「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~世にも美しい数学入門~

2007年04月29日 | 読書コーナー

学生時代、数学にはあまり興味が持てなくて、しかたなく入学試験のためだけに勉強した記憶があるが、卒業してしまうとすっかり脳裡から消え去ってしまった。

しかし、
「世にも美しい数学入門」(2005年4月刊行。ちくまプリマー新書)を読んでみて数学という学問の面白さの一端にふれる思いがした。

著者は藤原正彦氏と小川洋子氏で、この本はお二人の対談形式で進められている。

藤原正彦氏お茶の水女子大学教授、数学家、大ベストセラー「国家の品格」の著者

小川洋子氏1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞、「博士の愛した数式」の著者。つい先日(4月26日)のニュースで芥川賞選考委員に選出。

この本の中味を一言で言えば「数学の美しさと真理の世界」を一般向けに噛み砕いて分りやすく言及したものである。内容をかいつまんで紹介しよう。

構成は次のとおり。

≪第一部 美しくなければ数学ではない≫
1 恋する数学者達の集中力
2 数学は役に立たないから素晴らしい
3 俳句と日本人の美的感受性
4 永遠の真理の持つ美しさ
5 天才数学者の生まれる条件
6 「博士の愛した数式」と「友愛数」
7 ゼロはインド人による大発見
8 「完全数」と江夏の背番号
9 「美しい定理」と「醜い定理」
10 「フェルマー予想」と日本人の役割

≪第二部 神様が隠している美しい秩序≫
項目省略

以上の項目を見ただけで、おおよそ内容の想像がつくと思うが特に面白いと思った点を抜粋してみよう。

3 あらゆる学芸の中で国際水準から見て日本が最も強いのは文学、それから何歩か遅れて数学。数学が何故強いのか。それは日本人の優れた美的感覚にあり、俳句のおかげという説あり。たった17文字から大自然、宇宙全体を表現できる。

4 三角形の内角の和は180度。これは数学の特質が持つ永遠の真理の一例。他の分野ではどんな真理でも時代の産物でその場限りの存在にしかすぎない。

5 天才数学者の生まれる条件は次の3つを満たすこと。

何かにひざまずく心を持っている
子供の頃から身の回りに美しいものを見ている
物欲を持たない、精神性を尊ぶ気風

6 友愛数とは→一番小さな組み合わせとして220と280の数値が友愛数である。220の約数は自分を除いて1、2、4、5、10、11、20、22、44、55、110で全部足すと284になる。一方、284の約数は同様に1、2、4、71、142で全部足すと220になる。

7 ゼロには3つの役割がある。

位(くらい)を表わす
ものさしで計るときの出発点
なにもないこと。
ゼロを発見したのはインド人。何もない概念はヨーロッパでは無理で東洋じゃないと発見できない。これはアジア人の勝利。

8 完全数というのは約数を全部足すと自分自身になる数字。一桁の場合は6だけ。つまり1+2+3=6、同様に2桁では28、3桁では496、4桁では8128、その次の完全数は8桁になる。因みにこれらは連続した自然数の和でも表わされる。例えば28=1+2+3+4+5+6+7。
著作「博士の愛した数式」の成り立ちのキーポイントは江夏の背番号が28であることだった。

10350年間余に亘って難問とされた「フェルマーの最終定理」がイギリスの数学者ワイルズによって1993年に証明されたが、もとになったのは日本の数学者が発見した「谷山=志村予想」と「岩澤理論」だった。

ここで、著者の「あとがき」をそっくり引用させてもらおう。

物質主義、金銭至上主義がはびこる中で、現代では物事の価値が役に立つか立たないかで判断されるようになった。小学校から大学まで強調されるのは実学ばかりである。

本書では、この風潮に一矢を報いんと高貴な学問の代表である数学の復権を試みた。学校の数学では基本概念を理解しそれを用いて問題をすばやく解くことが重視され美しさを鑑賞するまでには至らない。本書ではその美しさを中心テーマとした。

数学や文学や芸術で最も大切なのは「美と感動」だと思う。これらは金儲けに役立たないし、病気を治すのにも、平和を達成するのにも、犯罪を少なくするのにもほとんど役立たない。

しかし、果たして人間は金儲けに成功し、健康で、安全で豊かな生活を送るだけで「この世に生まれてきてよかった」と心から思えるのだろうか。

「生まれてきてよかった」と感じさせるものは美や感動をおいて他にないだろう。数学や文学や芸術はそれらを与えてくれる点でもっとも本質的に人類の役に立っている。読者が本書を通じてそんな著者の想いを感じていただければ幸いである。


以上、この「あとがき」付け足すものは何もないが、そういえば、じぶんが何ら生活の足しにもならない「音楽とオーディオ」を通じて約40年間に亘って追い求めているのも「美と感動」なのかもしれない。

                     

















 


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魔笛視聴コーナー~DVDの部~♯4

2007年04月28日 | 魔笛視聴コーナー~DVDの部~

DVD番号      GNBC-5007
収録年        1978年

評価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総   合     A-     音楽性と観劇性とが調和した佳作

指揮者       A-     レオナルド・ハイティンク(1929年~    )

管弦楽団     A-      ロンドン・フィルハーモニー

合唱団       A-      グラインドボーン音楽祭合唱団

ザラストロ     B+      トーマス・トマシュケ

夜の女王      A-     マイ・サンド

タミーノ       A-      レオ・ゲーク

パミーナ      A-      フェリシティ・ロット

パパゲーノ     B+      ベンジャミン・ラクソン

演出・舞台装置  A-

音    質     B+     奥行き感とセパレーションが物足りない

上映時間     164分(カラー)

グラインドボーン音楽祭における実況録音である。ハイティンクが49歳のときの収録となるが、3年後の1981年にはCDによりスタジオ録音を行っている。

CD盤の収録と違って舞台での実況録音となると、実際に台詞を言い、演技をし、しかも歌わねばということで一人三役で大変忙しいだろうと歌手には同情する。

その割には、無名の歌手が多いにもかかわらずよく歌い、よく演技している印象。これもハイティンクの手腕だろう。

実際に舞台を観ながら鑑賞するともっと良さが分かるのだろうが、DVD盤になると音質がいまひとつの印象。演出や舞台装置で十分カバーできればとも思うがどうも中途半端のようで、このDVD盤ならではというセールスポイントに欠けるようだ。

しかし、ハイティンクの指揮はやはりさすがと思わせるものがあり、音楽性は高い。


                        
     パミーナ役→フェリシティ ロット


 


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魔笛視聴コーナー~DVDの部~♯3

2007年04月24日 | 魔笛視聴コーナー~DVDの部~

DVD番号      DLVC-8003
収録年        1976年

評価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総    合   A-   演出・舞台装置が華やかで映像優先の魔笛   
 
指揮者      A-   ゲルト・バ-ナー

管弦楽団     A-   ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団

合唱団      A-   ライプツィヒ歌劇場オペラ合唱団

ザラストロ     A-   ヘルマン・クリスティアン ポルスター

夜の女王     A-   インゲ・ウィーベル

タミーノ       A-   ホルスト・ ゲプハルト

パミーナ      A-   マグダレーナ・ファレビッチ

パパゲーノ     B+   ディーター・ショルツ

演出・舞台装置  A+

音    質     B+   セパレーション不足でやや歪っぽい音質
    
上映時間   158分(カラー)

ライプツィヒ市立歌劇場での実況録音だが、音声はDVD化の際に別に吹き込み直しているようだが、それにしては音質があまり良くない。

カバーにはステレオと記載してあるがモノラルに近い印象で、大きな音声になるとやや歪っぽくなる。

ザラストラ役は役柄に合った容姿ではないが、しっかりしたバスを披露している。
夜の女王役もなかなか好演である。
タミーノ役は歌唱力、演技ともに熱演で過不足なしの印象。
パミーナ役は配役の中で傑出しており、このオペラの華となってきれいなソプラノを披露しているがもっと艶っぽさがほしい。パパゲーノ役は歌唱力、演技、容姿にメルヘン的な雰囲気がほしい。

音質がもっと良ければと残念だが、歌手達以外にも全ての端役に出番を与えて隅々まで気を配っている印象を受けた。演技、演出、舞台装置には大いに観るべきものがあった。

観劇する方に重点をおいたオペラであり、音楽には期待しない方がいいが、DVDだからそれでいいのかもしれない。存在価値あり。

                      

    パミーナ役→マグダレーナ ファレビッチ

 



 


 


 


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魔笛視聴コーナー~DVDの部~♯2

2007年04月21日 | 魔笛視聴コーナー~DVDの部~

DVD番号      KKDS-61
収録年        1974年
映画監督      イングマル・ベルイマン(1918年~  ) 

評価
(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総    合      B+    音楽ではなく、劇映画として鑑賞すべき魔笛

指揮者        B+    
エリック エリクソン(1918年~    )

管弦楽団       B+    スウェーデン放送交響楽団

合唱団        B+      同上合唱団

ザラストロ       B+    ウールリグ・コール

夜の女王       B+    ビルギット・ノールディン

タミーノ        B-     ヨーゼフ・ケストリンガー

パミーナ        A-    イルマ・ウッリラ

パパゲーノ       A-    
ホーカン・ハーゲゴード

演出・舞台装置    B+

音    質       B-    クリアーさに欠けた音質


上映時間      135分(カラー)

監督、指揮者、歌手をはじめ歌詞も台詞も含め、全てがスウェーデン仕込の魔笛である。ベルイマン監督が少年時代から愛した「魔笛」を念願かなって映像化したものである。

音質の方はケースにはステレオとあるが、モノラルに近い。吹き替えなのにあまり良い録音とはいえず、こもった音質で映像付きでなければとても聴けない。録音機器に神経を使った形跡がない印象。

全ての歌手が可もなく不可もなくといったところだが、いまひとつ魅力に乏しい。特にタミーノ役がこれでは物足りない。

このDVDはあくまでも巨匠ベルイマン監督の映画として鑑賞すべき作品で音楽・音質に期待すべきではない。観劇する少女の表情を細かく追いかけてアップするシーンが度々あり映像に芸術的な意義を求めているようだ。そう思って割り切って鑑賞していると味のある魔笛になる。 

しかし、第2幕で20分ほどカットしており、そのせい(?)で映像と音が度々途切れているのはいただけない。

                                    
       パミーナ役→イルマ ウッリラ
 






 


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魔笛視聴コーナー~DVDの部~♯1

2007年04月17日 | 魔笛視聴コーナー~DVDの部~

DVD番号        DLVC-8023
収録年          1971年

評価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総   合     A-
     一流の歌手達による極めて上質の魔笛

指揮者       A-    ホルスト・シュタイン(1928年~   )

管弦楽団     A-     ハンブルク・フィルハーモニー

合唱団       A-        同上合唱団

ザラストロ     A+     ハンス・ゾーティン

夜の女王     A+     クリスティーナ・ドイテコム

タミーノ       A-     
ニコライ・ゲッダ

パミーナ      A+     エディット・マティス

パパゲーノ     A-     ウィリアム・ワークマン

演出・舞台装置  A-     オペラ映画として充実している

音    質     A-     惜しいことにモノラルだが鮮明な録音

上映時間     154分(カラー)
              
このDVD盤は、映画としてスタジオで作成されており、いわゆる「オペラ映画」と称されるもので、音声と映像が別々に収録されている。

指揮者シュタインはドイツ出身であのヴァントに指揮法を学び、1969年からはバイロイト音楽祭の指揮者としても活躍していた。

歌手陣の豪華さには目を見張るものがあり、ザラストロ役のゾーティンは容姿、音声ともに申し分なく役柄のイメージを十分発揮しており、CD盤の録音が無いのが実に惜しい程の実力。

夜の女王は、CDの部でも存分の実力を発揮したドイテコム(ショルティ盤)であり、ここでも安定感のあるコロラツゥーラを披露してくれた。

タミーノ役はやや歌唱力に不満があるものの、許容範囲だろう。パパゲーノ役も適役であり、パミーナとの二重唱も相性がよくなかなか聴かせる。

パミーナ役はあのエディット・マティス(カラヤン盤)である。天は彼女に美貌と美声という二物を与えたようで、とにかく映画俳優以上の容姿端麗さには驚いた。映像付きだと真価が倍以上になる感じで、彼女のためだけにこの盤を購入してもいいほど。

DVD視聴の場合は、CDの試聴と違って、音楽と音質に加えて演劇と画質が加わり、オペラ本来の大事なポイントになるが、このDVD盤はこの4つのポイントがそろった良好な盤であり、最初から幸先が良い。

154分の上映時間があっという間に過ぎ去ってしまうほどの密度の濃い魔笛で、ステレオに越したことはないがモノラル録音のハンディもそれほど気にならならない。

歌手陣が伸び伸びと実力を発揮した印象でこの豪華メンバーで是非CD録音をして欲しかったほど。指揮者シュタインの緩急自在の指揮も好ましい。

                         
     パミーナ役→エディット マティス



  

 

       

 


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音楽談義~指揮者とは何か♯2~

2007年04月15日 | 音楽談義

近代指揮者の誕生
19世紀初頭、次々に画期的な交響曲を生み出していたベートベンの指揮振りが細かく伝えられている。少し長くなるが引用してみよう。

「彼は様々な身振りをして間断なく忙しかった。ディミヌエンド(次第に弱くなる)を表わすために段々低くかがみこみ、ピアニッシモ(きわめて弱い)では机の下にほとんど腹這うばかりになった。音量が大きくなるとあたかも奈落からせり上がるように立ち上がり、オーケストラが力いっぱい奏するところに入ると爪先で立って巨人もかくやとばかり大きくなり、両腕を振り回して空に舞い上がるかのように見えた。」

いささか滑稽な様子だが、ベートーベンの音楽への誠実さが何よりも伺える記述である。ここから読み取れるのは、ベートーベンが拍子の指示だけではなく音楽の表現力を楽団員に意識させることを実践していたことだ。

バトン・テクニックは問題ではなくて、意識は全て音楽に向けられ身体全体で表現を試みていた。練習中にもテンポはもちろん細かい音のニュアンスにも気を配り一人ひとりの楽員達と話し合っている。

明らかに近代指揮者への道をベートーベンは踏み出していた。

19世紀初頭は指揮の歴史の大きな変わり目であり、その方向を決定付けたのはヴェーバー、メンデルゾーン、ベルリオーズ、ヴァーグナーなどだった。彼らは指揮の仕事が作曲家の考えを見極め、音楽を統一体としてとらえ的確にかつ柔軟に表現する、いわば解釈としてのレベルに引き上げた。

なかでも、ベルリオーズとヴァーグナーは「指揮法」に関する著作を有するが、これは自分の作品が時代を超えて完全な表現を求めた結果の産物だった。

何故、指揮者がそこにいるのか

オーケストラのコンサートで、ひとりの人間が皆より遅れて舞台に登場し中央に立って挨拶もそこそこに聴衆に背を向けて手にした棒を振り回すという図は改めて見直せば奇妙に思えるかもしれない。

しかも、プログラムや広告でオーケストラの前に必ずその人間の名前が特筆大書されるのはどういう理由だろうか。
自ら音を出さない人間がどうしてそれほど重んじられるのか。果たして指揮者は必要なのだろうか。

アプローチのひとつとして指揮者無しの状態を考えてみよう。

小規模楽団の場合→ヴァイオリンの首席奏者の首の動きで奏きはじめる。

大規模編成の楽団の場合→1922年モスクワで人民が主役の政治という発想から指揮者無しのオーケストラがつくられ、コンサートが行われた。

作曲家プロコフィエフはその主要な難点はテンポを変える点にあると見ていたという。音楽の流れを緩急自在に変化させるのは奏者全員の総意にしたがってというわけにはいかず(到底、間に合わない!)、少なくとも演奏の開始は誰かが合図しなければ始まらない。ちなみに、この団体は1932年に解散したという。

しかし、指揮者の存在は全体の始まりやまとめるだけの役割に過ぎないのだろうか。指揮者次第でオーケストラが一変し聴衆を感動の渦に巻き込むのは何故だろうか。

ここで、シャルル・ミュンシュ著の「指揮者という仕事」93頁~95頁にその大事な回答が示されているので要約して引用しよう。

「指揮者は楽員達の意欲を刺激し、音楽が自分の中に生じさせるあらゆる感情を楽員達に吹き込むためにその場にいなければならない。指揮者にはそのために使える重要な手段が二つある。
身振りと眼差しである。多くの場合、眼差しの表現は手や指揮棒より重要である。

「身振りについては柔軟さが大切で右手は音楽を”線で描き”左手は”色彩を与える”ようにして、いろんな動きの中に音楽のニュアンスと同じくらい微妙な差異がなければならない」

「こうやって、指揮者からオーケストラへ伝わる火花、電流、霊気、それにリハーサルで入念に準備された演奏がコンサートの晩を素晴らしいものにする。」

以上の記述で指揮者の存在理由が大体説明できそう。

オーケストラ楽員は指揮者に何を期待するか
アメリカで実際にアンケートをとった結果があるのでいくつかピックアップして紹介しよう。

・音楽について際立った解釈をして楽員を奮い立たせること。
・ソロ(単独演奏)が力まないでもはっきり聴き取れるようにオケのバランスをとること
・明瞭なビート(拍子の指示)は基本的な役割
・本番中に事故(演奏者が思わず犯すミス)が起きても気づかない振りをすべき。
・トスカニーニの時代は去ったことを悟るべきだ。芸術上の独裁者は良くない。
・指揮者は最小限の「発言」で意思伝達が出来るように。トスカニーニは実に非凡でそれをバトンテクニックの技のうちに秘めていた。
・リハーサルで奏きそこないがあるたびに冒頭に戻る習慣は、楽員たちの反感を買うだけだ。
・奏者と楽器の両方の能力と限界を知っている専門家であるべき。
・教師であり、指導者であり、最高の専門家であり、そして音楽史上の偉大な作曲家達の最も深遠な思想が通り抜けねばならない煙突である。

ここで、やや話がそれてしまうが、指揮者トスカニーニが亡くなって(1957年)今年で丁度50年経つが、いまだに二、三の楽員が言及していることが興味深い。トスカニーニはその強烈な個性もあっていまだに指揮者の象徴なのだろう。

ただし、「指揮台の神々」(ルーペルト・シェトレ著)254頁によると、東京のある音楽大学の入学試験で、尊敬し模範とする指揮者はとの設問に対して全員がフルトヴェングラーと回答したそうだが。

とにかくトスカニーニの魔笛のCDライブ盤(1937年)は録音が滅茶苦茶に悪いので到底他人に薦めることは出来ないが演奏の方は図抜けている。近年の指揮者がとても及ぶところではない気がする。

彼が録音した一連の作品を没後50年の記念アルバムとして最新のデジタル・リマスターで発売する企画があるといいのだがとても商売にはならないだろうな~。
  

                            
 


 

 

 


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魔笛視聴コーナー~CDの部~まとめ2

2007年04月14日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

あくまでも、好みの範囲内に過ぎないのだが魔笛演奏の評価の基準となったのは、やはり、歌手の歌唱力が一番でそのほかには劇の進行のリズムとテンポ、「演奏、歌声、台詞」のバランスなどだが、結局、21セット中総合A+は次の4セットだった。

♯5 ベーム盤(1955年)

ベーム指揮のもとでウィーンフィルが実に良く鳴っており、約50年も前なのにデッカの録音は実に聴きやすい。解像力は別にしても包み込むような豊かさを感じさせ、どこまでもイメージを広げてくれる魔笛である。この盤を聴くと故郷に戻ったようでほっとする。

♯10 サバリッシュ盤(1972年)

ペーター・シュライアーをはじめ、歌手陣の粒がそろっており、伸び伸びと実力をフルに発揮した印象。荘厳さ、華麗さ、情熱、メルヘン・・・。全ての要素が感じられる魔笛。

♯12 ハイティンク盤(1981年)

全ての科目でまんべんなく高得点を重ねる印象。優等生タイプで心が温かくなる穏やかな魔笛。グルベローヴァをはじめ歌手陣も高い水準。録音も秀逸でバランスがとれている。

♯13 デービス盤(1984年)

雄大なスケールのもとで、正統派、本格派といった言葉がピッタリする魔笛。シュライアーをはじめ歌手陣の充実度も十分で、特に主役のタミーノ役とパミーナ役の相性が抜群で欠点が何ら見当たらない魔笛。

しかし、総合A+に近年の古楽器使用の魔笛が入っていないのは少し残念。クリスティ指揮は洗練の極みでいい線をいっているのだがやや肌触りが冷たすぎる気がする。それと1964年のベーム盤は不世出のテノール歌手ヴンダーリッヒの貴重な遺産として記憶に残る。

次に夢のベストメンバーとして個別のA+評価を列挙してみよう。

指揮者(4名)
カール・ベーム ウォルフガング・サバリッシュ ベルナルト・ハイティンク コリン・デービス

管弦楽団(2) 
ウィーン・フィルハーモニー ベルリン・フィルハーモニー

ザラストロ役(2名)~バス~
ヨーゼフ・グラインドル(フリッチャイ盤、カイルベルト盤)ルネ・パーペ(アバド盤)
          
夜の女王役(6名)~コロラトゥーラ・ソプラノ~
ロバータ・ピータース(ベーム1955年盤) 
クリスティーナ・ドイテコム(ショルティ盤1969) エディタ・グルベローヴァ(ハイティンク盤、アーノンク-ル盤) チェリル・スチューダー(マリナー盤) ナタリー・デッセイ(クリスティ盤) シンディア・ジーデン(ガーディナー盤)

タミーノ役(4名)~テノール~
ヘルゲ・ロスヴェンゲ(ビーチャム盤) アントン・デルモータ(カラヤン盤1950年) フリッツ・ヴンダーリッヒ(ベーム盤1964年盤) ペーター・シュライアー(サバリッシュ盤、スイトナー盤、デービス盤)
                  
パミーナ役(9名)~ソプラノ~
テレサ・スティヒ・ランダル(カイルベルト盤) ヒルデ・ギューデン(ベーム盤) グゥンドラ・ヤノヴィッツ(クレンパラー盤) ヘレン・ドーナト(スイチナー盤) マーガレット・プライス(デービス盤) エディット・マティス(カラヤン盤1980) バーバラ・ボニー(アーノンクール盤、エストマン盤) ローザ・マニオン(クリスティ盤)
クリスティアーネ・エルツェ(ガーディナー盤)
         
パパゲーノ役(2名)~バリトン~
ゲルハルド・ヒッシュ(ビーチャム盤) ワルター・ベリー(ベーム盤1955年、クレンペラー盤、サバリッシュ盤)

以上の結果は自分の好みを反映しているに過ぎないが、こうやって見てみると、男性歌手に対して辛い評価になってしまった。

特にザラストラ役の本格的な超低音は極めて難度が高く夜の女王役のコロラトゥーラの比ではないようで、その意味で現役のルネ・パーペ(アバド盤)は貴重な存在だ。

また、このオペラの主役中の主役であるタミーノ役
がペーター・シュライアー以降、人を得ていないのも近年の魔笛を寂しいものにしている。

                        
          21セットのCD盤
        






 


 







 


 


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音楽談義~指揮者とは何か♯1~

2007年04月12日 | 音楽談義

「指揮者という仕事」(シャルル・ミンシュ著、春秋社刊)は、指揮者からの視点で自分の仕事を分析したものでなかなか面白かった。

著者のミンシュは昔ボストン交響楽団を指揮していた高名な指揮者(1891年~1968年)であり、日本の代表的な指揮者小澤征爾氏の師匠だった人である。

さて、この本を一通り読んで後半にさしかかったところ、この本の翻訳者福田達夫氏が付録として巻末に「指揮者とは何か」と題して一文をよせられていた。私にとってはむしろこちらの方が分りやすかったのでまとめてみた。

オーケストラにおける指揮者の存在

「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」と言った人がいる。逆説的には「良いオーケストラはない、良い指揮者がいるだけだ」といえる。とにかく指揮者とオーケストラは昔からセットにして考えられてきた経緯がある。

ほんの一例だが、
フルトヴェングラーとベルリンフィル、同様にトスカニーニとNBC、アンセルメとスイスロマンド、オーマンディとフィラデルフィア、バーンスタインとニューヨーク、セルとクリーブランド、ライナーとシカゴ、ミンシュとボストン、ムラヴィンスキーとレニングラードといった具合である。

両者の結びつきの主な理由としては「常任指揮者であれば、楽員の採用も含めてオーケストラの運営に関与し得意とする曲目を繰り返し演奏させることで望む響きのイメージと音楽の解釈を楽員の意識に浸透させているから。」と考えられる。

指揮の始まり

音楽において指揮することはいつから始まったのか。古代ギリシアでは合唱や器楽のリズムは鉄片をつけた右足で大地を踏み鳴らすことで指示したと伝えられる。

そして音楽の発展とともに全体をまとめるために本格的な指揮が必要となり、ヨーロッパでは、初期中世の教会で、聖歌を歌う際に合唱の長が左手に棒を持ち右手を使って歌手に指示したという。

16世紀から17世紀にかけては声楽的な編成にしばられぬ器楽オーケストラが誕生し全体に目を配る指揮者の役割が一層重要となってくる。

拍子とりから音楽の指揮へ

この指揮棒はおそらく太く長く重い棒であり、床を打って鳴り響く音で拍子をとってい指揮の歴史を顧みるとき必ず取り上げられる挿話がある。それは指揮棒で一命を落とした音楽家の話である。

17世紀フランスのリュリは国王の病気平癒のための「テ・デウム」を指揮している最中に指揮棒で左足の小指の爪を誤って打つが手当てが悪かったので壊疽になり、一命を落とす。


当時の教会の薄暗い照明のもとでは、指揮棒が見えにくいこともあってやむを得なかったのだろう。ロンドンにおいても同様で舞台上の一隅の席で机をたたいて拍子を取っていた。

しかし、イタリアやドイツでは違っていた。

まず、イタリアでは指揮の仕事をつとめるのは普通二人で、一人は鍵盤楽器(チェンバロ)の席で伴奏とともに歌手を担当し、もう一人はヴァイオリンの首席奏者でオーケストラを取り仕切った。
ドイツ・オーストリアでは鍵盤楽器奏者が指揮を取るのが普通だったが、ヴァイオリンの首席奏者が指揮するやり方も行われていた。

近代指揮者の誕生

18世紀ヨーロッパ音楽(モーツァルトの時代)の大きな変化は、オーケストラが肥大化したことである。当時(1777年)のウィーン宮廷のオーケストラの編成は次のとおり。
ヴァイオリン15、ヴィオラ4、チェロ3、コントラバス3、管がフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、これに鍵盤楽器奏者2名と打楽器奏者などで全体で40名前後の規模である。

これだけ大きくなると響きに厚みと色彩が加わり、当然の成り行きで通奏低音の役割を担っていた鍵盤楽器が無用の長物になっていった。かわりに、ヴァイオリン奏者が指揮者の役割を担うようになった。

次の「指揮者とは何か♯2」では己の曲を指揮するベートーベンの詳しい様子を見てみよう。
                    






 


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魔笛視聴コーナー~CDの部~まとめ1

2007年04月10日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

1937年のビーチャム盤から2005年のアバド盤まで、21セットのCD盤(教会、ホール、スタジオ録音等)の試聴が終了したが、今のところまだ下記の7セットのCD盤が未試聴となっている。

クイケン2004、クェンツ1994年、ハラッシュ1993年、ショルティ1990年、ジョルダン1989年、コープマン1982年、レヴァイン1980年

どうやら、ネットなどで気長に探すほかは手立てがないようだが、今更ながら魔笛の指揮者がこれだけ多いことに驚かされる。おそらくあらゆる作品の中でもトップクラスではないだろうか。

さて、不完全ながら延べ21人の指揮者を通じておよそ、70年間の魔笛の演奏の移り変わりを見てきたことになるが、当然、楽譜は不変なので基本的な部分はそのままなのだが連続試聴を通じて感じたことを記してみよう。

♯13のデービス盤(1984年)を境にして、以降の魔笛は演奏がスリムになってきている印象を受けた。編成の大きなオーケストラから古楽器を使用したこじんまりとした魔笛へと流れが変わっている。

これは、魔笛創作当時(1791年)のジングシュピール(台詞に音楽を組み込んだ大衆向けの歌芝居)への回帰なのだが、何だか大河小説から私小説へと移っていく印象を受けた。

したがって、指揮者の方もやや近視眼的な傾向になってきており、その思い入れと鑑賞者の感性が合致しない場合は好き嫌いの落差が大きくなる。

バス、バリトン、テノールの男性陣で歌唱力が落ちてきている印象を受けた。過去の大歌手達と比べて人材が枯渇気味の感がする。一方、ソプラノ、ハイソプラノは百花繚乱気味でこれもやや小粒の感はするが女性陣の方がむしろ元気がいい。

極論だが、魔笛は歌手のレベル次第である程度完成度が決まる。指揮者の役割も大きいが歌手の出来具合に比べればそれほどでもない。

しかも、このオペラの性格から推して、女性歌手よりも男性歌手の方が成否の鍵を握っている。その意味で近年において質的には決して演奏が向上している傾向にはない。

録音技術の変遷については1980年頃を境にアナログ録音の時代(♯1~♯10)前期とデジタル録音の時代(♯11~♯21)後期との二つに大別される。

前期のCD盤(レコードの音源からの焼き直し)は玉石混交だが、後期のそれは確かに粒がそろって一定のレベルを確保している。しかし、デジタル録音が万能ではないことも確認できた。アナログ録音もいいものはいい。むしろベーム盤(1955年)などは、近年の録音と比べても聴きやすさにおいてそれほど遜色は無い。

主役級の登場人物が多いことから、とらえどころが無いと評されるこのオペラだが、完成度を測るものさしの一つを自分なりに見付けた気でいる。

そのものさしとは、タミーノ役(テノール)とパミーナ役(ソプラノ)の2人で、この二人が本来の主役としてしっかりした歌唱力を発揮し、釣り合いがとれ、相性がよければこのオペラはまず、きちんと成立する。逆に言えば、この二人のうちどちらかでもミスキャストがあればかなりダメージは大きい。ベームの1964年盤はその最たる例だ。

以上の四点について主として感じるところがあった。次のまとめ2(最終)では総合A+、個別の歌手達のA+を拾い出してみよう。


                       
            21セットの魔笛





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魔笛視聴コーナー~CDの部~♯21

2007年04月07日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

CD番号      ドイツグラモフォン00289 477 5789 (2枚組)
収録年       2005年

評    価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総    合    B+    歌手陣にぎこちなさ、統一感のないピンボケの魔笛

指揮者       B+   クラウディオ・アバド(1933~   )

管弦楽団     B+    マーラー室内管弦楽団

合唱団       B+   アーノルド シェーンベルグ合唱団

ザラストロ     A+    ルネ・パーペ

夜の女王     B+    エリカ・ミクローサ

タミーノ       A-    クリストフ・ストレール

パミーナ      A-    ドロシア・レシュマン

パパゲーノ     B+    ハンノ・ミラー・ブラッハマン

音    質     A-    
ライブ録音のためか音源が遠すぎて感度が低い

アバドは、ご存知のようにイタリア出身の世界的大指揮者でベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者を長年務めていた。魔笛の録音はこれが始めてで72歳時の録音となる。

なお、この盤はスタジオ録音と思っていたが、よく聴き込んでみると時折聴衆のざわめきが入っており、どうもライブ録音のようである。しかし、実に静かなもので、録音の方もスタジオ録音並であり、カテゴリーはあえてCDの部に入れた。

ザラストロ役は久しぶりに本格的なバスを披露してもらった。パーペの他を圧する堂々たる歌唱力は役柄にふさわしい。

その他の歌手は、ややぎこちなさが目だって感心できなかった。若手の積極的な起用には賛成だが、オペラに溶け込んでいないし歌唱力も伴っていない感じ。パミーナ役のレシュマンは張り切りすぎてややオーバー気味。デービス盤(DVD)の方がよかった。

最新の録音で指揮者がアバドということで期待していたのだが、正直いってかなりの失望感を味わった。ザラストロ役を除いて歌手陣にやや物足りなさが残るし、どうも訴えかけるものがない。

アバドは何故今頃になって魔笛を指揮する気になったのだろうか。


                     

 


 

 



 


 

  


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魔笛視聴コーナー~CDの部~♯20

2007年04月03日 | 魔笛視聴コーナー~CDの部~

CD番号         アルヒーフPOCA1123/4
収録年          1995年

評価(A+、A-、B+、B-、Cの5段階評価)

総   合    A-       敬虔深くて抒情性豊かな魔笛    

指揮者     A-    ジョン・エリオット・ガーディナー(1943~  )

管弦楽団    A-    イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

合唱団     A-    モンテヴェルディ合唱団

ザラストロ    B+   ハーリー・ピータース

夜の女王    A+    シンディア・ジーデン

タミーノ     A-    ミヒャエル・シャーデ

パミーナ     A+   クリスティアーネ・エルツェ

パパゲーノ   A-    ジェラルド・フィンレイ

音   質    A+    ドイツ・グラモフォンの4Dレコーデンング

”聴きどころ”

夜の女王役とパミーナ役が好演、全体的に敬虔深くて抒情性豊か。

ガーディナーはイギリス出身の指揮者で、バッハ等の宗教音楽に定評がある。この魔笛も宗教的な雰囲気が横溢している。

解説書に清新なメンバーとあったが、たしかに大向こうをうならせる歌手はいないが水準は高い。特にタミーノ役とパミーナ役の新人がこれほどの出来栄えなら、ケチのつけようがない。

夜の女王、パパゲーノもいいが、ザラストロだけはやや不満。荘厳さが感じられない。これは他の盤にもいえることだが、古楽器使用の魔笛はザラストロ役がいまひとつで、指揮者の方針かもしれないがやや物足りなさを覚える。

ただし、キビキビしたテンポとリズムは、退屈さを感じさせない。勇気を持って起用した若手歌手の起用も成功している。さすがにガーディナーの目は確かであり、並みの手腕ではない。

                    

 

        


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