「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽愛好派 と オーディオ愛好派

2024年05月31日 | オーディオ談義

前々回の「・・リピートのお客様」からの続きです。

およそ1年ぶりに再度お見えになった「YO」さん。何しろ遠く離れた岡山県からだから、そのご熱心さには頭が下がります~。

午前中は我が家の音を聴いていただき、午後はフルートを演奏されるオーディオ仲間のYさん宅に移動するという日程である。

「生の音に優る音はない」というが、日頃から生の音に接しているYさんがはたして自宅でどういうシステムを組んでおられるのか、「ぜひ聴いてみたい」というたってのご要望である。

で、我が家にお見えになった第一のお目当ては「AXIOM80」なので、今回はこのスピーカーに絞って聴いていただいた。

はじめに「ハフナー セレナーデ K250」(モーツァルト)を聴いていただいたが、ポツリと一言「これは音楽鑑賞用の音ですね」

どうやら「周波数レンジなどにこだわったオーディオ的な音ではなく、音楽を愛好する人が鑑賞する音」という微妙なニュアンスが込められているように受け取った。

で、肝心の「YO」さんといえば・・、仮に「オーディオ愛好派」と「音楽愛好派」に分けるとすれば、後者に該当される方とお見受けした。

その証拠に、ハフナーを聴いた後に「ピアノを聴かせていただけませんか・・、ケイト・リュウが2015年のショパンコンクールで弾いた名演があります」

ケイト・リュウって誰?

シンガポール出身の女流ピアニストだそうで、このコンクールでは「3位」に入賞した実力派だという。



さっそく「You Tube」をググったところ、出てきました!

はじめに「アンダンテスピアナートと華麗なる大円舞曲」と本選(ファイナル)での「ピアノ協奏曲第1番」を始めから終わりまでじっくり鑑賞した。

前者は、筆舌に尽くしがたいほど「下降旋律」が極めて美しい・・、クラウデイオ・アラウのCDを持っているが、これに優るとも劣らない名演だと思った・・、なによりも「歌心」が感じられる。

「ケイト・リュウってなかなか素敵ですね・・」「ハイ、私は反田恭平さんよりも好きです。」

ほう・・、今を時めく反田(そりた)さんを引き合いに出されるくらいだから、かなり こだわり の人ですぞ~。

さて、音楽の好みはかなり一致する気風を感じたが、音の好みの方はどうかな~(笑)。

という流れで、まずはピアノの中低音域の充実感にご不満を述べられたので「それではDACをエルガー プラス」に代えてみましょうか・・。

プリアンプのスイッチ一つで簡単に切り替えたところ、「こちらの方が断然好きです。音に厚みが出てきました。まるでアンプが変わったみたいです」

「エルガー プラス」未だ健在なり!(笑)

ちなみに、今回使用したアンプは「WE300Bシングル」だったが、中高音域の美しさにかけては我が家のアンプ群の中でピカ一だが、その反面
 中低音域から低音域にかけての厚み にやや欠ける傾向があるので、その辺を指摘されたのだろう。



磁界とは無縁の珍しい「銅板シャーシ」と、「インプット」と「インターステージ」のトランスは希少な「UTC」だから泣く子も黙るはずですぞ・・(笑)。

音楽もオーディオも話は尽きない感じであっという間に時間が経ってしまいお昼時となった・・、我が家で昼食を済ませてから13時にYさん宅へ向けて出発。

閑散とした街路を縫って10分ほどで到着。

           

当日、写真を撮り忘れたので昔の写真で失礼します・・、基本的には変わっていないと思います。

ご挨拶もそこそこに、さっそくCDを聴かせてもらったところいきなり目の覚めるような鮮烈な音が迸(ほとばし)った。

これは凄い・・! 「我が家の音は鮮度を第一にしています」とのYさんの言葉に思わず頷いた。それに広大な周波数レンジに裏打ちされているのでこれでは不満の出ようがない(笑)。

「5ウェイ」なのにチャンデバを使わず、マイカコンデンサーを多用してネットワークを組まれているので、あの蒸留水みたいな無味乾燥な音から見事に脱しているのが特筆すべきこと。

それにしても、これまでたびたび聴かせてもらった中で最高の音だと思ったが、この日に備えてずいぶんチューニングされたのかな・・(笑)。

YOさんもとても満足されたご様子で「静岡県の 音の館 田中さん宅の音に似てますね・・、Sさん宅(我が家)の音とは対極的な音です」

たしかに‥(笑)。

これから、我が家の音を聴きに来られる方は「Yさん宅のシステム」とセットにした方が良さそうで、両方聴かれると心行くまで満足されるはず・・、Yさんにはご迷惑だろうが~(笑)。

さて、これから岡山に向けて帰途に就かれるそうなので後ろ髪を引かれる思いで2時間ほどでYさん宅を辞去した。

我が家に戻ってから、「また、お見えになってくださいね~、今度はもっと改良しておきますから・・」と、クルマが見えなくなるまで手を振ってお見送りした。



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「関ケ原」と「狼の牙を折れ」

2024年05月30日 | 読書コーナー

        

ミステリーもいいが、やはり「ノン・フィクション」は現実味と迫真性があって捨てがたい面白さがある。

☆ 「関ヶ原」(岡田秀文著、双葉社刊)

日本の歴史を大きく左右した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、司馬遼太郎さんの名作「関ヶ原」をはじめ沢山の著書があって枚挙にいとまがないし、あらゆる史実が公にされているので「今さら関ヶ原?」の感はどうしても拭えないがそういう中であえてこの題材を取り上げた著者の勇気に刮目(かつもく)


「よほどユニークな視点からの“関ヶ原”だろう」と、興味を持って読み進んだが期待にたがわぬ内容だった。

戦場の荒々しさを期待すると完全に裏切られるほどの静かな物語といっていい。

とても大きな事件が起こっているようには感じられないけれど、時勢は確実に「どこか」へ転がっていく。その先は誰にもわからない。今でこそ「東軍が勝利する」と後世の人は分かりきっているが、当時の関係者たちはまったく勝敗の予断が付かなかった。

「戦いは実際にやってみないとどっちに転ぶか分からない。果たして、どちらに組すればいいのか、どういう行動をとればいいのか」、自分の生命はもちろん一族郎党の行く末を案じて当時の武将たちの言動は文字どおり必死で命がけの極限状態だった。

徳川家康(東軍)、石田光成(西軍)、寧〃(ねね、秀吉の正室)、西軍を裏切った小早川秀秋をはじめ当時の関係者たちの切迫した心理がまるで実在する人物のように生き生きと克明に描かれている。

さらに、迷いに迷っても思惑通りに事が運んだ人は結局皆無だったという視点が実に鮮やか~。

結局、思惑がはずれながらも挽回する思慮深さと流れを読むに長けた家康の存在感が全編を通して際だっている。


歴史にイフ(IF)は禁物だが、関ヶ原の戦いほどイフの魅力が横溢する事件はないといっていい。

とにかく、戦国物を読むといつも思うのだが敗者への残酷な仕打ちを見るにつけ つくづく平和な時代に生まれて良かった、どんなことをしても
命までとられることはないからねえ・・

オーディオごときに悩むのがアホらしくなりますなあ~(笑)。


☆ 「狼の牙を折れ」~史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部~(門田隆将、小学館刊)

今から50年前の1974年8月30日に起きた三菱重工本社前(東京丸の内)の爆破事件の記憶は年齢からしておよそ70歳以上の方々にはまだ残っているに違いない。

死者8人、重軽傷者376人もの被害を出した大参事だったが、これは11件にも及ぶ連続企業爆破事件の嚆矢(こうし)に過ぎなかった。

本書はこの犯行声明を出した「東アジア反日武装戦線”狼”」の正体に迫る警視庁公安部の活躍を描いたもの。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるが文字どおりそれを地でいく様な内容で、当時の捜査官が次から次へと実名で登場し、地を這(は)う努力のすえに犯人を追い詰めていく模様が、まさにサスペンスドラマを見ているような迫力がある。

皆目手がかりがつかめない中、声明文の内容を細かく分析することにより思想的な背景が明らかにされ、アイヌ問題などを通じてじわじわと犯人の影が炙り出されるわけだが、その “きっかけ” となったのが「北海道旅行をしていた二人組の若者たちの手荷物(爆弾在中)を何気なく触った旅館の女将が(若者から)ひどく叱られた」という人間臭い出来事だったのも非常に興味深い。

また、手柄を立てた捜査官たちの生い立ちなども詳しく紹介され人物像の彫り込みにも成功している。

貧しい家庭に育ち、大学に行きたかったが家庭の事情でやむなく進学を断念して巡査になったという人たちがほとんどで、「同じ人間に生まれて、どうしてこうも違うのか」という世の中の矛盾を嘆きつつ「親の脛をかじりながら学生運動に身を投じる学生たちが許せない存在」に映るのも仕方がないことだろう。


また、容疑者たちの行動や仲間を把握するためグループに分かれて慎重に尾行を繰り返していたものの、絶対に気付かれていないと思っていた尾行が、逮捕後に犯人たちが(尾行には)全て気付いていたと自供したのもご愛嬌。

そりゃあ、脛に傷を持つ人間が尾行に気が付かない方がおかしいよねえ(笑)。

結局、この事件で逮捕されたのは7人。しかし、その後のダッカ事件などで3人が超法規的措置として海外に逃亡、死刑が確定した2人も、海外逃亡犯の裁判が終了していないとの理由で刑の執行ができないでいる。

そして、半年ほど前のこと指名手配されていた「桐島 聡」容疑者が末期ガンで病院に入院して死亡していたことはまだ記憶に新しいですね。

小さな建設会社に勤めながら 気さくな人物 として市井に溶け込んでいたが、結局は長年の心労がたたったせいで病気になったのだろうか・・、「せめて最後は 桐島 聡として死にたい」と病床で素性を明かしたそうだが、いくら若気の至りだったとはいえ言葉が無いですね・・。



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嬉しくなる リピート のお客様

2024年05月29日 | オーディオ談義

こういう風にブログで自宅のオーディオをこまめに紹介していると、「一度聴いてみたいな・・」と思われる方がいても少しも不思議ではなかろう。

とはいっても、思いと実行は別の話でわざわざ時間と手間をかけてまで遠路はるばる行くのは、ちょっとためらう・・、という方が大半だろうと推察している。

言い換えると、それほどに強力に後押しするほどの情熱をオーディオに対して持ち合わせていないというのが正鵠を射ているかな~(笑)。

そして、実際にお見えになった事例もこれまで数件あった気がするが・・、残念なことにそういう方々はその後二度とお見えにならないどころかサッパリ音信不通になったケースばかり~。

おそらく「口ほどにもない音だった。もうこりごりした、ニ度と行かないぞ・・」ということなのだろう(笑)。

まあ、いいでしょう・・、人それぞれだからと割り切っているつもりだが、内心では一抹の寂しさは拭えなかった。

ところが、先日のこと昨年の6月頃に岡山県からお見えになったYOさんからご連絡があり、「5月下旬に家内と観光がてら別府温泉に旅行することになりました。よろしかったら、訪問させてもらえませんか・・、今のところ28日(火)になりそうです」

「ハイ、どうぞどうぞ・・、日程はご都合のいいように合わせますよ。」

内心、うれしかったねえ・・、なにしろリピートさんは珍しいんだから~(笑)。

そして、その後の詳細なご連絡で「ブログにちょくちょく登場されているYさん宅の音もよろしかったら聴かせてもらいたいのですが・・、フルートの生演奏を楽しんでおられる方が実際にどういうシステムを組んでおられるのか、興味があります。」

「ハイ、さっそく連絡を取ってみますがたぶん大丈夫だと思いますよ」

そして、昨日のこと・・、当日の28日(火)があっという間にやってきた。

YOさんの目的はただ一つ・・、前回訪問時に大いに興味を示されていた「AXIOM80を再度聴いてみたい」ということだけ。

実際にお話を伺ってみると、どうやら遠距離運転を厭わない方のようで、青森県への旅行をはじめとして、近県のコンサートには足繫く通われているご様子、生演奏で耳を鍛えられているので とびっきり耳のいい方 のようにお見受けした。

あっ、そうそう、以前このブログで紹介した「音の館」(静岡県)の田中さん宅にも行かれたそうで、「お宝の山でした!とても素敵な音でした・・」と手放しで絶賛されていた。

はたして、我が家の「AXIOM80」で大丈夫かなあ・・(笑)。



はじめに聴いていただいたのは「You Tube」によるモーツァルトの「ハフナー セレナーデ K250」(マリナー指揮)で、弦の響きが絶品の演奏でまさに「AXIOM80」向き~。

すると・・。

以下、続く。


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夢は夢のままがいい~夢の途中~

2024年05月28日 | 独り言

日本経済新聞の最裏面に「交友抄」という短い記事が連載されている。

各界で活躍されている方々が毎日登場して親しい友達との現在の交流状況を記載したものだが、先日の記事にはこういうことが記載されていた。

「久しぶりにごく親しい友人と会った際にこれからの生き方ということで次の3つの申し合わせをした。1 健康管理に気をつけること 2 奥さんを大切にすること 3 夢を持ち続けること。」

ブログ主の場合は最優先順位が健康管理、2番目が夢を持ち続けること、そして最後に奥さん・・かなあ(笑)。

とはいえ、夢ねえ・・・・。

オーディオで理想的な音を出すことが目下の夢だが、いかにもスケールが小さすぎて披露するのがチョット恥ずかしくなるけど実際にそうなんだから仕方がない
(笑)。

青春時代ならともかく、この歳になるとどうしても身近な夢にすがりつきたくなる~。


そういえば、30歳代の頃に作曲家モーツァルトの謎の死と遺された最後のオペラの行方を軸にしたミステリーを書いてみたいと思ったことがあるが、所詮「薄志弱行の徒」とあってはとうてい実現可能性のない夢だった。

皆さまは夢を持ち続けていますか?

夢といえば、作曲家「グスタフ・マーラー」が在世時に
「やがて私の時代がやってくる」
カッコイイ言葉を遺したことを思いだした。

一生に一度でもいいからこんな言葉を吐いてみたいものだが、しがない一介のブロガーにはまったく縁がなさそうだ(笑)。

さて、マーラーは九つの完成した交響曲と未完の第十番、そしていくつかの歌曲を遺した作曲家として知られているが、周知のとおり今では世界中の大半のオーケストラがその作品をレパートリーに取り入れ、コンサートの定番としているので彼の「夢」は見事に的中したことになる。ただし、「死後」だけどねえ・・。

現在、ちょくちょく聴いているのがマーラー作曲の交響曲第4番(CS放送「クラシカ・ジャパン」による録画)。

指揮者:ワレリー・ゲルギエフ

演 奏:WOP 2010(ワールド・オーケストラ・フォー・ピース)

会 場:ロイアル・アルバート・ホール(ロンドン)

演奏時間:60分

      

ゲルギエフ氏はウクライナ戦争の勃発によりロシア派とみなされて不遇をかこっていると風の便りに聞いたけど、現況はどうなんだろう・・。

この4番と並んで好きなのは「大地の歌」の第六楽章で、旋律と歌詞(漢詩:孟浩然と王維)に「この世への大いなる惜別の情と諦観」を感じので晩年に聴くのにはとてもふさわしい曲目。

ちなみに、晩年に大作曲家たちがどういう曲目を好んで聴いていたのかというのは興味のあるところで、一例を挙げるとショスタコーヴィッチは「大地の歌」だし、ストラヴィンスキーはベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲群にこだわっていた。

あのモーツァルトは死の床で時計を見ながら、「(上演されているオペラ魔笛に思いを馳せながら)今ごろはちょうど”夜の女王”の出番だなあ。こういう不自由な身になってしまい自分の才能を楽しめないとは情けない・・」と嘆いた。

話は戻って、本題のマーラーについてだが現代では作曲家として非常に有名だが、実は生存中は音楽家としての時間の大半(5/6)をオペラ指揮者として過ごしていた。音
楽家マーラーの一つの不幸は、その死後、作曲した作品が高く評価されたため、指揮者としての業績が隠れてしまったことだという。

もちろん、当時は何せ録音技術なんか存在しなかったので現在では彼の指揮した曲目をまったく聴く機会がないのも大きな理由の一つ。

そして、珍しいことに指揮者としてのマーラーにスポットを当てたのが次の本。

「指揮者 マーラー」(河出書房新社刊、著者:中川右介)

                           

本書では意識的にマーラーの創作とその過程については最低限のことしか触れず、指揮者としてのマーラーが当時の音楽界でどのようなポジションにあり、そのポストをめぐり、どのようなドラマがあったのかに焦点を絞り、なおかつ彼がいつどの演奏会場でどういう曲目を指揮したかを詳らかにしている。

興味を引かれた点を私見を交えながらピックアップしてみよう。

 ヨーロッパでの音楽鑑賞といえば歌劇場における「オペラの上演」が圧倒的な割合を占めている。マーラーは極論すれば、ワグナーとモーツァルトのオペラの指揮ばかりしていたが(2025回も!)、とりわけ「魔笛」を振った回数は歴代指揮者の中でN0.1ではなかろうかと、思うほどその多さに驚く。

なお、当時ワグナーのオペラを指揮する事は指揮者にとって憧れの的であり、そのために指揮者同士がその権威とポストをかけて血まなぐさい(?)争いを展開している。その点でマーラーはニキシュ(ベルリンフィル常任指揮者)とも正面きって争うなど実に好戦的だった。


 マーラーの作品には同年代の作曲家リヒャルト・シュトラウスのようにはオペラがない。なぜなら、マーラーはいつもオペラの指揮をしていたので夏休みに入るとその息抜き(オペラを忘れる!)をするために交響曲の作曲に没頭していたからである。

もし、マーラーがシンフォニー・コンサートの日々が続いていたら、、今度はシンフォニーを忘れるためにオペラを書いたかもしれない。それにしてもあのシンフォニー群が「夏休みの余技」として書かれたのには驚く。


 マーラーは名だたる指揮者になってからも2~3年おきに音楽監督や常任指揮者などの職を辞して各地を転々としている。プラハ、ライプツィヒ、ブダペスト、ハンブルクでもマーラーさえ辛抱すれば、もっと長く居れた。

転職の理由は、常によりよい条件を求めてのキャリア・アップ、そしてあまりにも過酷な練習を楽団員に強いたり、強引な手法をとるため反対派が多くなって居づらくなるなどが挙げられるが、そのほかにも「成功した日々」に飽きたという可能性が大いにあった。つまり「成功は飽きる」のだ。 

さて、この「成功は飽きる」という言葉だが、卑近な例を挙げると我が家の「オーディオ・システム」では6系統のシステムを操っているが、面白いことにあまりに「気に入った音」を出してくれると、日常聴くのは避けて不思議と不満足なシステムの方に偏る傾向がある。

「何とかもっといい音にできる工夫はないものか」と考えながら聴く方が何となく”安心”できるのである。

結局、「オーディオ・システムは8割程度の出来に留めておく方が一番楽しい」なんて思ったりするが、これは「成功は飽きる」に一脈相通じるところがありはしないかな・・。

というわけで、冒頭に戻ってそこで触れた「夢」というものはあくまでも実現したらいけない夢ということになりますね~、結局  
夢は夢のままがいいというわけ。


あっ、そういえば「夢の途中」(きすぎ たかお)という歌謡曲がありましたよ、現役時代にはカラオケの十八番でした!

「さよならは 別れの言葉じゃなくて 再び会うまでの 遠い約束・・」、歌詞が素敵です、ぜひ「You Tube」で~(笑)。


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チャイコフスキーとショパンはお好き?

2024年05月27日 | 音楽談義

フランスの女流作家「フランソワーズ・サガン」に「ブラームスはお好き」というタイトルの小説がある。

バッハやモーツァルトとは違って、わざわざ「お好き?」と訊くところに、西欧音楽界における「ブラームス」の微妙な位置づけを現わしているように思える。

そして
「チャイコフスキーがなぜか好き」(PHP新書)
という本がある。

 

「なぜか好き」という言葉に、ブラームスと同様の屈折した匂いを感じる(笑)。

著者は前東京外国語大学の学長の亀山郁夫氏。ロシア文学者として近年、「カラマーゾフの兄弟」をはじめロシアの文豪「ドストエフスキー」の一連の著作の新訳で著名な方。

文学のみならずクラシックにも興味をお持ちとは、ほの暖かい親しみを感じさせてくれるが「チャイコフスキー」となるとちょっと異質かな。

もちろんロシア出身という要素もあるのだろうが、クラシック通の間で「チャイコフスキーが好き」なんて広言することは何だか「はばかられる」感じを持つのは自分だけだろうか。

親しみやすいメロディが多いのはいいけれど、何回も繰り返しての鑑賞に堪えるには少し物足りない音楽という印象が個人的にはずっとしている。

したがって、チャイコフスキーと聞くだけで初心者向けの軽いイメージが先立ってしまう。

ふと、関連して以前のブログの中で「ショパンは二流の音楽」と記載したことを思い出した。

ショパンの音楽も親しみやすさという点ではチャイコフスキーと似たようなものだが、いくら筆の勢いとはいえ歴史に名を刻む大作曲家を二流といって一刀のもとに切り捨てる資格は自分ごときにあるはずがないという反省心のもとで亀山さんの率直な物言いがもろに心に響いてくる。

結局、作曲家の位置づけなんて個々の心情の中で相対的に決まるものであって、そっと心の中に秘めておけばいいものをというのが現在の心情である。

「雉も鳴かずば撃たれまいに」(笑)。

ところで作曲家に一流とか二流とかのレッテル貼りは不遜にしても世間一般のランク付けというのはあるのだろうか。

実は本書の30頁に興味深い記事があった。ロシアの作曲家たちがクラシックの世界でどのような位置づけにあるのかという視点から著者がウェブで調べた結果が次のとおり。(抜粋)

「今日、世界のコンサート会場で演奏される曲目の国別統計を取るとしたらどの国の作曲家が最高位にランクされるのだろうか。そんな非音楽的な好奇心に駆られてウェブ上に情報を求めた結果統計は見つからなかったがその代わりに「百人の音楽家たち」と題するランキング表が出てきた。

タイトルは「100 Greatest Classical Composers」とあり、もうけられた基準は「彼らのイノベーションや影響力だけでなくその美学的な重要性と歴史的な意味の重さ」とある。

そして出てきたのが次のランキング。

全文英語なので、これが日本のみならず世界的にグローバルな「ものさし」だといえよう。

第1位 ベートーヴェン 以下2 モーツァルト、3 バッハ 4 ワーグナー 5 ハイドン 6 ブラームス 7 シューベルト 8 チャイコフスキー 9 ヘンデル 10 ストラヴィンスキー 11 シューマン 12 ショパン 13 メンデルスゾーン 14 ドビュッシー 15 リスト 16 ドヴォルザーク 17 ヴェルディ 18 マーラー 19 ベルリオーズ 20 ヴィヴァルディ

これまで自分の好み次第で作曲家のランクを勝手に決めつけていたもののこのランキングでいろいろ考えさせられた。

まず上位4名の顔ぶれは妥当なところという気がする。もはや時代遅れと思っていたベートーヴェンが1位とはさすがだが、「第九」という十八番(おはこ)の影響もあるのかな~。そして、近年コンサートを席巻しているマーラーが18位とは後ろ過ぎて意外。

逆に、今回俎上にのぼったチャイコフスキーが8位、ショパンが12位というのもちょっと上位過ぎる感がする。

やはり一度聴いただけでも親しみやすい「アイスクリームのような音楽」というのが有利なのだろうか(笑)。

最後に、チャイコフスキーの音楽について著者の友人「音楽評論家」のコメントが印象に残った。(141頁)

「私はチャイコフスキーの音楽(メロディ)に いじわる なものを感じます。とてつもない自己愛から来るもの。だからチャイコフスキーの奇跡のように素晴らしい音楽にはものすごく興奮し、感動もするけれど、慈愛を感じない。

作曲家はみんな自己中心的でナルシストだけれど、創作しているうちに、音楽への愛が自己愛を上回る瞬間というのが必ず来ると思う。チャイコフスキーの場合はたぶん、音楽より自分の方が大好きだったのではないか、と思えるんですね。そう、あの人の音楽、聴いても何か癒されない・・・・・・。」

言い得て妙だと思います!

本格的に鑑賞するのに何がしかの物足りなさを感じていた原因はそこにありましたか!

文中の「チャイコフスキー」を「ショパン」に置き換えても同じことが言えそうな気がするけどはたして読者の皆様はいかがでしょう・・、

「チャイコフスキーとショパンはお好き?」(笑)



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我が家のオーディオに安住の地はない

2024年05月26日 | オーディオ談義

オーディオ記事はなるべく連続して搭載しないように心掛けているのだが、前回のブログ「耳の高さ・・」が好評だったので今回は例外ということにしよう・・(笑)。

というわけで、前回からの続きです。

さて、久しぶりにお見えになったオーディオ仲間のYさんだが、開口一番「あれ~、また(システムが)変わっている、1か月もしないうちにこれなんだから・・」と、誉められているのか、それとも呆れられているのかどちらともとれないような声が挙がった。

もしかして、その背景に「過ぎ去った音」への郷愁があるのかもしれない・・、ゴメンねえ、何せ 持ち主が移り気 なものだから~(笑)。

とはいえ、少し弁解させてもらうとすれば、何よりも突き動かしているものは「音がもっと良くなるかもしれない」という動機だけである・・。

したがって、我が家のオーディオに安住の地はないと、言っていいかもねえ(笑)。

さて、本日一番の目的は「AXIOM80」に取り付けた「ウッドホーン」の効果についてである。

Yさんが持参されたジャズのCDが2枚あったので、これをテスト盤にすることにした。「AXIOM80」にとっては、クラシックとりわけヴァイオリン演奏が「十八番」(おはこ)なのだが仕方がない。



しばらくの間じっくり耳を澄まして聴かれたYさんのコメントを要約すると・・、

「たしかにホーン効果を感じました。音がむやみに飛び散らない印象を受けましたよ。こういう密度の濃いボーカルをAXIOM80で聴けたのは初めてです。しかし、見た目がどうも・・・」

ウッドホーンの効果については言及されたものの、どうやら「見てくれ」がイマイチのようで手放しの賛同とまではいかなかった。

そうねえ~、「見てくれ」ねえ・・。

オーディオにおいて「見てくれ」なんて、どうでもいいとまでは極言しないけど、後回しにしていることはたしかである。

ところが・・、2日ほど前に取りためていた録画番組を観ていたら、「人間の五感はそれぞれが独立しておらず相互に補い合っている」みたいなことを科学者が喋っていた。

たとえば、青白い照明のもとで食事をすると、食欲がまるっきり進まないという実験・・。

それもそうだなあ・・と、「見てくれ」への改善も含めて、音が もっと良くなるかも と取り掛かってみた。

とはいえ、どこをどう変えていいのやらサッパリ見当がつかないが、まあ実験の積りで「思い付き」を実行してみた。

何だか、出来の悪い受験生が格好だけ付けて受験対策をやっているような気がしてきましたよ~(笑)。

そして、完成したのがこれ。



ホーンの出口を過ぎたところで音が大きく乱れるのなら、その前に少しでも音流を乱しておこうという算段である。

我が家独特の「思い付きオーディオ」ひいては「やってみなくちゃ分からんオーディオ」の最たるものではないかな・・、とにかく誰もやったことがないようなものにチャレンジしないと面白くないし、それにあまりお金を掛けないことも重要だし・・(笑)。

ところで、このホーンは鮫(さめ)が大きな口を開いた格好に見えないこともない・・、ホーンの名称をかっての名画にあやかって「ジョーズ」にしようかな~(笑)。



材料は厚紙で出来た「卵トレイ」の突起の部分である。



これを一個づつ、ていねいに鋏でくりぬき(両チャンネル32個分)、念入りに(ウッドホーンに)ネジで止めていった。

「見てくれ」を考慮して塗装(茶色)まで含めると1日がかりの仕事でした!

以前よりも少しは見栄えが良くなったかなあ・・。

そして、肝心の音がどう変わったのか・・、もう腰を抜かさんばかりに驚きましたぞ!

あの、言葉では表現できない違和感が見事に解消したのである、強いて言えば2000ヘルツあたりで急に甲高く跳ね上がるような嫌な響きというのかなあ・・、それがまったく無くなっている。

こういう音なら、「WE300B」アンプを筆頭に「PX25」や「2A3」の高出力アンプ群が「俺の出番がやってきた」といわんばかりに しゃしゃり 出てくるのがご愛敬~(笑)。

ま、スピーカー次第で生きもすれば死にもするアンプだが、中でも見事に生き返ったのが「6AR6シングル」(楕円プレート:三極管接続)だった。



前段管がオリジナルは「6SL7」だったが、いろいろ実験してみた結果補助アダプターを使って、同じμ(ミュー=増幅率)を持つ「E180CC」(ドイツ:ヴァルボ)がとてもよかった・・。

というわけで、我が家のスピーカーも真空管アンプも安住の地はない・・、可哀想に~(笑)。


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音楽を聴くときの「耳の高さ」位置調整

2024年05月25日 | オーディオ談義

3日前の早朝のこと、ベッドから起き抜けにいきなり腰部に鈍痛が走った。

思わず、ウッとうめきながら「どうして?」と心当たりを探してみたが、すぐには思い浮かばず・・、這(ほ)う這(ほ)うの体で2階から階段を下りて、しばらくリスニングルームの椅子に座ってから、もしかして原因は前日の あれ かな~。



ご覧の通り、リスニング用に使っている重たい椅子を台座から降ろすときに、どうやら腰を痛めたらしい。

そこで 
Question?

なぜ、台座から椅子を降ろす破目になったのか・・、その理由はこうです。



「電気回路」を使っているハンディがあるとはいえ、我が家の 超ミニ・コンサートホール の参考になることがあるかもしれないと本書を読んでいたら次のような記述があった。(80頁)

H氏「以前、有名なレコーディングスタジオのエンジニアの人から聞いた話なんですが、その人は 音は壁に当たって下に落ちる と言ってました。それは感覚的な問題、イメージの問題かもしれませんけれど。

一方で、指揮者カラヤンはサントリーの人たちがホールを作る前にアドヴァイスを求めた際に オーケストラの音はドライアイスのように、まず演奏家たちの床に落ちる と、そのドライアイスの煙はそのままこう広がっていって、床づたいに カラヤンが実際に手でやって見せたそうなんですけれども 階段を一段一段這い上がって、お客さんの足元を伝ってお客さんの耳に辿り着く と。

だからヴィンヤード式のコンサートホールがいいという話になったそうなんです。実際、オーケストラの音って、壁に当たって下に落ちたり、まず演奏者の足もとの床に落ちて、階段を這いあがったりして耳に届くものなんでしょうか。

T氏「カラヤンが言っていることの方が、ピンとくる部分がありますね。床からの反射音はとても重要で、無視できない。カラヤンは特に低い方の音に対して言ってるんだと思います。高い方の音に関してはそういうイメージはないと思う。低い音は波長が長いので 回り込み が起こるわけです。低音は遮蔽物があっても回り込むわけですね」

以下、興味のある話が延々と続くが長くなり過ぎるので惜しいが割愛~。関心のある方はぜひご一読をお薦めします。

とにかく、要は・・、低音は床を這いずり回っているので、低音をより聴こうと思ったら、音楽を聴くときの耳の高さの位置を床に近づけた方がいいという結論が導き出される。

今さらそんなこと、 とっくの昔に知ってるよ という方が多数いらっしゃるかもしれない(笑)。

我が家では、これまで「ウェストミンスター」(改)を中心に回ってきたのだが、「AXIOM80」に「ウッドホーン」を取り付けてから、旗艦(フラッグ シップ)が移り変わっている。

そこで、「AXIOM80」に合わせて、耳の高さの位置を床に近づけてみたというわけ~。

これまで使ってきた台座は廃棄処分にして隣の部屋へ~。

目敏く気付いた家人が 眉をひそめながら 、「またこんなところに置いて・・」と抗議してきたが、「勝手に処分していいからな~」(笑)。

いずれにしても、さっそく「AXIOM80」を、ワクワクしながら聴いてみたところ、たしかに低音の量感が増えたのには参った・・、もちろん嬉しい悲鳴である。

これなら、もうサブウーファーは要らんなあ・・。

日頃から低音域に難のある「AXIOM80」のことだから、これはいちばん効果的な対策といえるかもしれない。

さっそく、オーディオ仲間のYさんに連絡をとって聴いてもらうことにした。もう2か月ぶりくらいになるかな~。

そして、Yさんは部屋に入られるなり開口一番・・。

以下、続く。



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「教師の質の低下」そして「出世を決めるのは能力か学歴か」

2024年05月24日 | 読書コーナー



「こんなに使える経済学」(大竹文雄編、ちくま新書刊)
   

本書は現実のさまざまな社会経済問題(27本のテーマ)を経済学の視点で一般の人にも分かるような記述方法で紹介したもの。そのうち読者の興味がありそうな2本をピックアップしてみた。

☆ 教師の質はなぜ低下したのか

(個々の先生の中には当然のごとく優秀な方もおられるだろうが、あくまでも一般論ということなので悪しからず。)

公立校の教育レベルが下がり、学力低下を心配した親たちが、子供を私学に入れようとして小、中、高等学校への受験熱が高まるばかりという。

≪都会で進む公立不信≫

こうした私学ブームは特に大都市圏に見られるようで、その背景の一つにあるのは「教師の質の低下」である。

わいせつ、万引きなどの問題教師は論外だが、平均的な教師の(教える)レベルも落ちてきているそうだ。

教師の質の低下は実は米国でも大きな問題になってきた。その原因として経済学者たちが指摘してきたのが1960年代から始まった「労働市場における男女平等の進展」である。

どうして、女性の雇用機会均等が教師の質を低下させるのだろうか?

かっては米国の労働市場でも男女差別が根強く存在し、一般のビジネスの世界では女性は活躍できなかった。このため、学業に優れた大卒女性は教職についた。つまり、学校は男女差別のおかげで優秀な女性を安い賃金で雇用できた。

ところが、男女差別が解消されてくると優秀な女性は教師よりも給与が高い仕事やより魅力的な職種を選べるようになり昔に比べて教師になる人がはるかに少なくなった。

ここで、「男性教師もいるではないか」という反論が出てくるが、教師の採用数が一定だとすれば優秀な女性が集中して教師を希望していた時代よりも、
優秀ではない男性が教師になれるチャンスが広がる結果
となり、レベルの低下は否めないことになる。

そして、もう一つの反論。

「教師になる人は子供を教えたいという情熱を持った人ばかりなので経済的動機ぐらいで志望を変えるはずがない」。


これに対しては、高校時代(教師になりたい人は高校時代の終わりに教職系を志望する)の成績と教師になった人たちの詳細な関連データによって経済学的な検証(省略)が行われ、教師といえども収入や待遇などのインセンティブに基づき選ばれる職業の一つであることが証明される。

この分析が日本においてもそっくり当てはまるという。

日本では小中学校の教師の多くが教員養成系学部の出身者である。これらの学部の難易度を調べれば教師の質が変化してきた原因をおよそ推定できるが、90年代以降全国的に平均偏差値がずっと低下してきている


次に、男女間賃金格差と教員養成系学部の偏差値の相関も高いことがわかった。

つまり地方では現在でも優秀な女性が働ける職場の絶対数が都市部に比べて不足しているので女性教員の質の低下、ひいては全体的な質の低下が少なくて済んでいるが、都市部では女性の雇用機会の改善が急速に進みそのことが教員の質の低下を促進している。

結局、「教師の質の低下」は「労働市場における男女平等」に起因しているとみるのが経済学的思考による一つの解答となる。

さらにもう一つのテーマを挙げてみよう。


☆ 出世を決めるのは能力か学歴か

毎年のごとく春先になると、週刊誌がこぞって出身高校別の難関大学合格者数のリストを掲載する。目を通す人が多いのは、やはり大学受験の成否が人生の一大事だと思うからだろう。

ただ、その一方、「実社会においては学歴や学校歴による能力差がさほどあるわけでもない」ということも、多くの人が日々実感していることではあるまいか。

実際のところ、出身大学によって出世はどのくらい左右されるのだろうか。経済学はこうした問題に対しても科学的なアプローチで解明を進めている。

現状分析~学歴と年収の相関~

アメリカ・テキサスA&M大学の小野浩助教授によるサンプル調査(日本人570人)によると、学歴と年収の相関は次のとおりになっている。

サンプルの平均値である偏差値52の4年制大学の卒業生は高卒に比べて年収が約30%高い。次に偏差値62の大学の卒業生は約42%も高くなっており、明らかに両者に相関関係が認められる。

ここで自然に出てくるのが次の疑問。

高い偏差値の大学を出た人の年収が高いのは、「大学名のブランド」のせいなのか」それとも「教育内容や個人の能力が優れていたおかげで高い実力を身につけたためか」。

この疑問に対して本書では具体的に「東大」を例に挙げて検証が進められた結果、
概ね「官庁は学歴主義、民間は能力主義」が裏づけされる形となった。

最後に、ブログ主の感想を言わせてもらうと個々の人生にとって肝要なのは学歴なんぞに左右されずに「幸せ感に満たされているかどうか」に尽きると思うが、実はこれがなかなか難しい(笑)。

ふと、僧侶の玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんの言葉「幸せと楽の違い」が蘇った。

「幸せ」は「お金」「長寿」「愛情」などに左右され、求めてもきりがない。常に目標が上方修正され「幸せ」を感じ取る暇がない。

一方「楽」というのは「安楽な状態」でわかるように身体状況を伴い、「足るを知る」という感情面での基盤も重要となるので限度がある。

そして、僧侶は年をとるほどに深い「楽」を味わい、最も円熟するのは、死ぬ間際なのだと思考している。

結局、煎じ詰めると「身体の健康と心の健康がいちばん」ってことですか~(笑)。



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音は人なり

2024年05月23日 | 独り言
先日のネットで「色鉛筆で描いた猫」の画像をたまたま拝見したところ、あまりの写実性に驚いた。ご覧になった方も多いことだろう。

画像を勝手にお借りします~。



右側の下の隅に「サイン」があるのでようやく画像と気付かされるが、こういう純粋に「無から有」を創造する才能には心の底から敬意を表します。

このブログなんて材料を選択し加工するだけですからね~(苦笑)。

さて、猫も犬も大好きだが犬の話に移ろう。

ずっと以前に投稿した「イヌの顔は飼い主に似る、って本当?」は予想以上の反響があったことを憶えている。


どうやら小難しい理屈を並べ立てた記事よりもこういう肩の凝らないものの方が喜ばれるようですね(笑)。

そのときに、メル友さんからも愛犬の写真とともに次のようなメールが届いた。オーディオ機器の前で寝そべる「パピヨン」ちゃん、とても可愛いですねえ!

                 

メールにはこうあった。

「犬は人なり」、「音も人なり」、こういう切り口大好きです。
 
拙宅の話で恐縮ですが、写真の愛犬はパピヨンのおす13歳、蘭丸です。立ち耳です。家内は短髪、ヤッパね。
 
ところで、ゴールデンレトリーバーのオスを一緒に飼っていた期間がありました。ゴールデンはたれ耳です。このころの家内は?・・セミロングだったそうです。出来すぎですね(笑)
 
ちなみに、このゴールデンは12歳と長命でした。名前はベル。2匹の名前を繋げて「らんまるベル」というネームを投稿用に使っています。 
 
「音は人なり」まさに同感です。オーディオ愛好家は、どういうわけか(この「わけ」はあまり追求しない方が賢明かと思います)複数のシステムを鳴らされている方が多いと感じています。
 
またも拙宅の話で恐縮ですが、当方も常に3~4のシステムから音が出るようになっています。
私の場合は、人間の本性に根ざした「わけ」ではなく、単純に違う音を出してみたいという理由からです、エー?
 
ところが最近気が付きました。どのシステムも音が似ているのです。
 
私の目指している再生音は、いわゆる「かまぼこ型」です。中音域に決してディップを作らない、少々膨らむのは可、という考えです。
 
システム改善の過程は、この「かまぼこ型」を左右(低域側・高域側)に素直に伸ばしていく作業だったと、振り返れば、そう思います。
 
弦楽アンサンブルを美しくとか、管楽器のアタックを鮮明にとか、テーマは異なっても、出てくる音は、かなり似ています。
 
人間、好きな音の傾向から逃れられない、逆に言うと、嫌いな音は聴いていられない、ということでしょうか。
 
また、カエサルの言にあるように「人は聴きたい音しか聴いていない」というところでしょうか。」 

さっそく、次のような返信メールを送った。 

「言われてみると我が家もそうです。6つのシステムが似たような傾向の音になっています。とても面白い発見に気づかせていただきありがとうございました。」

我が家のシステムだが、単純に違うスピーカーの音を楽しみたいという目的だったのに、自然とどれもこれも似たような音になっているのには参った・・。

やはり「音は人なり」ですね。いいも悪いもなく個人的な嗜好を見事に映し出すようです。

とはいえ、巷には「ブランド信仰」が嵩じるあまりそれほど好きでもない音にしがみついている方があまりにも多いような気がするのは自分だけでしょうか。

たとえば、金科玉条のように「これは〇〇製だから絶対にいい音がするはずだ」と、思い込むケース。

まさに「イワシの頭も信心から」だが、
こういうケースには「音は人なり」はまったく当てはまりませんね~。

そろそろ思い切って殻を打ち破って自らの個性を創造したらどうなんでしょう・・、ま、要らん世話だけどね~(笑)。




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虚しさが漂うオーディオ記事

2024年05月22日 | 独り言

このほど東北地方の方から 小躍りしたくなる ようなメールが届いた。ご本人の了解なしの掲載だが、匿名なので大目に見てもらうことにして、大要、以下のような内容だった。

「貴ブログを読んでオペラ”魔笛”(モーツァルト)を見直したくなり、わざわざプロジェクタを購入しました。

所有していた”魔笛”は昔懐かしいレーザーディスクによるサバリッシュ指揮の1983年の録画で、10年くらい見る機会がなかったが、これからじっくりとオペラ鑑賞を楽しみたい。

貴ブログのおかげでオーディオと音楽にやる気が復活してきました。」

1983年版のサバリッシュ指揮の「魔笛」はたいへんな名演です! 私も「DVD」を持ってます。

こういうメールをいただくと、つくづくブログを続けていて良かったと思う。(ブログを)始めてから18年になるが、大した内容でもないのにご覧になる方も随分増えてきて、たいへんありがたいことだが、ときどき、自分はいったい何のためにブログを続けているんだろうと思いが過(よぎ)るようになった。

まあ一種の馴れからくる倦怠感みたいなものだろうが、こうして「初心忘るべからず」という気持ちを想起させるメールをいただくと「よしっ、がんばるぞ」という気分にさせられる。

つまり、それほど貴方が言うのなら「魔笛」を一度聴いてみようか・・、そして気に入ったというファンがすこしでも増えたとしたら、このブログの目的は半ば果たしたようなもの・・。

しかも18年前と違って今では「You Tube」という文明の利器が出現しており、タダでいとも簡単に聴けますからね! 今や音楽は無料で聴ける時代です。

で、そもそもこのブログを始めた動機そのものが、「魔笛」の素晴らしさを広く世に伝え、最終的には「魔笛」に魅せられた愛好者ばかりが集まった全国的な「魔笛倶楽部」を創ろうというのが目的だった。

しかし、ブログを開始して3か月も経たないうちに「魔笛」に関する材料が種切れとなり、仕方がないのでオーディオや読書などの話題を盛り込まざるを得なくなって、いつの間にかブログの性格が変質してしまったというのが偽らざるところ。

今や(自分のブログの)メインになっているのは「オーディオ」関係だが、たしかに面白くてたまらない趣味には違いないが、この分野には「先達」(せんだつ)がそれこそ ごまん といらっしゃるのを十分承知している。

正直言って、自分のような中途半端な人間が太刀打ちできるようなヤワな世界ではないし、それに、人によって「好み」や「環境」があまりに違うので広く共感を呼ぶ話題としてはちょっと無理があるように思っている。

たとえば、自分がどんなに「いいシステムだ、いい音」だと力説しても、「私はラジカセやヘッドフォンで聴く方が好きです、箱庭の世界のような音が好きなんです」と言われればそれまでの話・・。

つまり「オーディオ関係の記事」には「どうせ理解し合えないだろうけど・・」という 虚しさ がいつもつきまとっているのを自覚している(笑)。

その点、あらゆる民族共通の言語ともいうべき音符の世界は共感できる幅が圧倒的に大きいのが利点。

「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」と述懐した天才物理学者の「アインシュタイン」を始めとして、老いも若きも、貧富の差もなく、秀才も鈍才も関係なく、そして人種を問わず万人が同列に楽しめる趣味なんて、この世に音楽を除いてほかにあるんだろうか・・。

というわけです。

これからもオーディオ関係はネタが豊富なので、頻繁に記事にするつもりですが、ま、そういうつもりで一読していただけると幸いです~。

エッ、始めからそのつもりで読んでるって・・、恐れ入りました(笑)。



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売る気はないけど相場が気になるオーディオ機器

2024年05月21日 | オークション情報

現在住んでいる家を売る気はまったくないけど、どのくらいの相場なのかちょっと気になる・・、まったく同じことがオーディオ機器にも言える。

およそ、製造されてから20年ぐらいはなろうかというデジタル機器の「DAC」(DAコンバーター)の「エルガー プラス」(英国dCS)。



発売当時の価格はたしか「250万円」前後だった記憶があるが、縁あって我が家に流れ着いたのは10年ほど前のこと。

周知のとおりデジタル系機器の進展は日進月歩で、もはや旧石器時代の産物ともいえる時代遅れの代物だが、さすがに「腐っても鯛・・」で最新の「DAC」と比べると、微細な解像力などはやや劣るものの、ゆったりと包み込むような豊かな量感は「あまり細かいことは言わずに音楽を楽しもうよ」という気にさせてくれるから不思議~(笑)。

我が家にある4台の「DAC」の中でも独自の色彩を放っているので、くどいようだが手放すつもりは毛頭ない。

その「エルガー プラス」がこのたびオークションに出品されているのを見つけた!

さあ、世間の一般的な評価としてどのくらいの相場になるか興味津々~。

もし安ければ、部品取りとして購入してもいいかなあと虫のいい算段も湧いてくる(笑)。



「基本動作確認済み」とのことで、外観からしても程度が良さそうである。スタート価格が「1000円」だから、相当度胸のある出品者である(笑)。

そして、いよいよ昨日(20日)の夜が落札日だった。

で、今朝(21日)の「落札お知らせメール」で大いに気になる落札額が判明した・・、「475千円」という予想外の高値に驚いた。

と、同時に納得もした。

現用している「D2R」や「A22」などの最新のDACでは出せない音がたしかにあるからだが、その一方で「エルガー プラス」では出せないキメ細かやかな音が最新のDACにはあることもたしかである。

新旧チップの性能の差は確実にある・・。

そういうプラス面とマイナス面を相殺すると、どちらに軍配を上げたらいいのか・・、ちょっと結論が出せませんなあ(笑)。

もう、音楽ソースやその日の気分などによってこまめに使い分けるしかないが、そろそろ夏の時季が近づいている。

7月に入ると「エルガー プラス」の天板が猛烈に熱くなる・・、内部のコンデンサー類の劣化が心配になるのでいつもレギュラーから外してしばし休養させている。

その点、「D2R」は消費電力が僅か「5ワット」という触れ込み通り、年から年中スイッチを入れっぱなしだが、まったく天板が熱くならない・・、こればかりは大いに感心する。



そして、お値段の方も新品なのに前述の「エルガー プラス」の落札価格の1/4程度だから、やはり「コスパ」が凄いとしか言いようがない・・。

今回のオークションを通じてオーディオにおける「ブランド」の意義について、真剣に考えさせられましたぞ・・。

あっ、そうそう関連してクルマのブランドについてだが、先日遊びに来た甥っ子(福岡)が乗っていた洒落た白色のベンツ(セダン)が中古価格で380万円だったそうで、その一方国産のトヨタのハリアー(SUVハイブリッド)は400万円ぐらいが相場だ。

ネームバリューからすると圧倒的にベンツなんだろうけど・・、もはやおいらの感覚が古くなったのかなあ(笑)。



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Yの哀しみ

2024年05月20日 | 独り言

アルファベットの「Y」という文字を見ると大のミステリーファンの一人として、ついエラリー・クィーンの「Yの悲劇」を連想する。

いちばん最後になって「ありえない犯人」の実像が示され、誰もがギャフンと納得せざるをえないその緻密な論理構成はまことにミステリーの金字塔にふさわしい。

それはそれとして、今回は同じYでも
「Yの哀しみ」という遺伝子の話。

「ご承知のとおり男性はXYの染色体(女性はXXの染色体)を持っているが残念なことにそれは基本仕様ではなく、生まれたときに片方にそのY遺伝子という貧乏くじを引かされたばかりに女性よりも短命になっている」という話である。

「光文社」に「本が好き」という月刊誌がある。(現在は廃刊)
      

本誌に「できそこないの男たち~Yの哀しみ~」(36頁)というのがあった。著者の福岡伸一氏は青山学院大学理工学部(化学・生命科学科)教授。

2022年の時点で日本人男性の平均寿命(生まれたばかりの男子の平均余命)は81.05歳であり、対して女性の平均寿命は87.09歳で、ゼロ歳の時点ですでにおよそ6年もの差がある。

「女性の方が長生きできる」
この結果はすでに人口比に表れている。現在、日本では女性の方が340万人多いが、今から50年たつとその差は460万人にまで拡大するとのこと。

男女数の差は年齢を経るほどに拡大する。80歳を超えると男性の数は女性の半分になる。100歳を超える男性の数は女性の5分の1以下にすぎない。中年以降、世界は女性のものになるのである。

どうして男性の方が短命であり、女性のほうが長生きできるのだろうか。諸説ある。

 
男の方が重労働をしているから
☆ 危険な仕事に就くことが多いから
 虐げられているから
 
男の人生の方がストレスが大きいから

いずれももっともらしい理由だが、6年もの平均寿命の差を生み出す理由としては薄弱である。

著者が着目したのは上記の理由がいずれも環境的要因に限られていることで、むしろ「
生物学的な要素」
に原因があるのではと焦点を当てて検証が進められていく。

その結果、世界中のありとあらゆる国で、ありとあらゆる民族や部族の中で、男性は女性よりも常に平均寿命が短い。そして、いつの時代でもどんな地域でも、あらゆる年齢層でも男の方が女よりも死にやすいというデータが示される。

結局、生物学的にみて男の方が弱い、それは無理に男を男たらしめたことの副作用
とでもいうべきものなのだという結論が示される。

その証として、取り上げられるのが日本人の死因のトップであるガン。

ガンは結構ポピュラーな病だがそれほど簡単にできるものではない。細胞がガン化し、際限ない増殖を開始し、そして転移し多数の場所で固体の秩序を破壊していくためには何段階もの「障壁」を乗り越える必要がある。

つまり多段階のステップとその都度障壁を乗り越えるような偶然が積み重なる必要があって、稀なことが複数回、連鎖的に発生しないとガンはガンにはなりえない。

それゆえに、確率という視点からみて
ガンの最大の支援者は時間
であり、年齢とともにガンの発症率が増加するのは周知のとおり。

もうひとつ、ガンに至るまでに大きな障壁が横たわっている。それが個体に備わっている
高度な防禦システム、免疫系
である。

人間が持つ白血球のうちナチュラルキラー細胞が、がん細胞を排除する役割を担っているが、何らかの理由でこの防禦能力が低下するとガンが暴走し始める。

近年、明らかになってきた免疫系の注目すべき知見のひとつに、性ホルモンと免疫システムの密接な関係がある。

つまり、主要な男性ホルモンである
テストステロンが免疫システムに抑制的に働く
という。

テストステロンの体内濃度が上昇すると、免疫細胞が抗体を産生する能力も、さらにはナチュラルキラー細胞など細胞性免疫の能力も低下する。これはガンのみならず感染症にも影響を及ぼす。

しかし、テストステロンこそは筋肉、骨格、体毛、あるいは脳に男性特有の男らしさをもたらすホルモンなのだ。

男性はその生涯のほとんどにわたってその全身を高濃度のテストステロンにさらされ続けている。これが男らしさの魅力の源だが、一方ではテストステロンが免疫系を傷つけ続けている可能性が大いにある。

何という両刃の剣の上を男は歩かされているのだろうか。

以上が「Yの哀しみ」の概略。

ホットニュースになるが、本日(5月20日付)ネットによると次の通り。

「調査の結果、全犬種の平均寿命は12.69歳、混血犬が12.71歳、全猫種が11.18歳、混血猫が11.12歳であった。
犬種別では、小型犬の平均寿命が最も長く13.53歳、次いでトイ犬(とても小さい犬種)が13.36歳、中型犬が12.70歳、大型犬が11.51歳、超大型犬が9.51歳と、体格が大きくなるほど平均寿命が短くなる傾向が明らかとなった。

性別による違いも見られ、雌犬の平均寿命は12.76歳、雄犬が12.63歳と、雌の方がわずかに長寿であった。猫では、その差がより顕著で、雌猫が11.68歳、雄猫が10.72歳と、約1歳の開きがあった。」

つまり、犬や猫もメスの方が長生きなのだ!


話は戻って、結局「男性がなぜ女性よりも早死に?」の理由は「男性に生まれたばかりにYというありがたくない染色体を無理やり持たされ、男らしさを発揮した挙句に早死に~」というのが結論だった。

ただし、私見だが同じ男性でも当然のごとくテストストロンの量にきっと濃淡の差があるはず~。

たとえば濃いタイプは筋骨隆々として野性味あふれた男らしい人物、その一方淡いタイプは「柳に風」のような細身の神経質そうな人物に色分けされ、前述した論調によると前者は「太くて短い」人生に、後者は「細くて長い」人生とに分けられそうだ。

そして、クラシック音楽ファンともなるとその性質上どうも後者のタイプに分類されるような気がする・・、ほら体育会系の筋骨隆々としたタイプがクラシック・ファンというのはイメージとしてどうしても湧きにくいし、そもそも
スポーツ選手でクラシック音楽ファンって思い当たりますか?

結局、人生は「太くて長~い」のが一番いいにきまっているのだが、 あちら立てればこちら立たず どうも ままならない のが残念~(笑)。



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人生に欠かせない3S(スリル、サスペンス、スピード)を求めて

2024年05月19日 | 独り言

「毎日が日曜日」の人間にとって、オーディオほどヒマつぶしに持って来いの趣味はないと思う・・、何しろ弄るところが山のようにあるんだから~(笑)。

現役時代は仕事に追われて時間が取れず「音楽7:オーディオ3」ぐらいの割合だったが、退役後に時間が自由になるとそれが一気に逆転して「音楽3:オーディオ7」といったところだろう。

もちろん時間的にはという意味であり、意識的には相変わらず「音楽7:オーディオ3」のままなのは言うまでもない。

いずれにしても、取り立てて刺激のない生活の中でシステムのどこかを弄ったときの音の変わり様が「ハラハラ、ドキドキ、ワクワク」とさせてくれて、退屈感を覚えないところがとてもいい。

スリル、サスペンス、スピードは人生に欠かせない「3S」(スリーエス)だといつも思っている。

ちなみに、スリルとサスペンスのどこが違うのかといえばミステリー小説でいえば「真犯人を追い詰めていくのがスリル、最初から犯人が分かっていて逆に追い詰められていくのがサスペンス」だそうだ・・、ホントかいな?(笑)

そして、スピードとは何ごとにつけ「レスポンスの速さ」ですね~、オーディオも最後は「音速」が決め手ではないでしょうか・・。

とはいえ、はたして常に変化を求めることがいいことなのか、悪いことなのか、それは諸説あるところだろう。

有名なダーウィンの「進化論」の中に「強いものが生き残るとは限らない、賢いものが生き残るとは限らない、ただ(環境に適応して)変化するものだけが生き残る」という趣旨の言葉があるそうだが、まあ、我が家のオーディオはこの言葉に背中を押されるように「変化を良し」としているだけ・・(笑)。

そういうわけで今年に入って丁度半年ほど経ったので、改めて確認する意味で、時系列でオーディオの「劇的な変化」に絞ってピックアップしてみると・・、

☆ 「LS7シングル」アンプの誕生



「71Aシングル」アンプが2台あったので、そのうちの1台を出力管「LS7」(英国:GEC)に改造してもらったところ、これが大当たり!

現在では「AXIOM80」を鳴らすには欠かすことのできないアンプとして」君臨している。

☆ 「口径25cmのユニット」の活躍



何しろ、れっきとしたアルニコ・マグネットを持った「口径25cm」のユニットをたったの3000円程度でオークションで手に入れたのだから特筆すべきこと! 性能も期待に違わずJBLの「175ドライバー」とセットで2ウェイシステムとして大活躍中。

後で素性が判明した・・、「デンオンVSー270」のウーファー部分であり製作時期は1972年頃だから今から50年ほど前の代物・・、当時はオーディオ全盛時代だったので、メーカーも緻密な仕事をしていたと見える。

☆ プリアンプの真空管「E80CC」のブランドを代える



口を酸っぱくして言うようだが、プリアンプに使う真空管はシステム全体の命運を左右するほどの鍵を握っている。左側の「TUNGSRAM」(ハンガリー)からノイズが発生しだしたので、真ん中の「フィリップス」に代えたころ、あっと驚くほどの変わり様・・、透明感をはじめ何から何まで良くなったのには心底驚いた!

そして最後は・・、

☆ AXIO80へのウッドホーン取り付け



ウッドホーン取り付けの効果となると、あの独特の「神経質」さをはじめ「七難」をすっかり消し去ったというところだろう。

「七難」・・、「女性の色の白さは七難隠す」の七難とは次を言う。


・一難「 顔立ちの不味さ」 ・二難「 性格のキツさ」 ・三難「 生活の乱れ」 ・四難「 老いの恐怖」 ・五難 「運の悪さ」 ・六難 「色気のなさ」 ・七難 「みすぼらしさ」

つい話が横道に逸れてしまったが(笑)、ウッドホーンを取り付けてから早くも1週間以上経つが、一向に飽きもこず深~く聴き入っている!

こんなことは極めて珍しい・・、ぼちぼちほかのスピーカーを処分しようかな~。


いかんいかん・・、肝心の「3S」のネタが無くなるぞ~(笑)。



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旋律だけはどうしても譲れない

2024年05月18日 | 音楽談義

村上春樹氏に関する新刊「村上春樹研究」を一読したところ、ご本人のジャズへの傾倒ぶりがひとしきり記載されていた。



肌合いが違う作家なので小説の方はあまり読む気がしないが、エッセイなどにおける「音楽についての的確な表現力」については、一目を置かざるを得ないので常に気になる存在ではある(笑)。

そして、この人はいったいクラシック派なのか、ジャズ派なのかずっと気になっていたが本書により氷解した。

圧倒的なジャズ派なんですねえ~。

手持ちのレコードはジャズが7割を占めているそうだし、文章を書く時にも一にリズムを重視し、次がハーモニー、そして即興性を盛り込むようにして完結させているとのこと。

クラシック愛好家として言わせてもらうと、音楽の3要素の一つとして欠かせないメロディ(旋律)ではなくて即興性というところに良きにつけ悪しきにつけ彼の本質が垣間見えるような気がする・・。

仮にクラシックが「ウェット」でジャズを「ドライ」だとすると、彼の小説も本質的には「ドライ」なので肌合いが違う原因がようやく分かった・・、もちろん私見ですよ~。
(以下、クラシック愛好家を「ウェット派」、ジャズ愛好家を「ドライ派」と呼称しよう)


さて、ときどき、このブログの読者層が「ウェット派」か「ドライ派」かを想像してみることがある。

現在の読者を1日当たり仮に1000人だとするとそのうちウェット派は200人ぐらい、ドライ派が500人ぐらい、そして音楽なら何でも好きという日和見タイプが300人といったところかな。つまり「2:5:3」というわけ。

もちろんあくまでも想像の域を出ないが、搭載しているブログの内容に応じたアクセス数から推し量ったものだから全然根拠が無いわけでもない。

言い換えると、このブログのセールスポイントは「実践的なオーディオ実験」にあるとみている・・、もちろん、大した内容ではありませんよ~(笑)、で、ドライ派はウェット派に比べて圧倒的にオーディオ愛好家が多いのでこの5割説の根拠にもなろうというものです。

そういうドライ派の中で息の長い交流をさせていただいているのが「I」さんである。

折にふれ、ブログのネタにさせてもらいたいへん感謝しているが、このたびジャズのアーチストについて興味深い情報を得られたのでご了解のもとに掲載させてもらおう。

実を言うと、これまでジャズは芸術よりも娯楽に近い存在だと思っていたが、少なくとも認識を改めようと思った次第(笑)。

それでは以下のとおり。

ジャズの話題に便乗して、好みのジャズ(奏者)について白状させてください。

学生運動最後の時代が自分の大学時代と重なり、その頃にジャズを聴き始めています。思想的にジャズが扱われる時代でしたが、そのようにジャズを聴いたことはありません。もっと個人的な芸術表現として聴いてきました。

娯楽でなく芸術として聴いていますので、ジャズ奏者に求めるものは、けっして偉そうに言うわけではないのですが「創造性・・探求性?」そして「矜持」です。

好きな(リスペクトする)奏者

<ピアノ>

バド・パウエル(比類なきドライブ感)

セロニアス・モンク(笑みがこぼれます)

ウィントン・ケリー(最高のハードバップピアニスト)

ビル・エバンス(ジャズピアノの・・・何と言ったらいいかわかりません)

<トランペット>
マイルス・デイビス(ウエイン・ショーターが参加する前までが帝王)

ブッカー・リトル(夭折が本当に惜しい)

ウィントン・マルサリス(批判にめげず頑張ってほしい)

<アルトサックス>

エリック・ドルフィー(早死にが悔しい。少なくともあと数年だけでも生きていてほしかった)

オーネット・コールマン(1964年のヨーロッパ・ツアーまでが眩しい)

<テナーサックス>

スタン・ゲッツ(うまい!それだけで凄い)

アーチー・シェップ(70年以降もいい演奏をしている稀有な存在)

<ベース>

ポール・チェンバース(はずせない)

(以下3人は白人。表現力が尋常ではない)

スコット・ラファロ、ニールス・ヘニング、ウルステッド・ペデルセン ジョージ・ムラーツ


<ドラム>(ドラムには関心が薄いのですが、強いて言えば)

フィリー・ジョー・ジョーンズ(上質な縁の下の力持ち)

ジミー・コブ(上に同じ)

トニー・ウイリアムス(超人なのに縁の下の力持ち)

偏ってますねえ(笑)

時代は1950、60年代がほとんど。楽器はアコースティック。ジャズ史的にいうと、ハードバップ・モード・フリー・ウルトラモダンになります。

ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズが入っていないのが不思議に感じられると思いますが、この二人へのコメントは不遜になりますので差し控えます。

以上のとおりだが、「I」さんのジャズとオーディオへの熱意にはいつも敬意を抱いている。

ところで、クラシックの場合は作曲家をはじめ指揮者や演奏家など好みの対象が広範囲に広がるが、ジャズともなると演奏家だけに収斂されていくのが特徴のようだ。

それだけ許容範囲が狭くなるというのか、ジャズファン同士の「口角泡を飛ばす」議論の要因にもなりそうな気がしている(笑)。

ちなみに、我が家ではときどきコルトレーンを聴いてみるのだが、どうもサッパリで皆が言うほどピンとこない。

   

素人なりに、この疑問を率直に「I」さんにぶつけたところ次のような返信があった。 

「コルトレーンについては私もそう思います。バップ、フリー等何を聴いてもピントきません。
 
とんでもなく尊大なことを言いますが、コルトレーンはジャズの勘所が判っていないのではないかと・・・私、死刑ですね(笑)
 
逆に勘所だらけで、それがくどくなっているのがロリンズかなと・・・2回目の死刑です。
 
コルトレーンはヴィレッジバンガードを良く聴きますが、実はドルフィーを聴くためです。
 
好きな演奏もあります。セルフレスネス(LP)のマイ・フェイヴァリット・シングスです。コルトレーンを聴いている人なら持っている1枚だと思いますので、機会がありましたら聴いてみてください。「おんなじヤー」かもしれませんが(笑)。」

以上、ドライ派は「演奏家」に対する熱の入れ様が一段と「ヒート・アップ」しているような気がします~。

最後に、「村上春樹研究」を通じて、ウェット派はとうていドライ派になれそうもないことを改めて痛感した・・、音楽における「旋律」だけはどうしても譲れないところだからね~、小説だってホロリと琴線に触れる ところがなくちゃねえ・・、と思うんだけどどうかな~(笑)。



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薄氷を踏むような人生

2024年05月17日 | 独り言

このところ、テレビの「モーニングショー」「アフタヌーンショー」では水原氏の裁判(アメリカ)の話題で持ち切りだ。

水原一平さん・・、MLBで大活躍している大谷選手の通訳を務めながら、その一方では賭博にのめり込み、同選手の銀行口座から無断で25億円余りの金額を引き出していたという。

いずれ発覚して大騒動になることは分かりきっているのにどうして・・、まったく不可解で 
魔がさした としか思えない。

これに関して、ふと20年ほど前の出来事を思い出した。

「県職員が強姦未遂」・・、 ちょっと信じられないような事件で、都会と違って田舎では公務員はそれなりの位置づけだし、ましてや率先して法律を遵守するべき立場にある公務員がなんてことを・・! 

事件の概要はこうだ。

容疑者(当時46歳)は ジョギングがてら午後6時頃に市内の大学建物に侵入。女子大学生を殴ったり床に押さえつけるなどして暴行、脅迫して乱暴しようとしたが未遂に終わった疑い。

被害女性からの届出を受けた県警が聞き込みなどの捜査を進めた結果逮捕に至る。本人は容疑を認めている。二人に面識はなかった。

こういう破廉恥罪で逮捕されるぐらいなら、むしろ役人にはつきものの汚職の方がまだマシというか 品がいい というものだろう(笑)。

ところが・・、容疑者の普段はとても評判がいいものだったのである。


「熱心な仕事ぶりだった」「信じられない」県庁の同僚らはそろって言葉を失った。G容疑者は部の主管課に在籍し予算編成から県議会対応など重要な業務をこなしており46歳で課長補佐級なので出世の方も順調そのもの。

さらにG容疑者を擁護する話が続く。以前同じ職場だった男性職員は「仕事ができるからこそ現在のポジションを任せられている。上司や同僚に対してはっきり物が言えるタイプで人望も厚かった」。

自宅近くの女性は「地区の体育部長などを務めていた。真面目な人柄で犯罪をするような人にはとても見えない」。

「魔がさした」のかもしれないが、なんとも愚かなことをしでかしたものである。本人にはまったく同情の余地がないが、被害者と犯人のご家族の心痛はいかばかりかと察するにあまりある。その後の風の便りでは離婚して消息不明だという・・、そりゃそうだよねえ。

さて、この手の犯罪については比較的寛容な態度で受け止めたり、あるいは厳しく断罪してみたりといろいろ個人差があると思うが、今回のケースはたまたま運悪くエアポケットに落ち込んでしまった可能性が高い。

 関連して、丁度「世界文学は面白い」(奥泉光×いとうせいこうの対談)という本を読んでいたら次のような話が掲載されていた。(102頁)



 「電車に乗っているとき、ふっと横に座っている女性のミニスカートの中に手を入れちゃったとしたら、俺の人生、終わるんだなあって。そんな欲望があるわけではないのに、何となく手を入れちゃったとしたら・・。」

男性諸氏にこういう思いをしたことがない方がいるとしたら、そういう人はまず「聖人君子」に近い存在だろうが、同時に無味乾燥で面白みのない人だと思う(笑)。

おそらくこの世には「大過なく人生を終える」人たちが大半だろうが、そういう人たちは一歩間違えばというスリリングな機会がたまたま無かったというだけ、言い換えれば好運(?)に恵まれただけで実は危険と隣り合わせの「薄氷を踏むような人生」だったのではなかろうか、なんてつい思ってしまうわけ。

何かの本(たしか小題が「時空を駆ける遺伝子」だったと思うが)で、長い目で見ると人間の肉体なんかは「一時的な仮の乗り物」に過ぎずDNA(遺伝子)こそが何代も続いて生き抜いていく本来の主役だという説を読んだことがある。

冒頭の公務員の事例では、本能としてできるだけ広く自分のDNAをばらまきたかったのかもしれない・・、もちろん許されることではないが(笑)。

それにつけても、犯罪者のうち地域社会で日頃から評判がよく「まさかあの人が・・」という犯人像が非常に多いような気がする。

それだけ日常的に抑圧されたものがあって何かを契機に爆発してしまうのかもしれないが、そういうものを発散する機会、たとえば趣味に熱中するなんかは非常にいいことだと思う。

ゴルフでもいいし、「音楽とオーディオ」でも何でもいい。

そして、後者は相手が要らず手軽に楽しめるし点がいいし、「好きな音で好きな音楽」を聴くといろんな欲望や怨念が全てとは言わないけれど一時的にも昇華できるところがいい。

そして、いずれ 天命 が尽きるとき
にどなたか熱心な方がシステムを引き継いでくれれば、「ありふれたDNA」を残すよりもずっと有意義のような気がしている今日この頃だ(笑)。



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