琉球新報 2011年12月23日
1871年、台湾南部で、宮古島住民ら54人が先住民に殺害された「牡丹社事件」に関し、台湾現地の公園内に設置された事件の経緯を記した説明板の内容の一部に、不確かな部分があるとして、宮古島住民の遺族が同部分の削除か説明板の撤去を求めている。指摘されているのは、船が遭難したため台湾に上陸した宮古島住民66人の記述で「武器を持った66人の成人男子がにやってきた」と書かれている部分。遺族は「伝聞や書物にも『武器を持った』と書かれたものは見たことない。確認されていないことが事実として表記されると歴史が正しく伝えられない」と困惑している。
指摘した遺族は宮古島の有力者だった野原茶武(ちゃむ)さん(享年31)の子孫、耕栄さん(63)=浦添市。事件をテーマにして11月26日に行われた国際学術会議(主催・台湾研究基金会)に遺族代表として出席するため、台湾を訪れた際、同公園で確認した。説明板の内容は台湾の研究者が中心になってまとめたもので、今年になって建てられたという。
説明板には、「武器を持った66人」がにやってきたことは「への圧力と脅威だった」とも記述。説明板の下方には、武器のような物を持った宮古島住民の絵も描かれている。
野原さんは「被害者なのに、正当防衛で殺害されたとも受け取られかねない重大な事項で、遺族としては見逃せない。十分な実証があれば別だが、不確かな記述を事実として書かれるのはおかしい。早急に削除か撤去をしてほしい」と話している。
同学術会議にも出席した、研究者の一人、又吉盛清沖縄大学客員教授は「宮古島住民が武器を持っていたことを立証できる文献はないが、武器に転化できる道具を携帯していたかどうかも含めまだ十分な研究、調査は行われていない」と指摘。その上で「どのような経緯や根拠で書かれたか、執筆者や、地元の長老への聞き取り調査を行い、沖縄側、台湾側の資料をつき合わせて確認する必要がある」と説明。近く台湾へ行き調査した上で対応を検討する意向を示している。
(宮城久緒)
<用語>牡丹社事件
琉球王府時代の1871年、宮古船が首里王府に年貢を納めた帰り、台風で台湾南部の八瑶湾に漂着。乗員69人のうち3人は水死。残り66人は先住民族、パイワン族の集落、牡丹社に助けを求めたが54人が殺害された。逃げて生き残った12人が助けられ、中国の福建省を経由し那覇に帰った。この事件がきっかけとなり明治政府は74年に「台湾出兵」を行った。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185516-storytopic-1.html
1871年、台湾南部で、宮古島住民ら54人が先住民に殺害された「牡丹社事件」に関し、台湾現地の公園内に設置された事件の経緯を記した説明板の内容の一部に、不確かな部分があるとして、宮古島住民の遺族が同部分の削除か説明板の撤去を求めている。指摘されているのは、船が遭難したため台湾に上陸した宮古島住民66人の記述で「武器を持った66人の成人男子がにやってきた」と書かれている部分。遺族は「伝聞や書物にも『武器を持った』と書かれたものは見たことない。確認されていないことが事実として表記されると歴史が正しく伝えられない」と困惑している。
指摘した遺族は宮古島の有力者だった野原茶武(ちゃむ)さん(享年31)の子孫、耕栄さん(63)=浦添市。事件をテーマにして11月26日に行われた国際学術会議(主催・台湾研究基金会)に遺族代表として出席するため、台湾を訪れた際、同公園で確認した。説明板の内容は台湾の研究者が中心になってまとめたもので、今年になって建てられたという。
説明板には、「武器を持った66人」がにやってきたことは「への圧力と脅威だった」とも記述。説明板の下方には、武器のような物を持った宮古島住民の絵も描かれている。
野原さんは「被害者なのに、正当防衛で殺害されたとも受け取られかねない重大な事項で、遺族としては見逃せない。十分な実証があれば別だが、不確かな記述を事実として書かれるのはおかしい。早急に削除か撤去をしてほしい」と話している。
同学術会議にも出席した、研究者の一人、又吉盛清沖縄大学客員教授は「宮古島住民が武器を持っていたことを立証できる文献はないが、武器に転化できる道具を携帯していたかどうかも含めまだ十分な研究、調査は行われていない」と指摘。その上で「どのような経緯や根拠で書かれたか、執筆者や、地元の長老への聞き取り調査を行い、沖縄側、台湾側の資料をつき合わせて確認する必要がある」と説明。近く台湾へ行き調査した上で対応を検討する意向を示している。
(宮城久緒)
<用語>牡丹社事件
琉球王府時代の1871年、宮古船が首里王府に年貢を納めた帰り、台風で台湾南部の八瑶湾に漂着。乗員69人のうち3人は水死。残り66人は先住民族、パイワン族の集落、牡丹社に助けを求めたが54人が殺害された。逃げて生き残った12人が助けられ、中国の福建省を経由し那覇に帰った。この事件がきっかけとなり明治政府は74年に「台湾出兵」を行った。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185516-storytopic-1.html