いぬぶし秀一の激辛活動日誌

おかしな議員[わんちゃん]の激辛日誌です。日々感じたこと、活動報告、行政への提言など、本音で書き込む人気ブログです。

本日は二人の母親にご挨拶

2009-05-24 | Weblog
 私には、二人の母親がいる。一人は産みの母。彼女とは生まれてから3歳までの間と、中学2年生、3年生の2年間しか暮した事がない。そして、平成17年5月18日この世を去った。姉の父親と最初の結婚をし、その後、私の父と結婚。最後は、弟の父親と結婚し、その方と最期の時まで共に過ごしていた。

 姉は、3人の父親と暮らすという悲哀を味わったが、それでも常に母と一緒だった。弟は、生まれてからずっと両親と暮らし、米軍横田基地のアメリカンスク-ルから米国の大学、大学院まで進ませてもらい、横浜にマンションまで買ってもらったらしい。

 私はと言えば、8歳まで父子家庭で、8歳から10歳まで父の再婚相手である継母と暮らし、10歳で父が病死した後、伯父宅に居候。中学2年で実母の再婚先に養子として世話になった。思春期の真っ只中、母とも養父ともうまくいかず、中学卒業と同時に家を出て、航空自衛隊生徒となった。

 そのような経歴から、3人の異父兄弟の中では、最も実母から遠い存在だったのだ。自分自身、家庭を持ってからは、何度も「若気の至り」を詫びに出向いたが、彼女は最期まで許してはくれなかった。それから再会したのは、平成17年、棺桶の中の冷たい母だった。

 さて、その母の命日が過ぎた。どうやら、兄弟は誰一人として墓参りに行っていない。そこで、今日、思い立って多磨霊園にある墓に母の没後初めて出かけることにした。一応、普段疎遠の姉を誘ったが、ずいぶんと嫌がっていた。どうも、同居していたこと=幸せ、という構図ではなかったようだ。

 公立中学校の教員をしていた母は、子供たちを「思い通り」にしたがっていた。私は、それが嫌で家を出たのだが、姉はずっと母の「思い通り」にされていたことが、トラウマになっているのだろうか。渋々墓参に承知した姉と霊園で待ち合わせた。

 墓と言っても「慰霊碑」のような合同墓地だ、と聞いてはいたが、あまりの質素さにびっくりしてしまった。母も養父も公立中学の教員を定年まで勤め、100坪以上の土地に自宅を建て、退職金だって二人で1億近くもらったのではないだろうか

 それが、この質素な墓である。墓碑の名前を姉とたどるが母の名はない。墓地事務所に確認すると間違いなく、合祀はされているようだが、8000円払わないと名前を彫ってもらえないのだそうだ。その程度の金額なら、私が払ってもいい、と思ったが、養父の考えもあるのだろうと、姉に伝言を頼んだ。

 養父はと言えば母の死後、昨年再婚し、幸せそうである。弟も横浜に2軒目のマンションを購入し、外資系コンサルとして相当の年収を取っているようだ。が、墓には納骨以来、来たことがないらしい。

 生前は3度の結婚をし、思い通りの人生を全うした母の、あまりにも粗末な墓。そして、子供たちが墓参りにすら来ない程怨んでいるという現実。そのギャップに人生の虚しさ、寂しさを感じざるを得なかった。来年も私だけでも命日には参ろうと思い墓を後にした。

 さて、そのついでというか道すがら、今度は継母の勤務先に向かった。彼女とは、小学校2年生から4年生までの2年間、本当の親子のように過ごした。父も健在で、貧しかったが、幸せな日々だった。ただ、なぜか、小学校5年生の春、彼女は実家へと帰ってしまったのだ。そして、その後数ヶ月で父も亡くなった。

 それから長い間、音信は途絶えていたが、航空自衛隊に入り、独立してからは彼女の勤務先である神学院を訪問するようになった。母と呼ぶには、共に過ごした年月が短かったが、数少ない「身内」としての付き合いは、今日まで続いている。最近は、ご無沙汰なので、久しぶりに神学院を訪ねたのだが、突然の「息子」の訪問に歓喜して迎えてくれた。

 不思議な関係の二人の「母」。いずれも怨む気になれば、その理由がないこともない。が、私自身50歳も過ぎた今思えば、それぞれに様々な事情があったのだろう、と理解できる。また、その頃がどうであれ、今、こうして私は充分幸せなのだからいいじゃないか、とも思う。

 二人のカアチャン!ありがとう。

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