「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

なぜか、聴く気がしなくなった「ピアノ協奏曲」

2012年07月31日 | 音楽談義

暑い、とにかく暑い。

30日(月)付の新聞記事によると「今年の猛暑は地球規模の広がりで、歴史に残る暑い夏になるだろう」とのこと。お互いに熱中症には気を付けましょうねえ。

さて、こんなに暑いと音楽鑑賞どころではなく、日中は比較的風通しのいい2階に上がって本を読んだり、あるいは先週録画したテレビ番組を観るのが主な日課になっている。

こういう時のシステムは、テレビから音声コードを引っ張り出して10ワット出力の小さなトランジスター・アンプに繋ぎ、スピーカーはフォスター「BFー103S 口径10センチ」という省エネタイプの組み合わせ。テレビの音ならこれで十分。

とはいえ、本命のオーディオ・システムのスイッチも毎日、短時間でも入れてやった方がメンテナンスにいいので運動ジムから帰って午後4時くらいからエアコンを入れて”チビリ、チビリ”やりながら2~3時間、クラシックを聴いている。

「早く芸術の秋が来ないかなあ」と、涼しい季節の到来が待ち遠しいが、こういう猛暑の時期に一日中「音楽鑑賞」出来る人はよほどの音楽好きだろう。

そこで、無類の音楽好きで思い出すのがオーディオ仲間で杵築市にお住いのMさん。

久しぶりに「どうしてますか~、相変わらず音楽を聴いてますか?」と、電話でご様子を伺ってみると「やあ、久しぶり~。毎日飽きもせずに聴いてるよ。音楽を聴いていると、不思議にお腹(なか)がいっぱいになって”うまいものを食べたい”という気にならないんだ。一石二鳥だよ」

Mさんはバッハからベートーヴェン、モーツァルト、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィッチまで、クラシックなら何でもござれで、まさに音楽が「精神的なご飯」になっている稀有の方である。しかし、オーディオの方は達観されていて、アポジーのSPをずっと愛用されているが、「いじり出すとキリがない世界。そんな時間があったら音楽を聴いていた方がいい」というのがその理由。まことに、ごもっとも。

とはいえ、いくら音楽好きといっても唯一の例外がショパンの作品。以前から「耳あたりはいいんだけれど、彼の作品はさっぱり後に残らないね~。」とおっしゃる。

「クラシックの森」に奥深く踏み込めば踏み込むほど好きな曲目が変遷してくるのは自分にも心当たりがある。たとえば若年の頃にあれほど聴きまくった「ピアノ協奏曲」が近年ではまったく聴く気にならない。ショパンはもちろんのこと、モーツァルトやベートーヴェンといった大家の作品もけっして例外ではない。

どんなに名曲とされるピアノ協奏曲にもどうも気分が乗らないのである。おかしいなあ、あれほど好きだったのにね~。一方、ピアノ・ソナタの作品群に対してはまったくそういうことがないのでピアノという楽器が嫌いになったというわけでもない。それは断言できる。

これはいったいどうしたことか?以下、自分なりに分析してみたが、どうせ素人の「たわ言」に過ぎないので、あまり真に受けないように。


協奏曲とは、平たく言えば「単独楽器をオーケストラで支える音楽」である。単独楽器にもいろいろあって、誰もが思いつくのがピアノをはじめ、ヴァイオリン、クラリネット、オーボエ、フルートといったところ。(これらの楽器にはすべて「〇〇協奏曲」という作品がある。)

この中で、音域的かつ和音的にオーケストラと、ある程度対等に渡り合える楽器はピアノだけである。ちなみに各楽器のおよその周波数範囲を記してみよう。

 ピアノ 40~6000ヘルツ

 ヴァイオリン 180~1万ヘルツ以上

 クラリネット 150~1万ヘルツ以上

 オーボエ 300~1万ヘルツ以上

 フルート 300~1万ヘルツ以上

 男性歌手 100~8千ヘルツ

☆ 女性歌手 180~1万ヘルツ

ピアノだけが群を抜いて40ヘルツ付近から上の低域の周波数をきちんと出せることに気付く。一方、ヴァイオリンなどの楽器はせいぜい200ヘルツ前後から上の周波数しか出せない。その代り、ピアノと比べて高域の伸びには目を見張るものがある。

そういうわけで、これらの楽器群は低音域が絶対的に不足しているのでオーケストラでこの辺りの音域をきちんとカバーしてもらうと全体的にバランスのとれた姿になるので、比較的、協奏曲に向いた楽器といえる。それに「主」(単独楽器)と「従」(オーケストラ)の役割がはっきりするのも利点。

(音域のバランスという点では、たとえば「ヴィオリン・ソナタ」(モーツァルト)の場合でも、わざわざ「ソナタ」と銘打っておきながらピアノが伴奏して低音域部分をきちんと支えているし、歌手の伴奏にもピアノが活躍してまったく違和感がない。)

しかし、ピアノに限っては他の楽器やオーケストラのカバー(支え)は要らないほど、単独で音域的に十分な表現力を備えている。それなのに、なぜピアノ協奏曲というジャンルがあるのか、その必然性がどうもいまいち理解できないのだ。

それに、ピアノ協奏曲というのはオーケストラとピアノのどちらが主役なのかよく分からないところがあって、映画でいえば、どっちつかずの主役が2人いるようなもので、いったいどちらに花を持たせるのか、聴けば聴くほど散漫になって、曲全体がただ華やかだけで表層的に流れていく印象を受ける。

この点ではピアノ・ソナタの方がはるかにピタリとフォーカスが決まって作曲家の思想がきちんと伝わってくる。

べートーヴェンの後期ソナタやモーツァルトの珠玉のソナタ然り、この辺に自分がピアノ協奏曲から遠ざかった理由が見い出せる!

とまあ、いくら上段に振りかぶってみたところで、世の中、ピアノ協奏曲の愛好家が”ごまん”といるんだから、さぞや反対意見も多いことだろう。とにかく40年以上、じっくりクラシックを聴き込んでもらうと実感としてこの辺が分かってもらえそうな気がするのだが。

ここで、関連してふと思い付いたのだが、オーディオ装置も似たり寄ったりで、音楽を聴く上でしっかりした低音域の支えが音域バランスを整える上で一番難しいポイントだと思うがどうだろうか。

ともあれ、こうして以上のような屁理屈を一気に書いてしまったものの、それほど(書いた内容に)責任を持てるわけでもなし、改めて確認の意味で久しぶりに、(数あるピアノ協奏曲の中でも)白眉とされるクララ・ハスキルの20番(モーツァルト)でも聴いてみようかな~。
                    

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「金メダルの値段」

2012年07月29日 | 独り言

 いよいよ日本時間の7月28日(土)早朝から始まったロンドン・オリンピック。

開会式のイベントで「炎のランナー」がサイモン・ラトル指揮(イギリス出身・ベルリンフィル常任指揮者)により演奏されたので思わず胸にジーンときた。

この曲は名作「炎のランナー」(英国映画:アカデミー最優秀作品賞、オリジナル作曲賞受賞)のテーマ音楽で、冒頭の浜辺を走るランナーたちの名シーンとともに、(
開会式に登場するくらいだから)「英国を象徴する」ものとして同国で広く認識されているのだろう。

さて、「英国を象徴する」ものとは、いったいどんなものがあるんだろうか。

人それぞれの考えがあろうが、思いつくままに挙げてみると、「エリザベス女王」「産業革命」「ニュートン:万有引力の法則」「ダーウィンの進化論」「大英博物館」「貴族と労働者に棲み分けられる階級社会」「シャーロック・ホームズに代表されるミステリーの宝庫」「鉄の女・サッチャー元首相」「ビートルズ」「007」「防犯カメラが一番多い国」「イギリス人独特の”おちょぼ口”、つまり、口のすぼめ方がデリケートな国民性」・・・。

文明国家であることは間違いないものの、何だか簡単に一括りに出来ないお国柄のようだが、オーディオ・マニアの観点から我田引水的に言わせてもらうと「音=ブリティッシュ・サウンド」が一番「英国を象徴」しているような気がする。

「音は人なり」ではないけれど、これまでの経験でその人のオーディオ・システムから出てくる音はまるでその人の分身ではないかと思う事があるほど、よく似ている。たとえば豪快な人からは図太い音が、神経質な人からは繊細な音が出てくるみたいに。もちろん相互に違う印象を受けるときもあるが、その時は「音」の方がより正直かつ正確にその人の性情を表していると思う。お国柄もしかり。

その伝でいけば、英国は実に魅力的なオーディオ製品を生み出す国である。

あのタンノイの”いぶし銀”のような音、グッドマン「AXIOM80」の透きとおった響き、リンのプレーヤー、クォードのアンプ、名三極管「PX25」など枚挙にいとまがない。

いずれもが、己の魅力をあからさまに”ひけらかす”ことを避けるとともに、感情を抑制することに長けていて、噛めば噛むほど味が出るといった、とても一筋縄ではいかない音のように聴こえ、それがいかにも「英国らしさ」を彷彿とさせてくれる。

さて、再び話は「炎のランナー」に戻って、当時はミュージック・ソースが丁度レコードからCDに切り替わる時期で、まだCDプーヤーを購入していなかったのでレコードを購入して大いに楽しんだものだった。たしか、まだあったはずだがと倉庫にあるレコードを漁ってみると、アッタ、あった。

       

この曲にはさらに思い出があって、当時、とある総合庁舎の朝の庁内音楽放送の窓口担当課に所属していたので、執務時間開始(8時30分)の5分前からのテーマ曲として”お気に入り”のこの曲を選び、ちょっと大きめの音で一斉に流したところ、「NHKの朝ドラの声が聞こえないないじゃないか!
」(あの頃の朝ドラは8時15分~30分の時間帯だった)と、よその所属の中年のおじさんから怒鳴り込まれたことが今となっては懐かしい。あの”おじさん”、今ごろはどうしているかなあ。

さて、オリンピックがらみで朝食のときにカミさんがこんなことを言う。

「女子サッカーでもし優勝したときは、全員に金メダルがもらえるの?それとも1種目1個だけなのかしら」

「そりゃあ、金メダルなんて安く作れるんだから全員がもらえるさ~」

そういえば、たしか、いつぞやのブログで「金メダル」の値段に触れたものがあったなあと、ふと思い出した。食事後、昔のブログを探してみると、すぐに発見。

「優勝者だけに送られる金メダルは、
たいへんな名誉であり人に感動を与えるという意味では、その価値は到底、お金に換算できるとは思われないが、”
材料”という面からすると一体いくらぐらいするものだろうか。」という出だし。

というわけで、まことに”勝手ながら”、丁度時期的にタイミングがいいので昔のブログを再掲させてもらうことにした。

ずっと以前からこのブログと付き合っていただき、いまだ記憶の片隅に残っている読者の方には申し訳ない。

「意外に知らないモノの値段」(2008.3.20、彩図社刊)    

「金メダル」のついでに、いくつか挙げてみよう。(当時と比べて若干、改訂しています。)

☆ 金メダル

オリンピックを開催するための条約「オリンピック憲章」によると、『1位及び2位のメダルは銀製で、少なくとも純度1000分の925であるものでなければならない。また、1位のメダルは少なくとも6グラムの純金で金張り(またはメッキ)がほどこされていなければならない』とあり、金メダルといっても、オール純金ではないことが分かる。

ちなみに、2004年に開催されたアテネオリンピックの金メダルは、重さ148グラム。仮に金8グラム、銀140グラムとして2008年1月時点の相場で計算すると金の部分だけで8グラム×3,000円=24,000円、銀の部分は140グラム×60円=8,400円。
合計すると32,800円となる。(意外に安いというのが実感だが、果たしてロンドンの場合は?)

☆ 信号機

私たちの安全を守るため、なくてはならないものの一つが信号機。そんな信号機の交差点1箇所あたりの値段は何と
約400万円もする。

交差点には車両用に2つ、歩行者用に2つが少なくとも設置されているから、単純計算で1つ100万円ということになる。押しボタン式や時差式のものになると1つで200万から500万ということもある。

うっかり、車でぶつけようものならケガで痛い思いをするどころか、弁償ともなれば懐の方も相当痛んでしまう。

ちなみに、従来の信号機の明かりは電球を使っていたが、近年はLED(発光ダイオード)を使った信号機が増えてきた。LEDは電球よりもはるかに消費電力が少なく、長持ちするが値段は電球タイプよりも2倍近くする。

☆ レジ袋

最近、もっぱら減らすことに注目が集まっているスーパーやコンビニのレジ袋。有料化に伴い、エコバッグを持ち歩く人も随分増えてきたがまだごく一部の店では無料のままなのが現状。

そんなレジ袋だが、当然製造業者があり、店はそれを購入して私たちに配っている。

1枚の価格はどれくらいかというと、大きさや印刷の有無にもよるが、
1円~2円、高くてもせいぜい3円というのが相場。

ちなみに、1枚のレジ袋を作るのに必要な石油は約20ミリリットル。もし1世帯が年間で300枚ほど使ったと仮定すると、6リットル分にも相当する。

これが全国ともなれば約5038万世帯(2005年3月31日時点)だから、仮に全部の世帯が同じように使うとなると、5,038万世帯×6リットル≒3億リットルとものすごい数字になる。エネルギー的に「火力発電 VS 原発」のどのくらいの比率に相当するんだろうか。

ちなみに自分の車のガソリン消費量は現在、年間約2,000リットル程度なので、これを当てはめて単純に換算すると約15万台分の1年間のガソリン消費量がチャラになる計算。

相変わらず石油の高値が続いているが、こんな数字を突きつけられたら是非レジ袋の消費を控えた方がいいと思うのは当然ではないだろうか。

☆ 議員バッジ

任期切れに伴い少なくとも来年の2013年7月までには今後の日本の針路を左右する大切な衆議院選挙が行われる。民主党は期待外れだし、自民党は相変わらず魅力なし、地域政党がらみの橋下さん(大阪市長)は下半身のスキャンダルでひところの勢いなしといったところで、今回も消去法による「政党選び」を余儀なくされる国民だが、一方、熾烈な選挙戦を勝ち抜いた人だけにもらえるのが議員バッジ。

地縁、血縁、お金などを総動員して獲得した人にとっては金メダルよりも価値があるかもしれない。

そんな国会議員のバッジだが原材料費でいったい1つ、いくらぐらいするものだろう?

国会議員のバッジは直径2cmほどの大きさで、花びらが11枚ついた金の菊があしらわれているが、気になるお値段の方は参議院のバッジが約1万5千円、衆議院のものは参議院のものより若干安い。値段の差は金属部分が金張りか金メッキかの違い。参議院のものはすべて金張りなのだ。(エッ、参議院の方が衆議院よりも偉いのか?かっての貴族院の名残かもしれないなあ。)

議員バッジは初登院のときに無償で1つ交付される。もし、紛失してしまった場合には、各自で再度購入しなければならない。

以上のような調子で、この本では全部で82もの品目に亘って値段の秘密が記載されている。巻末に根拠となった参考文献とURLが詳細に提供されているので結構「信用」がおけると思うのだが、興味のある方はどうかご覧あれ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

~たかがハンダ付け、されどハンダ付け~

2012年07月27日 | オーディオ談義

27日(金)の早朝の5時過ぎ、起き抜けにまずオーディオシステムのスイッチを入れたところ、低域用のスピーカーから盛大に「ブーン」というハム音が出てきた。”いきなり”だったのでビックリ仰天で、眠気も一気に吹き飛んでしまった。

さあ~、大変なことになった。原因はどこか?一番大切にしている第一システムなので心配なこと、この上ない。

このシステムに関しては最近、回路から接続コードまでいっさい”いじって”いないので心当たりがないのも始末に悪い。

それでもあえて類推すると、中高域用(プリアンプ → PX25真空管アンプ → AXIOM80)にはちゃんと信号が通って音が出ているので、低域用回路に問題があることは間違いなし。

そうすると自ずと次の4点に絞れる。

 アッテネーター自体に問題がある

 アッテネーターとアンプをつなぐケーブルの接触不良

 アンプとスピーカーをつなぐSPコードの接点箇所の不良

 アンプ自体の故障

のアンプ自体の故障となると回路の複雑なDCアンプ(ケンウッド01ーA:改造)だし、とても素人の手に負える範囲ではない。その時はしようがないと諦めることにして残る三点に絞って、まず2、3を調べてみたがまったく異常なし。

残るはだけしかない。とりあえず、別のアッテネーターに接続して様子をみてみると「ハム」音無しでほっと一息。

これで間違いなく故障の原因はと断定、となると、ハンダの接着不良しか考えられない。

結局、半年ほど前に交換したロジウムメッキ製のプラグのプラス箇所の半田付け(右チャンネル)がちょっと触っただけで外れた。やれやれ、これでやっと原因が分かった。その間30分ほど。

俗にいう「イモ・ハンダ」である。半年ほど前にボリューム部分を交換したついでにプラグも併せて念入りに改造したつもりのアッテネーターだったが、やはり素人にちょっと毛の生えたような人間がやるとこういうことになる。

故障の原因となって取り外したプラグは
次のとおり。

           

何せ、このプラグ、ハンダが付きにくかった記憶が今さらながら蘇ってくる。ある程度高級品とされるプラグでもハンダが付きにくかったら元も子もないがもしかするとそれなりの解決法があって、自分が知らないだけかもしれない。

ハンダといってもいろいろあるが現在使っているのは日本アルミットのハンダ「KR-19RMA」。

「世界最高の品質」「NASA航空宇宙産業の必需品」との謳い文句で、100gでわずか1,586円(税込)だから、愛用しているが、以前使っていたハンダと比べてちょっと付きが悪いような気もする。

ネットで調べてみると次のようなコメントがあった。

☆ ハンダの寿命について

ハンダにも有効期限というものがあります。どのメーカーのハンダも製造後1年間というのが基準のようですが、では、実際に5年も経てば使用できないかと言うと、いくらでも半田付けが出来てしまいます。

ただ、ハンダののりが悪かったり良かったりレベルの問題ということになりますが、本来、最も大切なことは、保存管理の仕方でずいぶん左右されます。ハンダは湿気に弱く、保湿性が高くなると、つきも悪くなります。酸化してしまうからです。

酸化はハンダにとって大敵です。いくら新品でも半田付けする時に、加熱し過ぎても酸化しますから、手際の良い、素早い半田付けが基本となっています。ハンダは買ったら湿気を帯びないように保存しておきましょう。室温の低い部屋での保存は最も気を遣いましょう。保存の仕方が悪く、もし酸化がひどいようでしたら、ハンダ適量をやや多目にしフラックスが必要です。

すぐれたハンダを生かすもダメにするのも、ちょっとした保存管理次第で大きくテクニックをも左右します。ハンダの寿命は手際良い作業と保存管理次第ということになります。

これからすると、おぼろげながら今回の「イモ・ハンダ」の原因が推察
できそうだ。

まず、使ったハンダが1年以上経っていて酸化していた可能性がある。次に、ハンダ接着の不良個所が右チャンネルだったが、この右チャンネルはアッテネーターの下側部分に当たっているので、上側の左チャンネルに比べて作業が非常にやりにくく、ハンダ付けするときに手際が悪くなってしまい、加熱しすぎて酸化に余計拍車がかかってしまった。

今回の件は「たかが、ハンダ付け」と侮ると、後で大変な目にあうと大いに肝に銘じたことだった。

ところで、話は変わって九州地方はこの23日(月)にようやく梅雨が明けて、ずっと快晴の毎日。2か月ほど前からお願いしていた植木屋さんがやっと来てくれて、24~25日にかけて猫の額ほどの狭い庭の散髪が終了した。

いつもは市の「シルバー人材センター」にお願いするのだが、今年は昨年9月に亡くなった母(94歳)の「初盆」が控えているので、専門の植木屋さんに頼んだわけだが、流石に評判通りの腕前で、生前、母が大好きだった「山桃」が見違えるほど見栄えが良くなった。

家内の朝の散歩友達からも絶賛を博している模様。

          

午後からは葬儀屋さんが来て、いよいよ盆灯篭の飾り付けの準備が始まる~。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

引退の潮時

2012年07月25日 | 独り言

昨日、7月24日(火)の7時35分ごろ、ちょうど朝食中だったがテレビ(NHK)で臨時ニュースのお知らせ。こんなに朝早くからどんな重大事件が勃発したのだろうと、思わず箸を止めて画面に見入ると「イチローがトレードでヤンキースへ」の字幕。

ホー、これには驚いた。「イチローがヤンキースにねえ」。「昨日の敵は今日の友」ではないが、選手の移動についてきわめてドライとされるMLBならではの”いきなり”の出来事だが、イチローはスター選手なので球団(マリナーズ)との契約条項に当然、トレードの相手球団に対する拒否権が入っているから、最終的には「ヤンキースでOK」したのだろうと、思っていたが、ネットによるとチームの若返りのために自ら希望したトレードだったとある。

将来、MLBの野球殿堂入りが確実とされるイチローも昨年あたりから、ようやく衰えが目立ちだしたが、気分転換も含めてこの際マリナーズを離れるのも丁度いい潮時。もう一花咲かせてほしい気もするが、すんなりヤンキースのチームカラーに溶け込めるのか一抹の不安を抱かせる。弱小球団でこれまでのように”お山の大将”的な誤解を生む言動を続けていたら、浮いた存在になること間違いなし。

一方、「レイズ」にシーズン途中に入団したMLB在籍10年目の松井は、打率が1割5分前後と低迷が続いている。あれほどの選手がみるも無残な貧打ぶり。どうやらシーズン途中での解雇は時間の問題となってきた。松井の落ちぶれた姿だけは見たくなかったのに、残念。

※ 現実にレイズは25日(日本時間26日未明)、松
井に対して「戦力外通告」を行った。

こうなると結果論だがなぜ、昨シーズン限りで引退しなかったのだろうかと思いたくなる。MLBは10年在籍すると引退後の身分保障とともに年金などが満額支給となるが、そのためにわざわざ1年粘ったのではないかと、痛くもない腹を探られることになる。

しかし、プロ野球選手ほど引退時期の選択が難しい職業もないかもしれない。

868本の本塁打記録を持つ日本のホームラン王「王 貞治」さんはいまだに「引退時期を誤った」と著書の中で悔やんでいる。バッティングの迷いからきた一時の不調を肉体的な衰えから来る不調と勘違いしたそうで、もっと現役を続けていたらホームランの数も軽く1000本いけたのにと後悔している。

マウンドから投げるピッチャーの球が打者の手元に届くまでの時間は、球速150Km/hのときにたったの0.41秒だから、瞬間的な判断力が求められる困難さからして、一流選手でさえも不調時の原因を明らかにするのは難しいのだろう。

「引退の潮時」といえば、「潔さ」ですぐに思い浮かぶのがジャズメンの「ジョン・コルトレーン」や「ビル・エヴァンス」たち。彼らは病気になっても治療に専念することなく、もう弾けないと分かるとあっけなくあの世に行ってしまった。まさに「プレイできなければ死んだ方がまし」といわんばかりで、自己陶酔型の彼らはプレイそのものが命だった。

「大衆に夢を売る職業」の持ち主だった人たちは人前で老醜をさらさないためにも”すべからく”そうあって欲しい気がする。

もちろん「死んでくれ」とまでは言わないが、持ち前の芸で身を立てられなくなったら、せめてひっそりとした隠遁生活を送って欲しいものだが。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「音楽愛好家=オーディオ愛好家=アンプ製作者」の三位一体とは?

2012年07月22日 | オーディオ談義

現在、第一システムの中高域用(SPユニット:AXIOM80)に使っているWE300Bアンプ(モノ×2台)。

今のところ音質に取り立てて不満を感じていなかったが、先日のブログで紹介した名古屋のYさんの件で刺激を受けたこともあるし、何せ購入後15年以上も経過しているので、奈良のMさんにお願いして、この際「メンテナンス」に出すことにした。

            

「この暑い盛りにプリアンプならともかく、重量の”かさばる”メインアンプはちょっと・・・」と、渋る奈良のMさんに三拝九拝(?)してようやく引き受けていただいた。

余談になるが、このWE300Bアンプはちょっとした”いわくつき”のアンプである。購入したオーディオ・ショップの経営者はとっくの昔に”夜逃げ”してしまって、いまだに行方が分からない。当時、委託販売でショップに預けておいたラックスのアンプは代金を受け取らないままとうとう闇の中へ消えてしまった。トホホ~。

とにかくこのアンプはそれなりの方が作ったのだろうが、どこのどなたかも判然とせず、したがって回路図も当初から無いが、出力トランス、電源トランス、チョークコイルなどが特注品のタムラだったので思い切って購入に踏み切ったもの。当時は仕事が忙しくてオーディオは片手間だったので、ショップの言いなりになった傾向は多分にある。現役時代は誰でもそうだろうが・・・。

しかし、段々聴き込んでいくうちに、それなりの不満を覚えて専門家に改造してもらって、ようやく満足のいく状態になったが、とにかく回路がどうなっているのか持ち主さえもわからない状況なので、そもそも回路図から整理して検討しなければならないMさんのご苦労もよくわかる。

Mさん、ほんとうにゴメン。時間はいくらかかっても結構ですからね~。

WE300Bアンプを長期間修繕に出しても、後継のアンプは欧州の名三極管としてWE300Bと並び称される「PX25」(イギリス)アンプが2台控えているので「銃後の守り」は完璧。

そして修理に出してからすぐに順次、Mさんから修理・改善個所の概要のメールが届いた。

 回路は非常にシンプルな基本回路に則っています。パーツはすべて高級品を使ってます。申し出がありました「力不足」の対策案としてプレート抵抗直近から真空管の直近アースにコンデンサーを追加して改善ができそうです。

 整流管ソケットはさすがのQQQ(サンQ製)も真っ黒です。運よく7~8年眠っていたソケットの取り付けピッチが合いましたので交換しておきます。

 300Bカソード抵抗のアース回路がタブーである整流管のリップルフィルターのアースまで戻った配線になっています。ここは要改善個所でSNの改善が期待できそうです。

 ご要望のあったムンドルフのコンデンサー「Supreme」は耐圧不足のようなので、私好みのデンマークの「JANTZEN(白)」でOKでしょうか?

 電解コンデンサーの定年退職者(?)を見つけました。もう少しすると電解液が漏れます。新品に交換しておきます。

        

いやあ、この添付画像を見て、思わず背筋がゾッとしたねえ~。これだけでもメンテナンスに出して大正解!

近畿地方は早くも梅雨が終わって、おそらく猛暑だろうから「修理の時間はいくらかかっても構いません。あまり作業に熱を入れて夏バテをしないでくださいね~」に、対して「ぼちぼちマイペースでやりますのでご心配は無用です。」
と、返答のメール。

Mさんに改造してもらうアンプはこれで、4台目である。いずれも十分満足のいく仕上がりで信頼度は100%以上。

なぜ、これほどまでにMさんに固執してお願いするかといえば、Mさんは世にも珍しい「音楽愛好家=オーディオ愛好家=アンプ製作者」だからである。

雑誌でいろんなオーディオ評論家のご意見やブログなどでも様々なオーディオ論を拝見するが、自分なりに信憑性を判断する基準として一番先にくるキーポイントは「この方は、はたして本当に音楽を愛している人かな?」である。(自分の場合は音楽といえばクラシックである。)

この辺は、一通り読ませていただければおよそ長年のカンで、その人の(音楽への)愛情度の察しがつく。音楽への愛情が感じられなかったら、どんなに”もっともらしい”ことが書かれていてもあまり信用しないことにしている。

先日のブログで五味康祐(作家)さんや瀬川冬樹(オーディオ評論家)さんの件に触れたが、自分がなぜ盲信に近いほどの信頼を寄せていたかといえば、ご両人とも人後に落ちぬクラシック愛好家だったからである。

五味さんは「西方の音」などの著作で言うに及ばないが、瀬川さんは「大公トリオ」(べート-ヴェン)を聴かれて、感動のあまりその場に”ウ~ンと唸って、思わずしゃがみ込んだ”という記事を、たまたま拝見して大いに共感をおぼえ、「自分もまったく同じだった!たぶん、それは第三楽章に違いない」と思ったことが、いまだに脳裡に焼き付いている。

現代のオーディオ評論家の中で、自分の知る限りではクラシック愛好家は全然居ないとは言わないが、その場にしゃがみ込むほどの「心から音楽に感動する方」がはたしてどのくらいいるんだろうか。

また、逆に音楽評論家がオーディオ愛好家であった試しもまず聞かない。その代表格で、もう亡くなられた吉田秀和さんのオーディオ装置をブログで拝見したことがあるが、ドイツのエラック(さすが!)の小型スピーカーだったがマニアの目から見てそれほど凝ったものではなかった。ましてや指揮者や演奏家が本格的なオーディオ愛好家なんてことは、聞いたことがない。

たとえば我が家に2回ほど聴きに訪れた高校時代の同級生「O君」は音楽学校を卒業後ドイツに留学してあのチェリビダッケから指揮法を学び、帰国後は郷里の福岡で音楽学校を開いているが、音楽を聞き分ける耳は人並み外れて凄かったがオーディオにはあまり熱意を感じなかった。

したがって「音楽愛好家=オーディオ愛好家」でさえ稀少な存在といえるのに、これに「アンプ製作者」が加わるとなると、まさに砂浜の中で一粒の「金」を探すようなものだろう。そもそも「音楽=右脳」、「物理学=左脳」の領域とされているんだから一人の人間の中で両立するなんて至難の業である。

市販のオーディオ製品(それこそピンからキリまであるが、一般的な話として)が、なぜつまらないかというと、音楽を愛していない技術者(多くは大学の工学部を出ただけ)が、ただ定数どおりに設計し、そしてコストを削減するために部品を妥協しながら作るからである。

周辺機器との相性もあって、いったん完成したアンプが個人のシステムの中でそのまま通用するとすればよほどの僥倖だろう。

しかし、音楽を愛する人が作ったアンプは明らかに違う。たとえば、基本的には物理学の法則にしたがってアンプを製作するものの、いったん出来上がった後の試聴が肝心で、「音楽として、はたして聴ける音かどうか」が問題。

もし、音楽として聴けないと判断すれば、ためらうことなく、すぐに原因を追究して、回路の手直しやコンデンサーなどの交換をする。この部分においてこそ、「音楽愛好家=オーディオ愛好家=アンプ製作者」の三位一体の真骨頂が発揮されるのである。

こういうわけで、Mさんは「マタイ受難曲」や「イギリス組曲」(グールド)などを愛聴される無類のバッハ好きの音楽愛好家であり、オーディオ愛好家として実際に真空管アンプを何台も作ってこられた方なので「大船に乗った気持ち」で命よりも大切な(?)アンプを預けられるわけである。

「市販の製品で満足」という人は、それはそれで幸せな方だが、万一、それ以上の欲を持つ方はオーディオ機器の製作者が果たしてほんとうの音楽好きなのかどうか、確かめることが「好みの音=いい音」に近づくための一つの方法であると思うがどうだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書あれこれ~「ベートーヴェンは鉛中毒だった」ほか~

2012年07月18日 | 読書コーナー

7月15日は日曜日なので恒例の図書館通い。隣接するO市の図書館が毎週、新刊の入れ替えをする日なので、みすみす逃す手はない。

いつものとおり貸出限度いっぱいの5冊を選択。

 「エラリー・クイーン論」 飯城 勇三(いいき ゆうさん)著

 「ベートーヴェンの真実」~遺髪に隠された謎を追う~(児玉敦子 訳)

 「二十五の瞳」 樋口 毅博(ひぐち たけひろ)著

 「安楽椅子の釣り師」 湯川 豊編(みすず書房)

 「英雄はそこにいる」 島田 雅彦著

例によって濫読が趣味なので興味を引かれたものから手当たり次第に。

まず「エラリー・クイーン論」から。

ミステリーファンなら「エラリー・クイーン」は絶対に避けては通れない作家である。これまで数知れずミステリーを読んできたが、今もって古今東西の「ベスト1」と思うのは「Yの悲劇」である。周到な伏線、犯人の意外性、見事なトリック、明快な論理性、精緻な文体、いずれをとってみてもミステリー史上に燦然と輝く金字塔である。

                   

本書の巻末に作品の年代順が収められていたが、この「Yの悲劇」はあまりの完成度の高さから絶対にクイーンの晩年に書かれたものと、当たり前のように思ってきたが、何と比較的初期(1932年)の時代に書かれていたものと分かった。こんな完璧なミステリーを早めに出してしまうと、その後が"じり貧"になってさぞや(作者が)困ったことだろうと思わず同情する。

丁度、映画監督の「黒沢 明」が「七人の侍」を撮った後、次第に枯渇気味になったようなもので、山の頂というものは次第次第にゆっくりと姿を現すところに良さがある。あまりにも早く頂に登り詰めると、下りの道程の処理が難しくなると思うがどうだろうか。

「無から有を生み出す」あらゆる分野の創作者にとってはこの辺が一番の悲劇となるが、実際に年齢を重ねないとその辺が分からないのも”つらい”ところだろう。事実、クイーンは「Yの悲劇」以後、これ以上の作品には恵まれていない。

年齢とともに進化していく才能に恵まれた者と、そうでない者との差はいったいどこに由来するのか。


たとえば、長生きはしたけれど40歳前後を境にして早くも才能が枯渇していった作曲家「シベリウス」(フィンランド)に対して晩年になればなるほど進化を遂げていったベートーヴェン、モーツァルト、そして日本が誇る「画狂老人・葛飾北斎」も年齢に対して画才にはまったくリミットがなかったが、いまだに明快な解答には出くわさない。

ところで肝心の本書だが、自分の読解力不足もあるのだろうが全体的にどうも分かりづらかった。実は年代順に作品ごとの解説を中心とした展開を期待していたのだが、(特に「Yの悲劇」を中心に)、「作品の目指したもの」「トリックについて」とかの項目立てによって全体の作品に対する横断的な内容になっていて、焦点がぼけた印象を受けたのも一因。

また本書の中ではあっさり、トリックの内容が明かされたり、犯人の名前が名指しされたりするので、一通り「エラリー・クイーン」の著作を読んだ人に向いている。

なお「女王(クイーン)の休息」として、ところどころにはさんであるミニエッセイが面白かった。

たとえば208頁の「ローマ帽子の謎とアメリカ大統領」。以下引用させてもらおう。

「アメリカ合衆国大統領バラク・オバマは”黒人初の大統領”と言われている。しかし、日本人から見ると、彼は”黒人の父と白人の母を持つ混血なのだ。この認識の違いは、どこから来ているのだろうか?

アメリカの黒人差別には”一滴の血”という考えがある。父母や祖父母、いや、先祖の誰かに黒人が一人でもいたら、その人物は”黒人”とみなされるのだ。ハーフだろうが、クォーターだろうが、8分の1だろうが64分の1だろうが、一滴でも黒人の血が流れていれば、アメリカでは黒人扱いされるのだ。

そして、クイーンの処女作”ローマ帽子の謎”の犯人の動機はまさにこの”一滴の血”だった。恐喝者にこの事実を公表されてしまうと、犯人は築き上げてきた地位を失い、上流階級の娘との婚約が破棄されてしまうのだ。地方検事の”うわべを見ただけではほとんど誰も(黒人だと)気付かないだろうね”という言葉を受けて、クイーン警視はこう答える。”全部が全部、黒ん坊の血というのとはまるで話が違うのに。ただ血管にほんの一滴(ひとしずく)混じっているだけなのだ。~ほんのひとしずくね”」

アメリカの黒人差別の苛酷な実態は「バラク オバマ自伝」に詳しいが、突然、黒い肌の赤ん坊が生まれてくる恐怖、そのために「血の一滴」にまで遡るとは!

差別の根深さと”しつこさ”を持つアメリカ社会の現実に胸が押しつぶされそうだ。

次に、「ベートーヴェンの真実」について。

                     

ベートーヴェンは1827年に「拍手してくれ、友よ、芝居は終わりだ」の言葉を最後に亡くなったが、その時にある人物が一塊の遺髪を切り取り、持ち去った。その後落ち主が転々とする中、1990年代にとあるアメリカ人の手に渡り、最新の科学技術による分析によって遺髪の信憑性の確認や死因、当時の(ベートーヴェンの)生活の模様がある程度分かったというのが本書の内容だった。

そして直接の死因は大量の鉛を摂取したことによる「鉛中毒」が原因だった。この「鉛中毒」によってべートーヴェンの身体の不調や”年から年中何かと”不満を漏らし”他人”と衝突ばかりしていたのにも説明がつくという。後にべートーヴェンの頭蓋骨の一片からも高濃度の鉛が検出されたというから「鉛中毒」は間違いないようである。しかし、こういう不調にもめげず、第九や後期弦楽四重奏曲を作曲するんだから凄いの一言。

ところで鉛を取り込んだ原因だが、一つはベートーヴェンがよく飲んでいた「ワイン」から、もう一つ考えられるのは医師からだという。ベートーヴェンは長年の間に10人以上の医師に罹っている。当時の医師はまったく医学的訓練を受けていない”やぶ医者”もいたりして、様々な病気の治療薬として鉛錠を処方していた。

もし、ベートーヴェンが鉛中毒に対する適切な処方を受けていたら、「交響曲第10番」(現実にベートーヴェンはスケッチしていた)という偉大な遺産を人類は手にしていたかもしれない!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの生演奏

2012年07月16日 | 音楽談義

「あっ、あなたに大事なことを言い忘れていた」とカミさん。14日(土)の午前中のことだった。

「いったい何だ?」

「今日の14時から”聴潮閣”(ちょうちょうかく)でコンサートがあるそうよ。弦楽四重奏って言ってたわ。お世話役になっている友達がね、あなたのご主人はクラシックがお好きだそうだから是非出席してほしいそうよ、無料だって~」

「えらい急な話やなあ。しかし、久しぶりに生演奏を聴くのもまあいいか。無料だし~」と即座に出席決定。

こと弦楽系に関しては我が家の「Axiom80」の音に優るスピーカーはそうはあるまいと自負しているが、生の音とどれだけ違うのか、試してみるいい機会。

14時開演だから早めにと、雨が降りそぼる中、13時半ごろに到着して会場の2階に上がるとまだ閑散としている。「おかしいなあ」と思いながら係りの方に「14時からですよね」。「雨のために開演が遅れて15時からに変更です。1階の広間でお茶でも飲んでお休みになってください。」

いくらなんでも1時間半も待てないので、この会場の真ん前にあって日頃から利用している「運動ジム」で先に汗を流すことにした。つまり心積もりしていた予定の順番を変更。

車の中で、着替えて運動ジムで1時間たっぷり汗を流した後、シャワーを浴びて着替えたところで再び雨の中を2分ほど歩いて会場へ。

14時45分ごろに会場(和室:6m×13mほどの広さ)に上がってみると、8分目ほど人で埋まっていたが幸い一番前の席が一つだけ空いていたので、滑り込むように着席。いわゆるかぶりつきで演奏者から3mほどの距離。

           

どれどれと受付でもらったプログラムをじっくり拝見。中国人3名、日本人1名による編成で「ジャーナ クヮルテット」と言うそうな。「JAPAN」の頭2文字と「CHINA」の末尾2文字を組み合わせたもの。開演前の紹介によると25歳が3名、22歳が1名と非常に若い演奏者たち。

指揮者の小沢征爾氏が主催する「小沢国際室内楽アカデミー奥志賀」一環の弦楽四重奏のワークショップだそうで、アジアの才能ある演奏者を選抜し、世界に通用する弦楽器奏者の育成を目的に、トップレベルの指導者が集中指導するために編成されたクヮルテット。

これまで小沢さんの指揮する音楽を聴いて感動した試しがないので、自分にとっては縁遠い指揮者だが将来に亘って嘱望される芸術家を育成する地道な活動には共感を覚える。

ちなみに「征爾」という名前は旧満州国で「五族協和」を目指して活躍していたご父君(小沢開作氏)が「満州事変(昭和6年)の立役者」だった日本陸軍の「板垣征四郎」と「石原莞爾」から1字ずつとって命名したものだ。軍人がらみで名付けられた赤ん坊(征爾氏は三男)が、将来、軍人とはもっとも縁遠い藝術家に成るのだから人間の運命は分からない。


本日の演奏会は9月のミュンヘン国際音楽コンクールを目標に別府(聴潮閣)で合宿して猛特訓をした成果のお披露目ということだそうで、16日(月)には別府を離れるという。

会場の「聴潮閣」の持ち主は、とある病院の院長のご夫人で、常日頃、文化活動を支援している別府の有名人。湯布院にも美術館を持っているが、いずれも大赤字だそうで(カミさん談)、まあ、お金持ちの道楽みたいなもの。

作曲家チャイコフスキーのパトロンとして有名だった「メック夫人」を思い出すが、お金を遺すよりも人々の記憶の中に名前と思い出を残す方がずっと賢いのはたしかである。温泉ホテルとパチンコ屋が乱立し、年中足の引っ張り合いをやっている文化不毛の地の別府にもたまにはこういう文化人がいる。

今回の弦楽四重奏のメンバーたちにも多大の支援を行った模様。

さあ、いよいよ定刻となって演奏開始。見るからにはつらつとして若い4人が着席。

               

曲目の順番は「ヴェーベルン」「シュルホフ」そして本命の「モーツァルトの弦楽四重奏曲第19番”不協和音”」。この曲はモーツァルトが崇拝していたハイドンに献呈した「ハイドンセット」の最後の曲目にあたる。音符の書きなぐりで有名なモーツァルトもさすがに師匠格に捧げるとあって、これらの作曲には慎重になって2年以上もかけたというからその緊張ぶりが伝わってくる名曲群である。

ただし、これらの曲目はちょっと難しすぎて自分の好みではない。「不協和音」(全4楽章)では第二楽章だけが好き。

楽譜も読めないし、何一つ楽器も弾けない自分に人の演奏の良し悪しを判断する資格は毛頭ないが、個人的な感覚としては「若い割にはなかなかうまいなあ」というのが第一印象。しかし、音楽として鑑賞出来るかとなるとそれは別問題。表現力はこれから自然と身についていくものだろう。

さて、肝心の「生の音」だがチェロの音には正直言って唸った。音のまとまりがよく豊かにどこまでも広がっていく根の張ったような中低域の音にウットリしたが、こういう音はとても電気回路を通したオーディオ装置からは出せないのではあるまいか。ネットワークを介さない「音の自然な繋がり」にはただただ脱帽である。

しかし、ヴァイオリンに限ってはあまりに近くで聴いたため、直接音ばかりのせいか聴きずらかった。キー、キーと鳴って響きの余韻が足りない印象。ヴァイオリンばかりはしっかりした壁に囲まれた大きな空間の中で豊かな反響音に包まれて聴く方が良さそうだ。

やっぱり我が家の「Axiom80」のように音響空間の中をフワッとゆったりと漂うように鳴ってくれる音が好き~。

結局、音楽鑑賞は「生の音」もたしかにいいが、「好きな演奏を好きな音で気が向いたときに聴ける」方が自分に合っていると思ったのが今回の収穫だった。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「オーディオの原点」とは~

2012年07月10日 | オーディオ談義

つい先日の6日(金)のこと、メール仲間の名古屋のYさんから久しぶりに「ロンドン・ウェスタンのスピーカーや新しいコラム」についての情報をいただいた。

Yさんは名古屋でオーディオ愛好家の集い「チューブアンプクラブ豊橋」のお世話をされていて、定期的に開催されている「真空管アンプ試聴会」の模様をオーディオ専門誌「無線と実験」に寄稿されている。

「一国一城の主」として、会社の社長さんなので身分違いの自分には
まことにおそれ多い方だが、古き良き時代の英国グッドマンのスピーカーを愛用されていることから共通項ができてたびたびメールの交換をさせてもらっている。

「新しいコラム」とは、(株)「サンバレー」のオーディオ部門「ザ・キット屋」の「キット屋倶楽部」に「私のオーディオ人生」と題して、投稿されているネット記事のことで、いつも更新の都度、楽しみに拝読させてもらっているが、第26回目の今回は「300Bの交流点火」について(クリック可)。

中味の方は実際にアンプを自作される方なのできわめて専門的な内容になっており、技術的に素人に近い自分にとって理解が及ばない点が多々あったが、大半の300Bアンプがハム音対策のため直流点火方式で「無難第一」をモットーに使用されているところを、あえて交流点火に挑戦されるところがいかにもチャレンジ精神が旺盛なマニアたる所以。それによって音質も随分変わるようで、オーディオの奥深さを改めて思い知らされた。

親しいオーディオ仲間の奈良のMさんにご意見を求めてみると、
「交流点火は最近の優秀なダイオードがない時代の方式であり、今ではSBD、高速ダイオード、3端子レギュレータによる直流点火方式によりハム音は少なく、音の質も変化しており、どちらの方式にするかは、その人の感性次第でしょう。

製作とコストの点では、交流点火が圧倒的に有利なためか
現在も(交流点火は)健在ですが、いまだに大きな潮流となってどちらかに移行しないということは、やはり簡単に優劣はつけがたいところにオーディオの面白さがあります。さらに興味あることは、整流管のヒーターを定電流直流点火にすると良いと”新 忠篤”氏が16年も前に提唱していました。出力管を定電流で点火すると新たな世界が体験できそうです。」と、実に専門的な解説があった。

我が家で中高域のSPユニット「Axiom80」用に使っている300Bアンプ(直流点火:モノ×2台)は、今のところ音質に関しては目立った不満がないものの、Yさんの挑戦のようにもっと良くなる可能性が無きにしも非ずで、「いっそのこと改造して実験してもらおうかな~」などと、ついつい迷いが生じてくる。

            

漱石の「三四郎」ではないが、「ああ、ストレイシープ!」。

とはいえ、前述したように技術的にはまったく素人同然なので”丸投げ”になるのもちょっと恥ずかしく、この際、真空管アンプの点火方式を”一(いち)”から勉強しようと、土曜日の午前中から午後にかけてネットサーフィン開始~。

すると程なくして、凄いブログを発見。点火方式について実に分かりやすく解説してあるし、「これは面白い!」と読み進むうちにその他のオーディオ関連の記事にも大いに興味を引かれた。

とにかくこのブログは2008年9月に開始されているのでほぼ4年が経過しており、過去記事の数も話題も豊富なので実に読み応えがある。

自分の胸の内では質量ともに「1950~70年代がオーディオの黄金時代」だと、勝手に決めつけているが、作者は以前、オーディオ専門誌「ステレオ・サウンド」社に勤めてあった方のようで、当時のオーディオ評論家たちの事情にも詳しく、今にしてそうだったのかと頷くことばかり。

たとえば「オーディオ評論家の役目、そして役割」と題した項目の中では、出てくる評論家諸氏、「井上卓也」「岩崎千明」「上杉佳郎」「岡俊雄」「菅野沖彦」「瀬川冬樹」「長嶋達夫」「山中敬三」の各氏は(大半の方々が故人だが)当時、オーディオに熱中して季刊誌「ステレオサウンド」を貪るように読んでいた人間にとって憧れの的だった。

こういう才能のある方々がお互いに”ぶつかり合い”のできる相手に恵まれ、ライバルとして競い合う場がステレオ・サウンド誌だったというから、その内容が充実していたはずで、当時の情熱と火花、熱気が今となってはたまらなく懐かしい。

とりわけその頃から大ファンだったのが「瀬川冬樹」氏で、(ステレオサウンド誌に)書かれた内容はすべて熟読玩味して金科玉条のごとく信奉していたものだったが、改めてこのブログを拝見すると、「オーディオ評論は瀬川氏から始まった」とあり、それまでの「単なる解説や印象記」から脱皮させた第一任者とあって、加えてこういう瀬川さんの才能が芽生えたのも、「浅野勇」「伊藤多喜男」「加藤秀夫」「今西嶺三郎」「岡原勇」といったオーディオ研究家の「土」と「五味康祐」氏(作家)の「水」があってこそとのことで、「成る程、成る程」と大いに頷いたことだった。

瀬川氏は非常に残念なことに1981年11月7日に51歳で不治の病により永眠されたが、以後の「ステレオ サウンド」誌は自分にとっては「魂の抜けた仏様」みたいになってしまった。だから、個人的には「オーディオ評論=ステレオサウンドは、瀬川さんに始まり、瀬川さんで終わった」と思っている。

そこで、瀬川さんのいったい”どこがいいのか”となると、なかなか表現が難しいが一言でいうと、オーディオに対するこまやかな愛情が切実な”思い”として率直に伝わってくるとでも言えばいいのだろうか。

たとえば、瀬川さんは一時期「Axiom80」を愛用されていたが、次のような文章がある。

「暗中模索が続き、アンプは次第に姿を変えて、ついにUX45のシングルになって落着いた。NF(負饋還)アンプ全盛の時代に、電源には定電圧放電管という古めかしいアンプを作ったのだから、やれ時代錯誤だの懐古趣味だのと、おせっかいな人たちからはさんざんに”けなされた”が、あんなに柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAxiom80の音を、わたしは他に知らない。この頃の音はいまでも友人達の語り草になっている。あれがAxiom80の本当の音だと、私は信じている。」

この「柔らかで繊細で、ふっくらと澄明なAxiom80」に憑りつかれたものの、いまだにその夢を果たせないままオーディオの虜になった人間が日本のどこかにいる!


現代のオーディオはこうした先人たちの汗と苦労を抜きにしてはとても語れないが、最後に大御所的な存在の五味康祐氏の非常に示唆に富んだ言葉を見かけたので紹介しておこう。

☆ 「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

☆ 「素晴らしい人生にしか素晴らしい音は鳴らない」

まるで「禅問答」みたいだが、「西方の音」「天の声」などの名著を読み込んだ方には”およその意味”が推察できるはず。

とかく安易な方向に流されがちな自分にとっては思い当たる節があって、久しぶりに”オーディオの原点”に還る気にさせてくれた

オーディオに対する考え方とアプローチの方法は”人それぞれ”で、それこそ”いい”も悪いもなく、最終的には個人ごとの感性に帰するわけだが、振り返ってみるとオーディオの黄金時代からはや30年以上が経過しており、現代のオーディオ人の中でこの言葉に共感を覚える人が果たしてどのくらい居るんだろうか!?

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~ベルゴレージの「スターバト・マーテル」~

2012年07月06日 | 音楽談義

CS放送の「クラシカ・ジャパン」の視聴を始めたのが5月初旬だから今日までおよそ2か月が経過した。

その間、せっせと録画する一方で好みに合わず視聴後に消去したりするのもあって現在どのくらい残っているだろうか。とにかくCDに比べると若干音質が劣るが(特に低域の質がちょっと物足りない)、1か月の視聴料(約3000円)からすると、随分安上がりである。

この機会にざっと、曲目をジャンルごとに整理してみると、

≪オペラ≫

「ニーナ、又は恋狂い(パイジェッロ)」 「シモン・ポッカネグラ(ヴェルディ)」「レニャーノの戦い(ヴェルディ)」「フィガロの結婚(モーツァルト:アーノンクール指揮)」 「メサイア(ヘンデル)」 「魔笛(モーツァルト:ムーティ指揮)」

≪室内楽≫

「弦楽四重奏曲第8番(ショスタコーヴィチ)」 「ヴァイオリンソナタ集(モーツァルト:シャハム兄妹)」 「12の練習曲(スクリャービン:ボゴレリチ演奏)」 「弦楽四重奏曲第16番(ベートーヴェン:ハーゲン四重奏団)」 「ピアノと音楽のための5重奏曲(モーツァルト)」 「クラリネット5重奏曲(モーツァルト:ザビーネ・マイヤー)」

≪管弦楽・バレエ・歌曲≫

「シェラザード(リムスキー・コルサコフ)」 「ロシア歌曲(ネトレプコ&バレンボイム)」 「白鳥の湖(チャイコフスキー:ヌレエフ&フォンティン)」 「火の鳥(ストラヴィンスキー)」 「ペールギュント(グリーク)」

≪シンフォニー≫

「交響曲第1~2番、9番(マーラー:アバド指揮)」 「交響曲第4番~5番(マーラー:ゲルギエフ指揮)」 「交響曲第3~6番(チャイコフスキー;ゲルギエフ指揮)」 「大地の歌(マーラー:バーンスタイン指揮)」

≪協奏曲≫

「ヴァイオリン協奏曲第2番~4番(モーツァルト:ムター演奏)」「ファゴット協奏曲(モーツァルト:メータ指揮)」

≪宗教音楽≫

「スターバト・マーテル(ベルゴレージ)」 

≪その他≫

「ポートレート(エディタ・グルヴェローヴァ)」 「ヴェルビエ2009音楽祭(エフゲニー・キーシン)」 「巨匠たち」シリーズ(イルムガルト・ゼーフリート、テレサ・ベルガンサ、コリン・デイヴィス、マリア・カラス)

こうして実際に書き出してみると全部で40作品ほどとなり、かなりの数になる。音質が若干劣るとはいえ、おそらく未来永劫に知ることのなかったであろう曲目に親しめるのは本当にありがたい。

ヴェルディのオペラ群はまず間違いなくそうだし、それにベルゴレージの「スターバト・マーテル」なんかは代表格。

「歳をとればとるほど宗教音楽が身近になるよ」と仰っていたのは、仕事がらみのひょんなことから知遇を得て、40代の頃にたびたびタンノイ・オートグラフを聴きに伺った、今は亡き「K先生」だった。

「T地域」の「御三家」といわれたほどの大病院の院長先生だったが、天井が高くて広くて大きな専用のリスニングルームで聴かせていただいた音楽は今でも記憶に残っている。「冬の旅」(シューベルト)が学生時代から大のお気に入りだったそうで、「冬の旅」といえば歌手は「ディースカウ(バリトン)」に決まっているが、その「ディースカウ」も先日、86歳で亡くなった。きっとK先生は今ごろ天国で「ディースカウ」と仲良く話をされていることだろう。

さて、スターバト・マーテルの話だが「ウィキペディア」から引用させてもらおう。
 

スターバト・マーテルStabat Mater、「悲しみの聖母」「聖母哀傷」)は、13世紀に生まれたカトリック教会の聖歌の1つである。ヤーコポーネ・ダ・トーディの作とされる。題名は、最初の1行(Stabat mater dolorosa、悲しみの聖母は立ちぬ)を省略したものである。 

中世の詩の中でも極めて心を打つものの1つであり、わが子イエス・キリストが磔刑となった際、母マリアが受けた悲しみを思う内容となっている。 

中世以来、西洋音楽の多くの作曲家がこの詩に曲を付けている。中でもパレストリーナ、ヴィヴァルディ、ベルゴレージ、ハイドン、ロッシーニ、ドヴォルザーク、シマノフスキ、プーランク、ペルト、ペンデレツキなどのものが著名である。

錚々たる連中が「スターバト・マーテル」の作曲をやっているが、その中でも最高傑作とされているのが26歳で夭折したベルゴレージの作品である。
 

なるべく1日に1回はこの曲を聴くようにしているが、とりわけ寝る前に聴くと心穏やかになり精神安定剤の役割を果たしてくれていいようである。途中で目が覚めることが少なくなり、夢の「7時間ぶっ続け睡眠」が出来るようになった。

まだこの曲を聴いたことがない人は、ぜひお薦めしたいところ。

勘違いして「スタバ」 → 「スターバックス・コーヒー」を思い出し、寝る前にコーヒーを飲むことがないように。不眠症になっても知りませんぞ~。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~久しぶりに読書三昧~

2012年07月05日 | 読書コーナー

今年の梅雨は例年に比べて雨がよく降る。7月3日(火)は早朝から「バケツの水をひっくり返したような」といった形容がふさわしいほどのすさまじさ。夕方になってようやく小康状態になったかと思うと、続く4日(水)も朝から容赦なく降り続く。テレビの天気予報では雷を伴った大雨になるということで、実際にも遠くの空からゴロゴロッという音がして来る。

「これは大変」と、雷にことのほか弱いデジタル機器のコンセントをすべて取り外した。我が家は小高い団地の一角にあり過去にも現実に隣の家に落雷したことがあって雷の常襲地帯なのでことのほか用心している。

CDトランスポート、DAコンバーター、デジタルチューナー(4台)、液晶テレビそしてパソコン。これだけ外すと、何だか日常の生活に必要な手足をすべてもがれた感じ。しかも土砂降りの中を外に出て行く気にもならないので、仕方なく一日中、読書三昧を決め込むことにした。

手元には4か所の図書館から借りてきた25冊が勢ぞろいして「早く読んでくれ~」と悲鳴を上げているので、丁度いい機会かもしれないと前向きに考えることにした。

返却期限が迫ってきた本を優先させることにして、1冊目は健康のノウハウ本で「なぜ”これ”は健康にいいのか?」~副交感神経が人生の質を決める~(2011年4月刊)。

                       


著者は順天堂大学医学部教授の「小林弘幸」氏。テレビでもお馴染みのお医者さんである。

自分のことだが正直言って、若い頃から筋肉質タイプにはほど遠く「蒲柳(ほりゅう)の質」というのか、健康にはあまり自信がないので、”身体にいい”とされるいろんな知識の取得にも熱心きわまりなく、この種の本を読んでは豆知識を蓄えてきた。その動機といえば少しでも健康な状態で長生きして「音楽とオーディオ」を末永く楽しみたいというもの。

もちろん、死後のオーディオ機器の行く末が大いに気になるので、生きているうちに投資した分の元をちゃんと取っておこうという「ケチな根性」があるのは言うまでもない!

したがって「健康お宅」となって健康食品にも数知れず手を出してきたが、これまで長続きしたものは一つもない。結局、一人ひとり体質が違うので、いろんな健康法に惑わされることなく自分に合った独自の健康法を見つけ出すのが一番というのが現時点での最終結論である。

しかし、この独自の健康法というのを見つけ出すのが至難の業なので、その結果「食べ過ぎない」「適度の運動をする」という、きわめてありふれた健康法に落ち着き、そのまま日々の努力を積み重ねている状況。

近年はめったに健康のノウハウ本にも手を出すことがなくなったが、本書を手に取ったのは副題に「副交感神経が人生の質を決める」とあったから。

以下、かいつまんで要点を記しておこう。

 病気になりやすい人となりにくい人がいるのはなぜか。それは自律神経の働きが大きな影響を及ぼしている。

 本書は近い将来、医学と健康の常識になるであろう「自律神経のコントロール法」を医師が書いた最初の一般書になると自負している。自律神経のバランスを整えることで、あなたのすべてが変わります。それもすべて良い方向に変わる。

 自律神経とは人間の生命活動を24時間、365日休むことなく縁の下で支えてくれている大切なシステム。たとえば眠っている間も呼吸が続いているのはこの自律神経のおかげだが、それは「交感神経系」と「副交感神経系」の2種類に大別され、前者は活動的な日中にアクティブな状態となり、後者は夜のリラックスするときに働くなど、このバランスによって身体機能が保たれている。

 著者によると、病気になるならないはこのバランスがうまく取れていないときだという。たとえば、体がもっともよい状態で機能するときは交感神経も副交感神経も両方高いレベルで活動している場合で、両者どちらかに大きく偏った時に病気になる。

 自律神経をコントロールするポイントは一言でいうと「ゆっくり」である。この「ゆっくり」を意識し、ゆっくり呼吸し、ゆっくり動き、ゆっくり生きる。そうすると、下がり気味の副交感神経レベルが上がり、自律神経のバランスが整いはじめる。実践していただければ本書があなたの人生を変えると私は確信している。

と、まあ、こういう具合である。これは、女性が男性よりも長生きする理由にもつながっていて、男性は30歳、女性は40歳を境にガクッと副交感神経のレベルが低下するという。およそ男女の平均寿命の差が10歳なので、これは見事に符合する。

どうやら全体的に思い当たることが「無きにしも非ず」で、興奮しすぎ、悲観しすぎ、急ぎ過ぎはすべて身体に良くないようである。折に触れ「深呼吸」を忘れないようにしよう。

ともあれ現代は「スピードの時代」なので、仕事に勤しむ現役世代はさぞやつらいことだろう。テレビによく出演する「戦場カメラマン」氏のゆったりとした語り口がもてはやされるのも、観ている人の副交感神経のレベルを上げる効果があるのかもしれない。

自分の場合、興奮しすぎ、急ぎ過ぎはどうもオーディオ・システムをいじるときに顕著になるようで、この辺はオーディオ仲間の奈良のMさんからもときどき「何でもかんでも素早いですね~」と揶揄されるほどで明瞭に自覚している。これからはもっと、冷静になってじっくり腰を据えてかからねばなるまいなあ。オーディオのせいで病気になっては本末転倒である。

次に読んだのが「奇譚(きたん)の島」。(2012.2、原書房、小島正樹著)

                        

「奇譚」とは近年あまり見かけない言葉だが、「世にも珍しく面白い物語・言い伝え」という意味である。知多半島沖の離れ小島で古い因習にとらわれた村に伝わる伝説を軸に繰り広げられる連続殺人事件を素人探偵が快刀乱麻のごとく解決していくミステリー。

全体的にまるで横溝正史の「八墓村」を彷彿とさせる展開だし作風も似ていると思ったが、怪奇現象が終末になってきちんと合理的な説明がつけられるあたり(ちょっと無理があるが)なかなか律儀な作家。まあ、読んでも損はしないといったところ。

3冊目の途中まで読み進んでいるのが「漂流トラック」(安藤能明著)。大都会の日常生活の大半を賄っているにも関わらず、一顧だにされない物流トラックの運転手の悲哀と復讐心を軸にしたミステリーでなかなかの力作。分厚い本なので読み上げるのに丸2日はかかりそう。

こんなことなら、もっと梅雨が長くなっても歓迎~!

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「見てくれ」と「中味」~

2012年07月02日 | オーディオ談義

オーディオ雑誌を見ていると、熱心なマニアの方々のシステムが写真入りで紹介されていることがときどきある。先日も本屋で何気なくパラパラとめくっていると、大型スピーカーが広い空間の中でいかにもいい音がしそうな佇まいで鎮座していた。スピーカーはタンノイさんで、相変わらず家具調の雰囲気も漂わせていていかにも洒落た感じ。

それにひきかえ我が家のシステムの外観は”ひどい”の一言に尽きる。同じタンノイさん(ウェストミンスター)が、もうまったく見る影がないほど引き立たないし、第一システムのウーファー4発と「Axiom80」にしてもいずれも自作のエンクロージャーだから家具調には程遠い。

「お芝居」を引き合いに出すと、華やかな舞台にも楽屋裏がつきものだが、我が家の場合は両方とも一緒くたになって公開しているようなものだからそれはそれはヒドイもの。

各機器の電源コード、機器の間の信号を結ぶ接続コード、そしてスピーカー・コードに至っては第一システムが片チャンネル5本だから両チャンネルだと10本、第二システムが3ウェイだから両チャンネルで6本が部屋の中を走り回っている。オーディオにマナーというものがあるとすれば配線コードは出来るだけ見ない、見せないというのがそうなのかもしれないなあ。

何といっても一つの部屋(6m×7m)に2系統のシステムがあり、それに液晶テレビ(45インチ)まで観れるようにしているのが諸悪の原因なのは十分承知。

自分は普段から見慣れているのでこれが当たり前だと思っているものの、たまに見えるお客さんなどはおそらくあまりの汚さにビックリされていることだろう。

元々整理整頓はあまり得意な”たち”ではないものの、「見てくれ」と「いい音」とが比例する関係にあれば絶対に前者にも努力を傾注するが”決してそうではない”ので、ある程度開き直っている”のが実状。

出てくる音が勝負なのであって外観はどうでもいい、男は中味で勝負だあ!

逆に言えば、「見てくれ」がいい「部屋とシステム」の写真を観ると、この持ち主の人は「ええ格好しい」だけで本当に好きな音を出そうと努力されているのかなあなどとつい考えてしまう。「見てくれ」だけで、いい音が出れば世話はないけどねえ。


長年の経験を通じて本当に好きな音を出そうと思ったら、オーディオは泥沼状態に陥ってとても「綺麗ごと」では済まなくなるというのが自論である。たとえば、見てくれは実に悪くなるがスピーカーの近くに空の大きなビンを置いたり、部屋の後方に沢山の割り竹を設置して音響効果に努力されている方を知っている。”オーディオ・マニアとはそうこなくちゃあ”と、こういう方は好みのタイプである。

我が家の卑近な例を2つほど挙げてみよう。

まず現用している真空管式のバッファー・アンプ。

              

普通どおりの何てことはない仕様だが、音質を決めるポイントに当たるコンデンサーに「マイカ・コンデンサー」を使いたいばかりに配線を外部に引っ張り出してもらっている。それもパラで2セットも。見てくれは実に悪いが、音の方はとても外観どころの話ではない程の変わり様になるんだからたまらない。「音」と「外観」のどちらを取るかと言われたら絶対に前者である。

次に、愛用している真空管式のプリアンプ。

            

たまたまオークションで手に入れて、大改造してもらい大のお気に入りだが、ご承知のとおりプリアンプは微小電流を扱う機器なのだが、残念なことにこのプリアンプの「玉に疵」のところがケースに鉄が使ってあること。

周知のとおり鉄は磁界を持ち、誘導電流を導いて音質に悪影響を及ぼす可能性があるので、なるべくプリアンプ系には使わない方がベターである。一流品ともなるとその辺は実に深く配慮してある。

たとえば以前所有していた「マランツ7」は流石だった。磁石で試してみたことがあるが木製のケースに加えて音声信号用のプラグを抜き差しするパネルにはいっさい鉄が使ってなかった。ちなみに磁石はオーディオの必需品である。

まあ、そういうわけで、このプリアンプへのせめてもの対策ということで磁界を閉じ込めないようにケースの上蓋を開けて使っているというわけだが、「見てくれ」を考慮する方にはとても想像できないような処置だろう。

こういう風に一時が万事の始末ぶりだが、自分という人間は「異常なのかな」とも思うが、果たしてどうなんだろう?
 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする