「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

サマセット・モームの短編小説「雨」(再)

2020年07月13日 | 復刻シリーズ

梅雨の末期を迎え、九州地方は連日の豪雨はどうにか収まったものの曇天の中を小雨が降り続いている。鬱陶しい限りだが、こうも降り続くとつい短編小説「雨」(サマセット・モーム著)を思い出す。

ブログに投稿したのはずっと昔の話だが、既に忘却の彼方にある方が大半だろうから以下のとおり再掲させていただこう。


一昨日の夕食中のことだが、「男の人って、お酒を飲むと気が狂ったみたいになるのねえ」と、家内がテレビを観ながらつぶやいた。

NHKのアナウンサーで、土日の休日に朝のニュース・キャスターを務めている「〇〇」さんが、友人と飲酒後に満員電車の中で女性のオッパイを11分間にわたって触り続けていたというニュースにはほんとうに驚いた。ヘェーッ、あの謹厳実直そうな人がねえ・・。

本人は当時の状況をまったく覚えていないそうで、真相はやぶの中だろうが、周囲に証人もいることだし限りなくクロに近いだろうと推測される。

長いこと社会生活をやってると、酒のうえの過ちは大なり小なり誰にでもあるものだが、痴漢行為となると話は別で、けっして許されることではないものの、つい「お気の毒~」と思ってしまった。

もちろん、被害者の心理を逆なでするつもりは毛頭ないが、およそ酩酊した状態で身辺に強烈な(?)誘惑が存在すれば”魔がさす”ということはままありそうなことで、それが人間であることの証明みたいな気もするところ。

この事例は、つい日頃の「理性」がおろそかになって「本能」に負けたという事例だが、その間に酒が介入しているだけまだ救われる面がある。

一方では、酒などのいっさいの媒体なしに(強いて言えば「雨」かな)人間の「理性」があっさり「本能」に負けてしまうという罪深い小説がある。

それはサマセット・モームの短編小説「雨」である。

20代前半のまだ初心(うぶ)な頃に一読したところ、衝撃のあまりしばし呆然となった記憶がある。

いくらフィクションの世界とはいえ、この作品は短編小説の分野では古今東西、ベストテン級の名作とされているので、人間の本質について深く考えさせる何かがあるのだろう。

既に読まれた方も多いと思うがネットで探してみたところ、どなたかのブログに適切な”あらすじ”が記載されていたので勝手ながら引用させていただいた。

舞台は南洋のサモア諸島である。熱烈な信仰者デイヴィドソン牧師は妻と共に任地へ向かう途中、伝染病検疫のため島に停留することになる。

医者のマクフェイル夫妻、そして見るからに自堕落な娼婦、ミス・トムソンも一緒だった。島は折から雨期、太鼓でも鳴らすように激しく屋根にたたきつけ、滝のように視界を奪うスコールが連日続いていた。

デイヴィドソンはミス・トムソンが我慢ならなかった。彼女は夜にもお構いなく音楽をがんがん鳴らし、ここでもお客を取る始末。デイヴィドソン夫妻には敵意に満ちたまなざしを投げかける。デイヴィドソンは彼女を「教化」しようと熱意を燃やす。

しかし、あの手この手も通じずデイヴィドソンはついに彼女を強制送還させる措置をとる。

ふてぶてしいトムソンもこれはショックだった。送還されたら監獄が待っているだろう。手のひらを返したようにデイヴィドソンにすり寄ってくる。これ幸いにデイヴィドソンも懸命に彼女の「教化」につとめる。

そして明日は送還されるという夜、デイヴィドソンは彼女の部屋で夜遅くまで彼女と話し合う。そして…。

彼女の部屋を出たデイヴィドソン牧師は夜のうちに浜辺で”喉”を切り自殺する。衝撃のドクター・マクフェイルがトムソンの部屋に入る。変わらず音楽を鳴らしている彼女にマクフェイルは激怒する。

しかし、マクフェイルに、あざけりと激しい憎悪を込め彼女は言った。

男、男がなんだ!豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の狢(むじな)、男はみんな、豚!豚!」。

マクフェイルは思った。「いっさいがはっきりした」。

ミステリー風の終わり方だが、牧師が娼婦の肉体への欲望を抑制できなかったため悔恨のあまり自殺したことはあきらかである。

小説の中では、この結末に至るまでに実に巧妙な伏線が途中に張られていて、牧師が娼婦の教化に邁進している最中、就寝中にネブラスカの山々の夢をよく見る話が出てきて、医者にとってもその山並みには覚えがあり、「その形を見てなんとなく女性の乳房を連想した」ことを思い出す”くだり”が今でも鮮明に記憶に残っている。

結局、神に仕える牧師でさえも本能の前には理性があえなく砕け散ってしまうという人間の弱さ、罪深さを描いた小説だが、いかにも
人間とか権威を皮肉な視点でとらえがちなモームらしい作品である。モームといえば名文家で知られ「人間の絆」「月と六ペンス」などが当時の受験英語でよく出題されていましたね。

さ~て、今日は朝から強い風雨だし「ウォ-キング」などで外に出かけるのも億劫なので、久しぶりにモームの「雨」でも再読してみるかと倉庫に入って探してみたらすぐに見つかった。

               

〇〇さんの件から、つい話が発展してしまったが、人間の脆さがたまたま起こした今回の過ちにどういう償いが価するのか、ちょっと考えさせられた。

それにしても、これから暑くなり冷えたビールなどお酒を飲む機会が増えてくるが深酒したときはくれぐれもご用心、私たちの年輩の方々にはどうか晩節を汚されることがないように!

もちろん、”要らん世話”だが(笑)。
 

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指揮者カラヤンの思い出

2019年07月30日 | 復刻シリーズ

つい先日のブログで触れた名指揮者「フルトヴェングラー」(1886~1954)。

もはや没後65年にもなるが、歴史の闇に消え去るどころかますます光芒を放っているように思える。

しかるに一世を風靡したカラヤン(1908~1989)はまだ没後30年しか経っていないのに忘却の彼方に去りつつあるようだ。

以前のブログで「フルトヴェングラーとカラヤン」という本を紹介したが、その中でベルリン・フィルの旧楽団員が、「フルトヴェングラーは今でも愛好者が沢山いるが、カラヤンは段々忘れ去られつつある。どちらが優れた指揮者かはもう結論が出ている。」と述べていたことが印象に残っている。

どんな指揮者でもフルトヴェングラーと比べるのはちょっと可哀そうというものだが、カラヤンは世界最高峰のベルリンフィルの常任指揮者としてクラシックの一時代を画した功労者であることは疑いを容れない。

そこで、クラシック専門チャンネル「クラシカ・ジャパン」(CS放送)で「ヘルベルト・フォン・カラヤン~その目指した美の世界~」(1時間40分)という番組を放映していたので、この際だとばかり録画したうえでじっくり観賞してみた。

この番組は当時カラヤンと共演した演奏家や家族が登場して思い出を語るドキュメンタリー形式だったが、いろんなエピソードが次から次に登場してきてクラシックファンにとってはたまらない番組だった。

たとえば当時一世を風靡したヤノヴィッツ(ソプラノ、「魔笛」の王女役)やルートヴィッヒ(メゾソプラノ、「大地の歌」)など、高齢にもかかわらず元気な姿で登場してきて実に懐かしかったが、とりわけ興味を惹かれたのが番組中程に登場した娘さんの次の言葉だった。

「父の涙を一度だけ見たことがあります。ザルツブルグでキーシンの演奏を聴いた父はとても感動していました。」(曲目はチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番。指揮「カラヤン」、ピアノ「キーシン」、オーケストラ「ベルリン・フィルハーモニー」)

キーシンは当時のことを番組の中で次のように語っている。

「カラヤンと握手したら小柄な人なのに手はとても大きくみえました。そして体はとても“きゃしゃ”なのに握手は力強いものでした。彼が黒いメガネの奥から刺すような視線で私を見ているのを感じました。演奏の後、彼は無言でした。私が彼と皆の方へ数歩近づくと彼は私に投げキスを、そしてメガネを外し目をハンカチで拭いたのです。」

カラヤン夫人も「彼とは30年間暮らしているけれど、こんなに感動した姿は初めて見たわ」
と証言する。 そして、再びキーシンは語る。

「帰るときにカラヤンはそこに来ていた私の母に近づき、握手して私を指さし“天才です”と言いました。私は評価を期待して弾いたわけではありません。私の意思を超えた何かがカラヤンによって引き出されたのです。私の中に眠っていた何かが目覚めたのです。」

演奏時のキーシンはこの映像で見る限り非常に若くて10代後半の少年のように映るが、この若さで天下のカラヤンを泣かせたのだからその才能にはまったく恐れ入る。

そういえば、渡欧して指揮者チェビリダッケやスイトナーに師事し、現在プロの音楽家として活躍している高校時代の同級生がキーシンの演奏を評して次のように過去のブログに登載していた。 

『<素晴らしい>という言葉を忘れてしまうほどに「自然な」音楽。どこにも何の無理も誇張も頑張りもアピールもありません・・・・。音楽という言葉すら忘れてしまいそうです。

ピアノという楽器と音楽と自分という存在と思いとの全てが重なるわずかな一点を捉えて、その一点から一分さえもぶれることのない演奏スタイル。このようなピアニストは世界中探してもキーシンただ一人しかいないでしょう。

仰ぎ見る大天才と言うべきでしょう、うれしい事ですね、こういう人が存在しているということは・・・。』

そういうわけで、久しぶりにこの「仰ぎ見る大天才」の演奏を聴いてみようかといくつかのCDを引っ張り出してみた。
                         

ここ2~3日集中して聴いてみたが、たしかに名演には違いないものの不思議なのはどうしてこうもショパンの作品の録音が多いのだろうか。

ちょっと辛らつな言い方になるが、これでは才能の浪費というものだろう。

なぜモーツァルトの「ピアノ・ソナタ全曲」やドビュッシーの「前奏曲集」、それからベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ32番(作品111)を録音しないのだろうか。自信がないのかな(笑)。

最後に、この番組の中でカラヤンがリハーサルのときにワーグナーの音楽について語った言葉が印象に残っている。

「ワーグナーの音楽は演奏不可能だとよく言われるが、彼なりの根拠はある。出来るだけ多くの音符を懸命に演奏すればざわめく背景のような響きになり炎がシュッという音に聴こえるんだ。ではピッコロも一緒に・・・。

これ(ワルキューレ」第三楽章)は、まさにベルリンフィルのための曲目だ。ワーグナーが“私の思い通りにこの作品が演奏されたら危険過ぎて禁止される”と言った意味が初めて分かった。」

実演でさえ困難を極めるのだから、オーディオ・システムでの再生ともなると“推して知るべし”でワーグナーの音楽は危険がいっぱい。しかし実に魅力的だ~(笑)。

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「モーツァルト天才説」に思う

2019年07月27日 | 復刻シリーズ

先日のこと、テレビを観ていたら、一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽にもっと親しんでもらおうという目論みの番組があった。解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味は、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と言ったのはベートーヴェンだが、芸術はスポーツなどと違って「順番」を付けるのは意味が無いなので「音楽はあらゆる芸術の中で最高だ」なんて野暮な話は抜きにしましょうね(笑)。

さて、本題に戻って、この番組の中で葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

この論議については格好の本がある。「モーツァルト 天才の秘密」

                                    

「ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。」

この興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みたのがこの本だった。

著者の中野 雄(なかの たけし)氏はケンウッド代表取締役を経て現在、音楽プロデューサー。
 

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。

「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。

モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。


この育った環境に注目して「臨界期」という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。ここでモーツァルトの登場である。

幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、8歳のときに最初の交響曲を、11歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なくしなさい」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たした申し子のような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。

群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていたというのが本書の結論だった。

これに関連して小林秀雄氏の著作「モーツァルト」の一節をふと思い出した。
  
この中で引用されていたゲーテの言葉
「天才とは努力し得る才だ(エッカーマン「ゲーテとの対話」)に対する解説がそうなのだが、当時はいまひとつその意味がピンとこなかったが、ここに至ってようやく具体的な意味がつかめた気がする。

「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるのではなかろうか。

天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれない。

とまあ、かいつまむと以上の内容だが「天才」という言葉は「天賦の才」という意味であって、人工的に手を加えられた才能ではないと思うので、巷間「モーツァルト天才」説を聞くたびに何かしらの違和感を覚えてしまう。

ただし、「類稀なる学習能力こそ天才の証しだ」と、反論される方がいるかもしれない。

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貧乏オーディオの悲哀

2019年07月13日 | 復刻シリーズ

オーディオをやっていると必然的にお金が付きものだが、我が家は典型的な「貧乏オーディオ」なのでその悲哀をいつも感じている。

つい先日もご承知のとおりSTCの「4300A」真空管に涙を呑んだばかり。負け惜しみを込めて”ぐだぐだ”書きましたけどね(笑)。

読者も「可哀そうだな」とその辺を感じていらっしゃるのだろうか、過去ブログのアクセスランキングに「お金があり過ぎる悲劇」がランクインしていた。

すっかり忘れていた内容だったが再読してみると我ながらなかなかの出来栄えだったので、以下のとおり再掲させてもらうとしよう。

つい先日、このブログで「旧いステレオサウンド誌(40冊)を無償で差し上げます。」と募集してはみたものの、とうとう希望者が現れなかったので、やむなく去る5日(水)の廃品回収日に放出した。

        

他人に差し上げる分には少しも惜しいと思わなかったが、いざ廃品回収に出すとなると何だか勿体ないような気がして(笑)、事前に3日ほどかけて全40冊にザット目を通してみた。

旧いものでは50年ほど前の号もあり「あのときの熱気よ、今いずこ」とばかり、とても懐かしい思いとともに全体を通読したが、この際なので感じたことをあえて述べさせてもらうと、

「ステレオサウンド誌は古いものほど面白い。結局、連載されていた巻頭の五味康祐さんの「オーディオ人生」と瀬川冬樹さんのオーディオ評論で辛うじて持ちこたえていた雑誌だった。このお二人さんが亡くなられると途端に色褪せてしまい精彩を欠くようになっている。」に尽きる。

その五味康祐さんだが、1973年の「28号Autumn」版に「オーディオ愛好家の五条件」という記事があった。

すっかり忘れていた内容だったが、いくら天下の五味さんのご提唱といえども「オーディオは百人百様」で、本人さえ良ければいいも悪いもなく、公式とか条件とかの決まりごとはいっさい「要らん世話」だと思うので、これは「オーディオ愛好家はかくあってほしい」という五味さんなりの願望だと受け取らせていただこう。

稀代のクラシック通だった五味さんが掲げるその五条件とはこうである。

 メーカー・ブランドを信用しないこと

 ヒゲの怖さを知ること

 ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること

 真空管を愛すること

 お金のない口惜しさを痛感していること

自分のような「心なき身」でも、いずれも「そうですよねえ」と頷くことばかりだが、2の「ヒゲ」というのは聴き慣れない言葉だがレコード愛好家ならきっとお分かりのことだろう。端的に言えば音楽ソフトを大切にする心がけを失わないようにしようという内容である。

この中で一番オヤッと思ったのは5の「お金のない口惜しさを痛感していること」だった。皆さん、いったいどういう意味なんだろうと興味をそそられませんか?

青年時代に乞食同然の放浪生活を送られた五味さんの云わんとするところはこうである。

オーディオは周知のとおり機器などのハード部分と音楽のソフト部分とで成り立っている趣味だが、これらを購入するのに必然的にお金は付き物だ。

しかし、どうしても前者にお金が集中するのは否めない。すると後者が手薄になってしまい、音楽的な教養が失われてしまいがちだ。オーデイオは音楽を聴くための道具だから本末転倒はよくない。

したがって、お金がなくてお目当ての機器が購入できないときは、その口惜しさを音楽を一生懸命に聴くことでどうか(自分のように)昇華して欲しい。

以上、芥川賞作家の文章を要約するなんてとても恐れ多いが、かいつまむと以上のような趣旨だった。

「オーディオとお金」は愛好家にとっても普遍的なテーマだと思うが、今度はチョット違う視点からアプローチしてみよう。

以前、あるオーディオ仲間と次のような会話をしたことがある。

「オーディオってお金が無い悲劇も勿論ありますが、お金があり過ぎる悲劇もあるようですね。沢山のお金を掛けた割には音がサッパリという事例をかなり見てきました。お金と音はけっして比例しないところがオーディオの面白いところですね。」

「そうなんです。お金があり過ぎるとすぐに煽動されていとも簡単に高級機器を購入してしまいますが、どうしても研究不足になりがちです。

どんな高級機器にしろ、ポンと据えつけただけでは絶対にいい音が出ませんからね。むしろ高級機器ほどうまく鳴らすのが難しいところがありますから、これは一種のオーディオの危険な罠ですよ。

しかも、いったん罠に入り込んでしまうと将来に亘って身動きが取れないようになる傾向があります。そこそこのお金がありさえすれば、それが一番ですよ・・・。」

ちなみに、自分のケースのように「お金が無いくせに背伸びしすぎる悲劇」もあるのでどうかご用心を(笑)~。

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音楽を楽しむ人はお金持ち?

2019年02月08日 | 復刻シリーズ

習慣というものは恐ろしい。

運動ジムや音楽&オーディオで多忙を極める(?)毎日なのでゆっくり本を読むひまはないのだが、それでも2週間に1度の図書館通いは止められない。

館内に入ったときにほのかに香ってくる「本の匂い」が大好きだし、もしかして面白いミステリーに出会えるかもしれないという期待感に背を押されてのことだが、このほど借りてきたのが
「世界の中の”日本の順位”がわかる本~すごい日本、ダメな日本が一目瞭然~」。

                   

表紙の裏に次のようなことが書いてあった。

「国別ランキングほど面白い知識はない。日本が世界で“第何位”かというシンプルな情報から、「日本と日本人の本当の姿」 「各ジャンルの意外なトップ国」 「世の中にある大きな動き」まで手に取るようにわかるからだ。雑学知識を楽しみながら、教養を高め、話材も増える本!」

そして、「はじめに」の部分では本書の楽しみ方が述べてある。

1 ちょっとした発見を楽しむ

「日本は島国だから国土は狭い」 「日本人は勤勉で仕事をする時間も長い。教育にも熱心だ」と思っている人は多いだろう。だがランキングを見ていると、それとは違ったおもしろ情報が見つかる。

「国土の広さは世界の上位3分の1にランクインするし、海の広さは世界第6位」 「日本は世界6位の軍事大国」であり、「日本人の働く時間は長くはない」し、「日本は教育熱心な国とはいえない」。驚かれたかもしれないが、外国と比べると「日本の凄い一面・ダメな部分」「日本人の素顔」が浮き彫りになるのだ。

2 日本が抱える課題も浮き彫りになる

「家族を一番に考える人が少ない」「男女の平等度は先進国では最低レベル」「国の借金は危険水域」・・・・図解を見るだけでも数字で具体的に理解できる。

3 逆に日本人が当たり前だと思っていることが、世界では称賛の的になっている例も少なくない。

「時間に正確」「他人に親切」「公共料金はきちんと払う」「世界中のグルメが楽しめる」・・・・。そうした国は実は珍しいことが分かり、日本人として誇りに思える部分を再認識できるのだ。


前置きが長くなったが、本書にザット目を通してみると基礎データとしての「人口」「国土」「経済」「健康・体」を皮切りに、93項目の多岐にわたって世界における日本の順位が記してあった。

1章「日本の技術力が分かる!」 2章「日本の文化・教養」 3章「日本人の健康度」 4章「日本人の頭の中がわかる」 5章「日本の政治問題」 6章「日本の3年後の経済を占う」 7章「世界が評価する“日本と日本人の魅力とは”」

まあ、全体的に日本は好ましい項目群で上位に位置していることが分かって、愛国心をくすぐられることは間違いない。しかも第1章にわざわざ世界に誇れる「日本の技術力」を持ってくるところなんか、なかなか気がきいている。

もう一つ、第2章の中の「音楽売上」の項目にも注目。何と、全世界の売り上げの4分の1を占める!」というのだ。

「ヒット曲の不作、CDの売上低迷、老舗レコード店の閉鎖」・・。景気の悪い話ばかり聞える日本の音楽産業だが、実は世界的に見ると日本はアメリカに次いで世界2位。アジアでは当然最大で、その市場規模は飛び抜けている。

2011年の世界の音楽総売り上げ約1兆3千億円のうち、日本の売り上げは約3200億円で全世界の売り上げの4分の1を占めている。

売り上げの内容を見ると、音楽配信や原盤ライセンス収入ではアメリカに大きく水を開けられているが、CDやDVDなどのパッケージ売上シェアは日本が世界一だ。

日本ではCDシングルや音楽DVDの売り上げが比較的順調だが、その一因にはアイドル需要の高さが考えられる。とはいえ、パッケージ゛売り上げはほぼ頭打ちで、今後はインターネットやスマホなどの音楽配信が大きく伸びるだろう。」

ちなみに、アメリカ、日本に続く音楽好きの国とは、ドイツ(日本のおよそ3分の1の売り上げ)、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、ブラジル、オランダ、イタリアと続いていく。

こうしてみると欧米の先進国がズラリと顔を並べているのに気付く。どうやら音楽を楽しむには政治的な安定と経済的な“ゆとり”が必要のようだが、やはり日本は黄色人種にもかかわらず大健闘ですね。

中国は現在GDP世界第2位だが一人当たりにするとおそらく下位に転落するだろうから問題外だし、ロシアが圏外なのがちょっと意外。これまで幾多の名作曲家・演奏家を輩出し、音楽の歴史と伝統に深く彩られた国だが、まだ国民一人ひとりにそこまで“ゆとり”がないのかな。

さて、「国の豊かさ=音楽好きが多い」を敷衍(ふえん)して、今度は個々の人間に具体的に当てはめてみるとしよう。

音楽を聴ける部屋とか、機器を揃えるとなるとそれなりの出費が求められるが、はたして「音楽を楽しむ人はお金持ち?」なのか。

残念なことに自分のような例もあるので、これは完全に当てはまらないが(笑)、知っている範囲で周囲を見回すと音楽愛好家はいずれも「ゆとり」のある方々ばかり。

「衣食足りて礼節を知る」ではないが、ある程度の「生活のゆとり」 → 「時間のゆとり」 → 「心のゆとり(静謐感)」がないと、音楽(クラシック)は楽しめないと言えるのかもしれない。

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チャイコフスキーがなぜか好き

2019年02月04日 | 復刻シリーズ

「チャイコフスキーがなぜか好き」(2012.2.29、PHP新書)という本を読んでみた。

 

著者は前東京外国語大学の学長の亀山郁夫氏。ロシア文学者として近年、「カラマーゾフの兄弟」をはじめロシアの文豪「ドストエフスキー」の一連の著作の新訳で著名な方。

文学のみならずクラシックにも興味をお持ちとは、ほの暖かい親しみを感じさせてくれるが「チャイコフスキー」となるとちょっと意外かな。

もちろんロシア出身という要素もあるのだろうが、クラシック通の間で「チャイコフスキーが好き」なんて広言することは何だか「はばかられる」感じを持つのは自分だけだろうか。

親しみやすいメロディが多いのはいいけれど、何回も繰り返しての鑑賞に堪えるには少し物足りない音楽という印象が個人的にはずっとしている。

したがって、チャイコフスキーと聞くだけで初心者向けの軽いイメージが先立ってしまう。

本書の題名の中にわざわざ「なぜか」という言葉が挿入されているのも著者のその辺の思いがシグナルとして示されているようにも思う。

ふと、関連して以前のブログの中で「ショパンは二流の音楽」と決めつけたことを思い出してしまった。

ショパンの音楽も親しみやすさという点ではチャイコフスキーと似たようなものだが、いくら筆の勢いとはいえ歴史に名を刻む大作曲家を二流といって一刀のもとに切り捨てる資格は自分ごときにあるはずがないという反省心のもとで亀山さんの率直な物言いがもろに心に響いた。

結局、作曲家の位置づけなんて個々の心情の中で相対的に決まるものであって、そっと心の中に秘めておけばいいものをというのが現在の心情である。

「雉も鳴かずば撃たれまいに」(笑)。

ところで作曲家に一流とか二流とかのレッテル貼りは不遜にしても世間一般のランク付けというのはあるのだろうか。

実は本書の30頁に興味深い記事があった。ロシアの作曲家たちがクラシックの世界でどのような位置づけにあるのかという視点から著者がウェブで調べた結果が次のとおり。(抜粋)

「今日、世界のコンサート会場で演奏される曲目の国別統計を取るとしたらどの国の作曲家が最高位にランクされるのだろうか。そんな非音楽的な好奇心に駆られてウェブ上に情報を求めた結果統計は見つからなかったがその代わりに「百人の音楽家たち」と題するランキング表が出てきた。

タイトルは「100 Greatest Classical Composers」とあり、もうけられた基準は「彼らのイノベーションや影響力だけでなくその美学的な重要性と歴史的な意味の重さ」とある。

そして出てきたのが次のランキング。

全文英語なので、これが日本のみならず世界的にグローバルな「ものさし」だといえよう。

第1位 ベートーヴェン 以下2 モーツァルト、3 バッハ 4 ワーグナー 5 ハイドン 6 ブラームス 7 シューベルト 8 チャイコフスキー 9 ヘンデル 10 ストラヴィンスキー 11 シューマン 12 ショパン 13 メンデルスゾーン 14 ドビュッシー 15 リスト 16 ドヴォルザーク 17 ヴェルディ 18 マーラー 19 ベルリオーズ 20 ヴィヴァルディ

これまで自分の好み次第で作曲家のランクを勝手に決めつけていたがこのランキングでいろいろ考えさせられた。

まず上位4名の顔ぶれは妥当なところという気がする。もはや時代遅れと思っていたベートーヴェンが1位とはさすがだが、「第九」という十八番(おはこ)の影響もあるのかな。そして、近年コンサート会場を席巻しているマーラーが18位とは後ろ過ぎて意外。

逆に、今回俎上にのぼったチャイコフスキーが8位、ショパンが12位というのもちょっと上位過ぎる感がする。

やはり一度聴いただけでも親しみやすい「アイスクリームのような音楽」というのが有利なのだろうか(笑)。

最後に、チャイコフスキーの音楽について著者の友人「音楽評論家」のコメントが印象に残った。(141頁)

「私はチャイコフスキーの音楽(メロディ)に”いじわる”なものを感じます。とてつもない自己愛から来るもの。だからチャイコフスキーの奇跡のように素晴らしい音楽にはものすごく興奮し、感動もするけれど、慈愛を感じない。

作曲家はみんな自己中心的でナルシストだけれど、創作しているうちに、音楽への愛が自己愛を上回る瞬間というのが必ず来ると思う。チャイコフスキーの場合はたぶん、音楽より自分の方が大好きだったのではないか、と思えるんですね。そう、あの人の音楽、聴いても何か癒されない・・・・・・。」

そうなんですよねえ。

本格的に鑑賞するのに何がしかの物足りなさを感じていた原因はそこにありましたか!

文中の「チャイコフスキー」を「ショパン」に置き換えても同じことが言えそうな気がしますけど読者の皆様はいかがでしょう?

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オペラ「魔笛」への思い入れ

2019年02月01日 | 復刻シリーズ

今日から早くも2月の暦に入った。新年になってもう1か月が過ぎたことになる。「1月行く、2月逃げる、3月去る」だから待望の春までもう一息(笑)。

午前中の運動ジム通いもすっかり板についてきて、今や心身ともにすこぶる快調だが、ジムで顔見知りになった方が「しんどくてたまらんけど週3日ぐらい来てます。」と、仰るので「私は毎日仕事に行くつもりで来ています。」と、返すと「そうですね。仕事と思えば楽ですね。」

ただし、仕事は仕事でも無報酬というのがちと面白くないが(笑)。

このブログも始めてから12年余りが経ち、すっかり仕事の一部と化している。

今年の正月に帰省した娘が「お父さんに万一のことがあったときにブログをどうしようか・・」と、ポツリとつぶやいたので「姿かたちの見えないデジタル遺産なんて更新しないとどうせ忘れ去られるだけなので、いっそのこと一気に全部消去してくれた方がスッキリするなあ。」

過去記事にはいっさい未練がないが、つい先日のランキングに、珍しく12年前に搭載した「オペラ魔笛への思い入れ」が登場していた。


読み直してみると、このブログを始めたころは我ながら「熱心な音楽ファン」だったんだなあと、つい感慨にふけってしまった。

そこで、往時の自分の「音楽愛好家としての貌」を知っていただくために、あつかましくも再掲させてもらうことにしたのでどうか悪しからず(笑)。

それでは以下のとおり。

オーディオ仲間のMさんはジャズやポピュラーを聴かない生粋のクラシック・ファンだが、主なレパートリーはバッハなどのいわゆる正統派で、オペラについては、まずもって歌詞の意味を把握できないということで、これまでずっと敬遠されてきたご様子。

それでも、自分の熱意に根負けされたのだろう、「魔笛」のサバリッシュ指揮1972年盤を先日購入されたとのことで、早速、電話で試聴後の感想をお尋ねしたところ、「”何だか盛り上がりのないオペラ”との第一印象を受けた」との率直なお答え。

”天国的な名曲ばかりで素晴らしかった”との感想を期待していた自分は思わず肩透かしをくらった思いがしたが、何回も聴けばその良さが分るでしょうと申し上げる一方でMさんほどのクラシックの素養がある方でも”馴染みにくさ”とはあるものだなと改めて思った。

自分は魔笛の世界に入り込みすぎているので、初めて聴く人がどのような感想を洩らされるのか客観的なコメントに大いに興味があるところだが、やはり、残念なことにこの作品は一度聴いて簡単に好きになれるほどの万人向きではないとの感を一層強くした。

しかし、実をいうと、Mさんがいう”盛り上がりのないオペラ”という感想は約35年前に自分が魔笛を最初に聴いたときがそうだったからよく共感できるのである。

初めの印象がそういうことだったので、良さがすっかり分らず、以後月日が経ってこれほどまでに自分がのめり込む状況になるとは想像だにできなかった。

以前にも書いたことがあるが、音楽は一度聴いて好きになる曲と何回も聴いて好きになる曲と二通りある。魔笛は確実に後者だと思うし、通常モーツァルトの後半期の音楽は当時の聴衆にとっても分りにくかったとされている。

自分の見方では魔笛という音楽は正面から身構えるとスルリと逃げられてしまう印象が強い。なにせ2時間30分の長大なオペラだから、よほどの人でない限り、嫌いにはならないまでも、退屈感を覚えるはず。

おそらく初打席の打率でいえば1割(10人に1人)ぐらい気に入る人がいれば上出来ではなかろうか。

ここで初心に立ち返って「魔笛のいったいどこがそんなにいいの?」という問いに答えるのはそう容易なことではない。

あえて言わせてもらえれば全編を通じて「どこまでも澄み切った秋の青空のような透明感のもとで喜びや悲しみ、はかなさが微妙に入り混じった独特の音楽が展開されていく。」としか言いようがない。

抽象的な表現しかできないのが残念。


「個人にとって本質的なものに出会うためには固有の道筋がある」(「音楽との対話」粟津則雄氏著、176頁)というのが音楽鑑賞の常道とは思うのだが、このブログをきっかけに魔笛を一度聴いてみようかと思われる方が万一いるかもしれないので、あえて留意してほしいポイントを羅列すると次のとおり。(余計なお世話かもしれないが・・・)

 名曲には違いないがやはり指揮者、歌手たちによってかなり完成度が違う。慎重に盤を選択して一流の演奏から入って欲しい。

※小林秀雄氏の「作家志願者への助言」にはこうある。

「質屋(現代風には骨董屋)の主人が小僧(従業員)の鑑賞眼教育をする時に、まず一流品ばかりを毎日見せることから始めるという、一流のものを見慣れると二流、三流はすぐ分る。この直感的な尺度が後年いちばんものをいう。しかし、二流、三流から入ると一流は分らない」

 はじめから全体を好きになろうと期待しない方がいい。どこか一箇所でも耳に残る旋律や、あるところの転調がもたらす感触などが気に入ると、それが糸口になって段々と全体が好きになるもの

 なるべく始めは友人、知人から借りる、公共施設で聴くのがいい。(金銭の負担がプレッシャーにならないという意味合いであり、お金が有り余っている人は別)。

といったところだろうか。

とにかく、魔笛に親しむコツ(クラシック音楽全般にも共通するが)としてはどんな形であれ何回も聴くことが全てという気がする。

肩のこらないBGM風に聞き流すことからの出発でもよく、たとえば本を読みながら、あるいはクルマを運転しながら、イヤホンで運動しながらでも聴く。

少々くどいようだが、この作品がレパートリーに入るとモーツァルト観が一変しますよ。

「ほんとうのモーツァルト・ファンはオペラ好きに圧倒的に多い」と何かの本に書かれていたが、食わず嫌いで放っておくに
は絶対に惜しい作品と口を大にして叫びたいほどだ。ぜひ・・・。

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若手ピアニスト「ラファウ・ブレハッチ」

2018年12月19日 | 復刻シリーズ

昨日(18日)のこと、過去記事ランキング(ページごとの閲覧数)で若手ピアニスト「ラファウ・ブレハッチ」を題材にした記事ががっちりと上位に食い込んでいた。

何しろ8年も前の記事だし今頃になってなぜ・・?

ブレハッチは周知のとおり2005年に開催された由緒ある「第15回ショパン・コンクール」(5年に1回開催)で優勝したピアニスト(ポーランド出身)である。当時は弱冠25歳だった。

さっそく理由を推し量ろうとググってみると、何のことはない来年(2019年)訪日の予定という話だった(だと思う)。

それにしてもブレハッチは優勝後はパッとしないようなイメージを抱いていたけど、まだ健在だったんだねえ。もう三十路を過ぎたんだからそろそろ脂が乗ってくる頃ではある。

いずれにしても、せっかくの機会なので8年前の記事を以下のとおり加筆修正のうえ再掲させてもらおう。

「新版クラシックCDの名盤」で、3名の著者たちがそろって絶賛していたピアニスト「ラファウ・ブレハッチ」〔339頁~)。


ショパンと同郷のポーランド出身で2005年開催のショパン・コンクール優勝者である。 

しかし、現時点でまだ25歳前後と若くやや経験不足が心配なところだが、かのヨーゼフ・シゲティによると「演奏のテクニックは25歳がピーク。それ以上にうまくなることはない」との談もあり”まあ、いいか”と自分を半分納得させてHMVへ注文。

2週間ほど経過してやっと自宅に到着したのが10日の日曜日。

左から「24の前奏曲集」(ショパン)、「ピアノソナタ」(モーツァルト)、「ピアノ協奏曲1番&2番」
 

                     

 まず「コルトー以来の名演」(中野 雄氏)と称される「24の前奏曲集」を聴いてみた。「ピアノの詩人」ショパンにはいろんな作品群があるが、ショパン通にとって代表作といえばまず「24の前奏曲集」に指を屈するという人が多いのではあるまいか。

自分には演奏の良し悪しやテクニックを云々する資格はないが聴いてみたところ「ええかっこしい」の音楽家でないことが感じられて救われる思いがした。自分をことさらに大きく見せようとせず、純粋に音楽に溶け込んでいる印象で、録音の良さは申し分なし。

個別では判断の下しようがないので手持ちの「コルトー」と「アシュケナージ」の演奏と比較してみた。 


                          

思わず居住まいを正し、聴けば聴くほど味わい深くなるコルトー、安定感に満ちたアシュケナージの印象からするとブレハッチの特徴は一言でいえば演奏慣れしていない「初々しさ、瑞々しさ」のように思えた。なかなか好印象!

次に、2枚目のCDにはハイドン、ベートーヴェンそしてモーツァルトと古典派3人のピアノ・ソナタが網羅されていて、モーツァルトでは「K.311」〔9番)が収録されている。

ショパンはいいと思ったけど果たしてモーツァルトはどうかな?

自分は帰し方40年ほど耳にたこができるほどモーツァルトの一連のピアノ・ソナタを聴き込んできたが、こう言っては何だがこの一連のピアノ・ソナタほどピアニストのセンスと力量が如実に反映される音楽はないと思っている。

たとえば久元裕子さん(ピアニスト)は著書「モーツァルトはどう弾いたか」の中でこう述べている。
 

「モーツァルトの音楽は素晴らしいが弾くことはとても恐ろしい。リストやラフマニノフの超難曲で鮮やかなテクニックを披露できるピアニストがモーツァルトの小品一つを弾いたばかりに馬脚をあらわし「なんだ、下手だったのか」となることがときどきある。 

粗さ、無骨さ、不自然さ、バランスの悪さ、そのような欠点が少しでも出れば音楽全体が台無しになってしまう恐ろしい音楽である」。 

以上のとおりだが、実に意地の悪そうな前置きはこのくらいにして(笑)、ブレハッチのモーツァルト演奏について述べてみよう。

一楽章の冒頭から指がよく動き、果てしない美音のもとに流れも軽快で”いいことづくめ”、何ら違和感なく聴け「大したものだなあ~」と演奏中は感嘆しきり。
 

だが、”しかし”である。終わってみると、「はて、この演奏から何が残ったんだろうか」という印象を受けてしまう。つまり、後に尾を引くものがない、名演にとって不可欠な「香り立ってくるような余韻」がないのだ。

どうも、つかみどころがない演奏で単なる”きれいごと”に終わっている気がしてしかたがない、もしかすると自分の体調が悪いのかもしれないと日を改めて翌日も再び挑戦。しかし、やはり同じ印象は拭えない。

改めて、いつも聴きなれたグレン・グールドのK・311を聴いてみた。

まったく何という違い!音符を一つ一つバラバラに分解し、改めて自分なりに精緻極まりなく組み立てて、
見事に自分の音楽にしてしまうグールド。圧倒的な、有無を言わせない説得力に無条件に降参した。

因みに演奏時間の違いが面白い。ブレハッチの16分59秒に比べてグールドは12分25秒。こんなに違えばまるで異なる音楽になるのは必然で、めまぐるしく早いテンポのグールドと比較すると”まどろっこしさ”を覚えるのも無理はない。

個性的なグールドと比較するのは可哀そうだと思い今度はクラウディオ・アラウの演奏を。これは演奏時間が20分55秒と一番長い。

じっくり聴いてみたがやっぱりいいねえ!一音一音が見事に磨き抜かれてコクがありロマンチックで素敵な演奏の一言に尽きる。こうなるとブレハッチとの差はいかんともしがたい。

ショパンはともかくモーツァルトの音楽では簡単に騙されないぞ!

キーシンほどの大ピアニストがいまだにモーツァルトのピアノソナタ全集の録音をためらっているが、ブレハッチにはまだモーツァルトのピアノソナタを弾くにはちょっと早すぎるようだ。

しかし、折角有望な若手が出現したのに否定的な注文をつけるとは何ともへそ曲がりの嫌味なリスナーが世の中にはいるもんですねえ~(笑)。

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人生と音楽の楽しみ方はいろいろですねえ

2018年11月28日 | 復刻シリーズ

このところオーディオ関連の記事が連続しているせいか全般的にブログへのアクセス数が下降気味になっている。

「どうも専門過ぎてよう分からん!」という読者の悲鳴が聞こえてくるようだ(笑)。

別に読者に媚びる必要もないのだが、たまにはオーディオ以外の記事をと考えていたところ、過去記事の中で「人生と音楽の楽しみ方はいろいろ」という記事がたまたまランクインしていた。

およそ5年前の記事だったので内容の方はサッパリ忘却の彼方だったが、一読してみると「そうだよねえ。」と思ったので、この機会に同記事を再編して登載させてもらうことにした。

なお、文中に登場していただく「老先生」は福岡県のご出身で黒田藩の藩校の流れを汲む名門「修猷館高校」から「九大~三菱重工業(飛行機部門)~定年退職後に大学教授」という華麗な経歴をお持ちの方である。

それでは、以下のとおり。

先日、初めて我が家に試聴に来ていただいた地元別府市にお住いの老先生のご招待に応じて今度はこちらから訪問させていただくことにした。

老先生のご自宅は団地の中でかなり入り組んでいる場所だそうで、近くのスーパーの2階の駐車場で13時頃を目安にいったん落ち合ってから行くことになった。
 

初めて他家を訪問するときはいつもワクワクドキドキで、心が弾む。定刻通りピタリと落ち合って、10分ほど車で追尾して海を望む高台の邸宅に到着。

老先生に続いて家の中に入った途端に、かなり大きなワンコちゃんがワンワン。それも2匹!

「初めての方には吠えるのが仕事と思ってます。じきに収まりますから」。そのとおりだった。
 

初めにリヴィングルームに案内されると、天井近くの壁にイートン(タンノイ)がかけてあった。テレビをご覧になるときにイートンで聴かれるというわけで、もちろんCDも聴けるようになっている。 

            

いかにもタンノイさんらしいまとまった音で聴きやすかった。このイートンと言えばタンノイの創始者G.R・ファウンテン(G.R.F)氏が愛用していたことでも有名。同社のフラッグシップモデルの「オートグラフ」ではなくて、一番小さなミニスピーカーを気に入っていたというのが非常に面白くてずっと記憶に残っている。

ちなみに、この挿話の出典だが「TANNOY~世界のオーディオ~」(ステレオサウンド別冊)の78頁に「わがタンノイを語る」の章で懐かしい瀬川冬樹さんのインタビュー記事の中に出てくる。
 

実は個人的にもタンノイのユニットは口径25センチクラスが一番バランスがいいように思っている。 

さて、ひとしきり聴かせていただいて、今度は2階に移動した。

ここでは部屋が二つあって、片方の部屋にはナショナルのフルレンジ「8PWX1(通称ゲンコツ」が置いてあった。遠方から娘さんたちが帰省されたときにお休みされる部屋とのこと。
 

そして、あまり席を暖めることなく、今度は隣の部屋に移動。 

この部屋がどうやらYAさんの本丸みたいで、いろんなユニットやアンプがズラリ。おまけに絵画もご趣味だそうで自分で描かれた玄人はだしの絵が飾ってあった!

         

左がダイアトーンのP610B(8Ω)で、右がJBLのLE8T。老先生はほんとうに小口径のフルレンジがお好きな方である。

ソースのメインはパソコンに取り込んだ「iTunes」で、ほかにもCDやレコードまで聴けるようになっている。老先生はかなりお年を召されているのにパソコンを自由自在に駆使されていることに驚いた。

現用中のアンプ「マランツ1150」が次の画像。

          

老先生は木工がご趣味だそうで収められているラック類やエンクロージャーはすべて手作り!実にプロ顔負けの仕上がりだった。

最後にご案内されたのが地下室に設けられた、その木工作業の専用室。

          

画像中央部分の右上にアンプ類が置いてあるのがお分かりだと思うが、この作業部屋でも音楽が聴けるようになっている。設計の方もパソコンを利用されているとのことで、ここでもiTunesが活躍。

あれやこれやで、あっという間に3時間以上経過してそろそろ夕食時が近くなったので辞去した。

その日のうちにお礼のメールを差し上げたところ、次のような返信メールが届いた。

「今日はお疲れさまでした。こんなスタイルの生活をしています。音楽を楽しむ方法は邪道を含めて色々あります。人生を楽しむ方法も色々あります。音楽が聴けないのは浴室と寝室です。いかに好きでも隙間は必要です。新スピーカーの構想ができたらお知らせ下さい。出来る範囲の支援をします。新しいPre-Ampの組合せにも興味があります。又連絡させて下さい。」

多彩な趣味を自然体で謳歌されている老先生は、当方が思うに理想的な老後の過ごし方を実践されているようだ。

ほんとうに、人生と音楽の楽しみ方はいろいろですねえ!

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オーディオの役割に思う

2018年10月04日 | 復刻シリーズ

前回からの続きです。

「音楽家がオーディオに熱心ではない理由」について決定的と思われる理由をメル友さん(東京)からご教示いただいたのがこの文面。

私も貴方同様にいつも「聴衆・観客」の一人で、演奏をした経験は皆無なのですが、あるピアニストと話をしていて貴方とまったく同じことを感じました。

彼女は、私が持ち込んだiPodスピーカーのトランジスタ・ラジオと変わらぬ貧しい音響にすぐに感激して”良い音ですね”と言うのです。聞かせた演奏の特徴もズバリ言い当てて楽しんでいます。身体がすぐに反応します。

私が感じたのは、随分と想像力が豊かなんだなあということでした。元の音を想像して実際の演奏の様子をすぐに復元できるようなのです。その復元を楽しんでいる。とても我々のできることではありません。

オーディオは単なる「手がかり」に過ぎない。想像による復元のために最低限の情報を提供してくれればよい。それで充分だと思っているようです。彼ら音楽家にとっては(オーディオとは)その程度のものでしかないようです。

また、オン・ステージで演奏する側では聞える〔というより身体で感じる)「音」そのものが違います。他方、我々が求めるオーディオの「音」は客席の音です。

この二つは決して同じではない。そして彼ら演奏家は客席でどう聞えるかをあまり気にしていないのではないか。どうもそう思えてならない。我々との間には、越えがたい溝があるのではないかという気がします。~以下、略~


というわけで以上のご指摘に基づき前回の「音楽家がオーディオに熱心にならない」理由の5つ(再掲)に加えて6番目を追加させてもらうことにしよう。
 

 常日頃、半分仕事みたいな意識で生演奏に携わっているので自宅に帰ってまで音楽を聴こうとは思わない、つまり日常生活の中に仕事を持ち込みたくない。

 
ほとんど毎日、歪みのない生の音を聞いているので電気回路を通した人工的な音を聴く気がしない。

 
他人の演奏をなるべく聴きたくない。芸術的な見地から影響を受けるのがイヤだから。

 
他人の演奏のアラが分かるから聴きたくない。むしろ音楽を聴くよりも演奏者のテクニックの上手下手に関心がいってしまう。

 ちょっと「ましな音」で聴こうと思っても、オーディオ装置はどうも高価すぎる。それくらいのお金があれば「楽譜」や「楽器」のほうを優先する。

6 オーディオは単なる「手がかり」に過ぎず、「元の音を想像して復元する」ための最低限の情報を提供してくれればそれでいい。したがってオーディオに熱心になる必要性をあまり感じない。

実にもっともらしい回答を得てこれで理由のすべてを網羅できた気がする。

音楽と真剣に向き合あうリスナーにとっては素敵なオーディオシステムもさることながら、それを手がかりにして豊かな想像力を磨くことこそ重要なのかもしれない。

たとえば五味康介さんの著作「西方の音」の中でフォーレの音楽を聴いて海浜で貴婦人に抱かれているシーンを妄想するくだりがあるが、豊かな想像力を磨くとはそういうことなんでしょう。

いくら「いい音」とか「悪い音」とかいってみても、結局「いい音楽」とはリスナーの頭の中で創造するものなのだ・・・。

おっと、身の程知らずで少し大上段に振りかぶりすぎたかな?

以上、「迷える子羊」からの「世迷い言」でした(笑)。


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音楽家がオーディオに熱心ではない理由

2018年10月03日 | 復刻シリーズ

オーディオに関連する記事を頻繁にブログに登載していると、よそ様の目から見て自分はどう写っているんだろうかと気になることがときどきある。

「熱心で微笑ましい」との印象を与えていればいいのだが、熱心を通り越して「この人、ちょっと病的じゃないか」というイメージを持っている人のほうが多いかもしれない、なんて考えるわけ(笑)。

「音楽とオーディオ」の関係はいわば「目的と手段」とに置き換えられるが、古来、目的と手段の混同による弊害は幾多の例があってけっして好ましいことではないが、オーディオに限っては簡単に実験結果が出るし、その泥沼の過程に奇妙な快感が伴うのでなかなか止められない。

そこで、本人さえ満足していれば”それでいいじゃないか”と開き直る手もあるが、根があまり逞しくないので(笑)、心理的な居心地の悪さというのはどうしても拭えない。

まあ、それはそれとして日頃から不思議に思うことが一つ。

楽器を演奏する人をはじめ音楽評論家、さらには音楽学校に学んで専門的に勉強した方などのほとんどに、オーディオに熱心な方をまず見受けない。こういう方々こそ日頃から生の音に接しているのでひときわ「いい音」には敏感なはずなのに。

いったい、なぜだろう?

素人考えでいくつか挙げてみよう。

 常日頃、半分仕事みたいな意識で生演奏に携わっているので自宅に帰ってまで音楽を聴こうとは思わない、つまり日常生活の中に仕事を持ち込みたくない。

 
ほとんど毎日、歪みのない生の音を聞いているので電気回路を通した人工的な音を聴く気がしない。

 
他人の演奏をなるべく聴きたくない。芸術的な見地から影響を受けるのがイヤだから。

 
他人の演奏のアラが分かるから聴きたくない。むしろ音楽を聴くよりも演奏者のテクニックの上手下手に関心がいってしまう。

 ちょっと「ましな音」で聴こうと思っても、オーディオ装置はどうも高価すぎる。それくらいのお金があれば「いい楽器」のほうを優先する。

以上のとおり、アトランダムに挙げてみたが実は「決定的とも思える理由」をメル友さん(東京)から教えていただいた。ことはオーディオに対する姿勢にも及ぶとてもユニークな内容だった。

そのまま引用させてもらうとしよう。

以下、続く。

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難聴予防の王道

2018年09月23日 | 復刻シリーズ

先日のブログの末尾に家人から「耳が遠くなりつつある」と指摘されたことを記したところ反響があったみたいで、さっそく過去記事「難聴予防の王道」へのアクセスがちらほら。

やはり音楽愛好家にとっては耳が遠くなることは切実な問題なのだろう。

「難聴予防の王道」はずっと昔の記事なので知らない方が大半だろうし改めて今風にアレンジして以下の通り再掲しますのでどうか参考にされてください。
 

音楽&オーディオ愛好家にとって耳の機能が衰えるというのは”恐怖の的”である。とにかく音がいいとか悪いとか以前の問題として、音が聴こえてこなければ音楽の楽しみようがない。 

したがって経年劣化は受け入れるとしても努力のしがいがあって、せめて耳の機能を最低限維持できればというのが現時点での最上の望みである。

2008年5月放映のNHKテレビ「ためしてがってん」では難聴になる一番の原因は「耳は臓器の一部であり血流による栄養補給が疎外されること」だとされていた。

その要旨を再現してみよう。

      

左から「有毛細胞」、「ダンス細胞」そして「難聴のリスク」である。
       
☆ 音が聞える仕組み

人間の耳の奥にある蝸牛(かぎゅう)という器官に有毛細胞が並んでおり、入り口に近い有毛細胞が高音を感じ、奥の方にある有毛細胞が低音を感知して振動し脳に伝えて音として認識される。

段々と高音が聞きづらくなるのは入り口に近い有毛細胞が高音も低音も感知して振動するので傷みやすく、加齢、騒音の聞き過ぎによるのが原因というのが定説。

☆ 先入観による「音韻修復」
 

男女10人による混声合唱団に対して実験が行われる。いずれも日頃音楽に親しみ耳に自信のある方ばかり。実験の内容はノイズをずっと聞かせて、その中に「さくら、さくら」のメロディが隠されておりそれを聞き分けることが出来た人が何人いるかというもの。

その結果、10人中8人がメロディが聞えたと手を挙げたがこれが大間違い。実はメロディは何ら含まれておらずタダの雑音ばかりで結局、聞えた8人というのは「気のせい」だった。

これはオーディオでもよくある話。

たとえば他家で、お値段が一桁違う高級なオーディオ装置の前に座らされ、見た目の豪華さも手伝っていかにも「いい音」を聴いた感じになるのだが、実は左右スピーカーのプラス・マイナスの結線が間違っていたり、ツィーターの片方が鳴っていなかったりすることはままある話で、いかに先入観が人間の聴覚を誤魔化すかという好例だ(笑)。

☆ 難聴のリスク要因とは?

1 加  齢 → 1.6倍  2 高脂血症 →  1.9倍  3 糖尿病 → 3.7倍  4 腎臓病 → 5.9倍

科学的な根拠として有毛細胞の根元に並んでいる「ダンス」細胞に正常な血液によってきちんと栄養補給がなされていないことが難聴につながる大きなリスク要因であるという。

結局、前述したとおり難聴予防には
「生活習慣病の予防が大切」という結論だった。
  

ところが、つい最近のネット情報で「コエンザイムQ10」で難聴予防ができるという記事を見かけたのでたいへん興味を持った。

要約してみると次のとおり。

年を取るにつれて耳が遠くなる「老人性難聴」は、耳の奥の「内耳」にある感覚器の細胞が遺伝子の働きで死滅して起きることを東京大などがマウスの実験で明らかにした。
 

抗酸化物質で遺伝子の働きを抑えると、発症しないことも突き止めた。哺乳類の耳の仕組みは共通しており、人の難聴予防につながると期待される。 

また、損傷を受けた細胞を自殺に導くBakという遺伝子に着目。マウスのBakを働かないようにすると、人間の50歳に相当する生後15ヶ月でも聴力がほとんど低下しないことを確認した。 

Bakの働きを抑えられるか調べるため、17種類の抗酸化物質をエサに混ぜてマウスに与えたところサプリメントとして市販されている「コエンザイムQ10」など3種類が難聴予防に効果があることが分かった。

以上のような内容だが、宣伝目的ではない、れっきとした学術的な研究成果というので早速、飛びつくように「コエンザイムQ10」をネットで注文したのはいうまでもない。

これで、朝食後に服用するサプリメントがまたまた増えてしまったが、3か月ほど試してみたもののそのうちどうも効果がわかりづらくてあえなく自然消滅(笑)。

結局、難聴予防の王道は日頃の生活習慣において極めて地道な「腹八分」「継続的な有酸素運動」に優る対策はないと悟ったという次第。

以上は若い人には縁のない話だが、どのみちいずれは遭遇するわけですから今からでも予防するに越したことはありませんよ~。

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我が「音楽&オーディオ」の原点とは

2018年09月01日 | 復刻シリーズ

このブログのブロバイダである「グーブログ」には「アクセス解析」という項目があってその一部に過去記事のランキングが日替わりで掲載されている。

先日、そのランキングの上位にあったのが「オペラ魔笛の想い出」だった。2009年に投稿したものなので今から9年も前のブログだ。

エーッ、こんな昔のものまで目を通している方がいるんだと驚いたが、どういう内容かさっぱり忘れていたのでざっと目を通してみるととても真面目な内容なのに我ながら驚いた(笑)。

現在のオーディオ一辺倒の記事とは大違いで、自分で言うのも何だが音楽を愛する真摯な姿勢が垣間見えるような気がして、これこそ我が「音楽&オーディオ」の原点なんだと、思わず身が引き締まった。

そういうわけで、昔日の真面目な面影を知っていただくために、以下のとおり一部修正のうえ再掲させてもらいました。「音キチ」からのイメチェンにつながればいいのですが~(笑)。

オーディオ専門誌「無線と実験」の読者交換欄を通じて「アキシオム80」を譲ってくれた千葉県のSさんとはその後もメールの交換を頻繁に行っている。

お互いに「音楽&オーディオ」好きなので話題は尽きず毎回、Sさんがどんな内容を送ってくるのかが愉しみだが、7月27日付けのメールは次のような内容だった。題して「魔笛の想い出」。

Sさんの友人のNさんは美大を卒業後ご夫婦でドイツに留学、画家として将来を嘱望されていたが精神を病んで極度のウツ症状となり帰国後病院通いをしながら最後はとうとう自殺されてしまった。

当時の14年前のクリスマスの頃、丁度SさんがNさんご夫婦とお会いする機会があり、内田光子さんのモーツァルトのピアノソナタのLPを買ってプレゼントしたところ奥さんが「ありがとう、今は魔笛なの、魔笛ばっかり聴いてるの」と力説されていたのが最後の想い出となってしまった。

そこで、このメールに大いに触発されて返信したのが次の内容だった。

モーツァルトの創作活動の集大成とも言える魔笛のあの「透明な世界」と「人間が消えて失くなること」とが実に”しっくり”きていて胸にジンときました。たしかに魔笛の世界には人間の生命を超越したものがあってとても言葉なんかでは表現できない世界なんですよね。

自分にも是非、「魔笛の想い出」を語らせてください。

あれは丁度働き盛りの37歳のときでした。それまで、まあ人並みに出世の階段を昇っていたと思っていたのですが、その年の4月の異動で辺鄙な田舎町の出先機関に飛ばされてしまいました。

今となっては「そんなくだらないことに拘ってバカみたい」ですが、人生経験の浅かった当時はたいへんなショックでした。

傷心のまま、片道1時間半の道のりをクルマで2年間通勤しましたが、1時間半もの退屈な時間をどうやって過ごすかというのも切実な問題です。

丁度その当時コリン・デービス指揮の「魔笛」が発売されクラシック好きの知人がカセットテープに録音してくれましたので「まあ、聴いてみるか」と軽い気持ちで通勤の行き帰りにカーオーディオで聴くことにしました。

ご承知のようにこの2時間半もの長大なオペラは一度聴いて簡単に良さがわかるような代物ではありません。

最初のうちは何も感銘を受けないままに、それこそ何回も何回も通勤の都度クセのようになって何気なく聴いているうち、あるメロディが頭の中にこびりついて離れないようになりました。

それは「第二幕」の終盤、タミーノ(王子)とパミーナ(王女)との和解のシーンで言葉では表現できないほどの、それは、それは美しいメロディです。この部分を聴いていると後頭部の一部がジーンと痺れるような感覚がしてきたのです。

そう、初めて音楽の麻薬に酔い痴れた瞬間でした。こういう感覚を覚えたのは魔笛が初めてです。ベートーヴェンの音楽もたしかにいいのですが、強い人間の意思力を感じる反面、ちょっと作為的なものを感じるのですが、モーツァルトの音楽は天衣無縫で俗世間を超越したところがあって生身の人間の痕跡が感じられないところがあります。

魔笛という作品はその中でも最たるものだという気がしますが、文豪ゲーテが晩年になってモーツァルトの音楽を称し「人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ」と語ったのは実に興味深いことです。

それからは「魔笛」の道をひた走り、病が嵩じて「指揮者と演奏」が違えばもっと感動できる「魔笛」に出会えるかもしれないと、とうとう44セットもの魔笛を収集してしまいました。これも一種の病気なんでしょうね~。ちなみに、我が家のすべての魔笛を引っ張り出して撮ってみました。

左からCD盤、DVD盤、CD(ライブ)盤です。

                       

ただし、あれからおよそ30年以上になりますが、あの「ジーン」と頭が痺れるような感覚はもう二度と蘇ってきません。おそらく感性が瑞々しい時代特有の出来事だったのでしょう。

今振り返ってみますと、37年間の宮仕えで一番つらかった失意の時期が自分の精神史上最もゆたかな豊饒の実りをもたらしてくれたなんて、まったく人生何が幸いするか分かりませんよね。

「人間万事塞翁が馬」という”ことわざ”を自分は完全に信用しています。人生って結局この繰り返しで終わっていくんでしょう~。

これから、久しぶりに魔笛を聴いてみようと思います。トスカニーニ盤、ベーム盤(1955年)、デービス盤、クリスティ盤どれにしましょうかねえ。

と、以上のような内容だった。

現在のようにオーディオに熱心なのも、「夢よもう一度」で再び「後頭部の一部が痺れるような感覚」を追い求めているからだが、たとえ今後どんなに「いい音」を手に入れたとしても、あの感性の瑞々しい時期に遭遇した「いい音楽」との出会いにはとうてい敵わないような気がしている。

当時のお粗末なカーステレオの音でそういう感覚を味わったのは実に皮肉ですねえ・・(笑)。

 


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ふしぎな雑学読本

2018年08月26日 | 復刻シリーズ

万事に亘って「広く浅く」の「雑学人間」だと自認しているので、雑学系の本は大好きで図書館で見かけたら片っ端に借りてくる。このところオーディオがらみの話ばかりなのでたまには息抜きも必要だろう(笑)。

                

本書は私たちの身の回りにある森羅万象の「ふしぎ」の中から313個を選んだユニークな本だった。

以下、興味を引いたものをいくつか抜粋してみた。「そんなことはとっくの昔に知ってるよ。」という方がおられるだろうが、どうか悪しからず。

☆ なぜ「ご馳走」という言葉に「走」という字が入っているのか?

普段は粗食の禅宗のお寺でもお客が来ると精進料理ではあるけれど何品かでもてなした。しかし常備してある食材には限りがある。

そのため、食材集めに「まかない」が方々を「走り回って」(=馳走)集めた。そこから客をもてなす特別な料理のことを「馳走」と呼び、それが今の「ご馳走」につながった。禅宗には今も台所に「韋駄天」(いだてん)を祭っているところがある。これは走り回る神様である。

☆ 女性や子供の「甲高い声」をなぜ「黄色い声」というのか?

黄色い声というのは仏教のお経から来た言葉である。お経といえば眠くなるような単調な響きだが、中国から伝わってきたばかりの飛鳥時代にはもっと音楽的な高低強弱の響きがあった。

そして、どの箇所を高くし、どの箇所を低くするかはお経の文字の横に色で印が付けられていた。その色のうち「一番高い音」が黄色だった。そこから「甲高い声」を「黄色い声」というようになった。

今のように高低をつけず一本調子でお経をあげるようになったのは平安時代以降である。

☆ ひどく嫌うことをなぜ「毛嫌いする」というのか?

「毛嫌いする」というのはただ嫌いというのではなく、徹底して相手を受け入れないという意味合いが強い。しかも女性が特定の男性を嫌う場合に使われる。

それもそのはず、これは競馬の世界で血統馬の雌に種牡馬をかけ合わせるとき、オスがメスにどうしても受け入れてもらえない場合に「毛嫌いされた」と言っていたものだからである。だから、毛嫌いの毛とは栗毛、葦毛、黒毛などの馬の毛のことだ。

☆ 裁判官はなぜ黒い衣装をまとっているのか?

近頃は女性裁判官もちらほら見かけるようになったが、男女を問わず全員黒い衣装を身にまとっている。この衣装は法服と呼ばれ最高裁判所規則の中で制服ということになっている。

制服だから全員が着用しているわけだが、その色が黒なのは「どんな色にも染まらない」「どんな意見にも左右されない」という意味が込められているのだそうである。

☆ なぜ「匙を投げる」が諦めることになるのか?

匙(さじ)を投げることがなぜ諦めることになるのかと不思議に思わないだろうか。

この匙は昔、医者が薬を調合するときに使った「薬さじ」のことである。つまり、「どんないい薬を調合しても治る見込みがない病気」と医者が見立ててついに匙を投げたのである。

この医学用語が一般でも諦めるという意味で使われるようになった。

☆ なぜ「女心と秋の空」といわれるのか?

女心は秋の天気のように目まぐるしく変わるというのが「女心と秋の空」だが、秋は運動会や遠足が行われ晴天続きでそんなに目まぐるしく天気が変わるという印象はない。

むしろ春のほうが霞がかかったり満開の桜に雪や雨が降ったりと変わりやすい。しかし、この言い回しはやはり秋でなくてはならないのである。なぜなら「秋」と「飽き」をかけ、女心は飽きっぽく変わりやすいと言いたいからだ。

☆ 歌舞伎界のことをなぜ「梨園」というのか?

中国・唐の時代といえば「楊貴妃」とのロマンスで知られる玄宗皇帝がよく知られている。この皇帝は音楽に興ずるだけでなく宮廷音楽を演奏する人々の子弟を庭園に集め、音楽を教え、舞を習わせ、芸能活動に力を入れたことでも有名である。

その庭園に梨が植えられていたことからこの子弟たちは「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。

この故事から芸能のことを日本でも梨園というようになったが、江戸時代になると歌舞伎が盛んになり「梨園」といえば歌舞伎界を指すようになったとのこと。

以上のとおり、身近な生活の中で何気なしに言ったり使ったりしていることに意外と深い意味が込められていることを実感した。

                       


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一つの部屋に4系統のシステムを置く理由

2018年06月29日 | 復刻シリーズ

“のっけ”から理屈っぽい話で恐縮だが、人間には二通りの人物像があると思っている。すなわち、自分が考えている己の人物像と他人が自分に対して思い描いている人物像(イメージ)。

後者の場合だと「はたして自分は他人の目にどう映っているのだろうか」というわけだが、物理的に他人の頭の中を覗き見ることが出来ない以上こればかりは永遠に分かりっこない。

おそらく両方の間に“ズレ”が生じていることは想像に難くないので、この“ズレ”を日常的にときどき意識して自分を客観視することはなかなか意義のあることではないかと思っている。

たとえば分かりやすい例として身近なオーディオを挙げてみよう。

このブログを常時読んでいただいている方ならご承知のように、自分の部屋には現在4系統のシステムが置かれている。

当のご本人はこれを至極当たり前と思っているのだが、他人から見ると
「この人、バッカじゃなかろか、同じ部屋に4つもシステムを置く必要があるのか?」といった具合(笑)。

そういえば、ずっと以前に読んだオーディオ誌には「同じ部屋にスピーカーをいくつも置いてはいけない。それぞれが吸音材の役割をするし、音響的にもけっしていい効果をもたらさない。」といった趣旨のことが書いてあった。

まことに、“ごもっとも”で、出来ることならメイン・システム(=正妻)を固定してひたすら後生大事に使うのが“まっとう”だし世間体もいいに決まっている。

だがしかし、妻妾同居の禁断の味を一度味わうと、これが“病み付き”になってなかなかやめられそうにない。しかも、お妾さんが3人も(笑)。

というわけで、ここで「バッカじゃなかろか」のイメージを覆しておくのも悪くはないと思うので、改めて4系統のシステムを置く理由を縷々述べてみよう。

しかし、はたしてこんな理由で納得していただけるかなあと、ちょっと心配~(笑)。


まず、第一の理由として挙げられるのは何といってもオーディオに割ける時間の多寡によるものだ。

たとえば現在進行形の多忙な現役生活を送っている方については物心両面で日中の仕事が忙しくて音楽とオーディオに割ける時間はせいぜい休日や夜の“ひと時”といったところだろうからこういう場合は一つのシステムで十分のはず。


実際に自分の場合も現役時代はそうだった。社会の荒波は想像以上に厳しい。当時、頭の中の大部分を占めていたのは仕事のほうで、割合でいえば「音楽&オーディオ」は3割以下に過ぎなかった。もちろん個人ごとの能力的な問題もあって出来のいい人は別だろうが(笑)。

しかし、現在となっては明らかに時間の余裕度が違う。1日24時間がフルに活用できるようになると、今や「音楽&オーディオ」三昧で、その占める割合は完全に逆転して7割以上にも達する勢い。

「あなたの頭の中はオーディオだけね」と、こぼす家内の言葉なんかどこ吹く風で(笑)、こうなると一つのシステムだけではとても間に合わないのが自明の理というものだろう。

次の2番目の理由といえば音楽ソースに応じたスピーカーの使い分けをすることになろう。

たとえば、どんなに高価な大型システムであろうと、女性ボーカルや小編成のソースに限ってはシンプルな口径20~25センチクラスのフルレンジの良さにはとうてい及ばない。

大型システムはどうしても音像が大きくなってシャープさが失われてしまうのだ。むしろ音のエッジが荒くなるという表現が妥当かもしれない。

そういうわけでオーケストラからボーカルまで、そしてジャズなどのいろんな音楽ソースを1台のスピーカーでこなせるほどオーディオは甘くないんだよ~と、言いたい(笑)。

投資額と音質が必ずしも比例しない、これはオーディオが仕掛ける巧妙かつ非情な罠ではないかといつも思っている。

もし豪勢なシステムの外にも「AXIOM80」を備えているマニアがいたとしたらその耳を私は信用すると、言ったらあまりにも手前味噌だろうか(笑)。

そういうわけで、現在念頭においている主な使い分けの目安は次のとおり。

 「AXIOM80」は主としてボーカルと小編成の音楽ソース

 「ワーフェデール2ウェイ」(自作エンクロージャー)はクラシックすべての音楽ソース

 「JBLのLE8T」はテレビ音声やジャズ用          

 「JBLのD130+グッドマンの楕円型ユニット」(チャンデバ使用の2ウェイマルチ)はオーケストラなどの大編成用

        

と、いった具合だが、これは表向きの理由で半分は毎日違う音を聴きながら「あら探し」をして楽しみたいのがホンネ(笑)。

使う頻度によって順に並べてみたが、いちいち取り換えるのも面倒くさいので1日をまるっと一つのスピーカーに当て込んでほぼ1週間ほどで4つのスピーカーが一巡するようになっている。


以上、まさにオーディオ三昧の生活だが、これで「4系統のシステムを置いている理由」にある程度納得していただけただろうか。

少しは自分の「変人イメージ」が覆ったかな~(笑)。

    



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