「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽界における「いじめ」

2024年07月27日 | 独り言

「このハゲ~ェ~」    「違うだろーーーっ」。

7年前にテレビ音声から流れ出たこの罵声が日本列島を震撼させたのをご記憶だろうか。

当時の「T」衆院議員(女性)が車中で運転中の私設秘書を怒鳴りつけ、殴打する音までもが録音されていたのだから誰もが驚いた。いやしくも国民の代表である国会議員がこの有様だ。

しかも彼女の学歴が「桜蔭高校」(女子の名門高)~東京大学法学部~ハーバード大学院という華麗なものだったからいっそう拍車をかけた。

それ以降、選挙の候補者を推薦するために立派な学歴を紹介しても「その方は学歴はいいんでしょうけど、人格的に大丈夫なんですか?」という風潮が広まったのは間違いない。

個人的には、これは「学歴神話の崩壊」だと思っている。「学歴だけで人を判断する」ことへの社会的警鐘として、以降も語り継がれていくに違いない。

ただし、政治の世界に限らず「いじめ」は大なり小なりどんな世界にもあるようだ。

日本人として初めてウィーン・フィルハーモニーを指揮した
岩城宏之さん(1932~2006)の著作に「いじめの風景」(朝日新聞社刊)
というのがある。


一言でいえば「指揮者には音楽以外にも管理能力というものが要る
」という話だがまずは、
「叱り方の難しさ」。

一般的に中高年になって管理職になると部下の叱り方は誰もが当面する課題で、ことさらに意識しないで自然体に任せるのが一番いいのだがこれがまた結構難しい。

しょっちゅう叱ってもただの口やかましいオッサンになるし、それかといって逆に遠慮して叱らないでおくと”なめられて”しまう。

それに叱り方もいろいろあって、ある種の人間性が問われるところがあり、「叱り方=管理能力」という一面がたしかにあるのは間違いない。

ところが、音楽の世界でも「指揮者=管理職」、「オーケストラ楽員=部下」という構図の中で会社や役所とそっくり同じことが繰り返されているというのだから驚く。

☆ 指揮者の叱り方の実例

楽員のちょっとしたミスを指摘し、それを直し、あるいは自分の解釈に従って演奏者の演奏法を変えさせるのは指揮者の大切な役割で、練習ではいつもやっていることだが、これがときには「いじめ」と紙一重になる。

誰もが大人数の中で一人だけミスを指摘されて注意されるのは快くないが、あえてそれをするのが指揮者の仕事。問題はそのやり方で往年の名指揮者トスカニーニとカラヤンが実例として挙げられている。

トスカニーニの叱り方

全員の前でよく注意し、怒り、ときによっては出て行けと怒鳴ったそうで、クビにされた楽員がのちに演奏会の楽屋に爆弾を仕掛けたという話も伝わっている。

何回も注意をしたあとに、しまいには癇癪を爆発させて「アウト!」と叫ぶと、その途端にその楽員がクビになったという。

現在は世界中でオーケストラのユニオンが発達してそういうことはありえないが、指揮者にとって古きよき時代といえども、トスカニーニのワンマン、独裁力は抜きん出ていた。それでも、彼が指揮する音楽が素晴らしかったから許されていた。

カラヤンの叱り方

非常に民主的にその人を傷つけないやり方がカラヤンだった。たとえば、練習で第二ホルンの音程が悪いとすると、パッとオーケストラを止(と)めてヴァイオリンのほうに向かって自分の解釈を伝えてこうしてくれと注文する。そうしながら、ホルンの第一奏者に向かって目配せをするのだそうだ。

こうしてオーケストラの誰にでも個人的に皆の前で恥をかかせることはしなかったので、非常に働きやすく楽員から凄く人気があった。帝王として君臨したカラヤンの背景にはこうした楽員への心配りがあった。

☆ 若い指揮者へのいじめ

同じ人間同士に生まれていながら、片方は指揮者、片方は楽員で、楽員にとってどんなときでも指揮者の一挙一動に注目し従わなければならないというのは本来面白くないはず。

だから指揮者がちょっとした統率上の油断をしたり、音楽的に納得できないことが続くと当然反発する。

その反発は指揮者とオーケストラの力関係によって種類が変わってくるが指揮者が大変若くて新人の場合は集団での”いじめ”になることが多い。

職業上のいびりは学校のいじめと違って可愛げがなく、指揮者という職業をあきらめる新人が後を絶たないという。

いじめの実例 1

ある若い指揮者が日本のあるオーケストラを指揮したところ、練習中いろいろと難癖をつけられた。約百人対一人だし、若い指揮者の欠点というのは無数にある。

どんなことでもケチがつけられる。しまいには練習中にその指揮者はボロボロ涙を流して泣きながら最後を終えたそうである。

後日、岩城さんはその指揮者を呼び出してこう注意した。

「オーケストラの前で涙を流すヤツがあるか。どんなに悔しくても、悔しい顔を見せるな。泣き顔を見せたら、オーケストラは面白がって、ますます君の言うことを聞かなくなる。尊敬しなくなる、軽蔑する。それだけだ。泣きたいなら練習が終わって、一人で部屋で泣けばいい」

いじめの実例 2

今度は別のオーケストラの話で、例によってある若い指揮者をさんざんいびったところ、その指揮者は気が強くて、しまいには腹を立て、棒を叩き折って投げつけて出てきてしまい、音楽会をキャンセルした。

逆にいびったほうのオーケストラは非常に感心した。見所のあるやつだ、おもしろい。この指揮者はそのオーケストラにその後もよく指揮を依頼されたということだった。

以上のとおりだが、オーケストラといえば「芸術の創造」という高邁な理念のもとに
俗世間を超越した存在かと思っていたが所詮は人間の集まりで、「いじめ」や「管理能力」なんて陳腐なものが横行しているとはちょっとガッカリ

しかし、政治家なんかよりはまだマシかな~(笑)。


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色男 金と力は なかりけり

2024年07月26日 | 読書コーナー

「経済学的思考のセンス」(中公新書刊)いう本がある。

                  

著者は大竹文雄氏(大阪大学社会経済研究所教授)だが、序文の終わりに「身近に
ある”さまざまな格差”を経済学で考えてみることで、経済学的思考のセンスを体得していただければ幸い」だとある。 

さて、その身近にある格差にもいろんなものがあるが、日常で一番意識に上るのは「所得の格差」、つまり「お金持ちか、貧乏人か」という区別だろう。

ただ、これは運、不運もたしかにあるが個人の「才能」や「心がけ」、「努力」などもまったく無視するわけにもいかず、多分に因果応報の面もあって
「まあ、しょうがないか」と思うこと無しとしない。

ところが、人間の努力とは一切関係がない単なる生まれついての
「容姿」
による格差がどの程度人生に得失を生じさせるかというのは不条理な面があってなかなか興味深いテーマである。

ということで、本書の14頁に次の小節があった。

☆ 美男美女は本当に得か?」

これの正確な解答を得るためには、昔「美男美女」だった該当者に人生の終末になって、「あなたは美男美女だったおかげで人生を得したと思いますか?」と沢山のアンケートをとって、集計するのがいちばんだろうが、本書では経済学的な視点から
労働市場において「いい就職機会を得るのか」、「より高い賃金を受け取るのか」、「昇進が早いのか」といったことに焦点を絞って考察している。

以下、要約してみると、

残念なことに「美男美女は得か」の
実証研究は日本ではまだなされていないが、
アメリカではこのテーマでの事例がある。(テキサス大学ハマメシュ教授)

それによると「美男美女」は「不器量」な人よりも高い賃金を得ていることが明らかになっており、さらに重役の美男美女度が高いほど企業の実績がいいとあって、むしろ業績がいいからその会社に美男美女の重役がいるという逆の因果関係も確認されている。

ここで一つの疑問が出される
「美人」の定義
である。

「たで食う虫も好き好き」という言葉にもあるように、人によって美の尺度はさまざまなのでそのような主観的なものが、厳密な実証分析に耐えられるものだろうかということと、さらに、そもそも
「美人の経済学的研究」意味があることなのだろうか、ということなのだが、実際には、

 美人が労働市場で得をしているかどうか


〇 得をしているとしたらどういう理由なのか

この2点を明らかにすることは「労働経済学的」にきわめて重要なことだという。

なぜなら、公平かつ機会均等の観点から、生まれつきの容姿の差による所得格差を解消するとしたら、ハーバード大学のバロー教授が提案する「美男美女に税金を課す」「不器量な人間に補助金を交付する」が経済学的に正しい政策となるからだ。

つまり、美男美女は努力なしに生まれつき得をしているので税金を納める必要があるし、不器量な人はもらった補助金で「リクルート整形」をするのも自由だし、うっぷん晴らしに娯楽に使うのも自由となることで社会的な調和が保てるというわけ。

ただし、これは具体的な手段が難しい。たとえば自己申告制にした場合
「美男美女税」「不器量補助金」の申請者数がどの程度になるのか皆目分からないのが難点。「美男美女税負担者証明書」を発行することにすれば大幅税収アップを見込めるかもしれない

かいつまむと以上のような内容で、バロー教授が提案する「美男美女税」には思わず笑ってしまったが、結局「美男美女はほんとうに得なのか?」
正しい考察には経済学的視点以外にも遺伝学、社会学、哲学、心理学、芸術などいろんな分野を総動員することが必要ではないかという気がする。

たとえば、ベートーヴェンは醜男だったそうで生涯にわたって女性にまったくモテずずっと独身を通して子供もいなかったが、それが逆にエネルギーとなって内面的に深~い進化を遂げ、跡継ぎになる子供の存在なんかとは比較にならない程の偉大な作品を次々に後世に遺していった。

現代のクラシック音楽界は彼の作品抜きには考えられないので、ベートーヴェンがもし美男だったとしたら私たちは音楽芸術を今のようには享受できなかったかもしれず、音楽産業にしても随分と縮小したことだろう。これは人類にとって大きな損失ではなかろうか。

また、鎌倉時代の古典「徒然草」(兼好法師)では「素性とか容貌は生まれついてのものだからしようがないけれど、それ以上に大切なのは賢いことであって、学才がないとかえって素性の劣った憎々しい顔の人にやり込められる」という「段」がある。

というわけで、このテーマは大上段に振りかぶってはみたものの「外見よりも内面が大切」という「ありきたりの結論」で終わりにするのが無難のようだ。

アッ、いちばん最後になって「色男 金と力は なかりけり」いう言葉を思い出した! これでまずは ひと安心(笑)。



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禁断の封じ手

2024年07月25日 | オーディオ談義

昨日(24日)起きたときの温度は28℃。日中はともかく夜はエアコンを使わない主義なので、海(別府湾)側からの微風を期待して窓全開(2階)の結果だが、ときどき30℃を超えたりすることがあったりしてちょっと寝苦しさを感じるときがある~。

で、肝心の「睡眠」の方だが7時間ほどぐっすり眠ったりするときがあるかと思えば、5時間程度で目が覚めて、後はうつらうつらのときがあったりして日によってバラバラでどうもうまくコントロールできない。

睡眠不足のときは、身体中のあらゆるセンサーが鈍くなっているので「オーデイオ機器を弄らない」が、我が家のモットーだが、昨日は珍しく8時間睡眠だったので気分爽快~(笑)。

そこで懸案だった事項にようやく取り組む気になった。

これまで何回も題材にしているように大型スピーカーを聴いているうちに、次第に小型スピーカーへの回帰(郷愁)が起こるという循環が(我が家では)起きている。

で、その小型スピーカーだが2年半ほど前に購入したものの、どうもうまく鳴らせない状態が続いており、あれこれやってみるのだが当座はよくても次第に違和感を感じてくる。

10日前のブログ(7月16日付)でもこう記していたのをご記憶だろうか。

「この小型スピーカー+サブウーファーを3台の真空管アンプで鳴らしながら1週間ほど聴いてみたのだが、そのうち悪くはないんだけどうも食い足りなくなる・・、何だか無理して音を出している印象を受けてしまう。もっと自然な響きが出せないものか~。」

というわけで、どうも気になって「枕を高くして寝れない」なあ~(笑)。

その小型スピーカーというのがこれ。



「PL100」(英国モニター・オーディオ)だけど、「負荷インピーダンス4Ω」「能率88db」という代物で、完全に高出力の「TRアンプ」向きなので真空管アンプには不向き・・、それは当初からわかっていたんだけどね~。

なぜ購入したかといえば・・、当時、知人のお宅で聴かせてもらった「小型スピーカー」の魅力(シャープな音像など)にすっかり嵌ってしまい、真空管アンプでも鳴らせるだろうと取り急ぎ購入したもの。

しかし、見通しが甘かった・・、真空管式のシングル・アンプで無理なら高出力のプッシュプル・アンプならいいだろうと鳴らしてみたところ、音の粒子が粗くなる印象を受けてこれもアウト。

で、とうとう思いあまって「禁断の封じ手」を講じることにした。

「封じ手」とは「使うことを禁止されているわざ」(広辞苑)

つまり、我が家ではご法度とされている「TRアンプ」の登場である。

低音域部分の使用は大目に見るとしても、中高音域の豊かな倍音成分には「絶対に真空管アンプを使う」のは、我が家のレーゾン・デートルなんだから~。

しかし「パワー」の前には背に腹は代えられない・・、幸い、半年ほど前に仲間から借りて来て低音専用にちょくちょく使っている「TRアンプ」がある。



最初に、口径10cmほどのユニット(~2800ヘルツ)に使ってみたが、あまり変わり映えがしない・・、そこで「リボン・ツィーター」(2800ヘルツ~)に使ってみたところ、何とアッと驚くほどの変わり様・・。

これは素晴らしい・・、音の鮮度が一気に向上して華やかさが音響空間を包み込んだ! リボン・ツィーターの魅力全開である。

とりわけ「管楽器」が素敵で、「You Tube」の「アッカー・ビルク」(英国)の「クラリネット」なんか最高!

とても渋くて人生の深い憂愁を感じさせるクラリネットの豊かな響きにウットリ~、管楽器はやはり肺活量の豊かな外国人向きのような気がする。是非ご一聴を、と自信を持ってお薦めしたい奏者である。

それはさておき「TRアンプ」の意外な活躍に、これは参ったなあ・・、複雑な心境である(笑)。

スピーカーにとっていちばん必要なのはアンプの「パワー」なのかもしれないなあ・・、「今さら気付いたか!もう遅いぞ」という声が外野席から聞こえてきそう、アハハ~(笑)。

あっ、そうそう「リボン・ツィーター」ならたしか「デッカ」も持ってたよなあ~、急いで倉庫から引っ張り出してきた。これも能率が低くて真空管アンプには向かない。



このリボン・ツィーターをTRアンプで鳴らしたらどうなんだろう・・。

なんだか真夏の暑さなんか吹き飛びそうな気がしてきましたぞ~(笑)。



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タフな人間に向いた作品

2024年07月24日 | 音楽談義

ずっと昔に投稿したブログ「五味康祐」さんのクラシックベスト20」だが、現在でも記事へのアクセスがちらほら垣間見える。

この稀代の音楽愛好家に対していまだに関心があることが興味深いが、このベスト20にはバッハの作品がやたらに多いことにお気づきだろうか。


たとえば「平均率クラヴィーア曲集」をはじめ「無伴奏チェロソナタ」「3つのピアノのためのコンツェルト」「パルティータ」などがそうで、しかも大半が上位に食い込んでいる。(ちなみに第1位はオペラ「魔笛」である! 五味さんの耳を信用する第一の理由である)

実を言うと、クラシック歴およそ60年以上になろうかというのにバッハの音楽にはいまだに馴染めないままでいる。モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスッと胸に入ってくるのに、バッハだけは手こずっているというか、もう縁がないととうの昔に諦めの境地に入っている。

自分だけかもしれないがバッハの音楽には同じクラシックの中でも孤高というのか、ひときわ高い山を感じる。したがって「バッハが好きです」という音楽愛好家には「この人は本物だ!」と始めから一目も二目も置いてしまう(笑)。

こう書いてきて何の脈絡もなしにふっと思ったのが、「バッハ」と「ドストエフスキー」は似たような存在ではなかろうか。

片や音楽界の雄、片や文学界の雄である。


ドストエフスキーの文学も容易に人を寄せ付けない。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」「悪霊」などやたらに長編だし、とっかかるだけでも億劫さが先に立つ。

両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに、後世に与えた影響も測り知れない。

バッハは周知のとおり「音楽の父」と称されているし、ドストエフスキーに至っては「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(「加賀乙彦」氏)と称されているほどだし、「世の中には二種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことのない人です。」と、宣うたのは「村上春樹」さんだ。

ただし、ドストエフスキーはその気になれば何とか付いていけそうな気もするが、バッハだけはどうも苦手意識が先に立つ。つまり理屈を抜きにして「線香臭い」のがそもそも嫌っ!(笑)。


こういう ”ややっこしい” バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。

                

著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。

本書の第9章
「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。

以下、要約。

 モーツァルトのダンディズム

バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。

いわば問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。

※ 私見だが、モーツァルトの音楽にはひとしきり悲しげでシリアスな旋律が続いたと思ったら突然転調して軽快な音楽に変化することが度々あって、たしかピアニストの「青柳いずみ子」さんだったか「な~んちゃって音楽」と言ってたのを思い出す。ただしオペラは例外~。

 神と対峙するバッハ

バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。

モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。

以上、「ごもっとも!」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に ”タフ” な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。

道理で、両者ともに自分のような ”ヤワ” な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得させられてしまいました(笑)。



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日常生活の「恐怖の的」

2024年07月23日 | 独り言

音楽&オーディオ愛好家にとって耳の機能が衰えるというのはもう言わずもがなだが ”恐怖の的” である。とにかく「音がいいとか悪い」とか以前の問題として、音が聴こえてこなければ音楽の楽しみようがない。 

したがって経年劣化は仕方なく受け入れるとしても、努力のしがいがあってせめて耳の機能を今のまま維持できればというのが現時点での最上の願いである。

先日のNHKテレビによると、難聴になる一番の原因は「耳は臓器の一部であり血流による栄養補給が疎外されること」だとされていた。

その要旨を再現してみると・・、
 

☆ 音が聞える仕組み

人間の耳の奥にある蝸牛(かぎゅう)という器官に有毛細胞が並んでおり、入り口に近い有毛細胞が高音を感じ、奥の方にある有毛細胞が低音を感知して振動し脳に伝えて音として認識される。

加齢とともに高音が聞きづらくなるのは入り口に近い有毛細胞が高音も低音も感知して振動するので傷みやすいというのが定説。

☆ 先入観による「音韻修復」
 

男女10人による混声合唱団に対して実験が行われる。いずれも日頃音楽に親しみ耳に自信のある方ばかり。実験の内容はノイズをずっと聞かせて、その中に「さくら、さくら」のメロディが隠されておりそれを聞き分けることが出来た人が何人いるかというもの。

その結果、10人中8人がメロディが聞えたと手を挙げたがこれが大間違い。実はメロディは何ら含まれておらずタダの雑音ばかりで結局、聞えた8人というのは「気のせい」だった。

これはオーディオでもよくある話。

たとえば他家で、お値段が一桁違う高級なオーディオ装置の前に座らされ、見た目の豪華さも手伝っていかにも「いい音」を聴いた感じになるのだが、実は左右スピーカーのプラス・マイナスの結線が間違っていたり、ツィーターの片方が鳴っていなかったりすることはままある話で、いかに先入観が人間の聴覚を誤魔化すかという好例だ(笑)。

☆ 難聴のリスク要因とは?

1 加  齢 → 1.6倍  2 高脂血症 →  1.9倍  3 糖尿病 → 3.7倍  4 腎臓病 → 5.9倍

科学的な根拠として有毛細胞の根元に並んでいる「ダンス」細胞に正常な血液によってきちんと栄養補給がなされていないことが難聴につながる大きなリスク要因であるという。

結局、
難聴予防の王道とは日頃の生活習慣において極めて地道な「腹八分」「継続的な有酸素運動」に優る対策はないという次第。

以上の「年寄じみた話」は若い人には縁のない話だが、どのみちいずれは遭遇するわけだから今からでも予防するに越したことはありませんからね~(笑)。



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