東洋経済4/30(土) 6:11
ロシアによるウクライナ侵攻に伴う混迷は、深まる一方だ。グローバル化が進んでいたはずの世界はかつての冷戦期さながらに色分けされ、互いの「不正義」を糾弾し合う。そのような中、欧米諸国と歩調を合わせるばかりの日本の対処方針は、過去の有事で繰り返された泥縄そのもので、戦後70年を超えても、国家として主体性を持つ「大人」になり切れていないのではないか。こうした現状を打破するには、どのような思考が必要か――。『大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』著者の古川雄嗣氏と、中国思想・日本思想研究者の大場一央氏がオンラインで対談した。両氏の熱い議論の第1回(全2回)をお届けする。
■帝国主義 vs ナショナリズム
古川:今回のウクライナ戦争に関する報道をみていて、私は主に2つのことを感じています。
1つは、あえてナイーヴな言い方をしますが、祖国防衛のために戦うウクライナ市民の勇敢さに感じ入ったところがあります。もちろん、その裏にはロシア軍による「虐殺」として報じられている悲惨な状況もありますが、それについてはあとで触れます。
ともかくも、ロシアの侵攻に対して丸腰の市民でさえ立ち向かおうとする姿には、先に出版した『大人の道徳―西洋近代思想を問い直す』でも強調した、いわゆる共和主義的精神の発露をみるような思いがしています。
ここでいう共和主義というのは、「公の事柄(レス・プブリカ)」に対する市民の積極的な参加を重視する考え方で、そこには「共和国(リパブリック)」の自由と独立を守るために、市民は時として武器をとって戦わなければならない、ということも含まれます。これは戦後の日本にもっとも欠けている考え方だと思います。
あともう1つは、今回の戦争は、おおまかにいえば帝国主義とナショナリズムの戦いであるということです。ナショナリズムをどうとらえるかということも、日本人は問い直されていると思います。
大場:『大人の道徳』で提示された議論に引き付ければ、この問題は異なる歴史意識・世界観の戦いと言えるでしょう。中国思想史で「帝国」を定義する場合、民族や地域共同体などで培われた、固有の感覚や常識を超越するイデオロギーを提示し、それを破壊する存在、と考えられます。そうした意味で、帝国は地域に根ざすナショナリズムと対立関係になりますね。
それをロシアに当てはめれば、ウクライナだけでなく、ソ連時代のフィンランドやポーランド、アフガニスタンへの侵攻など、「共産主義」「スラブ」「ロシア」などの観念を覆い被せて、固有の価値観を破壊、吸収しようと振る舞う帝国としての性格を持つことは明らかです。
古川:日本の学者や知識人のなかには、愛国心やナショナリズムは危険だ、悪だと思い込んでいる人が、いまだに多いようですね。そんなイデオロギーはとっくに前世紀で終わったものと思っていたのですが、どうもそうでもないようです。
最近も、私の学生が論文のなかで「自由で民主的な社会を作るには一定のナショナリズムが必要だ」という、ごく平凡な主張をしただけで、審査委員の教授からやたら感情的な批判を浴びて、話になりませんでした。「ナショナリズム」という言葉を聞くだけで、反射的に拒絶反応を起こす人が、まだ一定数いるんですね。
そういう人たちは、ロシアに抵抗して戦っているウクライナ人のことも、「危険なナショナリスト」だといって糾弾するのかと問いたいです。
■ワイドショーをにぎわした「奴隷」たち
古川:それにも関連しますが、日本のワイドショーやメディアでは一部のコメンテーターが「ウクライナ政府は早々に降伏すべきだ」と主張して炎上騒ぎになっていたようですね。
彼らがいうには、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」と。たしかに、最近の悲惨な虐殺の報道をみていると、そういいたくなる気持ちもわからないではありません。けれども、考えるべきなのは、そもそも近代国家において「国家の戦争」と「市民の犠牲」を分けて考えることができるのかということです。
近代国家の基本的な論理は、国家の主体(主権者)は市民であるということです。だから当然、国家の戦争はただちに市民の戦争でもあります。「戦争は政治家や軍隊だけがやればよい。市民は関係ない」というのは「戦争は王や王の軍隊だけがやればよい。庶民は関係ない」という中世国家の論理です。
「政治の主体は市民だが、戦争の主体は市民ではない」などといった論理は成り立ちません。市民の主体性を否定するなら、それは民主主義の否定ですよ。
大場: 国家や社会の運営に主体的に参加せず、自身の身体的快楽を満たすために、経済的利潤を追求してばかりの人々と言えるでしょうか。『大人の道徳』で古川先生が厳しく批判された「奴隷」そのものでしょう。
古川:彼らの主張は、戦後日本の思想界や社会科学を支配してきたイデオロギーを端的に露呈させていると思います。それは、「国家は市民社会を外部から統治する権力機構であり、したがって国家と市民社会は対立する」という考え方です。
さらにその背景には、「戦前の日本では一部の狂信的な政治家や軍部が始めた誤った戦争に国民が巻き込まれた。国民は国家の犠牲者であり、アメリカがそれを解放したのだ」という、戦後アメリカが喧伝した歴史観があります。
市民が国家に支配される無力な犠牲者でしかないのであれば、いつまでたっても市民は国家の政治的主体として自立することはできません。戦後日本に民主主義が根づかない、いちばんの原因は、この「アメリカの物語」だと思います。
大場:あのような言説に対し、江戸時代に荻生徂徠や会沢正志斎ら錚々たる儒学者が説いた「武士土着論」を対比させるとはっきりと問題が見えてきます。
いま、産経新聞(大阪本社版夕刊)で『日本の道統』という連載を担当していまして、その中でも触れたのですが、大まかに言えば、この議論は、地域共同体を主力に、足腰の強いナショナリズムを構想しようとした際、理論的なバックボーンとして機能していたものです。天皇に対する忠誠心をかきたてて、一気に「日本」という中央集権国家を志向する観念的なナショナリズムとは対照的な発想です。同じ「愛国心」といっても、両者の想定するものの間には深い断絶がありますね。
今回の件であれば、ウクライナの人々からは、土地に対する愛着を基盤としたナショナリズムの影を見ることも不可能ではありません。しかし、あの類のコメンテーターからは、たとえ彼らが「愛国心」を打ち出したとしても、抽象的な「日本」といったイメージに対する愛着は認められても、一人一人の生活や、思い出を投影した具体的国土への思いはなかなか見えてきませんね。だから平気で降伏しろなんて言えるのでしょう。
しかし、ロシアは歴史的に土地を奪ったら絶対に返さない国です。故郷を失うということは、自分自身のアイデンティティを失うことを意味します。ゼレンスキー大統領も英誌『エコノミスト』のインタビューで「ここがわれわれの家であり、土地である」と抵抗への強い決意を述べていますね。こうしたことがわかっていないのではないでしょうか。
■ナショナリズムの再評価
古川:帝国主義とナショナリズムという観点についていうと、そもそもこの両者が混同されているという思想状況があると思います。たしかに連続する面もあって複雑ですが、原理的には、帝国主義はナショナリズムを破壊するものであり、両者は本来、対立するものです。
わかりやすい例でいうと、日本の左翼は総じて、戦前の日本の帝国主義とナショナリズムを、もろともに批判しますね。ところが彼らは、朝鮮の三一独立運動など、植民地側の民族主義運動は肯定的に評価するわけです。それは要するに、「台湾や朝鮮のナショナリズムはけっこうだが、日本のナショナリズムはダメだ」といっているにすぎない。明らかにダブルスタンダードなんですよ。
彼らは帝国主義に抵抗するナショナリズムを肯定しているわけですから、はっきりと「自分はナショナリストだ」といわなければならないはずですし、日本のナショナリズムだって正当に評価しなければならないはずです。
大場:例えば半島統治時代、ハングルなど文字の体系化に朝鮮総督府が果たした役割は大きいですね。また、先の大戦も〝表看板〟はすべての民族が西欧化されるのを防いで、固有の文化に立脚して独立することを目的にしました。世界を見ても、古くはフランスのナポレオンが、すべての民族がそれぞれの国で市民革命を起こして独立し自由になる、としてナショナリズムを〝輸出〟し、ベトナム戦争も英米型の資本主義で分断され、均質化された民族の伝統・文化を社会主義によって取り戻すためのものだった、と言えます。帝国主義とナショナリズムに相互補完的な要素がある点が、理解を複雑にしているでしょう。
古川:多様な文化・伝統を大事にするといっても、それだけなら果てしない分裂しかもたらしません。これがいわゆる多文化主義が陥った状況です。だから今日の多文化主義者たちは、むしろ国民の共通文化の創出や共通言語の教育を重視するナショナリズムの方向にシフトしてきています。それをも同化主義だというなら否定はしませんが、それなくして国家は成り立ちません。
ある程度の同化主義的な側面ももちつつ、同時に多様な文化的アイデンティティを保障する、という両面で考えていくしかないと思います。そうすると、「多様な民族的・文化的な集団が、同じ一つの国を作っている」という意識を、ある程度、人為的に創り出していく必要があります。そのときに、「歴史」をどう語るか、つまり大場先生がおっしゃった「歴史意識」という問題が、決定的に重要になると思います。
■「アイヌは存在しない」という「逆張り保守」
古川:ところで、大場先生は札幌のご出身で、私も大学の教員として旭川に7年ぐらい住んでいます。北海道に縁がある2人としては、歴史意識を論じるうえで、アイヌの問題は避けられないですね。最近、一部の「保守」と称する人たちが「アイヌは存在しない」などと主張しているそうで、困ったものだと思っているのですが、大場先生はどのようにみておられますか。
大場:北海道の地名一つとってもアイヌ抜きに考えることは無理ですからね。確かに松前藩などにいた「内地人」と狩猟民族であるアイヌは生活文化や価値観が大きく違ったでしょう。しかし、幕末の探検家、松浦武四郎の著書『アイヌ人物誌』では、日露雑居の樺太にいるある民族が「私たちは皇国の民だから、日本に帰属したい」などと訴えたエピソードを記すなど、同じ日本人であるという理解をしながら生きようとした姿も描かれている。もちろん、場所請負制のもと奴隷のように扱われたケースもある。良い話、悪い話両面あって、「北海道」は形作られてきた。それが日本と北海道を語るうえで欠かせない歴史意識でしょうね。
古川:プーチンはすでに2018年に「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する」という意向を表明していますから、今回のウクライナ侵攻と同じ論理で、「アイヌ民族保護」を名目に北海道に侵攻する可能性も否定できないでしょう。にもかかわらず、日本がアイヌを排除していたら、ますますその名目に正当性を与えることになってしまいます。そういう観点からも、まずいと思いますね。
大場:アイヌに限らず、異なる価値観の民族を内に含みながら、日本という国を、確固とした価値観で成立させなければなりません。異なる価値観を無視すると「日本民族は他民族を抹殺する」と左翼に利用されるだけです。そのカウンターで例えば「アイヌは左翼で反日だ」などと世界観を逆張りするだけの集団が「保守」を謳っている状況も危うい。ただ、いわゆる「つくる会」運動以降の主流は、逆張り保守になっているような気がしてなりません。
■「歴史学」が「歴史意識」を破壊する
古川:しかし、いまの若い世代と話していると、歴史をどう語るかという問題以前に、そもそも歴史意識そのものというか、自己の存在を歴史においてとらえるという観念そのものが、もう根本的になくなってしまっているような感じがします。
たとえば、私の大学の学生はほとんどが北海道の出身ですが、彼らは自分のルーツも全然知りませんし、当たり前のように「日本は単一民族国家です」というんです。
大場:う~ん。『わたしたちの札幌』とかで郷土史をやったはずなのに……。
古川:君たちは学校でアイヌのことを教わらなかったのかと聞くと、はじめて「ああ、そういえばそうでしたね」と。もう自分には何の関係もない話になってしまっているんですね。
大場:それは「歴史学」のあり方も影響しているかもしれませんね。膨大な史料をもとに、通説の「事実」をひっくり返していく学問上の仕事は、確かに刺激的です。ただ、思想を専門に研究している私としては、「事実はこうだった」と言われたところで、「だから何なの」となってしまう。むしろ、私が私自身を、そして世界を考える時に、過去はどういう意味を持ち、将来にどのような価値を示してくれるか、ということを期待しています。
例えば、『三国志演義』はしばしば「作り話で、事実でない」などと評されますが、あの作品の主題は、事実の提示ではなく、世界観をどう持つかということでしょう。司馬遷の『史記』でも色濃く出ていますが、何を善とし、悪とするのか。そして世界はどう動かすべきかという物語の提示が目的ですね。「物語」というとフィクション、おとぎ話のように聞こえますが、歴史という素材を加工し、ストーリーを作りながら、思想を表明しています。全知全能の神でない限り、すべての「真実」を並列して語ることは不可能でしょう。歴史意識をつむぐ物語は、そうした限界を前提に、世界をどう見るのか、どう生きるのかを示そうとするものだと思いますね。
古川:まったくおっしゃるとおりです。ナショナリズム研究者のアンソニー・スミスも典型的な例として挙げていますが、たとえばスイスの英雄、ウィリアム・テルの物語を知らないスイス人はいません。しかし、では彼は本当に息子の頭上のリンゴを射抜いたのかといえば、もちろんそんなのはフィクションに決まっていますし、そもそも歴史学的には彼の実在さえ証明されていません。
しかし、そんなことはどうでもよいわけです。ウィリアム・テルの物語が重要なのは、それが、不当な支配には断固として抵抗するとか、祖国の自由と独立のためには命懸けで戦うとかといった、スイス人の共和主義的な国民的価値を表現しているからです。
歴史の諸事実を客観的に明らかにすることは、学問としての歴史学の大事な仕事ですが、それとは別に、歴史をいかに語るかという思想的な問題も同時にあります。歴史学と歴史認識、あるいは歴史教育は、異なる次元の問題なのに、歴史学者の多くが、もっぱら歴史学が語る歴史だけが歴史だと思っているのは大きな問題ですね。
■「プロレス」としてのナショナリズム
古川:歴史をどう語るかという問題において重要なのは、「フィクションか、フィクションでないか」ではなくて、「どのようなフィクションを語るか」です。歴史は物語られる時点ですでに本質的にフィクションなのですから、それをフィクションだといって批判したって何の意味もありません。
これはまさにナショナリズムの問題です。大場先生と私は同世代ですが、ちょうど我々が学生の頃、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が流行って、日本の知識人はこぞって「ネイションなど想像の産物にすぎない」と、そのフィクション性を批判していましたよね。
大場:鬼の首でも取ったかのようにね。
古川:そうそう(笑)。あれほどバカバカしい言説もなかったと思います。
アンダーソンがいいたかったのは、ネイションは想像力――私は「構想力」といったほうが適切だと思いますが――の産物であるがゆえに、むしろ強いリアリティをもつということです。
最近、ある政治学者と話していておもしろかったのが、ナショナリズムというのは、いわばプロレスみたいなものだ、という話です。
子どもは、リアルに殴り合っていると思ってプロレスに熱狂しますよね。ところが、少々知恵がついてくると、「あんなのはショーにすぎない」などと小賢しいことをいって、熱狂している子どもをバカにするやつが出てくる。
けれども、大人になると、プロレスがたしかに一種のショー、つまりある意味ではフィクションであることを理解したうえで、しかしそのフィクションを命懸けで真剣に演じるところにこそ、プロレスの本当の魅力があることがわかってくるわけです。大人はそのへんのことを全部わかってプロレスを楽しんでいるのに、それを「リアルな格闘じゃない」などと批判して、いい気になっているやつこそが、実はいちばん子どもなんですね。
ナショナリズムもまさにそうで、ナショナルな物語を文字どおりの真実として信じ込むのはたしかに子どもですが、それをフィクションにすぎないなどと批判して知的ぶっているのは、もっと子どもです。フィクションをフィクションと知りつつ、あたかも真実である「かのように」真剣に引き受ける、というのが「大人」の態度ではないでしょうか。
そういう意味で、私の『大人の道徳』の続編は、『大人のナショナリズム』にしようと思っています(笑)。
■歴史と思想がもつ「力」
大場:おっしゃるとおりだと思います。「フィクション」というと、嘘だと思って拒否反応を示す人がいるかもしれませんが、そうではない。たとえば祖父母や父母の話を子に伝える時、立派なエピソードや仕事の話をして、子どもが楽しんだり憧れたりします。そこで自分もそうした人になりたいと思って向上するものであって、わざわざどうしようもない性格や失態を話しません。これはある意味「フィクション」ですが、嘘ではない。「あいつもこいつもただの人間だった」では、「自分がこうなのも仕方ねえや」で進歩がない。こんなものは文明ではなく、祖先も親もなく、ただ生まれて死んでいく動物と同じです。やはり人間が文明を作り、進歩するには物語が必要なのです。
そうした意味で今必要なことは、「自由と民主主義を奉じる世界の人々の連帯の表明」といった構図ではなく、われわれ自身の歴史意識に立脚しつつ、ウクライナの問題も同時に語ることができる物語です。
フィンランド、ポーランド等々、ロシアという帝国の圧迫を受け続けてきた国々は数多く、日本も千島列島や樺太での一件を踏まえればその一員です。今回はたまたまウクライナでしたが、北方領土、北海道への侵攻も、絵空事ではない。「共同体を破壊してくるロシアという帝国から守るために、国境を接する国々は連帯して抑え込まなければならない」、といった主体的な構図が求められていると感じます。歴史や思想がリアルポリティクスのうえで意味を持つのは、このような視点を示せるからでしょう。
古川:何しろロシアではプーチン自身が歴史の論文らしきものを書いて物語を作っていますからね。人文・社会科学、なかでも歴史や思想は、良くも悪くも現実の世界を動かす力をもっているということを、日本の政治家はもっと認識するべきです。最近は中国も哲学研究や思想研究に相当力を入れているらしいですね。
かたや我が国の政治家は、大学を「稼げる大学」にするのだとか息巻いているようなありさまですから、今後ますます、歴史、哲学、思想などは「稼げない」研究として大学から締め出されていくでしょう。おっしゃるとおり、国際社会からも蔑まれることになるでしょうね。
(後編に続く)
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b486c1f784795c137574940f1e9a5443d04460e