今日は「石の美」です。
ここ数日、「石の美」とは何か?と考えていました。先のブログ「美術」では人がつくる「美術」の事を書きました。「美術」とは人が何らかの意図を持ってつくるものです。それに対して「石の美」とは何かと言うと、よくわからなくなってしまいます。石は自然がつくったものであり、そこには意図はありません。そうであるにもかかわらず、美しいと思う石は存在します。美しいと思うのはこちら側の人の勝手な思い込みなのかもしれませんが、「石の美」は確かに存在しております。よく考えてみると「石の美」とは石そのものとは無関係にそれを美しいと思う人の思いの中にあるものかも知れません。
面白いのは同じ石を美しいと思う複数の人がいる事です。人の美意識は人様々だと思いますが、色んな好みがある中で同じ石を美しいと思うという共通性を見出す事があります。石に興味のない人は別として、石好きさんには何か共通する美意識のようなものがあるようです。「石の美」とは本来そういうものなのかも知れません。
趣味としての石のコレクションをしていた頃はそのような「石の美」の事などお構いなしに自分の気に入ったものばかり集めていました。「石の美」について考えた事もなかったと思います。ただ、「石の華」の商品は「石の美」だと思っておりますので、「石の美」とは何か?という事を考えざるをえなくなりました。。石の店をやり始めて、妻の影響もあって、売れる石を仕入れなくてはなりません。最近では、正直、私よりも妻の方が仕入れ上手だと思います。石好きさんの好みを把握し、「石の美」を考える必要性を感じております。
商売としての「石の美」は今後も考え続けなければならないのですが、それとは別の意味での「石の美」の存在も忘れてはなりません。それは何かと言うと、一言で言うと、それは「無用の美」と言えるような気がします。
それは民芸運動のような「用の美」の事ではありません。また、赤瀬川源平さんが唱えた「トマソン」のような「無用の美」の事でもありません。そのような「用の美」も「無用の美」もそれぞれに興味深いものだと思いますが、ここでいう「無用の美」とは、それらとは全く違う次元にある「美」の事です。「石の美」における「無用の美」とは実用性のない「美」そのものの事です。ただ、実用性のないと言っても決してネガティブなものではありません。それは「美」そのものというポジティブなものであって、実用とは別次元に存在するものです。
例えば、ペーパーウェイト。私の自宅には様々なペーパーウェイトがあり、私はペーパーウェイト好きでもあるのですが、それはペーパーウェイトとしての実用性を求めているのではなく、それらの色や形状や素材感に美を感じているのです。本来、自宅には多くのペーパーウェイトなどは無用です。「石の美」も同じです。
「石の美」とはそのような「無用の美」なのだろうと思います。そのような「無用な美」は多すぎると邪魔なものになるかも知れません。多くのコレクターの悩みはそれらを置いておくスペースの問題だと思います。それらの主にとってはそれらは大切な「無用の美」なのかも知れませんが、同居者や場合によっては本人にとっても「無用の美」は生活空間を占領してしまう厄介なものになってしまう危険性もあるようです。
石好きさんにとっては「石の美」とは、なくてはならない貴重なものなのですが、それは同時に「無用の美」でもあるのです。否、「無用の美」だからこそなおさら価値のある大切なものなのだろうと思います。