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香山リカ、小林よしのり氏からの「3つの質問と1つの要望」に回答【アイヌ民族否定問題】

2015-04-05 | アイヌ民族関連
日刊SPA!-2015.04.04

 3月21日にこの場を借りて、拙文「香山リカ、『アイヌ否定問題』で小林よしのり氏に反論」(http://nikkan-spa.jp/819659)を掲載したところ、早速、小林よしのり氏からの反論が編集部に届き、27日に「香山リカのアイヌ問題『反論』は無意味な駄文【小林よしのり氏寄稿】」(http://nikkan-spa.jp/824201)として掲載されました。小林氏にはご多忙中にもかかわらず迅速に反応いただいたことに、お礼を申し上げます。
 そこには私への反論とともに、いくつかの質問があげられていましたので、今回はそれにお答えさせていただきたいと思います。
◆前回原稿のタイトルについて
 冒頭に、「まず、タイトルがおかしい」とあります。小林氏の文章から引用させていただきます。
「わしは『アイヌ否定』などしていない。北海道島を中心に過去『アイヌ』と呼ばれる文化集団が存在したことも、その子孫が現在も存在していることも否定していない。」
 これはおっしゃる通りです。タイトルは編集部につけてもらったのですが、「香山リカ、『アイヌ民族否定問題』で小林よしのり氏に反論」とするよう、きちんと確認すべきでした。
 ちなみに、「アイヌ民族問題」「アイヌ問題」も適切ではありません。アイヌ民族が何か問題を起こしたのではなくて、「アイヌ民族をめぐる問題」で議論しているのはあくまでマジョリティ側だからです。とはいえ、私もつい不用意に「いま『アイヌ問題』にかかわっていて」などと口にしてしまいがちなので、せめて「アイヌに関する問題」、それもむずかしければ「アイヌの問題」と言うように心したいです。
◆民族とは「つくられるもの」、だから「サヨク的」に見える?
 小林氏はこの「タイトル問題(これはこの言い方でOK)」のすぐ後に、こう言います。
「ただし、アイヌが歴史的に一民族を形成したこともなく、現在の日本に『アイヌ民族』と呼べる民族が存在しているわけでもないと言っているのだ。」
 これが、1月の対談から今に至るまで、結局のところいちばんの核心部分です。
 というより、昨年8月「アイヌ民族はもういない」と金子快之札幌市議がツイートしてから、この民族否定問題が再燃したわけですが、小林氏と金子市議はあのときも今も1ミリも考えが変わっていないのだ、ということがわかりました。
 小林氏は、『わしズム』vol.28で、こう「民族」を定義します。
「ネーション・ステート(nation state)のnationは『民族』である。stateは『国家』である。/国家を形成する『言語・文化・歴史』のポテンシャルを持っている集団を『民族』というのであって、それ以外はethnic『種族・部族』である。」(P19)
 でも小林さん、これも繰り返しになりますが、時代は変わったのです。失礼ですが、この定義はかなり古いものと言わなくてはなりません。
 塩川伸明氏の『民族とネイション―ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008)には、たしかにこんなことが書かれています。「エスニシティを基盤とし、『われわれ』が一つのないしそれに準じる政治的単位をもつべきだという意識が広まったとき、その集団のことを『民族』と呼ぶことにする。」(P6)
 もしかすると小林氏は、この考えにあてはめて「アイヌは種族・部族(エスニシティ)」ととらえようとしているのかもしれません。
 実は、塩川氏の前掲書では、先の定義のすぐ後に「区切り方の難しさ―恣意性と固定性」という項が続き、「エスニシティも民族も、客観的に確定しているものではなく、さまざまな区切り方がありうる」(P9)と記されています。
「現実問題として、どの集団を『エスニシティ』と呼び『民族』と呼ぶかは、しばしば政治的論争の対象となっている。」(P10)
 そして、「同じ言語を持つ共有する集団が『民族』」「宗教や文化を共有するのが『民族』」とする考え方や、その言語、宗教、エスニック文化にしても、「長い時間的経過の中で変容することがあるが、それを『強制的な同化』とみなすか『自然な過程』とみなすかも、見る人の観点によって異なりうる」(P12)とひとつの観点からの定義の限界を示し、こう言うのです。
「いずれにせよ、人間集団の区切り方は、抽象的に考えれば、さまざまな括り方が可能であって、どれか一つだけを『正しい』と決めることはできない。」(P12)
 なんだ、結局「むずかしい」と言うだけでその先がないじゃないか、と言わないでください。塩川氏は、最近の議論を紹介します。
「ここ二、三十年ほどのうちに研究者たちのあいだで優勢になってきた観点は、民族とは『つくられるもの』であり、近代社会固有の新しい現象だ、というものである。ある意味では、これが大まかなコンセンサスとなっているようにも見える。」(P28)
 つまり最近の考えでは、「民族」とは決して絶対的・固定的なものではなく、植民地化や強制的な同化、土地や職業、言語などの収奪といった圧力の下ではじめて芽生える、きわめて政治的・人為的な構築物だといえるのです。
 ただ、そのことをすぐに理解しろと言っても無理ということは塩川氏も知っていて、「研究者以外の人たちの日常意識とか、現に種々の民族的な運動に携わっている人たちのあいだでは、そのような観点はあまり広くは受け入れられていないという現実がある」(P28)と言っています。
 そして、今回「なるほど」と自分なりに腑に落ちたのですが、このように最近の「民族」はそれじたいとても政治的な存在(近代社会の階級的な関係、権力関係の中で生まれ落ちた存在ということ)だからこそ、どうしても「サヨク的」と見えてしまうのではないでしょうか。現在、「民族を語る」のは必然的に近代国家による支配だとか収奪といった「政治を語る」ことになるので、世界中の民族問題の背景にいろいろな人たちが左翼運動だとか国家の分断だとかのにおいを感じるのは、むしろ必然的なのかもしれません。
◆「定義がないという定義」と、現実的運用のための「大まかな定義」
 とはいえ、このように「民族とは近代社会になって人為的に作られた現象」と言うだけではあまりに具体性に欠けているので、必要に応じてより現実的に「本人の帰属意識や自己認識」「外部からもわかる資料による確認や共同体からの承認」という主観的、客観的基準を組み合わせて、「ウチの場合はこれが『民族』」と大まかな定義を決めることにしているのです。
 アイヌの場合は、こういった認定が必要になるのはいろいろな手続きのためにアイヌ協会の会員になるときであり、たとえば客観的な資料として戸籍の提出が義務づけられていますが、協会員資格がそのまま正確なアイヌ民族の定義とはなりません。「定義がない!」と否定論者は言いますが、「民族」よりさらに狭い意味の「協会認定資格」は述べられるものの、いまの世界的な考えでは「民族」は「ひとつ○○、ふたつ○○…」と箇条書きに定義を述べられるものではないのです。
 小林氏は、「それはインチキだ」と言うでしょう。それに対して、アイヌ協会は協会員認定に際し、自己申告をもとに戸籍などなるべく客観的な資料も用いて厳正に審査しており、決して一部の人が言うように「電話するだけで誰でもすぐアイヌ」などということはありえない、と聞きました。
 また、もちろんこのややわかりにくい「定義がないという定義」が今後も唯一無二とは言いません。もしかすると何十年かにはまた「民族の定義はこれとこれを共有すること」といった厳正な定義が優勢になるかもしれません。とはいえ、今の時点では先の「民族は近代社会の政治的な産物、それじたいの厳密な定義はない」を採択するか、それじゃわかりにくいのでアイヌ協会が用いているような主観的・客観的条件から認定するか、いずれかなのではないかと思います。
⇒小林よしのり氏からの「3つの質問と1つの要望」に答えるvol.2(http://nikkan-spa.jp/828521)に続く
文/香山リカ
http://nikkan-spa.jp/828512

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<4>大自然の美術館、カカドゥ国立公園

2015-04-05 | 先住民族関連
朝日新聞 2015年4月3日
 雄大な自然とアボリジニの文化が息づく地・ノーザンテリトリー。多彩な顔を持つ地域の魅力を5回にわたってお届けするシリーズ第4回は、カカドゥ国立公園にアートを訪ねる旅。美しい湿原をボートで訪ねるイエローウォータークルーズも楽しみのひとつです。
フォトギャラリーはこちら
アボリジニアートを訪ねて
 ノーザンテリトリーを旅するうちに、先住民族アボリジニのことをもっと知りたくなってきた。何万年も前からこの地に暮らし、独自の文化を伝えてきたアボリジニ。伝統文化のひとつ・壁画(ロックアート)は、カカドゥ国立公園と、その東に広がるアーネムランドに特に多く残されると聞き、さっそく行ってみることにした。
 まず訪れたのは、アーネムランドに隣接する岩場・ウビルー。岩に沿った遊歩道を歩くと、次々とロックアートが出現する。
 カメ、トカゲ、バラマンディ(魚)……。今もこの地に、あるいはかつて生息していた動物が岩に刻まれている。輪郭線の中に描かれた多数の線は、内臓や骨を表す。「X線画法」というアボリジニ独特の手法で、文字を持たない彼らは、この図で生き物の食べられる部分を伝えたのだとも言われる。
 ほかにも伝説に登場する猟師マブユや虹の蛇、アボリジニたちに命令する白人など、モチーフは多種多彩。2万年以上前の古いものから、1980年代に描かれたものまで、ウビルーの岩は長い年月にわたってアボリジニの思いを受け止め、生きる知恵を伝えてきたのだ。
 散策を終え岩場の上まで登ると、眼下に広がるのは湿地、岩場、サバンナが続く、広大なアーネムランドだ。アーネムランドはアボリジニの居住地かつ聖地で、伝統的な暮らしが営まれ、外国人は入域許可がないと入れない。伝統楽器「ディジュリドゥ」もアーネムランドで生まれたという。いつか訪れて、アボリジニの魂に触れてみたい。沁みるような美しい夕景を眺めながら、再訪を願った。
豊かな物語が描かれた、ノーランジーロック
 威嚇するように手足を広げた3つの姿が岩に刻まれている。人とも精霊とも見えるこの線画は、雷雨を操作する雷男ナマルゴンと妻バラギンジ、天地創造神話に登場するナモンジョックを描いたもの。赤い岩に浮かび上がる自由で伸びやかな描線は、見飽きることがない。
 ここはノーランジーロック。ウビルーと並ぶ、ロックアートの宝庫だ。有名なナマルゴンの絵のほかにも、狩りの様子や動物が描かれ、見ごたえ十分。アボリジニは絵を通じて私たちが想像する以上に豊かな感情や情報をやりとりしていたのだろう。
生命の楽園、イエローウォータークルーズへ
 鮮やかなピンクのスイレンが咲く静かな湿原を、ボートはゆったり進む。日差しが水面に反射してきらきら輝き、たっぷりと水を含んだ草木の緑はみずみずしい。周囲を行きかうのは、カワセミやワシ、ペリカンなどの鳥。蓮の葉の上をちょこちょこ歩いているのは、トサカレンカクという鳥だそう。
 なんだか、現実離れした美しい風景だ。
 イエローウォータークルーズは、カカドゥ国立公園で特に人気があるアクティビティー。広大な湿原には1600以上の植物、200以上の鳥類が生息するのだという。
「クロコダイル!」
 ガイドの声に、乗客から歓声があがった。体長3メートルくらいありそうな、大きなワニが何匹も岸辺でくつろいでいる。動物は朝か夕方が活発、と聞いて夕方の便にしたのは正解だったようだ。
 夢中でシャッターを切りながら、カカドゥやその他の場所で見てきたアボリジニの絵を思い出した。描かれていたたくさんの動物、伸びやかな線、強い色。すべての要素は、今、目の前に広がる生命の楽園に見つけられる。アボリジニアートは、ノーザンテリトリーの自然が生み、何万年もの時間をかけて育んできたものなのだ。
>>ノーザンテリトリーの特集はこちらから
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あなたが見たこともない絶景が、ここにある。
アボリジニの聖地である世界遺産「ウルル」で満天の星空のもと楽しむディナーや、壮大な自然景観と野生の動植物との遭遇体験「カカドゥ」と、そのゲートウェイで世界中の若者が集うトロピカルリゾート「ダーウィン」など――。ノーザンテリトリーには、想像もつかないほどの絶景と、大自然を肌で感じられるアトラクションがいっぱい。壮大なスケールのノーザンテリトリーを満喫できるツアーを多数ご用意いたしました。
WEBサイトhttp://www.asahi.com/and_w/ad/nt2015/travelagent/をご覧ください。
http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2015033109211.html

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