「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

後頭部の一部がジ~ンと痺れる感覚を求めて

2024年03月31日 | 魔笛談義

このブログの配給元である「グーブログ」には「アクセス解析」という項目があってその一部に過去記事のランキングが日替わりで掲載されている。

先日、そのランキングの上位にあったのが「オペラ魔笛の想い出」だった。2009年に投稿したものなので今から15年も前のブログだ。

エーッ、こんな昔のものまで目を通している方が複数いらっしゃるんだと驚いたが、どういう内容かさっぱり忘れていたのでざっと目を通してみるととても真面目な内容なのに我ながら驚いた(笑)。

現在のようにオーディオ重視の傾向とは大違いで、自分で言うのも何だが音楽を愛する真摯な姿勢が垣間見えるような気がして、これこそ我が「音楽&オーディオ」の原点なんだと、つい感慨にふけった。

そういうわけで、「昔日の真面目な面影」を知っていただくために(笑)、以下のとおり一部修正のうえ再掲させてもらいましょう。

「音キチ」からの「イメチェン」につながれば何よりですが~(笑)。


オーディオ専門誌「無線と実験」の読者交換欄を通じて「アキシオム80」を譲ってくれた千葉県のSさんとはその後もメールの交換をときどき行っている。

お互いに「音楽&オーディオ」好きなので話題は尽きず毎回、Sさんがどんな内容を送ってくるのかが愉しみだが、先日のメールは次のような内容だった。題して「魔笛の想い出」。

Sさんの友人のNさんは美大を卒業後ご夫婦でドイツに留学、画家として将来を嘱望されていたが精神を病んで極度のウツ症状となり帰国後病院通いをしながら最後はとうとう自殺されてしまった。

当時の14年前のクリスマスの頃、丁度SさんがNさんご夫婦とお会いする機会があり、内田光子さんのモーツァルトのピアノソナタのLPを買ってプレゼントしたところ奥さんが「ありがとう、今は魔笛なの、魔笛ばっかり聴いてるの」と力説されていたのが最後の想い出となってしまった。

そこで、このメールに大いに触発されて返信したのが次の内容だった。

モーツァルトの創作活動の集大成とも言える魔笛のあの「透明な世界」と「人間が消えて失くなること」とが実に”しっくり”きていて胸にジ~ンときました。たしかに魔笛の世界には人間の生命を超越したものがあってとても言葉なんかでは表現できない世界なんですよね。

自分にも是非、「魔笛の想い出」を語らせてください。

あれは丁度働き盛りの37歳のときでした。それまで、まあ人並みに階段を昇っていたと思っていたのですが、その年の4月の異動で不便な地方に飛ばされてしまいました。

今となっては「そんなくだらないことに拘ってバカみたい」ですが、人生経験の浅かった当時はかなりショックでした。

結局、片道1時間半の道のりをクルマで2年間通勤しましたが、1時間半もの退屈な時間をどうやって過ごすかというのも切実な問題です。

丁度その当時コリン・デービス指揮の「魔笛」が発売されクラシック好きの先輩がカセットテープに録音してくれましたので「まあ、聴いてみるか」と軽い気持ちで通勤の行き帰りにカーオーディオで聴くことにしました。

ご承知のようにこの2時間半もの長大なオペラは一度聴いて簡単に良さがわかるような代物ではありません。

最初のうちは何も感銘を受けないままに、それこそ何回も何回も通勤の都度クセのようになって何気なく聴いているうち、ある一節のメロディが頭の中にこびりついて離れないようになりました。

それは「第二幕」の終盤、タミーノ(王子)とパミーナ(王女)との和解のシーンで言葉では表現できないほどの、それは、それは美しいメロディです。この部分を聴いていると後頭部の一部がジーンと痺れるような感覚がしてきたのです。

そう、初めて音楽の脳内麻薬に酔い痴れた瞬間でした。こういう感覚を覚えたのは魔笛が初めてです。ベートーヴェンの音楽もたしかにいいのですが、強い人間の意思力を感じる反面、ちょっと作為的なものを感じるのですが、モーツァルトの音楽は天衣無縫で俗世間を超越したところがあって生身の人間の痕跡が感じられないところがあります。

魔笛という作品はその中でも最たるものだという気がしますが、文豪ゲーテが晩年になってモーツァルトの音楽を称し「人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ」と語ったのは実に興味深いことです。

それからは「魔笛」の道一筋で、とうとう病が嵩じて「指揮者と演奏」が違えばもっと感動できる「魔笛」に出会えるかもしれないと、50セット近い魔笛を収集してしまいました。これも一種の病気なんでしょうね~。

ちなみに、我が家のすべての魔笛を引っ張り出してみました。

左からCD盤、DVD盤、CD(ライブ)盤です。

                       

ただし、あれからおよそ40年近くなりますが、あの「ジーン」と頭が痺れるような感覚はもう二度と蘇ってきません。おそらく感性が瑞々しい時代特有の出来事だったのでしょう。

今振り返ってみますと、37年間の宮仕えでいちばんつらかった失意の時期が自分の精神史上最もゆたかな豊饒の実りをもたらしてくれたなんて、まったく人生何が幸いするか分かりませんよね。

「人間万事塞翁が馬」(平たく言うと 何が幸か不幸かその時点ではわからない)という ”ことわざ” を自分は完全に信用しています。人生って結局この繰り返しで終わっていくんでしょうね~。

と、以上のような内容だった。

現在のように「音楽&オーディオ」に熱心なのも「夢よもう一度」で再び「後頭部の一部がジ~ンと痺れる感覚」を追い求めているからだが、たとえ今後どんなに「いい音楽 と いい音」に巡り会ったとしても、あの感性の瑞々しい時期に遭遇した衝撃的な出会いにはとうてい敵わない気がしている。

当時のお粗末なカーステレオの音でそういう「痺れる感覚」を味わったのが実に皮肉ですけどねえ・・(笑)。



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久しぶりの「JBLサウンド」

2022年11月30日 | 魔笛談義

前々回の「シンバルの響きが聴きたいばかりに」の続きです。



いつもイギリス系のSPユニットを聴いていると、お国柄を反映しているのか、いかにも思慮深い「紳士=ゼントルマン」という印象を受けるが、たまには「カリフォルニアの晴れ渡った青空」のように明るくて陽性なサウンドも聴きたくなる。

カリフォルニアには行ったことがないが「JBLサウンドの形容詞」としてよく使われているので、つい・・(笑)。

方向性としては二つある。

JBLとはいいながら「クラシックも聴ける和洋折衷したような音」が一つ、もう一つは「ジャズの方により比重がかかった音」

前者のケースはこれ。

1 「D123(フルレンジ)+075ツィーター」の組み合わせ

後者のケースはこれ。

2 「D123(~1000ヘルツ)+175ドライバー(2000ヘルツ~)の組み合わせ

まず、1から取り組んでみた。

グッドマン指定の「ARU」(背圧調整器)が付いた箱に内蔵する「D123」というだけでも興味が湧きませんか?(笑)

で、どの真空管アンプと組み合わせるかさっそくチャレンジ開始。


アンプとスピーカーのマッチングはオーディオ最大の課題であり、楽しみでもある。

この際はあえて日頃から出番の少ないアンプにチャンスを与えることにした。言い換えるとイギリス系のSPに一敗地にまみれた「敗者復活戦」ともいえる。

まあ、ジャズ系の音の再生は何でもありだし、もったいない精神も当然ある・・(笑)。

で、最終的に「D123」用のアンプは「6FQ7プッシュプル接続」で決まり。



ご覧のとおり中央の整流管「5V4G=GZ32」(RCA)を除いて「ミニチュア管」のオンパレードである。出力もせいぜい1ワットクラスだと思うがこんなアンプで大丈夫なの?

ところが力強い低音も含めて堂々たる音が出るんですよねえ。もう信じられないほど。イギリス系のユニットでは激しいアタック音のときにパワー不足でクリップしていたのに~。

一因として「D123」の能率が100db前後と高いこと、それにプッシュプルアンプなので「トルク」が強いこと、かなと推測している。

ちなみにミニチュア管の紹介をしておくと上段の「出力管」が「6FQ7」(クリアトップ:RCA)、下段の「前段管」が「13D9」(BRIMAR=STC」という構成。出力トランス(プッシュプル用)はアメリカの名門「TRIAD」である。

次にツィーターの「075」を駆動するアンプは「71Aシングル」。



このアンプを改造していただいたNさん(大分市)から「電源トランスの容量が小さいので、前段管(AC/HL)の能力を十分発揮できません」と、冷たい宣告をされたアンプだが、ツィーターの「075」の能率が「110db」とメチャ高いのでようやく出番がやってきた。

このコンビで聴いてみると、やはりイギリス系のサウンドとは違和感があって、最初は戸惑ったがそのうち慣れてきた。

「D123」のコーン紙のカーブが浅いのでタメがなくストレートに音が出てくる感じ。「原音再生」というポリシーを持つ方なら、こちらの方に軍配を上げるかもしれない。

いずれにしてもシンバルの響きは予想通りで、まったく見事としか言いようがない。

イギリス系の音が「湿り気のある情緒系のサウンド」としたら、JBLは「乾いた気質のサウンド」ともいえるが、やはりこれはこれなりの良さがありますね。

次に2へ行こう。道具立てはそろっている。



以下、続く。



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映画の名セリフ

2022年09月10日 | 魔笛談義

つい最近「お楽しみはこれからだ~映画の名セリフ」を読んでいたら、思わず唸った一節があったのでご紹介しよう。(64頁)



ロバート・ミッチャムはある富豪の新聞係秘書で、雇い主の死の瞬間に居合わせる。すぐいろいろな人物が訪ねてきては、死に際して何か言わなかったのかと質問する。

何故だろうというのが話の発端。そのうち、雇い主はただの富豪ではなかったことがわかってくる。富豪には若い夫人がいて、夫の死の直後、彼女はミッチャムとこんな会話をする。

「あなたは私が好きだったんでしょ」

「知ってたんですか」

「女にはわかるのよ」

そして

「私もあなたが好きだったわ」

「気がつきませんでした」

「女は隠せるのよ」

以上のとおりで、読むとさほどでもないが映画の一シーンとして視聴すると叙情的な大人の会話になりそうですね~。

こういう駆け引きとなると女性の方が一枚上手のようですが、その後の展開が気になります(笑)。

もうひとつご紹介。(92頁)

「ここは西部だ。伝説と事実があるなら、伝説を事実にするのだ」

出典は「リバティ・バランスを射った男」(ジョン・フォード監督)

この映画は6年前の拙ブログで「これ以上の西部劇があるのか!」で紹介しましたね。

再掲させてもらいましょう。

映画鑑賞といえば大好きなミステリーや音楽ほどには時間を割いておらず、二次的な趣味の扱いだしそれほど詳しくもないがそれでもいつまでも記憶に残る映画というものがある。

「あなたが一番好きな外国映画は何ですか?」と問われたら、ためらうことなく「それは<リヴァティ・バランスを射った男>です」と答える準備がいつでもできている。昔、テレビ放映を録画したこの作品をもう何度繰り返して観たか分からないほどだが、そのたびに新しい発見があって見飽きない。こういう映画も珍しい。

                        

監   督:ジョン・フォード

キャスト:ジェームズ・スチュワート、ジョン・ウェイン、リー・マーヴィン、ヴェラ・マイルズ

製作年:1962年

映画の素人がつべこべ論評するよりも熱心なファンの方が参考になると思い、ネットで検索してみたところ大いにシンパシーを感じたレヴューを2件紹介させていただこう。

「自由と平等を真に守る力は何か。ジョン・フォード監督の西部劇。ジョン・ウェイン、ジェームズ・スチュアートの二枚看板を擁した傑作。

二大スターの初共演というのは古今東西ギャンブル要素が強いもので、映画ファンなら期待も心配もしてしまうところ。
なんだけど、さすがはジョン・フォード。

二人の個性を殺すどころか魅力を引き出しつつ、詩情とロマンあふれるお得意のテイストをベースに、ミステリー要素までも加えた、一段高いレベルの西部劇を作り上げてしまった。


夢を見る者はGO WESTの時代にやってきた法の道を志す若者にジェームズ・スチュアート。古き良き西部の男にジョン・ウェイン。悪名高き無法者「リバティ・バランス」にリー・マーヴィン。このメイン3人が絵に描いたようにハマっており、ぐいぐい作品を引っ張る。

イデオロギーの衝突、男の友情、不器用な恋のトライアングル、男の意地と誇りを賭けた闘いなど、まさに西部劇の醍醐味が描かれる中で、やはりジェームズ・スチュアートの存在が異質。こういうタイプはこれまで観た西部劇にはいなかった。

彼は、早撃ちはおろか、銃もろくに使えないが、法律を勉強し、街の人に言葉を教え、違うやり方で街のリーダー的存在になっていく。当然、面白くない無法者リバティ・バランス。頼れる存在として誰からも一目置かれているジョン・ウェインも巻き込んだ彼らの争いの決着はどうなるのか。そして、その後、彼らを待つ運命は…。

西部劇ファンはもちろん楽しめると思うけど、苦手な人でも、展開で楽しめるかもしれない、ひと味違う作品。」

そして、もう一件ご紹介。

「西部劇の中で、そしてジョン・フォードの作品中最も素晴らしい作品。西部の神話とその虚構性、サボテンの花という叙情性。そしてジェームズ・ステュアートとジョン・ウェインという世界的俳優の素晴らしい演技が堪能できる。悪役のリー・マーヴィンも素晴らしく、一切の欠点のない作品である。」



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「ドイツ国家演奏家資格」とは

2022年01月07日 | 魔笛談義

ドレスデン・シュターツカペレ(ドイツ)の第一ヴァイオリン奏者「島原早恵」女史。

第一線で活躍している演奏家、しかも活躍の舞台がレベルの高い外国での名門オーケストラともなればとても貴重な存在だと思う。

彼女の経歴を覗いてみよう。

桐朋学園大学卒業後、ドイツミュンヘン国立音楽大学大学院へ留学、同音楽院マイスターコース(最高課程)修了。2002年にドイツ国家演奏家資格を取得とある。

さて、ここでクウェスチョン?

「ドイツ国家演奏家資格」というのは一体何だろうか。いかにもドイツらしい四角四面の堅苦しそうな言葉だが、音楽を演奏するのに資格が要るなんて聞いたことがない!

検索してみると、「goo教えて」に次のような質疑応答があった。

質問
「国家演奏家資格っていうのは、どこの国で必要で、どんな風にすれば取れるんですか?」この質問に対して次の2つの回答があった。

回答1
「ドイツにそんな資格があるのを聞いたことがあります。相当難しいテスト(実際の演奏)のようです。聞いた話では東京芸大と桐朋のピアノ科の人ばかり6~7人が受けたところ1人しか合格しなかったそうです。」

回答2
「トロンボーン奏者堀江龍太郎さん(同資格取得者)のURLの記事にあった話として、大学院を卒業すると「ドイツ国家演奏家資格」が自動的に授与されるが、大学院の卒業試験が生半可なものではなく、成績が悪いと強制的に中退させられるという。ドイツでは、大学院を卒業した場合を除いて、「国家演奏家資格」試験を受けなければならないようです。」

以上で少しばかり分かってきた。

ドイツでは国家的な見地から独自の制度にもとづき先人の遺した偉大な遺産(楽譜)を簡単に穢(けが)されないように、さらには音楽芸術の表現にあたってきちんと一定の水準以上に保持していく仕組みをちゃんとつくっているのだ!

文学や絵画ではどんな小説や絵を描こうと始めから個人独自の創造の世界なので自由勝手なのだが、楽譜の存在が前提となる(間接芸術としての)音楽に限って成り立つ話。

さすがにバッハ、ベートーヴェン、ブラームス(「ドイツの3B」)、ワーグナーといった大作曲家たちを輩出した国だけのことはある。音楽芸術に対する考え方、位置づけがまるっきり他国とは違っているようだ。

ここで、20世紀における名指揮者のひとりブルーノ・ワルターの警告を少々かた苦しくなるが引用しよう。

「いまや芸術に対して社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほとんど存在しない。

本来芸術作品が持っている人の心を動かし魂を高揚させる働きに代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。

これらは「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。

こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。」

やや回りくどい表現だが、一言でいえば「もっと芸術に対する畏敬の念や位置づけ、支えをしっかりしてほしい」ということだろう。

さすがにドイツでは「国家演奏家資格」を通じてこういう風潮を防止し、音楽芸術を大切にしていく姿勢を鮮明にしているところがやはりご立派。

因みに前記の島原さんのドレスデン便りによると国家演奏家資格を持っているだけで芸術家として認められ、ビザの更新にあたっても特別室に案内されるなど下にもおかぬ待遇だという。

こういう姿勢は音楽家を尊敬されるべき職業として高い位置づけにしている、あるいはしていこうとする狙いをも明確に物語っている。

翻って、日本ではどうだろうか。

あえて似たような制度といえば、「日本芸術院」というのがあるが、第三部の「音楽・演劇・舞踊」部門でも音楽家は極々一部の存在で、過去では「岩城宏之」〔故人:指揮者)さんくらいのもので、名誉職としてはいいかもしれないが音楽の発展に寄与するという面ではとても実質的に機能しているとは言いがたい。

したがって、テレビで演奏会を放映するときなどに「ドイツ国家演奏家資格」をお持ちの演奏家がいれば積極的に顕彰してあげればいいと思うがどうなんだろう。

とはいえ、日本では一流とされている演奏家の間でも有資格者がどのくらいいるんだろうか・・。「渡航の手間」とか「今さら受験して落ちると恥ずかしい」のもあってメチャ少ない気がする~(笑)。

そもそも日本ではクラシックとかオーディオはたいへんマイナーな存在で、音楽家を育てるよりもむしろ愛好者の裾野を広げることのほうが先決だろう。

ほんとうの音楽好きで表現力に優れた音楽評論家とか”商売気”抜きのオーディオ評論家の出現が切に待たれるところだが、一つの対策としてこういう方々に自覚と権威を持たせる意味で「資格」を付与するというのはいかがだろうか(笑)。

                              

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オーディオ満足度と対数関数

2021年10月09日 | 魔笛談義

コロナ禍のせいか図書館の「新刊コーナー」に並べられる新書が減っているように思う。

こういうご時世なので「お客になるべく来て欲しくないのだろうか」とさえ勘繰ってしまうが(笑)、このところどうやら(コロナ禍も)一段落したようなので元に戻って(新書が)増えるといいのだが。

それはともかく、仕方がないので既設の専門書コーナーをうろつくことになるが、「音楽」コーナーで手に取ったのがこの本。

タイトルは「人生を変える数学、そして音楽」。


                           

「数学」と「音楽」とを関連づけて述べるなんて、まことにユニークな視点だと思いつつ、はたしてどんな方が書かれたんだろうかと興味を引かれて末尾にある著者のプロフィールを見ると驚いた。

「中島さち子」さんという方で、1979年生まれの大阪府ご出身で「東京大学理学部数学科卒」。

「学歴」というのはこれまでの経験上あまり当てにならないが(笑)、高校2年生の時に国際数学オリンピック・インド大会で金メダルを獲得という勲章には心から敬服した。しかも日本人女性の受賞は後にも先にも唯一人というからすごい。

現在一児の母として、またジャズ・ピアニストとして活躍されているそうで、こういう方なら「数学」と「音楽」について述べる資格が十分あるに違いないと、いそいそと図書館での借入手続きを済ませた。

余談になるが、人間を文系、理系で大雑把に分けるとすると、音楽好きはどちらかといえば理系に多いというのが、自分の大まかな見立てである。

代表的なのがあの「相対性理論」で有名な物理学者アインシュタインで日頃からヴァイオリンを”たしなみ”つつ「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」という有名な言葉があるほどで、天才が楽しんだ趣味を凡人が同じレベルで味わえるなんて、音楽ぐらいではあるまいか。

ちなみに自分は(文系、理系の)境界線に位置しており、都合によってどちらかに変色するカメレオンみたいな存在である(笑)。

さて、本書をざっとひととおり目を通してみたが、前半は数学の面白さについて、中程は数学と音楽のつながりについて、後半は音楽の楽しさについて述べられている。

正直言ってなかなか高度な内容だった。自分のような頭の冴えない人間が理解するのはたいへんというのが率直な感想。

読後感を書こうにも隔靴掻痒の感があるので、数学にもっと素養のある方が読めばこの本の奥深さを的確に伝えられるだろう。


さて、数学の面白さで印象に残ったのが「オイラーの公式」として紹介されていたもの。(28頁)

「1/1の二乗」+「1/2の二乗」+「1/3の二乗」+「1/4の二乗」・・・・・=π(パイ)の二乗/6

何でもない数式なのに「解」となるとなぜか急に、「円周率π(パイ)」が登場してくるという数学の神秘な世界には恐れ入った。

さて、前置きが長くなったがいよいよ本題に入ろう。

本書の194頁に次のような話が紹介されていた。以下、引用。

「ウェーバーの法則によると、人はお金持ちになればなるほど金銭感覚が変わってきます。

例えば、所持金100万円の人が所持金200万円になる嬉しさと、所持金1億円の人が1億100万円になる嬉しさは、(同じ100万円増えても)違いますよね。~略~

これは一定の金額が増えたときの嬉しさは所持金に反比例するということです。この”微分不定式”を解けば、嬉しさは”対数関数”で表されるとわかるのです。対数関数なんて、なんだか難しい関数によって嬉しさが表されるなんて・・・・少し面白いと思いませんか?

音の大きさに驚く感覚も、このように音量に反比例するので対数関数になっています。」

こうして分かりやすく説明してもらうと、オーディオでも思い当たる節が沢山ありますねえ。

たとえば低域用に使っている20センチ口径を複数使うときのエネルギー感覚についても同じことが言える。

つまりウーファー1発のときに比べて2発のときは√2(≒1.414)倍、3発のときは√3(≒1.732)倍、4発のときは√4(=2倍)となるのもそう。

お金で換算すると、1発10万円として、2発(20万円)のときのエネルギー感覚は1.4倍にしかならないし、3発(30万円)のときにしても1.7倍に過ぎない。

つまり、突っ込むお金に対してけっして倍々ゲームにならない。


そういうわけでオーディオにおいて、どこまでもキリのない高得点の世界を狙うのがはたして妥当なのかどうか、対数関数に照らし合わせてみるとまったく「非効率の極み」と思うのだが、こればかりは分かっちゃいるけど止められない(笑)。

オーディオは一概に理屈や数式だけで割り切れないところに究極の面白さがあるのかもしれませんね。



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