いぬぶし秀一の激辛活動日誌
おかしな議員[わんちゃん]の激辛日誌です。日々感じたこと、活動報告、行政への提言など、本音で書き込む人気ブログです。
 




 政府訪朝団が昨日帰国して、安倍総理に報告を行ったそうだが、一体何をしにいったのだろうか、甚だ疑問である。秘密警察の高官も登場したそうだが、自己紹介をしにはるばる平壌に行った、という印象しか受けない。

 インチキ、ヤクザ国家、北朝鮮のことだ。その辺の村長さんあたりに偉そうな軍服を着せて「寸劇」をやらせた可能性すら否定できないのではないだろうか。あのような、独裁暗黒国家であればこそ、拉致被害者の存在等、半日もあれば充分だろう。

 時間を稼いでいるのは、拉致被害者に対して「帰国しないよう」教育しているのか、それとも、「帰国後の口止め教育」を行っているとしか思えない。

 いま日本国政府がやるべきは、徹底した経済制裁と、人物往来の禁止措置である。普通の常識を備えていない連中と交渉するには、こちらの持てる限りの強行手段を取るしかないのだ。

 「話し合い」「対話と圧力」という国際社会では笑い者になる我が国特有の外交の外交姿勢では、拉致被害者は未来永劫帰国できないのではないだろうか。

 もう待てない!すぐ全員を帰国させろ!さもないと、酷いことになるぞ!それぐらにの覚悟を持って対応していただきたい。国家国民の生命財産を、絶対に守る、という強い決意こそ政治の最大最高の使命である。

 ウチワだ、ワインだ、は週刊誌に任せておけばいいのだ。

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 次世代の党東京都支部連合会幹事として、公認希望者の審査に立会い、さらには、田母神俊雄氏の私塾である「田母神塾」の師範代として、次期統一地方選挙に出馬されたい方々とお話する機会が多い。

 残念ながら、これらの新人の方々は特徴的な類別ができるのだ。(類別区分は、私の勝手な私見である)

①保守活動を活発にしてきたが、正規雇用についていない、又は、自営や再就職に失敗してフリーター(転職型)

②長い間サラリーマン、OLとして実績を残してきたが、地域社会とはまったくかか わりがない(パートタイム住民型)

③そこそこの社会的名声があるため、上から目線になってしまう(能書き型)

④高学歴で、鼻っぱしが強いが社会人としては経験不足(勘違い型)

 複数の類別に当てはまる方も多くいるし、特に「地域コミュニテイとの交流が皆無」という、地方議員にとって極めて重要なスキルに欠ける出馬希望者がいかに多いことか…

 そして、概ねどの類別にも当てはまるのが、「党公認=当選」という勘違いである。確かに、都内の多くの自治体で、無所属候補は当選が大変厳しいことは事実である。が、では党公認で票が増えるか?自民、公明、共産であればYESであるが、それ以外は、民主党を含め(民主の労組候補以外)、党の公認は、票の上乗せにしか過ぎないのが実情である。

 ましてや、支持率が1%以下の、維新の党、次世代の党、太陽の党などは、政党票は「皆無」ぐらいのつもりでないと、当選はおぼつかないと思う。

 新人のうちは、政党のポスターを貼り、ビラを配り、朝晩の街頭演説を行い、様々な集会、会合に出、嫌がられても名刺を配り、それこそ、ドブ板を繰り返して、繰り返して、なんとか当選ラインに届くのが地方議員選挙だ。

 具体的な事例は立場上お話できないが、その覚悟がほとんどの候補予定者に欠落している。残り6ケ月、その覚悟を持つことができ、ドブ板を繰り返し、人間性を備えた候補者だけが栄冠を勝ち取ることができるだろう。(ただし、稀に、私のように人間性に欠陥があっても当選することがある!)

 わが党に限らず、弱小政党の公認候補予定者のみなさん、政党より「自分」という商品を、いかに、消費者(有権者)に買って(投票)いただくか、究極のマーケッテイングに挑んでみていただきたい。

  

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 今回のサイパン・テニアン慰霊の旅は、様々な学びがあった。英霊との心の交流が最も大きな成果だったが、もうひとつ、社会福祉の在り方も学んできた。それは、テニアンの人々の生活からだ。

 テニアンには約3000人の人々が暮らしており、うち1000人が外国人だそうだ。さらに、その外国人のうち相当数が中国人。そして、中国人は島の経済を握っているらしい。

 テニアンの人々はというと、失業保険がもらえるくらい働いては休みを繰り返すそうだ。また、村役場など公務員になると20年勤続で年金がもらえるので、40歳まえにやめて年金生活に入る人も少なくないという。

 また、米国の反米、反基地運動を抑えるための「超福祉」政策により、生活保護が充実しているそうだ。町には「FOOD STAMP(フードスタンプ)使えます」の看板が目立つ。こえは、低所得者向けの食券支給政策で、前払い式カードのようなもので、スーパーなどで生活必需品の購入に使える。一人月額130ドル程度らしいから、子沢山のチャモロ家族で10人もいれば、1300ドル。働くより楽だろう。

 ただ、このスタンプは、ビールや酒などには、使えず、換金屋までできているそうだ。米国にとって、南太平洋の基地であるサイパン、グアム、また洋上訓練基地であるテニアンは、戦略上絶対に離すことができない重要拠点である。

 そこに住む住民から基地反対運動や反米運動が起きることは、絶対に抑えなければいけない。そこで、福祉付け、米国の信託統治であれば「働かなくても大丈夫」という感覚を人々に与えてしまったのだ。

 テニアンを日本が統治していた戦前は、サトウキビの栽培で島は栄え、列車が走り、六つの村には神社があり、学校があったそうだ。チャモロの人々は日本語を学び、生活も豊かっだそうだ。

 はたして、フードスタンプに頼って働かない生活と、いきいきと働いていた日本統治時代と、どちらがテニアンの人々にとって幸せなんだろうか。

 過ぎたる福祉は、人の生きる炎に水をかける!私の持論である。いま、日本はテニアンのような「いきすぎた福祉」が行われつつある。年金を生涯払わず、家も買わず、貯金もない独居老人の生活保護費(大都市加算を含む)は月額165,000円程度。

 反対に、40年間国民年金を払い続け、預金もそこそこ貯めた苦労人の自営業者さんは、年金月額65,000円。なにか、おかしいではないか。

 慶応義塾大学でマーケッテイングを教えられていた村田昭治先生は、授業でいつも学生に語られていた。「マーケッテイングとは、人々の生きる心に炎を灯すことなんだよ」と。

 あるべき政治の姿とは、テニアンや日本のように、働く意欲を喪失させる福祉政策ではない、働く人の心に夢と希望を与えることの出来る政策(マーケッテイング)を行うことだろう。支援団体、利権団体への予算のばら撒きに徹している今の仕組みは変えなければなるまい。



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 いよいよ帰国の日である。朝4時にホテルを出発して空港へ向かった。チェックインカウンターは、二日分の乗客で長蛇に列である。真面目にならんでいる日本人を尻目に、チャモロ族のおばさんが、知り合いの航空会社職員を見つけて、チェックインに割り込む。日本なら大喧嘩をするところだが、南洋の島では、大目に見ることにしよう。

 予定出発時間より10分以上も早く扉を閉めてしまうデルタ航空さんも、立派である。(ちなみに、成田到着も予定より25分も早かった)

 出発準備が整い、いざ滑走路へ、という時に突如東の空が明るくなった。その幻想的な光景は、到底ヘボカメラマンのスマホでは再現できないが、ご覧いただきたい。炎のような、または血潮のような、なんとも言えない朝焼けだ。




 この地に眠る多くの戦没者の血の流れなのか、それとも、英霊のみなさんの祖国日本に対する、炎のような想いなのか。たぶん、後者に違いない。

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 本来であれば、本日月曜日の朝8時すぎには成田空港に到着しているはずだったが、台風19号がサイパンを襲撃し、さらに日本を台風18号が襲い、どうにもならずに一泊延泊することになった。

 朝起きると、雨は降っているものの、すでに台風は通過してしまったようで、徐々に明るさを取り戻している。今朝の朝食は、昨晩私が頼みすぎたベトナム料理の残り物をみんなで、ホテルロビーでいただいた。

 延泊のため、今日の予定は、各自自由行動である。すると、西村真悟先生が「台風で帰れないということは、英霊がもう一度来てくれといっているのだ」とおっしゃった。では、もう一度、バンザイクリフに行こうということになり、8名が参加。

 台風の中、ホテルフロントにある大手レンタカー会社のスタッフは「自主休業」なのか、来ない。そこで、近くにある地元のいささか心配気なレンタカー屋でレンタカーを2台借りて出発だ。参加者8名の中に、1.酒を飲んでいない(もうすぐ飲むつもりだった!)2.運転免許を持ってきた3.海外で運転したことがある、という三条件にあてはまったのが、西村先生の政策秘書さんと私だけだったので、やむなく運転手に。

 台風で木が倒れたりのサイパン島を、バンザイクリフに向かう。そして、バンザイクリフでは、持参した靖国神社のご神酒とウイスキーを絶壁から海に投げ入れ、英霊と暫しの宴をもった。残念なことに、私は禁酒!(運転手のため)

 ウイスキーのロックを飲まれていた西村先生が、突如、紺碧の海に向かって周囲が驚くような大声で「お~い!お~い!」と叫ばれたのだ。まるで、英霊に「俺たちが来たよ!ありがとう!一緒に飲もうぜ」と呼びかけるようにだ。そして、ご一緒した全員が、この呼びかけに応じた英霊たちとの交流に涙した。台風が来てくれて本当によかった。


(英霊に呼びかける西村先生)

 私たちは、今日のこの瞬間を忘れない。いつの間にか、多くの命をかけて守った国を蔑にするような風潮が蔓延り、政治家が政治屋になりさがってしまった。

 西村先生に師事するわれわれは、私心を払いのけ、国家国民の安泰を願う大義にのみ従って行動して行こうではないか。

 抜ける様な青空の下、紺碧の海に、濃緑のジャングルに今も眠る英霊との宴でそう誓った。




 サイパン・テニアン慰霊の「つもり」の旅が、実は、英霊から多くのことを学び、導かれた旅であった。このような、旅に国士西村真悟先生はじめ、多くの同志とともに参加できたことを光栄に思うとともに、大した土産もないのに、留守を守ってくれた我が事務所スタッフに感謝したい。

 どうか、反日左翼の諸君や、朝日新聞の記者諸氏も一度、バンザイクリフに出向いて、この地で一日酒を飲んで欲しいものだ。きっと、自らの誤りに自然と気づくはずだ。




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 今日は、サイパンからセスナで10分のテニアン島を訪問する。ホテルのレストランの朝食は20ドルでバイキング。そんな高価な朝食を食べる位なら、英霊に花束でも買いたいではないか。売店で、1ドル50セントのクロワッサンと水を買って朝食にした。(実は、フロントのソファーで、このチーズクロワッサンの包装を開けるときに、床に落としてしまった。同行者の数名に目撃されたが、自衛官いぬぶし、何事もなかったように拾って食べた!)




 小型機専用の飛行場に着いた。なんと、5人乗りのセスナ機ではないか。そして、搭乗手続きでは、荷物と一緒に各人の体重を計るのだ。同行した、やまと新聞の記者さんは重量オーバーで、人数の少ない便に変更させられた。待合室では、陽気なチャモロ族(原住民)のおじさんが、「恐いぞ!揺れるぞ!」「まあ、大丈夫。最近は1回しか落ちてないから…」と私を脅すのだ。ドキドキしている私を見て、おじさん「お前、空軍だと言ってたろう」と。おじさん!僕は、レーダーサイト(穴倉)担当だよ!


(体重オーバーの記者さん)

 離陸後、10分足らずでテニアン飛行場に到着した。到着口には、この島からイラク戦争などに出征して亡くなった兵士の写真と名前が掲示してあった。なかには、女性海軍兵士や、予備役の陸軍兵士の名前もあり、若くして「祖国防衛」ではない任務で戦死した旧敵国の軍人に祈りを捧げた。戦いが終わったら、敵国の兵士でも礼を尽くすのが武士道であろう。




 テニアンには、サイパン以上に戦跡や墓碑が多い。公園に建立されていた慰霊碑、墓碑に、ご神酒をかけてお線香を焚いた。少し離れたところに、寂しそうに慰霊碑がたっていたので、ご神酒を持って碑にかけたところ、なんと文字のところが、真っ赤に染まったのだ。たぶん、石の成分にアルコールが反応したのだろうが、私には英霊の魂が、ご神酒で蘇ったように思えて、涙がとまらなかった。


(ご神酒をかける前の慰霊碑)

(ご神酒をかけた直後の慰霊碑)

 次に向かったのは、なんと「日の出神社」である。戦前は、この地で日本人がサトウキビの栽培をしていて、6つの村が栄えていたらしい。現地の人々も豊かだったという。その一つの村の神社が「日の出神社」だ。西村先生の太陽の党の英文名は「The Sunrise Party」この神社は、「Sunrise Shurine」。素晴らしいではないか。




 境内には、線路が残っていた。サトウキビを運ぶ汽車の線路が、木の成長により地上から上にあがってしまったそうだ。年月のながれを感じる光景である。




 次に訪問したのは、日本軍の飛行場司令部跡だ。約200名の将兵が勤務していたという堅固な建物の柱は、砲撃のあとだろうか、無残にも折れていた。この場所から近い場所には、広島、長崎に原爆を投下したB-29の待機所があり、実際に原爆を収納していた壕が「歴史記念物」として保存されていた。いまでも、米国では原爆投下が「正義」と見られているようだが、冗談じゃない。






 非戦闘員への攻撃を禁じた国際法規に違反する重大な戦争犯罪である。また、この地が米軍に占領されてからは、東京大空襲など、さまざまな虐殺劇の発信基地となったのが、この場所だ。広島にある「くりかえしません 過ちは」の碑は、この場所にこそふさわしいのではないか。

(広島に投下された原爆)

(この壕から原爆が搭載された)

 西村先生と抗議の日章旗をかかげた。ふざけるな!謝れ!





 まだまだ慰霊の旅は続く。米軍が上陸した砂浜に到着した。海岸には、日本軍が構築したトーチカが残っていた。トーチカの機銃口周辺には、夥しい数の弾痕が残っていた。この中で必死に、米軍に応戦していた兵士の心中を想うといてもたってもいられない。






 次は、海軍第56警備隊玉砕の地に向かった。海から少し上ったジャングルの中に、その慰霊は立っていた。昭和19年7月24日米軍が上陸。同年7月31日生存者400余名にて「祖国の平和と安泰を願い」突撃を敢行した、とある。



 生きては帰れない、それでも祖国のために命をかける。決して戦争を美化するつもりはないが、彼らの純粋な国を想う心に、心より敬意と感謝の祈りを捧げたい。




 テニアンでの慰霊も終盤になったが、天気予報によれば台風19号が近づいているらしい。セスナ機が欠航になる前にサイパンに戻ろうということになり、バスに乗車した。

 ところが、なんとわれわれがチャーターしたバスが坂道を上れずにエンストをしまった。そこで、私は大声で「降りてみんなで押そう」。坂道を登りきれば下り坂で、エンジンがかかるかも知れないと思ったのだ。




 さすが、西村門下生である。誰ひとり文句も言わず、全員降りてバスを押したのだ。(西村先生も!)が、上りが急なことと、バスが重すぎて動かない。すると、中国人だという若い運転手が「知り合いのところまで走る」と、走り出した。実は、テニアンは携帯電話の圏外が多く、この場所からは連絡がつかない。




 ただ、待っていても仕方がない。ガイドさんに聞けば、飛行場まで8キロほどらしい。当初の帰島予定までは2時間ある。8キロなら2時間で行ける。よし歩こう。みんなで、徒歩行進を始めた。歩きながら、みんなで「英霊が帰らないで」と言っているのかな「英霊が行進した辛さにくらべたらどうってことないよな」等と楽しく語りながら、山道を歩いた。

 30分ほど歩いただろうか、遠方からバスが見えた。あの中国人の青年が戻ってきてくれたのだ。いつもは「シナ人」等と言っているのだが、この時はかれの素早い行動に全員が感謝した。ありがとう、青島出身のロジャー!




 無事飛行場に到着して、セスナに搭乗した。帰りの便は西村先生と同じだった。気のいい米国人パイロットに「北朝鮮まで頼む!」と、冗談で言ったら「刑務所に入れられちゃうからダメだ」と、真顔で答えられてしまった。

 早目にホテルに戻ったので、慰霊の旅ながら、暫しお許しを頂き、ホテル前の海とプールに飛び込んだ。西村先生は、プールのウオータースライダーがお気に入りのようで、何度もチャレンジされていた。






 さあ、いよいよ明日の早朝は帰国だ、と思っていたら西村先生の秘書さんが「台風で欠航。帰国は一日延びます」と、情報を持ってきてくださった。ホテル側の好意で、同じ部屋でもう一泊一人50ドルでいいという。アチャー。


(土嚢で水を防ぐホテルフロント)

 これまた、英霊が「もうちょっといてくれ」と止めているのではないかと思ってしまう。





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 本日から、西村真悟代議士が主宰する「西村塾」のサイパン・テニアン慰霊の旅に参加する。サイパンには日系航空会社が撤退してからは、デルタ航空が唯一成田から直行便を運航しているだけ、という悲しさである。

 毎年、西村塾では海外研修を行っているが、今回は、西村真悟先生の「サイパンに慰霊に行こう」という提案でサイパンに決定した。そして、サラリーマン等の参加者に配慮して金曜日の夜便で出発して、月曜日の早朝便で帰国というハードスケジュールだ。


(両替中の西村先生)

 成田空港は、夏休みの喧騒も終わり、ガラーンとした感じだ。西村先生が米ドルを交換に銀行に行くと、嬉しそうに戻ってこられた。「カウンターで西村先生頑張って!」と銀行員に声をかけられたそうだ。さすが、全国に支持者がいる。


(たまげたDELTAの夕食)

 事前に秘書さんから「夕食は機内で出ます」と聞いていたので、20時すぎの出発まで空腹に耐えていたのだが、出てきた食事に唖然!味の染みいない、醤油だけの焼きおにぎりが二つ、小さなお菓子が一つ、フルーツ少々。
アメリカ人の感覚はどうなっているんだ。まあ、しかし、飢えと戦って散った英霊の空腹を思えば、ご馳走である。あ!すみません、ビールください。

 サイパンに早朝到着して部屋で暫し休憩の後、慰霊の旅がスタートだ。バスをチャーターすると高いので、レンタカーを借りて(15名で3台)の行動である。




 最初の訪問先は、バンザイクリフと名付けられた場所。米軍に追い詰められた日本人が「万歳!」と叫んで絶壁から身を投げた地点だ。随分前にも訪問したことがあるが、慰霊碑の数がさらに増えた感じがする。さまざまな団体や、個人が、それぞれの想いをこめた慰霊碑を建立していく。

 叱られることを恐れず言わせていただければ「慰霊」よりも「自己主張」のための慰霊碑が多い、と違和感を覚えてしまうのだ。慰霊碑を建立する予算があるのなら、いまだサイパンの山中に眠る御遺骨の捜索費用を出していただけないか、とも。いや、それでも、忘れないという慰霊碑は多いほうがいい、とも思ってしまう複雑な場所である。




 われわれは、慰霊碑のなかでもひと際大きいものに跪き、靖国神社のご神酒を供え、献杯と海ゆかばの合唱を行った。日章旗を掲げた集合写真撮影では、韓国人、中国人と思われる観光客が珍しそうに我々の写真を撮影していた。きっと「見てご覧、日本人はいまでも軍国主義なんだよ」と、帰国後の話題にするのだろう。ふざけるな!

 
(ハングルの書かれた観光バス)

 それにしても、バンザイクリフに到着してから、涙が止まらない。あふれるように出てくるのだ。まるで、英霊が「ありがとう」と語って泣かれているのが、乗り移ったようにだ。




 紺碧の空と海の素晴らしいコラボが見れる美しいこの地が、激戦地だとはいまでは想像もつかない。が、我々は忘れてはならない。このサイパンを死守しないと、日本本土が空襲される、と必死に死守をされ玉砕された英霊がいたことを。そして、捕虜となって生き延びることを捨て、日本の繁栄を祈って、絶壁から海に身を投げた同胞がいたことを。

 集団的自衛権という、国際的には議論の余地のないことに大騒ぎをし、国会ではくだらないゴシップ週刊誌のような論戦を行っている、今の日本は、英霊たちにはどう映るのだろうか。情けない。






 次に訪問したのは、旧日本軍の最後の司令部跡だ。山の岩を削って司令部風にしたものだ。この狭い司令部の中で、多くの参謀たちが、本土空襲を行わせないために、サイパン死守の作戦を練ってくださったのだろう。






 また、司令部のわきには、山頂から身を投げたであろう方々の墓碑が立っていた。驚きだったのは、その近くにある日本政府が建立した、と書かれた慰霊碑のデザインの醜さである。






 なんと、碑の真ん中には「骨壷」があるのだ。骨壷に入れて帰国させてあげたい、という想いなのだろうか。慰霊碑のデザインとしては、あまりにも陳腐で、木端役人の「建立した」というだけの仕事ぶりが垣間見れる。だれか「ふざけるな」と、デザインを変更する、まともな大臣はいなかったのだろうか。

 この地でも、また涙、涙の連続だった。英霊の御霊に合掌。


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