朝日新聞 2011年12月08日
■戦地では平等だった
■「止めるのは教育」
「戦争というのはな、どっちが先に殺すかだ。まごまごしてたら、こっちがやられてしまうんだ」
この夏から冬にかけて、アイヌの長老(エカシ)、根本与三郎さん(92)=白糠町在住=に中国戦線での体験を聞いた。
町内で「アイヌマチ」と呼ばれていた100戸以上の大きな集落(コタン)に生まれた。5歳のとき、子どものいない和人(シサム)の農家の養子に入った。
1938年3月、満20歳の徴兵検査で甲種合格し、旭川の歩兵連隊に入隊。1年の教育の後、39年3月、夏服を着せられて大阪港まで移動した。そこから輸送船で中国・広東省スワトーへ渡った。
□ ■ □
「上陸したのは夜間だったが、いきなり銃撃戦に迎えられた。頭上や耳元を弾がかすめる音が続き、砂の熱さは軍靴の底からでも足裏に伝わってきた」。その後6年間、中国南部の戦線を転戦した。
軍隊の中でもアイヌは差別されたのか――。根本さんは小学校時代の陰湿ないじめや内地での差別を思い出しながら、「戦場ではよほど平等だった」と振り返る。それだけに「良き皇軍兵士」になるべく努力し、上等兵から下士官への昇進も早かったという。
浙江省杭州付近に駐屯して間もなくの41年12月8日、対米英開戦の知らせを無線で聞いた。50人ほどの小隊長を任されていた。「天皇陛下に命を捧げて厳しい戦いを勝ち抜かねば」と決意する一方、「部下を一人も失いたくないとの気持ちでいっぱいだった」と明かす。
その後は香港攻略戦にも参加、中国共産党の八路軍を「討伐」するために数百キロを行軍。国民党軍の拠点だった重慶近郊にも侵攻した。前線での新兵教育とともに「斥候」も担った。短銃だけを懐に数人で共産党支配下の村に入り、敵の情報を収集した。八路軍の斥候と遭遇して3人を射殺したが、抵抗した1人と格闘になり、銃身で殴られて肋骨(ろっこつ)3本が折れた。今もその傷は残る。
村人が逃げた後の集落に入り、食料を「徴発」した。それでも飢えに耐えられなくなると、イノシシを捕って食べたり、最後はヘビやカエルまで口にしたりした。
敗戦を広州近郊で迎えたときには栄養失調でガリガリになっていた。国共内戦再燃の危機の中、帰国できたのは46年4月だった。
□ ■ □
戦後は白糠町和天別の開拓地に入植、畜産農家として農協役員も務めた。一方で、アイヌ民族の熊撃ちや伝統漁法の伝承者としての役割を果たしてきた。
「戦争になったらもう戻れん」と繰り返す根本さんに、「そうなる前にどうしたら止められるか?」を尋ねた。
「やっぱり教育が大事じゃろうな。わしらの時代、男の子は皆大きくなったら兵隊になるって言ってたからね」
(本田雅和)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000951112080001
■戦地では平等だった
■「止めるのは教育」
「戦争というのはな、どっちが先に殺すかだ。まごまごしてたら、こっちがやられてしまうんだ」
この夏から冬にかけて、アイヌの長老(エカシ)、根本与三郎さん(92)=白糠町在住=に中国戦線での体験を聞いた。
町内で「アイヌマチ」と呼ばれていた100戸以上の大きな集落(コタン)に生まれた。5歳のとき、子どものいない和人(シサム)の農家の養子に入った。
1938年3月、満20歳の徴兵検査で甲種合格し、旭川の歩兵連隊に入隊。1年の教育の後、39年3月、夏服を着せられて大阪港まで移動した。そこから輸送船で中国・広東省スワトーへ渡った。
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「上陸したのは夜間だったが、いきなり銃撃戦に迎えられた。頭上や耳元を弾がかすめる音が続き、砂の熱さは軍靴の底からでも足裏に伝わってきた」。その後6年間、中国南部の戦線を転戦した。
軍隊の中でもアイヌは差別されたのか――。根本さんは小学校時代の陰湿ないじめや内地での差別を思い出しながら、「戦場ではよほど平等だった」と振り返る。それだけに「良き皇軍兵士」になるべく努力し、上等兵から下士官への昇進も早かったという。
浙江省杭州付近に駐屯して間もなくの41年12月8日、対米英開戦の知らせを無線で聞いた。50人ほどの小隊長を任されていた。「天皇陛下に命を捧げて厳しい戦いを勝ち抜かねば」と決意する一方、「部下を一人も失いたくないとの気持ちでいっぱいだった」と明かす。
その後は香港攻略戦にも参加、中国共産党の八路軍を「討伐」するために数百キロを行軍。国民党軍の拠点だった重慶近郊にも侵攻した。前線での新兵教育とともに「斥候」も担った。短銃だけを懐に数人で共産党支配下の村に入り、敵の情報を収集した。八路軍の斥候と遭遇して3人を射殺したが、抵抗した1人と格闘になり、銃身で殴られて肋骨(ろっこつ)3本が折れた。今もその傷は残る。
村人が逃げた後の集落に入り、食料を「徴発」した。それでも飢えに耐えられなくなると、イノシシを捕って食べたり、最後はヘビやカエルまで口にしたりした。
敗戦を広州近郊で迎えたときには栄養失調でガリガリになっていた。国共内戦再燃の危機の中、帰国できたのは46年4月だった。
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戦後は白糠町和天別の開拓地に入植、畜産農家として農協役員も務めた。一方で、アイヌ民族の熊撃ちや伝統漁法の伝承者としての役割を果たしてきた。
「戦争になったらもう戻れん」と繰り返す根本さんに、「そうなる前にどうしたら止められるか?」を尋ねた。
「やっぱり教育が大事じゃろうな。わしらの時代、男の子は皆大きくなったら兵隊になるって言ってたからね」
(本田雅和)
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000951112080001