「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

後頭部の一部がジ~ンと痺れる感覚を求めて

2024年03月31日 | 魔笛談義

このブログの配給元である「グーブログ」には「アクセス解析」という項目があってその一部に過去記事のランキングが日替わりで掲載されている。

先日、そのランキングの上位にあったのが「オペラ魔笛の想い出」だった。2009年に投稿したものなので今から15年も前のブログだ。

エーッ、こんな昔のものまで目を通している方が複数いらっしゃるんだと驚いたが、どういう内容かさっぱり忘れていたのでざっと目を通してみるととても真面目な内容なのに我ながら驚いた(笑)。

現在のようにオーディオ重視の傾向とは大違いで、自分で言うのも何だが音楽を愛する真摯な姿勢が垣間見えるような気がして、これこそ我が「音楽&オーディオ」の原点なんだと、つい感慨にふけった。

そういうわけで、「昔日の真面目な面影」を知っていただくために(笑)、以下のとおり一部修正のうえ再掲させてもらいましょう。

「音キチ」からの「イメチェン」につながれば何よりですが~(笑)。


オーディオ専門誌「無線と実験」の読者交換欄を通じて「アキシオム80」を譲ってくれた千葉県のSさんとはその後もメールの交換をときどき行っている。

お互いに「音楽&オーディオ」好きなので話題は尽きず毎回、Sさんがどんな内容を送ってくるのかが愉しみだが、先日のメールは次のような内容だった。題して「魔笛の想い出」。

Sさんの友人のNさんは美大を卒業後ご夫婦でドイツに留学、画家として将来を嘱望されていたが精神を病んで極度のウツ症状となり帰国後病院通いをしながら最後はとうとう自殺されてしまった。

当時の14年前のクリスマスの頃、丁度SさんがNさんご夫婦とお会いする機会があり、内田光子さんのモーツァルトのピアノソナタのLPを買ってプレゼントしたところ奥さんが「ありがとう、今は魔笛なの、魔笛ばっかり聴いてるの」と力説されていたのが最後の想い出となってしまった。

そこで、このメールに大いに触発されて返信したのが次の内容だった。

モーツァルトの創作活動の集大成とも言える魔笛のあの「透明な世界」と「人間が消えて失くなること」とが実に”しっくり”きていて胸にジ~ンときました。たしかに魔笛の世界には人間の生命を超越したものがあってとても言葉なんかでは表現できない世界なんですよね。

自分にも是非、「魔笛の想い出」を語らせてください。

あれは丁度働き盛りの37歳のときでした。それまで、まあ人並みに階段を昇っていたと思っていたのですが、その年の4月の異動で不便な地方に飛ばされてしまいました。

今となっては「そんなくだらないことに拘ってバカみたい」ですが、人生経験の浅かった当時はかなりショックでした。

結局、片道1時間半の道のりをクルマで2年間通勤しましたが、1時間半もの退屈な時間をどうやって過ごすかというのも切実な問題です。

丁度その当時コリン・デービス指揮の「魔笛」が発売されクラシック好きの先輩がカセットテープに録音してくれましたので「まあ、聴いてみるか」と軽い気持ちで通勤の行き帰りにカーオーディオで聴くことにしました。

ご承知のようにこの2時間半もの長大なオペラは一度聴いて簡単に良さがわかるような代物ではありません。

最初のうちは何も感銘を受けないままに、それこそ何回も何回も通勤の都度クセのようになって何気なく聴いているうち、ある一節のメロディが頭の中にこびりついて離れないようになりました。

それは「第二幕」の終盤、タミーノ(王子)とパミーナ(王女)との和解のシーンで言葉では表現できないほどの、それは、それは美しいメロディです。この部分を聴いていると後頭部の一部がジーンと痺れるような感覚がしてきたのです。

そう、初めて音楽の脳内麻薬に酔い痴れた瞬間でした。こういう感覚を覚えたのは魔笛が初めてです。ベートーヴェンの音楽もたしかにいいのですが、強い人間の意思力を感じる反面、ちょっと作為的なものを感じるのですが、モーツァルトの音楽は天衣無縫で俗世間を超越したところがあって生身の人間の痕跡が感じられないところがあります。

魔笛という作品はその中でも最たるものだという気がしますが、文豪ゲーテが晩年になってモーツァルトの音楽を称し「人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ」と語ったのは実に興味深いことです。

それからは「魔笛」の道一筋で、とうとう病が嵩じて「指揮者と演奏」が違えばもっと感動できる「魔笛」に出会えるかもしれないと、50セット近い魔笛を収集してしまいました。これも一種の病気なんでしょうね~。

ちなみに、我が家のすべての魔笛を引っ張り出してみました。

左からCD盤、DVD盤、CD(ライブ)盤です。

                       

ただし、あれからおよそ40年近くなりますが、あの「ジーン」と頭が痺れるような感覚はもう二度と蘇ってきません。おそらく感性が瑞々しい時代特有の出来事だったのでしょう。

今振り返ってみますと、37年間の宮仕えでいちばんつらかった失意の時期が自分の精神史上最もゆたかな豊饒の実りをもたらしてくれたなんて、まったく人生何が幸いするか分かりませんよね。

「人間万事塞翁が馬」(平たく言うと 何が幸か不幸かその時点ではわからない)という ”ことわざ” を自分は完全に信用しています。人生って結局この繰り返しで終わっていくんでしょうね~。

と、以上のような内容だった。

現在のように「音楽&オーディオ」に熱心なのも「夢よもう一度」で再び「後頭部の一部がジ~ンと痺れる感覚」を追い求めているからだが、たとえ今後どんなに「いい音楽 と いい音」に巡り会ったとしても、あの感性の瑞々しい時期に遭遇した衝撃的な出会いにはとうてい敵わない気がしている。

当時のお粗末なカーステレオの音でそういう「痺れる感覚」を味わったのが実に皮肉ですけどねえ・・(笑)。



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「良心の呵責」がもたらした素敵なプレゼント

2024年03月30日 | オーディオ談義

つい先日のブログ「スーパー10バリエーション」の中で「これまで赤帯マグネット付きのスピーカーにハズレは無かった」と豪語した手前「ブログ主」として検証しておかないとちょっと拙いなあ・・、爾来「良心の呵責(かしゃく)」を覚えて仕方がない(笑)。

そこで、まずは我が家で使っている「赤帯マグネット」付きのスピーカーを列挙しておくとしよう。



ワーフェデールの「スーパー12」です。12ということは「12インチ → 口径30cm」ですね。

現在「補助バッフル」に取り付けて、「ウェストミンスター」(改)に容れています。「分解能」と「響き」が両立しており非常に満足しています(笑)。

次の「赤帯・・」は、同じワーフェデールの「スーパー10」です。つまり10インチだから口径25cmですね。



これは、スーパー12よりもさらに重量級の赤帯マグネットが付いてます。ただし、強力なマグネットは歯切れはいいものの低音域の量感には恵まれませんので、ピッタリサイズの木製の植木鉢に容れ、サブウーファーを加えて楽しんでいるが、
素晴らしいサウンドにウットリ(笑)。



次は言わずと知れた「AXIOM80」です。



もう解説は不要ですよね~(笑)。

そして、最後がワーフェデールの「スーパー3」です。3だから「3インチ → 口径10cm」のコーン型ツィーターです。



実は、この「スーパー3」はJBL勢の「075ツィーター」や「175ドライバー」に「押されっ放し」で「表舞台」に登場していません・・、で、この際とばかり「捲土重来」(けんどじゅうらい)を期して「檜舞台」へ(笑)。

そして、使い道はこれがベストでしょうよ。



口径20cmウーファー専用が入った箱の上に、自作のバッフル(後面開放)に取り付けた「スーパー3」を載せてみた。担当する周波数はウェスタン製の「ブラックタイプ・コンデンサー」を使っておよそ5000ヘルツ以上~。

ワクワクドキドキしながら、耳を澄ましたところ想像を絶するほどの美音が迸(ほとばし)り出た!!

これは素晴らしい・・、いや、ホントだってば~(笑)。

うっとりしながら「075」や「175」よりも上かもしれんなあ・・、少なくとも弦楽器に関しては確実に上回っている。

「スーパー3」って、ほんとうはこんな音だったんだ・・、プリアンプの真空管交換の影響やパワーアンとの相性の良さでようやく真価が発揮された模様。

ちなみに、
パワーアンプには現在我が家で栄華を極めている「LS7」シングルを充てこんだ。



で、今回の図式を振り返ってみると・・、

「赤帯マグネット付きスピーカーに駄作無し」 → 「良心の呵責を覚えた」 → 「検証」 → 「素敵なプレゼント」という構図ですね。

やはり何事にも「良心の呵責」は大切のようですよ・・(笑)。



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小澤征爾 指揮者を語る

2024年03月29日 | 読書コーナー

日本人というハンディを乗り越えて世界的な指揮者になられた小澤征爾さんだが、つい先日亡くなられましたね。

その出自をごく簡単に紐解くと、中国の奉天(当時、満州)生まれで父親は「小澤開作」といって歯科医師であり、民族主義者として「満州国協和会」創設者の一人だった。

今や完全に死語となった「大東亜共栄圏」・「五族協和」という錦の御旗のもとに展開された満州事変(1931年)の首謀者とされ、当時陸軍(関東軍)の高級参謀だった「板垣征四郎」と「石原莞爾(かんじ)」との親密な交流を通じて両者の名前から1字づつとって「征爾」と命名された。

「大東亜共栄圏」構想の背景には「白色人種は結局、黄色人種を受け入れてくれないのでアジア人だけで団結しよう」という思想が根底にあった・・、気宇壮大な構想だが当時としてはけっして間違っていたとは思えないが、今はどうなんだろう?

アメリカや西欧における中国に対する警戒心は相変わらずだが、日本のイメージは「安定した民主主義」「洗練された高度技術」や「大谷選手」など国際人の活躍などもあってか良くなっているようだが、「ほんとうの仲間」と思っているかどうか・・、計り知れないのがホンネだろう。

ちなみに「五族協和」の五族とは日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人をいうが、もし石原莞爾さんがご存命だったら現在の五族融和の状況についてどういうご感想を洩らされるだろうか。

「日本が中国を御している時代の身勝手な構想だった」と、洩らされる可能性が高い・・。


余談はさておき、小澤さんが指揮した演奏をいくつか聴いたことがあるが正直言って「この曲は小澤さんでなければ聴けない」という極めつけの演奏に一度も接したことがないのが残念。まあ、そういう指揮者が大半なので欲を言うとキリがないが・・。

そういう中、たまたま小澤征爾さんの本をみかけたのでこれ幸いとばかりに借りてきて目を通してみた。

                     

さすがにベテラン指揮者だけあって参考になりそうなことがいろいろ書かれていた。このまま返してしまうのはもったいない気がしてせめてポイントだけでも記憶に留めておこうと箇条書きに整理してみた。

☆ クラシック音楽における東洋人の位置づけ(79頁)

デヴュー当時にドイツの有名な批評家から「(東洋人なのに)あんた、ほんとうにバッハなんかわかるの?」と、随分失礼なことを聞かれた小澤さん。これに関して恩師の斎藤秀雄さんがこういうことを言ってた。(要旨)

「ドイツで生まれ、ドイツで育った人はドイツ音楽の伝統を知っている。フランス人もイタリア人も同様だ。けれどもお前たちは真っ白だ。でも真っ白っていうことは、案外いいことかもしれない。うんと勉強してその真っ白の中に自分の経験を加えていけるから。

ドイツ人がフランスのものをやろうとすると伝統が邪魔してよくできないとか、イタリア人がドイツものをやろうとするとイタリアの伝統が邪魔になる事があるかもしれない。歴史があったり伝統があるとそれがかえって重荷になるかもしれないので、良い伝統と悪い伝統、それをよく見極めろ。」

☆ 指揮台に立ったとき、ふっと手を動かし、みんなが信頼してついてくる指揮者になるためにはどうすればいいのでしょうか?(115頁)

「深く作曲家のその曲を研究してみんなが納得するようなところでエリアをつくってポンと前へ出すと、ついてきますね。それとこんなことがあるんですよ。歌は必ず、息をとらなきゃ歌えない。

音楽の根源は人間の声から始まったと我々は思っているわけ。それから楽器は声の代わりに音楽をつくってきた。だんだんとそれが、声ではとても出ない高い音や低い音をヴァイオリンとかで出せるようになった。

だけど音楽の根源は声だとすると、息を吸うことは絶対必要で管楽器は息を吸わなければいけないけど、ヴァイオリンなどの弦楽器は息を吸わなくても弾ける。しかし、そこのところで、息をみんなにうまく吸ってもらう指揮者もいて、それがいい指揮者だと言われる。

いわば“インバイト”をするんだね。~中略~。カラヤン先生の弟子をしていた頃にはっきりと「インバイトだぞ、指揮は」と仰っていた。歌手とオーケストラの息が合う、そういうことができる指揮者になれたら一番いいんじゃないかと僕は思っている。要するに無理に押し付けないってことで。」

☆ 最後に百年後の皆さんへ(150頁)

「100年前の人たちは僕らが生きている今のことを、どう思っていたのかって考えてみると、こんな変化を想像しなかったと思う。飛行機が出来たり、コンピューターが出来たり、文明は驚くほど変わっているわけで。

そう思うとこれから100年後もうんと違うと思うんです。

そこで二つだけ変わってほしいことがある。100年前の人は100年たったら戦争がもうなくなっているだろうと思っていたと思う、悲惨なときに。けど、まだ戦争はなくなっていない。その戦争のことは、もうほんとに人間の頭の良さを使ってなくしたらいいと思う。

それともう一つは世界はすごく近くなってきている。どこに誰が住んでいるかがわかって、どれくらい貧乏な人がいるかとか、どんな人たちがどこそこにいるとか。

人種問題なんかも含めて、100年後のみなさんには、是非そういうことを解決してほしい。世界が、地球が小さくなったなあと思えるように。みんながわかり合っている地球になってもらいたいと思います。

そしたらいいなあ・・・と、そういうみなさんで、いていただきたいと思います。」
 



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「趣味の互恵関係」とは

2024年03月28日 | 独り言

「本の寄贈をしたいんですけど受け付けてもらえますか?」と、いつも利用させてもらっている隣町の図書館に電話してみた。

「はい、郷土資料は別なんですが、一般的な書籍は発行から5年以内のものに限っています。それに破損のひどいものは受け付けていません。」

「エッ、発行から5年という制約があるのですか・・・。それではちょっと無理ですね~。」

我が家のそれほど大きくもない倉庫にもう10年以上も読んでいない本が山積みされている。そこで処分して出来るだけスペースを確保し、オーディオルーム内の余分な機器類を置こうという目論みだった。

結果的にオーディオルームの音響空間が広くなるし音質改善にもきっと寄与できるはずで、本の処分の動機はやっぱりオーディオがらみだったことになる(笑)。

で、結局古本屋さんに持って行ってもどうせ二束三文だろうし、図書館に寄贈するのはあえなく挫折・・、やっぱり廃品回収に出すしか方法はないようだ。そうすると何だか惜しくなって、1冊づつ本の吟味をすることになった。

音楽関係の本はのちのちブログの材料になる可能性があるので残しておくことにしたが、想像した以上に「釣り関係」の本が多かった。

若い時分は「オーディオ」よりも「海釣り」の方に夢中になっていたし、「防波堤の上で死ねたら本望だ。」と思っていたほどの熱中ぶりだった。

そういえば、どうしても欲しいオーディオ機器があったがとても高価で手が出せず悶々としていたときに、釣りに夢中になると あら不思議 いつの間にか欲しい気持ちがすっかり薄らいでいたという経験が何度もあった。

「オーディオ」と「釣り」の間でうまく欲求のバランスを取っていたことになるが、これを「互恵関係」と称するのだろうか(笑)。

ただし、現在では体力の衰えで釣りに行くのが億劫になり、オーディオ一辺倒になってしまったが、よくしたもので授業料を払ってせっせと失敗体験を積んで、いくらか耳が肥えたせいもあろうが、どうしても欲しくてたまらないオーディオ機器がほとんど無くなってしまった。

見ただけでどういう音が出るかおよそ想像がつくし、実際に聴かなくても我が家の既存の機器との相性の良し悪しがだいたい分かるようになったのは大きい。

我が家のオーディオもようやく9合目あたりまでは来たかなあ・・、まあ、自己評価だけどね(笑)。

話が逸れたが本の整理に戻ろう。

釣り関係の本でも深く思い出に残る本は何冊か残しておくことにした。そのうちの1冊が「チヌ釣り大全」だ。

  

北九州の名釣り師「若松敬竿(けいかん)」さんの名著である。

とても懐かしい若松さんは今でもご健在なんだろうかと、名前をググってみたところ2008年12月に亡くなられていた。もう16年も前ですか・・。

どなたかのブログに次のような記載があったので無断転載させていただこう。 

「九州のチヌ釣り師ならば知らないはずはない、知らないなら残念ながらチヌ釣り師とは言えない。
 
故若松敬竿氏が25年前に執筆したチヌ釣り大全、我々チヌ釣り師にとってのバイブルであった。
 
最近はチヌ釣り師ではなく、どちらかと言えば五目釣り師の自分なのだが、今また、昔の本をよく読んでいる。
 
チヌに限らず全ての釣りに共通することが書いてあるからである。敬竿氏ほど、チヌを愛し、チヌ釣りを探求したチヌ釣り師はいないと思う。 

若松の海から、細島、対馬の海でのさまざまなチヌとの会話、知ることがなかったチヌの習性など、釣り技、釣道への探求が書かれている。」

以上、まったく同感だがこれにあえて付け加えさせてもらうと、若松氏は文章が実に巧みだった。

この「チヌ釣り大全」は「釣り文学」の最高峰と位置づけしてもいいくらいで、釣りに留まらず人生観にまで踏み込んだ含蓄の多い文章のおかげで繰り返して読めば読むほどに物事に深く傾注する「熱意」の底知れない世界へと引き込まれていく。

オーディオ界でいえば「瀬川冬樹」さん(故人)あたりを彷彿とさせてくれますかね~。

こういう風に本の整理にためつすがめつ、いろいろ手間取ったがとりあえず廃棄本をゴミの収集日に出したが、その一方では何だか心にぽっかり穴が開いたような気がするのは否めない。

   

自分の血となり肉となった分身のようなものをアッサリ切り捨てていいのか・・、という感じ。

そういえば不要になったオーディオ機器(真空管を含む)を処分するのは、一向に痛痒(つうよう)を感じないけど、本となると別~。

なぜなのか・・、まずは存在価値の多少が挙げられ、そして処分したときの「対価」の大小も理由のひとつ、実はこれがいちばん大きいかもねえ~(笑)。



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「我が家の子守歌」について~続編~

2024年03月27日 | 音楽談義

前々回のブログ「我が家の子守歌」について・・、音楽好きならどなたでも「子守歌のような存在の曲目があるはずですからご教示ください」との呼びかけに対して、ありがたいことにお二人さんから反応がありました。

まずはずっと以前にメールをいただいたことがある「Y」さんからご紹介させていただきますが、匿名ということで無断掲載お許し願いますね。(以下「原文」のまま)

「子守歌…………」の記事を拝読させていただき、私の「子守歌」を……と(笑)

オーディオが枕元にあるため 寝る前に音楽を聴く事が多く、まさに「子守歌」です(笑)

良く聴くのは

バッハ 無伴奏ヴァイオリンから、シャコンヌ

パッヘルベル カノンとジーク

モーツァルト ハフナーセレナード 第3~6楽章

ドヴォルザーク 新世界交響曲 第2楽章

グリーク ピアノ協奏曲第2楽章

イギリス民謡集 フォスター 歌曲集 などなど……。

音楽を聴いてから寝ると翌朝、気持ち良く目が覚める気がします。(笑)

ブログ主から以下のとおり。

モーツァルトの「ハフナー セレナーデ」は大好きです。改めて「YouTube」で検索して聴いてみましたが「マリナー指揮」が気に入りました。

第二楽章は絶品だと思います。K250ですからおそらく20歳代の作品でしょうが、モーツァルトに限っては作品の熟成度は年齢にお構いなしですからほんとうの意味での「天才」だという思いを強くしました。

彼の音楽を聴くと、いつも触発され心が洗われる思いがしますので「子守歌」以上の存在といっても過言ではありません・・、もはや生きる術(すべ)ですかね(笑)。

次は、南スコットランド在住の「ウマさん」からお便りをいただきました。

「エンヤは僕も大好きです。
かなり昔のことですが、初めて聴いた時、不思議な音楽だなあと感じ、ほかに比べるものがないとも思いました。
この思いは、今も変わってません。

実は、ダブリンにいる古い友人・ジーンが、エンヤの親しい友人だそうです。「ダブリンに来たら、会わせてあげるよ」と言ってくれてます。

大阪に長らく住んだジーンを知って45年になりますが、彼女は、現在、劇作家、脚本家、作家として、何度も賞を取り、アイルランドではかなり知られる存在です。彼女の脚本・監督の映画に、長女のくれあが出演したこともありました。ジーンは、今も大阪弁がぺらぺらです。

ジーンは、ダブリン南部の海岸沿いにリゾートハウスを所有してますが、そこにエンヤが遊びに来たことがあるとも言ってました。
いずれ、ジーンを訪問したいと願ってますが、もし、エンヤ嬢と会えたら嬉しいですね。

その音楽から、エンヤは物静かな方だと想像してましたが、ジーンが言うには、かなりのおしゃべりだそうですよ。

「田園」ワルター、「モーツァルト・ピアノソナタ」グールド…同感です。」

ブログ主

今朝がた、夢を見ました・・。何と「エンヤ」と一緒にオーディオルームで彼女の歌を聴いているんです! 

「私のサウンドづくりにピッタリ合うオーディオシステムだわ~」と感心してもらったところでパチリと目が覚めました。もっと続けば良かったのに~(笑)。

ウマさんのおかげで「いい夢」を観させてもらいましたよ~!



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スピーカー「スーパー10」 バリエーション

2024年03月26日 | オーディオ談義

ときどき自問自答することがある。

今さらの話だが「オーディオの目的って何?」。

「好きな音楽 を 好きなサウンド で聴きながら幸福感に浸ることさ」と、一刀両断にしたいところだが、はたしてそう簡単に割り切っていいものかどうか・・。

というのも、「好きな音楽」は簡単にわかるとしても「好きなサウンド」というのが、どうもはっきりしない・・。


たとえば我が家の場合、5系統のスピーカーがあるがそれぞれに持ち味があって、すべて手放せないものばかり・・、つまり「好きなサウンド」って「八岐大蛇」(やまたのおろち)みたいなもので、恥ずかしながらいまだに焦点が定まっていない~(笑)。

言い換えると「好きなサウンドならいくらあってもいいよ」という開放主義者だが、これがもし人間相手なら多数の「妻妾同居」となってたいへんなことになるが、オーディオだから許される話。

もしかして、基本的な願望はそこに尽きるものの実現不可能だからせめてオーディオの分野でと・・、誤魔化しているのかもしれませんね(笑)。

で、このところ鬱蒼とした天気が続く中で、気が滅入って仕方がないので、何ら罪のないオーディオに八つ当たりしてみた(笑)。

久しぶりに「スーパー10」(英国:ワーフェデール)の登場である。


口径25cmのフルレンジで、ご覧の通り重量級の堂々たる「赤帯マグネット」の持ち主である。ちなみに、これまで「赤帯・・」を使ってハズレタことは一度もないので、我が家では極め付きの信頼のブランドである。

使い方としては、オーソドックスに箱に容れる手もあるのだが、このユニットにはネジ穴がピタリと当てはまる既存の「植木鉢」があるんですよねえ。

そこで・・、一丁上がり~。



後面開放の植木鉢に容れているので低音域が圧倒的に不利・・、そこで口径20cmのユニットを容れた箱で100ヘルツ以下を「サブウーファー」として補強してやろうという算段である。

実はこのユニットは購入以降「高音域」に物足りなさを感じていたのだが、「先日のブログ」に登載したように「プリアンプ」の真空管を取り換えたところ、高音域の透明感が一変したことだし、そしてパワーアンプも「LS7」シングルで、「高音域に向けて加速度がついたような伸び具合」(仲間談)だから、おそらく不安は一掃されるはずと踏んだ・・。

そして、見事に期待に応えてくれた。

強力なマグネットの持ち主が出すサウンドは音の立ち上がりと収束がメチャ早い、いわばスピードが抜群・・、あらゆる音楽ソースを過不足なく忠実に再生してくれるのだから言うことなし。箱を使っていないので「音が籠りにくい」という利点も当然ある。

これまで感じてきた高音域の透明感不足はアンプの責任だったんだなあ・・、これで、6番目のスピーカーの誕生となった。

そして、これにはもう一つのバリエーションがありまして~。

ちなみにバッハの曲目に「ゴールドベルク・バリエーション(変奏曲)」というのがあるが、不眠症の貴族のために一つの主題を手を変え品を変え変奏していく名曲だが、それに倣って「スーパー10バリエーション」といこう。


今度は「サブウーファー」を「ウェストミンスター」に代えて「200ヘルツ以下」を補強しようという算段である。

そして、ワクワクしながら耳を澄ますと・・。

何とまあ・・、たったの(?)200ヘルツ以下を大型スピーカーで補強しただけで音楽の表情ってこんなに変わるものかと唖然とした。

さあ~、どちらがより「好きなサウンド」になるのか、これから微に入り細にわたって耳を傾けながら、この鬱陶しい天気のもとで快適、快適と自分に言い聞かせるとしよう・・、アハハ(笑)。


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我が家の「子守歌」と「お経」

2024年03月25日 | 音楽談義

「おもしろうて やがて悲しき 鵜船かな」

「俳聖」芭蕉・・、元禄一年(一六八八)45歳のときの作として知られ「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」との前詞がある。

<句意>

鵜船が目の前で、華やかな篝(かがり)火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極みに達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、なんとも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残る。

胸をワクワクさせた「華やかさ」の後にくる一抹の寂しさ・・、「詩情」にあふれていますね。350年ほど前の作品なのに現代人の心情と少しも変わっていないことに気付かされます。

50年以上に亘って「音楽&オーディオ」に熱中した我が人生も、振り返ってみると「おもしろうて やがて悲しき・・」ですかね(笑)。

さて、久しぶりに音楽の話。

音楽にはいろんなジャンルがあって曲目も数限りないが、どんなに好きな曲目でも何回も聴いていると飽きがくるというのは誰しも経験されることではあるまいか。

歌謡曲とかポピュラーなんかは1曲あたりせいぜい4~5分程度なので仕方のない面もあるが、クラシックだって例外ではない。

たとえばシンフォニーの場合、第一楽章から第四楽章まで起承転結にならって、およそ40分ほどにわたって展開されるものが多いが、そういう中身の濃い曲でも何回も聴いているとほとんどの曲が飽いてくる。

他人に自分の考えを押し付ける積もりは毛頭無いが少なくとも自分はそう。

そういう中で、こればかりは”いつ”、”いかなるとき”に聴いてもホッとして心地よい曲というのがある。

そう、まるで「子守唄」のような存在。

人によって様々だろうが我が家の場合は今のところ3つに絞り込んでみよう。

それはベートーヴェンの「田園」、モーツァルトの「ピアノソナタ全集」、そしてエンヤの「アルバム」。

前二者は「長い時間の経過」という天然のフィルターがたしかな役割を果たしてくれている好例である。                         

「自然の美しさ、優しさ、厳しさ、そして感謝」を高らかに賛美した「田園」はずっと昔のブログでいろんな指揮者の聴き比べ特集を投稿したことがある。

因みにそのときの指揮者を挙げてみると次のとおり。

フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、マリナー、ケーゲル、ジュリーニ、ジンマンの10名。カラヤン盤がないのはご愛嬌。後にチェリビダッケ盤も追加。

当時はマリナー盤を自分にとってのベストとして挙げておいたのだが、今ではまず聴かない。自然とワルター盤に還ってしまった。

演奏の良し悪しは別として、もうアタマの中に刷り込み現象のようになっていて、これはもうワルターでないとダメ~(笑)。

次に、モーツァルトのピアノ・ソナタ。これもいろんな奏者がいる。

手元にあるだけでも、アラウ、ピリス、内田光子、ギーゼキング、シフ、グールドといったところだが時によってアラウが良かったり、ピリスだったりするがいつも自然とグールド盤に還っていく。

これはモーツァルトのソナタというよりもグールドのソナタと言ったほうがいいくらいで独自の解釈で自由奔放に弾きまくっていて、一風変わった奇妙な魅力が心を捉えて離さない。

コンコンとまるで汲めども尽きせぬ泉が湧き出てくるような演奏だが、自分にとってはこれはもう「子守唄」を通り越して「お経」みたいな存在といっていい。縁起でもないが通夜のときには魔笛と並んでこれをしめやかに流してもらおうと思っている。

ただしグールド自身の書簡集などを見ると、決してモーツァルトという作曲家を評価しておらず、シェーンベルクやバッハなどに思いを馳せていて、この「ピアノ・ソナタ集」録音への言及は一切ない。

しかし、CD盤の帯封に「世界中のグールド・ファンの愛聴盤」とあるように作品自体が一人歩きしている感がある。

これは演奏家の思惑と人気が必ずしも一致しない実例の一つだろう。

そして最後に「エンヤ」(アイルランド)・・。



前から好きなアーチストだったが、「You Tube」でリモコンのスイッチ一つで簡単に聴けるようになってからは、まず聴かない日はないほど・・。

とにかくあらゆる曲目が豊かなサウンドとともに自然と心に沁み込んでくるし、ついなにがしかの郷愁を覚えさせてくれます。

以上の三つが我が家では「子守歌」と「お経」になっています。

あなたのお宅ではいかがですか・・、よろしかったらご教示ください(笑)。

最後に、久しぶりに「チャットGPT」の登場です。「子守歌」と「お経」の違いを訊いてみました。

子守歌(こもりうた)とお経の違いは、それぞれの目的や内容にあります。

1 子守歌(こもりうた):

子守歌は、子供を寝かしつけるために歌われる歌のことです。通常は、穏やかなメロディと簡単な歌詞で構成されています。親や介護者が子供を寝かしつける際に歌うことが一般的で、子供に安らぎや眠りをもたらす役割を果たします。子守歌は、地域や文化によって異なる歌詞やメロディが存在しますが、その共通点は子供の安らぎを与えることにあります。

2 お経(おきょう):

お経は、仏教の経典や教えを述べた文や歌のことを指します。お経は、仏教の修行や宗教的な儀式で使用されることが一般的です。仏教におけるお経には、般若心経や観音経などさまざまな種類があります。お経は、信仰心を深め、悟りを開くための教えを伝えることを目的としています。そのため、お経は宗教的な文書であり、特定の信仰や宗派に属する人々によって読誦されます。

要するに、子守歌は子供の眠りを助けるための歌であり、お経は仏教の経典や教えを述べた文や歌です。それぞれが異なる目的と文脈で使用されます。

もうどちらでもよろし、精神安定剤の役割さえ果たしてくれれば~(笑)。



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老兵はただ消え去るのみ

2024年03月24日 | 独り言

いつぞやの「日経新聞」に興味深い記事があった。

題して「死者のプライバシーは守れるか」。

デジタル遺産の話題はこのブログでも以前に取り上げたことがあるが、最新情報になるので無視するわけにもいかない。

この ”冴えないブログ” だっていずれデジタル遺産になるのだから、当人にとってはかなり切実感がありますよ~(笑)。

   

解像度がイマイチのため読みずらいでしょうから要約してみよう。

「著名な人物が残した言葉や写真は社会的、歴史的な価値を持つ。ただ今はごく普通の人でも思いがけずたくさんの情報を死後に残す時代だ。

SNSへの書き込みやスマホやパソコン内のデータなど、死後に残る「デジタル遺品」への関心が高まっている。

60人の大学生を対象にアンケートをとったところ、「削除したい」が51%、「残しておきたい」が13%、「遺族に任せる」が23%だった。

ただし、死後にそのまま放置すると乗っ取られて悪用される危険がある。

その辺を留意しつつ、逆に故人を追悼するホームページをつくったり、亡くなった人が綴ったブログを保存したりするケースも増えてきた。

親しい人の写真や遺品を長く残したいとの思いは自然だ。ネットの上ならいつでも遠くからでも訪れることができる。

死後に残したデジタルデータは誰のものなのだろうか。死後のプライバシーというのはあるのだろうか。

研究者によると「はっきり定めた法律はない」。プライバシー保護に熱心な欧州の保護規則も対象となっているのは生きている人だけだ。

結局「生前のプライバシーと同様に故人の意向に沿って取り扱われるのが望ましい」。

理化学研究所の人工知能の研究家は次のように述べる。

日々の生活や行動の一切を記録した画像や音声などを「ライフログ」と呼ぶが、一生分を残すことは可能だ。このデータを活用すればあたかもその人がまだ生きて話すかのように応答する「AIもどき」がつくれる。それも本人そっくりに巧妙にデザインされたCG動画付きで。

そんなことが当たり前になれば、親しい人を弔うという慣習や個人を偲ぶ気持ちも次第に今とは変わったものになっていくのかもしれない。

人生は短くデータは長生きだ、そんな時代の入り口にいる。」

とまあ、かいつまむと以上のような内容だった。

そこで、このブログについてだが・・、本日現在(2024・3・24)で存続期間が「17年4か月」、記事の本数は「3371件」となっている。

長続きした方かな・・、1件当たりの文章の長さもおよそ3500字前後で原稿用紙およそ8枚分と、コツコツと足跡を刻んできた。

で、ブログ主がオワとなって(このブログの)行く末となると、「妻」と「娘」の双肩にかかっているわけだが、前者は「パソコンに疎い」のでまったく当てにはならない、残る頼りの娘(他県在住)は現在仕事の面で人生で一番忙しいポストに就いており、亡き親父のブログの管理に構っている余裕なんてないはず~。

それに加えて、そもそも「更新しないブログ」ってただただ忘れ去られていくのみ・・、ちなみにこのブログの読者はとてもシビヤで少しでも内容に新味というかヒネリがないとアクセス数がガクッと落ちる、それはもう鮮やかなほど・・、まあ逆に発奮させられますけどね~(笑)。

また、いつぞやのこと・・、心臓にステントを入れる手術をして1週間ほどブログを休んだところ、途端にアクセスが急降下だったのも記憶に遺っている。

そもそも読者なんて、なんの縁もゆかりもなく記事だけの繋がりなんだからそういうもんでしょうよ~。

というわけで、家族も読者も当てにできないし、またすべきではない。

したがって老兵はただ消え去るのみ・・、生前からわざわざ(ブログの存続を)話題にするほどのこともなさそうですね、それよりも遺された「オーディオ機器」の行く末の方が心配だよね~(笑)。



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「往生際の悪い」オーディオ愛好家

2024年03月23日 | オーディオ談義

いつも拝読させてもらっている「H」さんのブログ。

とても耳が良い方だし、すこぶるご熱心なオーディオ愛好家で貴重なオーディオ情報が満載されているが、いつぞやのブログの一節に次のようなことが書いてあったのが印象に残っている。(勝手ながら無断引用させてもらいます)


「目の前の(レコード・プレイヤーの)2本アームですが、私の性分では1本で良さそうです、どちらかに優劣が判断出来たら、悪い方は使わないです。」

とてもはっきりした価値観で爽快ですね!

どうやらオーディオ愛好家も2種類のタイプに分けられそうです。

「H」さんのように優劣が判断出来たら潔く悪い方はあっさり切り捨てるタイプと、もう一つは簡単
に諦めずに二番手を一番手に近づけるよう悪戦苦闘する、いわば「執念深いタイプ」。

皆様はどちらに組みしますか? 

自分は後者のタイプです。竹を割ったようなサッパリした性格ではないし、往生際(おうじょうぎわ)の悪い かなり引きずるタイプですね(笑)。

そういうわけで「二番手以下を少しでも一番手に近づける」ような しつこい 具体例を挙げてみよう。

で、ここ1週間ほど耳を傾けているこのスピーカー「PL100」。



どんなに気に入った音が出ていても「脳はマンネリを嫌う」(音を音楽に変換するのは脳ですからね!)ので、ぼちぼち飽きが来つつある頃だがこのスピーカーには以前にも書いた通りかなり手こずった。

仕様がインピーダンス4Ω、能率88dbとくれば古典管を使った真空管アンプでは無理ですよね~。

しかし、その無理を何とか通そうと、1日がかりで実験を繰り返してベスト1に「PX25シングル」アンプ、2番目として「2A3シングル」アンプを選出したのは先日のブログに搭載した通り。

すると、日が経つにつれ2台だけではちょっと淋しいんだよなあ・・と、またぞろり浮気心が~(笑)。

目を付けたのがこのアンプ。



お気に入りの「LS7シングル」だが、テレビの再生音では違和感がなかったものの、音楽の再生となると途端に歪みっぽくなってアウトだったのは既述通り。

しかし、どうにも未練が残る・・、簡単に諦めるのは惜しい・・、そこで試しに整流管を「80」からやや強力な「83V」(RCA:刻印、画像右端)に代えてみた。前段管の「AC/HL」、出力管の「LS7」はそのままである。

すると何とまあ・・、あの歪みっぽさがかなり消えたのである。

たとえば「エンヤ」の名曲「MAY・IT・BE」で、2~3か所にわたって少し歪むくらいでほかは見事に許容範囲に収まったのには驚いた!

普段クラシックを聴くのならこれで十分だなあ。

整流管の威力・・、チャレンジ成功・・、この しつこさ を勉学や社会生活にもっと発揮していればもっと大成できたかもなあ~(笑)。



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左対右 きき手大研究

2024年03月22日 | 読書コーナー

ようやく「球春到来」・・、熱戦たけなわの「春の選抜高校野球」。

プロ野球にはない球児たちの「ひたむきさ」に、つい引き寄せられてテレビをつけっぱなしだが、それに加えて、オーディオの試聴ソースとしても、観衆のどよめきや場内アナウンサーの声の響きなどがもってこいで、どのくらい奥行き感があって豊かに聴こえるか無意識のうちにチェックしている・・。

常に生活の念頭にあるのが「音楽&オーディオ」というわけで、どうしようもない人間である(笑)。

それはさておき、野球の場合にとりわけ目立つのが左利きの選手が多いことで、野球は左利きが有利のスポーツだと感じさせる。

たとえば、左バッターは打ってから駆けだす方向の一塁に近いので有利だし、左ピッチャーは投げる時に一塁走者に相対するので牽制するのにたいへん有利だ。

このように野球の場合には「左利き」有利は明らかだが、一般的な社会生活では果たしてどうなんだろう?

恰好の本があった。



「左対右・きき手大研究」(化学同人社刊)
    

本書は、古来言われてきた、「左利きは器用」「左利きは怪我をしやすく短命」「なぜ左利きの人が少ないか」「利き手はいつ決まる」「利き手の矯正はよいことか」などの疑問に対して学術的にアプローチした本である。

著者は「八田武志」氏で関西福祉科学大学教授で心理学がご専門。

ひととおり、ざっと目を通してみたが医学的な観点からのアプローチがやや欠けているような気がするが世界各国のいろんな研究データを豊富に集めて考証されているたいへんな労作。

しかし、まだこの分野は未解明の部分が多いようで、著者の意見にも歯切れが悪いところがあって明快な結論が導き出されないのがチョットもどかしい。

とりあえず二点ほど興味のある項目を列挙してみよう。

なお、
人間は「右利き」「左利き」「両利き」の3つに分類されるが、定義というほどのこともないが「左利き」としてのデータの解析対象とされているのは、「書字に使う手」「スプーンを持つ手」「ハサミを使う手」「歯ブラシを持つ手」「金槌を持つ手」にそれぞれ左手を使用することが挙げられている。

☆ 「左利き=短命説」

「左利き」の方にはドキリとするような説だが、1994年に「左利きは危険がいっぱい」という本が出版(外国)され、広く知られるようになった。

これは空軍の兵隊を対象に「スポーツに関連する事故」「作業に関連する事故」「家庭での事故」「道具に関連する事故」「運転事故」の5つのカテゴリーで調査した結果に基づいたもので事故に遭遇した確率が「左利き」の方が「右利き」よりも多かったというもの。

因みに調査対象者の内訳は「左利き」は119名、「右利き」は945名で右ききの割合は89%とおよそ通常の人口分布に占める割合との乖離がない状況だった。

結局、「左利き」が事故に遭遇しやすいというのが「左利き=短命説」の大きな根拠というわけだが、著者の見解によると現代医学では人間が死ぬのは最終的には心臓が止るか肺が機能しなくなるのかのどちらかなので、腕などの怪我(外傷)ぐらいで短命に結びつけるのは因果関係として弱いとの結論だった。

まずはひと安心・・、しかし「左利き」は戦争時の戦闘場面で命を落としやすいことが明白であり、かつ「右利き社会における長い間のストレス」については無視出来ない要因とのこと。

☆ 音楽の才能と左利き

聴くのが専門だが音楽愛好家の自分(右利き)としては非常に興味のあるところ。

音楽の能力には利き手による違いがあり、「左利き」が優れているという指摘が以前からあったが、本格的に「左利きと聴覚機能」に焦点が移ったのは1980年代から。

その結果、言語音は左脳がその処理に優れるが、音の高低の判別や音と音との間、音の大きさ、各種の音の配分など音楽を構成する要素には右脳の方が処理に優れることが次々に明らかにされた。

「プロソディ(韻律)」と呼ばれる音声言語の周辺的要素も右脳の働きであることが立証された。

そこで右脳は左手指の運動と関連が深いので、「左利き」は音楽の才能があるはずだという予測が生まれいくつかの実験調査が行われた。

 イギリスのある小学校(897名)の実験調査では差異は認められなかった。

 
ある学生相手の音の記憶実験によると「左利き」の優位性がはっきりと認められた。「左利き」では音の記憶を左右両方の脳で出来るのに対して、「右利き」では右脳でしか記憶できないためと説明された。

 ドイツの音楽大学でピアノ学科52名を対象に初見演奏の実験を行ったところ「右利き」は「左利き」や「両手利き」よりも劣ることが明らかにされた。

初見演奏とは初めて見る楽譜を指の運動に直ちに変換して演奏したり、はじめて耳にしたメロディを再生する聴音演奏
と同意語で音楽能力に必須の能力とされるもの。

(この初見能力について、幼少期のモーツァルトが門外不出とされた教会音楽を一度聴いただけで、後になってスラスラと楽譜にしたためた逸話を思わず想い出した!)

以上のことから導き出される結果は次のとおり。

「小学生を対象にした調査では利き手による音楽能力の違いが見出せなかったが、成人ではその関係を支持するデータが多い。

ということは左手の手指運動の訓練に困難さを感じる者(右利き)は楽器演奏の練習を途中で放棄するのに対して、それほど困難さを強く感じなかったものは”繰り返し練習”が持続した結果、音楽家への職業につながり、”右利き”の音楽家が少ないという理由につながっている」

結局、「音楽の才能と左利きは関係あり」
で、さらに興味を引くのは音楽専攻生の場合、親に「左利き」がいる場合には遺伝的要素の関与や左手を使うことへの養育者周辺の容認度が高いことなどがあってより成績がいいそうだ。

したがって音楽的能力には「利き手」それも親の世代を含めた「利き手」が影響している可能性が大いにある。

ということでした。

で、読者の方々でご自身を含めて身の回りに純粋な「左利き」がおられますか?


今や生活の主流を成しているパソコンやスマホなどの機器を扱ううえで「両手きき」が、いちばん便利だと思うが、近年は「左きき から発展した 両手きき」が増えているように思えるがどうなんでしょう・・。



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クラシック名曲 全史

2024年03月21日 | 音楽談義

「クラシック名曲全史」に目を通していたら、興味深いことが書かれてあったので後日のために箇条書きしておこう。



「1783年のモーツァルトの音楽会のプログラム」

いわば240年ほど前の「音楽会」の演目なので極めて珍しい。

モーツァルトは1789年に35歳で亡くなったので、換算すると29歳のときの演奏会になる。

ウィーンで開かれた演奏会のプログラムの内容はこうだ。

 序曲「ハフナー」交響曲

 オペラ「イドメネオ」よりアリア(ソプラノ)

 ピアノ協奏曲K415(モーツァルト演奏)

 オペラのシェーナK369(テノール独唱)

 「ポストホルン」セレナードの協奏曲楽章

 ピアノ協奏曲K175(モーツァルト演奏)

 

 オペラ「ルーチォ・シッラ」よりアリア(ソプラノ)

 モーツァルトのピアノ独奏

 オペラのシェーナK416(ソプラノ独唱)

10 終曲(序曲の終楽章)

解説によると、当時の音楽会の目玉演目はいつも声楽であり、注目されるのも声楽家たちだった。

1番と10番はオーケストラだけの演奏で、まだ電気も発明されておらず普及していない時代なので1曲目の序曲は開幕のベル代わりであり、最後の10曲目にあたる終曲は終了の合図だった。

つまり交響曲はベル代わりで「前座」のようなものでありコンサートの華は歌曲だった。

以上のとおりだが、おそらく当時の楽器の性能がイマイチだったので歌曲が隆盛を極めた可能性があると勝手に睨んでいる。

ところで、この「音楽会」がはたして宮廷の「王侯貴族向け」なのか、それとも「一般市民向け」なのか、定かではないが、29歳といえば、あれほどもてはやされていた時期とは様変わりしてきて大衆から「彼の音楽は難しくなってきた」と敬遠されだしたころにあたる。

網羅されている曲目も親しみやすさという点では一筋縄ではいかないものばかり~。


ちなみに、ピアノの名手とされていたモーツァルトの演奏ばかりはとうてい適わぬ夢だがぜひ聴いてみたかったなあ(笑)。

 世界でよく演奏される作曲家ランキング

2018年 1位「ベートーヴェン」、2位「モーツァルト」、3位「バッハ」

2017年 「モーツァルト」、「べートーヴェン」、「バッハ」

2016年 「ベートーヴェン」、「モーツァルト」、「バッハ」

結局、これまで言い尽くされているようにクラシックはとどのつまり「ベートーヴェン」「モーツァルト」「バッハ」に尽きるようですね。

✰ 節度があるモーツァルトの音楽

モーツァルトは父親宛ての手紙にこう書いている。

「情緒というものはそれが烈しかろうとそうでなかろうと、けっして嫌悪を催させるほどまで表現すべきではないし、それに音楽はどんなに恐ろしい有様を描くにしても耳を損なうようであってはならず、そうじゃなくて満足を与え、したがっていつも音楽にとどまっていなければなりません。」

著者曰く、「モーツァルトの音楽の本質がここにある気がしてなりません。モーツァルトの音楽には節度があるのです。

モーツァルトは時代ごとに変わった見方をされてきていますが、それはつまりいずれの時代も自分たちが求めるものをモーツァルトの中に発見しているということです。彼の音楽は相手がどんな角度から求めてきたとしても相手を満足させることができるのです。」

200年以上もの歳月をかけて沢山の人々から厳しい 篩(ふるい) を掛けられながら生き残る音楽とはそういうものなんでしょうね~。



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春の「PL100狂騒曲」の終焉

2024年03月20日 | オーディオ談義

前々回のブログ「気になるノイズ → ピンチはチャンス」の続きです。



真空管の交換(プリアンプ)により、一転して中高音域の輝きが魅力を増したサウンドに驚き、喜び、そして閃くものがあった。

このサウンドなら、あの手ごわい「PL100」(英国:モニターオーディオ)も息を吹き返すかもしれないなあ。

このSPは2800ヘルツ以上が「リボンツィーター」になっており、これまでどうしても上手く鳴ってくれなかった・・、言い換えると真価を発揮させることができなかった。

で、そもそもの話になるのだが、この「PL100」は、カタログではインピーダンスが4Ω、能率が88dbと極めて低い、つまり完全に「TRアンプ」向きとして設計されている。

ハイパワーで「4Ω」端子のある「TRアンプ」が相性としてベストなのに、それを低パワーの真空管アンプで駆動しようというのだからどだい無理な相談である。

で、外野席から「どうしてお前はそんな無理を通そうとしたんだい・・」。

3点あって、

一つはオーディオ仲間宅で聴かせてもらった小型スピーカーのシンプルな「点音源」の魅力に感銘を受けたこと。

二つ目は福岡で開催された「オーディオ・フェア」で数ある高級システムの中で大いに気に入ったのが「PL100」の大型版「PL300」(モニターオーディオ)だったこと。

三つ目は当時(2年半前のこと)、たまたまオークションに格安で「PL100」が出品されていたこと(当時の定価は50万円)。

ところが・・、やっぱりというかいろいろ手を尽くしたものの「リボンツィーター」からどうしても満足のいく高音が引き出せなかったというわけ・・。

そして、これらの反省点を踏まえての再チャレンジである。

ちなみに、我が家のSPのうちでオリジナルのままなのはこれだけである。精密なツクリに対して、まったく改造する余地もないし、する気も起らない。言い換えるとメーカーの実力を100%尊重。

以下、ちょっと自慢話っぽい色彩を帯びてきます。「エッセイは所詮は自慢話だ」と喝破した著名なエッセイストがいたけど、どうか悪しからず~(笑)。

で、今回はまるっきり発想の転換をして「周波数レンジ」よりも「ハーモニー」の方に重点を置いた対策を講じてみることにした。

したがって、バイワイヤリング方式よりも付属の接続金具を使って1台のアンプで鳴らすことにした。(裏側からの映像)



低音域と高音域を2台のそれぞれ音質の違うアンプで鳴らすよりも1台で鳴らす方が「ハーモニー」の点で、いいに決まっている。

SPコードを高域側に挿すか、低域側に挿すかでもかなり音が違ってくるがご覧のとおりオーソドックスに低域側に挿しこんだ。

さあ、どのアンプで鳴らそうか・・、古典管を使った低パワーのアンプが大半なのでおそらく討ち死にが相次ぐはず~。

案の定だった・・、このところ大のお気に入りの「LS7シングル」は、テレビ番組の再生は無難だったが、音楽の再生ともなると途端に歪みっぽい音になってアウト!

その一方、我が家でいちばんの力持ち「EL34プッシュプル」も、さすがに30ワット近いパワーに遜色はないものの、少し「潤い」に欠ける・・、TRアンプよりはマシだが(笑)。

EL34という真空管のクセなのか、あるいは有名ブランド(テレフンケンあたり)を挿せば変わるかもしれないが、この音で長時間の音楽鑑賞は無理~。

1日がかりでああでもないこうでもないと重たいアンプを上げたり、下げたり・・、とうとう腰がおかしくなってきた(笑)。

そしてようやく、 藁(わら)をもすがる 思いの中で合格点に達したのが「PX25シングル」アンプだった。



やっぱり大きなナス型出力管は伊達ではなかったようで、パワー不足を感じさせない、そして艶も潤いもこれで十分~(笑)。

ただし、1日のうちで途切れ途切れでも10時間以上はスイッチを入れっぱなしだから、次点候補も見つけておかねばと、根気よくテストを続けたところ「2A3シングル」もどうやらいけそう・・。

ほんとうは「WE300Bシングル」あたりが堂々と名乗りを上げて欲しいところだが、電源トランスが貧弱なのですぐにパワー不足を露呈する。

ほかのスピーカーなら何とかこなしてくれるのだが、相手が「PL100」ともなるとからっきしダメ・・、難しいもんです。

というわけで、春の「PL100狂騒曲」はようやく終焉を迎えました

残る宿題は「EL34」真空管を有名ブランドに代えて、再度チャレンジしてみたいですね~。



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政治とカネ、そして「天敵」の存在

2024年03月19日 | 独り言

☆ 政治とカネ

周知のとおり、現在自民党は「パーティー券の還流疑惑」で、 てんやわんや の大騒ぎです~。

いったい、そういう くすねたお金 をどこにどう使ったのだろうか。そもそも、政治になぜそんなにお金がかかるんだろう?

以前、このブログで取り上げたが、霞が関の現役官僚が覆面で書いたとされる「原発 ホワイトアウト」の中で、昨今2世代議士たちが多くなったとあり、それには功罪あるけれども、お金の心配をしなくていいので政策に没頭できる利点があると書いてあった。

周知のとおり「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちると ただの人 」という言葉がある。厳しい選挙に勝ち抜いてようやく「代議士=先生」になったものの、次回の選挙でもしかして落選するかもしれないという恐怖心は余人にはとうてい計り難いものがあるのだろう。

したがって、国策よりもむしろ地元対策に余念がないのは容易に想像できるし、そのためには先立つものが要るというわけだが、「具体的なお金の使い道となると、いったい何だろう・・」というわけでネットでググってみるとこういう事例があった。

「ある代議士の後援会の収支報告書では、約2886万の支出。事務所費約702万・宣伝事業費約614万・人件費約521万・パーティー開催事業費約321万…ポスターやチラシを作るのも、パーティーで金を集めるのも、カネ・カネ・カネなんです。マスコミにたびたび登場するひとでさえコレなので、無名の新人を多数立候補させ、自分の派閥(グループ)に入れようとしたら、億単位の銭…それが現実です。」

現在、代議士については必要な経費の一部をたしか国が負担しているはずだが、それではとうてい足りないのだろう。

ここはひとつ、せっかく代表として選ばれた代議士さんたちだから純粋に国策に打ち込めるような環境整備をしてあげるのが一番だと思う。

そこで提案。

国が経費を現在の2倍負担する代わりに、代議士の定数を半分にしたらどうだろうか。もし、それがダメなら有害無益な参議院をいっそのこと廃止したらいいと思うがどうだろうか。ちょっと短絡的かな~(笑)。

☆ 「天敵の存在」

「丹羽 宇一郎」氏といえば、伊藤忠商事の会長を経て、中国大使(民主党時代)を務められた方。会長当時は通勤には地下鉄を使い、乗っているクルマは「カローラ」という極めてユニークな方である。まるで「古武士」の風格を感じさせるような人物・・。

いつぞやの新聞に「のほほん天国 日本」と題して、寄稿されていたので紹介しよう。

「このほど米国の首都ワシントンとニューヨークを訪問してきた。もっぱら学者と政治家にあったが、その時に話したのが、ナマコとカニをめぐる次のような日本の言い伝えだ。

ナマコは弱りやすく漁師が沖合で捕っても港へ着くまでにほとんど死んでしまうが、そのナマコの群れの中にカニを1匹入れておくと、生きたまま持ち帰れるという。なぜか。

カニはナマコの天敵に当たり、緊張するため死なないといわれている。科学的にはナマコの天敵はカニではないようだが、 “何事も新鮮であり続けるためには天敵が必要” とのたとえ話として彼らに紹介した。」

この話の流れは、ソ連の崩壊とともに資本主義へのチェック機能が働かなくなり、リーマンショックをはじめとする金融危機などの暴走が始まったことにあるのだが、これを現代の日本になぞらえると「天敵=カニ」に当たるのは中国ではあるまいか。

我が国の領土「尖閣諸島」へのしつこい執着、在留邦人のスパイ容疑の逮捕、それに「原発処理水」についての科学的根拠のないイチャモンは目に余るものがある。

多くの国民がまったく「厄介な隣人だ!」と、心理的にくたびれているのは想像に難くないですね。

しかし、モノは考えようでこういう「天敵」のおかげで日本は絶え間ない緊張感のもとでモチベーションが維持できるとしたら、(天敵の存在は)かえっていいことなのかもしれないと上記の丹羽さんの寄稿を読んで思った次第。

次に、この話を身近なレベルに降ろしてみよう。

組織で仕事をしたことのある人ならお分かりのとおり、中間管理職というものは上役と部下の板挟みになる厄介なポストだが、不思議なことに両方に恵まれることはまずない。

人事異動のたびに経験したが、何かしら歯が合わずムシの好かない輩が上役や部下のうちのどちらかに必ず居るものである(笑)。


しかし、振り返ってみるとたいして偉くもならなかったが、気の緩みから大きなポカをしなくて済んだのもそういう連中のおかげだったのかもしれないと思う今日この頃。

したがって、もし組織の中で現在働いている方で周囲に「天敵」がいるとするなら、ここはひとつ前向きに考えることも一つの方法ですよ~。もちろん “度が過ぎる天敵” ともなると別問題でしょうが・・。

たしか司馬遼太郎さんの著作「翔ぶが如く」だったと思うが鹿児島の方言で「泣こかい、飛ぼかい、泣くよかひっ飛べ」という言葉が出てくる。

つまり「泣き寝入りするよりも立ち向かっていけ」ということだが、「飛ぶ」は「逃げるのもあり」かもしれませんね・・(笑)。


アッ、そういえば我が家にも “度が過ぎる天敵” がいた!

おかげさまで「緊張と闘争」の毎日が続いて、いつもフレッシュ状態ですぞ(笑)。



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気になるノイズ → ピンチはチャンス

2024年03月18日 | オーディオ談義

どうもおかしいなあ・・、2週間ほど前から左側のスピーカーから「ピー」という微かな高周波音が出てくるのだ。

もちろん、音が出ているときはわからないが、鳴りやんだときに「ピー・・」、いったん気になりだすと音楽を聴くどころではなくなる(笑)。

さっそく原因究明に取りかかった。

接続ケーブルの結線のゆるみ、そしてパワーアンプを交換しても「ピーノイズ」が消えない・・、どうやら「プリアンプらしい」とおぼろげながらあたりが点いた。

さっそく製作者の「YA」さんにご相談・・、すると、「プリアンプの左右の真空管を入れ替えてみてください、左側の「ピー」が右側に移れば真空管に原因があります。」

なるほど・・、さっそくプリアンプの入出力のケーブルを5本(左右ペア)外して、ケースから本体を取り出し真空管を入れ替えた。

恐れていた大掛かりな作業になったが、「ピーノイズ」を追放するためには仕方がない。

そして、入れ替え後に耳を澄ますと、見事に右側から微かな「ピーノイズ」が聞こえてきた。これで真空管に原因があったことは間違いなし~。

教訓:真空管アンプを使用中にノイズが出たら、まず真空管の劣化を疑うべし。

それにしても新品を挿したはずだけど、たった1年半くらいで劣化するものかなあ・・、釈然としないまま使っている球を2本とも代えることにした。



現在挿しているのは「E80CC」だけど、3種類のうちどのブランドに挿し代えようかな。

ノイズが出たのは左端の「TUNGSRAM」(ハンガリー)だったのだが、予備として2ペアほどあるものの、気分転換の意味でも次は「PHILIPS」(オランダ)か「VALVO」(ドイツ)のどちらかにしたい・・。

両者ともお値段は同じくらいで「TUNGSRAM」のちょうど2倍程度だった記憶がある。

ブランドからくるイメージからすると「PHILIPS」はやや高音域寄りの鮮やかな感じで「うら若き乙女」を、「VALVO」はやや渋めの重厚な感じで「落ち着いた中年女性」の感じがする~。

で、春に相応しいのは「PHILIPS」かな・・(笑)。

というわけで、「PHILIPS」に挿し代えて耳を澄ましたところ、「あれ~っ、こんなに音が変わるんだ!」と驚くほどの変わり様だった。

何といっても音の「鮮度」というか「瑞々しさ」がまるっきり違う・・、こんなことなら早く変えておくべきだったと逆に歯ぎしりしたくなったほどで、まったく「ピンチはチャンス」でしたねえ。

実は、過去のブログでも「プリアンプの真空管はシステムの音を左右する」と、投稿したことがあるのに、この 体(てい)たらく だからまるっきり身に付いていなかったことになる。

「仏作って魂入れず」とはこのことだよねえ~。

で、この「変わり様」に大いに励まされて、よやく我が家の残された大きな宿題の解決に立ち向かう勇気が出てきた。

その宿題とは・・。

我が家の5系統のスピーカーのうち、唯一といっていい「まだ上手く鳴らし切っていない」スピーカー「PL100」(英国:モニターオーディオ)の登場である。



この「PL100」が、激変したプリアンプの音によってどのように変貌を遂げるのか、どのパワーアンプといちばん相性がいいのか、どういう鳴らし方がベストなのか・・、興味は尽きない。

ワクワクしながらスピーカースタンドに載せた。

以下、続く。



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新しい漢字の創造、そして高級車

2024年03月17日 | 独り言

☆ 新しい漢字の創造

つい先日の「読売新聞」に載っていた記事なので、すでにご存知の方も多いと思うけど・・。



ポイントになる部分を抜粋してみよう。

「こんなに新しい言葉が生まれているのに、新しい漢字が増えないのはなぜだろう」

高学年の女子児童だという。考え付いた新漢字は「光」を左に、「首」を右に置いて、スマートフォン。首を曲げて光をのぞき込む人を表している。

「自分はこんなにも姿勢が悪いのか、背筋を正そうという注意喚起にもなる」と、小さな漱石は述べている。

常用漢字が増えることはないのだろうか。文化庁の担当課に作文を持ち込みたくなる。

という内容だった。

「スマートフォン=光首」ですか・・、「常用漢字を増やす」という
子供の自由な発想には驚かされますね!

あやかって、さっそくチャレンジしてみた。

「オーディオ」は、音を生むことに通じるので「音生」、「アンプ」は音を増幅するので「音曽」、「スピーカー」は音を出すので「音出」・・、ウ~ン、あまり冴えないなあ・・、やっぱり頭が固い(笑)。

☆ 高級車

日頃のウォーキングコースでこのほど見かけた新車が2台。



トヨタの最高級車種「レクサス」の「RXー450hL」。

ちょうど恰幅のいい「持ち主」が降りるところだったので「いい車ですねえ・・」ともちかけてみた。

「いいえ・・」「1千万円は行ったでしょう」「いやそれほどまでには・・」

とても口数の少ない方でした(笑)。

そしてもう1台はこれ。



ベンツの「EQS450」・・。

これまた持ち主がちょうど降車のときだったので「いいクルマですねえ・・、排気量はどのくらいですか?」「ハイ、これは電気自動車です」「ほう~、1回の充電でどのくらい走るんですか?」「540kmです」

「エ~ッ、それじゃガソリン代は要らないじゃないですか!」

ところが・・、最近のニュースでは電気自動車はアメリカでは不人気になり逆に「ハイブリッド」が売れてるそうだ。まだ、まだガソリン車が長い間に培ってきたレベルには追い付いてないようですよ。

たとえば「航続距離」にしても、前述の場合「540Km」と言ってるけど、実際乗りではせいぜい300Kmぐらいじゃないかな・・。

もし遠出して渋滞などに巻き込まれたりしたらヒヤヒヤものだろう、なにしろ充電設備がおいそれと見つからないだろうし、ガソリンみたいに簡単に補給するわけにもいかないし~。

で、上記の2台の持ち主はいずれも「自営業」の方である・・。

何が言いたいのかといえば、自営業はクルマの購入代や諸経費も必要経費になるので税金面で優遇されている・・。

とはいえ、ビンボー人根性丸出しでけっして謗(そし)るわけではない・・、いつ倒産するかわからない背景のもとに(物心両面の)冒険、苦労、リスクからすると、そのくらいの優遇措置は許されてもいいと個人的には思う。いわば、ハイリスク ハイリターン~。

そして、こういう人たちの消費行動が日本経済に貢献しているはずですからね~(笑)。



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