島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

2018年の振り返り

2018-12-31 13:36:36 | Weblog
2018年も残すはあと数時間となりました。
はてさて、今年一年はどんな年だったのか振り返ろうと思いますが、印象としてはあまりパッとした一年じゃなかったな〜。
2017年後半から病気だったり、故障だったり、世間一般では凶とされる出来事が今までずっと引きずっているような気がします。
来年こそは、来年こそは、良い年であって欲しいのですが、亥には「種に生命を引き継ぐ」意味もあって、次なる成長へエネルギーを貯める年でもあるので、来年はまだ無理かなぁ〜。
振り返りらしい振り返りではありませんが、以上を持って2018年の締め括りとしましょうか。(やる気なし!w)
それでは皆様、良いお年を!!
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化屋大島石棺群

2018-12-30 12:35:36 | 歴史・史跡
知らぬ間に2018年の年の瀬も押し迫り、気付けば明日が大晦日じゃないですか!?
この一年、私は何をやっていたんでしょうかねー。
さて気を取り直して、話は多良見町散策に戻ります。
昨日の解説文章の中にちらっと「塩田は大島の丘の土で〜」と書きましたが、なるほど駅から新興住宅地(シーサイドタウン言うらしい)へ向う手前に10mくらいはありそうな丘があります。
この辺は埋め立て地でしょうから、元々は島だった部分じゃないでしょうか。
その(駅から見て)裏側に旧跡がありました。
どうやら指定の文化財ではないらしい、ですが解説板が建っていました。
「化屋大島石棺群は、弥生時代中期初頭頃のお墓で、約二千百年ほど前につくられたものです。
 昭和四十八年(1973年)に調査が行われ、七基の箱式石棺からなる墓地であることが分かりました。
 平たい石を組み合わせて長方形の棺を作り、平たい石をかぶせる構造になっています。
 石棺の大きさは縦約1m、横40〜50cmくらいですが、埋葬された人はひざを曲げた屈葬といわれる姿で葬られました。
 弥生時代はそれまでの日本では見られなかった『稲作』がはじめておこなわれた時代ですが、化屋大島の近くの低い場所で稲作が始められたのでしょう。
 大村湾沿岸ではこのような石棺がよくみられますが、時代は化屋大島石棺群よりも新しいものです。
 この石棺群は、大村湾地方ではもっとも古い墓地の一つと言えるでしょう。」(諫早市教育委員会)
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化屋名塩浜跡石碑

2018-12-29 12:40:43 | 歴史・史跡
正面からの撮影を忘れていました。
何度目かの訪問になる多良見町散策です。w
喜々津駅周辺が現在再開発中で、場所は変わっていないのだが、道が分からず探しました。
先日紹介した諫早市多良見支所に出向いて道をお聞きしました。
(多良見支所の皆様、先日はお邪魔しました。お陰様で無事、目的地まで到達する事が出来ました。)
写真の公園には「化屋名塩浜跡石碑」という諫早市指定有形文化財があります。
「喜々津村に塩田が開かれたのは、江戸時代初期(寛永の頃1624〜1644年)で、久山側から喜々津川河口へと拡げられ、塩浜八町(一町は約9917㎡)といわれた。そこには塩炊き窯が五軒あり、この辺りを化屋(けや)と呼んだ。ここでは、年間約八百石余(一石は約180ℓ)の塩が生産され、諌早方面へ納められていた。※
 明治時代に国営の専売局に引き継がれたが、明治四十三年(1910年)に廃止され、塩田は大島の丘の土で次々に埋め立てられ畑地となった。
 その埋め立て終了を記念し、大正三年(1914年)に、原口駒太郎氏によって、この石碑が建立された。」(諫早市教育委員会)
※「諌早方面へ納められていた」;どうもこの表現が引っ掛かります。諌早方面?江戸時代の諌早は確か佐賀藩領地だった筈。
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年末寒波襲来中

2018-12-28 13:05:08 | 気象
数日前からTVで「年末寒波が来る、年末寒波が来る」と騒いでいましたが、その寒波が押し寄せてきています。
ただ、・・・思った程でもない。
まあ、確かに寒いし、妙見岳にも久しぶりに霧氷が着いた。(表紙写真)
が、例年の寒波に比べると「こんなもん?」って感じだ。
実際、今朝の雲仙の気温はー3℃、仁田峠でー6℃だった。

温泉街でも偶に雪がチラつく程度で積雪はない。
仁田峠の吹き溜まりにちょっとだけ積雪があった。
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ご存知ですか?ローンボウルズ

2018-12-25 13:05:14 | 雑談・その他
金融庁か消費者庁の広報みたいなタイトルになってしまった。
「ご存知ですか?ローンボウルズ」。
多良見町内を西へ東へ歩き回っていると、妙なグラウンドに行き着いた。(表紙写真)
商業地に近く、周囲には工場などもある、わりと賑やかな場所だ。
しかも目を引いたのは「ローンボウルズ場につき関係者以外の立ち入りを禁止します」との諌早市長が掲げた看板だ。
なんだ?ローンボウルズって??
「ローンボウルズは、芝生の上でボウルと呼ばれる偏心球(中心が偏った玉?)を、目標球のどれだけそばに近づけるかを競う球技である。イギリス発祥のスポーツで、ボウリングの前身でもあり、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドといったコモンウェルス諸国で人気がある。競技は1対1で行うシングルスから、4対4で行うフォアーズというチームプレイまで、4種類あります。」
実物を見ないとよく分からないが、ルール的にはペタンクに似た競技だろうか。
違うのは芝生の上で行うことと、ボウルを転がす事にあるらしい。
しかも中心が偏った球を使うので、転がすスピードが遅くなると大きなカーブを描くようだ。
う〜ん、なかなか難しそうだ。
調べてみると、NPO法人もあるみたいだ。
まさか町歩きをしていて見知らぬスポーツに出会おうとは思わなかった。
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喜々津駅周辺を散策

2018-12-24 11:43:26 | 雑談・その他
多良見町内を歩き回っていると、いつの間にか喜々津駅に行き着いた。(表紙写真)
最近駅舎を建て替えたのだろうか、真新しい建物だ。
JR九州 長崎本線の駅である。
ここから乗って行ける所は、「諌早・大村方面」か「長崎市方面」、あとは「長与方面」にも行ける電車が出ている筈だ。
申し訳ないが、私は鉄ちゃんではないので鉄道にはあまり詳しくない。
駅をあとにして歩いているとオレンジ色の派手な橋を見つけた。

多良見町がみかん押しだから、橋もオレンジ色に塗ったのだろう・・・。

橋の名前は「なごみ橋」、欄干には「市道化屋木床線」と書かれた銘板がある。
化屋(けや)と木床(きどこ)は地名だろう。
喜々津駅のある方が“化屋”で、橋の向こう側にある新興住宅地が“木床”なのだろう。
完全な歩行者専用の橋で、住宅地の住民にとってはありがたい近道だ。
と、橋を渡っている最中に隣を並走している軌道を電車が通りかかった。

繰り返すが、鉄道には詳しくないので、この電車がこれからどこに行くのかも分からない。
でも、なんだか良い写真が撮れた。w
橋を渡り終えると、正面に広い公園が現れた。

「大四郎渕公園」?
なんと読むのだろう?
ネット検索では「大四郎“淵”公園」と書かれているものもある。
変わった名前の公園だ。
よし、今度はこの公園の読みと名前の由来を調べに、もう一度多良見町に行ってみよう!

公園自体は広く、なぜか遊具は端っこに並べて置いてあった。
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化屋・阿蘇神社の二の鳥居と三の鳥居

2018-12-23 13:55:51 | 歴史・史跡
多良見町の寺社・仏閣と言えば、ここを外して語るわけにはいきません。
化屋(けや)の「阿蘇神社」です。
一度は行かなければと思っていました。
御祭神は「タケイワタツノミコト(健磐龍命;阿蘇山を制する神様で、初代神武天皇の孫)」です。
「阿蘇神社は天文三年(1534年)、当時伊佐早一円の領主西郷石見守が喜々津の総鎮守として熊本県一ノ宮の阿蘇神社より御分霊を勧請、囲の地に祠を建立して祀られました。以来武将は国土守護の軍神として、農民は農耕の神として崇敬を寄せました。
 寛永元年(1624年)に正法寺住職伝興法師が氏子と協力し、囲の地にあった阿蘇神社を現在地に遷宮しました。伝興法師は阿蘇神宮の子息で、神社との縁が深かったようです。背後の丘陵地はこれ以来、「阿蘇の島」と呼ばれるようになりました。事実、当時は島であったと思われます。
 文禄二年(1593年)関白豊臣秀吉が阿蘇大明神の御神託を請け大いに喜び、喜聞津と名付けられました。(喜ばしき事を聞く津という意味)後世これが訛って喜々津となったと伝えられます。明治七年五月村社に列せられました。」

二の鳥居と三の鳥居が諫早市の有形文化財に指定されています。
「二の鳥居は元禄五年(1692年)の建立で、『喜々津村中、宮司正法寺 神職松井左近』の刻字から正法寺の住職が宮司であり、寺院の管轄下で阿蘇神社を司掌していたことがわかります。
 三の鳥居は天明七年(1787年)の建立で、中里の前田段十という者が施主となっている他文久二年(1862年)の修理の記銘がある。」

そして本殿。
忘れていましたが、世間的には正月が近いのですね。
ここ最近訪れた神社はどこもお正月を迎える準備に取りかかっていました。
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諫早市多良見町

2018-12-22 13:28:32 | 雑談・その他
琴の尾岳からこっち、間に観察会が入ったが、多良見町の史跡や寺社・仏閣を紹介しているのにお気づきの方もいらっしゃるだろう。
そう、今の私のマイブームは「諫早市多良見町」なのだ!w
休みの度に車を運転して多良見町まで出掛け、ウロウロと歩き回っては史跡や寺社・仏閣を探しています。
もはや不審人物です!(断言)
私が通報もしくは逮捕される前に「多良見町」について説明しましょう。
昭和30年(1955年)、喜々津村、大草村、伊木力村の三村が合併し、多良見村が発足しました。
多良見町の骨格がこの3つの村と言っても過言ではないでしょう。
10年後の昭和40年(1965年)町制に移行し、西彼杵郡多良見町となりました。
さらに40年後の平成17年(2005年)平成の大合併により、諫早市・森山町・飯盛町・高来町・小長井町と合併して現在の諫早市が誕生しました。
漢字で多良見と書きますが、読みは「たらみ」です。
聞き覚えがあるでしょう、そうフルーツゼリーで有名な製菓メーカー「たらみ」さんの創業場所です。(現在は長崎市に移転し、ダイドードリンコの子会社になっているらしい。)
たらみさんが創業したのも、伊木力ではみかんが有名だったからです。(以前「伊木力のコミカン」2015年1月25日記事で紹介)
なので、多良見町ではみかん押しです。w

ビックリしましたが、マンホールの蓋がみかんモチーフです。

橋の欄干にもみかんが立体レリーフになって飾られていました。
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七日回りの石

2018-12-21 13:12:42 | 民話・伝承
「名犬 矢間の墓」まで着いたらUターンして雲仙温泉街に戻ります。
今度は国道57号線に沿って帰ります。
雲仙小学校の前を過ぎると、表紙の写真「片足鳥居」があります。
このブログでも何回か紹介していると思いますが、直近では2015年3月15日の記事ですね。
この片足鳥居がこの後紹介する「七日回りの石」に関係してきます。
行きは小地獄から旧道を通ってきましたが、帰りはこのまま57号線に沿って帰ります。
「旅亭半水盧」の入口よりもちょっと手前に、今回の観察会のもう1つのメイン「七日回りの石」があります。

勿論、国道沿いにデンと巨石が転がっているわけでなく、少しだけ藪の中に入って行きます。
夏場は(9月に一回下見に来た)、とても分け入ることが出来ないくらい植物が繁茂していますが、冬場は歩けるくらいには開けています。
もしかすると、誰か手入れしているのかも知れません。
お地蔵さん辺りは綺麗ですし、手前の枝はお地蔵さんが見えるように折られています。

巨石と書きましたが、比較するものがないと大きさが分かりにくいでしょう。
石の隣に丁度上司がいたので、比較するために撮影しました。
赤・紺の上着を着ているのが大人一人の大きさです。
「その昔、温泉神社が『四面社』と呼ばれ、仏教の聖地だった頃の雲仙は、片足鳥居よりも先は女人禁制になっていました。
 ある日、雲仙のお寺に我が子を預けた母親が、我が子会いたさから下の子を連れて山を登り、女人禁制である事を忘れて『一の鳥居(片足鳥居)』の先にある大きな石のところまで来て、流れる小川で足を洗い休んでいました。
 ふと気がつくとそばで遊んでいた子供の姿が見当たりません。母親は驚いて、気が狂わんばかりに七日七夜 石のまわりを捜しますが、こちらにくればあちらから子供の声がすると言う有様で、とうとう見つける事ができず、哀しみのあまり遂に息が絶えたということです。この話を聞いた人々は、子供を思う母親の気持ちを考えると、かわいそうに思い、大きな石の上にお地蔵さんを祀ってねんごろに弔ったということです。」
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名犬 矢間(やま)の墓

2018-12-18 12:27:44 | 民話・伝承
今回の観察会のメインの1つでした。
「名犬 矢間(やま)の墓」です。
話が長いので、この場ではかい摘んでしか説明できませんが、良い話です。
「昔、湯元に賢くて忠義な矢間(やま)という犬がいました。
主人に頼まれると約12kmの山道を越えてお使いをする名犬でした。
ある日、お使いに向っているとその家の娘が蛇に襲われていました。
矢間はすぐに飛びかかって、蛇を追っ払いました。
そんな矢間が、どんよりと曇った日にお使いを渋る様子を見せました。
しかし、首にお使いの風呂敷を括り付けられると『ワン』と吠えて、元気よく駆け出しました。
ところがいっこうに矢間は帰ってきません。
心配していると、通りがかりの人が『札の原で矢間が倒れているよ』と報せてくれました。
主人をはじめ湯元の人たちも驚いて駆けつけてみると、首に掛けていた風呂敷は無くなり、お腹と頭をひどく叩かれた傷がありました。
きっと泥棒が風呂敷にお宝が入っていると勘違いしたのでしょう。
矢間は取られまいと必死に戦ったのですが、敵わなかったのです。
みんな残念に思って、札の原に矢間を丁寧に葬り、石碑にその姿を刻んで建ててあげました。」
場所が少し分かりにくいのです。
国道57号線からカトリック雲仙教会へむけて行く道の途中にあります。

赤丸の中です。
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