「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽談義~「春の祭典」~

2011年03月29日 | 音楽談義

九州地方の今年の冬はことのほか「寒さ」が厳しかったので「桜の開花が遅れる」という声がチラホラ聞こえてくる今日この頃。

時期的には春がすぐ目の前にやって来ているのに朝晩の底冷えがいまだにひどくて、手が届きそうで届かないこのもどかしさ。

「早く春がやってこないかなあ」

さて、クラシックの話だが周知のように20世紀最高の作曲家といわれるストラヴィンスキーの作品にバレエ音楽「春の祭典」がある。

「暖かい春の陽射しに虫たちが蠢き始め、乙女たちの狂乱の舞が始まる~」という音楽。

このところ我が家のオーディオ装置に対して自信喪失気味だったが、久しぶりにこの曲のおかげでやっと「愁眉」が開いた。

オーディオの方に一足早く「春」がやってきた!

以下は、その顛末。

かねての予定どおり27日の日曜日、快晴の中、福岡から「音楽とオーディオ好き」の仲間たちがご来訪。

いずれも福岡高校時代の同級生たちで全部で5名〔途中で1名追加)。

1月に心臓血管にステントを入れる手術をしたが、そのお見舞いも兼ねてのことで大変ありがたいこと。

たしか3年ぶりくらいの試聴で、現在のシステムに切り換えてからは初めて。

さあ、どんな感想が聞けるかな~。実を言うとこの2週間あまり、
室内の片付けと音質調整に余念がなくて直前の昨日になってもアキシオム80の前に置くデフューザーを小さい玉に替えたりジタバタしていた。

挨拶もそこそこに早速聴いてもらった。

ご持参のCDが6枚ほどあって、ヨーヨーマのチェロ、ブレンデルのピアノ、チャイコフスキーの「憂鬱なセレナード」など次から次に。

サワリの部分だけなので、すぐに種切れになって、今度はこちらから「悲愴」の4楽章、テバルディの詠唱「私の名はミミ」など数曲を。

最後にかけたのがバレエ音楽の「春の祭典」。

         

「これ、誰の指揮?」

桐朋学園大学を卒業して欧州に留学、指揮者チェリビダッケに師事し現在も音楽研究所を経営しながら若い音楽家を育てているO君からの質問だった。

この曲に移って、ようやく彼の「音楽マインド」が刺激されたようだ。

「うん、ゲルギエフだよ」

「素晴らしい指揮だね。こんなに音楽に没入している演奏は滅多に聴けない。実際に眼前でのバレエを髣髴とさせてくれる演奏で、これまで聴いた春の祭典の中で間違いなくベスト。録音場所のキーロフ歌劇場にも行ったことがあるよ」

このCDのライナーノート(宇野功芳氏)にも「史上最高の演奏、今後長く語り継がれる」とあったが、例によって「宇野節」なので、話半分と思っていたのだが、こうやってプロの音楽家から絶賛の言葉があると素直に受け止める気になる。

とにかくO君の音楽の聴き方がまるで自分とは違うのに驚いた。

「曲頭のファゴットのソロだけど、極めて演奏が難しい部分だが音程が崩れかかっているものの辛うじて〔奏者が)持ちこたえている感じ」と”こともなげ”におっしゃる。

O君以外からも、ピッコロ、オーボエ、クラリネットなど次から次に加わる多彩な楽器群の色彩的な表現力に賛嘆の声が相次ぐ。

とにかく前衛的な音楽なのでモーツァルトのような美しいメロディを期待すると完全に裏切られるが、楽器の使い方ひとつでイメージを表現するのが目的の曲目。

したがって、オーディオ装置がいかに楽器の音色を忠実に再生できてバレエの情景を生々しく喚起できるかが勝負の岐れ目となる。

熱気が充満してきて、この曲目でようやく本日のハイライトを迎えたようなので、「頃は良し」と、今度はタンノイ・ウェストミンスターとの聴き比べ。

このオーディオ・ルームに入ったときにO部君やS君から「ウェストミンスターをテレビの視聴用に限定するなんて勿体ない、贅沢だなあ」と、慨嘆(?)の声が自分の耳に届いていた。

裏を返すと「アキシオム80がそんなにいいかなあ」という懐疑心にもにつながる話。〔疑り深くてゴメン!)。

さあ、その根拠を今日こそ納得してもらおうではありませんか、といっても自分は「駄耳」なので強気と弱気が微妙に交錯しているのがホンネ。

オーディオは端的に言うと、どういうスピーカーを使うかでおおかた決まる。

「ウェストミンスター」と「アキシオム80」の同じイギリス勢同士の一騎打ちがいよいよ開始~。

もったいぶらずに結果から言うと、オーディオとしての優劣は別として「アキシオム80」の聴こえ方のほうが自然で素敵というのが全員の意見だった。

集約すると、ウェストミンスターは奥まったステージのオケピットから演奏が聴こえてくるかのような、いかにも音楽を再生してますという”かしこまった”表情が拭えない。

一方、アキシオム80の方は、ステージとか一切関係なしに、バレエの情景そのものが浮かんでくる印象。

「オーディオからこんな自然な印象を受けたのは初めて」とのO君の言葉をはじめ、「音がスッと抵抗感なしに出てくる感じでこちらのほうが断然面白い」という意見が続出した。

この辺の感想はO君の最新ブログ「jmc音楽研究所」に専門家らしい分析が実に分かりやすく記載されているので是非合わせて読んでいただきたい。

 「音」が”踊る”(クリック可)
 

いやあ、試聴するにしても「選曲」というのはことのほか大事ですねえ!

「春の祭典」と「ゲルギエフ」の指揮の組み合わせで初めてオーディオ装置の真価を問うことが出来て大きな自信につながった。

「春の祭典」さん、どうもありがとう。

同時に、日頃当たり前と思っていた「アキシオム80」の表現力の凄さに改めて思い至った。

  

「蝶ダンパー、エッジレス、強力なマグネット」という特別のツクリにより、コーン紙の振幅速度が抜群に速くて音声信号への追従性が極めて高い。つまり「音の立ち上がり」がコーン紙を使ったユニットの中では別格の存在。

このため中高域の繊細で柔らかな再生能力にかけて、このユニットの右に出るものはないとの確信を益々深めたが、その一方で「使いこなし」は筆舌に尽くしがたい
ほどで、持つ人誰もが大いに手古摺る。

どなたかのブログに「このSPユニットを使う者はあまねく人生を誤る」とあったが、まったく麻薬のような趣がある。

とにかく、「いろいろ欲を出すとキリがない、これだけ鳴ってくれればもう充分」という気になった。

迷いが吹っ切れたので、これからしばらくは「もうこれで充分」が口癖になりそう。

なお、最後の最後にU君がO君の音楽研究所でとった「生録音」を聴かせてくれたが、ソフトで自然な肌触りの音に思わず魅せられてしまった。携帯用の録音機器も昔と比べると長足の進歩を遂げているようだ。

時刻も16時半頃となり、これから別府名湯のひとつ「竹瓦温泉」に向かうとのことで、どうか温泉で疲れを癒して欲しいと見送った。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~二つの実験~

2011年03月25日 | オーディオ談義

20日〔日)の大宰府訪問から4日が経過。

その間、我が家のシステムに対してずっと手を拱ねいておくというのも芸のない話。

記憶の新しいうちに何とか少しでも現状を改善しようとチャレンジするのがオーディオ・マニアの”しぶとい”ところ。それもなるべくお金をかけないで・・・。

☆ 実験その1

現在使っているスピーカー・ボックス〔以下、ボックス)は昨年3月に近くの住宅修理会社の知り合いにつくってもらったもの。

横幅40cm、高さ130cm、奥行き34cmの寸法で、その中に4本のSPユニットを納め、吸音材として「羽毛」を木綿袋に入れてぎゅうぎゅう詰めに押し込んでいる。

一番上に「アキシオム80」〔中高域用)、その下を定在波を防ぐために斜めの分厚い板で仕切って、フォステクスの3本のユニット(低域用)を取り付け。

ボックスをつくるときに一番迷ったのが下の方に穴を開けるかどうか。

低域用ユニットを2~3本内蔵している通常の市販品は全てといっていいほど穴を開けている。SPユニットのコーン紙が前後に気持ちよく振幅しやすいように背圧を逃がすための「空気穴」というわけだろう。

結局、ボックスをつくった後で穴を開けるのは面倒なので最初から直径4cmの穴を4個開けておいた。

           

これまで何の疑問も抱かずおよそ1年あまり、この状態でずっと聴いてきたわけだが、この穴を全部つぶすと低域がどう変わるんだろうかと大いに気になってきた。

そこでクルマで1時間ほどの品揃えが豊富な「量販店」で仕入れてきたのが「木栓」。

直径が5cmあってなだらかにテーパーがかかっているので4cmの穴を塞ぐのに最適。
片チャンネル4個の穴だから全部で8個購入。

ワクワクしながら帰宅して早速実験開始。

木栓の頭をゴム・ハンマーで優しくコツンと叩いて打ち込んでやれば隙間なくピタリと収まる。外すときもハンマーでコツンと木栓の端を上から叩けば簡単。

  


この木栓で4個全てを塞いだとき、あるいは1個から3個まで塞いだときなどいろいろ試してみると、低域が想像以上にさま変わりするので実に面白い。

4個全開のときは、伸び伸びと鳴る印象だがやや締まりが無くなって野放図になっていくのがよく分かる。これまでこの音で聴いてきたのだ!

一方、全部〔木栓で)詰めたときは低域ユニットの背圧の逃げ場がないので振幅が窮屈になるものの、逆に小さな振幅のせいで制動力の利いた低音になる。

結局、量感を択ぶか、歯切れの良さを択ぶかという単純な二者択一問題になるのだが後者のほうが大宰府で聴いたときの低音に近づく印象を受けた。

「全部詰めたほうがいい」と迷うことなく結論に達した。40ヘルツ以下はスーパー・ウーファーの守備範囲なので量感が多少落ちても差し支えなし。

こういうときに目標となる音が耳に焼ついていると助かる。

わずか2千円足らずの投資だったがこれで1歩前進~。

☆ 実験その2

現在使っているアンプはWE(ウェスタン)300B(1950年代の3桁番号、以下「オールド」)を使った真空管アンプ。(中高域用:モノ×2台)。

            

このWE300Bという真空管は、周知のとおり音質と耐久性の両方を兼ね備えた出力菅の「王者」として、もう70年近くも君臨している。

しかし、10年以上前から中国とか東欧、ロシアなどから300Bと同規格の真空管が出回り始めた。

とにかく価格が大幅に安いのがメリットでオールドに比べるとおよそ10分の1程度だが、その割には結構使えるというのが自分の印象。

3年ほど前にGD4300B(中国製)を購入して実際に使っているが、テレビを試聴している限りオールドと何ら遜色なし。

つい先日、オーディオ仲間の湯布院のAさんがお見えになったので、CDの試聴にこの4300Bと「オールド」〔写真左)との比較実験をやってみた。

          

試聴盤はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲4番の第二楽章。演奏はグリュミオーで指揮はコリン・デービス。かなり古い録音だが、いまだにこれを超える演奏はない。

始めに4300B,次にオールド、そしてまた4300Bの順番で差し替えた。

じっと目を瞑って聴いておられたAさん、やおら「分かりました」と一言。

「4300Bも大変な善戦ですが、明らかにオールドの方が一枚上です。高域方向への抜けと情報量が違います。4300Bは高域部分が華やかですが中域から高域にかけての部分がちょっと薄いですね。一方のオールドはきちんとしたピラミッド型の音になっています。」

同様の感想を持ったが、これまで真空管をピンからキリまでいろいろ買い漁っての所見だが、近代の真空管ほど高域にクセがあって華やかに鳴るので”ちょっと聞き”はいい。

一方、1950年代前後の真空管は実に穏やかで、聴いた当初は物足りなさを覚えるが時間の経過とともに音の厚みでじわっと本領を発揮してきて長時間聴いても飽きがこない。

この傾向は例外なくそうで、はじめからハイ上がりの派手な音を出す真空管はとかく要注意である。とはいえ、これはあくまでも個人の好みの問題なので念のため。

ところで最近久しぶりに国産の300Bの同じ規格品として注目を浴びている高槻電器〔本社、京都市)のTAー300Bについて。

価格がペアで10万円前後とまずまずだが、是非一度試聴してみたいので、直接本社にメールしてみた。

「貴社のTAー300Bに大変興味があります。2~3日試聴させてもらえないでしょうか。アンプとの相性がよければそのまま購入します。そうでないときはすぐに返送します。」

いきなり、見ず知らずの人間を信用してもらえるはずがないので「オーディオ関係のブログを4年半ほどやってます」とタイトルを添えて送っておいた。

日頃、カミさんから「一文〔いちもん)の得にもならないブログ」と揶揄されているので、せめてこういうときぐらいは役立って欲しい~。

2~3日してから返事が来て「販売のほうは○○という会社に委託してますのでそちらのほうに持ち掛けてください」という”つれない”返事にガックリ。ちょっと虫がよすぎたかなあ。

しかし、心血を注いでつくった自信作ならそれなりの熱意があってしかるべきだが、こうも取り付く島がなくては買う気が起こらないのも事実。

音楽とかオーディオはそもそもある種の「熱」に浮かされないと、とてもやってられない趣味。

丁度、メル友の京都のKさんとやりとりをしていたときだったので、この顛末を報告したところ「残念ですね、聴いたらぜったい欲しくなるという展開に持っていく体制がオーディオ業界は不十分ですね」と返信があった。

この業界が低迷を続けて随分と久しいが、こういう「熱気」が感じられない淡白さに一因があるのかもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「箱庭のような音」~

2011年03月22日 | オーディオ談義

この三連休のど真ん中の20日〔日)、久しぶりに大宰府のM田さん宅の「音」を聴きに行った。

我が家の「音」を客観的に見つめるためには他流試合が絶対といっていいほど欠かせないが、つい最近、湯布院のAさんからM田さんのところで「凄い音が出てるよ」と聞いたので「駄耳」の保養にと出かけたもの。

いきなりの、当日朝の連絡だったがありがたく”ご快諾”を頂戴したので出発は8時45分。小雨模様の天気の中、135kmの距離を一気に駆け抜けて到着したのは10時15分だった。

M田さんは自動車整備工場を経営されるかたわら、独自にトランスの線の巻き方を研究されてアンプを作られるほどの「トランスの権威」で実践派である。

全国的にオーディオ関係の知人も多く北九州の「管野アンプ」
で知られた社長さん(故人)とも懇意にされていた方で、オーディオ歴は自分よりもはるかに長い。

システムはウェスタンの300B真空管(オールド・刻印!)のシングル・アンプ(自作でデカくて超ど級)で45cm口径ウーファー、ウェスタンのショートホーンなどを組み合わせて4ウェイで聴かれている。

SPボックスを一切使わず部屋の奥側壁面を全面バッフルで仕切り、隣の部屋でSPユニットの背圧を受け止める理想的な仕組みになっている。

ちょっと話が逸れるが、このウェスタン300Bの刻印は毎日10時間、アンプのスイッチを入れて10年以上になるがいまだにビクともしないという。

この耐久性だけは音質で肩を並べると称されているPX25真空管(英国製)といえども、とても追いつかない。我が家では最近2本ツブしてしまって歯噛みしているところ。

話は戻って、最初に聞かせてもらったのが1928年録音の「フバイ」というヴァイオリニストの演奏が入ったCD。当然、往時のSPレコードからカッティングされたものだが、その音の生々しさにビックリ仰天。

全帯域で音の密度が濃くて、充満している感じ。

ヴァイオリンの音はおよそ200ヘルツ~2000ヘルツを「基音」として、その上下の倍音で成り立っている。

2000ヘルツ以上の高い方の倍音はどんなシステムでも比較的簡単に出せるが、200ヘルツ以下の低い方の倍音をきちんと鳴らすのは「至難の業」というのがこれまでの自分の考え。

我が家のオーディオ・システムでも一番苦労している部分がそれだが、M田さんのシステムではいとも簡単に出てくる感じ。

このあたりの周波数をきちんと克服できると楽器の音が生の音に近づく。

音の良否の判断基準については、百花繚乱のようにいろんな意見があり、それぞれの好みも手伝って断定的な物言いは”はばかられる”が、自分の拙い経験で言わせてもらうと「楽器の音がどれだけ正しく再生できるか」がポイントだと思っている。

これには「音の立ち上がり」が大きくものをいう。

「音の立ち上がり」とは送られてくる「音声信号」に対しSPユニットがどれだけ忠実に反応できるかという話で、前の音を引き摺ったりするとどうしても次の音と微妙に重なり合って結局は音階がハッキリしなかったり、濁った音になってしまう。


したがって「音の立ち上がり」はオーディオの生命線ともいうべきところでスピーカーとアンプの双方がハイレベルの次元で両立しないと、とても無理。

たとえて言えば「ヴォワ~ン」と膨らんだような低音ではなく、「ガッ」と瞬間的に音が出入りする感じ、猛禽類の「鷲」が鋭い爪で獲物を”むんず”と捕まえたときのような制動力が不可欠というわけ。

ここまでに至るM田さんの膨大なノウハウが偲ばれるところだが、それにしても通常のCDでは聴けないこういう音を収録しているソフトのほうもすごい。

「このCDはどこから手に入れたんですか?」


「管球王国(ステレオ・サウンド社)の筆者の”新”(あたらし)さんから、こうしてSPレコードの音を録音したCDを送ってもらっている。我が家のシステムで試聴したうえで率直な感想を連絡してるよ。」

この魅力的なCDを、我が家のパソコンの外付けCDドライブ「プレクスター」でコピーしたいのはヤマヤマだが、とうとう帰るまで「貸してください」との一言がいい出せないままだった。残念。

結局10時過ぎから16時ごろまで、厚かましくも昼食をご馳走になりながら6時間ほどお邪魔していろんな曲を聴かせてもらったが、これほどの「音」になるとスピーカーの前から離れるのが惜しくなる。

帰りの”降りしきる雨”の中で、クルマを走らせながら考えたことだった。

「あの音に比べれば我が家の音は小じんまりとまとまって、まるで箱庭のような音だなあ。低域のSPユニットを励磁型にして、ネットワークと低域用アンプを全面的に見直すとあんな音になるんだろうが、もうとてもそういう元気は出てこないよねえ。」

ちなみに、ここでいう元気とは「資金力」と「体力」と「根気」のことをいう!

こうなると、どうあがいてみても我が家の低域についてははじめから半分ほどは白旗を掲げざるを得ないようだ。

あとの対抗できるものといえば中高域用のSPユニット「アキシオム80」の艶のある「お色気」で勝負するしかないが、これはちと淋しい。

今日は自分のオーディオのレベルを改めて思い知らされた結果になったが、実にいい勉強をさせてもらった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~「レクイエム」~

2011年03月15日 | 音楽談義

およそ1000年に一度という未曾有の「東北地方太平洋沖地震」で命を落とされた方々が何と「万人規模」に達する予想だという。

その寸前まで平穏無事な生活を営まれていたのに、何と運命は”かくも”無慈悲で残酷なのだろうか。

一挙に失われた幾多の「同胞の死」という厳粛な事実の前に、とても「オーディオ」に身が入るどころではないし、音楽に浸る気にもなれないが、こと「レクイエム」に限っては別だろう。

「葬送曲」「死者を悼む」曲とされる「レクイエム」を、せめて亡くなられた方々に捧げ、「命のはかなさ」に思いを馳せながら14日〔月)はずっと自分なりに喪に服してみた。

「レクイエム」と称する曲はいくつもあるが
、手元にあるのは次のCD。日頃滅多に聴かない曲目だが今日だけは別。

モーツァルト 「レクイエム」(ベーム指揮)

モーツァルト 「レクイエム」(コルボ指揮)

フォーレ 「レクイエム」(コルボ指揮)

ヴェルディ 「レクイエム」(ムーティ指揮:2枚組)

    

まずモーツァルトの「レクイエム」(K.626)から。

「死は最良の友だちです」と父親あての手紙の中で書いたモーツァルトが亡くなる寸前に作曲した未完の曲だが、さすがに純度が高い。

ベーム指揮の「レクイエム」は、巷間ではベストとされる名盤である。

世界最高峰のオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニーと大好きなエディット・マティス(ソプラノ)の組み合わせとくればもう文句なし。やはり完成度の高い「レクイエム」である。

コルボ指揮のも捨てがたい。小編成なので小じんまり感は否めないが宗教的な色彩という面からいえばこちらのほうが上かもしれない。ソプラノのエリー・アメリンクもいい。

それに「ラウダーテ・ドミヌム」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」という名曲がカップリングされているのもありがたい。

自分なら大勢の人の死を悼むときはベーム盤、身近で親しかった人をそっと見送るときはコルボ盤を択ぶ。

次にフォーレの「レクイエム」。

これまた有名な曲目で幾多の指揮者の名盤があるが、コルボ指揮の盤はレコード時代(エラート原盤)から大好きで、CDが発売されたときは”いの一番”に購入した。

モーツァルトの「レクイエム」が「死後の魂の安息」を描いたのとは違って、フォーレのはちょっと趣が異なる。

この盤のライナー・ノートにはフォーレの言がこう引用されている。

「この曲を死の子守唄と呼んだ人がいるが、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない」

従来からこの曲は「死を賛美する歌」としての印象を強く受けていたので納得だが、実に清らかで美しい調べが随所に散りばめられていて、やはりこれは名曲中の名曲だとつくづく思った。

久しぶりに感動したが、モーツァルトの「レクイエム」と並んで宗教音楽史上の二大傑作と呼ばれるだけのことはある。

最後にヴェルディの「レクイエム」。

この曲に限ってはこれまでにも数回聴いたが、その都度”いまいち”良さが分からない曲。そもそも指揮者のムーティが好みではないせいかもしれない。

「なぜ嫌いな指揮者のCDがお前の手元にあるんだ?」と詰められると返答に困るが、手に入れた”いきさつ”をもう忘れてしまった。

このレクイエムはロッシーニの死を悼んで作曲された経緯があるが、宗教曲というよりは何だかイタリア・オペラのような印象がして仕方がない。

ワグネリアンでずっと昔のベルリン・フィルの常任指揮者だったハンス・フォン・ビューローは「聖職者の衣服をまとったヴェルディの最新のオペラ」と酷評したそうだが分かるような気がする。

とにかく、この「レクイエム」だと今回の大地震で亡くなられた方々の「魂の安息」にどうも結びつける気にならない。

派手すぎるというか大げさな気がして、これは死に対するイタリアと日本の国民性の違いかなあ。

今日はほかにも、モーツァルトの「ハ短調ミサ曲」(K.427、カラヤン指揮)や「グレゴリオ聖歌」などを聴いて過ごしたが、宗教曲というのはなぜか年を重ねるほどに心にじっくりと沁みてくる・・・。

   


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「久しぶりのオーディオ訪問」

2011年03月08日 | オーディオ談義

先日、「養老孟司」氏(脳学者、昆虫の大家)と堀江貴文〔元ライブドア社長)氏の「異色の顔合わせ」の対談を読んでいたところ、次のような箇所が。

「昆虫の研究ってキリがないでしょう」

「キリがないからこそ面白いんだよ」

 と、養老氏からの切り返しが即座にあって「我が意を得たり」と思わず頷いてしまった。

まさに「オーディオ」がそうで、これまで40年ほど取り組んできたがいまだに「もっと、いい音」を求めてふらふら彷徨っているのが現状。

「早いとこオーディオを忘れて音楽に専念せねば」と、常に頭の片隅にあるのだが、どうもキリがつかない。

この辺が楽しいところでもあり、苦労するところでもあり~。

さて、キリがつかない我が家のシステムの目下の悩みは「チェロ」の響きがイマイチなこと。

この楽器の帯域〔周波数)はおよそ60ヘルツ~700ヘルツ(ちなみに人間の可聴帯域は20~2万ヘルツ)とされているので、標的は分かりきっている。

この帯域を厚くすればいいだけのことだが
、この対策に実際に取り組むとなると結構難しい。

ちょっと専門的になるがSPユニット「アキシオム80」のカットオフ周波数〔下限)を200ヘルツ前後にしているが、これを100ヘルツ程度まで下げると一気に問題が解決するのだが、肩落ち6dbなのでわずかながらも理論上は25ヘルツくらいまでカバーしてしまう。

この超繊細なユニットにそんな低域を入れてやるとすぐにオシャカである。

一方で低域ユニットのカットオフ周波数〔上限)をもっと伸ばしてやるといいのだが、これでは音が上方に被りすぎてアキシオム本来の良さが引き出せない。

まさにジレンマの世界で悶々としていると、そういう状況を見かねたのだろう、湯布院のAさんから、
「今、Kさん宅のシステムが実にいい音で鳴ってます、一度聴いてみませんか」というお誘いが。

すぐにOKの返事をして、AさんとともにKさん宅へ。

湯布院の中心部の喧騒をちょっと離れた静かな佇まいの地域にお住まいでオーディオには最適な環境。

たしか今回が3回目くらいの訪問だが、以前と比べてシステムが随分と様変わりしていた。

ヤマハの大型スーパーウーファーがあって、クォードのプロ(コンデンサーSP) 、イギリスのスペンドール、村田のスーパー・ツィーターといったSPをSMEのプリアンプ、ゴールドムンドのパワーアンプで駆動してある。

CDシステムは「スチューダー」、レコードはガラードのモーターにオルトフォンのSPUカートリッジの組み合わせ。鳴らす音楽はクラシック一辺倒。

一聴した途端に、苦心惨憺されて現在の音を積み上げられたご様子が充分に伺えて「いやあ、これは素晴らしい音。ここまでうまくまとめた音は滅多に聴けない」と素直に感心。

我が家の弱点を完全無欠に改善したような音でAさんが誘ってくれた真意が改めて分かった。

唐突になるが高級アンプの代名詞「マーク・レヴィンソン」氏が愛用していたシステムは「H・Q・D」システムと呼ばれていた。

すなわち低域にハートレーの低域ユニット〔口径64cm)、中域にクォードのコンデンサーSP 、高域にデッカのリボン・ツィーターで頭文字をとって「H・Q・D」。

この場でもクォードのSPが実に惚れ惚れとする響きだった。中低域の分解能をちゃんと確保した上で過不足のない量感を出している。

「こりゃあ、参ったなあ。とても太刀打ちできない」と正直言って”兜を脱いだ”。

とはいえ、ずっと”押されっ放し”というわけにもいかない。

オーディオの大先達で作家の「五味康祐」さん(作家、故人)の名著「西方の音」の中に、たしか
「他家のシステムを聴くというのは秘かに自分の奥さんと比べているようなもの」という箇所がある。

つまり、よその家の奥さんの魅力に惑わされつつも、結局我が家の奥さんにもそれなりに”いいところ”があると最後は自分に言い聞かせながら帰途につくのだという。まことにメデタシ、メデタシ。

結局、「人間」とは自分が心地よく生きていくために都合のいい解釈をしたがる動物なのだ!

その伝でいくと、やたらに「アラ探し」をされるKさんこそいい”ご迷惑”だろうが、あえて気になったところを二点ほど。

☆ スピーカーがいくつもあるので音像の焦点がぼやけ気味。

音象定位の問題である。この点などはタンノイの同軸ユニットに一日の長があって、再生する音楽にはきちんとステージが出来上がっていて演奏者の足がちゃんと地に着いている印象を受ける。

ただし、欠点もいろいろあるユニットだが、使っている方が多いのでこれ以上は「物言えば唇寒し」~。

☆ 高域の柔らかさが足りない

日頃、真空管アンプで高域を聴き慣れている耳にとってトランジスターアンプで鳴らす高域に、つい違和感を覚えてしまった。

湿り気がないというか、温かみがないというか・・・。

もちろんご本人が満足してあればそれでいいので、好き嫌いの世界だが自分はどうもトランジスター・アンプで鳴らす高域には馴染めそうにない。

これに関連して面白い実験をしてもらった。

飛行機事故で不慮の死を遂げたあの名女流ヴァイオリニスト「ジネット・ヌヴー」の弾くブラームスのヴァイオリン協奏曲(イッセルシュテット指揮)を、CDとレコードで聴き比べという願ってもない試聴。

とにかく、これは名盤中の名盤である。

さすがにこのくらい調整が行き届いているシステムだと、CDとレコードの音質の差がほとんどないのに驚いたが、あえて言わせてもらうと次のとおり。

「CDは低域の分解能と量感が程好くマッチしているものの、高域がやや不自然な響き、その一方、レコードは低域がモヤっとしていてやや甘いが、高域が素直に伸びている」

結局、CDの低域とレコードの高域を組み合わせればベストというわけだが、これまで双方に対して漠然とながらそういう印象を持ってきたので今回確認できたのは収穫。

今のところ、「あえてレコードを復活させる必要はなし、CDの高域に真空管のプリとパワーアンプを組み合わて鳴らせば我が家のシステムでも十分いける」の感を深くした。

結局3時間ほど試聴して辞去したが、Kさんには実にいい勉強をさせてもらったし、こういう機会をつくってくれたAさんにも感謝。

やはり、ときどきは「他流試合をしなければ向上は望めない」と実感しながら帰宅の途についたことだった。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~「モーツァルトの音楽」~

2011年03月04日 | 音楽談義

およそ3年ほど前のこと。

地元の新聞に、とあるオーディオ・マニアの写真がご自宅の高級装置とともに大きく掲載されていて「素晴らしい音です。どうか興味のある方は聴きにいらっしゃい」と、随分自信ありげだったのでいそいそと出かけて行ったことがある。

お年の頃は70歳前後の方だったが、高価な機器をいくつも購入して部屋にポンと置いただけで「いい音が出る」と錯覚しているタイプで、それは、それは「ひどい音」だった。

したがって、オーディオの方はサッパリだったが、音楽への造詣はなかなかのもので「結局、クラシック音楽はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きます。」という言葉が強く印象に残った。

まあ極論になるのだろうが、「当たらずといえども遠からず」。

(以下、音楽論になるが各人の感性に左右される話なので、それぞれ見解の相違があると思う。したがってあくまでも「私見」ということでまずお断り~。)

クラシック音楽を一つの山にたとえるとすると、この3人をマスターすればおよそ7合目までくらいは登攀したことになろう。

個人的にはそのうちバッハについてはイマイチのレベルで、せいぜいグレン・グールド(ピアニスト)を介して、「イギリス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」を聴くくらい。

「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」にはとても程遠い。

しかし、モーツァルトとベートーヴェンは結構、イイ線をいってる積もり。

モーツァルトはピアノ・ソナタ、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲などに珠玉の作品があるが、やはり最後はオペラにトドメをさす。

結局「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」で彼の音楽は完結する。

ベートーヴェンでは交響曲の2~3つ、ピアノ・ソナタの最後の3曲(30番~32番)と後期の弦楽四重奏曲群があれば充分。

この二人の試聴期間を振り返ってみると好きになった年代がはっきり区分されていて、20代の頃はベートーヴェン一辺倒だったが、30代後半からモーツァルトが良くなってきてそれがず~っと今日まで続いている。

ベートーヴェンの音楽は今でも好きだが、年代が経るにつれて押し付けがましいものを感じてやや敬遠しているところ。

その点「モーツァルトの音楽は自由度が高く飛翔ともいうべきもので、ある程度人生経験を積まないとその本当の良さが分からない」、まあこれは自分だけの考えだろうと、ずっと胸に秘めてきた。

ところが、最近、
丸谷才一氏の「星のあひびき」(2010.12)を読んでいたらふとこのことを思い起こす羽目になってしまった。

            

該当箇所を要約してみると。

20世紀は「戦争と革命の世紀」だといわれるほど、むごたらしい殺戮の世紀であった。これに関連する死者数は何と1億8千7百万人にものぼる。

こういう血まなぐさい百年間でもほんの少し功績はあった。

ピーター・ゲイという著名な歴史学者はこんなことを言っている。

「暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かの事柄の一つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということである」。

モーツァルトの音楽が脚光を浴びることが20世紀の誇りうる事柄の一つとは、彼のファンの一人として素直にうれしくなるが、ちょっと「大げさだなあ~」という気がしないでもない。

そもそも「戦争」や「革命」と同列に論じられるほどクラシック音楽が重要だとは到底思えない~。

それはさておき、問題はモーツァルトの音楽が20世紀に入って見直されたという事実。

本書によると19世紀は道学的、倫理的な時代であり、モーツァルトのオペラは露骨な好色趣味のせいで軽薄、淫蕩的とされ、ベートーヴェンの方が圧倒的な人気を博していたという。

たしかにモーツァルトの「フィガロの結婚」は召使の結婚に初夜権を行使したがる領主を風刺した内容だし、「ドン・ジョバンニ」は主人公が好色の限りを尽くして次から次に女性に言い寄るストーリー。

モーツァルトも「女性大好き」人間だったので、まるで自分が主人公になったかのような迫真の音楽。

人間の本性を包み隠さずにさらけ出す彼の音楽が露悪趣味のように受け止められてしまい、19世紀という時代に合わなかったというのも何だか頷けるような気がする。

しかし、20世紀に入ると19世紀への反動が出てきて、〔人間性の解放という観点から)文学、絵画、音楽への新たな発見、見直しが行われたという。

モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったが、彼の音楽は死後、ずっと現在と同じくらい人気があったものと思ってきたのでこの話はちょっと意外に感じた。

モーツァルトの音楽に何を感じるか、人それぞれだが「露悪趣味」から「人間讃歌」まで、時代の流れや人間的な成長とともに受け止め方が変わっていくのが面白い。

とにかく、軽そうに見えて実はいろんな「顔」が隠されていて、聴けば聴くほどとても一筋縄ではいかない音楽であることはたしかである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「真空管ソケットの交換」~

2011年03月01日 | オーディオ談義

前回、話題にした月刊誌「無線と実験」(2011・3月号)について、いろんな収穫があったのは既に記載したとおりだが、まだまだ余禄があった。

          

それは、オーディオ関係ショップの広告。

147頁に「自作マニアのためのパーツショップ」として
「オーディオ・ウィンズ」〔資)の商品が紹介してあり、その中に「真空管ソケット」の種類が掲載してあった。

ソケットを知らない方のために、一言でいえば真空管の足(ピン)を差し込むパーツである。

まあ縁の下の力持ちみたいな存在だが、古くなるとピンとの接触面が劣化して音質が悪くなるのである程度時間が経つと取り替えたほうがいい。

かねてから、プリアンプとパワーアンプの電圧増幅管のソケットが古くなったのでそのうち、金メッキにしてあるものに取り替えたいと思っていたので目的にピッタリ


商品名は
「9ピンMTセラミックGOLD国産〔上付)」。

MTとはミニチュア管のこと。値段はたったの480円と安いのでまとめて10個購入することにした。

早速、メールで注文〔代引き)すると素早く反応があって、
「在庫がありますのですぐに送付します」。

これには追記があって、「別府と聞いて懐かしいです。自分の出身は大分県の宇佐です。」とあった。

A田さんという担当(もしかすると社長さん?)の方で、すぐに折り返しメールを送っておいた。

宇佐は別府から北へクルマで1時間ほどの海沿いの地域で大分県の穀倉地帯になっている。

JRの駅の看板が「宇佐・USA」となっていて、日本なのに「USA」かと、ときどき雑誌などで話題になるところ。

それに、あの昭和の名横綱として不滅の69連勝を樹立し、大相撲の歴史に燦然と輝く金字塔を打ち立てた「双葉山」の出身地でもある。

おっと!これが抜けると画竜点睛を欠く。

全国四万四千と言われる八幡宮の総本営とされる「宇佐八幡宮」〔国宝)があるところ。広大な敷地の奥にある神殿の佇まいには、ただただ圧倒される。

A田さんのご実家は、現在、空き家になっており仕事柄、滅多に帰省することもないとのことだが、その折りには是非別府まで足を伸ばされるようお誘いしておいた。

さて、新たに到着した真空管ソケットの付け替え作業を、オーディオ仲間のMさんにお願いしておいたところ、たまたま近くにご用があったとかで24日〔金〕の午後に急にお見えになって工事開始。

まず最初に最近購入したプリアンプから。

シャーシ(ケース)を分解し、ソケットの9つのピンにハンダ付けしてある線を外して、新たに取り付けるかなり面倒な作業。

1時間ほどかけて終了し、最後にテスターで確認してお仕舞い。

次の写真が取り外した古いソケットと、新たに取り付けたソケット〔右側)。

   

「ホ~ラ、見てご覧、シャーシに隠れて目につかないところのパーツはこんなにケチっているよ。」

ホ~ント。取り外したソケットはプラスティック製の見るからに音の悪そうな代物。おそらく200円程度の品物だろう。

たかが、百円単位でこんなにケチらなくてもいいのにと思うが、大量生産して仮に10000台作るとなると儲けの差額が280万円(480円ー200円=280円、その10000倍)にもなるのでバカにならない。

大量生産品とはそういうもので、こういうときに作る側のコスト削減と、使う側の品質欲求のアンバランスの典型的な例を見る思いがする。

やはりオーディオ製品を安心して使おうと思えば「自作」あるいは信頼できる「知人」につくってもらう、あるいは改造してもらうに限ると再度、認識を新たにした。

次に、パワーアンプ(WE300B:モノ×2台)のほうはプリアンプと比べてより複雑な作業になるので持ち帰って付け替えてもらうことになった。

そこで代替アンプとして久しぶりにPX25真空管アンプを引っ張り出して接続して聴いてみると、これが想像以上にいい味が出る。

       

このPX25は周知のとおり英国製で、およそ60年ほど前の古典菅。アメリカ生まれのWE(ウェスタン)300Bと並び称され、音がいいとされる三極管である。

付けている出力トランスはデンマーク製でオルトフォンのカートリッジで有名なJS社のもの。

一緒に試聴したMさんは、300BよりもPX25のほうが好きだとおっしゃる。いかにも英国風の奥ゆかしさがあって音楽性が豊かとのこと。

ただし、やや中低域が薄くてチェロの響きが今一歩とのことで、この辺は湯布院のAさんからもこれまで再三再四指摘を受けており、ず~っと前から自分の悩みの種である。

対策のひとつとして低域ユニットを現在のフォステクス〔SLE20W:片チャンネル3本)からアルテックの403A〔同3本)に取り替え、軽くて弾むような低音を狙うのもいい。

その「Xデー」を何時にするか、交換作業がおよそ丸1日はかかるし、結構、体力も要るしで、今のところ思案投げ首である。

最後になるが、プリアンプのソケットを金メッキに交換した以上、当然のごとく真空管のほうも金メッキの足を持った真空管に交換したいところ。

該当する真空管「6FQ7」のゴールド・ピンを持ったタイプを調べてみるとエレクトロ・ハーモニックス(メイド・イン・ロシア)から販売中なので、そのうち、購入して手持ちのRCA、GE、東芝の真空管と比較試聴してみる予定。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする