「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

バッハの鑑賞を通じて「己を無にする」ことの難しさを悟る

2024年05月01日 | 音楽談義

指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人の著作は非常にタメになることが多いので、図書館で目かけたら必ず借りることにしている。

                     

とりわけ、日本の女性ヴァイオリニスト「千住真理子」さんは、演奏はともかく「お人柄」にひそかに敬愛の念を抱いている演奏家の一人なので「ヴァイオリニストは音になる」を興味深く読ませてもらった。

207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような叙述があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、文中にある「自分を無にする」ことの難しさ・・、自分のような凡人であるがゆえに、この歳になっても骨身に沁みてわかっているつもり(笑)。

そして、これまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、いちばん苦手とするのがバッハの音楽である。どうも肌に合わないのだ。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに何度挑戦したか分からないが、その都度、「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに場外へはじき出されてしまう(笑)。

前述の千住さんの記事からも伺えるが、どうやらバッハに親しむには「無になる」ことが演奏家のみならず鑑賞する側にも必要かと思うが、どうも自分には邪念が多くてそういう資質が無いのかもしれないと諦めかけているが、そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた先日の新聞記事にこういうのが載っていた。

                      

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってま~す(笑)。

            

もういつ聴いたろうか・・、はるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。「涙の音」が聴こえてくればしめたもので ひとつのきっかけ になれば・・。

だが、しかし・・、真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門だなあ・・、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない。

バッハを愛好する人で「魔笛」が死ぬほど好きという人はこれまでお目にかかったことも、聞いたこともないんだから~。

と、言い訳して秘かに溜飲(胸のつかえ)を下げておこう(笑)。



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