不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ民族からみた北海道命名150年 ルーツ持つ33人の思い一冊に 札幌の研究者・石原さん刊行

2021-10-10 | アイヌ民族関連
北海道新聞 10/09 19:27 更新
 北大アイヌ・先住民研究センター助教の石原真衣さん(39)が単行本「アイヌからみた北海道一五〇年」(北大出版会)を刊行した。自身も含め、アイヌ民族のルーツを持つ道内外の33人が、2018年の「北海道命名150年」に対して抱いた思いを一冊にまとめた。石原さんは「社会が痛みや弱さを受け止め合える一歩になればうれしい」と語る。
 石原さんはアイヌ民族を自らの先祖に持つことについて沈黙する人々を取り巻く社会状況などを研究、論文や著書をまとめてきた。18年に道などの150年記念事業が開かれる中で「あまりにもアイヌの声が聞こえない」と感じ、アイヌ民族の血を引く知人らにそれぞれの思いを募った。
 単行本化まで3年を要したが、寄稿してくれた人はアイヌ文化伝承者やアーティスト、映像作家、1次産業の従事者など多様。匿名も5人いる。内容も先祖や自身の生い立ちを記したものから、かつて研究者らがアイヌ墓地から持ち去った遺骨の問題や、ネット上の差別的な発信への対策方法をつづったものまで幅広い。
 四六判124ページ、1600円(税抜)。石原さんが推薦する書物を並べたコーナーを特設している三省堂書店札幌店などの道内書店、ネット通販でも購入できる。(村田亮)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/598287


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(書評)『アイヌ通史 「蝦夷」から先住民族へ』 リチャード・シドル〈著〉

2021-10-10 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2021年10月9日 5時00分

■「対抗の物語」を自身で紡ぐ道程
「アイヌとして生きるか」、日本人に「同化するか」。90年ほど前、アイヌの青年が出した結論は、どんな「人種」も「平等」であり、「寧(むし)ろアイヌたるを誇り得る様になるべきである」という決意だった。著者が証そうとした、近代を生きるアイヌの葛藤が、そこに凝縮している。
 長い間、彼らは「滅びゆく民族」と呼ばれた。本書は、支配する側が作ったアイヌ像をアイヌ自身が反転させ、「先住民族」へと再定義する道程を描く。主要な時期は、明治から1997年のアイヌ文化振興法成立の前後まで。それを、グローバルな歴史の一環として論じる点が最大の特徴だ。
 西洋由来の人種概念で、差別を正当化する論理は根本的に変わる。古代以来の「夷人(いじん)」観から、他の帝国による植民地主義と「本質的な類似性」を持つようになる。「開拓」がアイヌを貧困に追いやっても、法制度から観光案内まで、日本社会は、それこそが自立できない彼らの「劣等性」の証拠だと決めつけた。
 これに対して、アイヌ自身が「対抗の物語」を紡ぎだす過程が、本書の中心をなす。先の青年の発言のように、戦前から被差別等の解放運動に衝撃を受けて、民族性の自覚が進む。戦後、福祉で矛盾を糊塗(こと)した国家に、新たな立法を求めた背景にも、世界の先住民族との交流があった。
 原著は四半世紀前の出版だが、著者の懸念は現在も有効だ。今、アイヌを先住民族と明記した法律は確かにある。だが過去の被害の賠償や自己決定権を認めぬままで広がる「文化振興」は、現実とかけ離れた「伝統文化」の維持を、アイヌに押しつけてはいないか。著者の問いは、「アイヌという全体は和人のイメージで作られていくばかりだ」という、半世紀以上前の警告とともに、いよいよ切実に響く。著者の教え子でアイヌ近現代思想史の専門家による訳業は、解題や訳注により、その先駆的意義をいっそう引きだしている。
 評・戸邉秀明(東京経済大学教授・日本近現代史)
     *
 『アイヌ通史 「蝦夷」から先住民族へ』 リチャード・シドル〈著〉 マーク・ウィンチェスター訳 岩波書店 5830円
     *
 Richard Siddle 59年、スリランカ生まれ。11~19年、北海道大特任教授(アイヌ近現代史、多文化主義)。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15070694.html?pn=2&unlock=1#continuehere

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生のとき 詩に込めたアイヌ魂 詩人・古布絵作家 宇梶静江さん /北海道

2021-10-10 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2021/10/10 地方版 有料記事 2168文字
 潮騒を乗せて吹き寄せる海風が、イナウ(木製の祭具)を揺らす。
 浦幌町。海岸に臨む丘陵で、ラポロアイヌネイション(旧・浦幌アイヌ協会)が8月、カムイノミ・イチャルパを執り行った。神に祈り、北海道大や東京大などから返還されたアイヌ民族の遺骨103体を供養する儀式だ。大学は研究目的でコタン(集落)の墓地から遺骨を持ち去り、研究室に放置していた。
 「人間の魂や尊厳を傷つけ、何と残酷なことをするのか」。儀式を見守った宇梶静江(88)の憤りは、より広い世界へと向かう。「いま、コロナというウエンカムイ(悪い神)が怒っている。人間がいかに、大地や自然を痛めつけてきたかを知らせるため、来たのかもしれません」
この記事は有料記事です。 残り1869文字(全文2168文字)
https://mainichi.jp/articles/20211010/ddl/k01/040/011000c

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ中台の緊張はここまで強まったのか? 台湾情勢を歴史で読み解く

2021-10-10 | 先住民族関連
ニューズウィーク 2021年10月9日(土)09時57分
野嶋剛(ジャーナリスト、大東文化大学特任教授)

台湾では歴史の起点をどこに置くかすら政治と深く関わっている(日本統治時代に建設された台北の台湾総統府) YAOPHOTOGRAPH/ISTOCK
<米中対立の狭間で「最も危険な場所」とされる台湾。大国に翻弄され生き残った歴史は今の複雑な地域情勢につながっている>
「台湾史」はいつから始まったのか。この問題を語ろうとするだけで、台湾では猛烈な論争が起きる。
日本史の始まりは、天照大神(あまてらすおおみかみ)だろうが、邪馬台国だろうが、一本しかない歴史の起点がどこにあるか、という問題にすぎない。ところが台湾の場合、事情が違ってくる。台湾史をめぐり、時間軸も地理も全く異なる複数の歴史観が存在するからだ。
1つは、台湾が世界の舞台に登場した400年前。もう1つが、夏や商などの文明が黄河流域に花開いた4000年前。
「台湾は中国の一部ではない」と考える人々は、前者の歴史観を唱える。台湾の与党・民主進歩党(民進党)の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統が尊敬し、日本に事実上亡命していた独立運動家の史明(シー・ミン、池袋には彼が開いた「新珍味」という中華料理店がある)は『台湾人四百年史』という大著を残している。
一方、台湾の支配権を主張する中国政府は、中国で三国志の時代に「夷洲(いしゅう)」と書かれたり、隋の時代に「流求国」と書かれたりした古文書を持ち出すだろう。台湾の野党・中国国民党(国民党)も、その党名が物語るように後者を支持する立場だ。
ほかにも、台湾で「原住民」と呼ばれるオーストロネシア系の先住民族たちは石器時代から台湾の地で生活を営んできた。彼らの歴史にはもっと悠久の時間軸がある。
はっきり言えるのは、台湾で歴史は政治そのものであり、歴史解釈によって政治的立場が示されること。歴史は台湾において、クリティカルで、かつセンシティブなものなのだ。
外国人である筆者はいかなる立場にも政治的にくみするものではないが、台湾の歴史を日本の読者に伝えることを目的とする本稿は、やはり、400年前から筆を起こしたい。
オランダから清朝まで
標高4000メートル近い山々がそびえ、日本の九州よりやや小さい台湾。東側には広大な太平洋が広がり、西側の中国との間には台湾海峡が横たわる。世界と台湾を接続するのは海であり、台湾の歴史は海を抜きに語ることはできない。
世界が大航海時代を迎えた16世紀。海洋覇権を競ってアジアに殺到した列強の1つ、ポルトガルは、熱帯の草木が鬱蒼と生い茂る台湾を海から見て、「イラ・フォルモサ(美しい島)」と呼んだと伝えられる。ロマンチックな「フォルモサ」という呼び名は台湾の別名として欧米社会で定着し、台湾に逆輸入されて「美麗島」や「福爾摩沙」という中国語にもなっている。
台湾は活発化する東西交易の中継地として目を付けられた。日本、中国、東南アジアの結節点の洋上に独り浮かぶ台湾島の地政学的優位性は、今日まで、台湾が大国に狙われやすく、「兵家必争の地」となる原因となっている。
台湾に最初に拠点を開いたのは名付け親のポルトガルではなかった。オランダが中国大陸に面した台南にゼーランディア城を築き、スペインも台湾北部の淡水にサント・ドミンゴ城を造って北部一帯を支配した。のちにオランダがスペインを追い出して台湾の支配者となった。どちらの城も、台湾では現在古跡として整備されている。
そのオランダを台湾から駆逐したのが、日本でもよく知られた鄭成功(ていせいこう)である。中国人海賊と日本人女性の血を引くこの若者は、落ち目の明朝再興を願って台湾を拠点に清朝勢力に対抗した。鄭成功の死去後、台湾は清朝の影響下に置かれた。スペイン、オランダ、鄭成功、清朝と目まぐるしく支配者が変わったのは、全て17世紀の出来事だった。
そして、大陸王朝が台湾を「領土」としたのはここからであり、「いにしえの時代から中国のものだった」との中国の主張は歴史的事実とは言い難い。
この頃から台湾への漢人移民が本格化する。対岸の福建から閩南(びんなん)人が、広東からは客家(はっか)人が、農業や商業を営むために流入した。
現在の台湾の人口構成上、「4大グループ」と呼ばれる閩南人、客家人、(1949年以降にやって来た)外省人、先住民族(アミ族、パイワン族など16グループが公式認定)の中で、7割強を占める閩南人と1割強を占める客家の起源はここにある。台湾の歴史上最大級の人口爆発がこの時期に起きたのである。
清朝に挑戦した日本
当時の清朝は、台湾をそこまで真剣に経営する気はなかった。文化的に立ち遅れた地を意味する「化外の地」、伝染病がはびこる地を意味する「瘴癘(しょうれい)の地」などと呼んで台湾を恐れ、福建省の支部である「府」を置くのみで支配は限定的だった。
清朝による台湾統治の姿勢をよく示すのが「土牛線」あるいは「土牛溝」と呼ばれる境界線だ。漢人と先住民との衝突が続き、清朝政府は、西側の平地は漢人の縄張りだが東側の山地に漢人は立ち入らないこととし、その境界に溝まで掘った。掘り出した土で造った土塁が牛の背に見えたことから「土牛」の名が付いた。台湾の西半分しか記載されていない当時の奇妙な地図が残っている。
その中途半端さに目を付けたのが「南進」の野望を抱く日本の明治政府だった。1871年、宮古島の島民を乗せた船が漂流し、台湾の先住民族地域に迷い込み54人が殺害された。「懲罰」を掲げた明治政府は初の海外出兵を決断。真の狙いは、清朝が無関心だった台湾の東半分の領有、あわよくば、台湾全体まで手に入れることだった。
1874年、明治政府は多数の軍船を送り込んで先住民族との戦闘に勝利したが、清朝の強い反発と欧米各国の不支持もあって台湾領有は成らなかった。
しかし、日本の南進は止まらず、間もなく琉球王国を廃止して日本に編入。1895年の日清戦争の勝利によって、日本は念願の台湾領有を果たした。
日本統治で豊かに
ここから1945年まで、日本統治は半世紀に及んだ。明治政府は当初、台湾領有を悔やんだとも言われる。日本人の支配に漢人・先住民族らが猛烈に抵抗し、ひどく手を焼いたからだ。
当時の国会で台湾放棄論まで論じられた。それでも、日本にとって初めての植民地台湾の経営を成功させ、世界に日本の「文明度」を示さなくてはならないことが、台湾統治に本腰を入れる理由になった。
1898年、児玉源太郎総督の下、ナンバー2の民政長官に任命された後藤新平は公衆衛生の専門家である自らの知見を基に、上下水道の整備やアヘンの漸禁政策など、台湾を「健康体」とするべく公衆衛生政策に力を入れた。温暖な気候を生かした農業育成のために日本から専門家・新渡戸稲造を呼び寄せるなど、産業振興に努めた。
台湾は日本やもう1つの植民地、朝鮮よりも高い経済成長率を示し、1930年頃になると、1人当たりの国民総生産が日本より高かったという研究もある。日本の沖縄や九州・東北などから、生活の糧を求めて出稼ぎや移民が押し寄せた。教育は広く普及し、台湾人エリートからは、後の総統である李登輝や作家の邱永漢のような優れた人材が育った。
日本が去って中国が来た
せっかく大事に育てた台湾だったが、戦争に敗れた日本はポツダム宣言を受諾し、放棄に追い込まれる。台湾を引き継いだのは中国の支配者・中華民国政府だった。台湾人も「祖国復帰」を大いに喜んだ。
日本統治時代の「国語」は日本語で、庶民の日常会話は台湾語だったが、台湾人の間に新しい「国語」である中国語の学習ブームが巻き起こった。
ところが、そんな蜜月は数年も持たずに終焉を迎える。1947年、中華民国政府(国民党)の腐敗や非効率に怒りを覚えた台湾人たちが抗議の声を上げた途端に、大陸にいた蒋介石はためらわずに弾圧に乗り出す。数万人の死者を出したと言われる「2.28事件」が起きた。
当時、大陸では共産党との間に内戦が勃発しており、内戦勝利のため台湾内の「安定」を最優先させたいという事情も、弾圧をより苛烈なものにした。
半世紀の間に「中国」から日本へ、日本から「中国」へと、台湾の所属先の書き換えが繰り返されたことは、日本と中国という地域両大国に挟まれた台湾の運命を示している。台湾の人々は支配者の交代に合わせて「日本人」から「中国人」へ再度の属性変更を求められた。
台湾でよく聞く話では、一度も中国に行ったことがないのに、学校で北京から上海までの全ての駅名を暗記させられたという。歴史教育で扱われた台湾に関する内容は、国民党からも英雄扱いされた鄭成功ぐらいだった。
格好の「逃げ場」
歴史は、指導者の一瞬の判断が、その後の世界と人々の運命を左右することを教えてくれるものだ。
共産党との内戦で敗色濃厚となった蒋介石は、最後の拠点である四川・重慶を捨てた先の逃げ場を考えた。候補は台湾と海南島だ。当時の中国の領土では第1と第2の島である。面積はほぼ変わらないが、違いは大陸からの距離にあった。
海南島と大陸との距離はおよそ30キロ。一方、台湾海峡は狭いところでも130キロある。この差が決定的な意味を持った。
海南島と同じく30キロ程度の幅のドーバー海峡を渡ったノルマンディー上陸作戦でも米英軍はあれほど苦労したのに、130キロを超える台湾海峡の上陸作戦にはどれだけの準備と大部隊が必要となるのか。まず電撃作戦は無理であり、しかも西側のほとんどが浅瀬で大型船が接岸できない台湾の揚陸点は、北部と南部の一部海岸に限られる。海と陸から迎え撃たれれば、10倍の兵力でも足りない。
台湾は逃げ込む先としては絶好の地だった。もし海南島に逃げていたら、あっという間に共産党に制圧されただろう。
その点からいえば、台湾を逃げ場に選んだ蒋介石は慧眼だった。
蒋介石には神風も吹いた。1950年に起きた朝鮮戦争である。想定外の事態に慌てたアメリカは、台湾を反共のとりでとすることを決定。台湾に逃げ込んだ中華民国は、日本と共に戦後の冷戦構造におけるアメリカ側の体系に組み込まれ、当面の安全を確保することができた。
不可侵ライン「中間線」
その中台分断を象徴するのが台湾海峡中間線である。米国の介入を受けても毛沢東は統一を諦めず、台湾が支配する金門・馬祖島へのミサイル攻撃を繰り返し、1958年には米空母が台湾海峡に6隻も集結する事態となった。中間線はこの1950年代、米国側が台湾海峡に設けたもので、事実上の中台相互不可侵ラインの役割を果たした。
台湾側の公表資料によれば、中間線は、北緯27度東経122度を北限として、北緯23度東経118度を南限とし、まさに海峡の真ん中に引かれた一本の線であり、冷戦下での中台関係の固定化の象徴であり、朝鮮半島の38度線の中台関係版である。
海に守られた蒋介石・蒋経国親子の台湾統治は、1949年を起点とすれば蒋経国の死の1988年までおよそ40年間にわたった。
ある意味で、国民党もよく踏ん張った。大陸で蒋介石を悩ませた党派対立を清算。一旦は崩壊した国軍も、日本人軍事顧問団「白団」や米軍顧問団の支援を受けながら全面的に立て直し、質的には人民解放軍をしのぐ近代軍に仕立て直した。
経済建設にも1970年以降は力を入れ、輸出志向型で小回りの利く産業構造をつくり上げた。新興工業経済地域(NIES)の一翼として高い経済成長を成し遂げた。権威主義体制下の政府関与のもと工業化を成し遂げた台湾モデルは、世界から注目を受けることになった。
一方で、世界最長となる戒厳令を敷き、反共を口実に多くの無実の人々を投獄・処刑する白色テロの恐怖政治で台湾社会をコントロール下に置いて、米国政府もその蛮行を黙認した。反共の協力者・蒋介石が必要だったからだ。
過酷な統治が、台湾社会から恨みの目を向けられる国民党の「原罪」となって、今日、党勢を弱める一因になっている。歴史評価として、蒋家の統治をどう位置付けるか、極めて難しい問題だ。
仮定の話にはなるが、国民党がいなければ、台湾は共産化され、中華人民共和国の一部になり、チベットや新疆のような自治区扱いか、あるいは福建省の一部、もしくは台湾省として統治されていたかもしれない。戒厳令の下で多少の犠牲はあっても、共産化よりはましだった、という議論が成り立たないわけではない。一方で、蒋親子の下での民衆への加害は許せないと今も考えている人々が大勢いることも間違いない。
歴代総統への評価は、台湾史の複雑さを物語っている。台湾社会が各種世論調査でほぼ一致して最も高く評価する総統は、李登輝ではなく、蒋経国だ。
蒋経国が執政した1970~80年代は、台湾の高度経済成長期に当たり、いい思い出が多いからだと言われている。それ以前は蒋経国が秘密警察を指揮して弾圧の先頭に立ったことも台湾人は知りつつ、こうした見方をしているのである。
一方、蒋介石の評価は歴代総統の中で常に最下位だ。共産主義から台湾を守った功よりも、過酷な統治で多くの人命を奪った罪を、台湾の人々は記憶しているからだ。
李登輝の深謀遠慮
その蒋家統治の時代が終わりを告げた1980年代末、台湾に全く新しいタイプの指導者が現れた。李登輝である。台湾生まれで、日本教育を受け、京都帝国大学農学部で学んだ。蒋経国に農業専門家として登用され、後継者の座に上り詰めた。
当時、中台関係をめぐる世界の認識は大きく変わっていた。鄧小平の登場で改革開放を掲げた中国は国際社会に歓迎された。自分たちは中国の「本家」だと訴える台湾の主張は、むなしく響くだけだった。李登輝は、戒厳令の終了など蒋経国が始めた軌道修正をさらに加速させた。
大陸反攻を前提とする総動員体制を終わらせ、「中国」で選ばれた議員を多く含んだ国会を全面改選。「中国国家」の中身を少しずつ空洞化させ、実態に即した「台湾にある中華民国(中華民国在台湾)」につくり変えていく。「中国人」を育てるための歴史教育も、台湾中心に置き換えていった。
李登輝の歴史的功績は「台湾化と民主化」を無血で進めたことに尽きる。デモクラシーとナショナリズムの相性はいいが、その運用を誤れば、化学反応を起こして失敗国家に陥りかねない。李登輝はその両者を慎重かつ細心に進めていった。
中国の圧力をかわしながら、台湾は初の総統直接選挙を1996年に実施した。自らのリーダーを選ぶ選挙を重ねるほどに、台湾の人々は台湾の未来に関心を持ち、「台湾人」として選挙結果に自らの運命をコミットさせようとする。
台湾の人々は自分のアイデンティティーが台湾人であることを疑わなくなり、統一か独立かは選挙の争点ではなくなった。統一を掲げた政治家は台湾では生き残れなくなったからだ。これらは、李登輝の深謀遠慮が正しかったことを意味している。昨年、李登輝はその結果を見届けて世を去った。
理想と現実の狭間で
2000年の総統選挙で国民党が分裂し、漁夫の利を得た民進党・陳水扁(チェン・ショイピエン)が総統に当選し、台湾で初の政権交代が実現した。その陳水扁政権2期8年の後、08年に国民党が政権復帰し、馬英九(マー・インチウ)総統も2期8年を務めた。異なる政党、異なる総統の下の16年間、台湾は、対中強硬か、対中融和かの間を漂流した。
最大の原因は、経済的には対中依存が深まる一方で、「自分たちは台湾であって中国ではない」という台湾アイデンティティーが着実に浸透していったことだ。この状況については「結び付く経済、離れる心」「繁栄と自立のジレンマ」などの呼び方がある。精神的には中国からの自立を求めながら、繁栄の前提となる中国経済との関係は切ることができない。この矛盾に台湾が本格的に直面し始めたのは、この時期からである。
「自立」を志向する民進党の陳水扁総統は中国との対立を選んだが、当時まだ対中融和論が強かった米国から嫌われ、国内の支持も集まらなかった。最後は、自らの不正資金問題で牢につながれてしまった。台湾の歴代総統の中で最も失敗した総統は誰かと言われれば、多くの人は陳水扁を思い浮かべるに違いない。
その陳水扁を反面教師とした国民党の馬英九総統は、「繁栄優先」を掲げて中国との関係強化を目指した。中国は多くの台湾優遇策を繰り出し、ブッシュとオバマの両米政権からも支持された。
一見、全てがうまく進んでいるかのなぜ中台の緊張はここまで強まったのか? 台湾情勢を歴史で読み解く
ニューズウィーク 2021年10月9日(土)09時57分
野嶋剛(ジャーナリスト、大東文化大学特任教授)

台湾では歴史の起点をどこに置くかすら政治と深く関わっている(日本統治時代に建設された台北の台湾総統府) YAOPHOTOGRAPH/ISTOCK
<米中対立の狭間で「最も危険な場所」とされる台湾。大国に翻弄され生き残った歴史は今の複雑な地域情勢につながっている>
「台湾史」はいつから始まったのか。この問題を語ろうとするだけで、台湾では猛烈な論争が起きる。
日本史の始まりは、天照大神(あまてらすおおみかみ)だろうが、邪馬台国だろうが、一本しかない歴史の起点がどこにあるか、という問題にすぎない。ところが台湾の場合、事情が違ってくる。台湾史をめぐり、時間軸も地理も全く異なる複数の歴史観が存在するからだ。
1つは、台湾が世界の舞台に登場した400年前。もう1つが、夏や商などの文明が黄河流域に花開いた4000年前。
「台湾は中国の一部ではない」と考える人々は、前者の歴史観を唱える。台湾の与党・民主進歩党(民進党)の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統が尊敬し、日本に事実上亡命していた独立運動家の史明(シー・ミン、池袋には彼が開いた「新珍味」という中華料理店がある)は『台湾人四百年史』という大著を残している。
一方、台湾の支配権を主張する中国政府は、中国で三国志の時代に「夷洲(いしゅう)」と書かれたり、隋の時代に「流求国」と書かれたりした古文書を持ち出すだろう。台湾の野党・中国国民党(国民党)も、その党名が物語るように後者を支持する立場だ。
ほかにも、台湾で「原住民」と呼ばれるオーストロネシア系の先住民族たちは石器時代から台湾の地で生活を営んできた。彼らの歴史にはもっと悠久の時間軸がある。
はっきり言えるのは、台湾で歴史は政治そのものであり、歴史解釈によって政治的立場が示されること。歴史は台湾において、クリティカルで、かつセンシティブなものなのだ。
外国人である筆者はいかなる立場にも政治的にくみするものではないが、台湾の歴史を日本の読者に伝えることを目的とする本稿は、やはり、400年前から筆を起こしたい。
オランダから清朝まで
標高4000メートル近い山々がそびえ、日本の九州よりやや小さい台湾。東側には広大な太平洋が広がり、西側の中国との間には台湾海峡が横たわる。世界と台湾を接続するのは海であり、台湾の歴史は海を抜きに語ることはできない。
世界が大航海時代を迎えた16世紀。海洋覇権を競ってアジアに殺到した列強の1つ、ポルトガルは、熱帯の草木が鬱蒼と生い茂る台湾を海から見て、「イラ・フォルモサ(美しい島)」と呼んだと伝えられる。ロマンチックな「フォルモサ」という呼び名は台湾の別名として欧米社会で定着し、台湾に逆輸入されて「美麗島」や「福爾摩沙」という中国語にもなっている。
台湾は活発化する東西交易の中継地として目を付けられた。日本、中国、東南アジアの結節点の洋上に独り浮かぶ台湾島の地政学的優位性は、今日まで、台湾が大国に狙われやすく、「兵家必争の地」となる原因となっている。
台湾に最初に拠点を開いたのは名付け親のポルトガルではなかった。オランダが中国大陸に面した台南にゼーランディア城を築き、スペインも台湾北部の淡水にサント・ドミンゴ城を造って北部一帯を支配した。のちにオランダがスペインを追い出して台湾の支配者となった。どちらの城も、台湾では現在古跡として整備されている。
そのオランダを台湾から駆逐したのが、日本でもよく知られた鄭成功(ていせいこう)である。中国人海賊と日本人女性の血を引くこの若者は、落ち目の明朝再興を願って台湾を拠点に清朝勢力に対抗した。鄭成功の死去後、台湾は清朝の影響下に置かれた。スペイン、オランダ、鄭成功、清朝と目まぐるしく支配者が変わったのは、全て17世紀の出来事だった。
そして、大陸王朝が台湾を「領土」としたのはここからであり、「いにしえの時代から中国のものだった」との中国の主張は歴史的事実とは言い難い。
この頃から台湾への漢人移民が本格化する。対岸の福建から閩南(びんなん)人が、広東からは客家(はっか)人が、農業や商業を営むために流入した。
現在の台湾の人口構成上、「4大グループ」と呼ばれる閩南人、客家人、(1949年以降にやって来た)外省人、先住民族(アミ族、パイワン族など16グループが公式認定)の中で、7割強を占める閩南人と1割強を占める客家の起源はここにある。台湾の歴史上最大級の人口爆発がこの時期に起きたのである。
清朝に挑戦した日本
当時の清朝は、台湾をそこまで真剣に経営する気はなかった。文化的に立ち遅れた地を意味する「化外の地」、伝染病がはびこる地を意味する「瘴癘(しょうれい)の地」などと呼んで台湾を恐れ、福建省の支部である「府」を置くのみで支配は限定的だった。
清朝による台湾統治の姿勢をよく示すのが「土牛線」あるいは「土牛溝」と呼ばれる境界線だ。漢人と先住民との衝突が続き、清朝政府は、西側の平地は漢人の縄張りだが東側の山地に漢人は立ち入らないこととし、その境界に溝まで掘った。掘り出した土で造った土塁が牛の背に見えたことから「土牛」の名が付いた。台湾の西半分しか記載されていない当時の奇妙な地図が残っている。
その中途半端さに目を付けたのが「南進」の野望を抱く日本の明治政府だった。1871年、宮古島の島民を乗せた船が漂流し、台湾の先住民族地域に迷い込み54人が殺害された。「懲罰」を掲げた明治政府は初の海外出兵を決断。真の狙いは、清朝が無関心だった台湾の東半分の領有、あわよくば、台湾全体まで手に入れることだった。
1874年、明治政府は多数の軍船を送り込んで先住民族との戦闘に勝利したが、清朝の強い反発と欧米各国の不支持もあって台湾領有は成らなかった。
しかし、日本の南進は止まらず、間もなく琉球王国を廃止して日本に編入。1895年の日清戦争の勝利によって、日本は念願の台湾領有を果たした。
日本統治で豊かに
ここから1945年まで、日本統治は半世紀に及んだ。明治政府は当初、台湾領有を悔やんだとも言われる。日本人の支配に漢人・先住民族らが猛烈に抵抗し、ひどく手を焼いたからだ。
当時の国会で台湾放棄論まで論じられた。それでも、日本にとって初めての植民地台湾の経営を成功させ、世界に日本の「文明度」を示さなくてはならないことが、台湾統治に本腰を入れる理由になった。
1898年、児玉源太郎総督の下、ナンバー2の民政長官に任命された後藤新平は公衆衛生の専門家である自らの知見を基に、上下水道の整備やアヘンの漸禁政策など、台湾を「健康体」とするべく公衆衛生政策に力を入れた。温暖な気候を生かした農業育成のために日本から専門家・新渡戸稲造を呼び寄せるなど、産業振興に努めた。
台湾は日本やもう1つの植民地、朝鮮よりも高い経済成長率を示し、1930年頃になると、1人当たりの国民総生産が日本より高かったという研究もある。日本の沖縄や九州・東北などから、生活の糧を求めて出稼ぎや移民が押し寄せた。教育は広く普及し、台湾人エリートからは、後の総統である李登輝や作家の邱永漢のような優れた人材が育った。
日本が去って中国が来た
せっかく大事に育てた台湾だったが、戦争に敗れた日本はポツダム宣言を受諾し、放棄に追い込まれる。台湾を引き継いだのは中国の支配者・中華民国政府だった。台湾人も「祖国復帰」を大いに喜んだ。
日本統治時代の「国語」は日本語で、庶民の日常会話は台湾語だったが、台湾人の間に新しい「国語」である中国語の学習ブームが巻き起こった。
ところが、そんな蜜月は数年も持たずに終焉を迎える。1947年、中華民国政府(国民党)の腐敗や非効率に怒りを覚えた台湾人たちが抗議の声を上げた途端に、大陸にいた蒋介石はためらわずに弾圧に乗り出す。数万人の死者を出したと言われる「2.28事件」が起きた。
当時、大陸では共産党との間に内戦が勃発しており、内戦勝利のため台湾内の「安定」を最優先させたいという事情も、弾圧をより苛烈なものにした。
半世紀の間に「中国」から日本へ、日本から「中国」へと、台湾の所属先の書き換えが繰り返されたことは、日本と中国という地域両大国に挟まれた台湾の運命を示している。台湾の人々は支配者の交代に合わせて「日本人」から「中国人」へ再度の属性変更を求められた。
台湾でよく聞く話では、一度も中国に行ったことがないのに、学校で北京から上海までの全ての駅名を暗記させられたという。歴史教育で扱われた台湾に関する内容は、国民党からも英雄扱いされた鄭成功ぐらいだった。
格好の「逃げ場」
歴史は、指導者の一瞬の判断が、その後の世界と人々の運命を左右することを教えてくれるものだ。
共産党との内戦で敗色濃厚となった蒋介石は、最後の拠点である四川・重慶を捨てた先の逃げ場を考えた。候補は台湾と海南島だ。当時の中国の領土では第1と第2の島である。面積はほぼ変わらないが、違いは大陸からの距離にあった。
海南島と大陸との距離はおよそ30キロ。一方、台湾海峡は狭いところでも130キロある。この差が決定的な意味を持った。
海南島と同じく30キロ程度の幅のドーバー海峡を渡ったノルマンディー上陸作戦でも米英軍はあれほど苦労したのに、130キロを超える台湾海峡の上陸作戦にはどれだけの準備と大部隊が必要となるのか。まず電撃作戦は無理であり、しかも西側のほとんどが浅瀬で大型船が接岸できない台湾の揚陸点は、北部と南部の一部海岸に限られる。海と陸から迎え撃たれれば、10倍の兵力でも足りない。
台湾は逃げ込む先としては絶好の地だった。もし海南島に逃げていたら、あっという間に共産党に制圧されただろう。
その点からいえば、台湾を逃げ場に選んだ蒋介石は慧眼だった。
蒋介石には神風も吹いた。1950年に起きた朝鮮戦争である。想定外の事態に慌てたアメリカは、台湾を反共のとりでとすることを決定。台湾に逃げ込んだ中華民国は、日本と共に戦後の冷戦構造におけるアメリカ側の体系に組み込まれ、当面の安全を確保することができた。
不可侵ライン「中間線」
その中台分断を象徴するのが台湾海峡中間線である。米国の介入を受けても毛沢東は統一を諦めず、台湾が支配する金門・馬祖島へのミサイル攻撃を繰り返し、1958年には米空母が台湾海峡に6隻も集結する事態となった。中間線はこの1950年代、米国側が台湾海峡に設けたもので、事実上の中台相互不可侵ラインの役割を果たした。
台湾側の公表資料によれば、中間線は、北緯27度東経122度を北限として、北緯23度東経118度を南限とし、まさに海峡の真ん中に引かれた一本の線であり、冷戦下での中台関係の固定化の象徴であり、朝鮮半島の38度線の中台関係版である。
海に守られた蒋介石・蒋経国親子の台湾統治は、1949年を起点とすれば蒋経国の死の1988年までおよそ40年間にわたった。
ある意味で、国民党もよく踏ん張った。大陸で蒋介石を悩ませた党派対立を清算。一旦は崩壊した国軍も、日本人軍事顧問団「白団」や米軍顧問団の支援を受けながら全面的に立て直し、質的には人民解放軍をしのぐ近代軍に仕立て直した。
経済建設にも1970年以降は力を入れ、輸出志向型で小回りの利く産業構造をつくり上げた。新興工業経済地域(NIES)の一翼として高い経済成長を成し遂げた。権威主義体制下の政府関与のもと工業化を成し遂げた台湾モデルは、世界から注目を受けることになった。
一方で、世界最長となる戒厳令を敷き、反共を口実に多くの無実の人々を投獄・処刑する白色テロの恐怖政治で台湾社会をコントロール下に置いて、米国政府もその蛮行を黙認した。反共の協力者・蒋介石が必要だったからだ。
過酷な統治が、台湾社会から恨みの目を向けられる国民党の「原罪」となって、今日、党勢を弱める一因になっている。歴史評価として、蒋家の統治をどう位置付けるか、極めて難しい問題だ。
仮定の話にはなるが、国民党がいなければ、台湾は共産化され、中華人民共和国の一部になり、チベットや新疆のような自治区扱いか、あるいは福建省の一部、もしくは台湾省として統治されていたかもしれない。戒厳令の下で多少の犠牲はあっても、共産化よりはましだった、という議論が成り立たないわけではない。一方で、蒋親子の下での民衆への加害は許せないと今も考えている人々が大勢いることも間違いない。
歴代総統への評価は、台湾史の複雑さを物語っている。台湾社会が各種世論調査でほぼ一致して最も高く評価する総統は、李登輝ではなく、蒋経国だ。
蒋経国が執政した1970~80年代は、台湾の高度経済成長期に当たり、いい思い出が多いからだと言われている。それ以前は蒋経国が秘密警察を指揮して弾圧の先頭に立ったことも台湾人は知りつつ、こうした見方をしているのである。
一方、蒋介石の評価は歴代総統の中で常に最下位だ。共産主義から台湾を守った功よりも、過酷な統治で多くの人命を奪った罪を、台湾の人々は記憶しているからだ。
李登輝の深謀遠慮
その蒋家統治の時代が終わりを告げた1980年代末、台湾に全く新しいタイプの指導者が現れた。李登輝である。台湾生まれで、日本教育を受け、京都帝国大学農学部で学んだ。蒋経国に農業専門家として登用され、後継者の座に上り詰めた。
当時、中台関係をめぐる世界の認識は大きく変わっていた。鄧小平の登場で改革開放を掲げた中国は国際社会に歓迎された。自分たちは中国の「本家」だと訴える台湾の主張は、むなしく響くだけだった。李登輝は、戒厳令の終了など蒋経国が始めた軌道修正をさらに加速させた。
大陸反攻を前提とする総動員体制を終わらせ、「中国」で選ばれた議員を多く含んだ国会を全面改選。「中国国家」の中身を少しずつ空洞化させ、実態に即した「台湾にある中華民国(中華民国在台湾)」につくり変えていく。「中国人」を育てるための歴史教育も、台湾中心に置き換えていった。
李登輝の歴史的功績は「台湾化と民主化」を無血で進めたことに尽きる。デモクラシーとナショナリズムの相性はいいが、その運用を誤れば、化学反応を起こして失敗国家に陥りかねない。李登輝はその両者を慎重かつ細心に進めていった。
中国の圧力をかわしながら、台湾は初の総統直接選挙を1996年に実施した。自らのリーダーを選ぶ選挙を重ねるほどに、台湾の人々は台湾の未来に関心を持ち、「台湾人」として選挙結果に自らの運命をコミットさせようとする。
台湾の人々は自分のアイデンティティーが台湾人であることを疑わなくなり、統一か独立かは選挙の争点ではなくなった。統一を掲げた政治家は台湾では生き残れなくなったからだ。これらは、李登輝の深謀遠慮が正しかったことを意味している。昨年、李登輝はその結果を見届けて世を去った。
理想と現実の狭間で
2000年の総統選挙で国民党が分裂し、漁夫の利を得た民進党・陳水扁(チェン・ショイピエン)が総統に当選し、台湾で初の政権交代が実現した。その陳水扁政権2期8年の後、08年に国民党が政権復帰し、馬英九(マー・インチウ)総統も2期8年を務めた。異なる政党、異なる総統の下の16年間、台湾は、対中強硬か、対中融和かの間を漂流した。
最大の原因は、経済的には対中依存が深まる一方で、「自分たちは台湾であって中国ではない」という台湾アイデンティティーが着実に浸透していったことだ。この状況については「結び付く経済、離れる心」「繁栄と自立のジレンマ」などの呼び方がある。精神的には中国からの自立を求めながら、繁栄の前提となる中国経済との関係は切ることができない。この矛盾に台湾が本格的に直面し始めたのは、この時期からである。
「自立」を志向する民進党の陳水扁総統は中国との対立を選んだが、当時まだ対中融和論が強かった米国から嫌われ、国内の支持も集まらなかった。最後は、自らの不正資金問題で牢につながれてしまった。台湾の歴代総統の中で最も失敗した総統は誰かと言われれば、多くの人は陳水扁を思い浮かべるに違いない。
その陳水扁を反面教師とした国民党の馬英九総統は、「繁栄優先」を掲げて中国との関係強化を目指した。中国は多くの台湾優遇策を繰り出し、ブッシュとオバマの両米政権からも支持された。
一見、全てがうまく進んでいるかのように見えたが、14年、台湾の若者たちが急激な対中接近に不満を爆発させた。国会に当たる立法院を長期占拠した「ひまわり学生運動」である。馬英九の対中融和路線はあえなく終わりを告げた。
16年の総統選で民進党が政権復帰となり、蔡英文総統は中国から距離を置く立場を取っている。ただ、陳水扁時代のように独立志向をアジテートするような言動は控えて、実務路線で台湾の自立を守っていく姿勢を崩していない。
一時は支持率が低迷した蔡英文総統だが、香港のデモをきっかけに世論の対中警戒意識が高まり、20年に高得票で再選を果たした。コロナ対策も現時点では一時の感染拡大を抑え込み、世界的な半導体需要もあって台湾経済の景気は底堅い。24年の蔡英文の総統任期満了後も、民進党の政権維持が視野に入っている。一方で、対中経済依存は依然高いままで、理想と現実の間で苦しむ台湾の矛盾はなお解決していない。
いま台湾をめぐる国際環境は激変の中にある。国際社会も次第に中国の台頭に警戒色を強め、米国はいったん緩めた台湾との軍事的連携を強めようとしている。台湾を、中国の軍事拡張を抑え込むための「不沈空母」として利用する構えで、新冷戦の下、台湾の戦略的価値は大きく上方修正されつつある。
一方、中国は国産空母を台湾海峡に遊弋(ゆうよく)させ、相手の対処能力を上回る「飽和攻撃」を仕掛けるに十分な大量のミサイルを対岸の福建省に配備している。台湾海峡の中間線を越える中国軍機が頻繁に現れ、歴史に刻まれた中間線不可侵のルールは過去のものになりつつある。
日米首脳会談、G7首脳会議などで相次いで「台湾海峡の平和と安定」がうたわれるのは、過去になかった前代未聞の現象である。それだけ台湾が危ない、ということにほかならない。歴史を通じて、台湾海峡の波が高くなるとき、台湾社会も大きく揺れる。台湾史は今、かつてない大波乱のページをつづろうとしているのかもしれない。
(筆者は元朝日新聞台北支局長。著書に『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』〔扶桑社〕『台湾とは何か』〔筑摩書房〕などがある)
https://mainichi.jp/articles/20211010/ddl/k01/040/011000c
ように見えたが、14年、台湾の若者たちが急激な対中接近に不満を爆発させた。国会に当たる立法院を長期占拠した「ひまわり学生運動」である。馬英九の対中融和路線はあえなく終わりを告げた。
16年の総統選で民進党が政権復帰となり、蔡英文総統は中国から距離を置く立場を取っている。ただ、陳水扁時代のように独立志向をアジテートするような言動は控えて、実務路線で台湾の自立を守っていく姿勢を崩していない。
一時は支持率が低迷した蔡英文総統だが、香港のデモをきっかけに世論の対中警戒意識が高まり、20年に高得票で再選を果たした。コロナ対策も現時点では一時の感染拡大を抑え込み、世界的な半導体需要もあって台湾経済の景気は底堅い。24年の蔡英文の総統任期満了後も、民進党の政権維持が視野に入っている。一方で、対中経済依存は依然高いままで、理想と現実の間で苦しむ台湾の矛盾はなお解決していない。
いま台湾をめぐる国際環境は激変の中にある。国際社会も次第に中国の台頭に警戒色を強め、米国はいったん緩めた台湾との軍事的連携を強めようとしている。台湾を、中国の軍事拡張を抑え込むための「不沈空母」として利用する構えで、新冷戦の下、台湾の戦略的価値は大きく上方修正されつつある。
一方、中国は国産空母を台湾海峡に遊弋(ゆうよく)させ、相手の対処能力を上回る「飽和攻撃」を仕掛けるに十分な大量のミサイルを対岸の福建省に配備している。台湾海峡の中間線を越える中国軍機が頻繁に現れ、歴史に刻まれた中間線不可侵のルールは過去のものになりつつある。
日米首脳会談、G7首脳会議などで相次いで「台湾海峡の平和と安定」がうたわれるのは、過去になかった前代未聞の現象である。それだけ台湾が危ない、ということにほかならない。歴史を通じて、台湾海峡の波が高くなるとき、台湾社会も大きく揺れる。台湾史は今、かつてない大波乱のページをつづろうとしているのかもしれない。
(筆者は元朝日新聞台北支局長。著書に『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』〔扶桑社〕『台湾とは何か』〔筑摩書房〕などがある)
https://mainichi.jp/articles/20211010/ddl/k01/040/011000c

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【インタビュー】映画「カナルタ 螺旋状の夢」 太田光海監督(千葉市緑区) 世界は未知に溢れている

2021-10-10 | 先住民族関連
千葉日報 2021年10月9日 14:14 | 無料公開
インタビューに応じた太田光海監督(写真:横山純)
 エクアドル南部アマゾン熱帯雨林に住む先住民、シュアール族の暮らしを追ったドキュメンタリー映画「カナルタ 螺旋状の夢」が公開中だ。現地に赴き約1年間の調査と滞在撮影を行ったのは、本作がデビュー作となる、千葉市緑区在住の太田光海監督(32)。驚きの連続だったという先住民との生活や映画製作のきっかけについて語ってもらった。(溝口文)
 -作品の着想は2011年に発生した東日本大震災と福島第一原発事故とのこと。
 「発生直後にということではなく、震災に衝撃を受け、3年くらいかかってアマゾン熱帯雨林で映像を撮るというプランが浮かんだ。当時はパリにいて、発生直後はひたすら全メディアがトップ扱い。ものすごい衝撃で、日本だけの問題ではなかった」
 「そもそもなぜこれほどエネルギーを必要としているのか。電気というのは人類の最初からあったわけではないし、自分たちがこの生活を維持しなければならない理由はない。本当に必要なものとそうでないものを考えたときに、自分とは全く違う、大自然の中で自給自足をしている人たちが、自然に対してどのような態度で接しているのかということを知りたくなった。そこでアマゾンの森に住む先住民にたどり着いた。ひどい汚染を受けた日本と、失われつつあるアマゾンの森に住む先住民、もしかしたら共有できる感情があるのかもしれない、と」
 -現地で一番衝撃を受けたことは。
 「シュアール族の森に対する知識。種の多様性があるアマゾンの木、虫、動物、全部の名前を覚えている。アマゾンに存在している植物はいまだ科学的に調査されていないものもたくさんあるが、彼らは自分たちの言葉でほぼ把握している。科学で解明されている部分とされていない部分の間にはすごくギャップがあって、彼らはその先に行っている。それを体感したときに世界はなんて未知に溢(あふ)れているんだと思った」
 -作中では覚醒植物を使用して「ヴィジョン」を見るシーンがある。あの行為はシュアール族にとってどのようなものなのか。
 「映画には『アヤワスカ』などが出てくるが、あれを飲むと、いわゆる幻覚作用を引き起こす。ただ、彼らはそれを植物が与えてくれるリアルなヴィジョンとして認識しており、自分の人生を考える時間と捉えている」
 -神の啓示のような認識なのか。
 「受動的にお告げを受け取るというよりは、自分の意識で強く念じたり考えたりすることで、見えるヴィジョンが自分の意志通りになることがある。啓示というよりは、植物との対決のように捉えているかもしれない。劇中でも吐いてしまうシーンがあるが、気を許すと全てを持って行かれてしまうようなしんどい体験で、彼らにとっては教育の一部」
 「快楽はなく、依存性もない。実際にアマゾンで行われているアヤワスカを使った儀式というのは、いわゆる快楽を求めるドラッグカルチャーとは全く違う形で行われている」
 -タイトルにもある「カナルタ」の意味は。
 「寝る前に使う言葉で『おやすみなさい』という意味。同時に『良い夢を見てくれ』でもあるし、覚醒植物でヴィジョンを見るときにも『良いヴィジョンを見ろよ』という意味でも使われる」
 -シュアール族にとって自然とは何か。
 「自分と一体化しているものだと思う。これがなかったら自分たちは死ぬという危機感を常に抱えて生きている。劇中でもセバスティアンが『森を破壊するのは自分を破壊するのと同じ』と言っている。あれは誇張でも何でもなく本当にそういう状況下で彼らは生きているということ」
 -読者へのメッセージを。
 「世界には色んな生き方をしている人たちがいて、一見それは相いれないように見えるかもしれない。しかし、生身の人間としての姿に向き合ってみると意外とそう遠くない存在なのかもしれない。自分が持っている自然や環境とのつながりにちょっとでも思いをはせていただけたらうれしい」
    ◇   ◇    
 【作品データ】監督・撮影・編集・録音=太田光海。上映時間=121分。配給=トケスタジオ。シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開。
 【あらすじ】セバスティアンとパストーラは、エクアドル南部のアマゾン熱帯雨林に住むシュアール族。かつて首狩り族として恐れられたシュアール族は、スペインによる植民地化後も武力征服されたことのない民族として知られている。口噛み酒を飲み交わしながら森に分け入り、生活の糧を得る一方で、「アヤワスカ」をはじめとする覚醒植物がもたらす「ヴィジョン」や自らが発見した薬草によって世界を把握していく。森と共に生きる彼らにある日、試練が訪れる…。
https://www.chibanippo.co.jp/news/local/838084

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヌ工芸品など展示販売 高島屋日本橋店 18日まで

2021-10-10 | アイヌ民族関連
東京新聞2021/10/09 07:11
アイヌ工芸品など展示販売 高島屋日本橋店 18日まで(東京新聞)
 海鮮弁当やジャガイモ料理、ラーメンなど約60店が並ぶ物産展「大北海道展」が18日まで、中央区の高島屋日本橋店で開かれている。初めてアイヌ民族の工芸品を展示販売するコーナーを開設。独特の魔よけの文様が描かれた雑貨や木彫が来場者の関心を集めている。
 アイヌ工芸品は、道南部の平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)で継がれてきた文様入りの靴べらや、おぼん、法被など約50種類。会場では9日まで、木の皮を加工し防水性に優れた素材のアットゥシ織りを職人の柴田幸宏さんが実演している=写真。9日午前11時と午後2時からは、アイヌ文化の周知に取り組む慶応大4年の関根摩耶さんのトークイベントもある。
 物産展は午前10時半から午後7時半(最終日は午後6時まで)。(井上靖史)
https://news.goo.ne.jp/article/tokyo/region/tokyo-135807.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする