日本裁判官ネットワークブログ
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8 私が生育した疎開先には,いろんな木の実があったが,私は主としてどんぐりを夢中になって拾い集めた。果物である「ゆすらうめ」や「ぐみ」,「すもも」などの木も父が植えてくれたので,自由に食べ放題であったし,柿,梨,ぶどう,桃,栗なども存分に食べた。またわが家には槇(まき)の木が植えられており,槇の実も実に美味しくて,沢山食べたものである。
9 次女が小学5年生のころのことであったような気がするが,次女が「お父さん,学校に面白い形の木の実があるんだけど,何だろうか。」と言って,われわれ両親を校庭の一角に引っ張って行った。ある日曜日にうさぎの餌やりが終わった時のことである。実の本体が赤く美味しそうに熟しており,緑色の小さな実が2個うさぎの耳のようにくっついていた。実の形はうさぎの顔にそっくりである。そしてこれが槇の実であったのである。妻もその実が何であるか,食べることができることも,とても美味しいことも知らなかった。私は得意満面の顔つき(だったそうである)で,「これは槇の実だよ。食べるととても美味しいんだよ。」と言って,暫く3人で槇の実を食べたのである。それから約1週間後の土曜日に学校全体の大掃除があり,ある事件が起こった。
10 大掃除の日の翌週,父母の参観日があって,その後個人面談があったそうである。そして妻と次女は先生から注意を受けたというのである。
 それは,大掃除の日に次女のグループは約10人の女の子で,校庭のある一角の掃除を担当したのであるが,次女の一団は掃除を放っちらかしにして,「ワーッ」と声を発して槇の木に群がり,槇の実を食べ尽くしたそうで,その首謀者が次女であったというのである。先生は,怖い顔ではなくニコニコと笑いながら経過を説明され,「注意しないわけにもいかないでしょうから,一応注意しておきます。」と言われたそうであるが,「○○さんは(次女のこと)木の実博士ですね。」とも言われたというのである。妻は,夫が槇の実が美味しいことを教えて,先日親子3人で校庭の槇の実を食べたことを説明し,「その罪は親にあると思います。」と言って,お詫びをしたのだそうである。
11 その数年後,長女は高校生,次女は中学生となって,戦災で家を失った私の郷里に私が家を建てて,妻と2人の子がそこに住み,私は比較的近くの裁判所宿舎に単身赴任していたころ,私の郷里の近くの桃太郎を祭ってあると言われている神社に家族でお参りした後で,私が「この裏山には大きな実のなるどんぐりの木があるような気がする。」と言い出したのである。そして細い山道を車で裏山に登り,本当に見つけたのである。家族みんなで夢中になって大きなどんぐりを拾い,わが家の玄関やトイレや居間に飾った。そのどんぐりの木のことは,他人には話さないという家族の協定が成立した。このどんぐりの木を,先日お母さん事務員に教えたという次第である。
12 寺田寅彦の「どんぐり」という随筆は,妊娠中に肺結核になった奥さんが,ある体調の良い日に,近くの小石川の植物園に行きたいというので,夫婦で歩いて出かけたところ,奥さんがどんぐりの木を見つけて,夢中になってどんぐりを拾い,自分のハンカチが一杯になると,夫のハンカチを借りて一杯にして喜んだという,微笑ましい夫婦の光景が描かれている。
 その後奥さんが亡くなり,奥さんのお墓に苔(こけ)の花が何回か咲いたころ,6歳になった忘れ形見のみつ坊を連れて植物園へ遊びに出かけたところ,その子が母と同じように夢中になってどんぐりを拾い,5~6個拾うごとに息をはずませて父のそばに飛んできて,父の帽子の中に広げたハンカチに投げ込み,どんぐりは一杯になってゆくのである。その様子を見て,父はどんぐりを拾って喜んだ亡き妻を偲んで,母の遺伝だと思うのである。「大きいどんぐり,ちいちゃいどんぐり,みいんな利口などんぐりちゃん」とどんぐりの頭をつつく長男の姿に,父は懐かしさと悲しい思いにふけるのである。そして亡き妻の長所も短所も全て遺伝して差し支えないが,「始めと終わりが悲惨であった母の運命だけは,この子に繰り返させたくないものだと,しみじみそう思ったのである。」と結んでいる。明治38年の作品である。
13  わがやはみんなどんぐりが大好きであるが,そんなことから私は寺田寅彦一家に,わが家との類似性を見い出して,この随筆が大好きになったのかも知れないと,ふと思うのである。(ムサシ)



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1 先日このブログに,寺田寅彦の随筆の中の「どんぐり」という一文に触れたが,私の雑資料集には短い名文や感動的資料などをできるだけ収集コピーしてファイルして保存することになっており,「どんぐり」もこのたびそのファイルを取り出して読み返し,しばし感慨にふけったことであった。これらの収集は右脳の活性化作戦となっている。
2 それから間もない頃,3人の小さな子の母親である事務員と2人で,仕事上私の運転する車で片道20分足らずの往復をした際に,私の頭に「どんぐり」の一文の記憶が残っていたためか,彼女に「子供さんはどんぐりが好きですか。」と尋ねたところ,彼女は嬉しそうに「メチャ好きです。家の近くにどんぐりの木があって,小さな実をよく拾ってきます。」と答えた。寺田寅彦の「どんぐり」を読んだかと尋ねると,まだ読んでいないという。さっそくそのコピーを贈呈することになった。「どこかに大きな実のなるどんぐりの木を見つけているの。」と聞くと,見つけていないという。「もしそんな大きなどんぐりがなる木があれば,場所を知りたいですか。」と聞くと,「是非に!」ということであったので,わが親子が大切にしていて誰にも教えてこなかった秘密の場所を教えてあげた。早速子供さんを連れて行ってみるとのことであった。
3 わがやは親子4人とも,なぜか大のどんぐり好きである。私は太平洋戦争末期の空襲で,県庁所在地の市内にあった私の生家が全焼し,家業は継続できなくなり,私が3歳になる少し前に山村に疎開した。そして祖父が小作に出していた柿や桃などの果樹園の返還を受けて生業となった。私は広い柿山や裏山の松林を駆け回って山猿のようなガキとして成長した。わがやの果樹園の片隅に1本のどんぐりの木があって,驚くほど大きな実がなった。秋になると私はどんぐりを拾って来ては,竹を削って芯を作り,どんぐり独楽(こま)作りに熱中した。そして私はどんぐり独楽作りの名手になった。
4 私の疎開先は小学校4年生までは分教場に通い,5年生から片道3キロの本校に歩いて通ったが,同級生は男女各5人の10人で,「20の瞳」であり,小豆島の「24の瞳」よりも小さい分教場であったことになる。分教場では毎年1回,どんぐり独楽大会が行われ,私が4連覇したように思う。
5 それからずっと後,私は東京で大学生活を送った時に,寺田寅彦の「どんぐり」を読んで感動し,寺田寅彦の亡妻が夢中になってどんぐりを拾った舞台である小石川植物園に何度か出かけて,それらしきどんぐりの木を見つけて嬉しく思ったものである。それからまたかなり後に,交際を始めて間もない頃の女性(妻)に,「どんぐり」を読ませて,一緒に小石川植物園に出かけ,2人でどんぐりを拾った記憶であるが,これは婚約に向けての得点稼ぎとしてクリーンヒットであったと思っている。
6 やがて婚約中に一緒に試験に合格して結婚したが,夫婦裁判官となって2度目の妻の任地として入居した千葉の宿舎のすぐ近くの,長女が通った保育園の庭には大きな椎の木があって,長女は椎の実を夢中になって一杯拾ってきたものである。
7 それからまた随分後の5度目の妻の任地として住んだ松江市の宿舎のすぐ近くの小学校で,次女は小学2年生から5年生までの4年間を過ごしたが,近くの公園で大きな実がなるどんぐりの木を見つけて拾って来ては,沢山学校に持って行ったようであった。私たち夫婦と次女の3人は,日曜日などによく,次女が通う小学校に出かけて,次女が好きなうさぎににんじんなどの餌をやることを楽しみにしていた。(ムサシ)



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