「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・後期弦楽四重奏曲~

2008年03月30日 | 愛聴盤紹介コーナー

前回の愛聴盤紹介コーナーでベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を19種類聴いた結果、生意気にも完成度が物足りないと豪語した自分だが今度は「後期弦楽四重奏曲」(12番~16番)への挑戦。

ベートーヴェン(1770~1827)最晩年の1825年から26年にかけて作曲された後期の弦楽四重奏曲(5曲)については、「巨匠への畏敬の念とともに
正座して聴かねばならない」、「あまりの完成度の高さに手も足も出ない感じで、以降の作曲家たちに作曲する意欲を失わせた」など数々の伝説(?)に彩られている。

ベートーヴェンにとってこの時期はソナタ形式との格闘も既に遠い過去のものとなり、既成概念や因習というものから解き放たれて、
その精神を思うがままに飛翔させることのできる至高の境地に達していた。

しかし、少なくともこれらの曲は一般的な意味で親しめる音楽ではないことはたしかで、周囲のAさんもMさんも、口をそろえて「難しい曲」「楽しめる音楽ではない」と言われる。

一般的なクラシック愛好家にとっても「ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲」をレパートリーにしているのはおそらくほんの一握りの方だけではなかろうか。

自分もレコードとCDを両方持ってはいるが、好きで購入したわけでもなく
五味康祐さんの著作「西方の音~天の声~」の12節の同曲に関する記事に触発されてスメタナ四重奏団の「第14番」をレコードで購入したが、結局(良さが)分からずじまいで1~2回聴いてお蔵入り。

CD盤が発売されると、これまた性懲りもなく同楽団に加えて、ほかにもウィーン・アルバン・ベルク四重奏団の後期全集を手に入れたがこれもあまり手が伸びないまま今日に至っている。

これまでの体験で「どうもこの曲は馴染めないな~」というのが本音であり、したがって何も無理してこういう曲にあえて挑戦することもないのだが、クラシックの鬼といわれる方々は口をそろえてこれらを名曲だと言う。

特に五味さんはベートーヴェンからただ一曲を取るとすれば「第14番嬰ハ短調作品131」とまで極言する。~「西方の音」~

ということで、このまま後期弦楽四重奏曲をやり過ごして生涯を終えてしまうのも何だかシャクである。若い時分と今とでは鑑賞の傾向がどう変わっているかについても自分自身で興味があるところ。

あれからいろんな曲の鑑賞体験や人生経験も積み、それに黄昏どきの年齢にもなったことだし、とりわけオーディオ装置の音も当時とではまるっきり変わっているので好みの曲目の傾向も当然違ってこようというもの。

たとえば、つい最近の事例でいえば
女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーの演奏にこの上なく魅せられるが、これはあえて言わせてもらえれば、ある程度の音楽鑑賞体験と人生経験、それにオーディオ装置の三位一体がそろってはじめて理解できる類の演奏だと思う。

※偶然目に入ったのだが「西方の音」(単行本)248頁に「ジネット・ヌヴーの急逝以来ぼくらは第一級のヴァイオリニストを持たない」とあったが、五味さんの考えが自分と同じだったのがうれしかった。

とにかく、こういう真面目でかた苦しくて聴いても楽しくない敬遠しがちな作品はこうやってブログを利用して自分にプレッシャーをかけながら鑑賞しなければ永遠に俎上には上らない可能性が高い。

さて、能書きはこの辺にして、さっそく試聴に入ろう。ここでは後期弦楽四重奏曲の5曲の中でも取りわけ名品とされる「第14番作品131」「第15番作品132」にしぼってみた。

この四重奏曲の編成は、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとなっている。

自分の現在の手持ちのCDは、

☆1 スメタナ四重奏団 「第14番」  録音:1970年

☆2 ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団 「第14番」「第15番」 録音:1983年

Aさんからお借りしたものが

☆3 バリリ四重奏団 「第15番」 録音:1956年

☆4 ジュリアード弦楽四重奏団 「第14番」「第15番」 録音:1982年

       

     ☆1           ☆2           ☆3            ☆4

≪試聴結果≫

「第14番」について
この作品は途切れることなく続く7つの楽章から出来ていて、ある楽章の終わりが、ごく自然に次の楽章を促すように書かれている。

全体的に形式の自由、精神の自由が一体となった音楽で、以前聴いたときのあの深刻な印象は今回一切感じられず、むしろ
軽妙洒脱という表現がピッタリくると思った。やはり時の移ろいとともに作品への印象も変わっていくものでこれは実にうれしい傾向。

全編を通じて天上にいる仙人が思うがままに音符を操っているという至高の境地が感じとれたが、特に第三楽章(47秒)と第六楽章(1分51秒)のつなぎの役割を果たす楽章が極端に短いにもかかわらず、美しいメロディとともにキラリとひときわ輝く光彩を放っていてこれはもうたまらない躍動感!

しかも、いずれの楽章ともに俗世を突き抜けた不思議な明るさに彩られていながら、それでいてものごとを深く考えさせるものを持っている。

交響曲「第九番」とは違った意味で、この作品はベートーヴェンの「究極の音楽」と呼ぶにふさわしい内容を備えていると思った。

とはいっても、皆が言うようにたしかにしょっちゅう手もとにおいて聴く音楽ではない。俗な表現だが淫することを冷静に拒むある種の高潔さというか覚めたものが内在していて、節目節目に折り目正しく接する音楽といってよいと思う。

さて、そこでどういう状況のときに聴けばいい音楽だろうかと自分自身の場合に置き換えて自問自答してみた。

少なくとも癒し系の音楽ではないことはたしかで、救いを求めたり深刻に悩んでいるときに聴く音楽ではないと思う。

~「人生にゆとりができていろんな悩みから解放され、充実感や幸福感に包まれているときの自分を確認したいとき」~

こういう状態のときに聴くのが一番ピタリと波長が合う気がして、これは何だかベートーヴェンが作曲したときの心境そのままという感じがする。

演奏の方は、この範囲ではウィーン・アルバン・ベルクが一番いいと思った。

ベートーヴェン特有のあの緊張感を漂わせながら微妙なニュアンスと息遣い、第一ヴァイオリンのギュンター・ピヒラー(ウィーン・フィルのコンサートマスター経験者)を始めとして名手ぞろいの4人の呼吸がピッタリと合っている。

ただし、やや「真面目すぎて神経質」の趣もあるので、五味さんが推奨する「神韻ひょうびょうたる幽玄の境地」を奏でる
カペー四重奏団やほかの演奏も一度聴いてみたいもの。

「第15番」について

この作品は14番と違って、非常に暗いオープニングに象徴されるように一転して重々しくなる。全体は五楽章で構成されているが第一、第二楽章ともに難しくとっつきにくいが何回も聴くうちに味が出てくる音楽なのだろう。

救いは第三楽章。全体で41分ほどの内15分を占めている最大の楽章。

「モルト・アダージョ」(とてもゆっくりと)の指示のもとで、この楽章の冒頭には「病から治癒した者の神に対する聖なる感謝の歌」という言葉が記されている。

当時、ベートーヴェンは体調を崩し(腸カタル)、作曲を中断せざるを得ない状態だったが、やっと回復し、創作力を蘇らせたことをきっかけに当初予定のなかったこの楽章を挿入した。

「病の治癒を心から感謝して神に捧げた音楽」とは一体どういうものか、これはとても自分の筆が及ぶところではない敬虔な調べで、機会があれば一度聴いて欲しい音楽とだけいっておこう。

この楽章だけとってみれば癒し系で、身体の病、心の病から治癒したときはもちろんだが、悩みを抱えているときにも慰めてくれる音楽といえる。

ただし、この部分だけ取り出して聴くのはやはり安易の謗りを免れず、全体を通して聴く中で初めて存在価値が出てくる楽章だと思った。

演奏はアルバン・ベルクもバリリも良かった。前者はデジタル録音で音質が鮮明で思わず手を合わせて祈りたくなるような感動に満ちているし、後者はモノラル録音だが、闊達さと力強さがある。

一般向きにはアルバン・ベルクだろうが、バリリもなかなかいいので今度は14番も聴いてみたいと思い、HMVを覗いたところ、あった、あった、何と14番と16番のカップリング!躊躇なくクリックしてカートに入れた。

以上、第14番と第15番(実際の創作は14番が後)を聴き終えたが、自分は14番の方が明らかに全体の完成度が高いと感じた。それぞれの7つの楽章に意味があって、きちんとそれなりの順番の位置に納まっている印象を受ける。

しかし、いずれにしてもやっぱり「ヴァイオリン協奏曲」なんかと比べるとはっきりと峰の高さが違うというのが実感!作曲時期の約20年の差はそのまま作曲家としての成熟度の差になっていると思う。

今からすると約200年前の作品になるわけだが、どのような時代であれ「
人は1回限りの自分自身の人生を生きるしかない、前向きにならないと・・・・」といった哲学的(?)な心境に浸らせてくれる特上ともいえる音楽だった。

                     
           西方の音                 ~天の声~

 


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オーデイオ談義~「オーディオ」は「音楽」に勝てない~

2008年03月28日 | オーディオ談義

3月23日(日)はあいにくと朝からシトシトと降り続く春雨で、どこかに出かける気にもならず読書でもするかと本を開いて読み始めたところ、湯布院のAさんから電話が入った。

「クリプッシュ・ホーンの
ネットワークの部品を変えたところ、音が随分良くなったので聴きに来ませんか」というお誘い。

Aさんからの誘惑(?)にはこれまで期待を裏切られたことがまったくないので「すぐ行きます」と即答して、やや早めの昼食をかきこんで別府~湯布院間の濃霧の中を縫ってAさん宅へ駆けつけた。

さっそくリスニング・ルームに案内されて、入れ替えたというネットワークの部品を拝見。ドイツ製の
「ムンドルフ」というコイル(周波数帯域の上をカットする部品)をみせてもらった。

                          
              ムンドルフ               クリプシュ・ホーン

直流抵抗が0に近いコイルだそうで、見るからにいい音が出そうな風貌と重量感。値段(ペアで4万円前後)もいいが、この程度の価格で音が良くなればまさにオンの字だ。自分も経験があるが、コイルはSP(スピーカー)に直結している部品なので性能次第で音がガラリと変わる。アンプと同等かそれ以上に配慮すべき機器といっていいくらい。

JBLの既製品のネットワークも見せてもらったが、ムンドルフと比べてチャチなもので重さがまるで違う(オーディオは目方だ!)。天下のJBLがネットワークの部品にケチっているのがどうも理解できないが、これはJBLに限らずタンノイにしても同様で総じてメーカー既成のSPのネットワークは信用できない。

「ネットワークだけは絶対に自分で部品を調達して作るに限る」の感をますます深めた。もちろん、(ディバイディング)ネットワークの替わりにチャンネル・ディバイダーという方法もあるが、「ちょっと聞き」のときはいい音に感じるが長時間聴いていると人工的な音が気になって我慢できなくなる。もちろん、好みの世界だろうが・・・。

それはさておき、さっそく次のCDを材料にして音を聴かせてもらった。

☆1 ミレイユ・マチュー~モリコーネを歌う~
☆2 トスカニーニ指揮 ウィーンフィル「オペラ魔笛」(モーツァルト作曲)
☆3 オイストラフ「モーツァルトV協奏曲1番」
☆4 ジネット・ヌヴー「ブラームスV協奏曲」

       
     ☆1           ☆2            ☆3           ☆4

以前にAさん宅で聴かせてもらったのは、昨年の12月初旬で今から約4ヶ月前のことでもあり当時の音は記憶の上で薄れつつあるが、そのときと比べて今回はプレゼンス(実在感)が新しく加わったようで「ムンドルフの威力恐るべし」の印象だった。

何よりも今、実際に聴いている音がいい。低域の量感にしっかりと支えられて、音の佇まい、雰囲気についてはさすがに「クリプッシュホーン」、「やっぱり、いいね~」としばしウットリ。

この奥ゆかしい上品な雰囲気の音は我が家のJBLは苦手としていて、やはり「JBLとクリプッシュホーンとの二刀使いがオーディオの理想の姿かな~」としばし感慨に耽った。

≪試聴盤について≫

☆1のミルイユ・マチュー(シャンソン歌手)の歌唱力はなかなかのもの。モリコーネの音楽も大好きなので、さっそくお借りして我が家で比較試聴することに。

☆2のトスカニーニ指揮の「魔笛」の裏話。オペラ歌手たちが、トスカニーニのあまりにも早いテンポについていけず(歌いにくい)、「何とかならないか」とマネージャーに相談にいったところ、「トスカニーニにテンポを変更させるのは大きな岩山を動かすよりも難しい」と慨嘆されたという話。

☆3オイストラフのこの盤はAさんによると数ある演奏の中で一番好きで、これまで何回聴いたか分からないという愛聴盤とのこと。とにかく、ヴァイオリニストは「オイストラフとハイフェッツ」に尽きるというご意見だが、もう一人、次に出てくる大事な人をお忘れじゃありませんかと云いたいところ。

☆4のジネット・ヌヴーは新鮮な感動を大切にするために日頃あえてめったに聴かないようにしているが、久しぶりにブラームスのV協奏曲を聴いた。やっぱりいつものとおり目頭が熱くなってしまった。ヌヴーの演奏になぜこれほど感動するのか、自分でも不思議でたまらないがいつかは分析してみたい。全国に同好の士がいれば是非意見交換したいものだが・・・。

さて、約2時間あまり、「クリプシュ・ホーン」の音を堪能させてもらって、日曜日のことでもありあまり長居してはと遠慮して、早々にAさん宅を辞去し、まだ耳の記憶の新しいうちに自宅まで急いでクルマを走らせた。

到着すると、とるのもとりあえず、すぐにオーディオ装置のスイッチを入れてお借りしたミレイユ・マチューのCDを鳴らしてみた。第一曲目の「ウェスタン」のテーマ曲。

音の鮮度と解像力にかけては拙宅のJBLの方が上だと思うがヨーロッパ風のあの上品な奥ゆかしさを醸し出す音の艶というか光沢は悔しいがやはり・・・。

この辺が加わると、ウチの音も「鬼に金棒」なんだがな~と思わずため息が出た。

低域の量感の増大  サブウーファーの上に載せていた重たい石の取り外し

中域の帯域の調整 ⇔ コンデンサーの追加(低域の方に伸ばす)

いろいろとやってみながらマチューをはじめいろんなCDをトッカエ、ヒッカエしながらなんとかならないかと試聴していく。こうなるとまるであり地獄の様相を呈するが、最後に「ジネット・ヌヴーのヴァイオリン」を試聴してみてピタリと気持ちが落ち着いた。

あの音質騒ぎはどこへやら、音楽の方に自然と気持ちが溶け込んでしまい、音質なんか二の次になってしまうから不思議だ。とうとう始めから終わりまで40分間ほど聴きとおしてしまった。

やはり、いい演奏は人の心を浄化する作用を持っているようで、「音質の魔力に打ち勝てるのはいい音楽だけなんだ」といやでも納得。

ウーン、そうなのか。文明(オーディオ)は文化(音楽=芸術)の召使なんだからどだい勝とうというのが無理な話というものかもしれない。

危ない、危ない、文明と文化を危うく履き違えるところだった。相変わらずないものねだりをして危険な倒錯を繰り返す懲りない自分がいる。

結局、「オーディオ」は「音楽」に勝てないという、当たり前の事実を当たり前のように目の前に突きつけられた一日だった。


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オーディオ談義~「デジタル変換ができるレコードプレーヤー」~

2008年03月26日 | オーディオ談義

レコードは遠い昔の話と思っていたら、最近つとにいろんな情報が入ってくる。いずれも新しいテクノロジーによって失われつつある音に光を当てる前向き情報なので結構なこと。

レコードをレーザーで照射して読み取り、音を出す仕組みの「レーザーターテーブル」(以下
LT:エルプ社)に続いて、今度はAVの雄ソニーからUSB端子付きレコードプレーヤーが4月15日に発売されることになった。

「PS-LX300USB」という型番で、LXなんて聞くと思わずトヨタのレクサスを連想してしまったが、このプレーヤー(以下
PL)はアンプ内臓のフルオートで、アルミ合金製ターンテーブル、ダイヤモンド針のカートリッジという本格仕様。

33回転、45回転にも対応できるもので、一番の特徴は
レコードの音源をUSB端子からデジタルデータで出力でき、付属のソフトでCD-RやCD-RWに録音できること。

それに何といっても値段が安い。28,350円なり。しかし何で350円という端数がついているのだろう?

それはともかく、開発の経緯は同社内のオーディオファンから「死蔵しているレコードを活用したい」と要望があり、開発を企画したというが「まさにおじさんに喜ばれるPL。量販店などの反響も予想以上」とのこと。

たしかに自分=おじさんには朗報である。なにせレコードにはことのほか愛着を持って育った世代。とにかく当時の音楽ソースといえば、NHKのFM放送とレコードぐらいのもの。そして、そのレコードがまた高かった。若い時分に乏しい給料の中から少しずつお金を貯めて購入したレコード盤と歳をとって少しばかりお金に余裕が出来て楽に集めたCD盤とではまるで値打ちが違う。

当時のレコード盤は実に貴重品でたしか1枚が2000円前後と記憶しているが、今のCD盤の値段とそれほど違わないようだが、当時と今では貨幣価値がまるで違っていた。なにせ1ドル=360円の時代だからとにかく外国モノは何でも高かった。

したがって、それこそ熟慮に熟慮を重ねて購入した盤ばかりだからすべてが自分にとっての名盤、それも自らの嗜好がハッキリと反映された「三つ子の魂百までも」で今でも大好きな曲目ばかり。結局、自分の音楽史を紐解くようなものである。

さっそく倉庫に入って奥深く眠っているレコード盤を引っ張り出して調べてみた。懐かしさの極みだが、クラシックを中心としたLP盤に加えて、中学~高校時代に熱中していたR&B(リズム&ブルース)がらみのドーナツ盤もどっさりある。たとえばボビー・ルイスの1961年のビルボード誌年間NO.1ヒット曲「トッシン&ターニング」など。

板付基地(当時福岡在住)があったお陰で、毎週土曜日の20時からFEN(Far・East・Network:極東放送)でビルボード誌によるアメリカの最新ヒット曲トップ20のラジオ放送を熱心に聞いていたっけ。

手持ちのクラシックレコードの中には現在でもCD盤に焼き直されていない希少価値のある盤もある。
たとえば、コレルリの合奏協奏曲(OP.6)集(3枚組:イ・ムジチ合奏団)は随分CD盤を探したが今もって販売されていない。

しかし、レコード盤で保有していたものはほとんどといっていいほどCD盤として発売されており購入していたのが分かった。

したがって、このPLでパソコンを通じて録音したCD-R盤と既に発売されたCD盤との音質比較も面白そう。

ベートーヴェンの「大公トリオ」(オイストラフほか)、バックハウスのピアノソナタ32番、フルトヴェングラーの第九などで、もし比較試聴してCD-R盤の方が音質がよければ、俄然面白くなる、まあ、針が音溝をこするサーフェス・ノイズは免れないだろうが、プレゼンス(実在感)は豊かかもしれない。

       

とにかく約28000円という値段が値段だから仮に200枚のレコードをCD-Rに録音したとしてもコストは1枚当たり140円程度と軽く元が取れそう。しかも自分しか持っていない名盤などは、CD-Rに録音してコピーし興味のある人に分けてあげるなど発展的な可能性を秘めている。オークションを活用すればいい商売になるだろうが、著作権の関係で無理かなあ~。

さて、このソニー発表の「PL」とエルプ社の「LT」いろんな面で対照的なのが面白い。

                       

           ソニー社のPL                   エルプ社のLT

「大メーカー ⇔ 中小メーカー」
「価格28,350円
 ⇔ 100万以上」
「デジタル変換
 ⇔ アナログオンリー」
「33回転、45回転のみ対応
 ⇔ 33、45、78回転(SP)まで対応」
「一般向け 
⇔ マニア向け」など。

音質の方は断然LTの方が良さそうだが、価格の方はソニーのPLの方が圧倒的に有利。同じ土俵での勝負にはならないだろうが「一般向け
マニア向け」として両者はスマイル・カーブの両極端に位置するのだが、さてどちらがこの時代にアピールするのだろう?


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オーディオ談義~「いい音」へのアプローチ~

2008年03月23日 | オーディオ談義

これまで少しでも「いい音」を出せればと、いろいろやってきたがオーディオは上を目指せばきりのない世界(お金が沢山かかる!)なので、最近では「もうこの辺でいいや」という限界というか諦めにも似た気持ちが芽生えつつある。

音楽鑑賞に専念できるという意味では、こういうオーディオ離れは歓迎すべき状態のはずだが、まるっきり装置をいじらないというのも逆に元気がなくなって物足りなくなるのは一体どうしたことだろう。

システムのどこかをいじった後で、最初のCDを聴くときの緊張感、さらに音が良くなったときのあの喜びは何物にも換えがたいが、そういう感激を味わえないのが少々つらいところ。これはオーディオ愛好家には大なり小なり分かってもらえる心境だろう。

どうやらオーディオにしても、やっぱりほどほどにつかず離れずなのが精神衛生上いいようでこれは親と子どもの間の「子離れ」『親離れ」の関係と似たようなもの。

ということで、引き続きオーディオとは縁を切らずにやっていこうという前向き志向のもとで、これからの
「いい音」へのアプローチについて述べてみよう。大別すると次の3つがある(と思う)。

1 素性のいい機器をそろえること

まずスピーカーにはじまって、アンプ、CDプレーヤーなどだが、それこそピンからキリまである世界だが、フツ~の機器であれば70点程度までは確実に取れる。それ以上の点数を欲張ると加速度的にコストがかかるので、まっとうな経済人のすることではなくなる。

なお、アンプ、CDプレーヤーは近年、メーカー間の格差は少なくなってきているが、スピーカーがキーポイントなのは今も昔も変わらない。
また、自分のようにメーカー既成のコンポーネントを使っていない場合は、ネットワークの部品はあだやおろそかにできない。

2 リスニングルームの音響整備

スピーカーから出た音は直接リスナーの耳に届く音以外にも部屋の壁や天上、隅っこに当たって跳ね返った音などが混在しているので部屋の影響も無視できず、壁や部屋の隅などの要所への対策は欠かせない。

次の映像のとおり拙宅では天井や壁、隅にいろんな対策を施しているが、家人から「見場が悪くてお客さんに恥ずかしいのでやめてほしい」と泣かんばかりに訴えられるが、いまのところ馬耳東風を貫いている。

                       
          天井から吊り下げた篭           後方の壁と隅の対策

3 機器の使いこなし

2とやや関連するがスピーカーやアンプの置き場所を部屋のどこに決めるかで定在波(位相の噛み合わせで周波数によって音の強弱ができる)や残響などの影響を受けて音は大きく違ってくる。それに加えて、自分の場合は既製品と違って真空管アンプによる3ウェイのため、SPユニット(3点)とアンプ(3台)の組み合わせとか、いろんな使いこなしについて数多くのポイントがある。

1についてはこれから、あまりお金を掛けるつもりはないが、2と3については現状でもマダマダの段階でもっといろんな対策というか可能性が残されている感じ。これからはこういった方向について、かなりしつこく取り組んでいこうと考えている。あまりお金を掛けなくて済みそうなのがいいところ。

ということで、まず実践あるのみ。

3月中旬のある日、仲間のMさんに加勢してもらって3に該当する作業として、左右のスピーカーの間に大きな図体をデンと据えている液晶テレビを後方に移動させて奥の窓際にピッチリとくっつけてみた。

これはずっと以前から気になっていたところで、通常、音楽鑑賞にあたっては
左右のスピーカーの間にできるだけモノを置かないようにという鉄則がある。「人間の脳にとっては左右のSPから出てきた音が空間で合成されて正面に仮想の音像を結ぶ」のは周知のとおりでその肝心の正面に障害物があればいいはずがないのは自明の理。

CDプレーヤーやアンプなどはその際たるものだが、我が家の場合こればかりは部屋のスペース上、正面に置かざるを得ない。

そこで目をつけたのがテレビというわけで、今は液晶になって随分奥行きが薄くなったのでオーディオにとっては大歓迎だが、それでも邪魔になることには変わりがない。

従来オーディオ・ラックの上に載せていたテレビだが、悪影響を最小限に食い止めるため別にわざわざ作った台をラックの後ろに設置してその上に載せることにしたもの。

目から入る情報は耳から入る情報を圧倒するが、テレビが50cmほど奥に入っただけで圧迫感がなくなり随分と音場が広がったような気がする。まず、視覚的に非常に効果があったのを確認できた。

                 
 窓際に押しやったテレビ       テレビ台とラック(右側)         全景       

それに音の方もこれは悪くなるはずがない話で実際に中域のホーンによる音の正面からの張り出し感が緩和されてより自然な音に近づき、Mさんもその変わり様に感心しておられた。

こうして、着実に一歩前進というわけだが、これからもこの調子でいけば、こまめな対策の
ネタはとても尽きそうにない感じ。

近々取り組みたいのは、機器同士を結ぶケーブルやSPコードの
接点磨きとサブウーファーを含めた4つのSPユニットの位相調整など。

4月に入ると福岡からオーディオの猛者(もさ)連中が牙を磨(と)いでやってくるのでそれまでには是非・・。


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読書コーナー~娘が持ち帰った2冊の本~~

2008年03月17日 | 読書コーナー

社会人は3月20日(木曜:春分の日)からうまく利用すれば四連休になるが、丁度その辺は仕事が忙しくて休みが取れないとのことで、1週間前倒しして娘が大阪から帰省してきた。

一番喜ぶのは入院中の91歳になる母だが、自分にとっても家の中の空気が若干華やぐようでやはり
たまにはいいと思う。

今回は娘が一緒に持ち帰った本2冊についての話。

1冊目は「人間は仕事で磨かれる」(2008.2.10、丹羽宇一郎著、文春文庫刊)。

2005年2月に単行本が出版され大反響を呼んだ本で、このたび装いも新たに文庫本になってつい最近出版されたもの。

現役時代、安易な流れに身を任せがちだった自分には実に
耳が痛くなる表題。しかし、これはまさしく「正論だな~」と反省の気持ちをこめて今の自分なら気楽かつ客観的に言える(笑)。

著者の
丹羽宇一朗さんはかなり前から注目している人物で、自分が知る限りでは現代の経営者(OBも含めて)の中では最高の資質を持った方だろうと勝手に思い込んでいる。

伊藤忠商事(株)の社長、会長(現任)を歴任されたが、経営手腕もさることながらまったく私利私欲のない方(と思うが)で、社長を辞めればどうせ「ただのおじさん」なのだからと在任中から地下鉄通勤、愛車はずっとカローラだという。

ひとつの些細な局面だろうが、一事が万事で一流企業の社長にとってこういうことはなかなかできない。よほど修練を積まれた方なのだろう。第二臨調(臨時行政調査会)時代の土光敏夫さんを髣髴(ほうふつ)とさせる人物だ。

書いてある内容もいい。通常こういう本は自慢話めいて嫌気がさすものだが一切感じられない、本心から出たものを装飾せずに素直に書いてあるからだろう。

先日のBSデジタルで日経がスポンサーになっている番組「カンブリア宮殿」(3月6日BSジャパン)でもゲストとして出演され自分の哲学を堂々と披瀝されていた。たまたまHDDに録画していたが古武士然とした風貌としゃべり方にますます魅せられた。

                

現在、政府の「経済財政諮問会議」の委員をされているが、こういう人が先頭に立って旗を振ってくれると日本ももっと良くなるのだが・・・。今の政治家たちは丹羽さんに見習うことが沢山あるはず。

とにかく娘が企業人としてこういう本を自発的に読んで「仕事と真剣勝負」をして磨かれるのは大変望ましいこと。どうやらダメオヤジの背中を見て育ったのでいい反面教師になったらしい。

続いて2冊目は
「東大で教えた社会人学」(2008.2.10、草間俊介、畑村洋太郎、文春文庫刊)。

本書は東大工学部機械系学科で実際に行われた講座をまとめたもので、人が実社会の中で生きていくために必要な基礎知識を講義形式でまとめたいわゆる「社会人学」のテキストブック。

その背景には技術者が社会に出たときに自分の専門領域(生産、研究開発など)にとらわれる傾向があるので、社会の全体像を捉える視点、たとえば人の動き、組織の動き、経済の動きなどを把握する人材の育成ひいては(技術系でも)社長になれる人材の育成を主眼としている。

構成は次のとおり。
第一章 働くことの意味と就職
第二章 会社というもの
第三章 サラリーマンとして生きる
第四章 転職と起業
第五章 個人として生きる
第六章 人生の後半に備える

講師の草間俊介氏は同学部のOBなのに商社マンとして活躍した変り種だが実社会には精通した人物。もうひとりの畑村洋太郎氏はこのブログでも以前紹介したがあの「失敗学」の権威だ。

ざっと目を通したが、意外にも歯切れのよいストレートな書きっぷりに驚いた。

たとえば、第三章の「工学部出身会社員の
人生時系列(P124~)」で、

25歳 → 評価の開始だが、東大を出ても2~3割は出世レースから落ちこぼれる

28歳 → リーダーの修行期間に入り30~35歳にはコース選定がなされる。

35歳 → 社内でのコース選定が終了している。自分が特急コースか、急行、準
       急、鈍行なのか見極める。
急行や準急なら転職も考えなければならな

       い。転職の最終電車の段階だが、ここで判断を誤ると取り返しがつかな
       い。なお、鈍行の場合はそのまま会社にしがみついたほうがいい。

以下、この調子で40、45、49、56、60歳と続いていく。
まず、学生相手の本音の講義なのがいい。35歳までに会社人生に勝負がつくというのは組織に違いはあるが実際に自分も身を持って体験したのでこれは間違いない。(もちろん特急コースではなかった!)

組織の人事当局は間違ってもこういう親切(?)なことは言わない。なぜなら、特急コースはごくわずかの一握りの人間だけで大半は急行以下なので、ヤル気を失わせるとマズイし組織全体にとって結局は損失につながるから口が裂けてもこういうことを公には絶対に言わない。

なお、「急行や準急コースのときは転職を視野に入れろ」とは、さすがに東大のプライドをチラリと見る思いがした。また、鈍行コースの場合の会社居座りの提言にはびっくりしたが、本人にしてみるとまことに親切なアドバイスだろう。会社にとってはいい迷惑だが・・・。

以上のとおり、会社に入る前にこういう本音の話を教えてくれるとはさすがに東大は恵まれているが、既に実社会に入っていても現実的に対応できる知識が十分含まれている内容なのでこれは社会人として読んでおいても損はしない本。

以上の2冊は、たとえば身内や知り合いがこの4月から新たに就職する際には格好の贈り物になる本だと思った。 

  


 


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愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲♯2~

2008年03月13日 | 愛聴盤紹介コーナー

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の後半については次のとおり。

(演奏者、指揮者、オーケストラの順)

☆11 ブロニスワフ・フーベルマン フルトヴェングラー ベルリンフィルハーモニー
     録音:1934年

☆12 ヤッシャ・ハイフェッツ トスカニーニ NBC交響楽団
     録音:1940年

☆13 エーリッヒ・レーン フルトヴェングラー ベルリンフィルハーモニー
     録音:1944年

☆14 イダ・ヘンデル クーベリック フィルハ-モニア管弦楽団
     録音:1948年

☆15 ヤッシャ・ハイフェッツ ミンシュ ボストン交響楽団
     録音:1955年

☆16 レオニード・コーガン シルヴェストリ パリ音楽院管弦楽団
     録音:1959年

☆17 ヨゼフ・シゲティ ドラティ ロンドン交響楽団
     録音:1961年

☆18 ジノ・フランチェスカッティ ワルター コロンビア交響楽団
     録音:1961年

☆19 アンネ・ゾフィー・ムター カラヤン ベルリンフィルハーモニー
     録音:1979年 

                 
           11                12                13 

                 
           14                15                16

                 
            17               18                19

≪私見による試聴結果≫ 

11 70年以上も前の録音なので、当然のごとく録音は良くない。高域はジャリつくし、低域はボンつく。しかし、演奏の方は間違いなく一級品。しっかりとした技巧に裏づけされた迷いのない演奏で、第一楽章ではやや淡淡とした演奏だが、第二楽章では一転して情緒たっぷりの歌い方で使い分けが見事。なお、カデンツァはシェリングと一緒だった。指揮者のセルは後年、クリーブランド管弦楽団を世界一流に仕上げるが、この時点から一流のウィーンフィルを率いるぐらいだから若いときから頭角を現していたのだろう。ただし、この盤も1,2と同様に一般向きではない。

12 オーケストラが一分のスキもない、まるで軍隊の行進のように正確無比に足並みをそろえて進んでいく。それも目標にめがけてまっしぐらに突き進み、ヴァイオリンがそれに合わせてついていく印象で演奏時間も全体で38分前後とこれまでで最も早い。
何だか
ヴァイオリン付き交響曲の感じで、ベートーヴェンが意図したのももしかするとこういう演奏かもと思わせるような説得力がある。
ハイフェッツは想像したよりも音色が細く繊細で確かに無類の技巧を発揮するが、自分にはいまひとつ、心に響いてくるものがなかった。

13 この盤のライナーノートによるとフルトヴェングラーの同曲ディスクは5種類あり(メニューインが3回、シュナイダーハンが1回)、この盤(ライブ)はやや激しい演奏の部類だという。ソリストのエーリッヒ・レーンは当時のベルリン・フィルのコンサートマスター。ヴァイオリンの音色がとても明るくて”行け行けどんどん”みたいで恐ろしく元気がいい。こういう開放的なベートーヴェンもたまには悪くない。それに1944年の録音にしては結構いける。しかし、もっと繊細な精神的な深みみたいなものも欲しい。

14 イダ・ヘンデルの名前も演奏も本格的に聴いたのはこれが始めてだが、非常にオーソドックスで破綻のない演奏。ライナーノートを見ると彼女が20代前半の録音とのことで、若い時期からしっかりした技巧を身につけている印象。しかし、第二楽章に入るとテンポや音程がやや不安定で若さがモロに出た演奏だと思った。第三楽章では元に戻ったのでヘンデルはアダージョが苦手なのだと思った。なお録音状態は雑音がほとんどしない割には不自然ではなく十分聴けた。

15 やはりハイフェッツの演奏は目くるめくように早い。トスカニーニ盤と同様、演奏時間が判で押したようにきっちりと38分前後と正確。通常よりは6分ほど早い。この盤のライナーノートにはこう書いてある。
「精巧無比なテクニックと一点の曇りもない透明で磨き抜かれた音色を駆使して綴りあげられたこの演奏は、恐ろしいまでの緊迫感とギリシャ彫刻を思わせる壮麗な造形的美観が光る驚異的な名演以外の何物でみない。」
どうやら大変な絶賛ぶりだが、技巧的にはともかく全体から受ける印象はそれほどでもなかった。どうも自分にはハイフェッツの演奏を縁遠く感じてしまってしようがない。もっと音楽に血を通わせて欲しいと思う。やはり
玄人受けのするヴァイオリニストなのだろう。なお、ミンシュ指揮のオーケストラはハイフェッツのスピードによく追従しておりさすがにスキがないと思った。

16 コーガンはロシア出身であの偉大なオイストラフの影に隠れがちなヴァイオリニストだが、負けず劣らずの実力の持ち主。1982年、公演旅行中の列車内で心臓発作のため58歳で惜しくも急死(怪死との説もある)した。さて、演奏のほうだが思わずトップレベルのシェリングと比べたくなるほどの好演。違うところは粘っこいのはいいのだがスマートさに欠けるというところ。造形のたくましさなどでやや及ばないと思った。しかし、全体的には格調が高く立派な演奏。オーケストラとの呼吸がよく合っていた。

17 シゲティは1892年生まれのハンガリーの大ヴァイオリニスト。この盤は69歳のときの録音となる。もともと深い精神性が売りものの奏者で、若いときからテクニックはさほどでもないとの評だが、この歳になると一層、音がかすれたり、ヴィブラートも粗くて音程がやや不安定でよほどのシゲティ・ファンでなければこの盤は敬遠したほうがよさそう。自分はいくら精神性といってもテクニックがしっかりした上での話だと思う。オーケストラの音の録音レベルが非常に高く、低域がボンつくので驚いた。

18 独奏ヴァイオリン付きの交響曲ともいうべきこの協奏曲にはソリスト、指揮者、オーケストラの三者の一体感がなければ名演とはならないが、その意味ではこの盤はワルター、フランチェスカッティともども円熟した境地が展開され、伸び伸びとよく歌っているとは思うものの、自分には、もっと緊張感、あるいは厳しさのようなものが欲しいと思った。一言でいえばロマンチックすぎてリアリティに欠けている。もっと若い時分に聴けば素晴らしいと思うのだろうが、歳をとって依怙地になり海千山千の人間ともなるとこの演奏では物足りない。

19 さすがにオーケスラ(ベルリンフィル)が実に分厚くて重厚だ。17歳のムターと72歳のカラヤンの組み合わせはなかなか好感が持てた。第一楽章は秀逸。録音もこれまた良くて、広い空間にヴァイオリンの音色が漂う様子に思わず背筋がゾクゾクした。ところが第二楽章のアダージョになってどうもムターが物足りなくなる。やはりベートーヴェンのアダージョはある程度の人生経験がないと弾けないと思った。これは14のヘンデルのときにも同様に感じた。とはいいながら、自分は若さとはつらつさに包まれたこの盤がとても好きだ。

≪最後に≫

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を19曲まとめて聴くなんて生涯のうちで最初で最後だと思うが、ほんとうにいい経験をさせてもらった。こんな名曲を沢山の一流の演奏家でまとめて聴ける幸運はそうない。合わせて17枚のCD盤を貸していただいたAさんとMさんには感謝あるのみ。

結局、1~19の寸評を個別にご覧になればお分かりのように、
自分にとっては5のヘンリック・シェリングが満点に近い出来具合で断トツだった。19枚も聴いたのだからもっとほかにライヴァルがあってもよさそうなものだが不思議なことに皆無だった。ただ、2のヌヴー盤が指揮者とオーケストラがもっとシャンとしていればと惜しまれる。19のムターとカラヤンのコンビも持っておきたい盤だった。

ところでこの協奏曲に対して聴く前と集中的に聴いた後では随分と印象が異なってしまった。仰ぎ見るような高い山だと思っていたのが、登ってみると意外と簡単に踏破できる普通の山だったという感じ。

言い換えれば、これはベートーヴェンにとってほんとうに満足のいく作品だったのかな~という疑問が自然に湧いてきてしまった。

前回のブログ♯1の冒頭でベートーヴェンはこの協奏曲に満足したので以後ヴァイオリン協奏曲を作曲しなかった旨記載したのだが、むしろ反対にこのヴァイオリン付き交響曲の中途半端な形式の表現力に限界を感じて作曲しなかったのが真相ではないだろうかと思えてきた。

逆説的になるが、この協奏曲を作曲したのが36歳のときで、以後58歳で亡くなるまで十分に二番目以降を作曲する余裕がありながら、全然見向きもせずに交響曲、弦楽四重奏曲に傾斜していったのがその辺の事情を物語っているような気がする。

結局のところ、たしかに傑作には違いないが、精神的な深みが足りずベートーヴェンを骨の髄までしゃぶり尽くすには少々物足りない作品というのが19枚のCDを聴いた自分の結論。


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オーディオ談義~「レーザーターンテーブル」~

2008年03月11日 | オーディオ談義

高校時代の同窓生U君から、日経のBPnetに『レコードをレーザー光線で再生できる話』が載っているとの情報がメールで入った。

最初のうち、勘違いして日経がらみの本に書かれた話だと思ったが、そのうち”net”の言葉に気がついて「ああ、そうか、パソコンで見れるのか」と急いで検索してみた。

試行錯誤の挙句、「日経のBPnet」→「ホームページ」→「ビジネススタイル」→「レーザーターンテーブル」でヒットとした。

2008年の2月20日からと27日からの記事だった。実は以前にもレーザー光線でレコードを再生する話は新聞記事などでちらっと読んでいたが、「今更、レコードでもないだろう、音質もCDには及ぶまい」との先入観があり、深くは追求しないままだった。

U君から教えてもらったのをきっかけに、この記事をじっくり読ませてもらったが想像した以上に音質がしっかりしているようでかなり期待できそう。

内容は、次の表題により2項目に分かれている。

 レコード針を使わずにアナログレコードを再生する(2月20日~)

 消え行くアナログレコードに新しい技術で再度光を当てる(2月27日~)

 → 埼玉県の小さなオーディオ・メーカー「エルプ社」(社長:千葉三樹氏)が製造している「レーザーターンテーブル」が世界中の音楽ファンの注目を集めている。

顧客には、スティービー・ワンダーやキース・ジャレットなどのミュージシャンも名を連ねている。価格は100万円以上と決して安価な製品ではないが、世界各国から問い合わせや注文が引きも切らず、注文から納品まで数ヶ月は待たされる人気。

レーザー光線でアナログレコードの音を読み取って再生する技術開発は、アメリカ発だが、千葉氏が私財を投げうって引き継いで事業化し完成させたもの。

アナログレコードは、全世界に300億枚~400億枚あるといわれ、人類にとって大切な文化遺産。「レーザーターンテーブルが世に出なければ、すべてのレコードが永遠に聴けなくなってしまう、この文化の損失を何とかしなければ」と千葉氏。

しかし、そもそもレコードはレーザー光で音をピックアップすることは想定されて作られておらず、レーベルごとに音溝の仕様に統一規格がない、しかも各家庭での保管環境(熱や圧力)によって簡単に反ってしまったりするので、技術的に困難を極めたそうだ。特に音溝に当てる5本のレーザー光の制御では、日本国内では対応ができず、アメリカの軍需メーカーが対応した。
モットーとして「世にあるレコードの90%、欲を言えば95%を問題なく再生できる」を掲げたという。

結局、1988年の記者発表から製品が仕上がったのが1996年、事業が損益分岐点に達したのは1999年、現在でも1台ずつの手作りで、注文に生産が追いつかない状態。

 → 取材記者がエルプ社内でレーザーターンテーブルの音を実際に聴いたところ圧倒的な情報量に驚きの一言、息継ぎの音、衣擦れの音、各楽器の位置関係のたしかさはもとより、歌手とマイクの距離までもがハッキリ分かる。特筆すべきは音の自然さ、生々しさで歌手本人が直接歌いかけてくるような実在感だという。

この理由は、千葉社長によると
「レーザーで拾った音をデジタル変換せず、アナログのまま再生しているから」。

もうひとつ、レコードの溝がどんなに針によって磨耗していても、レーザー光が違う位置を照射するので心配要らないという。

                 
      本体           5本のレーザー光線      針の位置と違う照射

最初の顧客はカナダの国立図書館で、購入の目的は1919年にカナダが独立を果たした日の国会議長のスピーチが収録されたレコードの再生。これまで誰も聞いたことがなかった声が同図書館で見事に再生され、翌日の新聞では一面で大々的に報道され、地元のラジオ局も何度もスピーチを放送した。

この体験が大きな励みとなり、失われた文化の復権に寄与することがモチベーションの維持に大きく役立ったという。以後、冒頭で述べたように、スティービー・ワンダー(2台)やキース・ジャレットなどが購入するが、特にキース・ジャレットからは感激のあまり直筆サイン入りの推薦状が届いて「最も革新的なオーディオ機器であり、すべてのデジタルフォーマットを圧倒する」とあったという。

レーザー・ターンテーブルは最近ようやく歩留まりが良くなり、往時の3分の1程度の価格で販売できるようになったがそれでも依然として100万円を超える高価な買い物。しかし、購入層は広く二十代から八十代まで広がっており製造が追いつかない状態。やはり非接触で、レコード盤を傷つけることなく、ありのままの音が出せる性能が評価された結果によるもの。

レーザーターンテーブルの概要は以上のとおりだが、自分はワディアのCDシステムを購入して音質を聴いたときに、もうレコード演奏は必要ないとレコードプレーヤーは処分したが、なぜかレコードのほうは捨てる気にならず物置の奥深く仕舞いこんだまま。

このレーザーターンテーブルのお陰で来るはずがなかったレコードの出番が再び巡ってくるかもしれない、ほんとうに捨てなくて良かった!

それにしても
”百聞は一聴にしかず”一度聴いてみる必要がある。それもレコードとそれをCD化したもの2種類の聴き比べが必要。一番懸念しているのは本文にもあるとおり各社ごとにレコードの溝とかの仕様が違うし、またイコライザーカーブはRIAA規格で1950年代半ばに統一されたが機器のほうがどの辺まで精確な読み取りをしたうえで、補正によってきちんと原音が再生できるかどうか。

もし、実在感、生々しさがホンモノであれば、これまで自分が目標の一つにしてきたレコードの音に何とか近づけようとしてきたオーディオ装置の努力(投資)が一体何だったのかとなる。

レーザーターンテーブルの性能が期待に十分沿うものであったと仮定して話を進めると、利用の仕方としては、CDシステムの
代替というよりも補完になると思う。1980年以降のデジタル録音によるCDはそのまま現行のCDプレーヤーで聴き、それ以前のアナログ録音のソースへの対応はレーザーターンテーブルということになるのだろう。したがってレコードを大量に保有している人は購入しても十分元が取れそう。

たとえば現在、レコードを針で
本格的に再生するとなると、一流のカートリッジ、フォノモーターなどをそろえると軽く100万はオーバーするのだから。

自分の場合、ワディアのCDシステムに250万近くかけたので、レーザーターンテーブルへの100万の投資はバランスとして成り立つが、現役時代のように我がままがきかない立場なのが辛い。それに現在は圧倒的にCDソースの方を大量に保有しているのもマイナス要因のひとつ。また、それほど画期的な音質なら製品化されて10年ほど経つのでもっとマニアの間で大騒ぎになっているはずだというのも素朴な疑問。

一方、プラス要因としては、1980年以前のレコード時代の方が指揮者、演奏者ともに現代よりもはるかに質が高いので、付加価値も当然上がる。それにオークションなどではレコードは二束三文なので今からでも大量に購入できる。(一例だがチラッと入札中を覗いてみると82枚で22750円と相場が出ていた、何と一枚280円程度!)

いずれにしても、すべてはレーザーターンテーブルの性能次第ということになる。

新しいテクノロジーは人を悲しませたり喜ばせたりするが、余計にお金が要ることだけはたしからしい・・・・。


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愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲♯1~

2008年03月09日 | 愛聴盤紹介コーナー

このコーナーでは、これまでヴァイオリン協奏曲としてモーツァルト、ブラームス、シベリウスを紹介してきたが、今回はベートーヴェン(1770~1827)のヴァイオリン協奏曲ということで、いよいよ真打の登場である。

とにかく幾多のヴァイオリン協奏曲がある中で誰もが認める「王者」とされ、”楽聖”の名に恥じないスケールの大きい傑作だといわれている。

作曲は1806年、ベートーヴェンが36歳のときで、これ以降ヴァイオリン協奏曲を作曲しておらずこのジャンルでは生涯に亘ってこの一曲だけだったところをみると、相当の自信作だったことが伺える。たとえば交響曲「第九番」をはじめピアノ三重奏曲「大公トリオ」、ピアノソナタ32番など、自信作の後には同じジャンルでの作曲はしないのがベートーヴェンのやり方。

曲は三楽章で構成されている。(演奏時間は奏者によってまちまちだが一応の目安)

第一楽章(25分前後)
最も長い楽章でティンパニーの独奏で木管の主題が導き出され、堂々とした管弦楽だけの提示部があり、やがてヴァイオリン独奏が即興的にぐいぐいと弾きはじめ、きらびやかに楽想を展開していく。

第二楽章(9分前後)
ゆっくりとした歌うような楽章で、独奏が弦楽合奏の柔らかな響きを縫って自在に動いていくところが渾然一体となって美しさの極みに達している。

第三楽章(10分前後)
第二楽章から休まずに続いて始まる。同じ主題が何度も繰り返して出てくる形式で作曲され、素晴らしい技巧を展開しつつきらびやかなクライマックスに上りつめて終わる。

人気曲なので、実に多くのヴァイオリニストが挑戦している。自分は長い間オイストラフ演奏のものが絶対だと信じて他の盤にあまり浮気しなかったのだが、それだけではあまりに淋しいので仲間のMさんと湯布院のAさんにお願いしたところ快く自ら所有のCD盤を貸していただいた。

それも二人合わせて何と17枚。それに自分のオイストラフとウィックスの2枚を加えて19枚にも及ぶ大掛かりな試聴となった。とても1回ではスペースが足りないので10枚と9枚に分けて試聴することにした。

とりあえず演奏者のメンバーを紹介しておくと次のとおり。

♯1(前半)

自己の所有  2枚 オイストラフ、ウィックス

Mさん所有   8枚 ヌヴー、メニューイン、キョンファ、クレーメル、カントロフ、シェ
              リング、テツラフ、パールマン

♯2(後半)

Aさん所有    9枚 ハイフェッツ2枚(トスカニーニ指揮とミンシュ指揮)、ムター、
              ヘンデル、シゲティ、フランチェスカッティ、コーガン、フーベル
              マン、レーン

古今東西の名ヴァオリニストたちがズラリと並んで壮観の極みである。自分には「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はこうあらねばならない」という信念も特にないし、単なる市井の一愛好家に過ぎないので、これから登る山を目前にして
道に迷ってしまうかもといささか心配している。

結局のところ、これまでのいくばくかの経験に裏打ちされた個人的な感性に基づく感想に留まってしまうわけだが、何しろオイストラフ以外は初めて聴く演奏者ばかりでヴァイオリニストによってどういう違いがあるのか、いまはそちらの興味の方が優っている。

録音時期の古い順から並べてみよう。(奏者、指揮者、オーケストラの順番)

☆1 ユーディ・メニューイン フルトヴェングラー ルツェルン音楽祭管弦楽団
    録音:1948年

☆2 ジネット・ヌヴー ハンス・ロスバウト 西ドイツ放送管弦楽団
    録音:1949年 

☆3 カミラ・ウィックス ブルーノ・ワルター フィルハーモニック・オーケストラ
    録音:1953年

☆4 ダヴィド・オイストラフ アンドレ・クリュイタンス フランス国立放送局管弦楽団
    録音:1958年

☆5 ヘンリック・シェリング ベルナルト・ハイティンク ロイヤル・コンセルトヘボウ
    録音:1973年

☆6 イツァーク・パールマン カルロ・マリア・ジュリーニ フィルハーモニア管弦楽団
    録音:1980年

☆7 ジャン・ジャック・カントロフ アントニ・ロス・マルバ オランダ室内管弦楽団
    録音:1984年

☆8 チョン・キョンファ クラウス・テンシュテット ロイヤル・コンセルトヘボウ
    録音:1989年

☆9 ギドン・クレーメル ニコラス・アーノンクール ヨーロッパ室内管弦楽団
    録音:1992年

☆10 クリスチャン・テツラフ デヴィド・ジンマン トンハーレ・チューリヒ
    録音:2005年

       
     1             2              3              4

             

           5                6             7

             
           8                9             10

≪私見による試聴結果≫

 60年前の録音で、当然モノラル、しかもジャリジャリと雑音がガサツク。とにかく演奏に集中するのみだが、第一楽章ではメニューインが大指揮者を前にしてやや遠慮気味のようでヴァイオリンよりもオーケストラの方が優っている印象を受けた。
しかし、第二楽章では一転して本領を発揮して背筋がゾクゾクしてくるような優美さを漂わせる。この楽章が一番の聴きどころだろう。しかし、この盤は一般向きではないと思う。

 やはりヌヴーのヴァイオリンは違う。一言でいって「志」が高い。優れた芸術作品だけが持つ「人の心を動かし精神を高揚させる」ものがある。音楽にすべてを捧げた演奏家の情熱と殉教的精神みたいなものが感じとれるのが不思議。
とはいながら、マイナス材料もある。オーケストラがところどころ粗いし、録音の方もメニューイン盤よりはましぐらいの程度。
また、二楽章以降なんとなく音楽全体の求心力が薄くなっていく印象を受けた。これはヌヴーの責任ではなく指揮者とオーケストラに大きな原因があると自分はにらんでいる。
とにかく、この盤も1と同様に一般向きではない。
なお、これは現在廃盤となっており
入手不可能。自分にとって、好きを通り越して崇拝の域に達しているヌヴーなので、Mさんに無断で4倍速でていねいに時間をかけて○○○させてもらった。おそらく寛容なMさんのことだから許してくれるだろうと思う。

 シベリウスのV協奏曲のときと同様にヌヴーのすぐあとに聴くウィックスは直接比較の対象になるので可哀想。まるで芸格が違う。独奏ヴァイオリンの冒頭の部分を一聴しただけで「ヴァイオリンの音色が浮ついている」と思った。ワルター指揮のオーケストラに随分助けられている印象。その延長で第二楽章は抒情味豊かな演奏を聴かせてくれたが、ヌヴーとワルター指揮のコンビだったらどんなにか素晴らしい演奏になっただろうとの連想に思わず走った。結局ウィックスはその程度の存在感だった。

ところで、三人目の試聴が済んで、ようやくこの協奏曲の試聴の勘所が分かってきた。演奏者の差がつくのは何といっても第一楽章、それも冒頭の導入部の部分で、ここでヴァイオリニストの才能と技量が決まるようで、第二楽章以降はどんな奏者でもそこそこ弾けるみたいな気がしてきた。

関連して、女流ヴァイオリニスト高嶋ちさ子(俳優:高島忠夫の姪)さんの著書「ヴァイオリニストの音楽案内」(2005.10.31、PHP新書)にも同じようなくだりがある。以下引用してみる。

オープニングのティンパニーが音を四つ叩き、それがちょっとでも狂っていると、その次の木管が出てきたときに 「ん?音程おかしくない?」とみんな頭をかしげ、その後3分30秒間ソリストはただひたすら音程が落ち着くのを待つ。「って、こんなに待たせんなよ!」というのがソリストの言い分。待ってる間に指は冷え切って、そのあとにこのオクターブをひょこひょこ上がっていく。これが0.1ミリでも押さえるところが違った日には「死にたい・・・」となる。なんといっても鬼門はこの出だし。

 昔から聴きなれた盤なのでどういう演奏かは百も承知。オイストラフのたっぷりとヴァイオリンを歌わせる弾き方は絶妙の域に達している。しかし、ヌヴーを知った今ではやや受け止め方が違う。20世紀最高のヴァイオりニストに対してとんでもない言い掛かりになるが「美しすぎる」というとおかしな表現になるが、どうも「美しさと音楽の核心へのアプローチが両立していない」といえば意味が分かってもらえるだろうか?これはおそらく自分だけの完全に孤立した感想だろうが、そう思えるのだから仕方がない。

 「端正で気品あふれる演奏」最初から最後までこの言葉に尽きる。しかも冷たいようでいてそれなりの熱もある。第一楽章の流れるような美しさは比類がない。シェリングはもちろん、指揮者のハイティンクもコンセルトヘボウもいい。しかもデジタル録音ではないのに音質がいい。いいこと尽くしでは面白くないので、ケチをつけようと思うが何ら見当たらない。とにかくシェリングはミスタッチがないし、その技巧の確かさには感心した!素人目にも造形のたくましさが分かる。別にイッセルシュテット指揮(1965年)の盤もあるようでこれも是非聴いてみたいという欲を起こさせる。

 シェリングも決して線が太いヴァイオリニストとは思わないが、それをやや小粒にしたような印象。きれいで繊細、静かな演奏、大きな波乱が起こらないのが分かっているので安心感があるが、逆にスリリングな刺激感に乏しい。決して悪い演奏ではないが、この盤でなければ得がたい魅力には乏しいと思った。これはパールマンというヴァイオリニストに対する自分のイメージとスッポリ重なる。

 オーケストラの導入部が終わって、独奏ヴァイオリンの最初の一音が出たときに誤魔化しようのないまことに頼りない音がして、即座に「ひ弱だな~」と思った。この第一印象は不幸なことに最終楽章まで持続した。彼は1945年生まれだから現在63歳、この演奏の時点では39歳だった勘定になるが、この時点でこの程度なら将来性云々の段階ではなさそう。ばっさり、切り捨てさせてもらって先に進もう。

 それなりのレベルの高い演奏との印象を受けたし、指揮者、オーケストラもまったく他と遜色ない。しかし、何か違和感が終始つきまとった。これまでの試聴で範となるシェリングの第一楽章の演奏時間25分58秒、キョンファは24分53秒で約1分の違いにすぎないのでテンポの問題ではなさそうで、よく考えてみるとたっぷりと(ヴァイオリンが)歌って欲しいところで歌っていないのが原因だと気がついた。もうひとつ、国籍の違いを言うとどうしようもないが、アジア人が弾いたヨーロッパの曲という違和感も自分には拭えなかった。結局、国籍を問題にしないほどの高い芸術性の域に達した演奏ではないといえば言いすぎになるのかなあ~。

 近年、この協奏曲の名盤、決定盤として定評(音楽評論家による選出)があるが、自分の鑑賞力不足のせいかいまひとつ良さが理解できなかった。独特のカデンツァなど工夫を凝らした斬新な挑戦が自分には音楽の本質とかけ離れたスタンドプレイに映ってしまうのだからどうしようもない。最近発刊されたクレーメルの自伝「クレーメル青春譜」(2007.12.31、株アルファベータ)の「自己中心的な思考と言動」(他人を謗る資格がない自分だが・・)の持ち主との印象を受けた読後感とつい重なり合ってしまう。どうも、このヴァイオリニストとは波長が合いそうにない。ただし、この盤は録音はいい。

10 現代的な爽やかさを感じさせる演奏で好感を持った。正面から攻めていく潔さに一陣の涼風が吹き抜ける印象。テツラフというヴァイオリニストは初めて名前を聞くし、演奏を聴いたのも初めてだがなかなかいい線いってるじゃん。技巧も冴えているしヴァイオリンの透徹な音色の中に簡単には折れそうにない芯がある。さっそく、ウィキペディアを覗いてみると1966年生まれのドイツ出身とある。現時点で42歳だから芸術家としてはまだ若い。バッハからシェーンベルクまでレパートリーも広い。これは将来が非常に楽しみで極めて有望株の印象あり。
なお、この盤はオーケストラもいいし、音質も良かった。しかも全体時間が40分ほどで通常の演奏よりも5分ほど短く、スイスイと弾ききった印象。

以上、前半戦10枚の試聴が終わったが、自分の一押しはいまのところ
シェリング。(もちろん、ヌヴーは例外的な存在)。

後半戦はハイフェッツ(2枚)、シゲティ、フランチェスカッティなど大物たちが続々と控えているが果たしてこれを超える盤が出てくるんだろうか。

以下♯2(11~19)の試聴へと続く。    

   

 


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読書コーナー~「大変化」~

2008年03月05日 | 読書コーナー

たまには固い話をひとつ。「日本の未来について」。

「日本経済の未来に漠然とした不安を感じている人は多いはず。世界最速で進む少子高齢化、ニートやフリーターの増加、国際社会で存在感が薄れつつある日本外交などマイナス材料は多い。

日本はこの先一体どうなっていくんだろう?悪い方向にいかないために社会全般に亘って早急に実施されねばならない施策とは何か。

フランスの思想家アランは「悲観は感情の産物であり、楽観は意志から生まれてくる」と言った。明るい日本の未来を築いていくためには何が必要であるのか、
読者の皆さんと一緒に考えていきたい。」(要約)

以上の「まえがき」に興味をそそられて読んでみたのが
「大変化」(2008.1.10、講談社刊)

著者の伊藤元重氏は東京大学大学院経済学研究科教授。

やや、かた苦しい肩書きとは裏腹に、自分のような
ぼんくら同然にも分かりやすい語り口なのが気に入った。何よりも、「読者の皆さんと・・・」の言葉が謙虚な姿勢をうかがわせて大変よろしい。通常、学者さんは「教えてやるぞ」という雰囲気がプンプン匂うものだが、それが最初から最後まで一貫して皆無なので読後感が実にさわやかだった。

本書の構成は次のとおり。

第一章 日本経済は復活したか
第二章 二十一世紀のリアリティ

第三章 日本の活力を高める方法
第四章 日本の競争力
第五章 技術革新のインパクト

第六章 グローバル化の波
第七章 少子高齢化への改革
第八章 日本の食糧の未来を考える

自分の理解促進のために各章のポイントを整理してみた。

第一章 日本経済は復活したか
いまの景気回復は本物ではない。最近の日本経済の拡大は「好調な世界経済での円安=好調な輸出」「30兆円にも及ぶ財政支援」「超低金利」の3つのアクセルで支えられているが、この三つは極めて当てにならない。(※何と、3月3日時点で円が1ドル=102円となって裏付けされた!)

第二章 二十一世紀のリアリティ
次の3点に要約できる。

 日本はもう高度成長できる社会ではない。「成熟した社会の豊かさとは何だろうか」を考える時代に入っている。
 アジアを中心としたグローバル化に対して、いかにプラスの方向に転じていくか。
 現在の社会は、後世、大変な技術革新の時代だったと驚嘆を持って振り返られる社会。この技術革新の時代をどう生きていくか。

特に、については労働の質がレイバー(肉体労働)→ワーク(オフィス、工場での労働)→プレイ(機械にもITにもできない人間的な仕事)へと変質していく。

第三章 日本の活力を高める方法
日本の活力を高めていく方法は次の二つしかない。
 「あるものを使う」こと。国内にある経済資源、わずかな天然資源、目に見えない技術などの無形資産などの有効活用。
 「海外の力を日本の中に取り込んでいく」
これには二つの側面がある。ひとつは「国際分業、海外投資の推進、日本の比較優位と海外の比較優位の活用」。もうひとつは、「日本社会の外への開放」

第四章 日本の競争力
日本の競争力には強みと弱みとがある。
まず強みは、「日本らしさ」が競争力の原点。グローバル化の進展に対して日本の特徴を維持する。
次に弱みは「縦型の産業」であるがゆえに「横型の産業」への転換に遅れを取ること。実に興味深い内容だが長くなるので省略。
これら強みと弱みを踏まえて、スマイルカーブ(人間が笑うと口の両端が上がるが、その形になぞらえて収益構造を表す言葉)の提案。左端と右端に位置する上流と下流は儲かるが真ん中は利益が低い。たとえば、アルマーニ(上流)とユニクロ(下流)の例など。

第五章 技術革新のインパクト
現在の世界経済の成長は、科学技術の発達と市場経済との連携、そして、市場経済の世界規模での広がりによって成り立っている。
IT革命はその象徴だが、本来は「デジタル革命」と称すべきもの。技術革新と経済との関係を
「補完」「代替」の視点から見極めることが大切。

第六章 グローバル化の波
二つの視点がある。ひとつ目はグローバル化という前提なしに日本の未来を語ることはできない、二つ目は社会を積極的に開放することなしに日本社会の活性化はありえない。結局、外国人の受け入れを前提として、犯罪や住民との軋轢防止などをサポートする社会の仕組みを作っていかざるを得ない。

第七章 少子高齢化への改革
これは日本にとって最も大きな問題である。二つの視点から考えるべきで、
一つ目は「少子高齢化の流れを止めることができるのか」、
二つ目は「少子高齢化の流れが止まらないことを前提としたときに、どうすれば日本社会の活力を維持できるのか」。
一つ目は極めて困難なので、二つ目の対策が重要。
そこで、60歳代の年金制度の見直し(たとえば70歳まで働き、それ以降の高額年金支給制度の選択制)や雇用制度の見直し(年功賃金制、終身雇用制)、「長生きすることのリスクの軽減=高齢者が死ぬ瞬間にすべての蓄えを使い切る状態」などへの仕組みの改善が必要。

第八章 日本の食料の未来を考える
食料の問題は”待ったなし”の状況。輸入に頼っている現状が続けば、中国やインドがそのうち豊かになって世界中の食料を買い漁るようになると食料価格が高騰するのは目に見えている。

食料政策のあるべき姿についてポイントが3点ある。

 農業を担う人材と農地の関係をどう再配分するか。農地問題が日本農業再生の鍵を握っている。東京都の総面積の1.8倍前後ある全国の耕作放棄地の流動化。

※「俺の土地は売りたくない」→「農地は一体誰のものなのか」→「NTTの回線は一体誰のものなのか」に通じる話というのが面白かった。
2 「経営体」の問題。「誰が農業をやるのか」→「株式会社をはじめとしたいろんな経営組織形態の参入は当然のこと」 
 公的な資金や支援をどのように使うか→より中長期的な視点から強い農家を育てる国家戦略が必要。

最後に「農業の多面的機能」(環境保持、農村社会、景観、食文化、食料の安全保障など)の維持について政策的見地からの独自の理論が展開される。

※最近の中国産餃子の農薬問題から日本の食糧自給率の問題が浮き彫りになったこともあって、この第八章のテーマは実に新鮮で興味深かった。 

以上のとおり、ひととおり読んでみて日本社会が直面している難しい問題を極めて平易な語り口で分かりやすく書かれていることに今更ながら感心する。こういう問題には疎い自分でも珍しく知的満足感を覚えた。掛け値なしにいろんな方にお薦めしたい本。

しかし、これほど素晴らしい内容を持った本なのに「大変化」という表題はあまりにもありふれていて残念、もっとふさわしい題名はなかったのだろうか

    


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愛聴盤紹介コーナー~モーツァルトのピアノ・ソナタ~

2008年03月01日 | 愛聴盤紹介コーナー

モーツァルトのピアノ・ソナタはオペラ「魔笛」に次いで大好きな曲目。昔から常に手もとにおいて途切れることなく聴いてきたのですっかり耳に馴染んでいる。

ソナタは全部で17曲あり、それらは第1番K(ケッフェル)279から第17番K.576までということで彼の短い生涯(35歳)の中でも年齢的にかなり幅広い時期に亘って作曲されている。

このソナタがモーツァルトの600曲以上にものぼる作品の中でどういう位置づけを占めているかといえばあまりいい話を聞かない。

まず、このソナタ群の作曲の契機や具体的な時期などの資料が非常に少ない点が挙げられる。
理由のひとつとして、モーツァルト自身がこのジャンルの作品をあまり重要なものと見なさなかったからという説がある。彼の関心は時期にもよるが、ほぼ一貫してオペラにあった。そして、ピアノ協奏曲、交響曲がこれに次いでいるという。

たしかに自分もそう思うが、作品の価値は作曲者自身の意欲や位置づけとは関係ないのが面白いところ。たしかにオペラが一番とは思うが、その次に来る大事な作品は個人的にはピアノ・ソナタだと思っている。

というのは、ピアノはモーツァルトが3歳ごろから親しみ演奏家として、そして作曲家としての生涯を終始担った極めて重要な楽器であり、このピアノ単独のシンプルな響きの中に若年から晩年に至るまでのモーツァルトのそのときどきのありのままの心情がごく自然に表現されていると思っているから。

さらにオペラは別として交響曲やピアノ協奏曲は何度も聴くとやや飽きがくるが、このピアノ・ソナタに限っては、何かこんこんと尽きせぬ泉のように楽想が湧いてくる趣があり、モーツァルトの音楽の魅力が凝縮された独自の世界がある。この魅力に一旦はまってしまうと
”病み付きになる”こと請け合いである。

なお、実際に演奏する第一線のピアニストによるこのソナタの評価を記しておこう。

「モーツァルトの音楽は素晴らしいが弾くことはとても恐ろしい。リストやラフマニノフの超難曲で鮮やかなテクニックを披露できるピアニストが、モーツァルトの小品ひとつを弾いたばかりに馬脚をあらわし、なんだ、下手だったんだ、となることがときどきある。粗さ、無骨さ、不自然さ、バランスの悪さ~そのような欠点が少しでも出れば、音楽全体が台無しになってしまう恐ろしい音楽である!」
(「モーツァルトはどう弾いたか」よりH12 久元祐子著、丸善(株)刊)

さて、モーツァルト・ワールドに入り込むために欠かせないこのソナタのCDはものすごく沢山のピアニストが録音しており枚挙にいとまがないが、いまのところ次の5名のピアニストのものを所有している。

☆1 グレン・グールド「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」(4枚セット)
    録音:1967年~1974年

☆2 マリア・ジョアオ・ピリス「同 上」(6枚セット)
    録音:1989年~1990年

☆3 内田光子「同 上」(5枚セット)
    録音:1983年~1987年

☆4 ワルター・ギーゼキング「ソナタ10番~17番」(2枚セット)
    録音:1953年

☆5 クラウディオ・アラウ「ソナタ4番、5番、15番」(1枚)
    録音:1985年

                
         1                 2                 3

                     
                 4                    5

世評の高いイングリット・ヘブラー、リリー・クラウスの両女史のCDを持っていないが今更購入する気はない。この二人が束になってかかってもおそらくピリスには及ぶまいと思うから。とにかく5名ともいずれ劣らぬレベルの高い奏者ばかり。それぞれ部分的ではあるが、この5名を一気に聴いてみた。

以下、自分勝手な感想を記してみる。

1 グールドについては、これまで耳にたこができるほど聴いてきた。「ピアノ・ソナタといえばグールド」の時代が長く続いた。あの独特のテンポにすっかりはまってしまったのが原因。音楽の世界に句読点を意識したのは彼の演奏が初めてである。盤のライナーノートに、このアルバムは世界中のグールド・ファンの愛聴盤と記載されていたがさもありなんと思う。
一番好きなのは第14番(K457)の二楽章。しかし、さすがに15番以降は逆にテンポが早すぎてついていけない。
なお、グールド自身は作曲家モーツァルトをまるで評価しておらず、このソナタについての感想も何も洩らしていない。
(「グレン・グールド書簡集」で確認)

2 近年、グールドに替わって聴く機会の多いのがピリス。とにかく抜群の芸術的センスの持ち主である。一言で言えば”歌心(ごころ)”が感じとれる。澄んだ美しさと微妙なニュアンスがとてもいい。ずっと以前に有料のPCM放送のクラシック専門チャンネルで聴いて心を奪われ、ピリスの演奏であることを確認してすぐに全集を購入した。第1番から17番まですべてが名演で当たり外れがない。なお、ピリスには旧録音と新録音があって、これは新録音の方である。

3 日本を代表する世界的な音楽家といえば小澤征爾と内田光子さん。しかし、内田さんは活動拠点を徹底的にヨーロッパにおいているところが特徴。外交官の令嬢としてウィーンに学び第8回(1970年)ショパン・コンクールで2位入賞し一躍世界のひのき舞台に躍り出た。このソナタではヘブラー以来というフィリップス・レーベルの期待を担っての録音。グールドにもピリスにもないピアノの響きと香りが内田さん独自の解釈とともに展開されていく。これが日本と西欧の知性と感性が合体した「内田節」なのだろう。

4 ずっと昔に名演として誉れ高かったので購入したのだが、当時グールド一辺倒だったのでほとんど聴かずじまいのCD。何せ当時の録音なのでモノラルであり、オーディオ装置も今ほどは凝ってなかったので音が悪くて聴く気がしなかったわけ。
今回改めて引っ張り出して聴き直したが、ハッキリいってやっぱり良くなかった。というよりは自分には良さが分からなかったというべきだろう。改めて、まず録音が良くない。ヴァイオリンの場合はジネット・ヌヴーの熱演があの録音の悪さでも十分伝わってくるのだが、ピアノの場合の録音の悪さはどうしようもない。まあ、リパッティの例もあるので断言は出来ないが・・・。演奏の方は気負いも衒いもなく淡淡としたオーソドックスなもので、範とするに足るものだと思った。

 購入したいきさつを忘れてしまったほどのアラウ盤だが、ほんとうに久し振りに聴いた。ところがウーン・・・豊かな深い音色で弾かれる骨格の太いソナタにすっかり参った!
とても美しい音色で、その美しさが表面に留まっていない。武骨だがしみじみとした音が胸の中に温かいものとなってジワーッと広がり、そこからにじみ出てくるような美しさなのである。
この何ともいえない美しさはグールドにもピリスにも内田さんにも感じられなかったもので、とても新鮮に感じた。ゆったりしているテンポも味わいがあっていい。
音質の方も1985年のスイスでのデジタル録音なのでこれで十分。途中で止めるのが惜しくなって、最初から最後まで聴いたのはアラウだけだった。しかし、残念なことに彼はソナタ全曲を録音するに至っていない。

以上、こうして5人を聴き比べてベスト盤をと思ったのだが、このピアノ単独演奏にはそれぞれの大ピアニストの個性と芸術性が凝縮されていて、その日の体調次第で印象が左右されそうな感じで簡単に優劣をつけられないと思った。強いて言えば現在のオーディオ装置の音色と相性がいいということでアラウ盤ということになる。

これまでアラウを少しばかり見くびりすぎていたのかもしれないと思い、あわてて、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ32番を取り出して聴いてみた。

もしかすると、あのバックハウスの神盤を越えているかもと思ったのだが、大丈夫(?)だった。彼にはベートーヴェンのシリアスな曲調は苦手のようで、やはりモーツァルトのような自然な流れの音楽が似合っていると再確認した。

  

 


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