goo blog サービス終了のお知らせ 

島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

日野江城跡

2013-09-23 14:27:43 | 歴史・史跡
日野江城は、標高60~70メートルの丘陵上にある有馬氏の居城でした。
当時は足下まで有明海が入り込み、その海岸にそそり立つ舌状台地上に築かれていました。
築城は初代領主経澄が建保年間(1200年代)に築いたと言われていますが、山城の構造や型式から見ても南北朝時代(1300年代)以降と思われます。
宣教師の訪問記に「有馬氏の見事な館が置かれ、いくつもの部屋と戸(襖)には優雅な絵があって、広間からは海を臨むことが出来た。よく整った庭には池、さらには茶室があって・・・」と書かれ、豪華さが伺われます。

現在再び発掘調査中で、次第にその謎の部分が解明されています。
黄金を塗った棟瓦が発見されたり、城門の階段に仏石をはめ込んだり、石垣の築き方に南蛮の影響があったりと、発見が続いています。
この日野江城も原城と共に、松倉重政によって島原城が築城された時に廃城となり解体されました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教えてもらった 清水川

2013-03-06 13:23:24 | 歴史・史跡
2月13日の記事でアップした清水川ですが、文章の最後に平成町に移設されたことを書きました。
移設された場所が分からないことを知り合い数人に聞いていました。
その中の数人が探しに行ってきたらしく、場所を教えてもらいました。
場所は雲仙岳災害記念館(通称;がまだすドーム)の敷地内でした。
何度も災害記念館には行っているけど、そんなのあったっけ? 記憶にありません。
実際に聞いた場所に行ってみました。
(表紙の写真)
あるじゃん。
全然気付かなかった。
しかも割りとちゃんとした解説板も設置してあります。
時々イベントの講師をお願いする長井さんに聞いてみると、昔は水も流れていたそうです。
さらに意外なことに記念館のパンフレットにもしっかりと記載されていました。
「灯台下暗し」とはまさにこのことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

摩利支天と大原野神社

2013-02-28 13:21:59 | 歴史・史跡
折角なので「摩利支天と大原野神社」について。
「摩利支天は、元禄十四年(1701年)に冨永五郎左衛門の建立に始まり、享保十九年(1734年)九月に疱瘡(ほうそう)大流行の折り、その平癒祈願のため草庵が建てられ、安政三年(1856年)草庵は拝殿として建て直されました。
御神体は、建雷神(たていかづちのかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・布津主命(ふつぬしのみこと)・摩利支天の神々と加藤清正公で、古来より戦いの神様として人々に尊敬されています。
明治元年(1868年)に大原野神社と改称され、野田・左底・久留里・長崎市横尾の氏神として祀られています。」時津町教育委員会
おっと、こんな所で加藤清正の名前が出てくるとは思わなかった。
いずれ機会があったら、時津町の歴史でも調べてみましょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水川

2013-02-13 13:04:48 | 歴史・史跡
昨日、先週火曜日、先々週の金曜日、休みの日がことごとく雨に見舞われています。
ストックしておいたネタがなくなってきました。
こちらは島原市天神元町にある島原市指定史跡「清水川」です。
画面左の石盤や石柱ではなく、画面中央から右に流れる石樋に注目して下さい。
石盤に由来から何から詳しく書いてあるのですが、全部を書き写していると長い時間がかかるので、手短に簡単に説明します。
寛政4年(1792年)に発生した島原大変肥後迷惑に関わる話です。
眉山の崩壊により多くの人命と財産が奪われ、また水も枯れ果ててしまいました。
時の庄屋下田吉兵衛は村人と計画して、6年の歳月をかけて村内18ヶ所に井戸を掘りましたが、ついに一滴の水も得られませんでした。
その後、太宰府などにお祈りしたところ、岩上山の渓間に湧水を見つけ出し、4500米余りも引いて村民の生活用水として利用しました。
開通当初は木をくり貫いた樋を用いましたが、腐食がひどかったため切石、漆喰を利用して作り替えました。
当時においては程度の高い工法だったそうです。
開通以来約170年間、絶えることなく当地を潤してきましたが、平成二年からの噴火により大部分が破壊されてしまいました。
噴火が終わった後、清水川は湧水点を含む上流が土石流により埋没しましたが、一部が北上木場町に残っています。
まゆやまロードで分断された部分は、清水川遺構として平成町に移設・保存され、往時の面影を伝えています。(何処にあるんだろう?探してみよう。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音姫神社

2013-01-14 13:18:00 | 歴史・史跡
今朝、雲仙の温泉街には雪が積もっていました。
私が外出した時間にはまだ除雪が行われておらず、圧雪された道を少しハンドルを取られながら下ってきました。
垂木台地にもうっすらと雪が残っていましたが、午前中には溶けてしまいました。
さて、昨日の続きです。
赤岩神社へ向かう途中にも分かれ道があり、そこから音姫神社に下って行けるようになっていました。
慎重を期すなら一旦入り口まで戻るのですが、大体の位置関係が頭の中で整理出来ていたので、分かれ道を進んでみました。
5~10分ほどで音姫神社に到着しました。
地形的には林の中の谷間になります。
こちらにも社の後ろに大きな岩があります。
鳥居は新しく、昭和62年の期日が掘られています。
十分に山歩きを楽しめたので、今回はここで引き返しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤岩神社

2013-01-13 11:45:35 | 歴史・史跡
久しぶりに山歩きを楽しんできました。
雲仙から国見町へ向かう道の途中、田代原(たしろばる)への曲がり角の向かいに、目立つピンク色の大きな鳥居があります。
以前からずっと気になっていました。
あの鳥居の先には一体何があるんだろう?
鳥居に近づくと、

下って行く舗装された道が続いています。
好奇心をそそります。
暫く舗装された道を下って行くと、

上下に分れた道に行き当たりました。
この先は人が歩ける程度の山道になっていて、車は入って行けません。
左に登る道には赤岩神社の鳥居が、右に下る道には音姫神社の鳥居が建っています。
体力があるうちに登りへの道を選びましょう。(下りはいつだって行ける。)
ちょっとしたアップダウンを繰り返しながら徐々に山を登って行きます。
正月に神社の信者さんが行かれたのでしょう、草木が切り払われて道が分かりやすくなっています。
植物が盛りをむかえる春夏秋に登っていたら、きっと道に迷っていたことでしょう。
汗をかきながら15~20分ほど登った所で、目の間に急に

大きな岩とその下の隙間に作られた社が現れました。
ここが赤岩神社です。
雲仙岳は火山で出来た山体なので、あちこちに巨岩がありますが、ここにもあったのか!
雰囲気的に瑞穂町にある岩戸神社に似ている気がします。
宗教にはあまり詳しくありませんが、山岳信仰ではこのような巨岩を神様が宿るものとして祀っていたのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎甚左衛門居宅跡

2012-12-07 14:34:06 | 歴史・史跡
思ったよりも延びた横瀬浦紀行も最後のアップになります。
本当は丁度お昼の時間になったこともあって、食事に立ち寄った「海の駅 船番所」なども紹介したかったですが、食事に夢中で撮影し忘れました。(外観など1枚もなし、横瀬浦に歴史散策に行く時は是非お薦めします。w)
表紙の写真にはなんだかモダンな建物が写っていますが、ちょい左端に注目して下さい。
史跡を示す石柱があります。
ここは「長崎甚左衛門居宅跡」です。
覚えておいででしょうか?長崎甚左衛門。
時津出身の私と少なからぬ縁のあるお人です。
2011年2月20日の記事に「長崎甚左衛門の墓」を掲載しています。
長崎の領主14代目です。
奥さんがキリシタン大名 大村氏18代当主 大村純忠の娘(三女)です。
大村純忠と共に横瀬浦で洗礼を受けたと考えられています。
秀吉によって長崎を追われ、筑後柳川の田中吉政に一時仕えて、その後横瀬浦に戻り、1621年に七十年余りの生涯を時津で閉じました。(横瀬浦→長崎→筑後→横瀬浦→時津?)
長崎港と横瀬浦港の両方の開港に関わったのが長崎甚左衛門です。
それで横瀬浦には長崎市と共通した地名が残っているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天主堂(教会)跡

2012-12-05 11:41:09 | 歴史・史跡
歩いていると横瀬浦が小さな港町であることが分かってきました。
しかし、その小さな町が一所懸命 450周年記念を盛り上げているのが分かります。

観光地にある顔出しパネル。

街灯にも450周年を記念する垂れ幕がありました。
さて上の写真、中央に撮影した小高い丘が「天主堂(教会)跡」です。
11月26日にアップした港を上から撮影した写真はここから撮りました。
「前庭から四段ほどで大きな門に至るが、その内側に奥行きと幅が8ブラサあまりの方形の庭があり、それを真正面にして奥行きが9ブラサ、幅が5.5ブラサの教会が建つ。」(1562年10月25日付横瀬浦発信修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡より翻訳要約)
※1ブラサは約2.2m。1間あるいは1尋と解した場合、約1.8m。
港に入ってきてすぐに小高い丘があり、その丘の上に教会が建っていた地理的条件は、口之津港と共通しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南蛮船来航の地記念碑

2012-12-03 15:19:13 | 歴史・史跡
横瀬浦紀行に戻ります。
2日にアップした「上町・下町跡」のすぐ隣には県指定史跡「南蛮船来航の地」があります。
1561年に平戸の七郎宮の門前で、平戸町民とポルトガル商人、船員との間で乱闘事件が起こり(宮の前事件)、ポルトガル人十四人が殺害されました。
これを機に平戸に代わる良港を探していたキリスト教宣教師たちが密かに測量を行い、横瀬浦の開港を領主の大村純忠に願い出ました。
ポルトガル船とともに入港する商人たちは関税を十年間免除、神父たちの了解なく異教徒が住むことは許されず、港の周囲二レグア(一レグアは約5km)の半分を教会が所有するものと定められました。
横瀬浦の港は“Porto de Nossa Senhora da Ajuda(お助けの聖母の港)”と呼ばれていました。
そして、貿易と信仰をもとめて全国各地からたくさんの人が集まり、港は繁栄したそうです。また、クリスマスや復活祭などのキリスト教の祝祭が盛大に催されたことが宣教師たちの書簡に残っています。
しかしながら、純忠の親キリスト教政策への反感と大村家の後嗣問題とが絡み、純忠の異母弟であり、大村家から養子に出ていた武雄の領主後藤貴明を中心とした反純忠派が横瀬浦に滞在中の純忠を襲いました。
火を放たれた横瀬浦は、1563年7月、1年余りで焼失してしまいました。
写真の碑は、1962年、南蛮船来航400年を記念して建てられました。
※口之津港の史跡 南蛮船来航の地は、2010年11月7日の記事にアップしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上町・下町跡

2012-12-02 13:45:08 | 歴史・史跡
あれ?11月30日にアップしたハズの記事が掲載されていない?
編集にデータがバックアップされていたので、助かった~。
(以下、11月30日の記事)
道の駅「さいかい」“みかんドーム”でもらったパンフレットを片手に横瀬浦を歩いて巡ることにしました。
小さい町ながら、あちこちに史跡が残っています。
ここは「上町・下町跡」。
階段を境に左が下町で、階段から丘に登ったエリアが上町です。
貿易で繁栄した商人やキリシタン教徒たちが暮らしていた集落だった場所です。
長崎市にも同じ地名があり、長崎より先に開港していたここ横瀬浦は「長崎市のひな形」だと思われます。
長崎には昔、丸山と呼ばれる遊廓があり、その間を繋ぐ橋が思案橋でした。
それは今もその地名のまま残っていますし、(実際に行きはしませんでしたが)横瀬浦にもその地名があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする