納得させるのだという。たしかにこの指揮者の「魔笛」は一級品だったが、この田園になると穏やかすぎて盛り上がりに欠けている印象で、5楽章の嵐の表現には少なからず不満が出てくる。動と静の対比について意見が分かれるところだろう

 ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団
  録音1985年

 正統派で感動に満ちた田園

ネヴィル・マリナーといえば映画「アマデウス」での音楽を担当していた指揮者だが、この演奏には最初から最後まで襟を正して聴く思いがした。

第5楽章では自然への讃歌が高らかに歌い上げられ、天上から後光がさしてくるようなイメージ。楽団も絶好調で管楽器のうまさが光る。

整然とした演奏ながら品も情緒も申し分なく神々しさも十分。これは一押しの名盤。マリナー会心の出来で演奏が終わった途端に思わず拍手。素晴らしい!

 ヘルベルト・ケーゲル指揮 ドレスデン・フィルハーモニー
  録音1989年

 人生を悲観的に考える人向き

日本公演(サントリーホール)の記念すべきライブ盤。指揮者ケーゲルは東ドイツの熱心な社会主義者だったが、この最後になる公演のときはベルリンの壁が崩壊する1ヶ月前のことで既にこのことを予知していたとみえてものすごく暗いイメージの田園に仕上がっている。

しかし、この演奏には人間の真摯な苦悩が内在していて簡単に捨てがたい味がある。5楽章は秀逸。録音もホールトーンが豊かで気持ちいい。公演当日の聴衆は一生の思い出になったことだろう。

なおケーゲルは東西ドイツの併合後、1年後にピストル自殺を遂げた。その原因の一つに共産主義の敗北があったとされているが、イデオロギーの違いで自殺する人間なんて筋金入りですね。

 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ベルリン・フィルハーモニー
  録音1990年頃

 可もなし不可もなし

オーケストラの地を這うような弦の響きにはうっとりとするが取り立てて求心力のある演奏ではない。良くも悪くもないという表現になってしまう。

10 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ミラノ・スカラ座・フィルハーモニー  録音1991年

 田園の情景が浮かんでこない演奏

テンポを遅めにとったコクのある演奏だが、田園の情景が浮かんでくるようなイメージに乏しい。何だか曇り空の田園のようで気分が晴れてこない。そういえばイタリアのオケと田園とのイメージがどうも結びつかない(笑)。

11 ビッド・ジンマン指揮 チューリヒ・トンハーレ・オーケストラ
  録音1997年頃 

 演奏レベルに問題あり

ときどき管楽器の不発があるのがご愛嬌。聞き流すにはいいが、正面から向き合って聴く田園とは思えない。たどたどしいという印象を受けた。

と、ここで11枚のCDの試聴を終わったが、改めて探してみるとさらに3枚の新たなCDが見つかった。いったい、どうなってんの?(笑)



12 カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー 1971年

 どこといって欠点が見当たらないハイレベルの演奏

旧い学生時代の話になるが、まんべんなく全科目でいい点数を取る平均的優等生と、その一方で数学とか英語などの一科目に特別秀でているものの、他の科目はそれほどでもないという子がクラスの中に少なからずいるものだ。

そして、後になって記憶に残っている子といえば後者ですよね(笑)。

ベームに対して抱くイメージとはこの平均的優等生なのだが、この田園に関しては好き嫌いは別にして満点を献上してもいいくらいの優秀な出来栄えである。見直しました。まあ、オケも名にし負うウィーンフィルですからね~。

13 ブルーノ・ワルター指揮 ウィーン・フィルハーモニー 1936年

 録音さえ良ければこれがベスト1だろう

何せ1936年の録音だからSPの復刻版だろうし、ノイズだらけの音を予想していたが、意外にも聴きやすかった。とはいえ、モノラルだし周波数レンジには不満があるものの、現代のデジタル録音でこの演奏が聴ければおそらくベスト1ではなかろうか。後年録音したコロンビア交響楽団よりもさらに上を行く。

ところで、このCD盤を手に入れた経緯がどうも判明しない。おそらく何かの雑誌に絶賛されていたとしか思えない。

14 セルゲイ・チェリビダッケ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー 
録音年 不明(ライブ盤)

 リズム感に欠けた演奏

その昔、ベルリンフィルの常任指揮者をカラヤンと争ったほどのチェリビダッケだが、この演奏にはどうにも頷けない。

音楽の3要素とされている「リズム、メロディ、ハーモニー」のうち肝心のリズムが欠落していてどうにも乗れない。

彼にはブルックナーの名演(第8番)があるが、「酒でいえばまことに芳醇であるが、量の多さが水増しされた感じ」(五味康祐氏)という、ブルックナーの音楽と相性が良さそうだ。

以上、14枚の試聴を終えたが、実を言うとこれほどの名曲ともなれば演奏の違いなんて五十歩百歩が正直なところで、ああでもないこうでもないと重箱の隅を突っつく自分が小さく見えて恥ずかしくなるほどだった。

言い換えると、大筋ではどれを聴いてもOKというわけだが、その中で強いて挙げるとすればマリナー盤、ワルター盤、ベーム盤、クレンペラー盤、ケーゲル盤が印象に残った。

最後に、久しぶりにここ2~3日「田園」漬けの毎日だったが、やはりこれは名曲中の名曲ですね。この歳になってもすっかり心が洗われる思いがしました。

そして、「シンフォ二―」こそは情報量の多さや弦のユニゾンの厚みからして、やはりクラシックの王者にふさわしいとの思いを強くしたところ。


こういう”きっかけ”を作ってくれた「龍角散」(CM)よ、どうもありがとさん(散)~笑~。

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交響曲第6番「田園」に想う~その1~

2020年07月29日 | 音楽談義

何げなくテレビを観ていたら、ベートーヴェンの「交響曲第6番 田園」が聞こえてきた。

それも第五楽章の嵐が去った後の自然への感謝の部分で管楽器が高らかに謳いあげていく一節。

久しぶりに、耳にして「ああ、いいなあ!」とウットリ。

「龍角散 ”のどすっきり飴”」のBGM(宣伝)だった。


自分の音楽史(大げさだが!)を振り返ってみると、20代の頃はベートーヴェン、30代からは圧倒的にモーツァルトだったが、やはりベートーヴェンもたまに聴くといいですねえ(笑)。

彼の作品を読み解くカギは「苦悩を通じての歓喜」にあるとされているが、ややもすると「音楽は哲学よりもさらに高い啓示だぞ。だから俺の音楽にじっと耳を傾けろ」という押しつけがましさが若干鼻につくことがある。

したがって、歳を取るにつれ敬遠気味だったが「大公トリオ」や「田園」などには、そういう気配が感じられない。


とりわけ「田園」は、自然をこよなく愛したベートーヴェン自らが表題を田園(「パストラル・シンフォニー」)と名づけ「音で描かれた風景画」をイメージとして作曲したものだから曲風も自然そのもの。

ベートーヴェンの代表作の一つであることから愛好家も多く、こうして紹介するのは今更という感じだがやはりこの曲を避けていては自分の音楽史は語れない。

在職中によくスランプに陥ったときにこの曲を聴いて随分開放的な気分に導かれ、癒し効果もあっていわば精神安定剤的な役割を果たしてくれた想い出深い曲目だ。

ベートーヴェンの交響曲の中でやや毛色が変わったこの曲はこれまでの伝統を破って五つの楽章で作られ、各楽章にはそれぞれ内容を暗示する表題がついている。

第一楽章   「田舎に着いたときの晴れやかな気分のめざめ」

第二楽章   「小川のほとりの情景」

第三楽章   「田舎の人たちの楽しいつどい」

第四楽章   「雷雨、嵐」

第五楽章   「牧人の歌~嵐のあとの喜びと感謝の気持ち」

このうち、特に印象的なのは繰り返すようだが嵐が去ったあとの美しい田園風景の描写と嵐を切り抜けた感謝と喜びの讃歌が高らかに歌われていく第五楽章。

人間と人生にとっての大きなテーマである「生、死、愛」
が常に作曲者に内在していないと、こういう音楽はまず創造できないように思う。

現在の自分の手持ちの盤は11セットだが、「龍角散」のCMに大いに刺激されて(笑)久しぶりに試聴してみる気になった。

これほどの名曲とあって、それもシンフォニーともなると弦の厚みとスケール感によって少々の演奏のまずさはカバーしてしまうので、指揮者やオケによってそれほどの差は出にくいように思うが、個人の身勝手な感想なのでどうか聞き流してくださいな。

試聴スピーカーはこういう大編成のオーケストラには一番頼りになる我が家の4兄弟のうちの長男にあたる「ウェストミンスター」(改)。

それでは2日掛かりの試聴でベスト1を選出してみよう。まずは初日の4枚分について。

       

 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー  録音1953年

 芒洋として盛り上がりに乏しい印象

テンポが遅くて重々しい印象で田園のテーマにそぐわない印象を受ける。フルトヴェングラーのベートーヴェンは定評があるが、こと6番に限ってはそうでもない。やはり風景画的雰囲気とは相性が悪そうで、もっと人間臭くてドロドロしたドラマが合っている気がした。


 オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
  録音1957年

 明るい色彩、濃淡のはっきりした油彩画の趣

なかなかの好演で聴かせるものがある。弦楽器をはじめあらゆる楽器が咆哮し、エンジン全開のイメージで進行する。切なさと力強さが程よく交錯しており演奏が終わったあと「なかなかいいねえ!」と思わず言葉が出た。「もったいぶり屋のクレンペラー」には、やはり大編成の曲がふさわしい。ただし、5楽章ではもっと神々しさがあるとさらにいい。


 ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団 録音1958年

 自然への感謝を素直に表現した名演

ずっと昔からレコードで聴いてきた盤で、気に入っていたのでCD盤が出ると早速買い直した。滋味あふれ心温まる演奏で音楽の喜びに満ち溢れ、こうして沢山の指揮者に囲まれても少しも遜色のない不滅の光芒を放っている。


 ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ドレスデン・シュタツカペレ
  録音1977年

 淡い色彩による水彩画の趣

すべてにわたって中庸という言葉がピッタリ。とりたてて魅力も感じないかわりにアクも強くなく無難な演奏。当たり外れなしの万人向きというところ。

以下、続く。

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どうしても忘れられない音

2020年07月27日 | オーディオ談義

オーディオ愛好家にとって、誰しもが「あのときに聴いた音は素晴らしかった!」という記憶の一つや二つは持っているはず。

まあ、どうしても忘れられない初恋の思い出みたいなものですかね。

自分の場合でいえば、もう40年ほど前になるだろうか。

その頃は小さな地方都市とはいえオーディオ専門店がそこそこあった時代である。たしか仕事を終えてバスの待ち時間の調整だったと思うが、何気なしに、とあるオーディオ店に入ったときのこと。チェンバロが実にいい音色で鳴り響いていた。

そのお店の一番の売りは以前から置いてあったヴァイタボックス(イギリス)の「191コーナーホーン」だった。

                        

これまで、ときどき他人が試聴していたのを「そば聴き」していたのだが、たしかに音の品位の高さや佇まいは図抜けていたが、所詮は薄給のサラリーマンにとって手の届くような代物ではないし、諦めも半分手伝って、どうしても手に入れたいというほどの思いではなかった。

しかし、その日に聴いた印象はまったく桁外れで、チェンバロの音がまさに光り輝かんばかりにきらきらと広い店内(総合電機店)の音響空間を舞っていた。

このスピーカーの周波数帯域はたしか上限が1万6千ヘルツだったと記憶していたので、けっして高域方向に欲張ってはいないのに「こんな得(え)も言われぬ響きがどうして出るのか」と心底から驚いたことだった。


(記憶とは時間の経過とともに次第に美化されるものなのだろうか。今でもその時の音を思い出すと胸が震えるのである!)

とにかく従来の(この店で)聴き慣れた音とはまったく違っていたので、当然のごとく駆動するアンプを代えているはずだと推察した。

いったい何を使っているんだろうと、興味津々で接続先を調べてみると当時、評判だったパイオニアの「ExclusiveM5(モノ×2台)」だった。

クラスA方式で、このA方式とは生半可な知識で恐縮だが、出力素子はトランジスターでありながら真空管の音を出すという触れ込みだったと記憶している。


とにかくアンプが変わるだけで、こんなに音は良くなるのか、そして「M5」は凄いアンプだとこの時に頭にしっかりとインプットした。

同時に当時、オーディオ御三家と言われていた「パイオニア、トリオ、サンスイ」の中でパイオニアの実力に大いに括目した。とりわけ高級品の分野ではまさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」とでもいうべき存在感を誇っていた。

そして、爾来、40年このかた、このM5が頭の片隅にずっと存在していて、オークションなどでもちょくちょく見かけるたびに「隙あらば」と意気込むのだが、価格が折り合わず、それに真空管アンプも幾つも持っているので「まあ、急ぐこともあるまい」とつい買いそびれてきた。

そして、このほどまたもや発見。M5ではないが、それに次ぐ存在だったM4がオークションに登場。すぐに「ウォッチリスト」に登録して追跡することにした。

             

解説を読んでみると、1974年当時で定価35万円、出力30Wで中古品ながら程度は極上。もちろんクラスAタイプでステレオ方式なので1台のみ。

毎日、少なくとも1度は「ウォッチリスト」を眺めつつ、とうとう落札当日になってしまった。

夕方現在で入札件数36件、価格は3万3千円。まるっきり手が出ない価格ではないが、こういう素性がいい機器は落札寸前になって叩き合いになることが多い。


興味深いことに「出品者への質問」で「修理履歴はありますでしょうか」に対して「分かりません」と出品者からの回答がなされていた。

この出品者は個人ではなく、中古専門のリサイクルセンターなので、おそらく個別の商品の念入りなケアまでに手が回らないのだろうが、こんなに昔の製品をオークションに出すからには出来ることなら修理履歴を確認しておいてほしいなあ。

(修理履歴が)有っても無くても入札参加者にとっては選択のしようがないが、その事実だけははっきりし伝えてもらうと随分助かる。

とはいえ、それはこちらの勝手な言い分で、そういう確認をしていないからこそオークションで「1円スタート」なのだろうが。


これまでの経験から言わせてもらえれば、こういう30年以上も前の製品は修理履歴があった方が断然いい。なぜなら修理の都度、不具合となった部品を交換しながら全体的なメンテをしている可能性が高いから。

そういうわけで、入札しようか、しまいか、ここは思案のしどころだが、難点が四つほどある。


一つは消費電力が320Wもあること。ちょっとこの省エネの時代に逆行しているのが気がかり。

二点目はAクラスにつきものの(アンプ内蔵の)空冷ファンの音が家庭内でどのくらいのノイズになるのか気になること。

三点目は故障したときに、部品の補充を含めてまだ修理先があるかどうか。

そして最後に「夢=ロマン」が「現実」に堕ちてしまうことへの恐れ。誰しも初恋の人がお婆ちゃんになった姿を見たくないだろう(笑)。

というわけで、結局「思い切り」がつかなかったが、最終的な落札価格は65,000円だった。

ウ~ン・・・。ま、いっか(笑)

最後に読者の皆様へ呼びかけです。

「初恋の音」への原稿募集です。応募していただきましたら投稿(匿名可)させていただきます。メールのあて先は「smcgr544@ybb.ne.jp」です。


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コロナ禍に伴う明と暗

2020年07月25日 | 独り言

暑くなったらどうせ下火になるだろうと思っていた「新型コロナ」だが、なかなかどうして一向に衰えを見せそうにないどころか、以前にも増した勢いになりつつあるようだ。

ほんとうに困ったことです。中には「大なり、小なり」人生の歯車が狂った人がきっといるに違いない。

我が家でも「小なり」の部類に属するとはいえ「コロナ禍」により明と暗に分かれる出来事があったので記してみよう。

今回はいつも以上に私的な部分が色濃く出ているので興味のない方はどうか読み飛ばしてください。

まずは「暗」から。

✰ クラウンから軽自動車へ

我が家には会社員の妻の専用車として「C-HR」、自分用のクルマとして3代前の旧い「クラウン」の2台がある。



ところが、3月以降「コロナ禍」によって妻が自宅待機となってしまったものだから、そうなると日常的に乗り回すクルマは必然的に燃費のいいハイブリッド車の「C-HR」になってしまった。

そして、2か月弱経った頃に久しぶりにクラウンのエンジンをかけたところウンともスンとも言わない。バッテリー上がりである。

懇意にしているディーラーのセールス担当に電話して新品のバッテリーを持ってきてもらって接続し、事なきを得たが、(バッテリーを)1年ほど前に購入したばかりなのにこんなにもろいとは夢にも思わなかった。

一度バッテリーが上がると、クセが付いてしまうようでその後不安定動作を繰り返してどうにも心もとない。

そこで妻と相談したうえ、クラウンも古いことだしと買い替えることにした。



クラウンを下取りに出し軽自動車を購入して妻専用とし、自分が「C-HR」に乗ることでどうにか一件落着。

やれやれ、「コロナ禍」のせいで実に余計な出費となってしまった。とはいってもお金を出すのは妻だが(笑)。

以上が経済的な「暗」だが、今度は健康的な「明」について述べてみよう。

✰ 坂道ウォーキングの効用

忘れもしない、行きつけの運動ジムが「コロナ禍」によって閉館したのは3月5日だった。日常的に血糖値が高い患者にとって運動は絶対に欠かせない療法だ。

仕方がないので近くの山道を毎日ひたすら歩くことにして4か月半経った。行程は全体で50分ほどで前半の30分は緩やかな下り坂となり、後半の20分はかなり急峻な上り坂となる。

8年ほど前に狭心症により心臓にステントを入れているせいか、それこそ初めのうちは息も絶え絶えで足取りも重くまるで這いつくばるようにして坂道を登ったものだが、2か月ほど経つと人並みとはいかないまでもどうやら足取りも軽くなり、時間にして2分ほど短縮できるようになったし、帰宅したときの冷たいビールが最高に旨くなったのはありがたい!(笑)

そして、何よりの朗報は血糖値が大幅に下がったことだった。

2か月に1度のペースでかかりつけのクリニックで血糖値を測定してもらっているが、6月末の測定では何と「HBA1C」が7%(正常値は6%以下)へと大幅に下がっていた。これは明らかに「坂道」ウォーキングの効用としか言いようがない。

あれほど(血糖値を)下げるのに苦労していたのに、「灯台下暗し」で解答は実に身近なところに潜んでいたことになる。

かかりつけの医師によると、定番のように「せめて6%台にしましょうねえ」と繰り返すばかりだが、別の
医師の情報によると「HBA1Cは7~8%前後が一番長生きするみたいですよ」とのことで、あまり神経質になる必要は無さそうだ。

そもそも医師が処方する薬は鵜呑みにすることなく、むしろなるべく飲まないようにしている。

現在は3種類ほどの薬をもらっているが、唯一無二の存在である大切な「すい臓」様に「さあ、インシュリンを出せ!」と、まるで強盗まがいに年から年中強制すると疲弊してしまうのが怖いので、1日おきにそれも半分程度の薬しか服用していない。

それでいて、こんなに劇的に血糖値が降下するのだから薬はあまり当てにならないことの証左ですね。

結局、血糖値降下療法は「食事と運動」に尽きるし、繰り返すようだが「坂道」ウォーキングの効用はさらに測り知れないものがあるようですよ。

もちろん平地のウォーキングもいいのだろうが、もし顕著な効果が見られない方はぜひ坂道にゆっくりトライしてみてください。もちろん心臓麻痺を起こさない程度にね(笑)。

以上、「コロナ禍」に伴う「明」と「暗」について述べてみたが、差し引き勘定となると圧倒的に健康面のプラスの方が大きいといえる。

何しろ「お金は天下の回りもの」だからなんとかなるが、健康はお金では買えない。

今回は「禍転じて福となる」で、「コロナ禍」によって否応なく気付かされた得難い体験でした。



最後に、昨日(24日)のことだがウォーキングコースの途上にある別府随一の温泉郷である「鉄輪」(かんなわ)旅館街の駐車場に「品川」ナンバーの外車が止まっていた。

思わずギョッとなって反射的に胸ポケットのマスクに手がいってしまった(笑)。

他の県外ナンバーの車も結構見受けられたので、政府の「Go To キャンペーン」はかなり功を奏しているみたいですね。

それはいいとして、どうかこれ以上新型コロナが蔓延しませんように~。

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予想外の活躍をするアンプ

2020年07月23日 | オーディオ談義

けっして自慢するつもりはないが、現在我が家にはプリアンプが4台、パワーアンプが8台ある。

いずれも真空管式だが「なぜそんなに要るんだ?」という問いに対して、いつも用意している答えは一つ。

「オーディオ機器は独自の性能もさることながら、他の機器との組み合わせ次第で欠点を補い合ったり、長所を伸ばし合ったりするのでその相性を探るのもオーディオの愉しみの一つです。

たとえば安物の機器が使い方や組み合わせ次第で高級機に匹敵する存在になれば天にも昇る心地になれますよ」

というわけで、今回はコスパが良くて予想外の活躍をしているアンプを紹介しよう。

とはいえ、我が家には大枚のお金を突っ込んだものの「イマイチだなあ」と首を傾げざるを得ないアンプがあることもこれまた事実である。

つまり、オーディオは人生ドラマのようなもので「悲喜こもごも」ということに尽きますね(笑)。



このアンプを手に入れた経緯について述べてみよう。

そもそものきっかけはウェストミンスターのネットワークがあまりにもお粗末だったことに尽きる。(もちろんタンノイ側としてはそれも音づくりの一環だったのだろうが・・)

不満が溜まる一方で悶々としていたので、とうとうこらえ切れずに思い切って取り外し、知り合いにその代用として真空管式チャンデバの「2ウェイ仕様」を製作していただいたものの、そのうち「クロス1000ヘルツ」に飽き足らなくなって、程なくお蔵入り~。

そのうち、オークションで名門「TRIAD」(アメリカ)のプッシュプル用の小型出力トランスが信じられないほどの安いお値段で出ていたので使う当てもなかったのに落札。

そのうち、このトランスを有効活用したくなって「このチャンデバ機器をパワーアンプに改造できませんか」と、アンプ製作歴が40年以上にもなる「K」さん(大分市内)に、直接持参してお願いしたところ、「ああ、何とかなりそうですよ」と一つ返事。さすがはベテランのアンプ・ビルダーさん!

そして、1週間ほどで仕上がったのがこのアンプというわけ。

つまり、目的は「TRIADの出力トランスをどうしても使いたい」の一念だった。

アンプの球の構成だが、前段管は「6SL7仕様」なのでSTC(ロンドン・ウェスタン)の「ECC35=CV569」を使い、出力管は「6SN7仕様」なので「レイセオン」(アメリカ)を使い、整流管はムラードの「GZ32」と、一応名の知れたところを総動員した。

ただし、使っている球がミニチュア管に毛の生えたような「GT管」だけあって、出力もせいぜい1ワット前後だし、やや倍音成分の響きに乏しいきらいがあるので中高音域にはイマイチだが、不思議とローエンドはよく伸びるのが特徴。

「このパワーでどうして?」と信じられないほどの低音が、クリップせずに出るのだからたまらない(笑)。おそらくTRIADの出力トランスが利いている可能性が高い。

このところの我が家のオーディオ・スタイルは、以前は「フルレンジ+ツィーター」だったが、最近はフルレンジをメインにして「低音」と「高音」を付け足す方式に変遷している。

したがって、「低音域」用と「フルレンジ+ツィーター」用の2台のアンプで駆動しているので、専ら「低音域専用」として活用しているのがこの「6SN7」アンプだ。

その低音域についてだが、コイル(ムンドルフ)「8.2mh(ミリヘンリー)」を使い4系統のすべてのウーファーに300ヘルツ以下(-6db/oct)を受け持たせている。

ちなみに、「クロス300ヘルツ(-6db/oct)」の意味だが、ご存知のように「oct=1オクターブ」の場合、周波数「300~600ヘルツ」の間に「6db」減衰するという意味である。

市販のネットワークは、コイルとコンデンサーを組み合わせて「-12db/oct」が圧倒的に多いが、コイル一発を使ったシンプルな「-6db」も捨て難い味があると勝手に思っている。

4系統の低音域のユニットはそれぞれウェストミンスター内蔵の「スーパー12」(ワーフェデール:赤帯マグネット)を始め、「トライアクショム」、「リチャード・アレン」、「LE8T」(JBL)になっている。

何しろ予備球は山ほどあるし、「WE300B」や「PX25」などの高価な出力管に比べて消耗を気にせずに使えるのでストレス・フリーなのも大いに気に入っている。

オーディオ機器の中でも、真空管アンプの場合はどこでどう転ぶか分からないのでうかつに手放せませんね~。

と、ここまで書き記したところでふと思いついた。



出力管の「6SN7」を、ソケット・アダプターを使って「E80CC」(ドイツ:ヴァルボ)に差し換えてみた。

増幅率(μ=ミュー)は「6SN7」が「20」で「E80CC」はその2倍の「40」だ。

はたして結果やいかにと興味津々だったが、スッキリ爽やかすぎて低音向きと
してはアウトだったが、フルレンジ用としてはいけそうな気がするので、このアンプの新たな使い道が開けそうだ。

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音楽界のバッハ=文学界のドストエフスキー

2020年07月21日 | 音楽談義

先日投稿した「五味康祐」さんのクラシックベスト20」だが、バッハの作品がやたらに多かったことにお気づきだろうか。

たとえば「平均率クラヴィーア曲集」をはじめ「無伴奏チェロソナタ」「3つのピアノのためのコンツェルト」「パルティータ」などがそうで、しかも大半が上位に食い込んでいる。

実を言うと、クラシック歴およそ50年になろうかというのにバッハの音楽にはいまだに馴染めないままでいる。モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスッと胸に入ってくるのに、バッハだけは手こずっているというか、もう縁がないと諦めの境地に入っている。

自分だけかもしれないがバッハの音楽には同じクラシックの中でも孤高というのか、ひときわ高い山を感じる。したがって「バッハが好きです」という音楽愛好家には始めから一目も二目も置いてしまう(笑)。

こう書いてきて何の脈絡もなしにふっと思ったのが、「バッハ」と「ドストエフスキー」は似たような存在ではなかろうか。

ドストエフスキーの文学も容易に人を寄せ付けない。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」などやたらに長編だし、とっかかるだけでも億劫さが先に立つ。

「音楽界のバッハ=文学界のドストエフスキー」。

両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに、後世に与えた影響も測り知れない。

バッハは周知のとおり「音楽の父」と称されているし、ドストエフスキーに至っては「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(加賀乙彦氏)と称されているほどだし、「世の中には二種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことのない人です。」と、宣うたのは村上春樹さんだ。

ただし、ドストエフスキーはその気になれば何とか付いていけそうな気もするが、バッハだけはどうも苦手意識が先に立つ。つまり「線香臭い」のがそもそも嫌!(笑)。


こういう”ややっこしい”バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。

                

著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。

本書の第9章
「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。

以下、要約。

 モーツァルトのダンディズム

バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。

問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。

※ 私見だが、モーツァルトの音楽にはひとしきり悲しげでシリアスな旋律が続いたと思ったら突然転調して軽快な音楽に変化することが度々あって、たしかエッセイイストにしてピアニストの「青柳いずみ子」さんだったか「な~んちゃって音楽」と言ってたのを思い出す。ただしオペラは例外。

 神と対峙するバッハ

バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。

モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。

以上、「ごもっとも」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に”タフ”な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。

道理で、両者ともに自分のような”ヤワ”な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得させられてしまう(笑)。

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右チャンネルから音が出ない!

2020年07月19日 | オーディオ談義

およそ1か月ほど前のことだったが、近所付き合いが縁で「今年の暑さ対策」(6月23日付)に登場していただいたエアコン・クリーニング業のTさん。

昔は他県で手広く「電気業」をされていたそうで、とても器用な方とお見受けし、この際とばかりエアコンの掃除以外にも倉庫の照明設置やスピーカーのサランネットをお願いしていたところ、このほど完成して持ってきていただいた。



「AXIOM80」(初期版)+リチャードアレンのユニットが入っていたボックスだったが、これで見た目が裸のときよりも随分ソフトになった感じ。

実を言うと、音さえ良ければ”見てくれ”なんてどうでもいいという「実利派タイプ」を自認しているが、読者の中には我が家のオーディオ風景を見て眉を顰める向きがきっとあるに違いないと踏んでいる。

そういえばどなたかのブログで「とても音楽を聴く雰囲気ではない」と酷評されたことを思い出した(笑)。

別段気にしていなかったが、こうしてサランネットを頼んだところを見るとやはり頭の片隅に残っていたのかな~。

Tさんから「材料代だけでいいですよ」のご返答にありがたくご厚意に甘えることにした(笑)。

さらに、見てくれ以上に効果があったのが肝心の「音」で、これまで時折り「AXIOM80」独特の神経質でやや尖った高音域に悩まされていたが、サランネットのマスク効果によって随分とまろやかになったのには驚いた。

音の鮮度を重視する人にはサランネットは不向きかもしれないが、それもユニットのクセ次第で「AXIOM80」にはマッチしているように思えてきた。

なお、Tさんご夫婦は片手間にカラオケ喫茶を経営されているとかで、音楽にも興味がおありのご様子、当日はわざわざCDを持参してこられて「聴かせていただけませんか?」



「原信夫とシャープス&フラッツ」だった。

我が家とは畑違いのCDだが「音楽に貴賤はなし」と心得べし(笑)。

いつものとおり各機器のスイッチをオンして、いざ耳を澄ますと何と右側のチャンネルから音が出ない。まずはケーブルの接触不良、次にパワーアンプの真空管の故障を疑い、順次確認しても異常なし。おかしいなあ・・・。

よりによってお客さんが見えたときにトラブル発生なんてついてない!

急遽、別系統に繋ぎ変えて当座を凌いだものの、気になって仕方がないのでお帰りになった後でさっそく点検。

ケーブルやパワーアンプの真空管が原因ではないとすると、焦点が絞られてきてDAコンバーターかプリアンプの異常しかない。

前者の故障ともなると、まずは万円単位の高いものにつくのでメチャ困る~。

日頃、「ピンチはチャンス」とか、故障は改善のきっかけになるので「ウェルカム・トラブル」とか、強がりを言っているものの、ホンネはやはり故障が無いに越したことはない(笑)。

そこで、まずDAコンバーターからのRCAケーブルを別のプリアンプに繋ぎ変えてみるとちゃんと右チャンネルから音が出たのでひと安心。

結局、プリアンプの故障だと分かった。

覚悟を決めて、天板を外し真空管「12AU7×4本」を点検すると、そのうちの右チャンネル用の1本がご覧のとおりゲッターが抜けて真っ白になっていた。



ムラード(英国)製の「M8136」(12AU7の高信頼管)だが、どうやら空気が入ったとみえる。スイッチ・オン時の不測の事故としか言いようがない。

ありきたりの「12AU7」ならともかく「ムラード」製なのでガックリ。

予備が無いので仕方なく東芝製の「12AU7A」を挿し込んで試聴してみたところ、幸いなことに左右の音色の違いが判らなかった。

どうやら歳を取るにつれ便利のいい耳になったらしい。喜んでいいのか、悲しんでいいのか迷ってしまう~(笑)。

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五味康祐さんのクラシック・ベスト20

2020年07月17日 | 音楽談義

このブログにたびたび登場している「芥川賞作家」でもあり「音楽評論家」でもある「五味康祐」(1921~1980)さん。

クラシック音楽への造詣の深さは著作「西方の音」「天の声」などで詳らかにされているが、没後40年を経てもそのレベルに追いつき追い越せる評論家は居ないと思っている。

その五味さんが秘かに遺されていたという個人的な「クラシック・ベスト20」をネットで見かけた。


1位
 モーツァルト「魔笛」(カラヤン)  2位 ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(アンセルメ) 3位 バッハ「平均律クラヴィーア曲集(ランドフスカ) 4位 「空欄」 5位 バッハ「無伴奏チェロソナタ第1番、2番」(カザルス) 6位 「空欄」

7位 バッハ「三つのピアノのためのコンチェルト」(カサドジュ) 8位 ヴィオッティ「ヴィオリン協奏曲」(ペーター・レヴァー) 9位 フォーレ「ノクターン6番」(エンマ・ボワネ) 10位 モーツァルト「フィガロの結婚」(カラヤン) 

11位 バッハ「ゴールドベルク変奏曲」(ランドフスカ) 12位 ミヨー「子どもと母のカンタータ」(ミヨー) 13位 「空欄」 14位 ベートーヴェン「ピアノソナタ第30番 作品109」(バックハウス) 15位 バッハ「パルティータ」(ランドフスカ) 16位 モーツァルト「弦楽四重奏曲第19番“不協和音”、17番“狩”(クロル四重奏団)

17位 ハイドン「弦楽四重奏曲第77番“皇帝”」(クロル四重奏団) 18位 ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」(バックハウス) 19位 ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(フランチェスカッティ) 20位 シベリウス「ヴィオリン協奏曲ニ短調」(カミラ・ウィックス)

以上のとおりだが、ご覧のとおり基本的には「バッハ」「ベートーヴェン」「モーツァルト」の作品で埋め尽くされている。

1位のオペラ「魔笛」は2時間半もの長大なオペラだが、全編を通奏低音のように流れている「涙が追い付かない”もの悲しさ”」、「澄み切った青空のような透明感」が感じ取れれば「病膏肓に入る」こと請け合い。

「曲はどこまでも明るく、軽やかで、透明感に満ち、敢えて恥ずかしげもなく言えば、もはや天上の音楽と呼びたくなるほどである」(百田尚樹)

五味さんが1位に推したことも頷けるし、魔笛に溺れて40年あまり、とうとう50セットに届こうかという収集癖に及んだこの自分が言うのだから間違いなし(笑)。

ただ、2位の「ペレアスとメリザンド」、9位の「フォーレのノクターン6番」、12位の「子供と母のカンタータ」は残念なことにこれまで聴いたことがない。

さっそく「オンライン」で注文した。

まず「ペレアスとメリザンド」は新旧2枚の指揮者によるもので「アンセルメ」と「ハイティンク」、フォーレのノクターン6番は「ハイドシェックの演奏」、ただし惜しいことに「子どもと母のカンタータ」はとうとう見つからなかった。

日を置かずしてこれら3組のCDが到着した。


           

さっそく、はじめにフォーレの「ノクターン6番」を聴いてみた。「ハイドシェック」(フランス)はあまり好みのピアニストではないが、検索してもこれだけしかなかったので仕方がない。

なかなか“しっとり”とした趣があって、いかにも玄人好みの曲だというのが第一印象。五味さんは対面する相手の印象を曲目のイメージで結びつけるのが習慣だったが、この曲目の一音、一音の響きが誰かの面影をなぞっていくのに適した曲風のような気がした。

こんなことを書いてもチンプンカンプンだと思うので、もっと分かりやすいように五味さんの著作「西方の音」の一節を引用させてもらおう。(14頁)

「対人関係で誰かに初めて会ったとき、彼(もしくは彼女)に似かよった音楽が不意に、彼の方から鳴り出してくることがある。私の人間評価はその鳴ってきた音楽で決定的なものとなる。

たとえば或る男にあった。彼はファリアの三角帽子を鳴らしてきた。こんな程度の男なのか、と思うようなものだ。概して男性はまだいいが、女性となると、かりそめごとで済まない。

直感はあやまたない、誤るのは判断だとゲーテは言ったが、当てにならない。一人の未知な女性が、目を見交わしたときフランクのヴァイオリン・ソナタを鳴らしてきたために、私はどれほど惨めになったことか。」

というわけで、この曲目が9位に位置付けられている理由とは当時、思い入れのあった女性との記憶が(この曲目と)いわく言い難く結びついているに違いない。

まあ、人がずっと記憶の中に留めておく曲目とはおおかたそんなところだろう。たとえて言えば青春時代にデートしていたときにたまたま鳴っていたり夢中になっていた曲がずっと思い出として残っていたりする。

それは非常に個人的な領域に属するものなので余人が立ち入る隙間がなく、自分だって「ピアノ・ソナタ32番」(ベートーヴェン作品111)を聴くたびにある面影が浮かんでくる。おっと、これは誰かさんには内緒の話(笑)。

結局、そういうわけでフォーレのノクターンをひとしきり聴いてみた結果だが、五味さんご推薦の「6番」にはさほど興を覚えず自分の好みは「2番」だった。

次に、第2位のドビュッシーの唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」だが、聴いてみたところいったいこんな曲目のどこがいいんだろうというのが第一印象(笑)。

出演者が全編を通じてボソボソとしたつぶやきのような科白が延々と続いていく。何ら盛り上がりもなく、さらには美しい旋律や快適なリズム感を望むべくもなく徒に退屈感を覚えるばかり。

たしか「西方の音」に「ペレアスとメリザンド」について書かれた評論があったはずだがと、改めて紐解いてみたら五味さんの「失恋の思い出」と分かち難く結びついた曲目だったことが判明した。

結局、フォーレのノクターンと同じパターンですね。

個人の独自の思い出がいっぱい詰まった曲目の良さを、まったく赤の他人が聴いても好きになれるはずがないよなあと、きっぱり納得(笑)。

最後に、我がクラシック・ベスト10を披露させていただいて終わりとしよう。

1位 「魔笛」(ハイティンク指揮) 2位 「ブラームスのヴァイオリン協奏曲」(ヌヴー) 3位「ピアノソナタ32番」(バックハウス) 4位 「ヴァイオリンとビオラのための協奏交響曲K364」(五島みどり・今井信子)

5位 「ドビュッシーのピアノ曲集」(ベロフ) 6位 「シベリウスのヴァイオリン協奏曲」(アッカルド) 7位 「交響曲第6番 田園」(ワルター指揮) 8位 「大地の歌」(クレンペラー指揮) 9位 「オペラ ドン・ジョバンニ」(フルトヴェングラー指揮) 10位 「ディヴェルティメントK136」(コープマン指揮)

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オーディオ4兄弟の行く末~次男坊の豹変~

2020年07月15日 | オーディオ談義

「オーディオ4兄弟~家貧しくして孝子出(い)ず~」からの続きです。

我が家の「オーディオ4兄弟」のうち、一番可能性を秘めているのが既に紹介したように次男坊だ。



同軸3ウェイユニットの「トライアクショム」と「AXIOM80」(復刻版)という同じグッドマン同士のユニットをクロスオーバー「300ヘルツ」で組みわせた変則的な2ウェイをこの1か月ほど愉しんできたのだが、試聴中にチラッと「何だかもっと冴えわたった高音域が欲しいなあ」と思ったのが運の尽きだった(笑)。

お誂え向きに我が家にはJBLの「075ツィーター」が眠っている。重量級の削り出しステンレス・ホーン付きだが、このホーンがメチャ高価だった。

何しろ「AXIOM80」(初期版)並みのお値段なのでこのまま遊ばせておくのは”もったいない限り”とずっと気になっていた。要するに”みみっちい”ということですな(笑)。

この「075」を何とか復活させたいものだがと、無い知恵を絞ったのが今回の組み合わせだった。



ご覧のとおり3ウェイである。

ただし、この3ウェイは持ち主と同じように少々変わっている(笑)。

スコーカーに当たるグッドマンの楕円形ユニットをフルレンジとして鳴らすことに大きな特徴がある。ローカット用の(必要悪の)コンデンサーを使わないで済むメリットはマイナス面を補って余りある。

そして低音域と高音域は付録として継ぎ足す感じ。

低音域用の「トライアクショム」はコイルを使って300ヘルツ以下(-6db/oct)でハイカット、ツィーターの「075」もウェスタンのオイルコンデンサー(1μF)でローカットする。

この状態でプリアンプの2系統出力を使ってパワーアンプ2台で低音域とフルレンジに分けて駆動するわけだが、音楽ソースに応じて低音域部分を自由自在に調整できるし、ハーモニーも音色にも不自然感が無いので大いに気に入っている。

問題はどのアンプを使用するかで、この選択次第で音質はいかようにも変化する。

低音域用のアンプは「6A3シングル」か「PX25シングル」か大いに迷ったが今回は「6A3」の元気の良さを採用した。



もともと「WE300B仕様」になっているのだが、「このアンプの動作の範囲内に限っては6A3でも使えますよ」と「北国の真空管博士」からご推薦をいただいたもの。

古典管ともなると総じてアメリカ球よりもヨーロッパ球の方がツクリがいいそうだが「アメリカ球ではレイセオン、ウェスタン、カードン、そしてシルヴァニアの初期ブランドはとてもツクリがいいですね。6A3にきちんと所定のプレート電圧をかけてやったらWE300Bの刻印物に引けを取りませんよ」とは、博士の弁である。

現在手持ちの6A3(刻印)
そのシルヴァニアの初期もので新品同様を博士から2ペア譲ってもらった。これだけあれば命尽きるまで十分、こうして”おおらか”に記載できようというものだ(笑)。

以前は低音域の薄さがやや気になっていたのだが、このところ、むしろ”へたった”年代物の300Bよりもいいとさえ思えてきたのはうれしい限り。プリアンプを変えたせいかな・・。

そして次は中高音域用のアンプ。



「71Aシングル」の左が1号機、右が2号機だが、違うのは一番左側の前段管だけで他はインターステージトランスから出力トランスまですべて一緒である。

両者とも出力が1ワット前後なので低音域の押し出し感は望むべくもないが、中高音域専用にはもってこいなのでメチャ重宝している。

1号機の前段管は「A411」(独ヴァルボ:バリウム昇華型フィラメント)、2号機は「AC/HL」(英国マツダ:傍熱管)で、いずれも甲乙つけ難しの出来栄え。

強いて言えば「μ(ミュー=増幅度)」の違いで、「A411」は「20」前後、「AC/HL)は「30」前後なので、周波数レンジは2号機の方が広い。ただし、音の密度は1号機に軍配が上がる。

今回は「075ツィーター」の出番とあって高音域のレンジに腐心したので2号機の出番とした。

さあ、いよいよ試聴である。

オーディオは「フルレンジ→2ウェイ→3ウェイ」とユニットが増えるごとにハーモニーが難しくなるので、ここは最初からあっさり他人の耳を借りたほうが得策。

11日(土)の午後、小雨の中を近くにお住いの「Y」さんに来ていただいて試聴会を行った。

一聴するなり「いかにもグッドマンらしい澄んだ音が出てますね。075も大いに貢献してますよ」と感心されることしきりだった。どうやらうまくいった様子。

何やかや言ってみても、オーディオは「音の透明感が1丁目1番地」と思っているので、これは最高に勇気づけられる言葉ですね。

しばらく、この方式で試聴してみるとしよう。

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サマセット・モームの短編小説「雨」(再)

2020年07月13日 | 復刻シリーズ

梅雨の末期を迎え、九州地方は連日の豪雨はどうにか収まったものの曇天の中を小雨が降り続いている。鬱陶しい限りだが、こうも降り続くとつい短編小説「雨」(サマセット・モーム著)を思い出す。

ブログに投稿したのはずっと昔の話だが、既に忘却の彼方にある方が大半だろうから以下のとおり再掲させていただこう。


一昨日の夕食中のことだが、「男の人って、お酒を飲むと気が狂ったみたいになるのねえ」と、家内がテレビを観ながらつぶやいた。

NHKのアナウンサーで、土日の休日に朝のニュース・キャスターを務めている「〇〇」さんが、友人と飲酒後に満員電車の中で女性のオッパイを11分間にわたって触り続けていたというニュースにはほんとうに驚いた。ヘェーッ、あの謹厳実直そうな人がねえ・・。

本人は当時の状況をまったく覚えていないそうで、真相はやぶの中だろうが、周囲に証人もいることだし限りなくクロに近いだろうと推測される。

長いこと社会生活をやってると、酒のうえの過ちは大なり小なり誰にでもあるものだが、痴漢行為となると話は別で、けっして許されることではないものの、つい「お気の毒~」と思ってしまった。

もちろん、被害者の心理を逆なでするつもりは毛頭ないが、およそ酩酊した状態で身辺に強烈な(?)誘惑が存在すれば”魔がさす”ということはままありそうなことで、それが人間であることの証明みたいな気もするところ。

この事例は、つい日頃の「理性」がおろそかになって「本能」に負けたという事例だが、その間に酒が介入しているだけまだ救われる面がある。

一方では、酒などのいっさいの媒体なしに(強いて言えば「雨」かな)人間の「理性」があっさり「本能」に負けてしまうという罪深い小説がある。

それはサマセット・モームの短編小説「雨」である。

20代前半のまだ初心(うぶ)な頃に一読したところ、衝撃のあまりしばし呆然となった記憶がある。

いくらフィクションの世界とはいえ、この作品は短編小説の分野では古今東西、ベストテン級の名作とされているので、人間の本質について深く考えさせる何かがあるのだろう。

既に読まれた方も多いと思うがネットで探してみたところ、どなたかのブログに適切な”あらすじ”が記載されていたので勝手ながら引用させていただいた。

舞台は南洋のサモア諸島である。熱烈な信仰者デイヴィドソン牧師は妻と共に任地へ向かう途中、伝染病検疫のため島に停留することになる。

医者のマクフェイル夫妻、そして見るからに自堕落な娼婦、ミス・トムソンも一緒だった。島は折から雨期、太鼓でも鳴らすように激しく屋根にたたきつけ、滝のように視界を奪うスコールが連日続いていた。

デイヴィドソンはミス・トムソンが我慢ならなかった。彼女は夜にもお構いなく音楽をがんがん鳴らし、ここでもお客を取る始末。デイヴィドソン夫妻には敵意に満ちたまなざしを投げかける。デイヴィドソンは彼女を「教化」しようと熱意を燃やす。

しかし、あの手この手も通じずデイヴィドソンはついに彼女を強制送還させる措置をとる。

ふてぶてしいトムソンもこれはショックだった。送還されたら監獄が待っているだろう。手のひらを返したようにデイヴィドソンにすり寄ってくる。これ幸いにデイヴィドソンも懸命に彼女の「教化」につとめる。

そして明日は送還されるという夜、デイヴィドソンは彼女の部屋で夜遅くまで彼女と話し合う。そして…。

彼女の部屋を出たデイヴィドソン牧師は夜のうちに浜辺で”喉”を切り自殺する。衝撃のドクター・マクフェイルがトムソンの部屋に入る。変わらず音楽を鳴らしている彼女にマクフェイルは激怒する。

しかし、マクフェイルに、あざけりと激しい憎悪を込め彼女は言った。

男、男がなんだ!豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の狢(むじな)、男はみんな、豚!豚!」。

マクフェイルは思った。「いっさいがはっきりした」。

ミステリー風の終わり方だが、牧師が娼婦の肉体への欲望を抑制できなかったため悔恨のあまり自殺したことはあきらかである。

小説の中では、この結末に至るまでに実に巧妙な伏線が途中に張られていて、牧師が娼婦の教化に邁進している最中、就寝中にネブラスカの山々の夢をよく見る話が出てきて、医者にとってもその山並みには覚えがあり、「その形を見てなんとなく女性の乳房を連想した」ことを思い出す”くだり”が今でも鮮明に記憶に残っている。

結局、神に仕える牧師でさえも本能の前には理性があえなく砕け散ってしまうという人間の弱さ、罪深さを描いた小説だが、いかにも
人間とか権威を皮肉な視点でとらえがちなモームらしい作品である。モームといえば名文家で知られ「人間の絆」「月と六ペンス」などが当時の受験英語でよく出題されていましたね。

さ~て、今日は朝から強い風雨だし「ウォ-キング」などで外に出かけるのも億劫なので、久しぶりにモームの「雨」でも再読してみるかと倉庫に入って探してみたらすぐに見つかった。

               

〇〇さんの件から、つい話が発展してしまったが、人間の脆さがたまたま起こした今回の過ちにどういう償いが価するのか、ちょっと考えさせられた。

それにしても、これから暑くなり冷えたビールなどお酒を飲む機会が増えてくるが深酒したときはくれぐれもご用心、私たちの年輩の方々にはどうか晩節を汚されることがないように!

もちろん、”要らん世話”だが(笑)。
 

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オーディオ4兄弟の行く末~家貧しくして孝子出(い)ず~

2020年07月12日 | オーディオ談義

前回のブログ「コロナ禍のネガティブ思考」の評判がとても良かった。

今年一番のアクセス数だったし、掲載初日から3日目まで勢いが衰えることがなかった。こういうことは極めて珍しい。

どうやら「ネガティブ思考」が世相にうまくマッチしたのかもしれない。

そういうわけで異例のロングラン(?)となったのはいい
としても「オーディオ関連記事」が、このところどうも伸び悩みの傾向にあるのが気になっている。

以前はこのブログの看板だったのになあ~(笑)。

「栄枯盛衰は世の常」といえば身も蓋もない話になるが、内容が飽きられてきたのか、あるいはやや専門的過ぎるのかもしれない・・。

はたして、どのレベルの層にポイントを置いて記述したらいいのか、いまだに「?」である。

さて、今回は久しぶりにその評判があまりよろしくないオーディオの話といこう。

随分と頻度は減ったが、それでも毎日のように我が家の4系統のシステムのどれかをああでもない、こうでもないと弄り回している。

現役を引退した後でも夢中になれる趣味があると、時間を持て余すことがないのは大いに助かる。

その4系統のシステムだが、それぞれ持って生まれた性格が違うので育て方には腐心している積りだが、「家貧しくして孝子出(い)ず」(貧しい家には孝行息子が出てきて親を助ける)、この頃は何だか「貧乏所帯」で4人の可愛い子供を育てているみたいな気がしてきた(笑)。

それでは、ざっと現時点での4兄弟の紹介をしておこう。

<長男> ウェストミンスター(改)



一家の総領としてどんな難敵(音楽ソース)が来てもたじろがずに対応してもらいたいので、万能タイプに育て上げた積りだが、まるで杉の大木のようにまっすぐ伸びてくれた。

自己採点で10点満点として8点ぐらいの段階に達している。これからの進展となると、コスパがたいへんそう。

<次男> グッドマンの2ウェイシステム



4人兄弟の中で一番立ち位置が難しいのが次男だ。存在感をどう発揮させるか・・。今のところ変幻自在のシステムとして固定化させることなく臨機応変に育て上げる積りだが、大化けする可能性もあってむしろ予測不能な点が楽しみ~。

<三男> 「AXIOM80」(初期版)の2ウェイシステム



やや神経質なところがあって周辺環境(機器)に対して舌鋒鋭く文句を言ってくるタイプ。しかし、ツボにハマると天才的な閃きを見せることがあってポテンシャルは非常に高い。はたして自分のような凡人の子供だろうかと慄(おのの)くことが度々ある(笑)。

まだ十分能力を発揮しているとは言い難いので、これからも相性のいい「エンクロージャー」「アンプ」などを模索していきたいものだ。

<四男=末っ子> JBLの2ウェイ「LE8T+175ドライバー」



以前「食い扶持」に困ったときに養子に出そうかと思ったことがあったが、今ではすっかり目の中に入れても痛くないほど可愛い存在になった。

いかにも末っ子らしく「やんちゃ坊主」だけあって向こうっ気が強くて自己主張をよくする。

性格が兄貴たちとはまったく違うので、「僕はほんとうにお父さんの子なの?」と言われることがあって、その都度「少しは毛色の変わった子供が居てもいいんだから安心しなさい」と言い聞かせている(笑)。

そして、以上の4兄弟のうち今回弄った対象は、やっぱり懐が深くて融通の利きやすい<次男>だった。



ご覧のとおり3ウェイに改造してみた。

以下、続く。

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コロナ禍のネガティブ思考

2020年07月09日 | 独り言

つい先日、ネットに明治期の文豪「夏目漱石」の「ネガティブ名言10」という記事を見かけた。

「漱石文学」を一言で表現すれば「ネガティブ思考の塊り」といってもさほど間違いではないだろうし、今の世の中はコロナ禍に伴う世相不安に満ちているのでこういう記事が出てくる背景にも十分頷ける。

これら漱石のネガティブな名言の中で一番強く印象に残ったのがこれ。

「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」(「吾輩は猫である」から)

おそらく、幼い頃に養子に出されるなど恵まれない育ち方を余儀なくされた漱石自身からしてそうだったのだろう。

そうなんですよねえ・・・。

何となく身につまされて、人間って誰にでも弱点や触れられたくない傷があって、そういう悲しみを仕方なく引きずりながら生きていく動物かもしれないと思ったりした。

「幸福というものは、 身体のためには良いものである。 しかし、精神の力を向上させるのは、 幸福ではなく悲しみである。」(マルセル・プルースト)

芸術の役割とは悲しみと向き合ったり、癒すためにあると思っているが、先日のブログ「相互理解のための音楽」(2020.7.1)に記載したように「メルケル」首相(ドイツ)について、政治家にしては珍しく芸術への理解があるとして、大いに持ち上げていたところタイミングよく翌2日付の「日本経済新聞」に次のような記事が載っていた。

タイトルは「メルケル氏が導くコロナ後」。



記事のポイントは「メルケル政権の真髄はその文化政策にある。首相はドイツは文化の国だとし、芸術支援を優先順位リストの最上位に置いていると述べた。」とあり、続いて、コロナ禍の後に新たな世界標準に浮上するのはドイツ流の「社会的市場経済」とあって、たいへんな褒めようである。

メルケルさんはもともとは物理学者で理系女史の典型的な存在だが、芸術支援を優先順位リストの最上位に置くなんてとても素敵なことだと思う。

ドイツは周知のとおりバッハ、ベートーヴェン、モーツァルト(旧ドイツ領)など「クラシック御三家」と称される偉大な作曲家たちを輩出した国である。

さらには、これら先人たちの楽譜を汚すことがないように「ドイツ国家演奏家資格制度」を設け、演奏レベルの維持向上を目指して厳格な運営をしているほどだ。

きっと、国の舵取りをしていくうえで国民の誇りを大切にし、心を一つに束ねることに意を注いでいるに違いない。

さて、そのコロナ禍だが「IT大手に勤務し、東京に単身赴任中の知人」と久しぶりに連絡を取り合ったところ「週1回の出社だけで、あとはすべて自宅でテレワークというスタイルがすっかり定着しましたよ」とのこと。

「毎日が遊びみたいなものでずいぶん楽でしょう」と突っ込みを入れたところ「一軒家ならともかく狭いマンションの一室なので苦痛以外の何ものでもないですよ」との回答が返ってきた。

「それもそうですねえ・・。」

敷衍すると、どうやら昨今の東京のコロナの蔓延には住宅事情が絡んでいるとしか思えない。感染源は夜の街がほとんどだし、大半が若者だというからおそらく地方出身者の場合、狭い4畳半かそこらの一室を借りて住んでいるのだろう。

こんな狭いところに若者を閉じ込めて「じっとしていろ」なんて土台無茶な話なので、これを奇貨として都市の構造的な改革を進めてはどうだろう。

つまり、今回のコロナ禍は都市の一極集中の脆さ、人口の集積化に対する警告であり、第二、第三の疫病の到来に備えて抜本的な列島改造のチャンスである。ピンチはチャンス!

そこで、手始めに考えられるのが「大学の分散化」だ。

オンライン授業などこれだけ「IT化」が進めば何も大都会で教育を受ける必要はない。来たる「5G」「6G」の時代ならなおさらだろう。

したがって国立大学、私立大学を問わず地価が安くて広大な土地が確保できる地方にじゃんじゃん進出するべきだと思う。

それが無理なら部分的移転だけでも実現し、空いた敷地を利用してゆったりとした都市改造を推進すればいい。

また、当座のソフト対策としては若者向きとして出来るだけ自然に親しんだりスポーツに取り組む機会を創るなんてどうかな。

都会の喧騒を離れて、海とか山とか自然環境の下での楽しさを見出させたり、さらには音楽、絵画、彫刻などの趣味を促進させて夜の街への関心を薄くさせることだ。

前述したメルケルさんが試みる芸術支援策の狙いの一つに、その辺が隠されているのかもしれない。

以上、実に短絡的な発想だが何かほかに名案がありますかね?

もし、あればご教示ください。ブログのネタにさせていただきますから(笑)。

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「原音に近づく正しい音」のための7つの指針

2020年07月07日 | オーディオ談義

成功哲学の啓発本としては、カーネギーの名著「人を動かす」がすぐに思い浮かぶが、コヴィー博士によって書かれた「7つの習慣」も有名のようだ。



何しろ40か国以上の言語に翻訳され、全世界で2千万部をこえるベストセラーとなっているほどで、7つの習慣は「人生のOSである」とまで評されているという。

このほど、たまたま図書館で借りる機会があったので、ざっと拾い読みしたところ、この歳になってもなかなか参考になることが多かった。

若いうちに読んで、
その後に「7つの習慣」を拳拳服膺(けんけんふくよう)していたら、今よりももっと「マシな人間」になっていたかもしれないと思わせる節が大いにある(笑)。

以下、要約してみると、

7つの習慣のベースには「インサイド・アウト(内から外へ)という基本的な考え方がある。

つまり、「影響を受けるより影響を与えるという考え方で、人生の扉は、中から開くことしか出来ない。」

この考え方をベースに、成功の鍵を握る「7つの習慣」が示される。これらは単独で独立して存在するものでなく、それぞれが深く関連している。

全体が大きく3つに分類されており、以下7つの習慣のそれぞれの分類と、名称を全て列挙してみよう。

<私的成功>(依存から自立への成長を促す)

第一の習慣:主体的である

第二の習慣:終わりを思い描くことから始める

第三の習慣:最優先事項を優先する

<公的成功>(信頼を元手に人と協力体制を築き、より大きな成果の達成を目指す)

第四の習慣:Win-Winを考える

第五の習慣:まず理解に徹し、そして理解される

第六の習慣:シナジーを創り出す

<再新再生>(すべての習慣を支える己の肉体、精神、知性、社会・情緒を研ぎ澄ます)

第七の習慣:刃を研ぐ

以上、これらが「習慣」とされている理由は、「人格は繰り返す行動の総計である」というアリストテレスの言葉によって示されている。

だから優秀さはひとえに単発的な行動にあらず、習慣なのである。

とまあ、要所をごく簡潔に抜粋してみたものの興味のある方は通読をお薦めします。

もちろん、そんなことにはいっさい興味が無いという方が大半かもしれない(笑)。

そこで、「7つの習慣」に触発されてオーディオの「7つの指針」を考えてみた。

オーディオには「いい音」「好きな音」など、個人ごとに好き勝手放題の世界なので音を形容する言葉はいろいろあるが、「原音に近づく正しい音」こそ正統派オーディオの目指すものとして何方も異論を挟む余地があるまい。

というわけで、「原音」に一歩でも近づくための我が家の(試聴時の)「7つの指針」は次のとおり。

もちろん、自分のような浅学非才の身にとって僭越極まりない話であり、読者に押し付けようとは夢にも思っていないので念のため(笑)。

 ボリュームを上げてもうるさく感じないような音

 音像が左右のスピーカーの後方に定位し自然に消えていく感じの音

 ボリュームを絞っても明瞭度が下がらない音

 スピーカーの近くでも離れても音質、音圧の変化をあまり感じない音。何しろ音は空気の波紋なのだから。

 音は思っているほど迫力、パワー感のあるものではない

 試聴上、歪みが小さくなると音像が下がり、音階、楽器の音色が正しくなる

 長時間聴いても疲れずスピーカーの存在を意識させない音

さらに、これら「7つの指針」に裏打ちされた音の形容としては、


「装置全体の音が澄んでいて透明感と柔らかい雰囲気で満たされ楽器の音色がそのまま素直に表現されているような音。当然、音の立ち上がりが早いうえに奥行き感がある。いわば彫りの深さとでも言うべきか。

さらに、音の消え去っていくときの余韻が音響空間の中で漂うような雰囲気とともに暗闇の中にす~っと溶け込んでいく感じ。」

まさに夢の世界ですね。はっきり言って無理でしょうよ(笑)。

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女流ヴァイオリニスト

2020年07月05日 | 音楽談義

ときどき、”オッ”と気をそそられる写真というのがある。

ずっと以前に契約していたクラシック専門番組「クラシカジャパン」(CS放送)の月刊誌を整理していたら、たまたま視野に入ってきたのが2014年8月号の表紙だった。

                 

裏に「パトリツィア・コパチンスカヤ」とあり1977年モルドヴァ生まれというから、当年とって43歳?

パッと見た瞬間に20歳前後だと思った。残念!(笑)。

初めて聞く名前だが「美しき次世代アーティストたち」とあるから、新進気鋭のヴァイオリストなのだろう。


モルドヴァといえば聞きなれない国名でいったいどこだろうとググってみたら、ルーマニアとウクライナの間に位置する国だった。旧ロシア領というから画像でもおよそお分かりのとおり、さぞや透きとおるような白い肌の持ち主なのだろう。

ピアノと並んで楽器の中で双璧とされるヴァイオリンはその優雅な曲線美から女性が持つと絵になる楽器だと思っていたが、この写真を観て改めてそう思った。

鬱陶しい梅雨の真っ只中、一服の清涼剤として目の保養にされてはいかがでしょう(笑)。

さて、数ある女流ヴァイオリニストのうち「見てくれ」を別にして、いの一番にくるのが「ジネット・ヌヴー」だ。

1950年代前後に活躍したヴァイオリニストだが惜しくも飛行機事故で亡くなった。

五味康祐さんの「西方の音」によると「ジネット・ヌヴーの急逝以来ぼくらは第一級のヴァイオリニストを持たない」(248頁)とある。

彼女の「ブラームスのヴァイオリン協奏曲」(イッセルシュテット指揮:ライブ)は絶品で、録音は悪いが大の愛聴盤としてずっと身近に置いてきた。


         

以前、オーディオ仲間のお宅で聴かせてもらっていたところ、感動のあまり涙が溢れ出て困ったことがあった。人前で涙を流すのはみっともないですねえ(笑)。

もともと大のヴァイオリン好きだがブラームスのヴァイオリン協奏曲は格別で随分と収集したものだった。



現在手元にあるのは、画像上段の左から順にシェリング、オイストラフ、マルツィ(女流)、ハイフェッツ、グリュミオー、ヴィトー(女流)、オークレール(女流)、コーガン、比較的新しいところでムター(女流)、レーピン、ハーン(女流)で次から次に聴きまくったが、結局ヌヴーほどの感動を呼び起こす演奏にはとうとう出会わなかった。

これからどれほどのアーチストが出てこようとも、あの熱狂的な1948年3月5日(於ハンブルク)の運命の一夜の再現は不可能だろう。

何よりも当時と比べて現代では社会におけるクラシック音楽の位置づけが様変わりしている。


聴衆を前にしてその場限りを命として燃え尽きる燃焼型のアーチストが時代とともに消えていくのは実に淋しい限り~。

さて、最後に男性のヴァイオリニストには「男流」という言葉を使わないのに、女性ヴァイオリニストの場合には「女流」という言葉をなぜ使うのかについて、皆様は一考されたことがありますか?

この件について、ずっと以前のブログでご紹介したことがあるので、以下のとおり再掲させてもらおう。

「女流作家」に使われている「流」は稀少ゆえの褒め言葉かと思っていたが全部が全部そうともいえないようだ。一流とか二流とか、社会的評価を示しているとは思えないし、お花やお茶のナントカ流とかの独自性を誇る流派的な意味が女流にあるとも思えない。

これはまた、不思議な使い方の「流」もあるもんであるな、と長いこと思っていた。と、先日、夏目漱石の初期の漢文紀行「木屑録」(ぼくせつろく)を読んでいて、フッと納得するところがあった。

この中で若き日の漱石は「漢学者流」という使い方をしていて、前後の脈絡から明らかに「漢文センセイ」として“冷やかし”ととられる意味のようなのだ。どうやら「流」には冷笑的、軽蔑的な意味が込められているらしい。~中略~

つまり、女流作家とは、その昔は男の世界に土足で踏み入れてきた余計なことをする女の意があったとみるべきなのか。

世は一変して、女ならでは・・・の今の小説の世界。そのうち「男流作家」という言い方が登場するやもしれぬ。

そういえば音楽の世界でも「女流ヴァイオリニスト」「女流ピアニスト」という言い方をするが、「女流作家」と同様に冷やかしの意味があるのかな(笑)。


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第二の「仮想アース」の試聴

2020年07月03日 | オーディオ談義

去る27日(土)、およそ3週間ぶりに近隣にお住いのYさんに連絡をとってみた。ときどき第三者の「耳」を借りることは我が家のオーディオにとって極めて有益なこと。

あまりに率直な「辛口振り」にときどき腹立たしくなることもあるが、メリットの方がはるかに大きいので我慢しなくちゃね(笑)。

「いかがお過ごしですか?久しぶりに聴きに来ませんか」

「ハイ、いいですよ。丁度友人に貸していた自作の仮想アースを回収したところでした。ご参考までに持って行きます。」

「ほう、それは面白そうですね。ぜひお願いします」

第二の「仮想アース」の登場である。

もしかして「仮想アースって何?」という方がいらっしゃるかもしれない。以前に長崎県の方から頂いたメールがとても簡にして要を得ているので再掲させていただこう。

「仮想アースの件でメールさせていただきました。アースラインノイズの吸収効果等があるそうです。オカルトかと思いましたが、廉価で手軽に試せることから、ステンレスタワシ数個で試作したところ、思いのほかの効果がありました。

ガラスケース等にステンレスタワシと銅板の電極を詰め込み、アース線などで機器のシャーシやアース端子に接続するだけです。

現在、DACのUSBアースとパワーアンプのSP端子(マイナス)に接続しています。

ウッドベースが「ボン・ボン」から「グオン・グオン」に、シンバルが「チン・チン」から「シャン・シャン」に化けました。稚拙な表現ですみません。

数千円程度でできますので、チャンデバのGND等に試されてはいかがでしょうか。また、真空管アンプで効果が確認できれば仮想アースの理解が進みます。

これらの一連の仮想アースは、安全アース(地球の地中)作用の代用ではございません。ただ、音質アップを狙った試行錯誤によるアイデア品です。  

測定値、理論などには全く行き届いておりません。純粋に、なぜか音が良くなる的な ”ユニーク発想品” です(それもお使い機材や環境により、必ずのお約束は出来ません)。」

というわけです。

ご好意で作っていただいた「仮想アース」をこの4か月ほど愛用中だが、今回違う仮想アースを試聴できるので思わず胸が弾む。



左が従来の仮想アースで、右側が今回持参していただいたもの。

真空管式プリアンプの空いた入力端子に接続したうえで聴き比べてみたところ想像以上の差があった。

「まるでアンプを換えたみたいです。音の粒立ち、彫りの深さなどがガラッと変わりましたね。こうしてはっきりと効果を表現できるシステムの純度にも驚きました。」とYさん。

「200ボルト電源とリチウム・イオン電池が利いているのかもしれません。それにしてもこれはたいへんな優れものですね。仮想アースがオカルトではないことを立派に証明できました。こんなもので音が激変するんですからやっぱりオーディオは怖いですね!」

「費用 対 効果」からしたら、「仮想アース」は群を抜いていると言えそうだ。

試聴したシステムはウェストミンスター(改)だった。



クラシックからジャズ、ポピュラー、演歌までありとあらゆる音楽ソースを1時間ほど試してみたがその効果は微塵も揺らぐことがなかった。

とうとう「これ譲ってくれませんか。一生に一度のお願いです!」とYさんに向かって恥も外聞もなく頭を下げて両手を合わせる始末(笑)。

「弱りましたねえ。これから一つの機器に一つづつ使おうと思っているんですけど・・・。まあ、しばらく置いておきます」と、困惑されていたが、残念なことに辞去されるまで明確な返答をいただけなかった。

試聴用に持って行ったけど、相手から大いに気に入られてとうとう返してもらえなかったという小咄をちょくちょく聞いたことがあるが、まさか現実問題として自分が加害者側になろうとは夢想だにしなかった(笑)。

心根の優しいYさんのことだから、きっと願いを聞き届けてくれることだろうと思っているが、はたして~。

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