今日は「母の死」です。何度も書ける話題ではありません。
先週の土曜日の夕方、PHSに母が入所している施設から電話が入ってきました。母の容体が悪くなったので至急来て下さい、という内容でした。私は妻に閉店までの店番を任せ、急いで小松の施設に向かいました。折しも今冬最大級の寒波襲来で暴風雪の中、急遽クルマで向かいました。夕方の時間だったのと天候の為、いつもの倍位の時間がかかって施設に到着しました。が、着いた時は既に時遅く、既に母は亡くなっていました。
その場で施設長の死亡診断が行われ死亡診断書が発行されました。当初、母の目は半分開いていましたので、本当に死亡したとは思えませんでした。その日はお風呂にも入ったたし、昼食もしっかり食べたそうなのですが、夕食時に急変してしまったようです。少し遅れて到着した兄に「母の死」を伝え、相談してすぐに葬儀社に連絡して、お迎えの到着を待ちました。
施設ではすぐに荷物をまとめて下さいました。思えば、母はその施設のほぼオープン時に入所しましたので、開所から約14年間お世話になりました。
母は15年前に脳腫瘍の手術を受け、その後、病院を転々としながら、14年前に施設に入所しました。何年か前にいったん半年間ほどグループホームに転出した事がありましたが、認知症が重くなり、再度同じ施設に戻りました。その間に、肺炎になったり、大腿骨の骨折があったり、何度も危機を乗り越えてきましたが、最期は穏やかに亡くなったようです。その間に、私は何度も「母の死」を覚悟しましたが、とうとうその現実が来てしまったのです。
15年前の母の入院は私の人生の転機にもなったと思います。当時、東京でサラリーマンをやっていた私は会社へ名古屋支社への転勤を希望しました。当時は金沢支社がなかったので、実家に最も近い名古屋支社を選択しました。その名古屋には希望退社するまで約10年間おりました。その期間は月一で実家に帰って母の施設に通いました。
4年前に金沢に引っ越し、今の「石の華」をやり始めました。「石の華」は私の鉱物趣味と間接的には母の病気がきっかけになってできたと思います。
思うに、母の手術前の元気だった頃は、独身だった私は無理やり母を連れ回し、自分の趣味に付き合わせていました。ある時は中竜鉱山だったり、ある時は称名の滝だったり、ある時は蘇洞門(そとも)だったり、ある時はフォッサマグナミュージアムだったり、本当にいろんな所に行きました。病気の身体にはきつかったかも知れません。変な息子の趣味に振り回されていたと思っていたのかも知れません。
その母も入院・入所で息子の趣味に振り回される事はなくなりました。そして、とうとう、その息子と会う事も無くなってしまいました。
実は、先週の月曜日に私は施設に行きました。母は元気そうでした。そして、帰る時の母の「気いつけて帰りまっし。」という言葉が最後の言葉になってしまいました。
「母の死」はまた新たなる私の転機になるのかも知れません。
これから今日はお通夜で明日は告別式です。小松の葬儀場での家族葬です。
お店は臨時休業となります。宜しくお願い申し上げます。