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島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

(旧)雲仙小学校校門の歴史

2025-08-22 09:50:54 | 歴史・史跡
25.8.22(金) 天気;晴れ 気温;24℃
 今日は午後から団体の工作教室があるので、いまのうちに更新しておきます。
 昨日までにその団体から参加人数など事前に連絡がなかったのですが、大丈夫だよな? 今、一抹の不安を覚えています。

 さて、17日(日)PETロケットの参加者を見送りに雲仙BASEの入口まで出た時に見つけました。(表紙画像)
 なに?「校門の歴史」?
 石柱を見ると、「温泉尋常小学校」と書いてあります(小の字が消えかかって判読は難しいですが)。 「温泉」は昔は「うんぜん」と読み、今の「雲仙」を指しています。 この字が使われていることから少し古いものだと分かります。
 解説にはこうあります。
「雲仙に学校が設立されたのは明治20年、富津簡易小学校分教室(1学級12名)を開設したのが始まりです。 明治26年には温泉尋常小学校として独立校となります。」
 富津は今の小浜町の一部ですが、最初に富津に学校が開設されたということは、当時は雲仙や小浜よりも富津が栄えていたということでしょうか。ちょっと興味深いです。
「この石柱、校門は大正7年に地元の人々の寄付により建立されました。この時の児童数は71名でした。大正15年には雲仙青年訓練所が併設され、太平洋戦争の年昭和16年には雲仙国民学校と改名されます。昭和22年に雲仙中学校を併設し雲仙小中学校となりましたが、この石造り校門は、昭和35年まで原生沼前にあった旧校舎の正門として使われ続けました。
 この門より巣立った卒業生は1586名になります。 平成10年4月」
!ってことは雲仙小学校は昔、原生沼の前にあったのか!! そう言えば今も原生沼の前は広場になっているもんな。
 なんとなくあそこに広い土地がある事に疑問を持っていましたが、なるほど、合点がいったー。
 解説には「校門があった昭和10年代の学校風景」が写っていました。
 言われてみれば、背景に写っている森(山)は原生沼の前にあるものだ!
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高城神社の大灯籠

2025-08-06 11:28:06 | 歴史・史跡
25.8.6(水) 天気;曇り 気温;24℃
 月、火と再び用事で実家に帰っていました。
 近所で押せるスタンプは押してきました。そして、再び高城神社にやってきました。
 前回解説板を読んで、もう1つ紹介できるものがある事に気付き、撮影してきました。それが表紙の画像なのですが、これでは何を紹介したいか分かりませんね。w
 解説板にあったのは「大灯籠」でした。よく見ると鳥居の両脇にあります。前回は完全に見落としていました。
 ちなみに画像は神社の本殿側から撮影しました。見てもらえば分かると思いますが、神社の正面に立った場合、背後に建物があるため全体を入れての撮影が出来ません。
 よく見える左側の灯籠を撮影しました。
 大きいですね。てっぺんにはシャチホコが飾られています。
 解説板によると、「明治十四年(1881年)、山口治右衛門(久山)、田島卯之助(東本町)の手によるものです。二人は眼鏡橋を成功させた棟梁の子供で、諌早地方第一の石工です。高さ約6.3メートル。」
 高城神社には灯籠に鳥居にと大きいものが多かったです。
 ちなみに無事「諌早公園」のスタンプは押せました。
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高城神社の若杉霊神2基

2025-08-02 10:55:31 | 歴史・史跡
25.8.2(土) 天気;晴れ 気温25℃
 高城神社の境内にあったものです。
 諫早市の文化財や史跡を見に行くと、必ず出てくる「若杉春后(しゅんご)」と「土橋貞恵」、今回は「若杉」さんでしたか。w
 若杉さんがこのブログに初めて出たのは「2014年11月24日の記事『若杉春后翁居宅跡』」です。 もう11年前の話か、思い出すな〜ゴルフ場の恐怖!w
 閑話休題
 境内にあったものは「若杉霊神」と名前がついていました。
「若杉春后は諌早藩士で晩年を森山町井牟田名で晴耕雨読の生活を送っていた。生来、学問を好み詩文にたけ、また書にも優れていた。この人が世に霊神として仰がれ郷土諌早の救世主として敬われるようになったの次のような理由からである。
 寛延三年(1750年)佐賀藩は藩財政のたて直しと諌早領主の不調法を理由に諌早領内の四千石を没収した。これまで、度重なる佐賀よりの圧政に耐えかねた領内数万の農民は諌早領主を思うあまり、遂に佐賀藩に対し反旗を翻し決起した。世に言う諌早の百姓騒動である。この時、春后は七十二歳の高齢であったが(居宅跡の解説と1歳ズレてるな)、佐賀藩の仕打ちに悲憤し、この騒動の先頭に立ち、長崎奉行・日田代官・大阪城代を通じ事の真意を幕府に訴えようとした。
 しかしこの行動は佐賀藩の知るところとなり、春后等は捕らえられ、佐賀で処刑された。その後、この一連の事件を佐賀藩でも勘案してか、十七年後の明和四年(1767年)先に没収した四千石を佐賀藩祖鍋島直茂公の百五十年祭の供養という名目で返還してきた。このことは若杉春后等が一命を賭して働いた賜ものであるとして、第十一代領主茂図(しげつぐ)公は春后の遺徳をたたえ、この若杉霊神を建立したのである。」
 なお、もう一枚の解説板には「佐賀本藩の後継問題に八代領主茂行が関与した際に領主の蟄居(※)、領地の取り上げがあり」と不調法の内容がもう少し詳しく書かれていました。
※蟄居(ちっきょ)・・・①家に閉じこもって外出しないこと、②江戸時代、武士に与えた謹慎刑
 タイトルに『2基』としているのは、実はこの霊神の隣にもう1基ありまして、
こちらを「若杉霊神表義碑」としています。
 表義碑は、「春后の功績を広く知らせることを目的として、北高来郡教育会が昭和十五年に建立したものです。諌早出身の教育者 西村房太郎が碑文を書いています。」
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金兵衛納経塔

2024-02-14 10:26:23 | 歴史・史跡
24.2.14(水) 天気;曇り 気温;11℃
 暖かい。 2月とは思えない2桁気温だ。
 4月並みと言われていますが、確かに4月のように気温は高いが風が肌寒く感じます。
 天気は下り坂で午後からは雨の予報になっています。

 観察会自体はそのままセンターへ戻って、質疑応答を行って終了しました。
 後日、改めて写真撮影に行った時に見つけました。
 島原市指定有形文化財(建造物)「金兵衛納経塔」です。
 有明八幡神社の出口付近にありました。 こんな所に文化財があったとは!? わざわざ探しに来なければ見つからないような場所だ。「棚からぼた餅」w
 デジタル記録として残しておくために、解説板に書かれている内容をそのまま記述します。
 「三ノ沢村の久保に住む百姓金兵衛が発心して山伏になり、願を立てて日本廻国の途につきました。
 行を終えて郷里に帰り大乗経壹千部を誦し修め、経文の一部を納経し、この碑を建立しました。
 碑には、上部に薄く梵字が記され、中央に『納経大乗経壹千部日本廻国」、右脇に『天下和順』、左脇に『日月清明』『願主 金兵衛』と刻まれています。
 年号は明記されていませんが文化文政から弘化嘉永の時代ではなかろうかといわれています。
 竹筒には清水が供えられていて、その水を飲めば病はたちどころに治るという言い伝えが今日まで残っていました。(島原市教育委員会)」
 「いました」? 過去形?
 手持ちの資料によると、指定されたのは「平成4年11月11日」となっています。
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口之津貝塚2

2021-06-05 13:01:01 | 歴史・史跡
21.6.5(土) 天気;曇り 気温;15℃
 朝からお山は見えていたので撮影しました。
 表面的には崩れたように見えませんね。新聞によると「低周波地震は通常より揺れの間隔が長く、地下の熱水やマグマなどの活動が関係して起きると考えられている。」と書かれています。(やっぱり表面には現れないか・・・)

 表題に戻りましょう。
 観察会で訪れた「口之津貝塚」は10年前に紹介済みだったりします。(2011年6月15日記事
 今回は撮影不可なほど荒れていたので写真がありません。が、看板だけはなんとか残っていました。また、当時は現地の看板くらいしか情報がなかったのですが、今回は図書館まで出かけ少しだけ詳しく調べてきました。
「この貝塚は弥生時代中期後期文化(1900年前)のものとされて、これまで何回となく発掘調査がなされたが、その記録によれば昭和四年加津佐読書会によって発見された。
 (中略)昭和41年3月、口之津町及び同町教育委員会は島原史学会と共同調査をなした。その結果、
土器=製塩に関係あるものと考えられる可能性の強い土器があった。これらの土器は未だ類例を見ないところであり口之津式土器と仮称する。
石器=有明海沿岸遺跡のうち、長崎県・熊本県の縄文文化より弥生文化に共伴して濃厚な分布をみる特殊なもので漁撈具の一種と考えられる。
骨角器・鉄器=骨角器四点、鉄器三点を発見した。
以上により二つの重要な課題を提出するに至った。
 その一つは口之津式土器の性格であり、他一つは石器の性格である。従来日本の製塩土器と称されるものに比較した場合、口之津式土器は形成の上でも、その性格の上でも、全く関連性のないものであった。(え?) 形式上からすれば、むしろ奈良・平安期以降のものに類形を求められるかも知れない。と言って本遺跡は古墳物、或は他の遺物を全く混入しないもので、将来の類例を待たねばならないし、早急に推測結論をすることは危険である。(口之津貝塚調査報告)」
 んー要は「よく分からない」ってことか。調査から50年ほど経過していますが、答えが出るのが先か雑草に埋もれてしまうのが先か・・・。
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赤松坂

2019-02-27 09:49:38 | 歴史・史跡
GPSの地図を見ていると「久山の磨崖仏三十三観音」の近くにもう一つ史跡があるようだ。
歩いて行けそうな距離なので行ってみた。(表紙写真)
旧長崎街道の史跡のようだ。
解説板には「赤松坂」と書いてある。

「この坂を登り詰めたところに赤松の巨木があったことからこの名がついたという。」

「坂道の保護のためぐり石(※)が敷き詰められていて緑陰の中にあって一面に苔が生えていたので『苔の道』とも呼ばれている。」
※くり石(栗石)の事と思われます。栗石;クリの実ぐらいの大きさの丸い石
「また、この松には太閤手植えの伝説があり、久山・貝津の境界を示すものとして『峠松』の名もあった。」
異名が多いな。w
「坂道の中腹に街道登りの荷車の離合場所として広巾になっている。」

坂道を登り上がると車道に行き当たった。
GPSの地図を頼りに左折、もう一度左折して坂道を下って行くと、

最初の道標の場所に戻ってきた。

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久山の磨崖仏三十三観音

2019-02-26 11:28:49 | 歴史・史跡
昨日はお堂の写真で終わっているが、目的の物はその後ろにあります。(表紙写真)
一見ただの岩壁に見えますが、これが諫早市指定の有形民俗文化財「久山の磨崖仏三十三観音」です。(昭和五十九年七月二十六日指定)
よく見ると岩壁に小さな仏様が彫られているのが分かりますか?
もうちょっと寄って撮影したのが、下の写真です。

「南面する第三紀砂岩に彫刻されています。崖面を光背型(仏・菩薩の背後にある光明を示す型)にえぐりこんだ中に、観音像を陽刻しています。(在銘は多く認められますが、ここでは割愛させて頂きます。)
 本例で注目されるのは、巡礼の世話方が施主として記銘されていることです。村内十数名の巡礼の折は、その世話方も決めて行う風習を表しているものと考えられ、観音信仰が広く行き渡ったことを示唆します。
 また、巡礼が一つのレジャー的な要素をも加味していたことは、その人数をして知らしめていると言えます。」
三十三観音信仰とか、解説文を理解する為にはもう少し勉強が必要な部分があります。
が、今はさっとなぞる程度でこの位理解できれば良いでしょう。

ネット上では間違って上の写真を「磨崖仏」としているものもありますし・・・。
磨崖仏とは、天然の岩壁に彫刻してある仏像のことです。
上の仏像様はあくまで諌江八十八カ所の八十五番札所を現しているだけです。
本当に三十三あるのかは、面倒くさくて数えませんでした。
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島原城下を歩く-番外1(島原城田町門跡)

2019-02-18 13:23:53 | 歴史・史跡
覚えている方はいないと思いますが、5年前の2014年に「島原城下を歩く」という名称で観察会を実施しました。
島原城下に残る史跡などを巡り、歴史について学びました。
その時に訪れた「東虎口門跡」が印象的に残っており(2014年4月29日記事)、今回島原城下を散策している時に見つけた「田町門跡」にもピンときました。
過去の記事にも書きましたが、やはりお城は軍事要塞だったのですね。
こちらの門も入ってすぐに折れ曲がった道になっています。
軍勢に攻められた際に大勢の人間がいっぺんに通れないようになっているのです。
う〜ん、これだから町歩きはやめられない。w
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化屋の弘法さん

2019-01-23 13:14:40 | 歴史・史跡
郷土誌などの歴史的な資料は図書館は貸し出してくれない。
それでも貸してくれそうな所を調べて、アタックしている。(諫早市図書館では一悶着あったがここでは伏せておく。)
多良見町の史跡・文化財の話に戻るのだが、多良見町の郷土誌は昭和46年印刷発行とかなり古くて(私が生まれる前!?)、現状と一致しない記載が多い。
今日も資料を読んでいて、「あれ?この記載はこの前撮影してきたこの事を言ってるんじゃないか!?」と気付いた。
それが郷土誌では「弘法さん(化屋)」として紹介されている。
少し話を巻き戻す。
昨年末に更新した「化屋大島石棺群」の後くらいだ。
石棺群がある辺りからまだ丘の上へ登る道が続いているのだが、見る限り新興住宅地ぽくてこれ以上の史跡があるようには見えなかった。
そこで一旦下り、反対側の丘を登る事にした。
のだが、やはりこちらも住宅地で歴史的なものは見つかりそうもなかった。
しかし、一番奥まで歩いて行くと小さな公園があった。(表紙写真)
地元住民のための公園みたいな感じで、規模もそんなに大きくない。
ところが敷地内には立派な稲荷神社が建っている。

由緒ある所か分からないが、とりあえず写真は撮っておいた。w
公園内を散策すると、稲荷神社以外にもお地蔵様を発見した。

これがその「弘法さん」だったらしい。
「大島岡上に祠る弘法大師は八十三番一の宮の分祠である。(写真の右側、白い標柱に諌江八十八ヶ所“第八十三番札所”一宮寺と書かれている。)
この岡に登る道のふもと大島庵の跡というのがある(現在もあるのか不明)が、弘法大師も昔はこの地に祠られたのを頂上に移したのである。近くは塩田地であり、海の神、竜宮をその近くに祠り小さい堂宇を構え、子供の遊び場としている。塩田地附近として集落を作った名残が見られ、喜々津川を境に阿蘇島からこの地一帯が、舟津木床に次いで文化の営みが行われた事が想像される。」
今は公園の姿だが、ひょっとすると元々ここには「一宮寺」というお寺があったのかも知れない。
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復興中の熊本城を見学

2019-01-13 13:56:27 | 歴史・史跡
熊本での用事を終えようとすると、先方から「熊本城の復興も見て行って下さい。大型クレーンと熊本城が並んで見える姿は“サイバーパンク”の世界みたいですよ。」と誘われた。
まったくその気はなかったが、そう言われると行ってみようかとなるから不思議だ。w
お昼の時間が近く、お腹も減ってきてはいたが、熊本城をぐるりと一周する位なら時間もあるだろうと、自然に足は熊本城に向いた。
現在の熊本城は正面から入れず、ぐるりと回って加藤神社側から見学が出来るらしい。
熊本城の見学は震災前の2015年に来た事がある。
(その時の記事を調べようとしたが、2015年3月30日の「高森町紀行—高森殿の杉」の一文、「この後、宿まで走り、一泊して翌日熊本城を観光しました。」でさらりとほとんど触れずに終わっていました。w)
駐車場側に古びたお土産屋さんがあったのだが、建物が新しく綺麗になっていた。
その入口には熊本出身の漫画家の作品「ワンピース」と「ケロロ軍曹」が並んで出迎えてくれた。(表紙写真)
いよいよ熊本城内に入って行くと、崩れた城壁が目についた。

うへぇ〜、すげーな。
他に言葉が出て来ない。
島原城の城壁が崩れた時もそうだったのだが、こういう城壁の修復は大変だ。
崩れる前の写真などから画像処理してどの石がどこに組み込まれていたのか調べてナンバリングし、それを元にパズルみたいに組み立てていかなければならないのだから。

転がってナンバリングされた石だけでももの凄い数だ。
それ以外の土砂に関しては望外だろう。

一応区切られてはいるのだが、その崩れた城壁のそばで園児たちが楽しそうに遊んでいる。
園児たちにとってはこの崩れた城壁の姿が当たり前の光景なのだろう。
大きくなって復旧した熊本城を見て、こんな姿は熊本城ではない、なんて思ってくれなければ良いが。

教えられた加藤神社へ入ってきた。
お城と近代建築のクレーン、なるほどサイバーパンクな世界観だ。(嫌いじゃないw)
震災前に見学していた事もあってなかなか土地勘もある。
確かこの辺で震災後の中継やってたな、と思いつつ見学していた城壁。

大きな場所はともかく、こんな小さな崩壊は手つかずの状態だ。
修復の手がここまで及ぶのにあと何年かかることだろう。
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