島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

市村英作頌徳碑(後編)

2018-12-15 11:56:38 | 人物
愛野図書館に着きましたが、一度は探した事のある資料ばかりで目新しいものが見つかりません。
これは聞くしかないな。
ところがそこから話が二転三転、地元の郷土史に詳しい方が来てくれる事になりました。
ああ〜そこまでは・・・寒い中ご足労頂き申し訳ない。
そうしてお話を伺い、「市村英作」氏について知る事が出来ました。
おおまかに説明すると、「戦後復興に全力で取り組み、愛野展望台に天皇の御巡幸を賜った」人物です。
確かに愛野展望台に「天皇陛下御展望の地」ってあったな。(2012年1月29日記事「愛野展望台」
しかも愛野図書館(雲仙市役所愛野総合支所2階)からほど近い場所に「市村英作頌徳碑」があるそうです。
もちろん撮影に行ってきました。(表紙写真)
見覚えがある方もいるのではないでしょうか。
そう諌早から愛野町に入る入口の“愛のシンボルゲート”と並んで設置してあるものです!
何気に目にしている風景の中に関連しているものがあったとは、灯台下暗しとはこの事ですね。

しかし、やっぱり石碑に記してある碑文は読めなくなっています。
こちらの碑文に関しては、「増補改訂版 愛野町郷土誌」に記載さています。
全文を書き写すとこれまた長くなるので、簡単にかいつまんで書きますと、
「昭和四十三年二月吉日 市村干拓創設記念
 戦後の深刻な食料不足を緩和する農地の造成と、既成湿田の乾燥と塩害・高潮被害から免れる為に市村町長は昭和二十五年、議会の協力を得て、農林省へ干拓新設の補助陳情交渉を何度も重ねた。
 昭和二十七年許可の直前、農林省が経済効果不足のため許可せず、申請を却下するとの通達があった時も、町長は怯まず即時護岸補強事業に変更して再陳情を強行し、予算二千五百万円を勝ち取った。
 干拓は完成したが、その間の町長の心身の労苦を知る人は少なく、これを筆舌に尽くす事も至難なり。町長の偉大なる功績を讃え頌徳碑を建立して永久に後世に伝えるものです。
 市村氏は本年七十九歳(頌徳碑が建立された昭和四十三年時点)の高齢を保ち医師を本業として五十五年仁術を尽くし今尚矍鑠たるものあり」
やはり銅像としてまで後世に残さなければならない人ってのは偉業を成し遂げているものなんですね。
しかも知らない人が増えて行く世の中でもこうして記録に残っていくのは素晴らしい!
私もなにか人から銅像を作ってもらえるような偉業をやってみたいなぁ〜。w
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市村英作銅像(前編)

2018-12-14 12:51:27 | 人物
多良見町から雲仙に帰って来る時にひょんな事から見つけました。
愛野展望台の道向かい、山本美術館が建っている側の国道沿いに銅像が立っていました。
近寄ってみると「初代愛野町々長 市村英作」氏の銅像だという事が分かったのですが、手前にある石碑の碑文がまったく読めません。
普通碑文って、掘った文字に白とか金色で着色してあるものですが、掘っただけで色が付いていないんですよ。
光の加減も相まって、目視できません。
指でなぞって読む方法も考えましたが、二十〜三十文字ならいざ知らず、何百文字あるねん!?
ですが、銅像が誰かって事は分かりました。
しかも愛野町の初代町長ですから、何かしらの記録は残っているでしょう。
雲仙に帰ってきてから、後日資料を調べてみる事にしました。
ところが、13代愛野村の最後の村長であり、愛野町の初代町長であること以外がさっぱり分かりません。
まさか、たったそれだけの事で人は銅像を作ったりしません、よね?
ネット検索もかけましたが、ヒットなし!
姓名判断で「凶」と出ました。
仕方ないので『地元のことは地元に聞け』、昨日愛野図書館まで行ってきました!(明日へ続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下村脩博士の像

2016-10-28 12:42:33 | 人物
まだ、諫早市内をウロついています。(笑)
と言っても「愛宕山の肥前鳥居」の撮影ミスに気付いて、2回目の訪問です。
市内をウロついていると、学校の前に銅像を見つけました。
「もしや」と思い近づいてみると、案の定「下村脩博士の像」でした。
2008年にノーベル化学賞を受賞された研究者です。
学校は下村博士の母校・諌早高等学校でした。
「ー生物発光研究の先駆者ー
 下村博士は1928年に雲仙市出身の軍人であった父と諫早市出身の母の間に生まれる。少年期は父親の仕事の都合で転居を重ねるが、16歳のとき母の実家がある諫早市長野町に疎開のため移り住み、旧制諌早中学校(現在の諌早高校)に転入。1945年3月同校を卒業する。
 その後、当時諌早にあった長崎医科大学附属薬学専門部(現在の長崎大学薬学部)に入学、青春期の最も多感で夢と希望に満ちた大切な時期を、自然豊かなここ諌早の地で学ぶ。
 卒業後は長崎大学、名古屋大学を経て、さらなる研究のためアメリカへ渡り、発光生物のひとつオワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見し、現代医療などへの多大なる貢献により、ノーベル化学賞を受賞する。
 博士の偉大な功績を称え、市民の誇りとして未来の子供たちに受け継がれていくよう、多くの方々の善意によって受賞記念の像を建立する。」2010年4月 下村脩博士銅像建立委員会
これだけの偉業を成し遂げないと人は銅像を作ってもらえないんですね。(私にゃ〜無理だなw)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上山公園を歩く、その1-野呂邦暢文学の碑

2016-10-09 17:30:28 | 人物
「野呂邦暢文学の碑」は上山公園入ってすぐ右手にあります。
野呂邦暢(のろ くにのぶ;1937〜1980)さんは、諌早市を舞台にした小説・随筆を数多く残した芥川賞作家です。
長崎市出身ですが、幼少の頃に長崎から疎開し、諌早をこよなく愛しました。
代表作に「草のつるぎ(第七十回芥川賞)」「諌早菖蒲日記」「落城記」他があります。
上山公園の文学碑の前で毎年5月「菖蒲忌」が開催されているそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田渭水(いすい)

2014-11-15 11:16:00 | 人物
急に寒くなったので、体調を崩してしまい、昨日(休日)の午後からずっと寝ていました。
今朝起きると、かなり回復していたので、普通に出勤しています。(少し鼻声ですが)
皆様もくれぐれご自愛下さいますように。

さて、諌早市役所へ行った時のお話です。
道を挟んだ向かいに市役所の駐車場があるのですが、駐車場に2基の頌徳(しょうとく)碑があります。
頌徳とは、功績・徳行を褒め称えることです。(国語辞典より)
土橋貞恵(ていけい)と福田渭水、お二人の頌徳碑ですが、土橋貞恵は今後も紹介する機会がありそうなので、今回は「福田渭水」についてご紹介しようと思います。
「福田渭水は、幕末の諌早領の学者・教育者です。
文政元年(1818年)、商家に生まれ、七歳で高柳家塾に入門したあと、学問に親しみ、やがて諌早の郷校である好古館の先生となり、子供たちの育成につとめました。
長崎に出て洋式兵学を学び、外国船来航にあたり長崎警備の任を果たしました。また、好古館の教育改革を提言し、私財を投げ出して推進しました。」(諌早市教育委員会)
幕末の人らしく、1866年に49歳の若さで亡くなっています。
撮影した時には気づいていなかったが、一番右の石柱に「好古館跡」と刻まれている。
ここに「好古館」があったのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マグダレナ林田

2013-03-10 13:07:23 | 人物
島原カトリック教会からもう一人。
イグナチオと扉を挟んで、右側にある像です。
内堀兄弟より遡ること14年、1613年に有馬川の中洲で8人の信者が火あぶりにより殉教しました。
その8人の中の一人が、像のマグダレナ林田です。
マグダレナが火あぶりにされている時、縛っていた綱が焼き切れました。
普通だったら一目散に火の中から逃げだすところでしょうが、マグダレナは自分を焼いている足元の薪を手に取り、頭上へ捧げて「神よ この火を祝福してください。」と祈りながら殉教したそうです。
像はその時のポーズを表しています。
ちなみにマグダレナは、この時19歳でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内堀兄弟

2013-03-08 13:21:31 | 人物
1627年、島原藩主松倉重政のキリシタン弾圧により、16人のキリシタンに棄教を迫る拷問を加えました。
その16人の中に、島原地区の世話役パウロ内堀作右衛門の3人の息子がいました。
バルタザルと18歳のアントニオ、そして5歳のイグナチオです。
「キリスト信者は人間ではない、だから指は10本もいらないだろう」との理由から親指と小指をのぞく三本の指が両手から切り落とされました。
その後16人は裸にされて真冬の有明海に次々と投げ込まれました。
そして、死にそうになると引き上げられを何度も何度も繰り返し、棄教を迫られました。
「お父さん、こんな大きな恵みを神に感謝しましょう。」
これは次男アントニオが海の中から父に告げた信仰告白として記録されています。
父作右衛門もその一週間後に雲仙で殉教しています。
教会の扉の左には、そのイグナチオの像がありました。
よく見ていただくと三本の指がないことが分かると思います。

「島原の乱」や「キリシタン弾圧」は言葉として知ってはいても、こんなに酷い、そして私たちが普通に暮らしてる場所のすぐ近くで起こっていたとは、まったく知りませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルイス・フロイス

2012-11-29 14:18:36 | 人物
ルイス・フロイス(1532~1597)
ポルトガル人イエズス会士(宣教師)。
1548年、16歳でイエズス会に入会し、インドのゴアへ赴き養成を受けます。また、同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会います。
1561年にゴアで司祭に叙階され、1563年31歳で横瀬浦に上陸し、日本での第一歩を記します。
1580年の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、その後全国を巡って見聞を広めました。
日本を報じる60通を超える書簡のみならず、その時の記録が後に『日本史』と呼ばれることになります。
その中でキリスト教だけでなく織田信長や豊臣秀吉、大友宗麟父子などといった歴史上の有名な人物についてもいきいきと伝え、当時を知るうえでの貴重な資料となっています。
1597年、フロイスは長崎西坂での殉教事件の報告を最後に、5ヶ月後に長崎で息を引き取りました。
11月26日にアップした横瀬浦の港を撮影した、横瀬浦公園から階段を下りてきた場所にフロイスの像がありました。(写真の左端に写っている階段がそれ。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする