goo blog サービス終了のお知らせ 

島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

山の寺梶木遺跡

2014-10-29 14:07:06 | 歴史・史跡
先日から暫くの間、汲上げポンプが故障して水が出ませんでした。
トイレの水は別系統だったので、ひどく困ったわけではありませんでしたが、手洗い用の水のため以前紹介した「内野湧水」に時々水を汲みに行っていました。(なんだか昔話みたい)
雲仙から下ってきた時に立ち寄るのですが、なにかしら近道がないかとあの辺り一帯を車で走り回っていた時に見つけました。
ご覧の通り、看板だけしか残っていないので詳しいことは分かりません。
多分このまま朽ちていきそうなので、無くならないうちに記録として書かれていることをそのまま記載します。
「梶木遺跡は温泉岳連峰の野岳(1147m)のスロープを形成する扇状台地の麓、標高280mの地に位置している。
 戦後、この地は開拓地で、開墾や耕作のたびに多数の石器や土器が出土した。日本考古学協会会員吉田正隆氏はこの地から、二片の土器を採取した。驚いたことにその土器からモミの圧痕が発見された。
 更にまた、吉田氏は糸をつむぐ道具の紡錘車二個も採取している。
 その遺跡から出土した遺物は独特の土器文化を展開し、考古学会の森貞二郎博士は出土した土器を「山の寺式土器」と名付けられた。
 年代を2500年前、その時代は縄文晩期の末葉と比定された。
 従来日本における稲の出現は弥生期とされているが、この地 山の寺梶木ではすでに縄文の晩期に米作りが行われていたのではなかろうか、昭和35年8月、「西北九州総合調査特別委員会」は山の寺梶木遺跡の学術調査を実施した。
 発掘された遺物は、農耕用石器と山の寺式土器の各種、その他組織痕土器、甕・壺は口が小さく赤色や黒色に塗彩されたものもあり、更にかつて吉田氏が採取した紡錘車二個に加えて新に二個が発掘され、この地における織物技術の存在をいよいよ明確にした。
 吉田氏採取のモミ痕土器を柱に、多くの資料を組み合わせると、山の寺文化に米作りの農業があったことは動かせない事実である。
平成12年3月建立 深江町教育委員会」
・・・肝心の土器はどこかに保管されているのであろうか?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く 終 (石垣修復)

2014-05-08 14:03:00 | 歴史・史跡
長かった「島原城下を歩く!」観察会の報告も、いよいよ今回で終わりです。
4月19日に実施したのに、報告が今日までかかってしまいました。
明後日には5月の自然観察会が実施予定です。w

先程「城下を歩く9」では、「島原城から出まして、武家屋敷へ向かっていきます。」と冒頭始まっていますが、その間に今回のメインである「石垣の修復跡」を見学しました。(表紙写真)
島原城の石垣には植物がはびこっているのですが、修復が完成した一角だけ、まっさらの岩石がむき出しになっています。
今回の石垣崩壊が引き金になって、島原城や石垣への関心が高くなったようです。
石垣も調べ直してみると、

所々に赤丸で示したように、飛び出して今にも崩れそうな場所があちこちにあるのが見て取れました。
そしてずっと以前から、崩壊しては修復してを繰り返していたのでしょう、明らかに元の石垣と違った並びの石垣も発見できたそうです。
現在では、また違った形に修復するわけにもいかずに検討を重ねているそうです。
島原城や武家屋敷は、何度も行ったことのある馴染の場所でしたが、視点を変えて見るとまだまだ新しい発見が出てくる不思議なところでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く8(城内文化財)

2014-05-05 15:54:09 | 歴史・史跡
今日は、こどもの日。
明け方まで雨が降っていましたが、開館してからはあまり天気は良くないものの雨は降っていません。
「忍者になってお城で遊ぼう」が島原城で開催予定でしたが、どうだったのだろうか?
いつか参加してやろうと思っています!(笑)

さて、そろそろ佳境の文化財ジオツアーですが、まだ島原城内です。
今日は資料館に入らなくても楽しめる島原城のお話です。
まず園内を回ってみると、北村西望さんの作品があちこちに配置されています。
探して回るのも面白いと思います。

こちらは「御馬見所(おんうまみしょ)」です。
元は島原城の三の丸にあったものです。
お城が民間に払い下げになった際に買い取られ、口之津町の南氏が保存していたそうです。
それを城内に移築しました。
建築年代は幕末の藩主 松平忠和(ただかず)公の時代で、藩主が藩士の訓練状況を見るのに使われました。
国の登録有形文化財です。

そして、こちらは「景華園遺跡の支石墓掌石」です。
2011年1月23日の記事で紹介済みです。
島原市指定の有形文化財です。

城内に無料で入れる民俗資料館内です。
階段の裏に隠れるように置いてあった「門」です。
一説では、『当時のお城の門』とのことですが、防衛の要の門がこんなに小さく薄いとは考えにくい・・・と、まだ疑問が残る代物でした。w
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く7(防衛編)

2014-05-04 15:41:51 | 歴史・史跡
島原城内の売店で、うどんやカレーなどのお昼をいただき、休憩を取りました。
午後の観察会の始まりです。
そのまま武家屋敷に向かうのかと思いきや、島原城の石垣に沿ってぐるりと1周しました。
こういう場所を「帯曲輪(おびぐるわ)」と言うそうです。
高い石垣です。(表紙写真)
これは攻め手も手をこまねくものです。
大手門と東虎口門では、攻城する方の立場からお城を見ましたが、今回は防衛する側の立場になって見てみましょう。

こちらはお城から見た大手門方面です。
お堀を挟んで、例え敵兵が大手門を突破出来たとしても、その姿はお城から丸見えです。
壁には鉄砲や矢を射るための隙間が拵えてあるため、こちら側からは安全に敵兵を攻撃できます。

そして、東虎口門の正面にあった櫓からの眺めです。
こちらも上から敵兵の姿が丸見えです。
正面の坂をまっすぐ登ってくる敵兵を一発一発(一射一射)冷静に討ち取れます。
う~ん、やはりお城は戦う為の要塞ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ城内へ

2014-05-02 13:13:44 | 歴史・史跡
今日はなんだかネットワークの繋がりが良くなっています。

観察会が始まってからまだお昼にも到達していません。
内容の濃さが分かってもらえると思います。
表紙の写真は、お堀の中から見上げる二の丸側の石垣です。
石垣の角に注目して下さい。
側面を構成している岩石よりも大きいものを使用しています。
そして、石の幅が長い方と短い方が交互になるように積んであります。
このような積み方が頑丈な石垣を造るのだそうです。

さあ、いよいよ城内へ入っていきます。
この階段は後になって作られたものですが、本丸の本当の入口になります。
丁度背中側に二の丸、現在の島原文化会館が建っています。

正式な本丸の入口ということで、ここには殿様の権威を象徴するべく巨石が配置されています。
今まで何気なくお城の石垣を見ていましたが、こうして一つ一つ解説を聞きながら進むと、今までとは違った姿の石垣が見えてきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く6(東虎口門跡)

2014-04-29 18:45:34 | 歴史・史跡
虎の口と書いて、「こぐち」と読みます。
簡単に攻め込まれないように、右に左に折れ曲がったお城特有の入口のことを言います。
さて、宮崎商店の横を通り抜けていよいよ島原城内へ入っていきます。

現在の島原城は、お堀があってその中に復元された本丸の天守閣が見えているので、「お城」というと「お堀の中」のイメージが強いのですが、実際にはこの坂道(段差)から内側が全部「お城」になります。

丁度ここには七つの城門のうちの一つ「東虎口門」がありました。
お城は、言っても昔の要塞です。
戦う為の建物ですから、それなりの戦の準備がしてあります。
出入り口に門があるのは当然のこと、門を突破できたとしても虎口によってまっすぐ進めません。
そんなところに、お堀を挟んだ向かいには櫓が建っており、そこからは弓矢や鉄砲が雨あられと降りそそぎます。

もし、写真に写っている我々が敵軍の兵士だったとしたら、全滅しています。
本当によく考えられて建てられているなあ~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く4(恵比寿堂跡)

2014-04-24 13:21:02 | 歴史・史跡
七万石坂はあとから造られた道なので、上の町通りを途中で切ってしまっています。
坂を挟んで、上の町通りは続いています。
先に少し進むと、なんてことの無い駐車場に行き当たりました。(表紙写真)

駐車場のわきに解説板が建っています。
記録によると、寛政四年(1792年)四月朔日に発生した島原大変の大津波の波先は、地区によってまちまちですが、三会町・有馬町では恵比寿堂の辻が「津波堺」になっていました。
昔は、この駐車場の場所に恵比寿堂があったそうです。
この場所で標高が8mあるそうなので、当時の津波の高さが伺われます。
肝心の恵比寿堂は十字路の道向かいに移転していますと、土橋氏が指す方を振り向くと、

え、これ!?
あまりにもこじんまりとし過ぎていて、見落としていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島原城下を歩く3(上の町通り)

2014-04-23 11:20:47 | 歴史・史跡
紹介するものが多過ぎて、しばらく終わりそうにない・・・。
上の町通りには、国登録有形文化財が多いのでここでまとめてご紹介します。
まず、表紙の写真は「清水家住宅主屋」です。
正面に前庭を造らない近代の特徴がみられ、江戸時代からの持ち合わせながら新しい特徴もみられる過渡期の町屋として、島原町屋の変遷をたどる貴重な遺構です。
現代の建築物とは違って、二階が低いように見えるのが特徴です。
町人の住まいなので、武士を上から見下ろしてはいけないとの理由からだそうです。

次に訪れたのは、「鵜殿家住宅主屋」です。
現在は、「まちの寄り処森岳」として、観光のお客様の休憩所として利用されています。
天保13年(1842年)に建築された、建築年代の明らかな当地最古の町屋です。
何故年代が明らかなのかというと、

二階に上がらせてもらいました。
土橋氏が写真を見せながら解説していますが、この二階の梁の上に「棟札(むなふだ、むねふだ)」という木の札があって、それに施工主や大工の棟梁、建築年月日が記載されていたのです。
再び、屋外へ出ると、

中野金物店主屋(手前)・防火壁があります。
奥の建物と比べると、若干二階の高さが違うのが分かります。
レンガ造りの防火壁は大正時代頃の造りで、時代の変遷を表しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山ノ上神社

2014-01-31 13:43:54 | 歴史・史跡
もう時間軸がズレずれです。
いつ撮影に行ったんだか、忘れました。
雲仙市国見町にある「山ノ上神社」です。
昨年の夏くらいに広域農道を走っていると真新しい建物が出来ていました。

「山の駅 ベジ・ドリーム」というお店です。
店舗1F部分が農産物の直売所になっていて、2F部分はお洒落なカフェ・レストランです。
「ベジ・ドリーム」の名前から野菜にこだわっている感じが伝わってきます。
とまあ~お店の紹介は置いといて、その通りの同じ並びにあります。(目印だと思って下さい。)

だだっ広い運動場の奥に鎮守の森を従えて社殿があります。
広い運動場の隅にも石仏や石碑があります。
入口の鳥居には「四面社」の文字が刻まれてありました。
おそらく温泉神社に繋がるものだと思いますが、詳しい説明書きはありませんでした。
「さんめんわら展望所」(2011年3月11日記事)といい、半島内にはまだまだ謎の部分がいっぱいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千々石温泉神社

2014-01-27 13:41:04 | 歴史・史跡
実はすでにここは紹介済みなのだが、当時は寺社仏閣にあまり興味がなかったためにしれっと紹介だけしています。
2012年の正月に、島原半島内の神社を初詣で巡りした際に「その4」で訪れています。(2012年1月13日記事
伊佐早(諌早)・山田(吾妻)・有江(有家)の3つとあわせて、これで4つの分社すべてコンプリートです。
ただ、半島内にはまだまだ分社した温泉神社があちこちに分散しており、全部見つけ出すのは困難かと思われます。
言い伝えでは雲仙の温泉神社を中心に、守るように4つの分社を配置したと聞いた事がありますが、方角はバラバラです。
雲仙から見て、諌早・千々石・吾妻の3つはほぼ北西方向ですし、有家1つだけが南東方向です。
いくら地図がなかった時代とはいえ、太陽の昇る方向から大体の東西南北くらい分かったろうに、こんな偏った配置の仕方するかな?
もしかすると、知られていない何かしらの意図があったのかも知れません。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする