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島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

高城址(諌早公園)

2014-01-20 13:54:34 | 歴史・史跡
諌早神社を離れ、少し周辺を歩いてみることにしました。
本明川に沿って歩いていると、妙な鳥居と小高い丘に登れる道を見つけました。
後から知ったことですが、ここは「高城(たかしろ)」と呼ばれる山城の跡でした。
築城年代ははっきりしませんが、文明六年(1474年)に伊佐早次郎入道を討って、初めて伊佐早地方を統一した西郷尚善(ひさよし)によって築かれたと云われます。
その後、天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった4代目西郷信尚(のぶひさ)は所領を没収され、替わって龍造寺家晴に与えられました。
龍造寺家晴の子・直孝(なおのり)の時、諌早氏を名乗り諌早家は独立した大名でしたが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老(龍造寺四家のひとつ)となりました。
諌早氏は高城を居城として維持していましたが、五代諌早茂門の時、老朽化が進む城の維持が困難となったために城を廃しました。
時は流れ大正十二年(1923年)ツツジが植えられて、みんなの憩いの場としての諌早公園が誕生しました。
なんて語っているうちに頂上まで到着しました。

諌早の市街地が一望の元に見渡せます。
殿様はお城からこの風景を眺めていたのですね。
本丸があったと思われる場所には、クスノキの大木も植わっていたのですが、かなりの大木で「お城があった頃にはすでにこのクスノキもそれなりの大きさだったろう。・・・(眺めの)邪魔だったろうなあ~。」なんて考えてしまいました。
高城から下って来る時には、お城だった頃の説明が何箇所かに残っており、

例えばこんな場所でも、敵に攻め込まれた時に惑わす仕掛けがあることを知りました。
(今は公園化しており、ちゃんと道も分かりますが、攻め込んだ兵は右の階段方向ではなく、左側の行き止まりへ直進をしてしまう、みたいな。)
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諌早神社のクス群

2014-01-19 14:06:19 | 歴史・史跡
諌早神社の境内には立派なクスノキがあります。
長崎県指定天然記念物「諌早神社のクス群」です。
諌早神社は古くからこの地方の崇敬と祭りの中心地でした。
行基菩薩のお手植えと伝えられるクスノキの大木は、長く市民に親しまれてきたもので、その大きさとクス群としての景観の良好であることから、境内の6本が昭和41年に長崎県の天然記念物に指定されました。
鎮守の森として大事にされていることが分かるように、ヒヨドリやシジュウカラなど色々な野鳥が集まっていました。
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伊佐早温泉神社(現 諌早神社)

2014-01-18 13:31:33 | 歴史・史跡
朝から少し晴れ間も見える天気でしたが、ここにきて急に空が暗くなり、雪が降り始めました。
かなり粒の小さな雪なので、積もることはないと思いますが。
今日はセンター試験、頑張れ受験生!

さて、前回は「本明川」の紹介でした。
「本明川」を撮影した場所から、くるりと後ろを振り向くと「伊佐早温泉神社」があります。
現在は改称して『諌早神社』です。
以下、解説板より
「諌早神社は、神仏習合時代の明治維新までは四面大菩薩を祭神とする四面宮であり、代々領主の祈祷所として、また、諌早地方の中心社寺として維持され、『おしめんさん』の名で親しまれていました。
社伝によると、当神社の創建は神亀五年(728年)で行基菩薩が当地に立ち寄った際に雲仙を遥拝し、石祠を作ったのが始まりです。
建長年間(鎌倉時代)に領主西郷氏が社殿を建立、天正十五年(1587年)に新領主となった龍造寺氏(のちに諌早氏と改姓)が諌早領の宗廟として境内地を整備、神宮寺(神社に附属した寺院)として五智光山荘厳寺(真言宗)を創建しました。
明治元年(1868年)の神仏分離令により荘厳寺は廃止され、四面宮は明治五年(1872年)に『諌早神社』と改称し、八幡宮・御霊宮・神明宮の御神体八柱を合祀しました。」(諌早市教育委員会)
これで分社した4つの温泉神社を訪れることが出来ました。
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温泉神社(吾妻町)

2014-01-15 14:28:42 | 歴史・史跡
今年の初詣では、吾妻町にある「温泉神社」に行ってきました。
島原半島には真ん中に霊山・雲仙岳があり、昔から修験僧の修行の場とされてきました。
雲仙山には温泉神社があり、四面宮が祀られていますが、霊山は女人禁制です。
また、足腰の弱ったお年寄りのために簡単に詣られるように麓に4つの分身末社が置かれました。
山田神・有江神・千々石神・伊佐早神の4社です。
有江神は現在の有家町にあります(2011年5月20日;温泉神社(有家町))。
4社のうちの山田神が、この吾妻町の温泉神社になります。
現在は吾妻町となっていますが、その前はこの辺りは山田村という村でした。
境内の中には「山田村布江小学校跡地」の石碑が残っていました。

実は2012年3月21日に一度訪れていたのですが、何故かブログに更新していませんでした。
その時は神社の謂われがよく分かっていなかったのか、その数日後に「休止宣言;2012年3月23日」をしていることから忙しさのあまり忘れてしまったのか、どちらかだと思います。
今回は、初詣ででしたので、お賽銭を「よいご縁がありますように」と語呂合わせで、415円入れてきました。w
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面無橋再訪

2013-12-13 15:30:36 | 歴史・史跡
先日、北有馬の「面無橋」を再訪しました。
前回は時間もなく、遠くからの撮影だったので、今回は近くまで行ってみようと歩きました。
すると橋の袂に説明文がありました。
読んでみると、私がいかにこの橋の凄さを理解していなかったか反省しました。
10月2日の記事にアップしていますが、表面をさらっと読んでいるに過ぎません。
まず「土地の自然石をそのまま使って、アーチ型に組み立てています。」と一文で書いていますが、それがどんなに凄いことか分かっていませんでした。
前回は川の上流側から撮影しているので、橋の高さや組んでいる石の形まで分かりませんが、今回の写真では下流側から、橋の高さや石の形まで分かるように撮影しました。
長崎市にあるような普通の眼鏡橋は切石を使用しています。
組みやすいように石を平らに加工しているわけです。
平面と平面が接触している場合は設置面にかかる摩擦力も強く、お互いを支えることが出来ます。
ところが面無橋に使用されている石は、自然石です。
何の加工もされていません。
凹凸がそのまま残された石を使っています。
想像してみて下さい。
その辺に転がっている石を拾ってきて、縦に積み上げて下さい。
上手く積み上がらないと思います。
運良く積み上がったとして、床を揺らしてみて下さい。
簡単に崩れると思います。
面無橋は、地震の揺れにも耐えて現在までその姿を残しているのです。
そして、橋の出口をよく見ると、少し掘り下げています。
これは橋の出口を深くすることによって、流れる水の勢いを増しています。
水の勢いによって、橋の下に集まってくるゴミなどを押し流して詰まらないように工夫しているのです。
いやあ~これこそ本当に「先人の知恵や技術に頭が下がります」です。
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田中橋

2013-10-03 13:55:15 | 歴史・史跡
歴史ジオツアーも最後の巡検地です。
下を流れる川を坂下川といい、有馬川の河口から約6kmの上流域です。
ここを通る道は、有明海側と千々石湾側とを結ぶ近道で、昔は人通りも多かった場所です。
そこで地区の人たちは、区長 笹田耕作を中心に6人の発起人と8人の世話人をたてて、「田中橋」を明治36年(1903年)3月に完成させました。
長さ13m、幅3.8m、高さ5.5m、スパン10mにもなる大型橋です。
(スパンとは、アーチ、橋などの支点間の距離)
架橋に尽力した笹田耕作らの名前は親柱に刻まれ、今も川を渡る人々にその名を伝えています。
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面無橋

2013-10-02 13:37:32 | 歴史・史跡
長崎の観光地と言えば、眼鏡橋があります。
川に架かった石橋が有名ですが、島原半島南部(南目)は石橋や石垣築きの屋敷、石仏など石の文化が進んだ地域です。
以前、金浜断層に架かる金浜眼鏡橋(2010年10月3日記事)を紹介しましたが、今回は北有馬にある「面無橋」です。
これまた読みにくい漢字ですね。
「おもなしはし(ばし)」と読み、この辺りの地区名がついた橋です。
北有馬町内を流れる有馬川は島原半島第一の大川で、坂下・折木・西正寺の3地区にはいくつもの石橋が架けられています。
古くは江戸末期のものから、戦後架橋されたものなど様々です。
この有馬川水系石橋群で、最古の眼鏡橋が「面無橋」です。
架橋時期ははっきりしないものの、江戸時代末期か明治になってすぐだと言われています。
土地の自然石をそのまま使って、アーチ型に組み立てています。
面無地区の人たちの日々の生活の便を考え、自分たちの生活は自分たちで高めようと手作りしたものでしょうか、石工など関係者の名前等諸々、一切の記録がありません。
高度経済成長期の中、日本各地でインフラが整備され、橋やトンネル・高速道路などが建設されました。
約50年後の現代では老朽化が進み、その整備・維持管理が問題になっていますが、約100年以上も前に手作りした橋が揺るぎもせずに建っている姿は「すごい!」の一言だけでは足りません。
先人達の知恵や技術に頭が下がります。
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願心寺

2013-09-29 14:30:28 | 歴史・史跡

ここは北有馬町願心寺です。
願心寺は、元は有馬氏の菩提寺だった台雲寺の跡に建っています。
有馬義純の代(戦国時代から安土桃山時代)まで隆盛を誇っていましたが、天正期のキリスト教全盛期に廃絶しました。
その後、島原の乱後に幕府から派遣された鈴木重成が、多くの死者の供養と村の建て直し、人々の生活の安定を願って建立しました。
鈴木重成は、その後天草に渡り、同様に天草の住民の生活向上に努めましたが幕府に受け入れられず、自ら命を絶ったといわれます。
有馬の住民もその死を悼んで、境内の西側、有馬の町が見渡せる所に供養塔を建てています。

左の立て看板に何やら解説が書かれてあったと思うのですが、字が全部消えていて読めませんでした。
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有馬川殉教巡礼地

2013-09-26 10:37:38 | 歴史・史跡
ここは有馬川のほとりです。
有馬晴信の跡を継いだ直純は、重臣達に棄教を求めました。
しかし、従わない者たちもおり、そこでキリシタンへの見せしめのために処刑することになりました。
慶長十八年(1613年)10月7日、アドリアノ高橋主水と妻ヨハンナ、レオ林田助右衛門と妻マルタ、娘マグダレナ、息子ディエゴ、レオ武富勘右衛門と息子パウロの8人が中洲で火あぶりになりました。
マグダレナ林田は、2013年3月10日の記事にアップしています。
文化財ジオツアーで、島原のアーケードを中心に見学した時に、島原カトリック教会に像がありました。
見せしめのはずの処刑の日、2万人余りの信者が着飾って集まり、その中での殉死でした。
12歳のディエゴ林田は柱の縄が焼け落ちた時、燃えている母マルタの足元に駆け寄りました。
母は、「天を仰ぎなさい」と指して、母子ともに神を讃えながら殉死して、集まった人々に感銘を与えました。
このことがかえって人々の信仰心を強くしたとして、翌年の禁教令を発令させる誘因の1つになったといわれます。
彼らは2008年に福者に加えられ、それを記念してマカオに埋葬されていた聖骨の一部が、島原カトリック教会(島原半島殉教者記念聖堂)に祀られています。
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有馬セミナリヨ跡

2013-09-25 11:32:42 | 歴史・史跡
ピロティー文化センター(軒下)での昼食後、最初に訪れた場所は「有馬セミナリヨ跡」です。
2011年5月6日の記事で「有家セミナリヨ跡」をアップしていますが、そことは場所が違います。
ここは有馬氏によって、天正八年(1580年)初めてセミナリヨが置かれた日野江城近くです。
来日した宣教師たちが、日本での布教活動を行う上でまず考えたのが、『日本人宣教師の養成』でした。
当時の日本で、彼ら外国人は絶対に目立ったでしょう。
禁教の嵐吹き荒れる日本で布教活動を行うには、同じ日本人の方が良いと考えたのかも知れません。
セミナリヨには10歳ぐらいからの男子を集めて全寮制で、将来宣教師として必要な教育を行っていました。
卒業まで7~8年かかったといわれ、その後コレジオ(高等教育)へ進む者もいたようです。
日本で一番進んだ教育が行われた場所です。
この学院で学んだ4人(伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲル)が、天正遣欧少年使節に選ばれています。
しかし、禁教時代には有馬ー浦上ー加津佐ー有家ー天草ー長崎などと転々として、1614年マカオ、マニラへと移転せざるを得ませんでした。
歴史を勉強していると、ちょくちょく長崎(島原半島)が時代の最新の学問を学べる場になっているような気がします。
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