島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

権田公園(加津佐町)

2011-01-31 13:30:18 | 南島原
南島原市加津佐町にある権田公園に行ってきました。
公園の看板に「近隣公園」と書いてあったが、何の近隣だろう?というツッコミは置いておいて。
笑ったのは公園内にあった案内板。

全部消えてて案内板としての体(てい)を成していない。
せめて一部くらい残ってて欲しかった。w
さて、権田公園は加津佐町の国道251号線から少し脇道に入った所にあります。
が、その少し入った脇道がえらい登りです。
要は高台にあるわけですが、すごく見晴らしの良い所です。

写真の正面、青丸で囲んだ山が岩戸山です。
その左、赤丸で囲んであるのが女島になります。
次に右の黄色い矢印で指し示しているのが、口之津の早崎半島。
さらにその右の緑色の矢印が天草の鬼池あたりです。
ちなみに下の黒い矢印は国道251号線を示しています。(矢印方向に進むと口之津に行きます。)
天草の下島が良く見え、鬼池は勿論、通詞島や富岡、苓北町の火力発電所の煙突も見えました。
この日はあいにくの天気で長崎半島の方角がよく見えなかったのですが、天気の良い日にはお弁当を持って出かけたい場所です。
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国指定史跡 原山支石墓群

2011-01-30 13:23:58 | 歴史・史跡
南島原市北有馬町にある「原山支石墓群」です。
「支石墓」は、朝鮮で名付けられたもので、“石”で“支”えられた“墓”という意味です。
一般には「原山ドルメン」の名前で呼ばれています。
ドルメンは、フランスの地方語で、ドルは「卓」、メンは「石」を意味します。
もとは3群から成っていたそうですが、第1群は開墾によって失われ、第2群は保護され一般には立入り禁止になっています。
写真の第3群は、「原山農村公園」の一角として整備され見学できます。
(だから解説板には「原山第三支石墓群」と書かれてあったのか~。)
ここには、約40基の遺跡が完在しています。
時代的には縄文時代終末期から弥生時代への転換期の頃と推測され、日本国内の支石墓遺跡としては最古最大級のものと言われています。
実はここを訪れたのは2回目です。
1回目は草が生い茂り、支石墓群を見つけることが出来ませんでした。
今回2回目にしてようやくお目にかかれました。
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本日の垂木台地

2011-01-30 10:19:59 | 平成新山
昨日の天気予報では「雪だ、雪だ。」とあんなに煽っていたのに。
まーったくそんな気配はありません。
まあ、時々小さな雪がちらつきますが、積もる程ではありません。
雪を降らせる雲も見あたりませんし、良い天気です。
ですが、気温は冷え込んでいます。
今朝の垂木台地の気温は-2℃。
久しぶりに0℃以下を見ました。
ご来館の際には寒くないように厚着してきて下さい。

今日のお山も真っ白です。
先月の26日に雪が降ってから約1ヶ月、全然溶ける様子はありません。
さて、お気づきかも知れませんが、先日から人気ブログランキングに登録しました。
何がどうなるのか、よく分かっていませんが、宜しければ下のリンクをポチッと押して下さい。
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量石

2011-01-29 13:14:52 | 歴史・史跡
島原市指定の有形民俗文化財の「量石(はかりいし)」です。
場所は昨日の「常磐御茶屋跡と済衆館跡」の隣、というか同じ場所にあります。
由来は不明ですが、江戸時代に森岳城(島原城のこと)が築城された頃に城内の用水の利便をはかる為に置かれたものと考えられています。
量石とは、水路の水量を調節するために、水底に置かれた凹状の石を言います。
この量石は、直上の常磐御茶屋跡の池から湧く水を南北二方向に分けています。
南側の水路は現在、城内二丁目の雑用水、田町の農業用水として利用されています。
一方、北側の水路は、「おしめ川」と呼ばれて汚れ物の洗濯等に使われ、街路沿いを流下しています。
街中でも豊富に水が湧く、島原ならではの文化財です。
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余談

2011-01-28 14:41:25 | 雑談・その他
歴史・史跡のカテゴリーの話が続き、真面目になってしまったので、ここで一息入れる意味も込めて余談を。
今日アップした「常磐御茶屋跡と済衆館跡」ですが、本当に場所が分かりませんでした。
地図を片手に市内を歩き回り、島原商業のテニスコートに行き着きました。
コートのフェンスに町内地図があったので、それと見比べ「あっちかな?こっちかな?」と小一時間ばかり歩き回った結果、コートのすぐ近く、というか町内地図の反対、自分の背中側にありました。
振り返ればすぐだったというオチがつきました。
歩き回った時間はなんだったのよ・・・。
加来佐之や市川泰朴の名前が出始めました。
人物のカテゴリーを作って、一人一人を掘り下げないといけないかな。
時代や人物を整理しないと頭がゴチャゴチャになりそうだ。
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常磐御茶屋跡と済衆館跡

2011-01-28 13:25:21 | 歴史・史跡
一昨日、昨日からの引き続きのお話しです。
というのも、探していたものはこれだったのです。
ここは島原城築城時から清水が湧き出していて、藩主の別邸として利用されてきました。
松平氏の統治時代には常磐御茶屋(ときわおちゃや)がありました。
特別の計らいで、この地に藩医学校 済衆館(さいしゅうかん)が、文政四年(1821年)医学校兼病院として開校されました。
済衆館は、昨日ご紹介した「稽古館」の一科目であった医学を独立充実させ、領内のお医者さんを養成する他、蘭法医学を取り入れた施療を行いました。
天保十三年(1842年)にはシーボルトに学んだ蘭学者・本草学者の加来佐一郎佐之(かく さいちろう すけゆき)や二度の江戸遊学をはたした地元の医師 市川泰朴(いちかわ たいぼく)を教授にし、西洋医学を指導しています。
天保十四年(1843年)には市川・加来たちを中心に町在の医者たちと二度にわたる九州初の人体解剖を行い、さらに当時最も恐れられていた天然痘撲滅のため、長崎でオランダ医師モーニッケが嘉永二年(1849年)種痘に成功すると、翌年市川・加来両名に学ばせ、他藩に先駆け広く庶民に接種を行いました。
このように済衆館は島原の医学の振興と施療に貢献しましたが、時代の流れによって廃校されてしまいました。
常磐御茶屋の一部は、本光寺に移され、今でも資料館として公開されています。
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藩校・稽古館跡

2011-01-27 13:44:35 | 歴史・史跡
史跡に指定されているわけではありませんが、歴史的に重要な場所です。
島原市内、島原市立第一小学校近くにある「藩校・稽古館跡」です。
島原藩は、島原大変の直後である寛政五年(1793年)、学術振興のため、ここに「稽古館」を開きました。
開校にあたり藩主は、「自今、士卒族の男子齢八歳より入校、学に就くべし。業に奉仕する者は勤務の余暇に登校し、会読、講義を聴講すべし」と布達しています。
総裁に家老の羽太十郎左衛門伊張をあて、江戸で名のあった者たちを教授に任じ、指導にあたらせました。
学科は徳行、経学、文学、史学、国学、律学、兵学、医学、天文学の9科目ありました。
授業のある日は原則として一ヶ月のうち、4と9のつく日で、月に6回、午後3時開講、月謝は無料でした。
天保五年(1834年)には敷地560坪、建坪147坪に拡張増築し、孔子像をまつり、教授として川北温山を招き、生徒数も増えて、内外ともに充実していきました。
明治維新や廃藩置県のために閉校されてしまいましたが、それまでは庶民の教育に寄与しました。
現在は写真のように駐車場になってしまい、往時の面影を残すものは何もありません。
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古丁水源

2011-01-26 14:05:36 | 島原
街中を歩いていると時々思わぬものに出会うことがあります。
今回はその一つ「古丁(ふるちょう)水源」です。
探し物をしていて偶然行き当たりました。
写真が斜めですみません、全体を枠に入れるにはこの角度しかありませんでした。
1616年、大坂の役の功で松倉重政が幕府から島原半島を領地として与えられ、1618年から島原城の築城を始めたと伝えられます。
島原の武家屋敷街のうち古丁、中の丁、下の丁はこの頃から築かれたと考えられます。
この古丁水源は、その時代から長年の間、近隣住民の大切な水源として生活を支えてきたといわれています。
まわりを民家に囲まれた中に(=閑静な住宅街の中)、静かな水の流れだけが時を刻んでいました。
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景華園遺跡の支石墓掌石

2011-01-23 13:25:19 | 歴史・史跡
島原城にはこんな物まであったのですね。
島原市指定の有形文化財(考古資料)「景華園(けいかえん)遺跡の支石墓(しせきぼ)掌石(しょうせき)」です。
景華園は島原市北端(有明町と合併したため現在は北端ではありません。)、中野町一帯の海岸段丘上にあります。
元禄十二年(1699年)に藩主松平忠雄が別邸景華園を営んだことからこの地名がつきました。
景華園遺跡は、弥生文化期から鎌倉期に至る約千五百年の長期にわたる住居跡、墓域跡だったと推定されています。
これまでに甕棺(かめかん)のほか、銅剣・銅鉾などの副葬品や土器・石器の生活器具が出土しています。
島原城にあるこの掌石は、もと景華園にあったものを移したもので、重量が18.4トンある巨大なものです。
なお、景華園遺跡にはこれとほぼ同じ形で23トンほどの巨石が1個保存されています。
(保存のため埋め戻したと聞いたことがあるのですが、確かめに行かねば。)
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湧水庭園「四明荘」

2011-01-22 13:23:35 | 観光・施設
あまり良い写真を撮ってきていなかった・・・。
島原市内にある湧水庭園「四明荘(しめいそう)」です。
豊かな湧水を利用して造られた独特の風致景観から成る住宅庭園であり、四方の眺望に優れることから、主屋は「四明荘」と名付けました。
2008年に国の登録記念物に指定された伊東氏庭園がそうです。
大小三つの池があり、一日約千トンの湧水量を誇る池には鯉が泳ぎ、アカマツやカエデなど四季を美しく彩っています。
旅の一時をゆっくりと過ごす絶景の場所です。
観覧時間は9時から17時まで。
入館料は無料です。
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