ようこそ石の華へ

鉱物の部屋へのいざない

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石の美

2014-12-16 14:33:41 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「石の美」です。

ここ数日、「石の美」とは何か?と考えていました。先のブログ「美術」では人がつくる「美術」の事を書きました。「美術」とは人が何らかの意図を持ってつくるものです。それに対して「石の美」とは何かと言うと、よくわからなくなってしまいます。石は自然がつくったものであり、そこには意図はありません。そうであるにもかかわらず、美しいと思う石は存在します。美しいと思うのはこちら側の人の勝手な思い込みなのかもしれませんが、「石の美」は確かに存在しております。よく考えてみると「石の美」とは石そのものとは無関係にそれを美しいと思う人の思いの中にあるものかも知れません。

面白いのは同じ石を美しいと思う複数の人がいる事です。人の美意識は人様々だと思いますが、色んな好みがある中で同じ石を美しいと思うという共通性を見出す事があります。石に興味のない人は別として、石好きさんには何か共通する美意識のようなものがあるようです。「石の美」とは本来そういうものなのかも知れません。

趣味としての石のコレクションをしていた頃はそのような「石の美」の事などお構いなしに自分の気に入ったものばかり集めていました。「石の美」について考えた事もなかったと思います。ただ、「石の華」の商品は「石の美」だと思っておりますので、「石の美」とは何か?という事を考えざるをえなくなりました。。石の店をやり始めて、妻の影響もあって、売れる石を仕入れなくてはなりません。最近では、正直、私よりも妻の方が仕入れ上手だと思います。石好きさんの好みを把握し、「石の美」を考える必要性を感じております。

商売としての「石の美」は今後も考え続けなければならないのですが、それとは別の意味での「石の美」の存在も忘れてはなりません。それは何かと言うと、一言で言うと、それは「無用の美」と言えるような気がします。

それは民芸運動のような「用の美」の事ではありません。また、赤瀬川源平さんが唱えた「トマソン」のような「無用の美」の事でもありません。そのような「用の美」も「無用の美」もそれぞれに興味深いものだと思いますが、ここでいう「無用の美」とは、それらとは全く違う次元にある「美」の事です。「石の美」における「無用の美」とは実用性のない「美」そのものの事です。ただ、実用性のないと言っても決してネガティブなものではありません。それは「美」そのものというポジティブなものであって、実用とは別次元に存在するものです。

例えば、ペーパーウェイト。私の自宅には様々なペーパーウェイトがあり、私はペーパーウェイト好きでもあるのですが、それはペーパーウェイトとしての実用性を求めているのではなく、それらの色や形状や素材感に美を感じているのです。本来、自宅には多くのペーパーウェイトなどは無用です。「石の美」も同じです。

「石の美」とはそのような「無用の美」なのだろうと思います。そのような「無用な美」は多すぎると邪魔なものになるかも知れません。多くのコレクターの悩みはそれらを置いておくスペースの問題だと思います。それらの主にとってはそれらは大切な「無用の美」なのかも知れませんが、同居者や場合によっては本人にとっても「無用の美」は生活空間を占領してしまう厄介なものになってしまう危険性もあるようです。

石好きさんにとっては「石の美」とは、なくてはならない貴重なものなのですが、それは同時に「無用の美」でもあるのです。否、「無用の美」だからこそなおさら価値のある大切なものなのだろうと思います。



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美術

2014-12-11 18:22:15 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「美術」です。このブログでは過去に何度も登場している言葉だと思いますが、gooブログのブログ内検索ではすぐに件数がわかりません。(gooブログに引っ越してから、なぜか?検索からアクセスして来る件数が激減したような気がしております。理由はわかりません。)

さて、「美術」です。以前から私は「美術」は嫌いな方ではないので、「美術」にもそれなりに興味を持っていました。石や鉱物結晶に「美術」的な類似性を見出すのもそのような性格からだと思います。

「美術」と言えば、北國新聞のCMで「石川県は美術、すごいですねー!」というフレーズが記憶に残っております。それは戦後直後(昭和20年10月)に始まった「現代美術展」の事を言っているようなのですが、実際、金沢に引っ越してから、「美術」に関してはプロからアマチュア、さらに学生や高校・中学・小学校の生徒の作品なども見かけるケースが多いように思えます。

店の近くのもてなしドーム地下広場などでは各種の絵画コンクールの作品展や高校の美術部の生徒さん達の作品展が行われる事が多いと思います。あちこちの路面店ではショーウィンドウに美術作品を展示しているところもありますし、銀行などの店内にも美術作品を飾っているケースもあります。「美術」は日常的に溢れています。

また、今や金沢の代表的な観光地となった金沢21世紀美術館や石川県立美術館の存在も忘れてはなりません。金沢には現代アートから伝統的な工芸まで新旧、幅広い時代の「美術」が併存しております。

そうそう、「石の華」の入っているポルテ金沢の1階には先月から開放的なギャラリーも出来て、既に個展ができるスペースとして解放されています。ただし、そのスペースは以前あった銘店街というショップの跡地で、次のテナントが決まるまでの仮のスペースとなっております。そのスペースを使って今日は「石の華」主催の臨時のアクセサリー教室を実施しました。

そう言えば、一昨日に母の葬儀で小松加賀斎場「さざなみ」に行ったのですが、そのハイクラスな建物と共に驚いたのがそこで飾られていた石川の美術界を牽引する作家らの美術品の数々でした。それらの作品は寄贈品らしいのですが、中には人間国宝の方々の作品もあったりして、石川県を代表する知られざるもうひとつの美術館と言っても過言ではありません。そこは「美術」好きにはおすすめの隠れたスペースだと思います。

私の鉱物を見る視点は天然資源とか工業などの産業的な側面を見ているのではなく、どちらかと言うと鉱物を「美術」的なものとして捉えています。鉱物を科学的な関心と美学的な関心とを兼ね揃えて捉えています。そういう意味で「美術」とは近い関係性があると思っております。

美大の教授や学生に鉱物好きの方がいる、と言う事は至極自然な事だと思います。そこには同じような価値観があるのだろうと思います。




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母の死

2014-12-08 12:41:06 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「母の死」です。何度も書ける話題ではありません。

先週の土曜日の夕方、PHSに母が入所している施設から電話が入ってきました。母の容体が悪くなったので至急来て下さい、という内容でした。私は妻に閉店までの店番を任せ、急いで小松の施設に向かいました。折しも今冬最大級の寒波襲来で暴風雪の中、急遽クルマで向かいました。夕方の時間だったのと天候の為、いつもの倍位の時間がかかって施設に到着しました。が、着いた時は既に時遅く、既に母は亡くなっていました。

その場で施設長の死亡診断が行われ死亡診断書が発行されました。当初、母の目は半分開いていましたので、本当に死亡したとは思えませんでした。その日はお風呂にも入ったたし、昼食もしっかり食べたそうなのですが、夕食時に急変してしまったようです。少し遅れて到着した兄に「母の死」を伝え、相談してすぐに葬儀社に連絡して、お迎えの到着を待ちました。

施設ではすぐに荷物をまとめて下さいました。思えば、母はその施設のほぼオープン時に入所しましたので、開所から約14年間お世話になりました。

母は15年前に脳腫瘍の手術を受け、その後、病院を転々としながら、14年前に施設に入所しました。何年か前にいったん半年間ほどグループホームに転出した事がありましたが、認知症が重くなり、再度同じ施設に戻りました。その間に、肺炎になったり、大腿骨の骨折があったり、何度も危機を乗り越えてきましたが、最期は穏やかに亡くなったようです。その間に、私は何度も「母の死」を覚悟しましたが、とうとうその現実が来てしまったのです。

15年前の母の入院は私の人生の転機にもなったと思います。当時、東京でサラリーマンをやっていた私は会社へ名古屋支社への転勤を希望しました。当時は金沢支社がなかったので、実家に最も近い名古屋支社を選択しました。その名古屋には希望退社するまで約10年間おりました。その期間は月一で実家に帰って母の施設に通いました。

4年前に金沢に引っ越し、今の「石の華」をやり始めました。「石の華」は私の鉱物趣味と間接的には母の病気がきっかけになってできたと思います。

思うに、母の手術前の元気だった頃は、独身だった私は無理やり母を連れ回し、自分の趣味に付き合わせていました。ある時は中竜鉱山だったり、ある時は称名の滝だったり、ある時は蘇洞門(そとも)だったり、ある時はフォッサマグナミュージアムだったり、本当にいろんな所に行きました。病気の身体にはきつかったかも知れません。変な息子の趣味に振り回されていたと思っていたのかも知れません。

その母も入院・入所で息子の趣味に振り回される事はなくなりました。そして、とうとう、その息子と会う事も無くなってしまいました。

実は、先週の月曜日に私は施設に行きました。母は元気そうでした。そして、帰る時の母の「気いつけて帰りまっし。」という言葉が最後の言葉になってしまいました。

「母の死」はまた新たなる私の転機になるのかも知れません。

これから今日はお通夜で明日は告別式です。小松の葬儀場での家族葬です。

お店は臨時休業となります。宜しくお願い申し上げます。

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石が書いた字2

2014-12-06 12:14:39 | 日記・エッセイ・コラム
今日も先日発掘した私の古い写真の1枚の話題です。


上の写真は十数年前に愛知県稲沢市の「小菱屋」というお豆腐屋さんの応接室に置いてあった「小菱」という文字が見える石です。当時、私は「小菱屋」のテレビCMの仕事をしており、そのCM製作の打ち合わせの為に「小菱屋」の応接室に入りました。そこですぐに目に付いたのがこの石でした。それは大切そうに座布団の上に乗せられておりました。私はすぐにその石の表面に「小菱」という文字が見える事に気づきました。一瞬で「小菱屋」ならではの名石だと思いました。「小菱屋」の社長にその石の事を尋ねると何年か前に石の業者の売り込みがあったらしく、半信半疑で購入された、というようなお話でした。この写真はその後日の打ち合わせの際に撮らせてもらったものです。

そう言えば、この石の事は過去に一度写真なしで書いておりました。その記事は「石が書いた字」(2013.08.11)です。今日のタイトルは「石が書いた字2」となります。

「石が書いた字」は他にも見た事があります。それらは「一」とか「人」とか「石」とか、画数の少ない比較的簡単な字が多かったと思います。「小菱」の「菱」のように画数の多い複雑な字は存在確率が少ないと思われます。その文字は「石が書いた字」なので正確な書体になっている訳ではありませんが、不思議な事にいったんその文字のように見えるとその後はどう見てもそのような文字に見えてしまいます。これは人間の錯覚の一種なのだろうと思います。錯覚も面白いと思います。

そうそう、このブログでは初期に「土佐の菊花石」(2012.01.02)でも「寿」という「石が書いた字」の事を書いておりました。どうも私自身がそのような「石が書いた字」が好きだったようです。

字というと書道も芸術です。私はそれほど書道に関心がある訳ではありませんが、なぜか「石が書いた字」には無条件に魅かれます。字だけではありません。先日の「風景画」のような「石が描く絵」にも魅かれるものを感じます。それはそこには人が介在しない自然の業のようなものがあるからです。それは人が介在する技とは別次元の「わざ」なのだろうと思います。よく「自然のつくった芸術」という言葉が使われる事がありますが、「芸」という字が相応しいと思われるほどに自然が修練ともいうべき長い時間をかけてつくったものなのだろうと思います。

誤解のないように書いておきますが、石には意志などありません。「石が書く」も「石が書いた字」も「石が描く」もこちら側が勝手に解釈しているだけの事です。そのような事実をしっかりと認識しつつもそのような希な現象を楽しんでいるだけです。それ以上でも以下でもありません。決してスピリチュアルなものではありません。

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老人

2014-12-04 15:37:01 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「老人」です。

先ほど珍しい来客がありました。それは老夫婦の方でしたが、老婦人の方が石好きのようで通りがかりに通りに面したショーケースの中の鉱物に興味を示し、「ちょっとだけよ。」と旦那さんに話して店の中に入って来ました。その老婦人は子供の様に目を輝かせながら石を見ていました。時間にして10分間位だったでしょうか?それほど興味がない旦那さんが痺れを切らすまで様々な石を見ていました。結局は何も購入されずに出ていきましたが、見ていて面白く感じました。

このようなシーンはこれまでにも何度も見ました。大概は小さいお子さんと親御さんとのケースですが、さっきのようなケースは希です。ほとんどの「老人」は石には何の興味も示しません。好奇心と言うものも歳をとると衰退するものなのでしょうか?子供に比べると石に興味を示す「老人」は経験的に少ないと感じます。

普通の金沢の「老人」の方々にとっては「石の華」は異質な存在だと思います。大半の「老人」の方々は興味を示さないか、興味を示すというよりも生まれて初めて見るような警戒感をともなった不審な顔をします。そのような「老人」の方々には一生縁が無いように思えます。

石は「老人」の趣味だと言われる事がありますが、大半の「老人」にとっては無縁な存在だと思います。石は「老人」の趣味と言うよりも好奇心旺盛な多趣味の方が最後に行き着くのが石の趣味である、という意味だと思います。

金沢のような地方都市には「老人」が多いと言えます。「老人」が多いエリアでは石の需要規模が少ないので石の店は流行りません。中々、難しいとは思っていますが、ただ、都会と違って、そこにしかないというオンリーワンというメリットもあります。少ないながらも石好きさんとのコミュニケーションを大切にしていきたいと思っております。

今日は「老人」というテーマで書いていると、つい先ほど90歳の石好きのおじいさんが来店されました。いつも上のスポーツクラブに来ていると言う「石の華」でも常連さんのおじいさんです。今日はアクセサリーをご購入されました。ありがたい事です。

少数でもこのような「老人」がいらっしゃる事を忘れてはなりません。
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